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2014年07月 アーカイブ

2014.07.05

立憲デモクラシーの会からの抗議声明

安倍内閣の解釈改憲への抗議声明                            
2014年7月2日 立憲デモクラシーの会

 安倍内閣が7月1日、閣議決定によって憲法9条の政府解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にする方針を示したことは、憲法の枠内における政治という立憲主義を根底から否定する行為である。これは、一内閣が独断で事実上の憲法改正を行おうとするに等しく、国民主権と民主政治に対する根本的な挑戦でもある。
 私たちは先に、以下のような論点を示した(6月9日)。

1 解釈改憲は憲法に基づく政治という近代国家の立憲主義を否定する。
2 首相が示した集団的自衛権を必要とする事例等は、軍事常識上ありえない「机上の空論」であり、強硬策がかえって危険を高めることを無視している。
3 「必要最小限度」の集団的自衛権の行使は不可能である。
4 東アジアで求められているのは、緊張の緩和である。

このたびの閣議決定は、以上の論点に照らし、とうてい容認できず、ここに強く抗議する。

A 暴走する政府は民主政治を破壊する

 与党間の協議過程は、不誠実を極め、国民の生命を守る政府としての責任感が欠如したものであった。安保法制懇の報告を受けた記者会見(5月15日)で安倍首相は、現実性のない事例を示しつつ、「私たちの命を守り、私たちの平和な暮らしを守る」ために集団的自衛権の行使が不可欠であると訴えたが、その際に彼は、イラク戦争のような戦闘に参加することは今後も決してなく、国連決議による集団安全保障への参加もないと明言した。しかし、その後の与党協議の中では、機雷掃海等をめぐって、集団的自衛権に加えて集団安全保障への参加も求めるなど、幾度も前言が翻された。
 この場当たり的な解釈変更の強行過程そのものが、不幸な戦争の経過を思い起こさせる。国民の生命を守る名目で始められた戦闘は、泥沼に引き込まれるように全面的な戦争に移行したが、与党協議は、こうした際限のない拡大を再現しているかのようである。機雷除去であれ、ひとたび武力行使に加わった後に、自衛隊が「必要最小限」の範囲で引き返せるとは机上の空論に過ぎない。しかも、武力行使の範囲をなし崩しに拡大していく意図を政権が抱いていることは、このほど示された「想定問答」からも明らかである。
 国家のあり方や国民の権利・安全の根幹に関わるような重要な事項について、時の政府の暴走に「歯止め」をかけるのが立憲主義の要諦であるが、安倍政権はこの原理を破壊し、その時々の政府が武力行使の範囲を自在に決定できる体制に変えようとしている。戦後日本が憲法と共に追求してきた安全保障の大原則を転換するのであれば、国民的な議論を経た憲法の条文改正が不可欠である。

B 集団的自衛権行使は違憲であり、また国益を損なう

 我が国の平和と安全を維持しその存立を全うするため、(1)日本に対する急迫不正の侵害があったとき、(2)これを排除するために他に適切な手段がない状況では、(3)必要最小限度の実力を行使する、という限度で個別的自衛権を認めることは憲法9条と矛盾しないというのが、これまでの政府解釈であった。この解釈は、日本への侵略に抗する抑止力を確保すると共に、日本が他国を侵略しないと明示することで、東アジアの緊張緩和に寄与してきた。
 これに対し、日本が直接攻撃されていないのに、日本と密接な関係にある外国が攻撃を受けたとき、それに対処するために集団的自衛権として武力を行使することは、憲法9条2項に照らして違憲である。そして、従来、集団的自衛権の名の下に数々の不当な武力行使が正当化されてきたことを考えれば、行使容認は、日本が無用な国際紛争に巻き込まれるようになるという点で、中長期的な国益を損なう。

C 政府解釈による自衛権の拡大は立憲主義を破壊する

 今回の閣議決定では、上述の個別的自衛権発動の3要件の(1)に代わって、「わが国と密接な関係にある他国に対する攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」を挙げて、憲法上「自衛の措置」として武力の行使をすることを認め、これについて「国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある」という。
こうして政権側は、国内向けには集団的自衛権を否定した1972年の政府見解の論理との表面的な整合性を装いつつ、結局のところ、国際法上の集団的自衛権が行使できるという真逆の結論を導いており、これは憲法9条を正規の改正手続きを経ずして無効化するような欺瞞に満ちた拡大解釈である。
さらに、自国の侵略への反撃という明白な基準を捨てることは多くの問題をもたらす。第一に、かつての「満蒙は日本の生命線」といった議論と同様、自衛権の適用範囲が無限に広がりうる。それは、憲法9条の存在意義をほとんど無に帰してしまうであろう。第二に、その時々の政府が憲法解釈を自在に変更できるという先例を残すことは、憲法の運用をきわめて不安定なものとし、立憲主義の根幹を破壊する。

立憲デモクラシーの会は、憲法改正によらず政府解釈の恣意的な変更をもって集団的自衛権の行使を可能とする今回の閣議決定に反対し、今秋の臨時国会における関連法案の審議過程など、あらゆる機会をとらえて立憲主義に基づいた民主政治への速やかな復帰を求めていく。

『憲法の空語を充たすために』まえがき

『憲法の空語を充たすために』というリーフレットを来月出版する(かもがわ出版)。その「まえがき」をさきほど送稿したので、どういう本かご理解いただくためにここに採録。

みなさん、こんにちは。内田樹です。
このリーフレットは2014年5月3日の憲法記念日に神戸市で行われた兵庫県憲法会議主催の集会で行った講演に加筆したものです。
 この講演のあと、予想通り、安倍晋三政権は7月1日の閣議決定によって歴代政権が維持してきた「集団的自衛権は行使しない」という方針を転換し、海外派兵への道を開きました。日本の平和主義を放棄するという歴史的決断を首相個人の私的諮問機関からの答申を受けて、自公両党の与党協議による調停だけで下したのです。
国のかたちの根幹にかかわる政策の変更に立法府がまったく関与していない、つまり国民の意思が徴されないという異常な事態にもかかわらず、国民の側からはつよい拒否反応は見られません。讀賣新聞やNHKは内閣の方針に賛意をあきらかにしており、民主制を否定するような手続き上の重大な瑕疵についても強い抗議の声は聞こえてきません。
もちろん市民の側からは反対の意思表示がなされていますが、大手メディアの支援を受けた内閣が支持率40%台を維持している以上、市民の議会外からの批判が内閣の方針を動かすことは期待できないというのが現状です。
日本の民主制がこれほど脆弱であったこと、憲法がこれほど軽んじられていることに多くの人は驚倒しています。なぜ、日本の民主制はこれほど脆いのか、なぜ戦後70年にわたった日本の平和と繁栄を下支えしてきた憲法を人々はこれほど侮り、憎むのか。
私は護憲の立場にあるものとして、日本の民主制と憲法の本質的脆弱性について深く考えるべきときが来ていると考えています。私たちの国の民主制と平和憲法はこれほどまでに弱いものであった。わずか二回の選挙で連立与党が立法府の機能を事実上停止させ、行政府が決定した事項を「諮問」するだけの装置に変えてしまった。
立法府が機能不全に陥り、行政府が立法府の機能を代行する状態のことを「独裁」と言います。日本はいま民主制から独裁制に移行しつつある。有権者はそれをぼんやり見ている。ぼんやり見ているどころか、それを「好ましいことだ」と思っている人間が国民の半数近くに上っている。
独裁によって受益する見込みがある人たち(与党政治家、官僚、財界人)がこれを歓迎することは理解できます。でも、独裁によって受益する可能性がまったく見込めない有権者たちがそれでもなお独裁を歓迎するのはどのような根拠によるのか。ワイマール共和国の末期、ヒトラーへの全権委任についての国民投票では89.9%が賛成票を投じました。第三共和政の末期、フランスの国民議会議員の85%はペタン元帥への全権委任に賛成票を投じました。なぜ、ドイツやフランスの市民たちは自国を近い将来破滅に導く指導者にこれほどの権限を気前よく委譲したのか。これは久しく「歴史の問題」でした。歴史の専門家が考えればいいことであって、一般市民とはかかわりのないこと、遠いよその国でおきた「不可解な事件」でした。でも、今は違います。このまま進めば、いずれどこかの国の歴史の教科書に「このとき日本の有権者は国民の基本的人権を制約し、70年守ってきた平和主義を放棄しようとする政治勢力の独裁をなすところもなく傍観し、それどころか半数近くの国民はそれを歓迎したのである」と書かれることになるかもしれない。
でも、そのような切迫した危機感が日本国民にはまだ見ることができません。たぶんあまりにも長きにわたって平和と繁栄に慣れ切ってしまったためでしょう。「たいしたことは起こるはずがない」と高をくくっているのです。どうしてこれほど危機感が希薄なのか。それは国民のほとんどが「株式会社のサラリーマン」のものの見方を深く内面化してしまったせいだと私は思っています。なぜサラリーマンは独裁に違和感を持たないのか。その問いの答えは、株式会社の従業員たちが日頃慣れ親しみ、ついに骨の髄までしみ込んだ「有限責任」感覚のうちに求めることができるのではないか、というのが私のここでの仮説です。こんな奇妙な仮説を立てて現在の日本の政治過程を論じる人が他にいるかどうか、私は知りません。たぶんいないと思います。ですから、お読みになって「こんな話は聴いたことがない」と思われる読者が多いと思います。それでも、この仮説に基づいて現代の政治と経済のありようを見たときに、「腑に落ちる」点がきっといくつかあると思います。このリーフレットが憲法の問題、民主制の問題を根本的に考え直すひとつのきっかけになれば幸いです。
最後になりましたが、講演の機会を与えてくださった兵庫県憲法会議のみなさんと、このようなかたちで公刊する機会を提供してくださったかもがわ出版にお礼を申し上げます。

2014.07.15

立憲デモクラシーの会、7月4日の記者会見

立憲デモクラシーの会の記者会見での発言全記録の音声起こしができたので、公開します。
安倍政権の「デマゴギー」に対する徹底的な批判が語られております。

立憲デモクラシーの会 記者会見
安倍内閣の解釈改憲への抗議声明

(2014年7月4日 第二議員会館第四会議室)

◆参加者(敬称略)
山口二郞=司会(法政大学教授/政治学)
奥平康弘(東京大学名誉教授/法学)
小林節(慶應義塾大学名誉教授/法学)
千葉眞(国際基督教大学教授/政治思想史)
小森陽一(東京大学教授/日本文学)
中野晃一(上智大学教授/政治学)

山口:それでは、予定した時間がまいりましたので、これから立憲デモクラシーの会による、今回の閣議決定に対する抗議声明の発表をさせていただきます。最初に、この立憲デモクラシーの会の共同代表のひとりであります、奥平康弘・東京大学名誉教授から冒頭、挨拶をいただきます。

今現在、我々の前で展開している政治変動というものは、
これは見過ごすことはできないものであって、
まさに我々は岐路に立たされている

奥平:はい。ひと言ご挨拶申し上げます。今現在、我々の前で展開している政治変動というものは、これは見過ごすことはできないものであって、まさに我々は岐路に立たされている。これに対して、何とかしなければ、せっかくこれまでほぼ70年のあいだ、新しい国をつくろうとし、かつ、つくりつつある日本国の行く末が、まったく逆の変な方向に、つまり「後戻り」とひと言で言えるようなコースに落ち入ることになってしまいます。つまり、「戦争をしない国」「戦争をできなくさせている国」という、国の在り様(ありよう)から、よく言われるように、「戦争をする国」になってしまう。「もと来た道に戻る」ということになる。それをわれわれは臆面もなく、黙って見過ごすわけにはいかない。

特に、憲法、政治という、国の作用に関する学問に携わっている研究者や人文科学系の研究者などが、ここでひと言きちんと申し上げておかなくてはいけないと考えて、このように本日皆様方をお招きして記者会見を開催し、皆さんにお示しして、新聞その他の報道媒体に、ぜひお載せいただき言及いただくということをお願いいたします。ありがとうございます。

山口:それでは、申し遅れましたが、私は共同代表のもうひとりであります、法政大学教授の山口二郞と申します。まず私から、今回の抗議声明を発表させていただきます。入口のところでお配りしてあるものになります。それから英語版も今日は付けてあります。では読み上げます。

「安倍内閣の解釈改憲への抗議声明」読み上げ

以上であります。これは、閣議決定不可避という状況のもとで、この立憲デモクラシーの会の研究者が案文をつくり、ネット上を中心に修正をかなり経まして、まとめたものであります。

私からひと言、付言すれば、このひと月半の間、集団的自衛権行使容認に向けた政府与党の議論の中身は二転三転して、極めて不誠実かつ非論理的、つまり具体的な問題があってそれを解決するための手段として、集団的自衛権を位置付けたというよりも、集団的自衛権の行使容認が最初から目的であり、結論が先にあったということを強調したいと思います。そういう意味で、今回の安倍政権の論理不在の政策転換に対して、我々は正直言って、学者というのは理屈とか論理で勝負するものですから、非常に大きな違和感なり、ある種の無力感を覚えているんですけれども、むしろこの内閣の閣議決定は、今後の政策の出発点に過ぎないわけであって、いかに安倍政権といえども、具体的な法律等を提出していく際には、ある種の論理的な形をとった政策を出してくるわけでしょうから、これからが本当の我々の戦いどころだと思っております。続きまして、今日参加している呼びかけ人から、順次意見を述べていただきたいと思います。まず小林節先生、お願いします。

集団的自衛権というのは、国際法上の概念では
「同盟国を守るために海外へ派兵する権利」以外の何物でもない

小林:今の山口先生の、「言葉で戦うむなしさ」を、本当に私も感じています。ただ、私は7月1日の首相会見の不思議さについてだけ語らせていただきます。あそこで首相は、「憲法の平和主義は不変である」とか、「現実に起こりうる事例のもとで考える」とか、それから、「海外派兵禁止は不変である」とか、「戦争に巻き込まれることはない」とか、「二度と戦争をする国にならない」とかですね。それから、「新3要件は、従来のものと不変」とか、「丁寧に説明」とか断言をなさった。

だけども、集団的自衛権というのは、国際法上の概念ではたった1つしか定義がなくて、それは「同盟国を守るために海外へ派兵する権利」以外の何物でもないわけですから、「海外派兵の禁止は不変である」とか、「戦争に巻き込まれることはない」とか、「二度と戦争をする国にならない」-。なぜこれが言えるのか。私は、不思議というか、怒るというか不思議というか、この人が首相であることに、一種の恐怖を感じました。「丁寧に説明していきたい」と言うけど、一度も丁寧に説明したことがないじゃないですか。

そして、あらためて申しますけれども、9条というのは「専守防衛」「海外派兵の禁止」-。これだけは、改憲派の私ですら、それを認めざるを得ない最低限の条件ですよね。それを説明もなしに吹っ飛ばしてしまった。もう一度言いますけれども、「新3要件は、従来のものと不変」ならば、要らないじゃないですか。新3要件が従来のものと同じだったら、なぜ出したんですか。引っ込めていただきたい。これ、あからさまな嘘なんですね。

ですから、天下の総理大臣が公然と嘘をついていて、官僚もブレーンもそれを止められない。これは本当に驚くような話ですけれども、いわゆる「裸の王様」状態になっているんです。安倍総理の好きな言葉で、「切れ目のない自衛力を整備していく」-。それはどうぞ、具体的に論じてください。今、我々としては、先ほど山口教授もおっしゃったけれども、まだこれは事(こと)が始まったばかりですから、我々としては、「切れ目のない監視を続けていく」しかない。ただそれは、決してあきらめないと、私は思っています。

山口:ありがとうございました。では続きまして、国際基督教大学の千葉眞先生、お願いします。

「現行の憲法解釈の基本的な考え方は、変わることはない」
という(安倍首相の)記者会見での発言。
これは、まったく現実とは異なります

千葉:国際基督教大学の千葉と申します。政治学を専攻しております。立憲デモクラシーの会には憲法に対していろいろな立場の方々が含まれておりますが、私自身は「護憲」とかぶるところがあるのですが、「活憲」(憲法の積極的活用ないし活性化)のスタンスに立とうと試みております。本日はそのような立場から、手短に数点、今回の集団的自衛権に関する閣議決定の動きについて考えていることを申し上げたいと思います。

(1) 今回の閣議決定は、戦後、不完全ながらも営々と培ってきた立憲主義を破壊し、デモクラシーを否定する「暴挙」であると思います。2014年7月1日は、立憲主義やデモクラシーにとって、「暗黒の日」として長く記憶されることになるのであろうと思います。

安倍首相の虚言癖なのかどうか、その辺は分からないのですが、論理的につじつまの合わない言葉、矛盾した言葉を次々に平気で述べていることに気づくことがあります。ご本人が実際に言葉の矛盾に気づいているのかどうかも、分かりません。とにかく安倍首相は、矛盾した事柄や命題を、何の躊躇もなく同居させ、場面に応じて機会主義的に(しかも確信をもって)発言することのできるタイプの政治家です。場面に応じて耳障りのよい言葉を駆使することによって、結果的に言葉の矛盾を来してしまうところに特徴があります。どうしてそのような言説を弄することになるのか。その目的は、おそらく自分の政治的意志をとにもかくにも貫徹するためです。

7月1日の閣議決定後の記者会見における安倍首相の発言は、言葉が悪くて恐縮ですが、ウソっぽいという印象を受けました。実際に閣議決定したことと記者会見で言われたこととの間に多くの矛盾や齟齬がありました。またその発言には、国民の情緒に訴え、心地よい言葉で粉飾する傾向が見られたと思います。

具体例1。「現行の憲法解釈の基本的考え方は変わることはない」という記者会見での発言です。閣議決定された内容を吟味しますと、現行の憲法解釈の基本的考え方は大きく変更されております。

具体例2。「自衛隊がかつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません」。この記者会見での言葉は、首相は以前にも発言いたしましたが、集団的自衛権というのは、先ほどの「抗議声明」にありましたように、「他国防衛権」でありますので、いろいろな状況が考えられます。他国の戦闘に巻き込まれる可能性を、当然、想定しないわけにはまいりません。しかも、閣議決定の文書では、「新3要件すら満たせばOKである」ことが、記述されているわけです。

具体例3。「外国を守るために日本が戦争に巻き込まれるという誤解があるが、それはありえません。今回の閣議決定で日本が戦争に巻き込まれる恐れは、一層なくなりました」と、安倍首相は発言しています。なぜこのように断言できるのでしょうか。この発言に対しても大きな疑問符を呈したいと思います。

具体例4。6月27日に表明された「集団的自衛権などに関する想定問答」で安倍内閣は、「従来の専守防衛の変更になるのではないか」という問い(問い16)に対して、「専守防衛は不変である。変わらない」と回答しております。山口公明党代表も、7月1日の閣議決定後の記者会見で同様の発言をしております。つまり、「専守防衛は守る」と。しかし、この見解に誠実さを認めることは困難です。集団的自衛権というのは、前述のように、他国防衛権でありまして、いわば他人の喧嘩に飛び込んでいく類いのものです。ですから定義からして、専守防衛の原則は自ずと否定されていることがそこに含意されています。

(2) 安倍内閣の用語法の問題は、イメージのよい言葉の羅列によって、事態を粉飾する傾向にあることにも見てとれます。例えば、タカ派的な軍事強調路線を、軍事による抑止力を高めると称して、安倍政権は「積極的平和主義」と呼んでいます。これは、よいイメージにするために言葉をもてあそぶ「言葉の操作」でしかないだろうと思います。ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に出てくる、「戦争は平和である」式のダブル・シンク(二重思考)、あるいはダブル・トーク(二重語法)の用語法です。そしてこの「国際協調主義に基づく『積極的平和主義』」という表現は、7月1日の閣議決定文書に3度も出てきます。閣僚たちがこの心地よい言葉で集団的な自己催眠にかかり、自分たちの軍事強調路線を正当化しているようにしか読めません。

この閣議決定文書自体、矛盾と言葉の操作に満ちあふれた文書、ちょっと言葉は悪いのですけれども、「デマゴーグ」(煽動的民衆指導者)の文書に近いのではないかと思うところがあります。矛盾や虚偽を美辞麗句で糊塗(こと)する傾向、また日本を取り巻く安全保障関係の著しい悪化という仕方で過度に着色する傾向が見られます。現安倍政権のデマゴーグ的傾向ないし体質、これは憂慮すべき事態です。古代ギリシアのアテナイを紀元前404年に滅亡に導いた政治家=煽動的民衆指導者として、クレオンやアルキビアデスらのデマゴーグがいました。クレオンは、独特のレトリックと楽観的な見通しと宣伝によってペロポネソス戦争の続行を唱え、スパルタとの和平を拒否することでアテナイの敗北を決定づけました。他方、アルキビアデスは、民衆を煽動して無謀ともいえるシケリア派兵を決め、アテナイの滅亡を決定づけました。古代ギリシアのアテナイのデマゴーグらと安倍首相との異同の精査ないし比較研究、これは政治思想史研究に課せられた、ひとつの重要課題となってきたのではないかと思われます。

(3) 安倍政権の軍事強調路線は、第二次世界大戦前夜を彷彿とさせる、「友」と「敵」との敵対関係を重視する手法を採用します。「仮想敵国」を想定して軍事的抑止力を高めようとする路線です。中国と北朝鮮を「仮想敵国」と決めつける。これは外交として大変リスクが大きく、危険極まりないことなのですけれども、そうしたとんでもない手法を採用しています。しばしば指摘されることですが、地理的に朝鮮半島や中国大陸から日本列島を見渡しますと、米軍基地が網羅的に配備されており、匕首が突きつけられているようにみえると言われます。この地域にはいまだにアジア太平洋戦争と朝鮮戦争のトラウマが残存していることを忘れてはなりません。日本側からの軍事的抑止力はすでに過剰なほど効いている状況です。

そうした中で平和外交をまったくしないで、「仮想敵国」を想定して軍事的抑止力をさらに強化していくというのは、時代遅れの軍事的安全保障でありまして、冷戦の最盛期の米ソ関係に戻るようなものです。こうした安倍政権の手法は、東アジアにおける緊張をさらに高め、不信感と敵愾心を煽るだけの結果になり、この地域の和解と平和にとって逆効果であることは明らかです。こうした状況において、平和憲法の「非戦」の信用力、そのソフトパワー、これこそが、紛争防止の最大の抑止力ではないでしょうか。過去69年あまりの戦後史において、平和憲法が最大の紛争抑止力であったと考えることも可能だと思います。

(4) 安倍首相は国外ではデモクラシーと法の支配を強調し、中国にもそれを強く求めております。しかしながら、国内では今回の暴挙にみられますように、デモクラシーと法の支配を蹂躙している。こうした矛盾と真摯に向き合っていただきたいと思います。

これは極端な見方かもしれないので、私もこれについては100%の確信を持って言っているわけではないのですが、2012年12月に安倍政権が誕生して以来、上からのファシズムの傾向が、出始めているのではないか、という憂慮を持っております。イタリアのファシズムにおいても、ドイツのナチズムにおいても、ファシズムはもともと下から起こって来ました。指導者たちがそうした民衆運動に迎合し、それを利用する形で、上からの統制を敷くという支配形態でありました。けれども、今日の日本の状況では、社会内部に民衆の側にそうした動きはありません。むしろ、社会の真空状態につけ込んで、軍事・外交・経済・貿易・教育に渡る、広範な事柄や政策をトップダウンで決めようとし、また民衆と社会全体をそれに巻き込もうとしている。こうした兆候が見え始めているように思います。そしてこうした動きを推進しているイデオロギーは、軍事強調路線とネオ・リベラルな金融資本主義という2つの巨大なエンジンを擁する靖国ナショナリズムです。私たちは、これが定着して戦後ファシズムの初期段階にならないように注視する必要があり、批判と抵抗を今後とも続けていく必要があるだろうと考えております。

(5) 集団的自衛権行使を認めるこのような閣議決定は、戦後日本の外交と安全保障政策の大転換であります。こうした場合には三権分立が働いて、国会から猛攻撃というか強い反撃が起こるはずだというのが、私たちが通常想定している事態でした。しかし、国会からは、もちろん反論がいくつも出ましたけれども、反対勢力の結集までは至らなかった。国会内の反対の声は残念ながら微弱なものにとどまりました。2012年12月の衆院選、2013年7月の参院選の結果、集団的自衛権行使反対の勢力は2割強にまで落ち込み、「多勢に無勢」という状況でした。加えて、従来からの政党間の縦割り、協力関係の欠如ということが、やはりあったと思います。国会内には「立憲フォーラム」のような超党派の議員団も出来たわけですが、今後ともこうした議員団のネットワークが強化され、強いコーリション(連合・連立・提携)を形成していくことは急務であると思います。

それから三権分立のもうひとつの担い手である最高裁を頂点とする司法部でありますけれども、今回あまり期待はしませんでしたけれども、異例の状態なので、「警告」というような形でも、何らかの「発言」があるかなと思って見ていました。しかし、やはりありませんでした。これは明らかに三権分立の危機ではないかと思います。司法消極主義のデメリットがこのような形で出てきています。「政治的に重要な問題であるから、それについては判断を控える」という従来の態度では、非常に危ういのではないかと思っております。こうした明らかに違憲性の強い閣議決定に対して、司法部の違憲審査権の発動がもし出来ないということであれば、これは問題です。今後、今回の閣議決定に関連する事象や出来事について違憲裁判が生起されることは必定で、最高裁まで違憲裁判は続いていくと思いますが、持久戦です。司法部の対応に注視していきたいです。

(6) 最後の論点は、千葉の個人的な見解で、立憲デモクラシーの会の方針では必ずしもありません。そこにご注意いただきたいと思います。2年後に国政選挙がありますけれども、現政権に危機感を覚えている人々は、たくさんおります。今回の閣議決定もそうですし、前回の特定秘密保護法の際も、連日、数千人、数万人規模の反対者が首相官邸を取り囲みました。また現政権は、脱原発の国民世論を無視し、なし崩しの形で原発再稼働に舵を取ろうとしています。社会の至るところに不満が鬱積しています。しかし残念ながら、このような不満や反対の受け皿になってくれる政党、票を入れたい政党が見当たらないと思う人々が加速度的に増えております。無党派層は今では5割近くになってきています。こういう事態をどう打開したらよいのか。次の国政選挙まで2年ですが、このまま行くと、よい政治的オールタナティヴを形成し得ないまま、だらだら行く可能性があります。国会内に少数派であっても力強いコーリションができれば別かもしれませんが、やはり、ここは生活者市民を機軸とした新しい政党を立ち上げていく可能性を考えていくしかないようにも思います。その政党は、今までの政党とは異なり、プロの政党ではなくむしろアマチュアの政党、政治家はパブリック・サーバント(公僕・公務員)であることを自覚している政党、イデオロギー的な拘束や締めつけの強い政党ではなく、お金のかからない生活者市民が主体となって動けるような政党が出来ていかないと、この状況は打開できないのではないか、と・・・。

ここは主権者である国民が動かないといけない時期に来ています。そして現在、多くの市民運動、脱原発運動、平和運動、憲法擁護運動などが展開しています。全国的規模の展開を果たしている「9条の会」もありますし、最近「1000人委員会」も結成されました。そうした運動が結集して、市民社会の側から新しい政治的オールタナティヴを形成してく必要があるというのが、私の最後のコメントです。

山口:では、小森さん、お願いします。

主権者としての国民の命をもてあそびながら、
自分たちの政治的な主張を押し切っていく。
これは、民主主義とも立憲主義ともまったく無縁な、専制政治

小森:東京大学の小森です。私の専門は日本近代文学です。文学者として、あるいは言葉の専門家として、今回の安倍政権が行った閣議決定による解釈改憲の意味、3つ申し上げたいと思います。

1つは、専制的な行政権力の虚偽に満ちた言葉のたぶらかしによって、日本の戦後の立憲主義に基づく議会制民主主義を根底から転覆する、そういうせめぎ合いの状況に陥らせたのが安倍政権であると考えます。この間の与党協議での議論は、まったく議論の体(てい)をなしていませんでした。つまり、毎回、次から次へ新たな提案がなされ、それがまともに議論されないまま、次に移行することによって、あたかも譲歩がそこに成立したかのように見せかける。つまり国民を騙すためだけの芝居が連続して打たれていたに過ぎないと思います。そしてその結果の閣議決定の中身も、まさに虚偽に満ちた、国民を欺瞞する言葉の羅列に過ぎないと思わざるを得ません。

2番目に、この与党協議に基づいて閣議決定に至る際に、与党の自民党も公明党も、党内の議論があったにも関わらず、最終的にはすべてを執行部に一任するとしました。ですから、民主主義に必要な、議論する議会政治を担う政党の在り方を自ら放棄する、近代的な議会制民主主義を担う、政党としての在り方を自ら捨てていった、そういう過程だったと思います。

そして、3つ目には、自衛隊という組織ができてから60年目の7月に、自衛隊員が海外で、「殺し・殺される」関係に陥らざるを得ない方向に、為政者たちが仕向けているということです。自衛隊員も、一人ひとりは主権者としての国民です。安倍政権は主権者としての国民の命をもてあそびながら、自分たちの政治的な主張を押し切っていく暴挙を行いました。これは、民主主義とも立憲主義ともまったく無縁な、専制政治に他ならないと思います。そのことをとことん批判していく運動を、全力で繰り広げていきたいと思っています。

山口:それでは、上智大学の中野晃一さん、お願いします。

武力行使、守備的な武力行使、戦闘に関わらない、
巻き込まれない武力行使があると思っているようですけれども、
実際にはそんなものは国際的に通用するはずもない

中野:これまでも、何人かの先生方から、無力感についてのお話があったと思うんですが、私も同じように感じております。だけど、もしかしたら、もうすでに我々の記者会見、今回で3回目になっておりますので、2度3度とおいでになってくださっている記者の方の中にも、一体これまでの展開は何だったんだろうかという無力感を感じていらっしゃる方もいらっしゃるんではないかと思っています。15事例にしてみても、集団安全保障をめぐる議論にしても、猫の目が変わるように品を出しては、目くらましのように、それをまたなくしていって、ずるずるずるっと、結論がどうも最初からあるんだけれども、茶番劇のようなものを目の前で展開されると。

我々は言論で、それについて、おかしいということを指摘しようとしているんだけれども、そんなことは痛くも痒くもないようであって、マスコミの皆さんからしてみれば、新しい議論が出されるたびに、それを報道しなければいけないんだけれども、それをすればするほど、読者の方、視聴者の方は、おそらく、わけがわからなくなってきていて、どうも事実をカモフラージュすることに付き合わされているような感じである、というのが実感ではないかと思います。土台が無茶な解釈改憲なわけですから、今2つ大きな矛盾を抱えたまま、これから秋の臨時国会そして来年の通常国会と迎えていくことになるんだと思うんです。

1つは、違憲の閣議決定ということです。9条のことを考えると、こんなものは通るわけがないという内容の閣議決定であることがはらんでいる矛盾というものは、今後明らかになっていくほかない。一方では、当然訴訟がこれから起きていくことになります。先走った形ですでにそういう議論もあります。実際に法律的な措置がとられるようになってきたとき、行政的な行為がとられるようになったときに、これは違憲ではないかということで国家は訴訟を抱えていくことになる。その一方で、こういった訴訟にまみれた状況というのは、当然安倍政権にとっても望ましいことではないので、既成事実をつくった今、「さらに、憲法改正が必要だ」と逆の方向での議論もやはり出てくるんだろうと思います。自衛隊をこういった解釈改憲によって派遣したところで、例えば軍事法廷に関わる規定がないとか、これまでもいろんな方が指摘されているように、この憲法というものは、海外派兵というもの、日本が戦争するということを、そもそも前提にしていないために、憲法的な不備というのは、改正しない限りにおいては残ります。無理やり9条を解釈改憲しただけで問題が解決するわけではない。それは安倍政権にとっても同じことなんだと思います。

もうひとつの大きな矛盾というのは、国内向けには「専守防衛のままだ」と。公明党や反発が強い国民世論に対しては、「専守防衛は変わっていない。1972年の政府見解そのまま」で、挙句の果てには、これは解釈改憲でさえないというようなことを言っているわけですね。ただ、国際的に見たならば、実際、閣議決定には集団的自衛権にほかならないものが含まれている。そして、武力行使、守備的な武力行使、戦闘に関わらない、巻き込まれない武力行使があると安倍首相は思っているようですけれども、実際にはそんなものは国際的に通用するはずもない。

ましてや集団的自衛権ということは、そもそもが攻撃されていないのに他人の戦争に入っていくという権利以外の何物でもないわけですから、アメリカからしてみても、子分として、「我々は自分たちの犠牲者を出したくないから、お前らが行け」ということを今後言ってくるに違いないだろうと。国内向けには専守防衛と言っていることと、アメリカ、そして、他の国から見れば、「日本は戦争する国になったから、じゃあ、(他国での戦争にも)お付き合いしなさい」ということを言われてくる今後の矛盾というのは、どうしても展開されざるを得ないんだと思うんですね。我々立憲デモクラシーの会としては、こういった矛盾について、きちんと指摘をし、反論してということをやっていかなくてはいけないと思います。

ただ、それだけだと、また、これまで歩んできたことの繰り返しになるような危険性があると感じています。

そういう意味では、ここからは個人的な意見になるのですが、私自身も学者である以前にひとりの個人で、また家族を持っていて、そういった個人的な思いから、集会や抗議行動に参加してきています。そこでやはり感じることというのは、これまでの反戦・護憲の運動を担ってきた人たちと、若い世代の「自分たちが当事者で、戦争に行け、と言われるのは自分たちだ」と心配している人たちがともに立ち上がっている現実があると言うことです。

こうして、世代間のリレーというか、民主主義のリレーというか、そういったようなものが、抗議行動で今展開されているということは、ここにいらっしゃるマスコミの皆さんもご存知だと思うのです。こうやって、議会が機能しない、政府が暴走している、そういう状況においては、おそらくマスコミの皆さんが、戦争をできる国にしようと邁進している安倍さんの剣を突きつけられている社会の人たちの声を、どうやって拾っていくのか、そして我々学者にしても、それとどう関わっていくのかということが、やはり大事なんだろうと思っています。

もうひとつは、代議制の危機ということです。ここまで人々が街頭に出て行かざるを得ない、若い子たちが問題意識を持って行動を取りだしていることの背景のひとつには、やはり代議制が機能していないということがあると思うんですね。安倍さんは全権委任されたかのように振る舞っているわけですが、実際には2009年に民主党に大敗して、下野したときよりも少ない得票数で2012年に圧勝して政権に返り咲いているという現実があるわけです。こういったような制度があるということ、こういったような政党政治しか行われていないということについて、私は個人的に、これは今後、政治改革の議論をせざるを得ないことなのではないかと思っています。

かつて80年代の終わりから、腐敗であるとか、あるいはさまざまな問題で、政治改革の一大機運が巻き立ったのと同じように、今回また、あれから20年以上経って、このていたらくはなんだと。こんな国で、これから先どうやって生きるんだろうかということをきちんと踏まえた上で、制度改革も含めた議論をしていかなければいけないんじゃないかと思っております。以上です。


◆質疑応答

A新聞:これからの具体的な活動として、シンポジウムがありますよね。

山口:ええ。具体的には、今日(7月4日)夕方6時から学習院大学で、東京大学名誉教授の三谷太一郎先生と、軍事評論家の前田哲男さんのおふたりによる公開講演会が予定されております。あとは、先ほども申しましたが、9月以降、臨時国会、それから来年の通常国会に向けて、さまざまな関連法案等の審議が行われると思います。また、アメリカとの間で特にガイドラインの改定をめぐる議論があるわけで、そういった具体的な政策の展開に対して、我々としてそれをきちんと監視、というか精査をして、矛盾・問題点等々を厳しく追及していくべきだと思います。ある意味で、野党が国会審議で果たすべき役割を、外側からしていかなければならないということです。必要に応じて、出版とか公開行事等々で、一般市民の皆さんにも、そういった論点の説明、知識の提供といったことをしていこうと思います。

B週刊紙:先ほどから先生方、何回もご指摘のように、安倍首相のこのあいだの会見には呆れるほどの非論理性、矛盾というものが多く存在します。しかしそれに対して大手メディアが、あれほどあからさまな矛盾を厳しく追及するというよりは、単に発言をスルーして伝えるというような報道が大勢を占めているように感じるんですけれども、こういったことについて、どなたかお考えを伺える方、いらっしゃいますでしょうか。

中野:やはりひとつの大きな理由というのは、おそらく、先ほど政治改革の流れということについて、ちょっと触れさせていただいたんですが、93年の政権交代、細川内閣が誕生して、そして94年に小選挙区制度を導入した選挙制度改革がなされて、それ以降、2大政党制を目指すような形で、政界再編が行われたりしてきたわけですね。その中で、新進党が出て、それがやがて民主党に取って代わられて、自民党に取って代わるような、そういった意味では、多元化した、そしてより競争があるような政党システムの中で、政党間の競争によってバランスを取ろうというようなことで、今まで進んできたんだと思うんです。それが、民主党政権というものが2009年に誕生して、3年3ヶ月で、ああいったような形で挫折をしたということが、やはり大きいんじゃないかと思うんですね。というのは、55年体制と言われていたようなときにおいては、自民党は確かに一党優位だったけれども、社会党を中心とした野党があって、バランスを取るということが一応あったと。歯止めにはなっていたと。

それが、そういったことではなくて、万年野党ではなくて、政権交代可能な切磋琢磨をという触れ込みだったわけですが、実際にはこういった形で民主党(の勢い)が潰えてしまって、今や見る影もないと。下手をしたら、さらに分裂をするかもしれない。そういったような状況においては、やはり政治的なチェック&バランスというものが機能しなくなっているので、おそらくは、しばらくこのままだと自民党がいるだろうと。一党優位だけれども、しかも前の一党優位よりもっと質(たち)が悪いというようなことになってくると、さらに言うと、衛星政党としか呼びようがないような維新の会であるとか、みんなの党であるとか、友軍勢力みたいなものがあって、下手をすると、そちらのほうが政界再編の中心になるかもしれないと。そういう状況においては、マスコミもやはりなかなか、自分たちだけ立場をはっきり鮮明にとってやるということはやりづらいんだろうと思うんですね。どうしてもやはり、しばらく自民党政権と付き合っていかなければいけないということになってくると、形の上では少なくとも政府が言っていることは、きちんとなぞって報道をした上で、最後にちょっと、「こういう意見もあるみたいです」というようなことを加えるという、表面的なバランスをどうしても取るということで落ち着いてしまうような傾向があるんじゃないかと思っています。

山口:やはり、かつての自民党の一党優位時代は、メディア自体がある種、野党的役割を肩代わりしなきゃいけないみたいな感覚を持っていらっしゃったと思うんですよ。今は、むしろ、与党とか政府の背後にある民意みたいなものに、メディアの皆さんも、ある意味で怯えているというか、民意に逆らえないみたいな自制が働いているのかなという印象を私は持ちますね。これは東京、中央もそうだし大阪みたいな地方の県もそうだと思います。「選挙で勝った人間というのは、とりあえず正しい」みたいな前提で議論をしているんじゃないですかね。という感じがします。

A新聞:72年見解の話ですが、これの論理は受け継ぐんだけども、結論の当てはめを変えるということを言っていて、かつ強引にそれを変えるんで、まったく理解できずにおります。そういう理屈の組み立ては変えないで、結論だけ変えるということが、法解釈の世界ではあることなのかというのが1つと、もう1点は、今のように、議院内閣制ですから、行政と与党がある程度一体化するのは仕方ないにしても、これを止められない司法というもの、先ほども司法消極主義のお話が出ましたけれども、三権分立の在り方として、これでいいのかと、その点でお考えをお持ちの先生がいらっしゃいましたら、教えていただきたいんですけども。

小林:まず、日本国憲法でも、この国を守るための必要最小限の自衛は許しているはずだと書いてあった。そして、環境が変わったから、これまでは個別的自衛権だけに留まっていたけれど、環境が変わったというファクターが入ることによって、プラス、一部集団的自衛権もOKだと。これが政府側の論理ですよね。ただ、あの懇談会(安保法制懇)にちゃんとした法律家がいなかったんですけれども、1つは、そうやって言うのが、日本国憲法9条、現行憲法は極めて硬性憲法であって、9条は「海外派兵は、さすがにダメよ」と、文言上も歴史的にも読めてしまう。ただ、必要だから、今度は、「集団的自衛権を認めなくっちゃ」と。ただ、憲法9条にガッツリとぶつかって、「あ、だったら改憲の話に応じなくっちゃ」というのが、王道の政道だと思うんですね。そこを、パスしておいて、北岡先生(北岡伸一・安保法制懇座長代理)みたいに、翌日の読売新聞で、「憲法は政府が使いこなすものだ」と。やめてほしい。「憲法を使う」って、「(本来の正しい使い方は)国民が政府を使いこなす」ものですよね。あの方も政治学者ですよ。だから、極めて法解釈学的に微妙なところを扱っているのに、「法解釈学の作法をまったく分かっていない人々がいじくり回している」というのが、一法律学者としての私の責任ある意見です。

奥平:解釈ということがもてあそばれる道具になってしまっているという状況をどう考えるかという問題と、今のご質問とかなりダブったように思うんです。そして、現在の安倍政権の特徴は、ちょっとわけの分からない言説を、法解釈であるがごとく言い繕うきらいが至るところにあって、「そんな解釈じゃないよ」、その前に、「そういう解釈を成り立たしめている非法律学的な概念だよ」ということを訴えなければならないほどに、わけの分からない言葉遣いが展開しているように思える。

たとえば第一の例として、「法の支配」という法概念を取り上げます。憲法界で言えば、憲法81条(最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である)の規定がある。どんな争訟であっても、最終的には最高裁判所まで行けるような、そのような司法手続きがあるべきだという命題です。

最近の日本では、司法による問題解決ということが重視される流れがあり、「法の支配」ということばがよく使われるようになりました。自民党でさえ、この観念を用いるようになりました。みなさん記憶に新しいことですが、集団的自衛権論議のなかで、自民党副総裁の高村氏は「1959年、最高裁大法廷は集団的自衛権を合憲とする判決を下した」と論じました。いわゆる砂川事件の判決のことです。この高村発言は、すでに最高裁は集団的自衛権合憲という先例を出しているのだから、その権威を尊重するのが当然だということを、「法の支配」という現在流行気味の観念を背景にして言うのでした。ぼくは、この高村発言を聞いたとき、ビックリ仰天しました。砂川大法廷では「集団的自衛権」のことはまったく触れられておらず、したがってその合憲・違憲のいずれもと無関係なのです。いずれ、本人か自民党かが、高村発言は誤りであったとする訂正が講ぜられるだろう、と思ったのですが、ほっかぶりのままです。

たとえばまた、特定秘密保護法が可決されて法律になったときに、人びとのあいだに、国民が原告として違憲訴訟を起こし、この法律を無効にさせよう、という動きがありました。ぼくのところにも匿名の手紙が来ましたよ。「あんた違憲訴訟を起こせ」と。だけれども非常に難しい。ぼくという一般的抽象的な市民の立場でしかない者が、秘密保護法の違憲無効の確認訴訟を提起しても、原告資格なしとして却下されるだけですよね。ぼくの理解では、秘密保護法のばあいには、秘密を洩らしたとして刑事被告人にさせられた者のような、保護法と特殊な利害を持たされた市民に限られざるをえません。

「法の支配」の原則は金科玉条でしかないことを、肝に銘じておくほかありません。集団的自衛権・秘密保護法などの問題は、まずなによりもわれわれ市民が政治力を結集して政治的に立ち向かわなければならないのです。

政治過程においてもっとも大事なのは、「ことばによる応酬」であります。ところが、いま日本にかかっている政治問題たる「集団的自衛権」論議にあっては、政府・自民党による「ことばの遊び」が激しすぎて、とうてい「熟慮」への途たりえていない。

その一例を挙げてみましょう。かれらのあいだでは、「集団的自衛権とは、権利であって義務ではない。権利であるから、その行使は要件が整っているときに限ってなされる。したがって濫用されることはけっしてない」という言説が、まことしやかに流布している。しかし、これは法律論としてはナンセンスであって、成り立つ余地はない。第一に、集団的自衛権の次元では、民法の世界にあるような権利義務関係が成り立つ余地がない。どうしてかというと、集団的自衛権というものは、「権利」(right)ではなくて、国家に付与される「権力」(”self defense” force or power)だからである。憲法、または法律によって特定国家機関に付与される権力なのである。この権力は、個人などの権利自由に深くかかわるものであるから、授権法は、権力濫用が生じないように、権力行使についてきびしい制約要件を定めておく必要がある。

そこで問題とされるべきなのは、今般閣議決定されるにいたった集団的自衛権行使に関する文書が、十分に立憲主義の精査に堪えうるものかどうかであります。「権利」だから濫用するはずはないという言説は、程度の低い戯言でしかありません。

ことばの遊びに耽っている例として、ぜひ指摘したいと思ったもうひとつは、安倍政権が盛んに用いだしている「積極的平和主義」という表現です。「積極的」ということばをひとつ付加することによって、かれらは本来的な「平和主義」を無きものにしようとしているのです。

C新聞:日頃からお話しされていて、今後は国会での議論が具体的に進み、理解も変わるところもあるところがありますけれども、そうした中で、ひとつ、国会議員の方たちへの働きかけと、このデモクラシーの会として、そういう議論を進め、国会での論議を深めたり、おこなっていったりすることがあるのかどうかというのと、あと国政選挙へのコミットというのも、今後視野に入れる活動になるのかどうか、そのあたりを伺えますか。

山口:国会議員とは、メンバーそれぞれ、いろんな形で接触はしていると思うんですが、会として団体的に働き掛けをするということは、今のところは考えてなく、議論には出てきていないです、そういうことは。ただ、求めがあれば、我々の持っているいろんな議論を提供することは、ありうるかなとも思いますけども。いろんな方法があると思うので、状況がどんどん悪化していて、やはり政治的な何かアクションを起こすべきじゃないかみたいな議論が出てくる可能性はあると思います。それは排除しません。ちょっと余談ですけど、私は、とりあえず民主党の中のリベラル派を何とか叱咤激励して、何とかしようとかと思ってるんですけど、いつまでそういう方法が通じるのかみたいな、ちょっと悩みが、個人的にはあります。

Dテレビ:先ほどの、今回の閣議決定が違憲であるというような主張が、皆さんからもありましたけれども、それを例えば最高裁に判断を求めるとなると、やはり訴訟が起きてからでないと、日本ではできないという見方が、ちょっとそこが不勉強なところもあるんですが、その一方で、三重の松阪市の市長(山中光茂市長)が、違憲確認訴訟に向けて市民団体をつくろうという動きも表明されたりしています。この会として、何かしらそういう裁判という手段に訴えるような、というものが何かしら視野に入れているのかどうか。今後の活動ということも踏まえて、展開内容を聞かせていただきたいんですけれども。

山口:これも議論には出てきていないです。ありうる形としたら、多分、裁判を起こした方から、ある種、理論的な支援を求められたときにどうするか、そういうことは議論になるんだろうとは思います。ただ、会として積極的に法廷闘争をやるかというと、ちょっとそれは今までは議論になってなかったということです。

小林:これも、日本の裁判制度は、アメリカ型司法といって、簡単に言えば、民事・刑事の事件が起きないと、裁判所は何もしてくれないんですよ。だから、これで言うと、自衛官が海外出動を命ぜられて、早めに抜けると取り替えられちゃうから、出発前夜に離脱して、懲戒処分を受けるとか。そしたら、その懲戒処分の前提が憲法違反だからといって、争うとかね。それから、靖国神社の事例みたいに、「私たちの代表である総理大臣が、そんなおバカな決定をしたことで、私の心が傷ついたから損害賠償1人10万円、1000人で…」というような議論も理論上は可能だけども、それは裁判所はなかなか受け付けてくれない。受け付けてくれたとしても、こういう戦争と平和とか、それから総選挙とか、国家の存続に関わるような歴史的決断は、統治行為という、さっきお話があった、統治行為、政治問題として、法的問題であっても裁判所が手を引くというのが最高裁の立場なの。あとは、一次的には、「国会と内閣で決めてください、最終的には主権者・国民が投票で決めます」、これが日本の最高裁の立場であって、実はアメリカでもフランスでもドイツでもイギリスでも、確立された最高裁判例なんですよ。これを覚えておいて。事件がなかったら裁判にならない。裁判の中でしか、憲法問題も判断してくれない。ここのところよく誤解してるんだ。ジャーナルの人はここを分かってくれると、正しい報道ができるんじゃない。松阪の市長、俺の教え子のはず(山中光茂松阪市長は慶應義塾大学法学部法律学科卒業)だけど、どうするのかね。手続き的に見ると無理がある。

E新聞:論点について、いくつかあるんですけど、閣議決定がされましたが、憲法9条がなくなったわけではないですが、これまで自衛隊は戦力ではないという立場を政府はとってきていますよね。9条2項との関わりで、自衛隊が他国防衛の戦争に参加するとなると、戦力ではない、装備面で例えば戦略爆撃機が持てないとか、弾道ミサイルを持てないとか。ということと同時に、海外に出ていかないということが、戦力には当たらないということの意味の重要な要素だったかと思うんですけれども、そのあたりで、集団的自衛権に参加することが、一応生きている9条2項の戦力不保持規定との関わりで、鋭い矛盾を持つのではないかと思っているんですけれども、その点について憲法学の先生にひとつ伺えたらと思います。憲法9条2項の戦力不保持規定と集団的自衛権の参加が矛盾してくる、今までの自衛隊は戦力ではないという前提でありましたが、集団的自衛権に参加するとなると、戦力でないと言い張れるんでしょうか。

小林:安倍首相の私的安保法制懇が、はっきり言ってしまっていますけれども、安全保障について、要するに、「憲法が何も語っていないから、あとは政府が提案して、議会がOKを出せばいい」というのが彼らの結論じゃないですか。だから、今ご指摘のような論点についても、要するに憲法9条を彼らは「白紙のキャンバスだ」と言い切っていますから。奥平先生の話もそれなんですけれども、とんでもない話でね。我々、「ここに憲法9条があるから、ちゃんと解釈論争をやろう」と。「解釈論争やったらぶつかるじゃないか」と。「しかし彼らは、何もないから、跨(また)いでいく」と。または、「跨いでいくものもないんだ」「素通りか」という、噛み合わない議論なんです。それは、指摘してあげてください。

山口:当然、自衛隊の編成、装備、訓練、これから変わってきますからね、明らかに。9条からはみ出ます。そういうことも、やはり我々きちっとウォッチしていかなければいけないなと思います。ほかにご質問がなければ、これで記者会見を終了させていただきます。どうも、今日は、ありがとうございました。

2014.07.17

アッカーマン教授の安倍政権論

エール大学のブルース・アッカーマン教授が先週の日本とドイツの動きについて、これらはアメリカとの戦後パートナーシップの重大な変質の予兆であるという見解を述べています。
とりあえず、日本に関係のある部分を翻訳しておきます。

「安倍晋三首相は時代錯誤的なナショナリストであり、日本の戦後憲法はマッカーサーの占領政策によって不当に押しつけられたものだとして、彼の自民党を先導して憲法への信頼性を傷つけるキャンペーンを展開している。
彼の最初の標的は九条であった。彼は当初は憲法に規定してある国民投票に訴えて、これを廃絶することを目指していたが、この動きが広汎な世論と議会内部での抵抗に遭遇すると、ギアを入れ替えて、憲法をいじらないままで目的を達成する方法を探った。
7月1日安倍は彼の政府は憲法九条を「再解釈」することで、憲法が「永遠」に放棄したはずの「武力による威嚇または武力の行使」は可能であると宣言して、過去二世代にわたる憲法解釈を覆した。
この動きは1960年代以来の大きな抗議デモを引き起こし、世論調査でも市民の不同意は高い率を示している。
これに対して、日本政府は九月に予定していた実施関連法律の審議を先送りにし、慎重審議を約束している。
もし、安倍がこのまま成功を収めると、彼のラディカルな憲法再解釈は日本国憲法が保証している基本的な政治的権利、市民的権利を抑制しようとしている自民党の改憲案の先駆的実践としての役割を果すことになる。
この政治的事件の賭け金はきわめて高いものであり、これからあとの数ヶ月、近代日本史上最も重要な議論が繰り広げられることになるだろう。
しかし、国防長官チャック・ヘーゲルは違う方向からこの議論に介入した。
ペンタゴンでの先週金曜の記者会見で、安倍のこの決定が日本の立憲政治にとってどれほど重大な意味をもつものかに言及することなしに、ヘーゲルは米政府は安倍政権の「大胆にして、歴史的、画期的な決定」に「強い支援」を約束すると述べたのである。
この声明は日本のみならずアメリカにとってもひとつの転換点を意味している。
というのは、この声明でヘーゲルはアメリカが二世代にわたって支持していた日本の憲法秩序を否定したからである。
安倍の憲法への攻撃の歴史的意味を勘案するならば、アメリカの立場をペンタゴンの記者会見の席でヘーゲルが述べるに任せるということがあってはならなかった。
これは大統領自身が、アジアの自由民主主義の未来に与える安倍の決定の破壊的衝撃(devastating impact)について国務長官とともに精査したのちに、ホワイトハウスで取り扱うべき事案だったからである。
しかし、ケリーとオバマは中東やその他の地域での戦闘に忙殺されて、アメリカの長期的戦略にかかわるこの大きな問題に取り組むことができなかった。
ドイツのスパイ騒動の場合と同じく、ホワイトハウスは、戦後の日米関係、独米関係が大きな転換点を迎えているという事実を真剣に考慮することなく、国家保安の部局にその仕事を丸投げしてしまったのである。
ドイツと日本にかかわる先週のニュースは「目覚まし時計」の鳴動である。
アメリカ政府は緊急の問題と、本当に根本的な問題をしっかり識別しなければならない。
アメリカ政府が日本、ドイツとの伝統的な戦後パートナーシップについて再考するを怠れば、われわれは遠からず独裁主義的日本(authoritarian Japan)とアメリカにきっぱり背を向けたドイツに遭遇することになるだろう。
それは二十世紀の最大の遺産が破壊されたということを意味している。

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