BlogNagayaLinkaGuestsColumnsBookMovieSeminarBudoPhotoArchivesProfile

« 2007年03月 | メイン | 2007年05月 »

2007年04月 アーカイブ

2007.04.02

麻雀帝王学

土曜は浜寇来襲の日。
彼らが「浜寇」と凶悪な異名を取ることになったのは、一年ほど前のことである。
もともと甲南麻雀連盟浜松支部という、華夷秩序に基づくならば、芦屋に峨々たる中華本城を構える連盟のいわば「西戎」であるところの僻遠の地から乱入してきた浜松の諸君が、本部メンバーをさんざんにいたぶり、打ちのめしたあげくに、「がはは、太った頃にまた来るぜ」と『荒野の七人』のイーライ・ウォーラックのような捨て台詞を残して立ち去ったせいである。
私たちは深い屈辱のうちに身を震わせ、「ふたたび浜寇来たりなば、明石海峡に叩き落として、蛸とジルバを踊らせてやるぜ」と臥薪嘗胆の思いで、一途に雀道に励んで捲土重来を期したのである。
それから半年後、第二回は予定通りスーさんをコンビ麻雀で袋だたきにして戦績をイーブンに戻した本部支部の遺恨麻雀の、今回は雌雄を決する三回目である。
集った雀士は浜寇側7人(スーさん、オノちゃん、ヨッシー、オーツボくん、ヤイリくん、忍者ハットリくん、シンムラくん)、迎撃する本部側メンツは総長(「会長」だと「支部」になめられそうなので、今回から役職名を変更することにした)、だんじりエディター、釈老師、ドクター佐藤、ラガーマン、I田先生、ホリノ社長、かんちきくん、そして弱雀小僧。
たちまち三卓が立ち、「がるるる」という野獣のような咆哮とともに熾烈な下克上の争いが午後4時から深更まで展開した。
結果は勝率で6勝6敗のイーブン(形式的には本部の7勝なのであるが、このときの卓には浜松支部のメンバーが入っていなかったので、対抗戦戦績としてはノーカウントとすることにした)、勝ち点は浜松支部が上回り、今回は一応「ドロー」ということで収めて、次回晩夏の「城崎温泉地獄麻雀」で決着をつけようではないかということになった。
それにしても最後の最後一勝をあげて本部の体面を救ってくれたのが弱雀小僧(最後の半荘に飛び込んできてプラ51)であったということがまことに面妖である。
勝ち頭は今回もヤイリくん(プラ117)。
ヤイリくんはふだん浜松では「浜松の弱雀小僧」と呼称されているそうであるが、なぜか芦屋に来ると大勝ちする。
弱雀小僧が二人集まると地軸が歪むのかもしれない。
総長(プラ37)と支部長のスーさん(プラ35)は3位、4位でとりあえず面目を保つ。
今回5戦2勝で総長もようやく勝率を2割5分に戻した。
一年はまだ長い。最後に笑うのは誰か。
午前1時過ぎに全員退去するが、かんちきくんが(例によって)終電を逃して「居残り佐平次」となる。
かんちきくんは若いに似ず、例会のたびつねにキックオフ前に会場に現れ、お掃除、お片付け、先輩へのご挨拶、点数表の管理など、「雪かき仕事」に真摯に取り組む姿勢が総長の目に止まり、今般総長の壟断により、総長の引退後には「甲南麻雀連盟二代目総長襲名」を許すことにした。
もちろんそのためにはそれまでに阪神間のどこかの大学の教員ポストをゲットし、甲南の地に居住していることが襲名の条件なのであるが、果たしてかんちきくんはこの苛烈な条件をクリアできるであろうか。
しかし、それくらいの重石に耐えねば、甲南麻雀連盟総長の看板は張れないのだ。
がんばれ!かんちき。
日曜は朝食をとりつつ、かんちきくんに「麻雀帝王学」を講じる。
麻雀は基本的に半荘終了時に、手元に3,8000点の点棒があれば、80%以上の確率でトップを取ることができる。
つまり配給原点からわずかプラス13、000点でよいのである。
この13,000点をどのようにして積み上げるか。
理想的には東場終了時に27,000点~2,8000点をキープしていることが望ましい(それ以上の勝ちはむしろ他の打ち手の警戒心を高める)。
だから東場では勝負をしかけない。
これは競馬と同じである。
勝負時は第四コーナーを回ってから。
東場では「振り込まない」と「安手で早あがり」を最優先する。
ただし「振り込まない」ことと「安手で早あがり」することはしばしば矛盾する。
「安手で早あがり」のつもり翻牌を早泣きしたり、混一色ねらいを公開すると、結果的に立直をかけられて手詰まりになって放銃することが多い。
「振り込まない」ためには泣かないことがもっとも効果的である。
つまり、東場の手作りの基本は「門前・ダマ聴・安手」である。
しかし、南場は一転してみんな奇手を仕掛けてくる。
だから、南場でオーソドックスな「メンタンピン狙い」をしている打ち手は絶好のターゲットになる。
オタ風の単騎待ち、双碰聴、引っかけは日常茶飯事。
だから、南場では中盤以降の幺九牌切りは東場よりも危険度が高いのである。
この中で、南二局、南三局を抑える。
これが必須である。
「南の二局、三局で連続上がりしたものは90%の確率でトップを取る」というのは私が40年にわたる雀歴で得た確信である。
理想的には28000点持ちで迎えた南二局で「風牌符ハネと他人のリー棒」で2,300点、南三局で「七対子ドラ2」6,400点くらいで逃げ切るというのが勝ち方としてもっとも効率がよい。
「効率がよい」というのは「コストパフォーマンスがよい」と言うことであるが、この場合の「コスト」というのは「労力」のことではない。
「ツキ」のことである。
「ツキ」は「ツキを使わずに上がる」と(有給休暇と同じで)、一定時間内なら「繰り越し」することができる(一定時間を過ぎると使えなくなるという点でも有給休暇と同じである)。
繰り越して貯めた「ツキ」を一気に放出せねばならぬとき、「ツキ」以外にいかなる味方もいない状況に、半荘のうちに一回私たちは必ず遭遇する。
「ツキ」はそのときのために取っておくのである。
まだまだ若いかんちきくんには理解の及ばぬことも多々あろうが、先輩の助言を拳々服膺して、雀道修行にますます励むように。
May force be with you 「雀力が君とともにあらんことを」

2007.04.03

びっくり三題

驚くことが三つあった。
一つめ。
選挙運動が始まったので、窓の下を連呼の声が通る。
うるさいなあと思いながら仕事をしていたら、突然「県会議員候補かどのぶおの娘でございます」という声が聞こえてきた。
いま県会議員をされている門信雄さんは私がるんちゃんといっしょに芦屋の山手町の山手山荘という古いマンションに住んでいたときのお隣さんである(その頃門さんは芦屋市議だった)。
その娘はれいこちゃんといって、るんちゃんと同い年で、ふたりはよく行き来して遊んでいた。
れいこちゃんはその頃は七つか八つか、それくらいのちびちゃんだったが、その子がもうお父さんの選挙運動の手伝いをして「父をよろしくお願いします」とマイクを握って沿道に手を振るようなお年頃になったのである。
転た、感慨に堪えぬのであります(@佐分利信in 『彼岸花』)。
るんちゃんにメールを送ると、すぐに「そうか~。れいこちゃんも政治活動しているのか。私もしてるよ」という返事が返ってきた。
るんちゃんはバイト先のリサイクルショップの店長さんの区議選のお手伝いをしているのだそうである。
先日も書いたけれど、20代の女性の志向はどうも「1950年代市民感覚」に向けて回帰傾向にあるように思われる(それが私の主観的願望でもあるのだが)

驚いたことの二つめ。
大学の事務室からメールが転送されてきた。
内閣情報調査室からのメールで、『下流志向』の件でウチダ先生にお訊きしたいことがあるので、早急に連絡を取りたいという趣旨のものである。
内閣情報調査室といえば日本のCIAである。
私はあの本の中で何か重大な国家機密をそれと知らずに漏洩してしまったのであろうか?
日本の子どもの学力低下や労働意欲の低下はグローバリズム・イデオロギーのせいだというあたりが政府要路の方々の逆鱗に触れたのであろうか?
どきどき。
とりあえず自宅メールアドレス、電話番号などを記したメールをお返しすると、五分後くらいに電話がかかってきた。
『下流志向』を読んで、たいへん興味深かったので、今後の社会政策立案の上で参考にしたいと思うというお話であった。
やれやれ。
どんどん参考にしてくださって結構ですとお答えする。
あの本の中でウチダ先生は「たがいに迷惑をかけ、かけられる相互扶助的な中間共同体の再建が急務である」とお書きになっていますね。まったくその通りだと思うのです。しかし、そういうことを行政の側が主導することは・・・
そりゃ、できませんわな。
行政に支援を望むより前に、まず弱者同士で支え合うべきだ、ということを行政が言い出したら、それは行政の側の責任放棄である。
それは国民の側から自発的に出てくるムーブメントでなければならない。
しかし、行政サイドがもっとも支援したいのは、実はそのようなムーブメントなのである。
地域における共同的な子育てや、「寺子屋」的な教育拠点の構築、あるいは弱者の相互扶助のための親密圏の構築、そういった運動が自然発生的、同時多発的に拡がることがいまの日本の窮状を救うために喫緊に必要である。
けれども、そのような運動は自然発生的・同時多発的でなければ意味がない。
そうである以上、それを行政が中枢的に管理することはできないし、管理すべきでもない。
いったいどのようにその運動を支援したらよいのでしょうか?と訊ねられたので、とりあえずモラル・サポート以上のことは行政にはできないでしょうが、それより、教育三法案の国会通過をなんとか止めてくださいよとお願いする。
教育を中枢的に管理するようなシステム作ったら、教育崩壊に拍車をかけることになりますよ、だいたいね・・・と教育問題についての政府対応にがみがみと文句をつける。
それはわかっておりますが・・・と先方はいささか困惑していたようである。
おお、すまないことをした。
別に内閣情報調査室が起案した法律じゃないんだよね。
聴くところでは、内閣情報調査室では、私のような「しもじもの」物書きのものなどもちゃんとチェックして、レポートにまとめて総理大臣に提出しているのだそうである(安倍さんはたぶん読んでないだろうけど)。

びっくりの三つめ。
岡本喜八のボックスを買ったので、『独立愚連隊西へ』を見る。
1960年の映画である。
戦争が終わって15年。
この映画の中に出てくる35歳以上の役者たち(つまり主演の加山雄三と佐藤允以外のほぼ全員)とスタッフたちはみな軍隊経験者だということである。
1960年から回顧する1945年というのは、2007年時点で回顧する1992年のことである(バブル崩壊の年だね)。
つまり、『独立愚連隊西へ』は『Always三丁目の夕日』じゃなくて、『バブルへGO!』みたいな映画だ、ということである。
ということは、この映画の中で描かれている中国戦線での日本兵のありようは、「多少誇張はされているが、実相にかなり近いもの」とみなしてよいということである。
戦後生まれのフィルムメーカーたちによって作られた戦争映画に比べて、この「軍隊経験者の作った軍隊映画」はずっと「人間的」である。
たしかに戦争が人間を「鬼畜」にするというのはほんとうだろう。
けれども、人間である以上24時間つねに「鬼畜」であり続けることはできない。
どこかで「素の人間」の顔に戻るときがある。
なければ、精神も身体も保たない。
「素の人間」に戻ると、そこに個性が出る。
人品骨柄の差が現れる。寛容な人間と狭量な人間の差が出る。危機管理の問題をおおづかみにとらえる人間と、マニュアル通りにこなそうとする人間の差が出る。胆力のある人間とない人間の差が出る。
「すべての軍人は悪鬼である」という断定は一面では正しいが、危険な半真理である。
軍人の中にも(ふつうのサラリーマンと同じように)「できるやつ」もいれば「できないやつ」もいる。威圧することで管理しようとする人間もいれば、度量の大きいところを示して帰順させた方が「コストがかからない」と算盤をはじける人間もいる。
もう戦争は始まっていて、個人の力では止めようがないという状況に陥ったとき、その条件下でどうやってできるだけ「人間的」に戦争をするか。
殺すにしても死ぬにしても、どうすればできるだけ「まし」な仕方でするか。
それが『独立愚連隊』と『独立愚連隊西へ』の切実な主題である。
それはサム・ペキンパーの傑作『Cross of Iron』(邦題は思い出したくない)の主題でもあった。
そのような、真に切実な主題を描いた戦争映画はもう久しく作られていない。
『独立愚連隊西へ』での加山雄三はオールタイム・ベスト・パフォーマンスである。こんなにキュートな青年がどうして・・・と思うと、これまた転た感慨に堪えぬのである。

2007.04.05

博士号売ります

こんなニュースが本学の教育開発センターから産経新聞の記事がメールで送られてきた。
なかなか興味深い内容である。

「ディプロマ・ミル」(DM)などによる学位商法問題で、聖心女子大の教授がDMとされる団体の博士号を取得し、使っていたことが1日、分かった。同大は調査委員会を設置して事実関係の調査に乗り出した。現役教授のDM学位所持が発覚したのは初めて。また、早稲田大でも先月定年退職した元教授が、実態不明の「大学」が出す博士号を取得、使用していたことが判明した。文部科学省は全国調査を実施する意向を示しており、問題はさらに拡大しそうだ。
関係者によると、聖心女子大の問題の教授は平成13年、DMとされる「クレイトン大学」(Clayton University)の博士号を日本で取得し、16年に聖心女子大に教授として採用された際などに、この学位を使用。クレイトン大日本事務局のホームページ(HP)では、同大の顧問とされていた。
クレイトン大は、職歴や学歴を単位化し、日本語の論文でも学位の取得が可能だが、同大の本校があるとされる米では公的な使用を禁止する州もある。ルイジアナ州の住所地は私設私書箱で、同州に教育機関としての登録もないという。
同教授は産経新聞の取材に対し、学位の取得と使用については認めた。聖心女子大は、「調査中」としている。
一方、早大の元教授は11年に取得した「国際学士院大学」(International Academy of Education University)の博士号を早大の教員データベースなどに掲載。早大で博士課程は修了したが、博士号は得ていない。しかし、著作の著者紹介に「早稲田大学大学院博士課程修了。文学博士」と記し、早大の博士号と誤解する記載をしていた。
国際学士院大関係者によると、同大本部は「ニューヨーク」だが、具体的な住所は不明。教育研究者が電話でニューヨーク州に確認したところ、「(同大は)存在しない」との回答を得た。
米での実態が確認できないにもかかわらず、同大の日本事務局は「(住所も含め)答える必要はない」とし、取材に応じていない。
早大によると、元教授は「20万~30万円を払い、日本の事務局に日本語で論文を提出して学位を得た」と話している。(記事はここまで)

ディプロマ・ミル(Diploma mill)あるいはデグリー・ミル(Degree mill)(意味はいずれも「学位工場」)はアメリカに発祥した「教育産業」である。
あらゆるものが「商品」として売買されるグローバル資本主義社会では、もちろん学位もお金で買うことができる。
アメリカは原理的に学校法人の認可は、「事前審査」ではなく、「事後チェック」である。
「大学マーケット」への参入障壁はきわめて低い。
「大学を作りたい!」という意欲のある人には、とりあえず資金がなくても、資格がなくても、どんどん大学を作ってもらって、その成否はマーケットの「良識」に委ねようおうじゃないの、というのがアメリカン・ウェイである。
市場のニーズに応えうる大学は「よい大学」であり、ニーズのない大学は「ダメな大学」である。
おなじみの「グローバリズム」のロジックである。
しかし、ここにはもちろんピットフォールがある。
「市場のニーズ」の中には「そのようなニーズを持つこと自体、常識ある社会人としていかがなものか」的なニーズが存在するからである。
例えば「研究業績はないけれど、博士号は欲しい」というようなニーズはその一つである。
そして、グローバリズムのロジックでは、「いかがなものか的ニーズ」であっても、現にニーズがある以上、それに応えることで利益を得ることは「キャピタリスト的にコレクト」とされる。
「学位を金で買う」というニーズがあり、それを売りたいという大学があり、フェアな取り引きが成立しているなら、ここに余人が容喙する余地はない。
アメリカ人はこのような「フェアな」取り引きを効果的に抑止する論理をもたない。
しかたがないので、「まともな大学」が連合して、「学位工場は『まともな大学クラブ』には加盟させない」という措置を取っている(これを大学のアクレディテーション(信用供与)と呼ぶ)。
「この大学はダメだ」というブラックリストを作ると営業妨害とされてとんでもない金額の賠償請求をされかねないので、「この大学はまともです」という「ホワイトリスト」を作成している。
でも、アメリカの一般市民はそんなリストの存在を知らない。
ましてや日本人がアメリカの大学のうちのどれが「まともな大学」でどれがそうでないかをみきわめることはたいへんに困難である。
それを見越してか、二十年ほど前にアメリカの大学が大挙して日本のマーケットに参入してきたことがあった(覚えてますよね。あちこちの地方都市の駅前ビルにいきなりアメリカの大学の「キャンパス」が登場したのを)。
たぶん、あの悪名高い「年次改革要望書」の成果なのであろう。
しかし、日本中に次々と展開したアメリカの大学は、ほとんどすべてが10年以内に撤退した。
その理由をみなさんはご存知であろうか?
なぜ、アメリカの大学は日本の教育マーケットに参入できなかったのか?
一分差し上げるから答えを考えていただきたい。
はい、一分経ちました。
答えは「言語障壁」である。
日本にあるアメリカの大学に入った諸君のほとんどは、基礎コース課程がクリアーできずに脱落していった。
考えれば当たり前のことだが、アメリカの大学の学部レベルの授業が理解できる程度の英語力のある学生は、日本のかなりいい大学に合格してしまうからである。
その後、インターネットを利用して、自宅にいてキーボートをかちゃかちゃやるだけで学位が取れる「教育プロバイダ」というのが出現してきた。
それが学位を濫発し、いま東南アジアを席捲していて大問題になっている。
だが、日本にはなかなか入れない。
理由は同じで、教育プロバイダの教材が基本的に英語ベースだからである。
「ネットでちゃかちゃかするだけで学位がとれます」という「引きこもり・不登校」系の子どもたちにとっては福音のような教育プロバイダが日本のマーケットになかなか入り込めないのは日本人は英語ができないことが一因なのである。
だから、今回のDMのケースが二つとも「日本語の論文でも受理する」大学であったという記事を読んで、アメリカのビジネスマンがバブル期の大学ビジネスの失敗からちゃんと教訓を引き出していたことを知ったのである。

2007.04.09

夜霧よ今夜もアリゲーター

春休み最後の日のはずの金曜も大学に呼ばれて、お仕事。
30分ほどで片付けて、帰宅。養老先生との対談本『逆立ち日本論』の校正。
「まえがき」も書く。
ゑぴす屋(ゑびす屋から再度呼称変更)さんから届いた『バベル』を見て、寝る。
土曜の朝、『バベル』の映画評を書く。
対談本の校正を終えて、宅急便で送る。
合気道の稽古に行く。35人くらい来ている。
70畳の道場が狭い。
今週も二人入門。
毎週一人ずつ入門してくると、年間52人入門ということになる。
そんなに収容できない。
どうすればよいのであろう。
稽古を終えて、新幹線に飛び乗って東京へ。
車中で『街場の中国論』の校正。
学士会館で平川くんと仕事の打ち合わせ。
最初はまじめに仕事の話をしていたが、だんだん酔いが回ってくると、仕事はまあなんとかなるよということで、文学と政治の話になる。
二人がホストになってお客さんを呼んで、だらだら話し続けるというラジオ番組をつくることになる。
これは楽しそう。
朝起きて、『街場の中国論』の校正を仕上げて、コンビニから宅急便で送る。
山の上ホテルまで歩いて、正午からロビーにて『週刊文春』の取材。
お題は「団塊の世代への提言」。
あの方々(というか私も含む)はもともと年下世代からの提言などに耳を貸すような殊勝な方々ではないのであるから、提言なんて原理的に無駄であるというお話をする。
どういうわけかリタイアが始まる団塊世代に「ああしろ、こうしろ」という「ご提言」をあちこちのメディアが企画している。
そういうメディアの編集長たちはだいたい40代後半から50代前半で、この「団塊世代」にずっといじめられてきた方々であるから、リタイアを機に、背中に石をぶつけて長年の恨みを晴らすと同時に、まとめてどこかに閉じ込めて無害化しようとお考えのようである。
その気持ちはよくわかる。
だが、その企画は成功しないであろう。
団塊世代は戦後日本社会にごく短期間存在した「倫理的ノーマンズ・ランド」が生み出した変異体である。
その「態度の悪さ」は矯正不能である。
悪いけど。
続いて、1時から『潮』のお仕事で関川夏央さんと対談。
関川さんとお会いするのはこれで三度目。
関川さんはぼくの同世代の中で、20代でメディアにデビューした数少ない中の一人である(いちばん早いのは矢作俊彦)。
いしかわじゅんのマンガにキャラクターとして出てくる数少ない知識人のひとりである(まんがの中では「セキノビッチ」)。
ぼくは50代で物書き仕事をはじめた人間なので、関川さんとはキャリアに30年の差がある。
それにもかかわらず、自分たちの世代の「歴史的なつくられかた」について考えていることは不思議なほど似ている。
お題は教育問題のはずであったが、話の流れで、団塊世代論=昭和文化論になってしまう。
これは関川さんとの対談本にいずれ収録されることになる。
その対談本を出すはずの講談社のみなさんとそのあと引き続き山の上ホテルのレストランでワインなどのみつつ歓談。
文芸誌の編集者は「業界人の噂話」が大好きであると以前、村上春樹がエッセイで書いていたが、なるほどほんとうだと感心する。
私もそういうのを聞くのは大好きなので、熱い風呂に浸かるように際限なく湧き出る噂話に身を委ねてほっこりした気分になる。
生酔いで新幹線に飛び乗り、爆睡。
関ヶ原あたりで目が醒めたので、iPodで町山さんのアメリカ映画特電のバックナンバーを聴く。
くっくっくと爆発する笑いをこらえて痙攣しつつ芦屋に戻る。
村上春樹の『うさぎおいしーフランス人』をベッドの中で一気読み。
「ボバリー夫人はたわしです」に蒲団の中で身体をよじって笑う。
頭の中に自前のだじゃれが渦巻いてなかなか寝付けない。
例えばこんなの。
私の母校ではバイクで行うクロスカントリーレースが盛んであった。
東大モトクロス。

2007.04.10

新学期のご挨拶

2007年度の新学期が始まる。
岡田山に来て18回目の新学期である。
新メンバーで部長会に出てから、最初の三年生のゼミがある。
新顔の15名のゼミ生たちにご挨拶をする。
内田ゼミにようこそ。
本日は初日であるので、このゼミではどんなことをやるのかについてご説明しよう。
このゼミは「知識」を得るためのものではない。
「知識」というのは基本的に一問一答のクイズ形式でフォーマットされている。
「タイ・カッブの最高打率は?」「0.420」
「ニール・ヤング、ジム・キャリー、マイク・マイヤーズ。共通点は?」「カナダ人」
というふうに。
しかし、実際に人生の岐路でそういうクイズ形式の問いを差し向けられるということは起こらない。
実際に人生の岐路(めいたところ)で私たちが遭遇するのは「答えがもともとない問い」と「答えがまだ知られていない問い」だけである。
「答えがもともとない問い」というのは問いに対してどのように答えてもすべて「誤答」として処理される問いのことである。
そんなものがあるものかと思われるかもしれないが、正答できない人間を出口のないところに追い込んで傷つけるためにこの問いは広く活用されている。
野球チームの監督がうなだれているナイン相手に問うている「どうして負けたんだ?」というような問いがそれである(この問いにうっかり「練習不足でした」などと正答してしまうと「どうして負けるとわかっていて練習をしなかったのだ?」ともっと答えにくい問いを引き出してしまう)。
あるいは別れ話を持ち出したときに彼女から「私のどこが気に入らないの?」と訊かれた場合もそうである(この問いにうっかり「狭量で邪悪だから」などと正答してしまうと答え通りの展開になるので、ふつうは無言で耐えることになっている。とはいえ、賢い人は「おまえの『そういうとこ』がキライなんだよ」というふうに問題をすりかえる術を知っている。これだと相手が「『そういう』とこって、どこなの?」と重ねて訊いても「『そういうとこ』って、そういうとこだよ」といらついてるうちに、席を立つタイミングを発見できる)。
こういう「答えのない問い」に対しては、今申し上げたように個別的な一問一答で答を暗記してもしょうがない。
「術」を以て応じるしかない。
この場合の「術」は、「ひとはどのような文脈において『答えのない問い』を発するのか?」というふうに問いの次数を一つ繰り上げるのである。
それなら、答えは簡単だ。
ひとが「答えのない問い」を差し向けるのは、相手を「『ここ』から逃げ出せないようにするため」である。
だから、多くの場合、「答えのない問い」は相手に対して権威的立場を保持し続けたい人、相手を自分の身近に縛り付けておきたい人が口にする。
それゆえ、この場合の正解は(「お前の『そういうとこ』がキライなの」と言った男がしたように)可及的すみやかにその場から逃げ出すことなのである。
もうひとつ、私たちが遭遇するものとして「答えがまだ知られていない問い」がある。
問いを差し向ける人もその問いの答えを知らないし、その答えを相手からいますぐ即答されるとも期待していない。
「愛って、何かしら?」
「大人になるって、どういうことなんだろう?」
「この子が大きくなるころには世界は平和になってるかしら?」
というような問いは即答を求めて発されるわけではない。
そういう問いに対しては、「さあ、どうなんだろうね?」と少し傾けた笑顔を向けてから、ふたりで朝日(夕日でも可)に向かって眩しそうに瞬きするのが長者の風儀である。
これは、「答えをふたりでいっしょに探そうね」というのが「答え」であるような問いだからである。
ことほどさように、われわれが実生活で遭遇する問いは一問一答形式で記憶することができるほど単純なものではないのである。
このゼミでは、このようなさまざまな「答え方がわからない問い」にどのように対応するのかをお教えする。
諸君が私に問いを向ける。
私がそれにお答えする。
私ども大学教師はあらゆる問いに即答することができる。
その答えを知らない問いについても、そのような問いが存在することが知られていない問いにさえ即答することができる。
なぜ、そんなことができるのか?
知識があるからではないよ。
だって、「答えを知らない問い」にだって答えちゃうのだから、知識に依拠することはできぬ。
では、何に依拠するのか?
その答えを諸君は二年間私に就いて学ぶのである。
健闘を祈る。

2007.04.15

ひさしぶりの週末なので

新学期が始まったので、もう忙しくて忙しくて、どうにもなりません。
ゼミが四つ同時に始まったので、そこでそれぞれのゼミの目的に応じたご挨拶をする。
2年生のゼミと3年生のゼミでは「気合い」がかなり違う。
こう申し上げては失礼だけれど、2年生のゼミ生のうちにはまだ「なんでゼミなんかやるの?ていうか、このおじさん誰?」というぽかんとした表情が散見される。
おじさんはね、諸君を諸君の知らないミステリアスな世界へといざなうメリー・ポピンズみたいな人なのだよ。
残念ながら彼のスーパーガバネスのように、鞄から帽子架けを取りだしていきなり諸君の度肝を抜くような芸当はできぬのだが、瓢箪から駒を出し、嘘から真を取り出すくらいのことは朝飯前である。
汗を拭き拭きオフィスに戻ると、次々とゼミ生や院生が論文のこと、就職のことなどで相談にやってくる。
私のカウンセリング理論は「相手が言ってほしい言葉を言ってあげる」というだけのことなので、いたってシンプルな仕事なのであるが、ときどき「自分が何を言ってほしいのかわからない」学生が来ることがある。
「私はいったい何をしたいのでしょう?」と訊かれても困る。
机の上にさまざまなところから「複製許諾」の申し込みが来ている。この時期は特に多いのだが、それにしても一日に三通というのは珍しい。
入試問題に私の著作から引用していただくことがある。
当該学校から「お礼」が来る場合と、その試験問題を複製頒布するところ(出版社や予備校)から「お金」が来る場合がある。
「お礼」はなかなかその大学の個性が伺えて結構なものである(日大からいただいた「農学部で作ったレバーペースト」は美味しかったです)。
支払通知がくると、いちおう「複製許諾ご返送申し上げます。宜しくご査収ください」という手紙を書くのだが、それにもだんだん飽きてきた。
これまでに同じ文をたぶん200回くらい書いている。
それだけの学校の入試に私の著作が利用していただいているということである。
しかし、ここだけの話であるが、この200校の入試で使われている私の著作からの引用箇所は「ほとんど同じ」なのである。
それをここで公開してしまうと、来年度からその本はもう入試問題にはご利用いただけなくなり、レバーペーストも図書券もお鳥目もいただけなくなるのが残念である。
いちばん多いのは『寝ながら学べる構造主義』と『先生はえらい』からの引用で、それに『街場の現代思想』が続く。
この三冊で95%くらいである。
傾向的に言うと、高校の先生が「おまえらな・・・」と生徒たちに長説教したい内容のことを書いた部分が(たいへん)多い。
受験生は正解をしなければならない立場上、いやでもこの「説教」を熟読玩味せねばならない。
それが一部の高校教師たちに嗜虐的な快感を与えている可能性を私は完全には払拭できないのである。
しかし、考えてみると、嗜虐的な快感をもたらすとまではゆかぬとも、先生がたの「俺にだっておまえらに言いたいことがあるんだぜ」というオンザエッヂな気分に配慮したタイプの論説文というのはあまり(ぜんぜん)存在しないというのはまぎれもない事実である。
その点で私は全国的にもレアな書き手であると申し上げてよろしいであろう。
これは私が何年か物書き仕事をしてきて学んだことであるが、物書きは本質的には「ニッチ・ビジネス」である。
つまり、「私の代弁者がどこにもいない」という不充足感にイラついている読者たちをコアなクライアントに標定する、ということである。
私がものを書き始めたのは「読みたい雑誌がない」ということが大きな理由であった。
しかたがないので、自分で書いたエッセイを自分に読ませていたのである。
よく、「どうしてあんなにたくさん本を書くんですか?」と訊かれるが、むろん自分で読むためである。
というのは、私の書いたものは私の気分を代弁してくれる確率がそれ以外の文章の場合よりも高いからである。
ことほどさように人は誰かに「自分の気持ちを代弁してほしい」と欲望しているのである。
「私の代弁者がどこにもいない」という不満は集団のサイズとは関係がない。巨大な集団でありながら、「どのメディアも、どの書き手も、私の気分を代弁してくれない」という不満を託つということはある。
というか、日本の社会集団のほとんどは(小学生から老人まで)「自分の気持ちを代弁しているメディアは存在しない」と思っているのではないであろうか。

土曜日は合気道のお稽古のあと「例会」。
ひさしぶりにゑぴす屋さんを除く連盟創設メンバー(総長、だんじりエディター、老師、ドクター)が勢揃いした。
それにミラノ帰りの画伯、ラガーマン、髪を切った牧師、ホリノ社長、神戸麻雀ガール、弱雀小僧、かんちきくん。ドクターの幼稚園時代からのお友だちのモリタくんも参戦して、またも3卓。
今回はひさしぶりの『総長麻雀』で4戦2勝、勝率を0.269に戻した。勝率は7位、勝ち点は4位、勝ち数のみ1位。
かんちきくんがエクセルを駆使して、いろいろなタイプの戦績をつけてくれたが、興味深いのは「上位率」(1位2位のどちらかにはいった確率)。
私の「上位率」は0.654。
26半荘のうち一位が7回、二位が10回。
つまり、私は半荘3回に2回は南場終盤までトップを競り合う展開持ち込んでいたということである。
東場で大崩れして、以後大物狙いの暴牌乱打ということを私は決してしない。
東場はあくまで抑えて、25000-30000点あたりをキープして、南場で一気に勝負をかける。
南三局、四局あたりのガチンコ乱打戦になると勝つか負けるかの分岐はもはや技量ではなく、すべては自摸次第、「雀神さま」任せである。
私が二位になった10回のうち少なくとも5回は一枚の自摸牌が勝敗の分かれ目となった展開であった。
この5回を制していれば、勝率は5割に近くなったのである。
今期雀神さまはいささか私に冷たいが、それでも私は神がいつか私に微笑む日がくることを信じているのである。

2007.04.16

No strings attached

オークランドからバークレーに引っ越した町山智浩さんのポッドキャストを毎週楽しみにしている。
今週のGrind House の二本立て、タランティーノ監督のDeath Proof の解説も面白かった。
話が横道にすぐ逸れるので、Death Proof の話になかなかたどりつかない。
町山さんが『映画秘宝』を創刊したのはもう10年くらい前だろうか。「読む雑誌がない」とひさしく嘆いていた私にとって『映画秘宝』はまさに干天の慈雨、砂漠にオアシスのような媒体であった。
私は文字通り貪るように不定期刊のムックを読み、そこでご推奨されている折り紙つきの「Z級バカ映画」を絨毯爆撃的に見続けた。
たしかにそれらはいずれもどうしようもないバカ映画・ゴミ映画であったが、そのどれにも探せば一掬の愛すべき点がある。
そのような「愛すべきバカ映画」に町山さんはつねに暖かいマナザシを注いでいた。
この「どんなゴミにも探せば愛すべき点がある」というアプローチは高橋源一郎さんや橋本治さんの批評的構えにも通じている。
しかし、ゴミの山から一粒の「よきもの」を探し当てるのはむずかしい。
そのためには、「救いのないゴミ」と「救いのあるゴミ」の微細な差異を感知できなければならないからだ。
映画がゴミになる理由はいくつかある。
フィルムメーカーが「ビンボー」であること、「偏差値が低い」こと、「変態」であることなどによってもたらされる「ゴミ性」は町山的基準からすればわりと「救いのあるゴミ」である。
ビンボーでバカで変態であるにもかかわらず(というより、だからこそ)映画を作る人間の映画(ジョン・ウォーターズの映画とかタラちゃん映画とかリュック・ベッソンの映画)には、たしかに「何か」がある。
うまく言えないけれど、「何か」がある。
その「何か」が何であるのかが知りたくて、ついゴミ映画を漁ってしまうのであるが、まだそれをうまく言葉にすることができない。
一方、フィルムメーカーが潤沢な資金を持ち、メディアを操作して、「政治的あるいは宗教的正しさ」の看板を掲げた上で「ゴミ」でしかないような映画もある。
そのような映画では監督だけでなく、脚本家も俳優もカメラマンもスタッフたちも、全員が「ゴミ」のような仕事しかしない。
誰もその映画を愛していないからである。
町山さんはおそらく「誰かに愛されている映画」と「誰にも愛されない映画」を批評的基準にしている。
そして、町山さん自身が「愛した映画」は全世界からゴミ扱いされていても、少なくとも世界に一人だけ愛する人がいたことで、「救われる」のである。
すごい。
ほとんどキリストみたいな人である。
そのような救世主的な批評実践をしている批評家はこれまでにいない(と思う)。
さて、その町山さんはTBSラジオ「コラムの花道」でもアメリカから生放送でトンデモ話を毎週している。
今週はアメリカの2ちゃんねるCraiglist の話だった。
抱腹絶倒の小咄(実話)なのであるが、その中でNo strings attached (NSA) ということばが出てきた。
直訳すれば「ひもは付いてない」ということで、出会い系ネット用語では「あとくされなし」ということのようである。
ピュアにリアルにかつハードコアになさるだけで、個人情報開示とか「キミが好きになってしまった」とか、「奥さんと別れて」とか、そういうのはナシね、ということである。
「ひもつき」というのは本邦の語彙にもある。洋の東西を問わず考えることは同じだね。
そのあと、バカ映画(「ザ・センチネル」)を見て(これは救いのない方のバカ映画でした。マイケル・ダグラスはいい加減に「下半身トラブルで本業に支障をきたす男」の役を止めなさい。キーファー・サザーランドはいい加減に「妻とうまくいかないのでイラついているエージェント」の役は止めなさい)、あまりのつまらなさにげんなりして口直しにマルクスブラザースの古い映画『マルクス二挺拳銃』を取りだして観た。
いやあ、すがすがしいほどバカだなあと思ってみたら、こんなギャグがあった。
グルーチョ(このあいだ特典映像を見ていたら関係者が「グラウチョ」と発音していた。グラウチョ・マルクスでは気分が出ないなあ)がチコとハーポのバカ兄弟を騙そうとしてがらくたを売りつける。
バカ兄弟はグラウチョの言い値を1ドルに値切る。
そして10ドルを差し出して9ドルのお釣りを要求する。
グルーチョがもらった10ドル札をポケットに入れて、9ドルお釣りをチコに手渡すあいだに、ハーポがポケットの10ドルを盗み出す。
この10ドル札には「ひも」がついていて、ハーポがくいとひっぱるとグルーチョのポケットからするりと出てくるのである。
これを三回繰り返してグルーチョの身ぐるみを剥いでからバカ兄弟は逃げ出す。
そのあと、西部の荒野で金鉱堀りをしているバカ兄弟はある老人からその土地の権利書を買うことになる。
10ドルでいいよというので、ハーポがいつもの10ドルを差し出すとチコが制して「No strings attached」と言う。
おお、シンクロニシティ。
マルクス兄弟のギャグは「ことわざや慣用句をそのまま演じる」というものがあると映画の本で読んではいたが、どういうものかよくわからなかった。
今回はじめて「なるほど、これがそのマルクス・ギャグか」と納得した。
これもみな町山さんのおかげである。
せんきう。

2007.04.17

これは便利なカレンダー

IT秘書のイワモトくんに勧められてスケジュール管理にGoogleカレンダーを使っている。
これはたいへん便利なものである。
ネット上に自分のスケジュールが置いてあるので、出先のパソコンからでもポケットの中のiPodからでも自分のスケジュールがチェックできる。
月単位のスケジュール表を使っているので、一ヶ月分の約束と締め切りが「一望俯瞰」できるのもありがたい。
私にとっていちばんありがたいのは、スケジュール情報にテキストを貼り込めることである。
仕事の依頼はたいていメールで来る。そのメールをそのままスケジュール表に貼り込む。字数、締め切り、テーマ、担当者からのコメント、連絡先のメールアドレス、電話番号から編集者とのあれこれのやりとりまで、どんどんスケジュールに貼り込んでしまう。
これまでだと、「あれ?どこかの雑誌の締め切りが明日あたりあったような気がするが・・・」ということに真夜中にふと寝床の中で気づいて、がばっと起き出し、ばたばたと手帖をめくって、あわててメーラーを立ち上げて数週間前までのメールをチェックして・・・というようなことがしばしばあったのであるが、そういう薄氷を踏む思いはもうしないで済むようになった。
四月のスケジュールを一望すると、締め切りが七つあるのがわかる。
共同通信、読売新聞、日本経済新聞、産経新聞、ダイヤモンド、ミシマ社。
締め切りが近いものから順番に消してゆく。
書いたものはそのままスケジュールに貼りつけてしまう。
これだと自宅のパソコンがダウンしても、フラッシュメモリーを家に置き忘れて出かけてしまっても、原稿がネット上に置いてあるから、いつでもどこでも続きが書けるし、原稿を紛失する心配もない。
サイバースペース上に原稿が放置してあるわけだから、誰かに覗かれてしまう可能性はあるが、どうせ数日後には世間の目に触れるものである。
すらすらすいすいと書いているうちに四月分の原稿を全部書き上げてしまった。
クリックすると来月の締め切りリストが並んでいる。
2日が日経、9日が讀賣新聞、10日が「大航海」、19日が共同通信、20日が文藝春秋、24日が「こどもと体育」。
グーグルさん、便利な文房具をありがとう。

2007.04.19

銃規制と憲法修正

アメリカのヴァージニア工科大学で、一人の学生が銃を乱射して、32名を射殺したあと自殺するという衝撃的な事件が起きた。
二人の高校生が級友、教師13名を射殺したコロンバイン高校事件に続く惨劇である。
市民が無差別に銃撃される事件が起こるたびに、銃規制についての議論がアメリカ国内で再燃する。
しかし、何も変わらない。
依然としてアメリカ国内には2億2千万丁の銃があり(それはほぼ全国民に一丁ずつということである)、銃による死者は毎年約3万人に達する。
イラク戦争開戦以来の米軍兵士死者が3年間で3000人だから、単年度当たり戦地の30倍のアメリカ人が「銃後」の非戦闘地帯で撃ち殺されていることになる。
1981年以後のアメリカで銃による死者は60万人。
これは鳥取県の人口に等しい。
アメリカ人は一県分の人間を20年かけて銃で消滅させたのである。
にもかかわらず、アメリカでは銃規制が進まない。
それは1791年制定の憲法修正第二条に「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない」と定めてあるからである。
「民兵」(militia)とは政府から独立した武装市民のことである。独立戦争初期にイギリス軍との戦いに立ち上がったのは正規軍ではなく(そのようなものは植民地にはまだ存在しなかった)、民兵であった。
武装市民がアメリカ独立の礎を築いた。
だから、「市民は銃を持つべきではない」と主張することは、独立戦争当時の植民地市民のルールを否定し、ただちにアメリカ建国の正統性を否定することに通じる、というのが銃規制反対派のロジックである。
なるほど、そういうものかも知れない。
ところで、市民が武器を携行する権利を認めた第二条に続く第三条には「軍隊の舎営」についての規定がある。
そこには「平時においては、所有者の同意を得ない限り、何人の家屋にも兵士を舎営させてはならない」とある。
「勝手に人のうちを兵舎にしてはいけない」というのが憲法修正第三条なのである。
このことから、この憲法修正条項が歴史的にかなり限定された、具体的な戦闘場面を念頭に制定された「ローカル・ルール」なのかもしれないという推理は可能になるはずである。
もし憲法修正に「兵士がはずした戸板はもとに戻しておかなければならない」とか「兵舎の便所は人家から十分に距離を置いて作らねばならない」という条文が残されていたら、アメリカ市民たちも憲法修正が永遠に触れるべからざる「不磨の大典」であるとは思わなかっただろう。
私はべつにふざけているわけではない。
上に掲げた二つのルールは「長征」時代に中国共産党が定めた紅軍兵士規則の一部である(トイレについての規則を追加したのは林彪である)。
これらの具体的規定を遵守したことによって紅軍は農民の圧倒的支持をとりつけ、その政治的基礎を築いた。
しかし、中華人民共和国憲法にはそのような文言はもう残されていない。
それを削れば建国の正統性が損われてしまうと案じる中国人がいなかったからである。
私は中国人の方がこの点については「常識的」だと思う。

2007.04.20

少年法「改正」

少年犯罪が凶悪化したので「厳罰化」する、という少年法改正案が衆院を通過した。
この一文はすでにいくつかの問題を含んでいる。
少年犯罪が「凶悪化」したということをメディアは自明のように語るけれど、「凶悪化」とは何のことかについて十分な吟味がなされているように思われないからである。
少年犯罪件数自体について言えば、日本は世界でも例外的に「少年犯罪が少ない」国である。
ヨーロッパ諸国が「日本の奇跡」と呼び、「どうしてこんなに少年犯罪が少ないのか」を調べに調査団が来るほど、少ない。
少年犯罪統計データ
を見れば一目瞭然である。
少年(10-19歳)の10万人当たりの殺人事件の検挙人数比率を見ると、1936年が1.05,1940年が0.93、1950年が2.14、1960年がピークで2,15。それから年々低下して、1980年に0.28、90年に0.38,2004年で0.48である。
2004年はもっとも少年による殺人事件が多かった1960年の22%にまで検挙件数が減っているのである。
建造物侵入とか威力業務妨害とか道交法違反とかは1960年代から70年代まで、学生運動さかんな時代は日常茶飯事であり、「総員検挙!」と機動隊が指示するたびに、数百単位で学生たちが逮捕されていた。そのうちのかなりは19歳以下であったから、学園紛争時期の少年犯罪件数は今より一桁以上多かっただろう。
だから、21世紀に入って少年犯罪は統計的には「激減」しているはずなのである。
少年犯罪の「激増」に対応すべく少年法が厳罰化される、というのなら話はわからないでもない。
だが、犯罪件数が減少している中で厳罰化が進められるということの理路が見えない。
政治家たちは統計を知った上で仕事をしているのだろうか?
統計を持ち出すと法改正ができないから、これについては言及しないことにしているのだろうか。
統計的には少年犯罪は減り続けている。だからやむなく「凶悪化」という観念的なことばをつかって法改正を正当化したのである。
たしかに件数は少なくても、それが目を覆わんほどに「凶悪」なものであれば、少年犯罪は社会を危機に瀕せしめるものであるというロジックが成り立つ。
だが、「凶悪」というような主情的な用語で刑事事件を形容することははたして適切であろうか。
そもそも何を以て「凶悪」とし、何を以て「穏当」とするのか。
「ムカついて人を殺す」のは「非人間的」だから許せないが、「食い物が欲しくて人を殺す」のは「人間的」であるから許せる、ということなのだろうか。「性的倒錯味で人を殺す」のは「凶悪」であるが、「失恋の恨みで人を殺す」のはそれほど「凶悪」とは見なされない、というような情状酌量基準が存在するのであろうか。
私は知らない。
誰か知っていたら教えて欲しい。
近年の少年犯罪については「動機がよくわからない」という事例が多いのは事実である。
しかし、「動機がよくわからない」ということは「凶悪」ということとは違う。
そして、「動機がよくわからない事件」が繰り返し起こるということは、少年たち自身の問題である以上に、それが社会病理の問題だということを意味している。
その集団構成員の言動のうちに「理解できない」要素が増えてきたら、それはその集団の「理解の枠組み」が不調だということである。
ある種の子どもたちが「意味のわからない暴力」の発動に至るのは、その徴候を感知し、それに対して適切な対応をとる予防システムが整備されていないということを意味している。
組み替えるべきなのは集団が採用している「意味のシステム」の方である。
子どもたちが暴力を発動するためにはかならず「前段」がある。
正常な人間は無文脈的に暴力を揮うことをしない。
必ず主観的には合理的な理由がある。
「暴力をふるうことを主観的には合理的なふるまいとして正当化するロジック」を内面化した子どもたちが増えているのだとしたら、これは危機的徴候である。
なぜなら、「暴力をふるうことを主観的には合理的なふるまいとして正当化するロジック」を子どもたちが学習したのは間違いなく、大人たちの無意識的なふるまいからだからである。
子どもが社会と無縁に自分の内部からそのようなロジックを分泌するということはありえない。
だから、子どもに「厳罰化」で応じることは無意味というより有害であると私は考えている。
というのは、「厳罰化」とは大人たちが、まぎれもなく子どもたちを標的として「暴力をふるうことを主観的には合理的なふるまいとして正当化するロジック」の帰結だからである。
トラブルを解決するためには、すみやかにかつ実効的に暴力をふるうことが効果的であるという発想に「厳罰化」を進める人々は合意している。
だが、その発想そのものを培養基として少年犯罪が「凶悪化」しているという平明な事実に彼らは気がついていない。
「凶悪な子ども」を生み出すのは「凶悪な社会」だけである。

2007.04.21

生物と無生物のあいだ

福岡伸一先生の新著『生物と無生物のあいだ』(講談社新書)を読む。
あまりに面白くて、どきどきしながら一気読みしてしまう。
みなさんもぜひ買って読んで下さい(でも、残念ながらまだ店頭にはありません。五月新刊なのであと少しお待ちを。私は帯文を書くために原稿のハードコピーを読ませていただいたのです)。
理系の人の書くものは面白い。
養老孟司、池田清彦、茂木健一郎、池谷裕二、佐々木正人、スティーヴン・ストロガッツ、ジュリアン・ジェインズ、リン・マクタガード・・・どれも「がつん」とくる。
一方、社会学の人や歴史学の人や心理学の人の本で読んで「はっ」と胸を押さえるというような刺激的なものにはこのところ出会っていない(私のアンテナにヒットしないだけで、どこかにスケールの大きな社会学者がいるのかも知れないけれど、残念ながら、まだ出会う機会がない)。
理系の人の文章はロジカルでクールで、そのせいで「論理のツイスト」がきれいに決まると、背筋がぞくっとする。
文系の人間の文章は(私の書くものを含めて)、どうしても修辞過剰になり、表層にあれこれの「仕掛け」が多すぎて、ロジックそのものの構成的端正とその破調という「大技」を繰り出すことにはいささか不向きである。
福岡先生の新刊はDNAについての学説史の祖述にその過半を割いている。
学説史の祖述を読んで「どきどきする」ということがあるのだろうか?
これがあるのですね。
もちろん素材そのもの(「二重らせん」理論の前史とその後の展開について)がスリリングだということもあるのだけれど、福岡先生の文体が「ロジカルでクール」に加えて「パセティック」だからである。
「ロジカルでクールでパセティックな学説史」を私は中学生の頃に一度だけ読んだ記憶がある。
レオポルド・インフェルトの『神々の愛でし人』である。
数学者エヴァリスト・ガロアの短く浪漫的な人生を描いたこの伝記に出てくる「群論」とか「五次方程式」とか「冪数」(「べきすう」と読むのだよ)いう言葉の意味は私にはもちろん意味不明だったけれど(だいたい私は中学の数学でさえあまり理解できていなかった)息が苦しくなるほど興奮したことを覚えている。
この本はインフェルトがガロアに捧げたように、福岡先生がオズワルド・エイブリーとルドルフ・シェーンハイマーとロザリンド・フランクリンいう三人の「アンサング・ヒーロー」(unsung hero、すなわち「その栄誉を歌われることのない、不当にも世に知られていない英雄」)に捧げた本である。
その点がこのクールな本に「パセティック」な室温を賦与しているのだけれど、この本の「すごい」ところはそこには尽くされない。
推理小説をまだ読んでいない人にいきなり真犯人を教えてしまうようでいささか気が引けるがが、この本の最大の魅力は福岡先生がこの三人の(ノーベル賞をもらうはずだったのに、あとから割り込んで来た学者にさらわれてしまった真のイノベーター)の生命研究者の学者としての「ふるまい」のうちに「生命のふるまい」そのものを見ていることにある。
遺伝子を扱う人々のふるまいが遺伝子そのもののふるまいと二重写しになっているのである。
「二重らせん」を発見したワトソンとクリックは「でこぼこコンビ」で行動するとそうでない場合よりもパフォーマンスが高いことを実証してみせた。
「DNAは日常的に損傷を受けており、日常的に修復がなされている。この情報保持のコストとして、生命はわざわざDNAをペアにしてもっているのだ。」(「サーファー・ゲッツ・ノーベルプライズ」)
この文の「DNA」を「生物学者」に置き換えると、「二重らせん」の発見者たちのペアが顕微鏡写真の中にそれと知らずに「自分たち自身の肖像」を透視していたことがわかる。
福岡先生の学説史は生物学者たちがどのように離合集散し、どのようにペアを組み、どのように実証と理論を分業し、先行する理論の損傷を補填してより安定性のよい理論を構築するかをたんねんに追ってゆくのだが、彼らが追っているのは「遺伝子を構成する分子たちがどのように離合集散し、どのようにペアを組み、どのように分業し、先行する単位の損傷を補填してより安定性のよい生命構造を構築するか」という謎なのである。
もちろん福岡先生はそんな「種明かし」はしてないけれど、「そういう話」なのである。
かつてアンドレ・ブルトンは『ナジャ』の冒頭にこう書いた。
「私が誰であるか(ce que je suis)を知りたければ、私が何を追っているか(ce que je suis) を知ればよい」(違ったかもしれない。誰か覚えている人がいたら教えてね。でも、だいたいそういうことである)
まことにブルトンのいう通りである。
福岡先生はそれをひっくり返して、「もし科学者たちが自分の追っているものの正体を知りたければ、自分が何であるかを知ればよい」と言っているのである。
私が夜半に原稿を読みながら、「ぶふっ」と白ワインを噴き出してしまった理由もおわかりになるであろう。

2007.04.22

分子生物学的武道論

昨夜読んだ福岡伸一先生の本の中に「武道的に」たいへんどきどきする箇所があったので、それを早速合気道の稽古に応用してみることにした。
それはトラバでM17星雲さん(ごぶさたしてます)が言及している箇所と同じところなのだが、「どうして原子はこんなに小さいのか?」というシュレディンガーの問いについて書かれたところである。
どうして原子はこんなに小さいのか?
これは修辞的な問いであって、実際の問いは「どうして生物の身体は原子に比べてこんなに大きいのか?」と書き換えねばならない。
原子の直径は1-2オングストローム(100億分の1メートル)。
つまり、仮に1メートル立方の生物がいたら(そんなかたちの生物見たことないけど)は原子の100億の3乗倍の大きさがあることになる
でかいね。
どうして、生物はこんなに大きいのか?
理由を福岡先生はこう書く。
「原子の『平均』的なふるまいは、統計学的法則にしたがう。そして、その法則の精度は、関係する原子の数が増すほど増大する。
ランダムの中から秩序が立ち上がるというのは、実にこのようにして、集団の中である一定の傾向を示す原子の平均的な頻度として起こることなのである。」(「原子が秩序を生み出すとき」)
こう書いてあるのだけを読めば「あ、そう」とみなさんも思うだろう。それが何か・・・
でも、すごいのはこの先である。
原子はランダムに行動する。
微粒子を空中に分散させると、あちこち揺れ動きながら、最終的には重力の影響を受けて、「平均的に」は下方に落下する。
しかし、それはあくまで「平均」を取った場合のことであって、大半の粒子が重力方向に落下しているときにも、少数ではあるが必ず重力に逆らって上昇している粒子が存在する。
平均から離れてこのような「例外的ふるまい」をする粒子の数は実は統計学的に決まっている。
平方根の法則というものが存在する。
百個の粒子があれば、その平方根(ルート100)すなわち10個の粒子は例外的なふるまいをするのである。
これは純粋に統計学的な規則なのである。
さて、ここに100個の原子からできた生物がいたとする。
この生物の構成原子のうちの10個はつねに例外的にふるまう。
だから、「この生命体は常に10%の誤差率で不正確さをこうむることになる。これは高度な秩序を要求される生命活動において文字通り致命的な精度となるだろう。」
なるほど。
で、他方に原子数100万個の生命体があったとする。
平均からはずれる原子の数はルート100万すなわち1000個である。誤差率は1000÷100万=0.1%。
一気に誤差率は減少する。
生命体が原子に対して巨大である理由はここにある。
それは生命体が生き残るために必要な精度を高めるためなのである。
私はこの箇所に真っ赤に線を引きながら「おいおい、これって武道の話じゃないのか」とひとりごちたのである。
誰でも経験的に知っていることであるけれど、緊張すると運動の精度は下がる。
恐怖や焦慮で足が居着き、身体がこわばっていると生命体の運動精度はどんどん下がってゆく。
それは「揺れ動く粒子」の数がそれだけ減っているからである。
武道では「敵を作ってはいけない」ということを繰り返し教えられる。だが、この言葉の意味をほとんどの人は精神的な訓話だと思っている。
それは違う。
「無敵の探求」にも書いたことだけれど、「敵を作らない」というのは純粋にテクニカルなことである。
「揺れ動く粒子の数を高どまりさせておく」というのが生命体の諸器官が高いパフォーマンスを維持するためには必須であり、それは言い換えれば「生き延びる上で必須」だということである。
だが、因習的な「敵-主体スキーム」を採用すると、私たちは敵対的な場面において、自動的に自分の身体を「攻撃部分」(揺れ動く部分=遊軍)と「防禦部分」(動かない部分=陣地)に分割して、固定化しようとする。
「敵」に対する恐怖や猜疑が強まるほど、運動している粒子数は減り、運動精度は下がる。
だから論理的に言えば、100%リラックスしているとき、私たちの敵を殺傷する運動精度は最大化するのである。
伝説的な殺人者(ハンニバル・レクターとか)は殺人の最中もまったく脈拍数も体温も変化しないらしい(フィクションだからね)。
でも、理論的にはその通りなのである。
では武道はレクター博士みたいな人を作り出すための修行かと言うと、そんなはずがない。
武道はもっと「欲張り」である。
運動精度をもっと上げることはできないかと考えるのである。
自分の身体を構成している原子の量には限界があるから、ある程度以上「揺れ動く粒子」の数は増やせない。
でも、「目の前」に等量のストックがある。
相手の身体である。
相手の身体と自分の身体を「同体」として再構築した場合、その身体の構成粒子数は倍になる。
この二つの身体を「複素的身体」として100%リラックスした状態にもってゆくことができれば、運動精度は私が単独で行動しているよりも飛躍的に高まる。
理論的にはそうだ。
そして、やってみるとわかるけれど、実践的にもそうなのである。
古武道の形稽古では、取りと受けはそれぞれ単独で動いているよりも、激しく打ち合っているときの方が動きが速く、滑らかになる。
空中に何の抵抗もない状態で剣を素振りするよりも、相手が受け流すところに剣を打ち込む方が、剣そのものの動きは速く滑らかなのである。
体術の場合はもっとはっきりそれがわかる。
気の感応が高まり、体感が一致すると、二人の人間が作り出す動きは、単体で動いている場合にはありえないような精度を達成する。
単体の身体運用では実現できない種類の「身体の理」がそこに顕現するからである。
武道修行の目的はそこにあり、そこにしかない、と申し上げてもよろしいであろう。
武道的な身体運用ができる人間は身を修め、家を済し、国を治め、天下を平らげることができると古来信じられてきた。
それが戦国時代に武道がプロモーションシステムとして採用されてきた理由である。
殺傷技術にすぐれている人間にはしばしば政治的統治能力があるとみなされたのには共同主観的には合理的な理由がある。
それは他者の身体と感応して、巨大な「共身体」を構築する能力が戦場における殺傷能力と同根のものであることについての社会的合意があったからである。
私がずっと考えてきたことはそういうことなのであるが、でも、どうして共身体の構成数が増えるにつれて「秩序」の生成が精密化するのかの理由がうまく説明できなかった。
それが福岡先生の本の中に「平方根の法則」という言葉を見出して、長年の疑問が氷解したのである。
生命体を構成する揺れ動く粒子の数が増えるほど運動精度の誤差率は下がる。
だから武道的身体運用においてもし運動精度を高めようと思ったら、いかに自分がリラックスするかだけではなく、「いかに相手をリラックスさせるか」を考慮しなければならない。
相手が緊張して運動精度が最低になっている状態で、自分だけがリラックスして身体を使うことができる人間がいたとしたら、彼がしているのはメカニカルで流れ作業的な「虐殺」にすぎない。
武道がめざしているのはそのようなものではない。
単独では決して達成することのできない「秩序」の顕現を求めて、私たちは動くのである。

2007.04.24

磯江毅さんの展覧会に行く

磯江毅さんの展覧会(「存在の美学」)を見になんばの高島屋に行く。
磯江さんは山本画伯のスペイン苦学時代の友人で、写実主義の画家である。
絵を拝見するのははじめてである。
順繰りに6人の画家の作品を眺めてから、山本画伯と磯江さんにシロートの適当な感想を申し上げる。
写実絵画からは腐臭がする。
どうしてかしらないけれど、写実が端正で緻密であればあるほど、そこに描かれているものから腐臭や屍臭に似たものが漂ってくる。
それがぼくはわりと好きなんですけどね、と申し上げる。
磯江画伯がぐっと膝を乗り出して「そうなんですよ」と言う。
「写実主義の絵画には時間が塗り込められていますから。」
それはどういうことですか、とお訊ねする。
写実画はものすごく時間がかかるのだそうである。
今回出品されていた葡萄の絵の場合、制作に一月かかっている。
葡萄は当然腐る。
腐ってどんどん形態が変わってしまっては写生できないので、腐った葡萄の粒をもぎ棄てて、買ってきた似たかたちの葡萄を粒を接着剤で貼り付けて、続きを描く。
描き終わったときには、描き始めたときに描いた葡萄はもう一粒も残っていない。
絵に描かれた葡萄のかたちは瑞々しいのだが、最初に皿の上にあった葡萄はすべて腐って、画架の前から姿を消してしまったのである。
だから、この絵の中には、そこにはもう存在しないいく房もの腐った葡萄の残存臭気のようなものが塗り込められている。
「静物」のことをフランス語ではnature morte と言う。「死んだ自然」である。
写実画は「死んだ自然」を描く。
それが人間であれ、果物であれ、風景であれ、そこにある自然のかなりの部分は画家が描き始めてから描き終えるまでの時間の流れの中で変質し、腐敗し、枯死している。
だから写実画からは「絵の具の塗り方が緻密であればあるほど(つまり、制作に時間がかかればかかるほど)腐臭がしてくる」という私の印象はけっこういいところを言い当てていたのである。
磯江画伯自身もカタログにこう書いている。
「対象物を正確に表現するためには時間がかかります。有機物は腐り、モデルは動き、無機物にも埃がたまり、時の経過を表します。更に作家自身の感情も常に揺れ動いています。現実は流動していると言う事を体感するのは肉眼だからです。そんな時間を含んだ揺れる現実を体感することがリアリティー(=実感)に触れるという事ではないでしょうか。」
私はこれまで抽象画と具象画の差異というのを形象的な違いとしてしかとらえていなかったけれど、「時間」ということをキーワードにすると、別のとらえかたがあるような気がしてきた。
抽象画(山本画伯のような)の場合、最終的に絵の質を担保するのは「バランス」である。
画布の中にどのような形象がどのような色彩で描かれていようと、私たちはそこに「バランス」を探す。
もちろんどんな形象にも「それなりのバランス」はある。
けれど、「死んだようなバランス」と「生きているバランス」の違いはある。
「動的均衡」(dynamic equilibrium)というのが生命体の本質である。
「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」というシェーンハイマーの言葉を引用したあとに福岡先生はこう書いていた。
「秩序は守られるために、絶え間なく壊されなければならない。」
私の家は山本浩二ギャラリーでもあり、壁には5点彼の作品が架かっている。
私が山本君の絵を身近に置くことを好むのは、それがある種の「動性」をはらんでいるからである。その画布の近くを通るときに、ある種の浮遊感のようなものを感知する。
絵の中の形象的バランスと、その絵の前を歩く私自身の生体としてのバランスのあいだにかすかな「ずれ」が生じ、それが「和音」を生み出すことで解消する。
たぶんそういうことではないかと思っている。
より高次の秩序を作り出すための一時的な破調。
たぶんそれが彼のタブローに私が託している生物学的な意味なのだと思う。
あるいは抽象画と写実画は本質的に違う方向を向いているのかも知れない。
抽象画は「動的均衡」をつまり生命の賦活を志向し、具象画は「完全な均衡」すなわち熱死状態の局所的な実現を志向する。
エロスとタナトス。
もちろん抽象画でもイメージを図像に変換するためには一定の時間がかかるから、そこで何かが腐ることはありうるだろうし、具象画も作家がバランスを配慮するたびに生命的な動的均衡が導入される。
その葛藤と対立の緊張のうちにあるいは美的なものは棲まうのかも知れない。
さらに亀寿司中店に河岸を変えて、引き続き「絵画にとって美とは何か」という本質的な問題について語り続ける。

音楽が「時間」意識の涵養のための技芸であるというのは私の持論である。
孔子のいう君子の「六芸」とは礼・楽・射・御・書・数である。
音楽の演奏と鑑賞が二番目に来ているのは、音楽が時間意識を発達させる上できわめて重要な営みだからである。
けれども、ここに「画」は含まれていない。
ユダヤ教には「偶像をつくってはならない」という重要な禁忌がある。
対象を視覚的に把持することは、世界を一望俯瞰的=無時間的にとらえることであり、これは主体にある種の全能感を与える代わりに、時間意識の発達を阻害する。
ユダヤ教はこれを禁じたのである。
しかし、「書」は儒家もモーセも許した。
書については、アブラハム・アブラフィアのカバラーに不思議な儀礼があった。
一夜端座して決められた聖なる文字を書くのである。
何時間もえんえんと書き続ける。
そのうちに瞑想状態に入る。
そして、神のヴィジョンを見る・・・という神秘主義的儀礼である。
孔子のいう「書」にもそういう呪術的側面が含まれていたのであろうか。
わからないけど、絵画を「鑑賞する人間」の側からのみ見て、「制作する人間」の側に立たないことで構造的に見落としてしまう要素があったということを教えていただいた。
それは「制作に要する時間」である。
作家にとっては、この「時間」をどう生きるかということが死活的に重要だということを私たち鑑賞者は気づかない。
だから、「美術は無時間的な営為である」という断定にうっかり頷いてしまったのである。
どこに行っても、誰に会っても、教わることばかりである。

磯江さんたちの展覧会は24日(わ、今日だ)までなんば高島屋6Fのギャラリーでやってます。5月9日から15日までは京都の高島屋。5月23日から29日まで横浜高島屋。6月6日から12日までJR名古屋の高島屋。6月20日から26日まで新宿高島屋。見に行ってくださいね。

2007.04.25

世間の人は何を考えているんだろう

不思議なオッファーが二つ来る。
一つは「日本文藝家協会」からの「推薦入会のお勧め」。
日本文藝家協会は「作家・劇作家・評論家・随筆家・詩人・歌人・俳人など」2500名で組織される職能団体で、言論表現の自由の確保、著作権の擁護・確立、印税等不払い取り立て、文芸美術国民健康保険組合、税対策、法律相談など物書きが遭遇するであろうさまざまな職業上の困難を集団的にヘッジしようという団体である。
これからは相互扶助・相互支援の中間共同体を充実させて、原子的孤立と行政への依存から脱却しよう、ということをこのところ論じているので、こういう職能団体が活発に活動されることはたいへん好ましいことである。
だが、どうしてまた私に。
お手紙を見たら、この協会は二名の推薦(うち一名は理事)がないと入会できないだそうであるが、私は二名の理事からの推薦を頂いたらしい。
日本の物書き稼業で関川夏央と三浦雅士ご両人に「うちのクラブに入らないか」と勧誘されて断ることのできる人間はいないであろう。
問題は私が「文藝家」という呼称にふさわしい人間であるかどうかの定義の問題である。
私は「評論家・随筆家」というあたりに分類されるのであろうが、これはどうもなじみの悪い呼称である。
いずれ大学を退職して肩書きを失ったときに、「エッセイストのウチダさん」なんて紹介されたら私はその場で悶絶するであろう。
さいわい、私の場合は所属団体が二つあるので、定年後は「多田塾甲南合気会師範」と「甲南麻雀連盟総長」と名刺に刷ることにして安心していたのだが、このような肩書きの人間を「文藝家」として遇することは果たして日本の常識に適うのであろうか。
私はいささか懐疑的である。
もう一つのオッファーは私の著作を「テレビドラマ化」する企画があるのだが・・・という某テレビ局からのお申し出である。
これにはものに動じない私も驚いた。
そのような破天荒な企画を思いつく人がいるとは思わなかった。
まことに世間は広い。
とりあえず「オッケー」の返事をしておく。
とはいえ、実現の可能性について私は懐疑的である。
テレビ画面から態度の大きなおじさんがひたすら長説教するようなドラマを見たがる視聴者が存在するとは思えぬからである。
でもないか。
彼の地には「説教王」サミュエル・L・ジャクソンの例もある。
『コーチ・カーター』ではもろに全編説教であったから、サミュエルおじさんの「説教フェチ」(私もそうだ)の観客はたまらなかったであろう。
『Snakes on a plane』(今年最高のバカ映画)でも、いちばん印象的なスティールは「電話を片手に蛇を相手に説教をかましている(ようにみえる)サミュエルおじさん」の凛々しい姿であった。
意外にこれからは「クリスプな説教をばりばり滑舌よくかますおじさん」がフォトジェニックな時代なのかもしれない(なわけないか)。

2007.04.27

街場の中国論もうすぐ発売

『街場の中国論』の販促活動がフライング気味に進行している。
水曜には140Bのボス、「中島淳」と書いて「なかじまあつし」と読むナカジマ社長がミシマくんとミシマ社のホープ営業のワタナベくんを引き連れて大阪の書店めぐりをした。
この本を大ヒットにする戦略を書店サイドと協力して起案されているそうである。
140B的にはそれがどういうビジネスチャンスになるのかわからないけれど、おそらくナカジマ社長の頭の中では算盤が高速回転されているのであろう。
『街場の中国論』が書店サイドからもそれだけ期待されているというのはうれしいことである。
みなさまのためにここで「あとがき」をご紹介しておこう。

 最後までお読みいただいてありがとうございます。
 いかがでしたでしょうか。『街場の中国論』。
 書いた本人が言うのも何ですけれど、読み返して見て、ひさしぶりに面白いものを読んだなあという満足感を覚えています。
「まえがき」にも書きましたけれど、この本はお二人の中国人のゲスト聴講生以外は「中国の専門家が一人もいない大学院生たち」が集まって、わいわいと議論したときに私が思いつき的に口走ったことを素材にして、そのあとに調べたことを多少書き加えてみたものです。
「中国問題の専門家が一人もいない」というのがよかったのだろうと思います。中国問題の専門家の方には申し訳ないですけれど、専門家の方々はどうしても「ピア・レビュー」(同業者による査定)をつねに念頭に置いてお仕事をされています。「これほど重要な資料にあえて言及されていないのはどういう配慮によるのであろうか」とか「その理説はすでに30年前に完膚なきまでに論破されたことをまさか失念されたとは思われないが」とか、まあ、そういう「つっこみ」が必ずあるわけですね。そういう「つっこみ」に対してきちんとガードを張ることはもちろんたいせつなことであろうとは思うのですが、素人からすると、そういう「揚げ足をとられぬように脇を固める」というような防災仕事に時間とエネルギーを割くのはなんだかもったいない気がします。それだけの専門的知見がおありになるなら、それを縦横に駆使して、素人が絶対に思いつかないような中国論の「ビッグピクチャー」を描いてはいただけないものか・・・という不満が私には(ちょっと)ありました。
かつては白川静先生や吉川幸次郎先生のような、頬がほてるような知的高揚をもたらす中国研究をなされた学者はいらしたわけですけれど、それに準じるレベルの中国研究を私は久しく読んだ記憶がありません。むろん、私が無知なだけかも知れません。でも、「・・・の中国論、読んだ?」というような話題が大学の同僚たちとの間で盛り上がっていたというようなこともこのところなかったようですし。
とにかく、こちらは素人ですから、専門家に何を言われても「あ、そうですか。すみません」でおしまいです。別にそれによって「バカ」の烙印を押されても、何の実害もありません(だって、中国研究で飯喰ってるわけじゃないから)。そのような「素人の気楽さ」がこの本には横溢しております。
そんなふざけたことが許されてよいのか、とお怒りになる方もおられるかも知れませんけれど、私は中国研究の専門家が余技に専門外の「レヴィナス研究」を書かれても、「武道論」を書かれても、絶対に怒ったりしません。それで「トレードオフ」ということにしていただけませんでしょうか。だめですか?
私は自分が読みたいものがないときは「自分で書く」ということにしております。武道論でも教育論でも映画論でもユダヤ人論でも、「こういうことを書いた本が読みたいなあ」と思ったときは面倒がらずに自分で書くことにしています。
2005年の春には「日中の世界像の〈ずれ〉を中心的な論件にした中国論が読みたい」と切実に思っていたのですが、残念ながら注文通りの本が見あたらず、しかたがないので、大学院の「比較文化」の演習で一年間そのことばかり話していたのでした。
この中国論は「私に読ませるために書いた本」ですから、私が読んで面白いのは理の当然です。
そんな自己満足的な本は読みたくないねと思う方もおられるかも知れませんが(でも、「あとがき」まで来てしまったということは、心ならずも読み終えてしまったということですね。申し訳ありません)、私は読者としてはたいへん注文の多い人間で、たぶん平均的読者のみなさんよりはこの本についての要求水準はずっと高いと思います。
なにしろ、「私がすでに知ってることを書いたら許さない」というのが条件なんですから。
だから、この本の「面白いところ」(私が「面白い」と思ったところと、みなさんが「面白い」と思ったところは、だいたい同じだと思います。そうだといいんですが)には「私が知らないこと」が書いてあります。
「私が知らないこと」というと誤解を招きそうですけれど、この本を書く前から私が知っていたことは、私自身が改めて読まされても「面白い」という反応をすることはは原理的にありえません。また、この本を書く過程で私自身にしっかり血肉化してしまったことも、今となっては「そんなの当然だろ」と思ってしまうわけですから、やっぱり面白いはずがない。ということは、私にとって「面白い」箇所は、書く前にはそんなことを考えたことがなく、書き終わったあとは忘れてしまったこと、ということになります。論理的にはそうですよね。書いている最中に「ふっと」思いついて、ごりごり書いて、そして書き終わって「やれやれ、風呂にはいってからビールでも飲むか」と思ったと同時に忘れてしまったこと。つまり、今読むと「誰か他の人が書いているように思えること」だけが「面白い」という反応をもたらす箇所だということになります。
そういう箇所がこの本にはけっこうたくさんあります。
理由の一つはこの本の大部分は、ブザンソンのホテルの一室に二週間こもってこりこり書いていたものだからです。外国の街の、(夕方になってブルノくんが「センセイ、合気道のお稽古に行きましょう」と誘いに来るまで)訪れる人とてないホテルで書いていたという特殊な事情が与っているはずです(ブルノくんは10年ほど前からの私の合気道弟子であるブザンソンの青年です)。そういう種類の集中がもたらす「憑依状態」の中で書いたことは、どこか「外部」から到来した声のような気がします。そして、どんなテクストについても、歳月が経ったあとに、なお腐らずに残るものがあるとしたら、そういう「外部からの声」を書きとどめておいた箇所だけではないかとも思うのです。あと10年くらいして、この本を読み返してみたときに、どの箇所が「腐らずに」残っているか、それを確かめることができます(全部腐って使い物にならなかった・・・という可能性も払拭できませんけれど)。とりあえず、本書をお買い上げになったみなさんは、10年後にもう一度開いてみてくださるようにお願いをいたします。
最後まで読んで下さってありがとうございました。三島くんとの二人三脚の「街場シリーズ」はこのあとも(どちらかが音を上げるまで)続く予定です。次は「街場の教育論」、その次は「街場の家族論」です。そちらもどうぞよろしくお願いします。

5月中頃には書店に並ぶはずである。みなさん買ってね(と書いたあとにミシマくんからメールが来て、書店に並ぶのは6月初旬の由。あと1月待ってください)

2007.04.29

対立するものを両立させる

対立するものを対立したまま両立させることが「術」である、ということを前に甲野善紀先生から伺ったことがある。
なるほど、とそのときは深く納得したのだが、どう「なるほど」なのか実はよくわからなかった。
そういう言葉は小骨のように喉に刺さる。
魚の小骨はいつか溶けて消えてしまう。本人が気づかないうちにちゃんと唾液が多めに分泌されて溶かしてしまったのである。
同じことは知的な意味での「小骨」についても起きる。
どうも腑に落ちなくて、気になって仕方がないことがあると、「気になること」に関連するできごとに遭遇するチャンスが増える。
「あ、あれは『このこと』だったのか」ということに気づく機会が(それがつねに解決をもたらすわけではないが)増える。
「対立したものを対立したまま両立させる」のは何のためなのか。
そのことを久しく考え続けていた。
『私家版・ユダヤ文化論』の終わりのほうに、そのことの関連してこんなことを書いた。
「強迫自責」(愛している人が死んだときに、自分はその人の死に責任があると思い込むこと)についてのフロイトの学説を祖述しているうちに、「強迫自責」を抱え込んだほうが、そうでない場合よりも死者に対する「愛情」が強化される、ということに気づいた。
愛する人が死んだときに、私たちは誰でも「もっと生きているあいだに愛しておけばよかった」という悔恨にとらえられる。
私はあの人のことを「こんなにも豊かに愛していた」という愛情の十分性を証す事実は少しも思い出されず、むしろ、「あのときにこうしてあげればよかった・・・あのときにはこう言ってあげればよかった・・・」というような愛情の不十分さの事例だけが選択的に想起される。
それがさらに亢進すると、私たちは「もしかすると、私はあの人の死をひそかに願っていたのではないか・・・」という自責に襲われる。
そんなことがあるはずがないのに、そういう自責にとらえられる。
愛情が深ければ深いほど、強迫自責は深く私たちを絡めとる。
そのような自責に私たちは耐えることができないから、それを否定するために、自分がどれほどその人を愛していたのかを思い出そうとする。
「実は愛する人の死を望んでいたのではないか・・・」というような毒性の強い疑念を否定し尽くすためには、大量の愛情が備給されねばならない。だから、「私はもしかすると愛する人の死をひそかに望んでいたのではないか」と思いついたことによって、結果的に私たちの無意識のうちには奔流のように愛情があふれ返ることになるのである。
対立があるときの方がないときよりもシステムは活性化する。
「弁証法」と呼ばれるのはそのプロセスのことである。
活性化ということに焦点を当てて考えると、ある能力や資質を選択的に強化しようとするときには、それを否定するようなファクターと対立させると効率的である。
経験的には誰でも知っていることである。
「対立するものを対立させたまま両立させる」のは、二つの能力を同時的に開花させるためには、それらを葛藤させるのがもっとも効果的であるからであろう。
土曜日に合気道の稽古をしているうちに、そのことに気がついた。
前にも書いたとおり、運動の精度を上げるためには、できるだけ身体を構成している粒子を「未決定」状態に維持しておかねばならない。
「平方根の法則」によって、自由に運動する粒子の数がふえればふえるほどシステムの誤差率は下がる。
「居着き」を武道が嫌うのは、身体が凝固して、運動の自由度が下がり、可動域が限定されると、それにともなって運動の精度が下がるからである。
しかし、だからといって、それは「完全なリラックス」を実現するということではない。
身体の完全な自由を求めると、どこかで「アナーキー」の境界線を越えてしまうからだ。
ジャッキー・チェンの『酔拳』はその好個の適例である。
「適度に酔って身体の居着きから解放された状態」においてはたしかに運動の精度は向上するが、酔いすぎてしまうと、足腰立たなくなって、運動そのものが成り立たなくなる。
自由ではあるが、ある種の秩序の内側にいること。これが運動が最適精度を維持するための条件である。
だが、「自由」であることと「秩序の内側にいる」ことは当然ながら対立する。
けれども、この対立を対立したまま両立させなければ武道的な動きは成り立たない。
多田先生はかつて「動きの終わった状態に向かって自分を放り込む」という表現をされたことがあった。
光岡先生は「リールが釣り糸をたぐりよせるように動く」という言い方をされたことがある。
これはどちらも「未来がすでに既決であるかのようにふるまう」ということである。
しかし、運動の精度を上げるために「できるだけ決定を先延ばしにする」のはマイクロ・スリップ理論の基本である。
イチローのバットは、細かに揺れ動きながら、最適のヒッティングポイントを求めてインパクトの直前まで「ためらって」いる。
あたかも未来がすでに決定しているかのように「決然と動く」ということと、運動の方向や速度を最後まで未決定のまま「ためらいながら動く」、ということはどう考えても矛盾する。
けれども、運動の精度を上げるためには、この矛盾する要請に同時に応えなければならない。
おそらく「矛盾」という古語の原義もそこにあったのだと思う。
「あらゆる盾を貫く矛」と「あらゆる矛をはね返す盾」は両立しえない。
けれども、この二つの武具を並べて売っていた武器商人は、この「矛盾」に耐えることを通じてしか武具の進化はありえないということを経験的には知っていたのである。
土曜の合気道では「四種類の転換」を集中的に稽古してみた。
これは片手を握ってこちらの動きを制してくる相手を四方に自在に方向転換させる術である。
接点において「インターフェイスの肌理を細かくする」のは複素的身体構成のために絶対必要なことである。
けれども、それだけに固執していると、相手の身体にぬれ雑巾が貼りつくような、べちゃべちゃした主体性のない動きになってしまう。
コヒーレンスを取り、アラインメントを合わせ、ある種の秩序を到成するためには、そこに「決然とした流れ」がなければならない。
その動線を描くことが宿命的に定められていたように、決然と動くことが必要である。
しかし、「決然と」というのは「自分勝手に」ということではない。
それでは私と相手をともに含む複素的=共身体は構築できない。
相手の身体と自分の身体の間で、求め合う動きと逃れ去る動きと追う動きが渾然一体となっているような状態を作り上げること。
それが技法上の課題である。
ということまではわかった。
そして、「技法上の課題」というのは、それをどう解決したらよいのか、その解決法が「まだわからない」ものである。
どう解決してよいかわかっているなら、それは「課題」とは言われない。
どう解決してよいかわからないけれど、それを解決しなければ先に進めないということまではわかった。
こういう状態にいるときがいちばんわくわくする。

2007.04.30

「株式会社という病」を読む

平川くんの『株式会社という病』(NTT出版)のゲラが届いたので、東京へ向かう新幹線の車中で読み始める。
平川くんはブログ日記で、この本を書くのにずいぶん苦労したと書いていた。
彼が「苦労する」というのはどういうことだろう。
言いたいことをはやばやと書ききってしまったので、残りの紙数を埋めるのに苦労するということは学生のレポートのような場合にはよくあることである。
だが、平川くんのような書き手の場合に「書くネタが尽きる」ということはありえない。
ということは、彼がこの本で「手馴れた道具」では論じることの困難な種類の主題を扱っているということである。
平川くんをして困惑せしめる主題とは何であろう。
一読して、その困惑が少しだけわかったような気がしたので、そのことについて書きたい。
彼は久が原の町工場の長男として育った。
その少年時代の親たちの働きぶりや、彼のまわりにいた工員たちの姿を活写するときの彼の筆致はのびやかで、ほとんどパセティックでさえある。
例えばこんなふうだ。
「当時、わが零細工場労働者たちは、自らの賃金を大企業のそれと比較して、羨訴の感情に訴えるということはあまりなかったように思う。妙な言い方かも知れないが、ここには『安定した格差』があった。
かれらにとってあちらはあちらであった。こちらの世界(=零細企業)はあちらの世界(=大企業)は、別の原理で働いており、それらを繋ぐようなものは何処にも見出すことはできなかった。
町工場の工員たちは、働き場所を中心とした半径1キロメートルの世界の中で、家計を営み、映画を見、パチンコをして遊んでいたように見える。この頃、わが家の近隣の町工場には、何故かどこにも卓球台があった。工員たちは暇さえあればよく、ピンポンをして歓声を上げていた。確かに、生活は貧しいが、則を越えずといった安定的な貧しさの中に、多くのひとたちが安住していたのである。
もちろん、これを今風に、因習的な旧弊だとか、格差の固定化などと批判することはできる。しかし、当時の零細企業の経営者や労働者たちが、奴隷のような負け犬根性で、隷属意識から抜け出せなかったなどと言って批判するとすれば、それはまったく的外れな批判になるだろう。かれらは、今日のような自己実現の夢を育もうとはしなかったかもしれないし、格差社会を意識するといったことはなかったかもしれないが、それ以上に、かれらの世界には安定した倫理観と、生活上の慰安があったというべきだろう。」(75-76頁)
よい文章である。
平川君が「平川精密」の人々を回顧的に描くときの文章がぼくは好きだ。
「労働者」というのはヒラカワ少年にとって概念ではなく、実際にその体温と手触りと歓声を含んで身体化されたものだからである。
いまの日本の書き手の中で「零細企業の工場労働者のエートス」について、実感の裏づけのある文章を書ける人はほとんどいないだろう。
けれども、彼の文章が「いい文章」であるのは、単に彼が自分の書いている対象を熟知しているからだけではない。
彼が1950年代の大田区の町工場の経営者や労働者の風貌を描くときの筆づかいは「ややパセティック」になる。
それは、彼が少年時代においてすでに「社長の坊ちゃん」として、高等教育を受けて、この圏域から脱出することを期待され、義務づけられていからだとぼくは思う。
十歳のヒラカワ少年は彼が愛するその町工場を後にして、「あちらの世界」に進まねばならないことをもう感じ取っていた。
彼が工場のグラインダーや裁断機を使って遊ぶことを好んだのは、やがてそれを扱うことが彼自身の職業になるだろうと思っていたからではなく、それとは無縁の世界にいずれ押し出されてゆくだろうということを予感していたからである。
町工場から出て行き「あちらの世界」に参入することは、彼の選択ではなく、「彼らの希望」であったから、それに「ノー」ということは考えられないことだった。
それが彼が「下町」や零細企業労働者や、総じて『芝浜』的なるものを記述するときに、決して平板で浮薄な「貧乏自慢」に堕すことのない理由であるとぼくは思う。
彼は心のどこかであの労働者たちを「安定した格差」の中に取り残して「国際派ビジネスマン」になってしまった自分自身に「疚しさ」を感じている。
もちろん、彼は少しも「疚しいこと」などしてはいない。
けれども、「疚しさ」を感じることは止められない。
だから、この本で彼はグローバリズムの時代の経営者の視野狭窄を論難し、「未来はバラ色」的なビジネス進化論を一蹴するけれど、「逝きし日の労働者の生活倫理へ還れ」というような対案を提示することはしない。
そんなことは彼にはできない。
問題はもっと複雑なのだ。
ぼく自身はパートナーとして零細企業経営者としての平川君を身近に見る機会に恵まれていたので、彼の経営者としての野心を知っている。
それは「町工場のおやじ」的なスタンスがどれほどビジネスシーンで有効であるかを、文字通り身体を張って論証しようとしていたことにある。
ぼくたちの作った会社には間違いなく濃密に「町工場」的雰囲気が漂っていた。
ぼくたちは「精度の高い廉価な商品」をてきぱきと提供することで大企業のシステムの末端にビルトインされていたけれど、生活上の慰安は売り上げの増加や賃金の上昇以外のところにあった。
ぼくたちは革ジャンにバイクで商品のデリバリーにでかけ、終業後には連れ立って映画やコンサートに行き、休日には多摩川で野球をしたり、ツーリングに行ったり、麻雀をした。
会社というのは、休み時間に人々が「ピンポンで歓声を上げる」ような場所でなければならない、というのがヒラカワ社長の変わることのない信念であった。
けれども、「町工場」的エートスは会社がある程度の規模になり、ある程度の売り上げに達すると、いつのまにか消えた。
一流大学を出て、一流のキャリアをもつ人々が入ってきて、てきぱきと仕事を片付けて、売り上げを立てて、シビアな人事考課をしているうちに会社は誰も「歓声」を上げない場所になった。
それはぼくも見てきたからよく知っている。
平川君は自分の作った会社が「歓声の上がらない場所」になると、急速に「やる気」をなくして、新しい会社を興して、そこに「理想の町工場」を実現しようとして・・・ということをこれまでに何度か繰り返してきた。
それは「何度か繰り返した」という歴史的事実が示すように、成功することの困難な企てであった。
この本を書くことに彼が困難を感じたのは、そのせいだろうとぼくは思う。
彼は「平川精密的なもの」が国際的なスケールのビジネスにおいても汎通的に実現可能であることをこれまでも望んできたし、たぶんこれからもそれは変わらないだろう。
それがどれほどむずかしいことか彼はもちろん熟知している。
ぼくがこの本には「パセティック」なところがある、と書いたのはそういう意味である。


About 2007年04月

2007年04月 にブログ「内田樹の研究室」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは 2007年03月 です。

次のアーカイブは2007年05月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。