生物と無生物のあいだ

2007-04-21 samedi

福岡伸一先生の新著『生物と無生物のあいだ』(講談社新書)を読む。
あまりに面白くて、どきどきしながら一気読みしてしまう。
みなさんもぜひ買って読んで下さい(でも、残念ながらまだ店頭にはありません。五月新刊なのであと少しお待ちを。私は帯文を書くために原稿のハードコピーを読ませていただいたのです)。
理系の人の書くものは面白い。
養老孟司、池田清彦、茂木健一郎、池谷裕二、佐々木正人、スティーヴン・ストロガッツ、ジュリアン・ジェインズ、リン・マクタガード・・・どれも「がつん」とくる。
一方、社会学の人や歴史学の人や心理学の人の本で読んで「はっ」と胸を押さえるというような刺激的なものにはこのところ出会っていない(私のアンテナにヒットしないだけで、どこかにスケールの大きな社会学者がいるのかも知れないけれど、残念ながら、まだ出会う機会がない)。
理系の人の文章はロジカルでクールで、そのせいで「論理のツイスト」がきれいに決まると、背筋がぞくっとする。
文系の人間の文章は(私の書くものを含めて)、どうしても修辞過剰になり、表層にあれこれの「仕掛け」が多すぎて、ロジックそのものの構成的端正とその破調という「大技」を繰り出すことにはいささか不向きである。
福岡先生の新刊はDNAについての学説史の祖述にその過半を割いている。
学説史の祖述を読んで「どきどきする」ということがあるのだろうか?
これがあるのですね。
もちろん素材そのもの(「二重らせん」理論の前史とその後の展開について)がスリリングだということもあるのだけれど、福岡先生の文体が「ロジカルでクール」に加えて「パセティック」だからである。
「ロジカルでクールでパセティックな学説史」を私は中学生の頃に一度だけ読んだ記憶がある。
レオポルド・インフェルトの『神々の愛でし人』である。
数学者エヴァリスト・ガロアの短く浪漫的な人生を描いたこの伝記に出てくる「群論」とか「五次方程式」とか「冪数」(「べきすう」と読むのだよ)いう言葉の意味は私にはもちろん意味不明だったけれど(だいたい私は中学の数学でさえあまり理解できていなかった)息が苦しくなるほど興奮したことを覚えている。
この本はインフェルトがガロアに捧げたように、福岡先生がオズワルド・エイブリーとルドルフ・シェーンハイマーとロザリンド・フランクリンいう三人の「アンサング・ヒーロー」(unsung hero、すなわち「その栄誉を歌われることのない、不当にも世に知られていない英雄」)に捧げた本である。
その点がこのクールな本に「パセティック」な室温を賦与しているのだけれど、この本の「すごい」ところはそこには尽くされない。
推理小説をまだ読んでいない人にいきなり真犯人を教えてしまうようでいささか気が引けるがが、この本の最大の魅力は福岡先生がこの三人の(ノーベル賞をもらうはずだったのに、あとから割り込んで来た学者にさらわれてしまった真のイノベーター)の生命研究者の学者としての「ふるまい」のうちに「生命のふるまい」そのものを見ていることにある。
遺伝子を扱う人々のふるまいが遺伝子そのもののふるまいと二重写しになっているのである。
「二重らせん」を発見したワトソンとクリックは「でこぼこコンビ」で行動するとそうでない場合よりもパフォーマンスが高いことを実証してみせた。
「DNAは日常的に損傷を受けており、日常的に修復がなされている。この情報保持のコストとして、生命はわざわざDNAをペアにしてもっているのだ。」(「サーファー・ゲッツ・ノーベルプライズ」)
この文の「DNA」を「生物学者」に置き換えると、「二重らせん」の発見者たちのペアが顕微鏡写真の中にそれと知らずに「自分たち自身の肖像」を透視していたことがわかる。
福岡先生の学説史は生物学者たちがどのように離合集散し、どのようにペアを組み、どのように実証と理論を分業し、先行する理論の損傷を補填してより安定性のよい理論を構築するかをたんねんに追ってゆくのだが、彼らが追っているのは「遺伝子を構成する分子たちがどのように離合集散し、どのようにペアを組み、どのように分業し、先行する単位の損傷を補填してより安定性のよい生命構造を構築するか」という謎なのである。
もちろん福岡先生はそんな「種明かし」はしてないけれど、「そういう話」なのである。
かつてアンドレ・ブルトンは『ナジャ』の冒頭にこう書いた。
「私が誰であるか (ce que je suis) を知りたければ、私が何を追っているか (ce que je suis) を知ればよい」(違ったかもしれない。誰か覚えている人がいたら教えてね。でも、だいたいそういうことである)
まことにブルトンのいう通りである。
福岡先生はそれをひっくり返して、「もし科学者たちが自分の追っているものの正体を知りたければ、自分が何であるかを知ればよい」と言っているのである。
私が夜半に原稿を読みながら、「ぶふっ」と白ワインを噴き出してしまった理由もおわかりになるであろう。
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