分子生物学的武道論

2007-04-22 dimanche

昨夜読んだ福岡伸一先生の本の中に「武道的に」たいへんどきどきする箇所があったので、それを早速合気道の稽古に応用してみることにした。
それはトラバでM17星雲さん(ごぶさたしてます)が言及している箇所と同じところなのだが、「どうして原子はこんなに小さいのか?」というシュレディンガーの問いについて書かれたところである。
どうして原子はこんなに小さいのか?
これは修辞的な問いであって、実際の問いは「どうして生物の身体は原子に比べてこんなに大きいのか?」と書き換えねばならない。
原子の直径は1-2オングストローム(100億分の1メートル)。
つまり、仮に1メートル立方の生物がいたら(そんなかたちの生物見たことないけど)は原子の100億の3乗倍の大きさがあることになる
でかいね。
どうして、生物はこんなに大きいのか?
理由を福岡先生はこう書く。

「原子の『平均』的なふるまいは、統計学的法則にしたがう。そして、その法則の精度は、関係する原子の数が増すほど増大する。
ランダムの中から秩序が立ち上がるというのは、実にこのようにして、集団の中である一定の傾向を示す原子の平均的な頻度として起こることなのである。」(「原子が秩序を生み出すとき」)

こう書いてあるのだけを読めば「あ、そう」とみなさんも思うだろう。それが何か・・・
でも、すごいのはこの先である。
原子はランダムに行動する。
微粒子を空中に分散させると、あちこち揺れ動きながら、最終的には重力の影響を受けて、「平均的に」は下方に落下する。
しかし、それはあくまで「平均」を取った場合のことであって、大半の粒子が重力方向に落下しているときにも、少数ではあるが必ず重力に逆らって上昇している粒子が存在する。
平均から離れてこのような「例外的ふるまい」をする粒子の数は実は統計学的に決まっている。
平方根の法則というものが存在する。
百個の粒子があれば、その平方根(ルート100)すなわち10個の粒子は例外的なふるまいをするのである。
これは純粋に統計学的な規則なのである。
さて、ここに100個の原子からできた生物がいたとする。
この生物の構成原子のうちの10個はつねに例外的にふるまう。
だから、「この生命体は常に10%の誤差率で不正確さをこうむることになる。これは高度な秩序を要求される生命活動において文字通り致命的な精度となるだろう。」
なるほど。
で、他方に原子数100万個の生命体があったとする。
平均からはずれる原子の数はルート100万すなわち1000個である。誤差率は1000÷100万=0.1%。
一気に誤差率は減少する。
生命体が原子に対して巨大である理由はここにある。
それは生命体が生き残るために必要な精度を高めるためなのである。
私はこの箇所に真っ赤に線を引きながら「おいおい、これって武道の話じゃないのか」とひとりごちたのである。
誰でも経験的に知っていることであるけれど、緊張すると運動の精度は下がる。
恐怖や焦慮で足が居着き、身体がこわばっていると生命体の運動精度はどんどん下がってゆく。
それは「揺れ動く粒子」の数がそれだけ減っているからである。
武道では「敵を作ってはいけない」ということを繰り返し教えられる。だが、この言葉の意味をほとんどの人は精神的な訓話だと思っている。
それは違う。
「無敵の探求」にも書いたことだけれど、「敵を作らない」というのは純粋にテクニカルなことである。
「揺れ動く粒子の数を高どまりさせておく」というのが生命体の諸器官が高いパフォーマンスを維持するためには必須であり、それは言い換えれば「生き延びる上で必須」だということである。
だが、因習的な「敵-主体スキーム」を採用すると、私たちは敵対的な場面において、自動的に自分の身体を「攻撃部分」(揺れ動く部分=遊軍)と「防禦部分」(動かない部分=陣地)に分割して、固定化しようとする。
「敵」に対する恐怖や猜疑が強まるほど、運動している粒子数は減り、運動精度は下がる。
だから論理的に言えば、100%リラックスしているとき、私たちの敵を殺傷する運動精度は最大化するのである。
伝説的な殺人者(ハンニバル・レクターとか)は殺人の最中もまったく脈拍数も体温も変化しないらしい(フィクションだからね)。
でも、理論的にはその通りなのである。
では武道はレクター博士みたいな人を作り出すための修行かと言うと、そんなはずがない。
武道はもっと「欲張り」である。
運動精度をもっと上げることはできないかと考えるのである。
自分の身体を構成している原子の量には限界があるから、ある程度以上「揺れ動く粒子」の数は増やせない。
でも、「目の前」に等量のストックがある。
相手の身体である。
相手の身体と自分の身体を「同体」として再構築した場合、その身体の構成粒子数は倍になる。
この二つの身体を「複素的身体」として100%リラックスした状態にもってゆくことができれば、運動精度は私が単独で行動しているよりも飛躍的に高まる。
理論的にはそうだ。
そして、やってみるとわかるけれど、実践的にもそうなのである。
古武道の形稽古では、取りと受けはそれぞれ単独で動いているよりも、激しく打ち合っているときの方が動きが速く、滑らかになる。
空中に何の抵抗もない状態で剣を素振りするよりも、相手が受け流すところに剣を打ち込む方が、剣そのものの動きは速く滑らかなのである。
体術の場合はもっとはっきりそれがわかる。
気の感応が高まり、体感が一致すると、二人の人間が作り出す動きは、単体で動いている場合にはありえないような精度を達成する。
単体の身体運用では実現できない種類の「身体の理」がそこに顕現するからである。
武道修行の目的はそこにあり、そこにしかない、と申し上げてもよろしいであろう。
武道的な身体運用ができる人間は身を修め、家を済し、国を治め、天下を平らげることができると古来信じられてきた。
それが戦国時代に武道がプロモーションシステムとして採用されてきた理由である。
殺傷技術にすぐれている人間にはしばしば政治的統治能力があるとみなされたのには共同主観的には合理的な理由がある。
それは他者の身体と感応して、巨大な「共身体」を構築する能力が戦場における殺傷能力と同根のものであることについての社会的合意があったからである。
私がずっと考えてきたことはそういうことなのであるが、でも、どうして共身体の構成数が増えるにつれて「秩序」の生成が精密化するのかの理由がうまく説明できなかった。
それが福岡先生の本の中に「平方根の法則」という言葉を見出して、長年の疑問が氷解したのである。
生命体を構成する揺れ動く粒子の数が増えるほど運動精度の誤差率は下がる。
だから武道的身体運用においてもし運動精度を高めようと思ったら、いかに自分がリラックスするかだけではなく、「いかに相手をリラックスさせるか」を考慮しなければならない。
相手が緊張して運動精度が最低になっている状態で、自分だけがリラックスして身体を使うことができる人間がいたとしたら、彼がしているのはメカニカルで流れ作業的な「虐殺」にすぎない。
武道がめざしているのはそのようなものではない。
単独では決して達成することのできない「秩序」の顕現を求めて、私たちは動くのである。
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