磯江毅さんの展覧会(「存在の美学」)を見になんばの高島屋に行く。
磯江さんは山本画伯のスペイン苦学時代の友人で、写実主義の画家である。
絵を拝見するのははじめてである。
順繰りに6人の画家の作品を眺めてから、山本画伯と磯江さんにシロートの適当な感想を申し上げる。
写実絵画からは腐臭がする。
どうしてかしらないけれど、写実が端正で緻密であればあるほど、そこに描かれているものから腐臭や屍臭に似たものが漂ってくる。
それがぼくはわりと好きなんですけどね、と申し上げる。
磯江画伯がぐっと膝を乗り出して「そうなんですよ」と言う。
「写実主義の絵画には時間が塗り込められていますから。」
それはどういうことですか、とお訊ねする。
写実画はものすごく時間がかかるのだそうである。
今回出品されていた葡萄の絵の場合、制作に一月かかっている。
葡萄は当然腐る。
腐ってどんどん形態が変わってしまっては写生できないので、腐った葡萄の粒をもぎ棄てて、買ってきた似たかたちの葡萄を粒を接着剤で貼り付けて、続きを描く。
描き終わったときには、描き始めたときに描いた葡萄はもう一粒も残っていない。
絵に描かれた葡萄のかたちは瑞々しいのだが、最初に皿の上にあった葡萄はすべて腐って、画架の前から姿を消してしまったのである。
だから、この絵の中には、そこにはもう存在しないいく房もの腐った葡萄の残存臭気のようなものが塗り込められている。
「静物」のことをフランス語では nature morte と言う。「死んだ自然」である。
写実画は「死んだ自然」を描く。
それが人間であれ、果物であれ、風景であれ、そこにある自然のかなりの部分は画家が描き始めてから描き終えるまでの時間の流れの中で変質し、腐敗し、枯死している。
だから写実画からは「絵の具の塗り方が緻密であればあるほど(つまり、制作に時間がかかればかかるほど)腐臭がしてくる」という私の印象はけっこういいところを言い当てていたのである。
磯江画伯自身もカタログにこう書いている。
「対象物を正確に表現するためには時間がかかります。有機物は腐り、モデルは動き、無機物にも埃がたまり、時の経過を表します。更に作家自身の感情も常に揺れ動いています。現実は流動していると言う事を体感するのは肉眼だからです。そんな時間を含んだ揺れる現実を体感することがリアリティー(=実感)に触れるという事ではないでしょうか。」
私はこれまで抽象画と具象画の差異というのを形象的な違いとしてしかとらえていなかったけれど、「時間」ということをキーワードにすると、別のとらえかたがあるような気がしてきた。
抽象画(山本画伯のような)の場合、最終的に絵の質を担保するのは「バランス」である。
画布の中にどのような形象がどのような色彩で描かれていようと、私たちはそこに「バランス」を探す。
もちろんどんな形象にも「それなりのバランス」はある。
けれど、「死んだようなバランス」と「生きているバランス」の違いはある。
「動的均衡」(dynamic equilibrium) というのが生命体の本質である。
「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」というシェーンハイマーの言葉を引用したあとに福岡先生はこう書いていた。
「秩序は守られるために、絶え間なく壊されなければならない。」
私の家は山本浩二ギャラリーでもあり、壁には5点彼の作品が架かっている。
私が山本君の絵を身近に置くことを好むのは、それがある種の「動性」をはらんでいるからである。その画布の近くを通るときに、ある種の浮遊感のようなものを感知する。
絵の中の形象的バランスと、その絵の前を歩く私自身の生体としてのバランスのあいだにかすかな「ずれ」が生じ、それが「和音」を生み出すことで解消する。
たぶんそういうことではないかと思っている。
より高次の秩序を作り出すための一時的な破調。
たぶんそれが彼のタブローに私が託している生物学的な意味なのだと思う。
あるいは抽象画と写実画は本質的に違う方向を向いているのかも知れない。
抽象画は「動的均衡」をつまり生命の賦活を志向し、具象画は「完全な均衡」すなわち熱死状態の局所的な実現を志向する。
エロスとタナトス。
もちろん抽象画でもイメージを図像に変換するためには一定の時間がかかるから、そこで何かが腐ることはありうるだろうし、具象画も作家がバランスを配慮するたびに生命的な動的均衡が導入される。
その葛藤と対立の緊張のうちにあるいは美的なものは棲まうのかも知れない。
さらに亀寿司中店に河岸を変えて、引き続き「絵画にとって美とは何か」という本質的な問題について語り続ける。
音楽が「時間」意識の涵養のための技芸であるというのは私の持論である。
孔子のいう君子の「六芸」とは礼・楽・射・御・書・数である。
音楽の演奏と鑑賞が二番目に来ているのは、音楽が時間意識を発達させる上できわめて重要な営みだからである。
けれども、ここに「画」は含まれていない。
ユダヤ教には「偶像をつくってはならない」という重要な禁忌がある。
対象を視覚的に把持することは、世界を一望俯瞰的=無時間的にとらえることであり、これは主体にある種の全能感を与える代わりに、時間意識の発達を阻害する。
ユダヤ教はこれを禁じたのである。
しかし、「書」は儒家もモーセも許した。
書については、アブラハム・アブラフィアのカバラーに不思議な儀礼があった。
一夜端座して決められた聖なる文字を書くのである。
何時間もえんえんと書き続ける。
そのうちに瞑想状態に入る。
そして、神のヴィジョンを見る・・・という神秘主義的儀礼である。
孔子のいう「書」にもそういう呪術的側面が含まれていたのであろうか。
わからないけど、絵画を「鑑賞する人間」の側からのみ見て、「制作する人間」の側に立たないことで構造的に見落としてしまう要素があったということを教えていただいた。
それは「制作に要する時間」である。
作家にとっては、この「時間」をどう生きるかということが死活的に重要だということを私たち鑑賞者は気づかない。
だから、「美術は無時間的な営為である」という断定にうっかり頷いてしまったのである。
どこに行っても、誰に会っても、教わることばかりである。
磯江さんたちの展覧会は24日(わ、今日だ)までなんば高島屋6Fのギャラリーでやってます。5月9日から15日までは京都の高島屋。5月23日から29日まで横浜高島屋。6月6日から12日までJR名古屋の高島屋。6月20日から26日まで新宿高島屋。見に行ってくださいね。
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(2007-04-24 10:59)