びっくり三題

2007-04-03 mardi

驚くことが三つあった。
一つめ。
選挙運動が始まったので、窓の下を連呼の声が通る。
うるさいなあと思いながら仕事をしていたら、突然「県会議員候補かどのぶおの娘でございます」という声が聞こえてきた。
いま県会議員をされている門信雄さんは私がるんちゃんといっしょに芦屋の山手町の山手山荘という古いマンションに住んでいたときのお隣さんである(その頃門さんは芦屋市議だった)。
その娘はれいこちゃんといって、るんちゃんと同い年で、ふたりはよく行き来して遊んでいた。
れいこちゃんはその頃は七つか八つか、それくらいのちびちゃんだったが、その子がもうお父さんの選挙運動の手伝いをして「父をよろしくお願いします」とマイクを握って沿道に手を振るようなお年頃になったのである。
転た、感慨に堪えぬのであります(@佐分利信 in『彼岸花』)。
るんちゃんにメールを送ると、すぐに「そうか〜。れいこちゃんも政治活動しているのか。私もしてるよ」という返事が返ってきた。
るんちゃんはバイト先のリサイクルショップの店長さんの区議選のお手伝いをしているのだそうである。
先日も書いたけれど、20代の女性の志向はどうも「1950 年代市民感覚」に向けて回帰傾向にあるように思われる(それが私の主観的願望でもあるのだが)

驚いたことの二つめ。
大学の事務室からメールが転送されてきた。
内閣情報調査室からのメールで、『下流志向』の件でウチダ先生にお訊きしたいことがあるので、早急に連絡を取りたいという趣旨のものである。
内閣情報調査室といえば日本のCIAである。
私はあの本の中で何か重大な国家機密をそれと知らずに漏洩してしまったのであろうか?
日本の子どもの学力低下や労働意欲の低下はグローバリズム・イデオロギーのせいだというあたりが政府要路の方々の逆鱗に触れたのであろうか?
どきどき。
とりあえず自宅メールアドレス、電話番号などを記したメールをお返しすると、五分後くらいに電話がかかってきた。
『下流志向』を読んで、たいへん興味深かったので、今後の社会政策立案の上で参考にしたいと思うというお話であった。
やれやれ。
どんどん参考にしてくださって結構ですとお答えする。
あの本の中でウチダ先生は「たがいに迷惑をかけ、かけられる相互扶助的な中間共同体の再建が急務である」とお書きになっていますね。まったくその通りだと思うのです。しかし、そういうことを行政の側が主導することは・・・
そりゃ、できませんわな。
行政に支援を望むより前に、まず弱者同士で支え合うべきだ、ということを行政が言い出したら、それは行政の側の責任放棄である。
それは国民の側から自発的に出てくるムーブメントでなければならない。
しかし、行政サイドがもっとも支援したいのは、実はそのようなムーブメントなのである。
地域における共同的な子育てや、「寺子屋」的な教育拠点の構築、あるいは弱者の相互扶助のための親密圏の構築、そういった運動が自然発生的、同時多発的に拡がることがいまの日本の窮状を救うために喫緊に必要である。
けれども、そのような運動は自然発生的・同時多発的でなければ意味がない。
そうである以上、それを行政が中枢的に管理することはできないし、管理すべきでもない。
いったいどのようにその運動を支援したらよいのでしょうか?と訊ねられたので、とりあえずモラル・サポート以上のことは行政にはできないでしょうが、それより、教育三法案の国会通過をなんとか止めてくださいよとお願いする。
教育を中枢的に管理するようなシステム作ったら、教育崩壊に拍車をかけることになりますよ、だいたいね・・・と教育問題についての政府対応にがみがみと文句をつける。
それはわかっておりますが・・・と先方はいささか困惑していたようである。
おお、すまないことをした。
別に内閣情報調査室が起案した法律じゃないんだよね。
聴くところでは、内閣情報調査室では、私のような「しもじもの」物書きのものなどもちゃんとチェックして、レポートにまとめて総理大臣に提出しているのだそうである(安倍さんはたぶん読んでないだろうけど)。

びっくりの三つめ。
岡本喜八のボックスを買ったので、『独立愚連隊西へ』を見る。
1960 年の映画である。
戦争が終わって15年。
この映画の中に出てくる35歳以上の役者たち(つまり主演の加山雄三と佐藤允以外のほぼ全員)とスタッフたちはみな軍隊経験者だということである。
1960 年から回顧する1945年というのは、2007 年時点で回顧する1992年のことである(バブル崩壊の年だね)。
つまり、『独立愚連隊西へ』は『Always三丁目の夕日』じゃなくて、『バブルへGO!』みたいな映画だ、ということである。
ということは、この映画の中で描かれている中国戦線での日本兵のありようは、「多少誇張はされているが、実相にかなり近いもの」とみなしてよいということである。
戦後生まれのフィルムメーカーたちによって作られた戦争映画に比べて、この「軍隊経験者の作った軍隊映画」はずっと「人間的」である。
たしかに戦争が人間を「鬼畜」にするというのはほんとうだろう。
けれども、人間である以上24時間つねに「鬼畜」であり続けることはできない。
どこかで「素の人間」の顔に戻るときがある。
なければ、精神も身体も保たない。
「素の人間」に戻ると、そこに個性が出る。
人品骨柄の差が現れる。寛容な人間と狭量な人間の差が出る。危機管理の問題をおおづかみにとらえる人間と、マニュアル通りにこなそうとする人間の差が出る。胆力のある人間とない人間の差が出る。
「すべての軍人は悪鬼である」という断定は一面では正しいが、危険な半真理である。
軍人の中にも(ふつうのサラリーマンと同じように)「できるやつ」もいれば「できないやつ」もいる。威圧することで管理しようとする人間もいれば、度量の大きいところを示して帰順させた方が「コストがかからない」と算盤をはじける人間もいる。
もう戦争は始まっていて、個人の力では止めようがないという状況に陥ったとき、その条件下でどうやってできるだけ「人間的」に戦争をするか。
殺すにしても死ぬにしても、どうすればできるだけ「まし」な仕方でするか。
それが『独立愚連隊』と『独立愚連隊西へ』の切実な主題である。
それはサム・ペキンパーの傑作『Cross of Iron』(邦題は思い出したくない)の主題でもあった。
そのような、真に切実な主題を描いた戦争映画はもう久しく作られていない。
『独立愚連隊西へ』での加山雄三はオールタイム・ベスト・パフォーマンスである。こんなにキュートな青年がどうして・・・と思うと、これまた転た感慨に堪えぬのである。
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