2007年度の新学期が始まる。
岡田山に来て18回目の新学期である。
新メンバーで部長会に出てから、最初の三年生のゼミがある。
新顔の15名のゼミ生たちにご挨拶をする。
内田ゼミにようこそ。
本日は初日であるので、このゼミではどんなことをやるのかについてご説明しよう。
このゼミは「知識」を得るためのものではない。
「知識」というのは基本的に一問一答のクイズ形式でフォーマットされている。
「タイ・カッブの最高打率は?」「0.420」
「ニール・ヤング、ジム・キャリー、マイク・マイヤーズ。共通点は?」「カナダ人」
というふうに。
しかし、実際に人生の岐路でそういうクイズ形式の問いを差し向けられるということは起こらない。
実際に人生の岐路(めいたところ)で私たちが遭遇するのは「答えがもともとない問い」と「答えがまだ知られていない問い」だけである。
「答えがもともとない問い」というのは問いに対してどのように答えてもすべて「誤答」として処理される問いのことである。
そんなものがあるものかと思われるかもしれないが、正答できない人間を出口のないところに追い込んで傷つけるためにこの問いは広く活用されている。
野球チームの監督がうなだれているナイン相手に問うている「どうして負けたんだ?」というような問いがそれである(この問いにうっかり「練習不足でした」などと正答してしまうと「どうして負けるとわかっていて練習をしなかったのだ?」ともっと答えにくい問いを引き出してしまう)。
あるいは別れ話を持ち出したときに彼女から「私のどこが気に入らないの?」と訊かれた場合もそうである(この問いにうっかり「狭量で邪悪だから」などと正答してしまうと答え通りの展開になるので、ふつうは無言で耐えることになっている。とはいえ、賢い人は「おまえの『そういうとこ』がキライなんだよ」というふうに問題をすりかえる術を知っている。これだと相手が「『そういう』とこって、どこなの?」と重ねて訊いても「『そういうとこ』って、そういうとこだよ」といらついてるうちに、席を立つタイミングを発見できる)。
こういう「答えのない問い」に対しては、今申し上げたように個別的な一問一答で答を暗記してもしょうがない。
「術」を以て応じるしかない。
この場合の「術」は、「ひとはどのような文脈において『答えのない問い』を発するのか?」というふうに問いの次数を一つ繰り上げるのである。
それなら、答えは簡単だ。
ひとが「答えのない問い」を差し向けるのは、相手を「『ここ』から逃げ出せないようにするため」である。
だから、多くの場合、「答えのない問い」は相手に対して権威的立場を保持し続けたい人、相手を自分の身近に縛り付けておきたい人が口にする。
それゆえ、この場合の正解は(「お前の『そういうとこ』がキライなの」と言った男がしたように)可及的すみやかにその場から逃げ出すことなのである。
もうひとつ、私たちが遭遇するものとして「答えがまだ知られていない問い」がある。
問いを差し向ける人もその問いの答えを知らないし、その答えを相手からいますぐ即答されるとも期待していない。
「愛って、何かしら?」
「大人になるって、どういうことなんだろう?」
「この子が大きくなるころには世界は平和になってるかしら?」
というような問いは即答を求めて発されるわけではない。
そういう問いに対しては、「さあ、どうなんだろうね?」と少し傾けた笑顔を向けてから、ふたりで朝日(夕日でも可)に向かって眩しそうに瞬きするのが長者の風儀である。
これは、「答えをふたりでいっしょに探そうね」というのが「答え」であるような問いだからである。
ことほどさように、われわれが実生活で遭遇する問いは一問一答形式で記憶することができるほど単純なものではないのである。
このゼミでは、このようなさまざまな「答え方がわからない問い」にどのように対応するのかをお教えする。
諸君が私に問いを向ける。
私がそれにお答えする。
私ども大学教師はあらゆる問いに即答することができる。
その答えを知らない問いについても、そのような問いが存在することが知られていない問いにさえ即答することができる。
なぜ、そんなことができるのか?
知識があるからではないよ。
だって、「答えを知らない問い」にだって答えちゃうのだから、知識に依拠することはできぬ。
では、何に依拠するのか?
その答えを諸君は二年間私に就いて学ぶのである。
健闘を祈る。
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(2007-04-10 09:47)