対立するものを対立したまま両立させることが「術」である、ということを前に甲野善紀先生から伺ったことがある。
なるほど、とそのときは深く納得したのだが、どう「なるほど」なのか実はよくわからなかった。
そういう言葉は小骨のように喉に刺さる。
魚の小骨はいつか溶けて消えてしまう。本人が気づかないうちにちゃんと唾液が多めに分泌されて溶かしてしまったのである。
同じことは知的な意味での「小骨」についても起きる。
どうも腑に落ちなくて、気になって仕方がないことがあると、「気になること」に関連するできごとに遭遇するチャンスが増える。
「あ、あれは『このこと』だったのか」ということに気づく機会が(それがつねに解決をもたらすわけではないが)増える。
「対立したものを対立したまま両立させる」のは何のためなのか。
そのことを久しく考え続けていた。
『私家版・ユダヤ文化論』の終わりのほうに、そのことの関連してこんなことを書いた。
「強迫自責」(愛している人が死んだときに、自分はその人の死に責任があると思い込むこと)についてのフロイトの学説を祖述しているうちに、「強迫自責」を抱え込んだほうが、そうでない場合よりも死者に対する「愛情」が強化される、ということに気づいた。
愛する人が死んだときに、私たちは誰でも「もっと生きているあいだに愛しておけばよかった」という悔恨にとらえられる。
私はあの人のことを「こんなにも豊かに愛していた」という愛情の十分性を証す事実は少しも思い出されず、むしろ、「あのときにこうしてあげればよかった・・・あのときにはこう言ってあげればよかった・・・」というような愛情の不十分さの事例だけが選択的に想起される。
それがさらに亢進すると、私たちは「もしかすると、私はあの人の死をひそかに願っていたのではないか・・・」という自責に襲われる。
そんなことがあるはずがないのに、そういう自責にとらえられる。
愛情が深ければ深いほど、強迫自責は深く私たちを絡めとる。
そのような自責に私たちは耐えることができないから、それを否定するために、自分がどれほどその人を愛していたのかを思い出そうとする。
「実は愛する人の死を望んでいたのではないか・・・」というような毒性の強い疑念を否定し尽くすためには、大量の愛情が備給されねばならない。だから、「私はもしかすると愛する人の死をひそかに望んでいたのではないか」と思いついたことによって、結果的に私たちの無意識のうちには奔流のように愛情があふれ返ることになるのである。
対立があるときの方がないときよりもシステムは活性化する。
「弁証法」と呼ばれるのはそのプロセスのことである。
活性化ということに焦点を当てて考えると、ある能力や資質を選択的に強化しようとするときには、それを否定するようなファクターと対立させると効率的である。
経験的には誰でも知っていることである。
「対立するものを対立させたまま両立させる」のは、二つの能力を同時的に開花させるためには、それらを葛藤させるのがもっとも効果的であるからであろう。
土曜日に合気道の稽古をしているうちに、そのことに気がついた。
前にも書いたとおり、運動の精度を上げるためには、できるだけ身体を構成している粒子を「未決定」状態に維持しておかねばならない。
「平方根の法則」によって、自由に運動する粒子の数がふえればふえるほどシステムの誤差率は下がる。
「居着き」を武道が嫌うのは、身体が凝固して、運動の自由度が下がり、可動域が限定されると、それにともなって運動の精度が下がるからである。
しかし、だからといって、それは「完全なリラックス」を実現するということではない。
身体の完全な自由を求めると、どこかで「アナーキー」の境界線を越えてしまうからだ。
ジャッキー・チェンの『酔拳』はその好個の適例である。
「適度に酔って身体の居着きから解放された状態」においてはたしかに運動の精度は向上するが、酔いすぎてしまうと、足腰立たなくなって、運動そのものが成り立たなくなる。
自由ではあるが、ある種の秩序の内側にいること。これが運動が最適精度を維持するための条件である。
だが、「自由」であることと「秩序の内側にいる」ことは当然ながら対立する。
けれども、この対立を対立したまま両立させなければ武道的な動きは成り立たない。
多田先生はかつて「動きの終わった状態に向かって自分を放り込む」という表現をされたことがあった。
光岡先生は「リールが釣り糸をたぐりよせるように動く」という言い方をされたことがある。
これはどちらも「未来がすでに既決であるかのようにふるまう」ということである。
しかし、運動の精度を上げるために「できるだけ決定を先延ばしにする」のはマイクロ・スリップ理論の基本である。
イチローのバットは、細かに揺れ動きながら、最適のヒッティングポイントを求めてインパクトの直前まで「ためらって」いる。
あたかも未来がすでに決定しているかのように「決然と動く」ということと、運動の方向や速度を最後まで未決定のまま「ためらいながら動く」、ということはどう考えても矛盾する。
けれども、運動の精度を上げるためには、この矛盾する要請に同時に応えなければならない。
おそらく「矛盾」という古語の原義もそこにあったのだと思う。
「あらゆる盾を貫く矛」と「あらゆる矛をはね返す盾」は両立しえない。
けれども、この二つの武具を並べて売っていた武器商人は、この「矛盾」に耐えることを通じてしか武具の進化はありえないということを経験的には知っていたのである。
土曜の合気道では「四種類の転換」を集中的に稽古してみた。
これは片手を握ってこちらの動きを制してくる相手を四方に自在に方向転換させる術である。
接点において「インターフェイスの肌理を細かくする」のは複素的身体構成のために絶対必要なことである。
けれども、それだけに固執していると、相手の身体にぬれ雑巾が貼りつくような、べちゃべちゃした主体性のない動きになってしまう。
コヒーレンスを取り、アラインメントを合わせ、ある種の秩序を到成するためには、そこに「決然とした流れ」がなければならない。
その動線を描くことが宿命的に定められていたように、決然と動くことが必要である。
しかし、「決然と」というのは「自分勝手に」ということではない。
それでは私と相手をともに含む複素的=共身体は構築できない。
相手の身体と自分の身体の間で、求め合う動きと逃れ去る動きと追う動きが渾然一体となっているような状態を作り上げること。
それが技法上の課題である。
ということまではわかった。
そして、「技法上の課題」というのは、それをどう解決したらよいのか、その解決法が「まだわからない」ものである。
どう解決してよいかわかっているなら、それは「課題」とは言われない。
どう解決してよいかわからないけれど、それを解決しなければ先に進めないということまではわかった。
こういう状態にいるときがいちばんわくわくする。
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(2007-04-29 17:47)