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2015年05月 アーカイブ

2015.05.20

神奈川新聞への寄稿(ロング・ヴァージョン)

神奈川新聞に安保法制についての安倍首相の声明の詭弁と嘘について書いた。
もう何度も書いたことなので、書いている本人もだんだんうんざりしてきたが、先方が「うんざりさせること」をめざして詭弁を弄している以上、つきあうしかない。

安倍首相の声明は、聞く人、読む人を欺くための作文です。これほど不誠実な政治的文書が公的なものとして通用するということは、それ自体が日本国民と日本の政治文化にとって屈辱的なことだと思います。
安倍首相の言葉は詭弁の典型です。キーワードのすべてが読者の誤読を当てにして選択されている。例えば「日本近海」という言葉がそうです。
〈日本が攻撃を受ければ、米軍は日本を防衛するために力を尽くしてくれる。そして、安保条約の義務をまっとうするため、日本近海で適時、適切に警戒、監視の任務に当たっている。私たちのため、その任務に当たる米軍が攻撃を受けても、私たちは日本自身への攻撃がなければ、何もできない。何もしない。これがこれまでの日本の立場だった。本当にこれで良いのでしょうか〉
「日本近海」とは何を意味するのか。近い、遠いというのは主観です。外交の用語でもないし、国際法上の概念でもない。東シナ海でも南シナ海でもマラッカ海峡でもインド洋でも、どこでも「日本にとって死活的に重要な海域」であると首相が認定すれば、それは「日本近海」になる。これは中国大陸侵略を正当化した「満州は日本の生命線」と同じレトリックです。
 「日本近海」という言葉を聴けば、日本国民の多くはそれは日本の「領海」のことだと理解するでしょう。しかし、日本領海なら、そこで米軍が攻撃を受けたら、それは安保条約で規定されたとおり、日米共同で対処すべき事態です。「何もできない、何もしない」というはずがない。
だとすれば、ここで安倍首相が言った「日本近海」は日本領海外の公海や他国の領海内のことだということになる。そこで米軍が攻撃されたときに、「何もできない、何もしない」のはそれが日本領土内での出来事でない以上、当たり前のことです。
日米安保条約5条にはこう書かれています。「日本の領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和および安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定および手続きに従って共通の危険に対処する」
安倍首相が日本領海外や外国の領海内にいる米軍への攻撃に対しても、日米が共同的に対処したいと願っているのであれば、何よりもまず日米安保条約第五条を「日本は世界中どこでも米軍への攻撃に対して共同的に対処する」と改定するのがことの筋目でしょう。
安保条約の条文を知らない日本人が首相の会見を聞いたら、日本の現状を「日本領海内で米軍が攻撃を受けても、共同的に対処することができない(九条のせいで)」と誤解することでしょう。「日本近海」という語は法律をよく知らない国民をミスリードするために意図的に選択されたものです。
日本領海外でも米軍と共同的に軍事行動をしたいなら、安倍首相ははっきりと「日米安保条約は非現実的な条約だ」と言えばいい。でも、それは日米安保条約を「不磨の大典」として戴いてきた自民党としては口が裂けても言うことができない言葉です。だから、対米的には「日米安保には何の問題もありません」ともみ手しつつ、国内的には「日米安保では危機に対処できない」という脅しをかけている。「日本近海」というのは、日米安保条約には手を着けることができない官邸が思いついた「安保法制による安保条約の拡大解釈」のための地ならしのレトリックです。
〈米国の戦争に巻き込まれることは、絶対にあり得ません〉
その直前に首相は「米軍が攻撃を受けても、私たちは何もできない。本当にこれで良いのでしょうか」と言っています。では、米軍が攻撃を受けたときに、日本は何をする気なのか。まさか「祈る」とか「後方から声援を送る」とか言うことではないでしょう。「ともに戦う」以外のどういう行動がありうるのか。「戦争をすること」以外のなにをする気なのでしょう。たしかにそれなら日本がみずから進んで主体的に「戦争に参加する」ことになります。だから、これを「戦争に巻き込まれた」とは言えない、と。首相はそう強弁したいのでしょうか。
もう1点、気になる言葉があります。
〈今回、PKO協力法を改正し、そして新たに国際平和支援法を整備することにした。これにより、国際貢献の幅を一層広げていく。我が国の平和と安全に資する活動を行う米軍を始めとする外国の軍隊を後方支援するための法改正も行う〉
「後方支援」とは軍事用語では「兵站」業務のことです。武器弾薬の輸送、衛生、糧食、兵員の補給・教育、そして情報、通信管理もここには含まれます。現代の戦争では情報と通信は戦争の核心部分です。距離的に前線からどれだけ離れていようと、情報、通信を管轄する部門は敵からの攻撃の最重要目標となります。
「後方支援」という言葉の「後方」から、聴く人は前線のはるか彼方で燃料を補給したり、医療活動をしたりする「非戦闘的」なボランティア活動のような微温的なものを想像するかもしれませんが、兵站は軍事活動の重要な一環であり、それに従事する兵員は端的に「殺すべき敵」です。戦闘兵科の兵員と補給兵科の兵員に対しては攻撃の強度が違うというようなことは現実にはありません。
後方支援とは、端的に軍事活動です。「米軍を始めとする外国の軍隊を後方支援する」ということは、まさに「米国が行う戦争に参加する」ということ以外の何ものでもありません。そのための法整備を「戦争法案」と呼ぶ以外にどう呼べばいいのか。「戦争法案などといった無責任なレッテル張りは全くの誤りです」というのは全くの誤りです。
安倍政権は安保条約に手を付けるつもりもないし、日米地位協定に手を付けるつもりもありません。安保条約に手を着けないまま、安保体制の根本的な変更を国内法だけで処理しようとしている。そこに今回の安保法制の根源的な難点があります。
安保条約と矛盾する安保法制はどうやっても整合的には説明できません。だから、首相は嘘をつく以外にないのです。安全保障法制関連法案の閣議決定を受けた会見で、安倍首相は法整備がなぜ緊急に必要なのかの根拠をついに説明しませんでした。そればかりか、いくつもの点で、事実ではないことを述べています。
平和安全法制の整備は不可欠だと確信している。例えば、海外で紛争が発生し、そこから逃れようとする日本人を、同盟国であり、能力を有する米国が救助し、わが国へ輸送しようとしているとき、日本近海で攻撃を受けるかもしれない。このような場合でも、日本自身が攻撃を受けていなければ、救出することはできない〉
去年7月に集団的自衛権行使容認の閣議決定した際もこれと同様の説明をしていました。しかし、調べてみたら、そもそも過去に紛争国から在留邦人が米軍艦船で脱出したケースは一つもありませんでした。米軍からもそのような事態は想定できないと指摘されている。こういった反証をすべて無視して、「起こり得ない事態」に対処するために法整備が必要だと首相は述べているわけです。これは「同じ嘘でも何度も繰り返すと聴く人は信じるようになる」という詐欺師の経験則を適用しているのでしょうか、それとも国民は短期記憶しかないので、去年の7月に言ったことが反証されたこともすっかり忘れていることを当てにしているのでしょうか。
その一方で、当たり前のことを例外的なことのように誇大に語ってもいます。
〈海外派兵が一般に許されないという従来からの原則も変わりません〉
これはまったく無意味な言明です。というのは、特段の理由もなく海外派兵した国など歴史上一つもないからです。すべての海外派兵は「自国の存亡にとって死活的に重要である」という大義名分から行われてきました。首相の言う「一般に許されない」というのは「特段の理由があれば許される」ということの言い換えであって、それはまさにあらゆる海外派兵に際して「一般に」使われてきた定型句に過ぎません。
言葉のごまかしが多すぎます。
〈日本が武力を行使するのは日本国民を守るため、これは日本と米国の共通認識です。もし、日本が危険にさらされたときには、日米同盟は完全に機能する。そのことを世界に発信することによって、抑止力はさらに高まり、日本が攻撃を受ける可能性は一層なくなっていくと考える〉
戦後70年の間、日本では外国の軍隊の侵略による国土の侵犯や国民の殺傷といった事態は起きていません。では、抑止力はさらに高まると言うときの「さらに」とは何を基準にしているのでしょうか。
「さらに」というには比較の対象がなければ意味をなさない語です。では、安保法制制定以前のどのような数値、どのような指標を基準にして首相は「高い低い」を判断しているのか。それはまったく明らかにされていません。
唯一「国籍不明の航空機に対する自衛隊機の緊急発進、スクランブルの回数は10年前と比べて7倍に増えている」と述べているだけですが、これもデータの恣意的使用という他ない。
たしかに2004年の年間141回に比べると14年は約7倍に増えていますが、それ以前の1980年代には年間900回を超える年が3回、年間800回を超える年は5回ありました。首相はいったいいつの時期のどの数値と比べての増減であるかを明らかにしないで、あたかも前代未聞の危険が切迫しているかのように印象づけようとしました。
抑止力が「さらに高まる」というのはいったいいつの時代のどの数値と比較してのことなのか。首相が抑止力の増減について示した指標数値はスクランブル発進数だけです。だとすれば、1984年の944回から、2004年の141回に至る劇的な発進数の減少も「抑止力がさらに高まった」ことの効果として解釈しなければならない。その時期において安保法制以外の理由でも抑止力が高まったであるなら、その理由を究明するのは国防上の重要課題でしょう。けれども、首相はそれには何の関心も示さない。
仮に今後安保法制整備後もスクランブル発進数が減少しなかった場合、首相はどうつじつまを合わせる気でしょう。首相が自ら抑止力の唯一の数値的指標として選んだ数値に反映されなければ、安保法制は安全保障上無意味だったということになる。その事実を受け容れる覚悟はあるのでしょうか。
言葉のまやかしはさらに続きます。
〈まるで、自衛隊の方々が殉職していない方がおられるという認識を持っている方がいらっしゃるかもしれないが、自衛隊発足以来、今までも1800人の方が殉職されている〉
これは、一体どういう命題を帰結したくて口にした言葉なのでしょうか。
自衛隊の年間殉職者数はここ数年ほぼ一桁台で推移しています。ほとんどが災害派遣と訓練中の事故です。22万人の隊員で事故死者一桁というのは、かなり安全管理の徹底した職場だと言っていいと思います。
首相が「これからどうやって殉職者をゼロにするのか」という実践的課題に取り組むために「殉職者は1800人いる」という数字を挙げたのであれば、話はわかります。でも、これから先もこれまで通り災害復旧に参加し、訓練も続けながら、それに加えて、これまでしたことのない海外での米軍の戦闘行動への参加に踏み切るとしたら、いったいどうやって「殉職者数を減らす」つもりなのか。これまでしなかった軍事活動を行うことで、殉職者数が減るということは誰が考えてもありえない。だとすれば、ここで引かれた1800人という数字には、「もう1800人も死んでいるのだから、このあと100人や200人死んでも大騒ぎするような話ではない」という方向に世論をリードする以外に目的はありません。
論争というのは、論理的に首尾一貫し、一つ一つの判断の客観的根拠を明らかにできることが「たいせつだ」と思う人間たち同士の間でのみ成立します。言うことがどんどん変わっても、根拠がなくても、約束が履行されなくても、まったく気にしないという人を相手にして言論は無力です。
安倍首相は年金問題のときに「最後のひとりまで」と見得を切り、TPPについては「絶対反対」で選挙を制し、原発事故処理では「アンダーコントロール」と国際社会に約束しました。「あの約束はどうなったのか?」という問いを誰も首相に向けないのは、彼からはまともな答えが返ってこないことをもうみんな知っているからです。
ここまで知的に不誠実な政治家が国を支配していることに恐怖を感じない国民の鈍感さに私は恐怖を感じます。

2015.05.22

朝日新聞への寄稿

5月21日の朝日新聞夕刊に住民投票の結果を承けて一文を寄せた。
朝日読者以外のかたのために再録しておく。
 
いわゆる「大阪都構想」と呼ばれる大阪市の解体構想についての住民投票が終わり、構想は否決された。数千票が動けば勝敗が逆転するほどの僅差だった。だから、この結果について「民意が決した」とか「当否の判定が下った」というふうな大仰なもの言いをすることは控えたいと思う。賛否いずれの有権者も「大阪の繁栄」と「非効率な機構の改善」と「行政サービスの向上」を願っていた点に違いはない。賛否を分けたのは、その目標を実現するためにどのような方法を採るのか、「急激な改革か、ゆるやかな改革か」という遅速の差であった。「独裁的、強権的」と批判された市長の政治姿勢も、賛成派には「効率的でスピードのある改革のためには必要な技術的迂回」と見えたことだろう。だが、遅速の差は、まなじりを決して、政治生命をかけて戦うほどのことなのだろうか。そんなのは話し合えば済むことではないのか。この常識を誰も語らなかったことに私はむしろこの国を蝕んでいる深い闇を見る。
二重行政のロスが大きいと言われたが、府県と政令指定都市の間に権限の重複が発生するのはほとんど制度的必然である。そこを調整するのが「間に立つ人」の知恵の見せ所ではないのか。戦後、五大都市から始まった政令指定都市がいまの日本には20ある。大阪市以外の19の都市はどこも二重行政解消のために政令指定都市を解体して特別区に割るというようなアイディアを採用していないし、検討してさえいなかった。府県の持っていた権限の一部を市に委譲すれば「グレーゾーン」が生じるのは当たり前であり、それがもたらす混乱を最小化することが行政官の仕事だという常識が大阪以外の都市ではたぶんまだ通用していたのだろう。
制度設計がどれほど適切でも、運用者に知恵と技能がなければ、制度は機能しない。逆にどんな不出来なシステムでも、「想定外のできごと」に自己責任で対処できる「まともな大人」が要路に一定数配されていれば、システムクラッシュは起きない。
私は別に「制度か人間か」の二者択一を迫っているのではない。どちらも必要に決まっている。違うのは、制度を壊すのは簡単で、大人を育てるのは時間がかかるということである。「都構想」をめぐる議論の中で私は賛否いずれからもついに一度も「システムを適切に管理運用できる専門家の育成」という話を聴かなかった。聴かされたのは制度問題だけである。
大阪の二重行政の最悪の事例として、りんくうゲートビルタワービルとWTCビルのことが何度も出て来た。府と市がバブルに浮かれて無駄なハコモノに桁外れの税金を投じたことがきびしく批判された事例だが、考えればわかるが、これは二重行政の特産物ではない。バブル経済の先行きについての楽観に基づいて巨大なハコモノに莫大な税金を投じた府市の役人の犯した失敗である。仮にバブル期の時点でもし府市が統合された「大阪都」が実現していたら、巨大な権限を持った「都」の役人の裁可で出現したハコモノの巨大さ(そして空費された税金の額)は想像を絶したものになっていたに違いない。
私たちの国が現に直面している危機の実相は「かなりよくできた制度」が運用者たちの質の劣化によって機能不全に陥っているということである。三権分立も両院制も政令都市制度も、どれも権限と責任を分散し、一元的にことが決まらないようにわざわざ制度設計されている。その本旨を理解し、その複雑な仕組みを運用できるだけの知恵と技能をこれらの制度は前提にしており、それを市民に要求してもいる。
権限をトップに一元化して、下僚は判断しない代わりに責任もとらないという仕組みの方が「効率的だし、楽でいい」とぼんやり思う人が過半を制したら、市民社会も民主制は長くはもつまい。
今回の住民投票は「簡単な話を複雑にした」という結果になった。大阪市の抱える問題はひとつも解決しないまま残ったが、あえて「面倒な仕事、複雑な手間」を選んだ大阪市民の「市民的常識」を私は多としたいと思う。

2015.05.28

国旗国歌について

国立大学での国旗掲揚国歌斉唱を求める文科省の要請に対して、大学人として反対している。
その理由が「わからない」という人が散見される(散見どころじゃないけど)。
同じことを何度もいうのも面倒なので、国旗国歌についての私の基本的な見解をまた掲げておく。
今から16年前、1999年に書かれたものである。
私の意見はそのときと変わっていない。

国旗国歌法案が参院を通過した。
このような法的規制によって現代の若者たちに決定的に欠落している公共心を再建できるとは私はまったく思わない。すでに繰り返し指摘しているように、「公」という観念こそは戦後日本社会が半世紀かけて全力を尽くして破壊してきたものである。半世紀かけて国全体が壊してきたものをいまさら一編の法律条文でどうにかしようとするのはどだい無理なことだ。
ともあれ、遠からず、この立法化で勢いを得て騒ぎ出すお調子者が出てくるだろう。式典などで君が代に唱和しないものを指さして「出ていけ」とよばわったり、「声が小さい」と会衆をどなりつけたり、国旗への礼の角度が浅いと小学生をいたぶったりする愚か者が続々と出てくるだろう。
こういう頭の悪い人間に「他人をどなりつける大義名分」を与えるという一点で、私はこの法案は希代の悪法になる可能性があると思う。 
一世代上の人々ならよく覚えているだろうが、戦時中にまわりの人間の「愛国心」の度合いを自分勝手なものさしで計測して、おのれの意に添わない隣人を「非国民」よばわりしていたひとたちは、8月15日を境にして、一転「民主主義」の旗持ちになって、こんどはまわりの人間の「民主化」の度合いをあれこれを言い立てて、おのれの意に添わない隣人を「軍国主義者」よばわりした。こういうひとたちのやることは昔も今も変わらない。
私たちの世代には全共闘の「マルクス主義者」がいた。私はその渦中にいたのでよく覚えているが、他人の「革命的忠誠心」やら「革命的戦闘性」についてがたがたうるさいことを言って、自分勝手なものさしでひとを「プチブル急進主義者」よばわりしてこづきまわしたひとたちは、だいたいが中学高校生のころは生徒会長などしていて、校則違反の同級生をつかまえて「髪が肩に掛かっている」だの「ハイソックスの折り返しが少ない」だのとがたがた言っていた連中であった。その連中の多くは卒業前になると、彼らの恫喝に屈してこつこつと「プロレタリア的人格改造」に励んでいたうすのろの学友を置き去りにして、きれいに髪を切りそろえて、雪崩打つように官庁や大企業に就職してしまった。バブル経済のころ、やぐらの上で踊り回っていたのはこの世代のひとたちである。こういうひとたちのやることはいつでも変わらない。
いつでもなんらかの大義名分をかかげてひとを査定し、論争をふきかけ、こづきまわし、怒鳴りつけることが好きなひとたちがいる。彼らがいちばん好きなのは「公共性」という大義名分である。「公共性」という大義名分を掲げて騒ぐ人たちが(おそらくは本人たちも知らぬままに)ほんとうにしたがっているのは他人に対して圧倒的優位に立ち、反論のできない立場にいる人間に恫喝を加えることである。ねずみをいたぶる猫の立場になりたいのである。
私は絶対王政も軍国主義もスターリン主義もフェミニズムも全部嫌いだが、それはその「イズム」そのものの論理的不整合をとがめてそう言うのではない。それらの「イズム」が、その構造的必然として、小ずるい人間であればあるほど権力にアクセスしやすい体制を生み出すことが嫌いなのである。
正直に言って、日本が中国や太平洋で戦争をしたことについて、私はそれなりの歴史的必然があったと思う。その当時の国際関係のなかで、他に効果的な外交的なオプションがあったかどうか、私には分からない。たぶん生まれたばかりの近代国民国家が生き延びるためには戦争という手だてしかなかったのだろう。
しかし、それでも戦争遂行の過程で、国論を統一するために、国威を高めるために、お調子者のイデオローグたちが「滅私奉公」のイデオロギーをふりまわして、静かに暮らしているひとびとの私的領域に踏み込んで騒ぎ回ったことに対しては、私は嫌悪感以外のものを感じない。
小津安二郎の『秋刀魚の味』の中に、戦時中駆逐艦の艦長だった初老のサラリーマン(笠智衆)が、街で昔の乗組員だった修理工(加東大介)に出会って、トリスバーで一献傾ける場面がある。元水兵はバーの女の子に「軍艦マーチ」をリクエストして、雄壮なマーチをBGMに昔を懐かしむ。そして「あの戦争に勝っていたら、いまごろ艦長も私もニューヨークですよ」という酔客のSF的想像を語る。すると元艦長はにこやかに微笑みながら「いやあ、あれは負けてよかったよ」とつぶやく。それを聞いてきょとんとした元水兵はこう言う。「そうですかね。そういやそうですね。くだらない奴がえばらなくなっただけでも負けてよかったか。」
私はこの映画をはじめてみたとき、この言葉に衝撃を覚えた。戦争はときに不可避である。戦わなければ座して死ぬだけというときもあるだろう。それは、こどもにも分かる。けれども、その不可避の戦いの時運に乗じて、愛国の旗印を振り回し、国難の急なるを口実に、他人をどなりつけ、脅し、いたぶった人間がいたということ、それも非常にたくさんいたということ、その害悪は「敗戦」の悲惨よりもさらに大きいものだったという一人の戦中派のつぶやきは少年の私には意外だった。
その後、半世紀生きてきて、私はこの言葉の正しさを骨身にしみて知った。
国難に直面した国家のためであれ、搾取された階級のためであれ、踏みにじられた民族の誇りのためであれ、抑圧されたジェンダーの解放のためであれ、それらの戦いのすべては、それを口実に他人をどなりつけ、脅し、いたぶる人間を大量に生み出した。そしてそのことがもたらす人心の荒廃は、国難そのもの、搾取そのもの、抑圧そのものよりもときに有害である。
現代の若い人たちに「公」への配慮が欠如していることを私は認める。彼らに公共性の重要であることを教えるのは急務であるとも思う。しかし、おのれの私的な欲望充足のために、「公」の旗を振り回す者たち(戦後日本社会で声高に発言してきたのはほぼ全員がその種類の人間たちである)から若者たちが学ぶのは、そういう小ずるい生き方をすれば、他人をどなりつける側に回れるという最悪の教訓だけだと私は思う。
国旗国歌法によって日本社会はより悪くなるだろうと私は思う。だが、それは国旗や国歌のせいではない。
 

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