5月21日の朝日新聞夕刊に住民投票の結果を承けて一文を寄せた。
朝日読者以外のかたのために再録しておく。
いわゆる「大阪都構想」と呼ばれる大阪市の解体構想についての住民投票が終わり、構想は否決された。数千票が動けば勝敗が逆転するほどの僅差だった。だから、この結果について「民意が決した」とか「当否の判定が下った」というふうな大仰なもの言いをすることは控えたいと思う。賛否いずれの有権者も「大阪の繁栄」と「非効率な機構の改善」と「行政サービスの向上」を願っていた点に違いはない。賛否を分けたのは、その目標を実現するためにどのような方法を採るのか、「急激な改革か、ゆるやかな改革か」という遅速の差であった。「独裁的、強権的」と批判された市長の政治姿勢も、賛成派には「効率的でスピードのある改革のためには必要な技術的迂回」と見えたことだろう。だが、遅速の差は、まなじりを決して、政治生命をかけて戦うほどのことなのだろうか。そんなのは話し合えば済むことではないのか。この常識を誰も語らなかったことに私はむしろこの国を蝕んでいる深い闇を見る。
二重行政のロスが大きいと言われたが、府県と政令指定都市の間に権限の重複が発生するのはほとんど制度的必然である。そこを調整するのが「間に立つ人」の知恵の見せ所ではないのか。戦後、五大都市から始まった政令指定都市がいまの日本には20ある。大阪市以外の19の都市はどこも二重行政解消のために政令指定都市を解体して特別区に割るというようなアイディアを採用していないし、検討してさえいなかった。府県の持っていた権限の一部を市に委譲すれば「グレーゾーン」が生じるのは当たり前であり、それがもたらす混乱を最小化することが行政官の仕事だという常識が大阪以外の都市ではたぶんまだ通用していたのだろう。
制度設計がどれほど適切でも、運用者に知恵と技能がなければ、制度は機能しない。逆にどんな不出来なシステムでも、「想定外のできごと」に自己責任で対処できる「まともな大人」が要路に一定数配されていれば、システムクラッシュは起きない。
私は別に「制度か人間か」の二者択一を迫っているのではない。どちらも必要に決まっている。違うのは、制度を壊すのは簡単で、大人を育てるのは時間がかかるということである。「都構想」をめぐる議論の中で私は賛否いずれからもついに一度も「システムを適切に管理運用できる専門家の育成」という話を聴かなかった。聴かされたのは制度問題だけである。
大阪の二重行政の最悪の事例として、りんくうゲートビルタワービルとWTCビルのことが何度も出て来た。府と市がバブルに浮かれて無駄なハコモノに桁外れの税金を投じたことがきびしく批判された事例だが、考えればわかるが、これは二重行政の特産物ではない。バブル経済の先行きについての楽観に基づいて巨大なハコモノに莫大な税金を投じた府市の役人の犯した失敗である。仮にバブル期の時点でもし府市が統合された「大阪都」が実現していたら、巨大な権限を持った「都」の役人の裁可で出現したハコモノの巨大さ(そして空費された税金の額)は想像を絶したものになっていたに違いない。
私たちの国が現に直面している危機の実相は「かなりよくできた制度」が運用者たちの質の劣化によって機能不全に陥っているということである。三権分立も両院制も政令都市制度も、どれも権限と責任を分散し、一元的にことが決まらないようにわざわざ制度設計されている。その本旨を理解し、その複雑な仕組みを運用できるだけの知恵と技能をこれらの制度は前提にしており、それを市民に要求してもいる。
権限をトップに一元化して、下僚は判断しない代わりに責任もとらないという仕組みの方が「効率的だし、楽でいい」とぼんやり思う人が過半を制したら、市民社会も民主制は長くはもつまい。
今回の住民投票は「簡単な話を複雑にした」という結果になった。大阪市の抱える問題はひとつも解決しないまま残ったが、あえて「面倒な仕事、複雑な手間」を選んだ大阪市民の「市民的常識」を私は多としたいと思う。
(2015-05-22 12:08)