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2008年12月 アーカイブ

2008.12.03

新55年体制へ向けて

『Sight』の取材で、麻生内閣の今後について「予想」をする。
福田康夫の登場を2007年1月に予言したので、「予想屋」としての評価が高まったらしい。
私は「予測」するのが大好きである。
もう起きたことについて、「ぼかあ、こうなると思っていたよ」と訳知り顔をする人間ばかりがメディアには登場するが、彼らはそのような事態の出来を果たしてあらかじめ予測していたのであろうか。
私は懐疑的である。
予測は「当たる」か「外れる」かしかない。
誰にでも、当否がはっきりわかる。
ところが、私たちの国の知識人たちは「間違えを認めること」を異様に嫌う。
だから、仮に予測をして、それが外れた場合でも、「私の予測ははずれました」ということを言わない。
でも、予測が外れた場合こそ「私はどのようなファクターを勘定に入れ忘れたのか?」「私はどのようなファクターの評価を誤ったのか?」をチェックする最良の自己教育機会ではないであろうか。
もう一つ、予測には「予言の遂行性」というものがあり、「これから世の中はこうなります」と誰かが自信たっぷりに断言すると、それを聴いた人たちが「へえ、そうなんだ・・・」と信じ込んでしまって、なんとなく「そういうふう」になる下地が出来ちゃったりするのである。
だから、世の中が「こういうふうになるといいな」と思っている場合には、「こうなります」とフライング気味に断言することは黙って予測だけしているよりも予測の実現の蓋然性が高まるのである。
自己教育機会でありかつ「なるといいな」という事態が出来する可能性が向上するのであれば、予測はできるだけばんばんやって、その「星取り表」をきちんと公開するのが私たちのようにメディアで発言する機会を与えられた人間のつとめではないかと私は思うのである。
というわけでさっそく麻生内閣の今後について予測をする。
麻生首相は近い将来にまた舌禍事件を起こすか、政策上の食言を犯して、メディアの袋だたきに遭い、自民党内部から「麻生おろし」」の動きが始まる。
麻生首相を「選挙の顔」で解散総選挙となった場合に、自民党が歴史的大敗を喫することは明らかだからである。
麻生太郎のあとに与謝野馨が選挙管理内閣をワンポイントで担当する(その方が「負け方」が少ないと古賀誠が判断するのである)。
もちろん自民党はそれでも大敗する。
けれども民主党もそれほど圧勝というわけではない。
政局は一気に流動化する。
こういう状況が大好きな小沢一郎が自民党に「手を突っ込み」多数派工作を開始する(“これ”がやりたくて解散総選挙を促しているんだから)。
ターゲットは山崎拓と加藤紘一である。
そして加藤に「自民党を出て、こちらに来るなら、総理ポストを提供する」と持ちかける。
加藤は多少揺れるが、政治家となった以上「総理大臣」のポストを提供されて逡巡するということはありえない。結局小沢のオッファーを受諾する。
「旧田中派と旧宮沢派」の連合が「旧福田派」と対立するという絵柄になる。
小沢にとって理想の政党というのは「同一党内に野党以上に政策的対立があるような政策集団を含んでいるもの」である。
それが「日本人向きの政党」であることを小沢はその政治家的直感で理解している。
きびしい内部対立を含みつつ、なかに入った人間が「ま、ここはオレの顔に免じてだね。どうだいひとつこの喧嘩オレに預からせちゃくれまいか」というかたちで共同体を立ち上げるのが日本における成熟した組織者のありようであるということは、つとに川島武宜先生が道破されているとおりである。
そのような共同体を成り立たせるためには政策的同一性や政治理念の一致は有害無益なのである。
メディアは自民党にも民主党にも党としての政策的「一枚岩」性が欠けていることを批判するけれど、それは木によりて魚を求むるに似ている。
一枚岩がそんなによいと思うなら、公明党や共産党を範とすべしという社説でも掲げたらよろしい。
55年体制において自民党はその政策的整合性によってではなく、「日本人の無意識的欲望と生活実感」への同期性の高さによって政権党であり続けたのである。
まあ、愚痴は止めておこう。
で、そのあと日本は「新たな55年体制」になるのである。
それがどういうものであるかについては『Sight』に詳しくお話ししたので、そちらを徴されよ。私は朝ご飯の時間である。

2008.12.06

窮乏シフト

ゼミの面接が始まる。
これまでに49人と面談。ひとり10分から長い人は20分くらいなので、すでに12時間くらい学生たちと話し続けている勘定になる。
ふう。
まだ20人くらい残っている。
たいへんな仕事ではあるけれど、総合文化学科の全2年生の3分の1くらいの学生たちと一対一で膝を突き合わせてその知的関心のありかを聞き取る得がたい機会である。
現代日本の20歳の女性たちの喫緊の関心事は何か?
女性メディアの編集者であれば、垂涎のテーマであろう。
お教えしよう。
彼女たちが注目している問題は二点ある。
一つは「東アジア」であり、一つは「窮乏」である。
東アジアへの関心の主題として挙げられたものは「ストリートチルドレン」「麻薬」「売春」「人身売買」「児童虐待」「戦争被害」「テロリズム」「少数民族」などなど。
これらは、「法治、教育、医療、福祉、総じて人権擁護のインフラが整備されていない社会で人はどう尊厳ある生を生きることができるか?」という問いに言い換えることができる。
そう言い換えると、「危機モード、窮乏モードを生きるためにどうすればいいのか?」という彼女たちの関心の射程がある程度見通せる。
若い女性の「窮乏シフト」の徴候は、私が面談した50人弱の中に「消費行動」を研究テーマに挙げた学生が一人もいなかったことからも知られる。
これまでは毎年「ブランド」とか「ファッション」とか「アート」とか「美食」とか「女子アナ」とかいう消費生活オリエンテッドな研究テーマを掲げる学生たちが相当数いたのであるが、今年はみごとにゼロである。
「人はその消費生活を通じて自己実現する」という80年代から私たちの社会を支配していたイデオロギーは少なくとも20歳の女性たちの間では急速に力を失いつつある。
「お金さえあれば自己実現できる」「自己実現とは要するにお金の使い方のことである」というイデオロギーが優勢でありえるのは、「右肩上がり」幻想が共有されている間だけである。
「お金がないから私は“本来の私”であることができません」というエクスキューズはもちろんまだ私たちの社会のほとんど全域で通用している。
その現実認識には「だからお金をもっとください」という遂行的言明が続く。
その前段にあるのは、「私たちの不幸のほとんどすべては『金がない』ということに起因しているから、金さえあれば、私たちは幸福になれる」という「金の全能」イデオロギーである。
このイデオロギーにもっとも深く毒されているのはマスメディアである。
メディアはあらゆる機会に(コンテンツを通じて、CMを通じて)視聴者に「もっともっと金を使え」というメッセージを送り届け、その一方で非正規労働者や失職者がどれほど絶望的な状況であるかをうるさくアナウンスして「消費行動が自由にできないと人間はこんなに不幸になるんですよ」と視聴者を脅しつけている。
「金の全能」をマスメディアはあるときは「セレブ」の豪奢な生活を紹介することで、あるときは「失職者」の絶望的困窮を紹介することで繰り返し視聴者に刷り込んでいる。
そして、メディアの当事者たちは自分たちがそのようなイデオロギー装置の宣布者であることについての「病識」がない。
けれども、若い女性たちはそろそろこのイデオロギーの瀰漫に対しての「嫌厭感」を持ち始めている。
だって、そのイデオロギーを受け入れたら、消費生活が不如意である彼女たちは今「たいへん不幸」でなければならないはずだからである(現に手元にお金がないんだから)。
だが、それは彼女たち自身の生活実感とは「違う」。
「ストリートチルドレン」より私たちはずっと恵まれた環境にいる。
その私たちは彼らに何ができるか。
そういうふうに考える人が(続々と)登場してきた。
彼女たちは「自分より豊かな人たち」に向かって「あなたの持っているものを私に与えよ」と言うのを止めて、「私より貧しい人たち」に「私は何を与えることができるか」を問う方向にシフトしている。
私はこのシフトを健全だと思う。
「自分が所有したいのだけれど所有できていないもの」のリスト作るより、「自分がすでに豊かに所有しているので、他者に分ち与えることのできるもの」のリストを作る方が心身の健康にはずっとよいことである。
「不幸のリスト」はいくらでも長いものにできるが、「幸福のリスト」もその気になればずいぶん長いものになる。
自分の不幸を数え上げることを止めて、自分に「まだ残っているもの」をチェックする仕事に切り替えるということは、実は「危機対応」である。
震災のとき、「自分が失ったもの」を数え上げ、それを「返せ」と言い立てる人たちと、「自分にまだ残っているもの」を数え上げ、それをどれくらい有効利用できるかを考えた人に被災者たちはわかれた。
危機を生き延び、すみやかにそのダメージから回復することができたのはもちろん後者である。
危機のときに「失ったもののリスト」を作る人間には残念ながら未来はない。
若い女性たちが「自分たちには何が欠けているのか」を数え上げることを止めて、「自分たちが豊かにもっているものを誰にどんなかたちで与えることができるのか」を考える方向にシフトしたのは、彼女たちの生物学的本能が「危機」の接近を直感しているからだと私は思う。
このシフトは世を覆う「金の全能」イデオロギーの時代の「終わりの始まり」を告げるものだろうと私は思っている。
「窮乏シフト」の中で個人的にいちばん面白かったのは“『スイート』現象”なのであるが、これはまた次の機会に。

2008.12.11

美食で風邪を治す

忙しかったし、風邪もなかなか直らなかったので、日記の更新を怠っていた。とりあえず備忘のために、この間のできごとだけメモしておく。
12月6日(土)日本ユダヤ学会が本学で開催される。幹事校なので、私とミスギ先生で会場設営や懇親会の仕切りなどをする。
発表は平岡光太郎会員(同志社大学大学院)による 「イツハク・アバルヴァネルをめぐる<神権政治>の変遷」と黒田晴之会員(松山大学)による「シャガールが描いた楽士の音楽――ロシア革命前後のユダヤ人の音楽について」。
「クレズマー」という音楽のことと、イスラエルの「ウルトラ正統派」の時間意識・国家意識について、瞠目すべき知見を得る。
日本ユダヤ学会というのは、むかしは「イスラエル文化研究会」といって、早稲田の社研の一室で数名でやっていたのであるが、気がついたら、日本中のユダヤ関係研究者を網羅した堂々たる学会になってしまった。
それでも当今の人文科学系の学会では見ることの希な「マッド・サイエンティスト」的風貌の研究者たちが見たことも聴いたこともない摩訶不思議な話をきかせてくれる。
あらゆる学会とオサラバしてしまった私が最後にたった一つだけ籍を残しているのがこの日本ユダヤ学会である。
石川耕一郎先生、宮澤正典先生、大内宏一先生、徳永洵先生、高尾千津子先生ら、懐かしい顔が揃い、学会発表のあと、懇親会へ。
赤尾光春さんという若いユダヤ学研究者に辱知の栄を賜る。
ジョナサン&ダニエル・ボヤーリンの『ディアスポラの力』(平凡社)を訳している方である。私はその書評を頼まれていたのである。
一読しただけでは、著者がどういう立場から主張をなしているのかわからなかったのだが、訳者ご本人の解説でだいぶ話が見えてきた。
翌日は合気道の稽古。風邪気味で咳き込みながら、リーガロイヤルで養老先生と晩ご飯。
仕切りはいつもの足立さん。AERAの取材もかねている。
ひさしぶりに養老先生の滋味あふれるお話を伺いながら、美味しい中華料理を食べる。
月曜は朝から熱っぽいので、午前中の下川先生のお稽古を休む。
昼まで寝ていたが、まだぼおっとしている。
大学で授業を一つ済ませてから、大阪会館へ。養老先生との対談。
タムラくん親子はじめ、釈先生、クロダくん、トガワさん、ウッキー、ヒロスエくんら顔が見える。みんな寒いところをご足労さまです。
対談はあっというまに終わってしまう。
養老先生と私は「しゃべりのスピード」が近いので、テンポよくぱたぱたと話が進む。 
これからの日本は「第一次産業」を復興しなければならないということ、東京一極集中を止めて、地方にリソースを分散すること、マスでものを扱うのを抑制して、顔の見える関係の中で、手仕事で具体的にものを作りあげること、そういう「地に足の着いた」生存戦略への切り替えが必要であるということをふたりで力説する。
終わったあと、残ってくれていたみなさんとプチ打ち上げに北新地へ。浜松から来てくれたスーさんご夫妻、オノちゃん、オーサコくん、ひさしぶりのヒラオくん、守さんのところの意拳の方(お名前失念、ごめんなさい)、いつものウッキー。
ヒラオくんとスーさんが学校におけるスポーツ指導の「勝利至上主義」をきびしく批判して、座が熱く盛り上がる。
帰り道はヒラオくんといっしょ。北新地から摂津本山までずっと学校教育の中でどうやって身体能力を涵養することができるのかを話し続ける。まことに真面目でスマートなヒラオ青年である。
高橋佳三くんや平尾剛くんがこれからあときっと日本のスポーツ教育理論を根本から書き変えてくれることであろう。
どの領域でも頼もしい若手がどんどん出てきてくれて、老生としてはもう思い残すことはない。
火曜日はゼミが二つとゼミ面接が5人。
微熱が残っているので、ぼおっとして帰宅。 こつたつに入って、町山智浩さんお薦めの『Hot Fuzz』を見る。たいへんにイギリス的で面白い。
『Shoot’em up』も面白かったけれど、こういうクリスプで批評的な「映画そのものへの自己言及」映画はなかなか「うほほい」で紹介する機会がない。
水曜朝起きると、ようやく風邪が治っている。
やれやれ。
ひさしぶりのオフなので、下川先生のお稽古へ。
『山姥』のクセのところの舞をお稽古する。長いよお。
2時間特訓でようやく8割ほど覚える。
家に戻ってメールを開けると、今日締め切りのものが3つあるらしい。
そのまま机に向かってとっぷり日が暮れるまで原稿書き続ける。
夕方三宅先生ご夫妻がお迎えに来てくれる。
「カルマ落とし」とて三宮の鈴江でごちそうになる。
オレンジ釜蟹グラタンと自家製カラスミが絶品。
しあわせ。


2008.12.15

とっても忙しい週末

師走である。
ほんとうにばたばた西へ東へ走っている。
風邪はようやく癒えた。
週末と来週にかけて最後の「死のロード」があり、はたしてちゃんとおつとめできるかしらと懸念していたのであるが、とりあえず治ってよかった。
土曜日、合気道の稽古をお休みして東京へ。
まずは苅谷剛彦さんと『中央公論』のための対談。仕切りは『大学ランキング』の小林さんと中央公論の井之上くん。
苅谷さんとお会いするのははじめてである。
苅谷さんはこの秋からオックスフォードの先生になられたので、イギリス住まいである。
今回は東大での集中講義のために一時帰国しているところを時間を作っていただいた。
話題はもちろん教育問題。
苅谷さんの『階層化日本と教育危機』は過去十年のあいだに読んだ本の中で、もっともインパクトのある書物の一つであった。
「インパクトがある」というのは内容が驚嘆すべきだったというだけではなく、その驚嘆すべきコンテンツがきわめてクールな語法で叙されている、その抑制の効き方の対比の妙に驚いたからである。
私が同じことを記述する立場だったら、はるかにセンセーショナルな語法を採用したであろう。
そう考えると、この抑制の強さに、私は苅谷さんの「不安と怒り」の深さをむしろ感じたのである。
苅谷さんの識見についてはこれまで教育論の中でなんども言及し、引用してきたので、ここでは繰り返さない。
苅谷さんにはたくさん訊きたいことがあったので、それを次々と質問してゆく。
一つは、『階層化日本…』は79年と97年の統計に基づいて教育危機の実相をあらわにしたものだけれど、それからもう10年以上が経っている。
97年から08年までのあいだに学校では何が起こっているのか、それについての苅谷さんの見解をまずお訊きした。
もちろん、97年以後も苅谷さんはずっと調査を続けており、その結果をまとめている(まだ本にはなっていないけれど)。
聞いて、驚いたのは、苅谷さんたちの研究チームの共同研究は2007年度の科研費申請がリジェクトされたということである。
『階層化日本…』は教育の現状について、もっとも射程の遠い、重要な研究であり、被引用回数においても、国際的な評価においても、同時期の教育研究の中で群を抜いたものだと私は思っている。
その継続が科研で拒否されるというのは、どういうことなのであろう。
日本社会における階層化の力学を解明されることから不利益を被る人々でもいるのだろうか?
たしかに、文教族や文科省の官僚の中には、苅谷さんの研究を不快に思っている人もいるだろう。
2007年は安倍内閣の教育再生会議が全盛だった時期だから、苅谷さんの研究が忌避されたことと平仄は合っているが。
ともあれ、苅谷さんによれば、教育における階層化圧力はさらに増しているそうである。
帰属する社会階層の低い子どもたちは、すでに義務教育の初期段階で、そのあと回復することのむずかしいほどのdisadvantage が負わされている。
だが、その事実は明確にはアナウンスされていないし、しばしば隠蔽されている。
そこで私の考えを申し上げてみる。
この教育的なdisadvantage いついては、低い階層の家庭では「教育投資が十分に行われていないせいで、子どもが学習機会を奪われている」という説明がなされているが、そのような説明そのものが格差を再生産している、というのが私の考えである。
例えば、メディアは「東大生の家庭の年収は平均より高い」という統計的事実に基づいて、「金のある家庭の子どもは学力が高く、金のない家庭の子どもは学力が低い」という説を流布している。
金のある家では潤沢に「教育投資」をすることが可能であり、金がない家ではそれができないことが学力格差の原因であるというようなことをメディアは書き続けている。
そこから導かれる実践的結論は「もっと金を」である。
それだけである。
あらゆる社会的格差は「金の有無」によって生じているという社会理解はそのまま「金の全能性」についての信憑に帰着する。
「金さえあれば何でも可能であり、金がないと何も成就しない」
それがメディアが過去30年ほど無反省に垂れ流してきたイデオロギーである。
しかし、私の見るところ、実際に起きているのはこのような「金の全能性イデオロギー」に対する耐性の弱い家庭に育った子どもほど学びの意欲を損なわれ、学力を下げているということである。
社会の上層を占めている人々は実際には「金ですべてが買える」と思っていない。むしろ、「金で買えないものの価値」についてつよく意識的な人々が日本では階層上位を形成している。
彼らは人間的信義、血縁地縁共同体、相互扶助、相互支援といったものが質の高い社会生活に必須のものであるということを知っている。
それが直接的には階層上昇のための「ツール」だから必須であるのではない。
それらは端的に「生物として生き延びるため」に必須の資源なのである。
階層上昇や年収の増加というようなことが最優先の課題になるのは、よほど豊かで安全な社会においてだけである。人類史のほとんどはそうではなかったし、今でも地上の過半の地域ではそうではない。そして、私たちの社会もほんとうはそうではない。
まず生き延びること、それが最優先の課題である。
生き延びるために貨幣が必要なことは当然だが、「金さえあれば」すべての問題が消失するほど、人間の世界はシンプルな作りにはなっていない。
しかし、不思議なことに、私たちの社会では、「金のない人々」は「金があればすべての問題は解決される」と信じており、「金がある人々」はそう思っていない。そして、その事実を指摘すると、ほとんどの人は「金がある人は『金があるせいですべての問題が解決されていること』に無自覚であるにすぎない」と勝ち誇ったように回答する。
一度「金の全能イデオロギー」を採用すれば、そのイデオロギーに対する否定的言明の存在そのものが「金の全能イデオロギー」の正しさを立証するように「金の全能イデオロギー」は構造化されている。
どこかで見た覚えのある社会理論である。
いい加減に学習すればよいと思うのだが、なかなか人間たちは全能感の誘惑に抗しきれないのである。
社会格差の意味を「金の多寡」であるとみなす人々は年収の増大に直接かかわりのない人間的資質の開発には資源を投じない。
彼らが採用した論理そのものがそのことを禁じるからである。
その結果、彼らは社会下層に釘付けにされる。
そのように社会的格差は構造化されている。
「金がないので、私たちは自己実現できず、自分らしい生き方ができずにいる」という説明が有効であるような社会集団内(私たちの社会はもう全体としてそういうものになっている)で育った子どもは「『金がない』という言明によって、あらゆる種類の非活動は説明できる」という「遁辞」の有効性を学ぶ。
だから、こうまとめることができると私は思っている。
私たちの社会で急速に進んでいる階層化は、「『金の全能イデオロギー』に対する耐性」の強弱によって決定されている。
人間の価値はさまざまな度量衡で考量しうると考えている子どもは、簡単には「学び」を拒否しない。
それは「学び」のうちには、「そうするといくら儲るか」という以外の「ものさし」をあてがうことでしか発見できない喜びや楽しみがあることを、そういう子どもたちは知っているからである。
「学び」の場において「学ぶことはいくらの儲けになるのか」だけしか問わないような子どもたちは学ぶ動機そのものを腐食させてゆく。
というような持論を苅谷さんにぶつけてみる。
こういうのは完全にスペキュレーションであるから、学問的厳密さにこだわる限り、当否は論じられない種類の論件である。
さて、それに苅谷さんはどう答えられたか…
それは『中央公論』で読んでくださいね。
そのあと議論は市民社会論へ移り、「変化」至上主義への批判へ移り、時間の経つのを忘れて、熱く語り合ったのでした。
いや〜、実に充実した時間でありました。
苅谷さんたちとホテルのロビーで別れて、次は高輪へ移動。
養老先生の忘年会である。
このメンバーが濃い。
養老孟司、甲野善紀、茂木健一郎、名越康文、そして私。エディター組はいつもの足立さんと、新潮新書の後藤さん。
去年もお招きいただいたのであるが、日程のつごうがつかなかったので、泣く泣くご無礼した。
今年は養老先生が私の上京日程に合わせてくださったのである。
さっそく、生ビールをくいくいと頂きつつ、いったいこれはどういう基準で選ばれたメンバーなのでしょうかと養老先生にお尋ねする。
「野蛮人じゃないの」というのが老師のご回答であった。
このメンバーでふぐを食べて、ひれ酒をぐいぐい飲んでいるわけであるから、もうどれほど大変なことになるのかはみなさまとて想像に難くないであろう。
先日、三宅先生のところで治療を受けながら、「こういうメンバーで宴会やるんですけれど、誰が貧乏くじを引くんでしょうね」とお訊きしてみた。
三宅先生は「それは名越先生でしょう」と即答された。
なるほど。
私だって、わりと座持ちはよいほうであるけれど、名越先生には遠く及ばない。
名越先生がそばにいてくださると、私は「まあまあ」と座をとりもつ意欲が急速に失せて、さらに座が荒れるような話題だけを選択するようになる。
他のみなさんについても推して知るべし。
「名越先生が最後はなんとかしてくれる」という信頼があれば、みんな安心である。
「いや、このメンバーだったら、精神科医がひとりいないとまずいだろうと思ってさ」と養老先生はおっしゃっておられた。
そうですよね。
実際にはこれに池田清彦先生も参加するはずだったのである。そのときの情景はもう私の狭隘な想像力の埒外である。
この2時間余の放言を録音して書籍化したら…という想像を今多くの編集者たちはなされたであろうが、残念ながら、それはむなしい想像というものである。
活字化可能なのは全体の30%くらいで、あとは全部「ぴー」だからである。
養老先生ごちそうさまでした。
また来年も呼んでくださいね。

明けて翌日は今年最後の多田先生の研修会。
先週の桜台合気道クラブ創立15周年行事を日本ユダヤ学会のために欠席して、多田先生、諸先輩がたに失礼をしたので、この機会に年末のご挨拶をすべく若松町の本部道場へ。
はやめについたので、道場に座り込んで『中央公論』の原稿を書く。
だんだん人々がやってくる。最初に来たのは闇将(なんとなく、そんな気がしたけど)。
甲南合気会からもウッキー、ヒロスエ、ヨハンナ、セトッチ。かなぴょんを入れると6人になる。
ヨハンナは大好きな深夜バスでの往復である。
ブルーノ君が来る。
本部道場の多田先生の研修会でブルーノ君と合気道のお稽古をする日が来るとは、1996年に最初にブザンソンであったときには思いもしなかったが、まことに「強く念じたことは実現する」という多田先生のお言葉はほんとうなのである。
ブルーノ君を諸先輩にご紹介する。
諸先輩と言っても、この日見えていた先輩は山田・坪井両先生だけ(途中から今崎先輩が来て、これでようやく3人)。
気がつけば、私も同門の「長老」の一人になっていたのである。
この年齢でまだ若い人に立ち交じってお稽古できるとはまことにありがたいことである(でも、ちょっときついけど)。
ツッチー、闇将、イリエくん、アシバくんたち若手にぶん投げられる。ふだん受け身を取っていないので、身体が痛いです。
工藤くんは本日は団地の自治会の集まりとかで欠席。生活感あふれる欠席理由である(涙)
稽古後、多田先生に『考える人』の次回のゲストをお願いして、ご快諾いただく。
多田先生にロングインタビューするのは「武道的身体」以来だから15年ぶりくらいになる。
どんなお話が伺えるかいまから楽しみである。
同門の若手諸君と手を振ってお別れして、ウッキー、ヒロスエと車で東京駅へ。
私はそれからNHKのお正月番組の打ち合わせ。
タイトルはどうしましょうかと訊かれたので、「変わるな!日本」というのをご提案する。
「いいじゃん、このままで」というのが私の最近の万象についての基本姿勢なのである。

2008.12.16

100年に一度の危機らしいけど

今年の漢字(というイベントはいつから始まったのかしら)は「変」だそうである。
「変」が「あなた、変よ!」という意味の「変」なら、私も同感である。
ただ、「変」が「変化」ということを意味しているとしたら、私はそれにはあまり同感できない。
世間のみなさまは(本邦の総理大臣も)「100年に一度の危機」というような言葉を軽々にお使いになるが、ほんとうに「100年の一度」というような地殻変動的社会構造の崩落現象が起きているとご当人が思っているなら、もう少し「これまでとは違う」対応をされているはずであるし、言葉づかいもずいぶん違ってよいはずである。
でも、私の目には「まったくいつもと同じ」ようにしか見えない。
ボーナスが減りそうだから買い控えをする。売り上げが減ったので非正規労働者を馘首する。貸し剥がしをする。ばらまき財政出動をする。
どれも見慣れた風景である。数年前にも見た覚えがある。
この風景のどこが「100年に一度」なのか、誰か教えていただきたい。
この事実から演繹できる可能性は二つである。
一つは「今起きている変化は『100年に一度の危機』などではなく、『よくある危機』にすぎない」
もう一つは「今起きている変化は『100年に一度の危機』なのであるが、みんなどうしていいかわからないので、『よくある危機』のときと同じようなルーティン的な対応をしている」
前者であれば、別に浮き足立つ必要はない。
後者であれば、いよいよ浮き足だってはならない。
腹を据えて、いったい何が起きているのか。被害はどの程度で、このあとどこまで拡がるのか。使えるリソースは何が残っているのか。それをどのように分配するのか。誰がその「さじ加減」を按分するのか。その適切性とフェアネスはどのように担保されるのか・・・といった一連の問題が考察されなければならないはずである。
しかるに、私が見るところ、そのような仕事はいま我が国要路の人々はどなたもなされていない。
少なくとも、そのような仕事が必要であるということは誰もアナウンスしていない。
総理大臣は解散総選挙もしないし、挙国一致的な救国政権を作る気もなさそうである。
「このまま居座る」というのは「この危機は『いつものルーティン』によって処理するのが最適である」という政治判断をすでに彼が下しているということである。
それは彼が被害評価を「きわめて軽微」と理解しているということを意味している。
しつこく言わせてもらえるけれど、「『100年に一度の危機』なので、いつも通りに処理します」という命題は誰が読んでも論理矛盾をきたしている。
このような論理矛盾を犯して平然としている政治指導者を頂いている国は知的にはかなり危機的な水準にあると判断してよろしいであろう。
というわけで、私は「今起きている変化は『100年に一度の危機』なのであるが、みんなどうしていいかわからないので、『よくある危機』のときと同じようなルーティン的な対応をしている」というふうに現状を理解することにしている。
別にそのように理解したからといって何か特別なことをするわけではない。
いつもと同じ年末年始を過ごすだけである。
「買い控え」というようなせこいことはしない。むしろじゃんじゃんお金を使おうと思っている。
それによってささやかながら市場に需要が発生するなら、それは「危機」対応としては間違いなくプラスに作用するはずだからである。
ほんとうに日本国民のみなさんが「100年に一度の危機」だと思っているなら、同胞諸君は個人金融資産1500兆円の一部なりとも今このときに吐き出して、企業を救い、馘首される労働者たちに雇用を確保すべきではないのか。企業は下請けの切り捨てとか雇用調整というような「いつも通りの対策」とは違う手だてを考え始めるべきではないのか。
そういう「いつもと違うこと」をするのが「変化」ということではないのか。

2008.12.17

日本の外国文学研究が滅びるとき

水村美苗さんの話題作『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で』を鹿児島への機内で読了。
まことに肺腑を抉られるような慨世の書である。
『街場の教育論』で論じた日本語教育についての考えと通じるところもあり、また今書いている『日本辺境論』の骨格である、日本はユーラシア大陸の辺境という地政学的に特権的な状況ゆえに「政治的・文化的鎖国」を享受しえた(これは慶賀すべきことである)という考え方にも深いところでは通じているように思う。
とりわけ、「あらまあ」と感動したのは、「アメリカの植民地になった日本」についての考察である。
明治維新のときに欧米帝国主義国家がクリミア戦争や南北戦争や普仏戦争で疲弊していなければ日本は欧米の植民地になっていただろうということを言うひとは少なくないが、「植民地になって150年後の日本」についてまでSF的想像をめぐらせた人は水村さんをもって嚆矢とするのではないか。
「たとえば、もし、ペリーが艦隊を率いて浦賀に入港したあとアメリカに南北戦争がおこらなかったとする。そして、まさに官軍賊軍開国攘夷入り乱れたままの混乱状態が続くうちに、日本がフィリピンと同様、アメリカの植民地になっていたとする。ありえないことだと思う人もるかもしれないが、近代史を前に想像力を働かせれば、ありえなかったことではまったくない。」(178頁)
さて、そのとき、日本の言語的状況はどうなっていただろうか。
水村さんはこんなふうに想像する。
アメリカが圧倒的軍事力と科学技術の力をもって列島を占領したとする。もちろんそのあと政治と軍隊と教育と学術の全領域における公用語は英語になる。
「すると、植民地化された国の常として、現地の日本人にとっての最高の出世は、英語を学び、アメリカ人と日本人のあいだのリエゾンたることになってしまう。この場合のリエゾンとは、支配者の命令を被支配者に伝えて、被支配者の陳情を支配者に取り次ぐ役目をになった連絡係である。しかもそのようなリエゾンを選抜するシステムが、出自や貧富を問わない公平なものであればあるほど、日本中の優れた人材が英語を読み書きする二重言語者となる。彼らはあたかも科挙制度が導入されたがごとく、ことごとく英語の〈図書館〉に吸い込まれてしまうようになる。彼らは高等教育を英語で受け、英語で読むだけでなく、英語で書くようになるのである。」(179頁)
〈図書館〉というのは水村さん独特のメタファーで、世界の成り立ちと人間のありかたについての先人たちの知識を収蔵した、ボルへス的に巨大な知のアーカイブのことである。
〈図書館〉のアクセスコードは〈普遍語〉lingua franca である。
このアメリカ植民地時代は20世紀のどこかで終わる。たぶん1960年代に。
アフリカ諸国といっしょに日本も欧米帝国主義から独立を果たすのである。
「ナショナリズムの時代」に「日本人はアメリカの文化的軛から脱せよ。父祖の伝統に還れ」というスローガンのうちに植民地支配は終わる。
ありそうな展開である。
けれどもそのあとふたたび列島の主権者となった日本人たちは「何語を使って思考する」ことになるのであろうか。
そこまで考えた人はこれまでいない。
日本語はおそらく「国語」として再興されるであろう。
しかし、そのとき日本人は英語を捨てるであろうか。
「果たして、行政はどちらの言葉を使うことになったか。学問はどちらの言葉でなされたか。そして、小説はどちらの言葉で書かれたか。いずれにせよ、そのとき〈国語〉として流通する日本語は、今私たちが知っている日本語と同じものではありえない。」(180頁)
どうして、「同じものではありえない」のか。
それについて水村さんが指摘することはめまいがするほどに正しい。
それは、「植民地時代を終えた日本」の近代史を振り返っても、そこには二葉亭四迷も森鴎外も夏目漱石も内田百閒も芥川龍之介も谷崎潤一郎も…誰もいないからである。
彼らを「外国語を読める人間」にしかアクセスできないアーカイブに押しやった推力は、幕末における勝海舟や福沢諭吉や大村益次郎の場合と同じく、書物を介して欧米の「知」にキャッチアップできないと「日本の独立」が守れないという危機感だったからである。
だから、彼らはいずれも「翻訳者」であった。
欧米の知のアーカイブを日本語に複写し、必要な語彙や概念を発明し、日本語を普遍語と共約可能の言語に仕上げることが鴎外や漱石たちの世代の国民的急務であり、現に彼らは超人的な努力によって一世代でそれを成し遂げた。
「普遍語」を知性的にも感性的にも受容しうるだけの厚みと奥行きのある日本語を作り上げるために彼らは論理の必然として「日本近代文学」の出現を必要としたのである。
幕末にアメリカによって占領され、欧米の知のアーカイブに英語学習者がダイレクトにアクセスできるような知的インフラが整備された植民地日本では、日本語を普遍語と共約可能な言語にまで高めねばならないという推力そのものが存在しない。
今私たちがふつうに使っている日本語の学術用語の過半は「翻訳者」たちが作り上げたものである。
彼らがいなければ、ポスト植民地日本の日本語話者の語彙には「社会」も「歴史」も「哲学」も「権利」も「義務」も「自由」も存在しない。そのような日本語の概念は存在しない。
植民地ではそのままsociety, history, philosophy, right, duty, liberty といった語で知的な人々は会話し、思考し、論述していたはずだからである。もちろん「植民地」という語も「概念」という語も植民地日本には存在しない。
ポスト植民地日本の私たちの「土語」はそこまでやせ細ったものとなる。
そのときに日本語で学術論文を書く人間はたぶんいないであろう。
書きたくても書けないからである。
同じ理由で、日本語で文学作品を書く人間もいないであろう。
江戸文学からあとの「日本近代文学」を欠落させた150年が終わったとき、私たちにいったいどのような日本語文学が可能であろう。
21世紀の日本人の中に西鶴や南北や馬琴の骨法をただしく伝えた文人の伝統が残って、日本文学を幕末から「接ぎ木」するだろうという楽観に私は与しない。
1860年代に日本が植民地になっていたときに、日本語はどうなっていたのかというスペキュレーションに長々と時間をかけたのは、「植民地になって150年、独立を果たしてから50年」というそのときの日本語の言語状況と「同じ状況」に今私たちは入りつつあるからである。
とりあえず水村さんはそう考えており、私もこの考えに説得された。
私たちは今、この「アメリカのから独立してから50年後の日本」と構造的に類似した知的状況のうちに投じられている。
それは「日本語を英語と共約可能なだけ知性的感性的に厚みのある国語として作り上げる」努力を止めることを日本人たちが受け入れたということである。
まさに私たちのまわりではそのようにすべてが推移している。
「日本の学者たちが、今、英語でそのまま書くようになりつつある。自然科学はいうまでもなく、人文科学でも、意味のある研究をしている研究者ほど、少しずつそうなりつつある。そして、英語で書くことによって、西洋の学問の紹介者という役割から、世界の学問の場に参加する研究者へと初めて変身を遂げつつある。―世界の〈読まれるべき言葉〉の連鎖に入ろうとしつつある。(…)日本の学者たちが英語で書きはじめつつあるその動きは今はまだ水面下の動きでしかなく、町を行く人には見えない。だがあるときからは、誰の目にも明らかになるであろう。(…)日本の大学院、それも優秀な学生を集める大学院ほど、英語で学問をしようという風に動いてきている。特殊な分野をのぞいては、日本語は〈学問の言葉〉にはあらざるものに転じつつあるのである。」(256-6頁)
みなさんはあまり実感がないであろうが、この「学問の言葉を英語にシフトする流れ」(それは言い換えれば「学問の言葉としてもっぱら自国語を用いる学者を低く格付けする流れ」ということに等しいのだが)、今、アジアの大学を、急速に、驚くほど急速に席巻しつつある。
韓国はすでに完全に「高等教育の用語は英語」という方向に国策的に舵を切った。
英語で授業をすること、英語で論文を書くこと、英語圏に留学生を送り出すこと、英語圏の留学生を受け入れること、それらが高い「Index」に結びつき、 文教予算の配分において優遇され、受験生に選好される。大学にとっては「英語シフト」は生き残りのための必然である。
中国も台湾もすでにこの「流れ」に巻き込まれている。シンガポールやフィリピンのような旧英米植民地は疾くから「現地語による学問」にリソースを割くような「無駄」はしていない。
ベトナムも漢字文化圏であったが、現在は漢字とベトナムオリジナルの漢字(チュノム・字喃)の使用が排除され、アルファベット表記に切り替えた。国際共通性は確保されたが、ベトナムの人は阮朝以前のテクスト、つまり祖父の代から以前の資料は歴史資料も文学作品ももう読むことができないという大きな代償を払った。
自国語を「生活言語」として退け、英語を「普遍語」とする流れはこのようなアジア全域を巻き込んでいる「競争的」環境においてはとどめることができないだろう。
水村さんが指摘しているように、日本の高等教育のきわだった特徴は鴎外漱石の時代からそれがひさしく「巨大な翻訳機関」だったことにある。
私もまたそのような「翻訳機関」で外国語教育を受け、自分の学術的責務はフランス語や英語で書かれた学術的なテキストを受け止めることのできる日本語を書くこと、それを外国語をよく解さないふつうの日本人の生活言語の中に(むりやりにでも)練り込んでゆくことだとずっと信じてきた。
その意味で私は幕末にオランダ語を読み、訳し続けた人々の直系の末裔である。
私は一度もフランスに留学せず、一度もフランス語で論文を書いたことのないフランス文学者だった。
私の書くものの想定読者はフランス語を共通の学術用語とする外国の人々ではなく、私と生活言語を共有する日本人たちだったからである。
「他者」や「構造」や「現象」や「存在」についてきちんと語ることのできるタフで奥行きのある生活言語の形成にかかわることが私の責務だとずっと思っていた。
でも、私の同世代ではそういう考えをする学者はもう少数派だったし、下の世代にはもうほとんどいない。
彼らははやばやとフランスに留学し、フランス語で論文を書き、フランス語で学会発表をし、日本の生活者の生活言語には関心を示さない。
専門的主題について、日本語で書くことはこの業界ではしばしば「vulgarization」(通俗化)と呼ばれた。
もっとあからさまに「啓蒙書」と言われることもあった。
日本語で論文を書くことは自分の知見の学術的価値を損じることになると公言する人もいた。
そんなふうにしてフランス語で書かれたテクストを練れた日本語に翻訳するという仕事は組織的にニグレクトされ、その結果30年ほどして、日本の大学からフランス文学科というものそのものがなくなった。
もちろん、フランスに行って学位を取り、フランス語で著述している学者はまだいる。けれども、いずれいなくなるだろう。
日本のどこにもニーズがないからである。
日本にはもうフランス文学者もフランス哲学者にも需要がない。
「そのような人々の書くものを読む以外にフランスの文化にアクセスする手だてがない読者」を30年かけて根絶してしまったからである。
どこかフランス語圏の大学にフランス語で教える大学教師のポストがあればよいが、フランス語を母語とする研究者たちとポスト争いをして勝てる可能性は少ない。
フランス語圏で日本人学者に需要がないわけではない。だが、求められているのは「日本文学」や「日本思想」や「仏教思想」などの専門家だけであり、フランスで高等教育を受けたがる日本人の中にそのような領域の専門家はふつういない。
とりあえずフランス語の世界では、「フランス語を日本語に置き換える」という作業の重要性が顧みられなくなった後に、学界そのものが重要性を失った。あと数年から十年のうちに消失するだろう。
もちろん、そのあともフランスで高等教育を受けてフランス語で研究し、著述を行う日本人はいなくならない。
けれども、先達が150年かけて錬成してきた「フランス語で書かれたテクストを適切な日本語に置き換える技術」は誰にも継承されずに消える。
私は長い時間をかけてその技術を身につけたけれど、もうそれを伝える「弟子」はひとりもいない。
私が長い時間をかけて身につけた二つの技術のうちのひとつ(合気道)については、それを伝えてほしいという人々がたくさんいるのに、フランス語を日本語にする技術については後継者が一人もいない。
「モヒカン族の最期」みたいなものである。
同じ理由で明治以来の「英文学研究」も「アメリカ文学研究」の歴史もあと一世代で終わるだろう。
若い研究者たちはアメリカやイギリスで学位を取り、英語で論文を書き、英語で授業をしている。
翻訳を自分の主な責務だと思っている学者はもうほとんどいない(柴田元幸さんくらいである)。
遠からず大学の教壇の過半を占めるはずの英語を母語とする人々は「英語で書かれたテクストを日本語に訳す」という作業に何の知的価値も認めないであろう。
そして、そのときには「英米文学研究」を日本の大学で講ずる理由がもう何も存在していないことに人々は気づくのである。
研究したければ、作家の故国(それはもう英語圏とは限らない)の大学でおやりになればよろしい。そこなら資料も豊富だし、伝記的事実の伝え手もいるはずである。
そのときは「Murakami Haruki研究」が日本の英米文学者が唯一他国の研究者に「勝てる」領域になったりするのかもしれない。

2008.12.18

大学は市場に選別されるのか?

こんな記事を読んだ。

構造改革特区制度を利用して、株式会社が設立したLCA大学院大学(大阪市、学長・山崎正和中央教育審議会会長)が平成21年度の学生募集を停止することが17日、分かった。
学生数が定員を大幅に割り込み、経営難に陥っていた。
特区制度を利用して株式会社が設立した大学の募集停止は初めて。
LCA大は、経営コンサルティング会社「日本エル・シー・エー」(東京)の子会社が18年に開設。大卒者を対象にした2年制で、平日夜や土日の講義で企業経営を教えている。
文部科学省によると、一学年の定員70人に対し、19年度の入学者は14人、今年度は8人と大幅に割り込んでいた。同社は20年3月末で約1億8000万円の債務超過。親会社も7月末に債務超過を公表し、事業見直しを進めていた。在校生が卒業する22年3月末までは講義を続ける方針だが、その後は廃校の可能性もあるという。
特区制度による規制緩和で、株式会社の学校設立を認めた背景には、新規参入による競争で教育の質を高めようという狙いがあったが、現状はこうして設立された大学の多くで学生の確保に苦しんでいるという。(産経ニュース、12月18日)

これについてたいへん素朴な質問が二つある。
一つは「企業経営を教える大学」が企業経営に失敗した場合、その大学で教えていた教育「商品」は無価値であったと推論することを防ぐことができるかどうか、防げるとすればどのようなロジックによってか、という問いである。
こののち、卒業在校生たちが「詐欺」で大学を告訴した場合(良識ある市民であればそのような無体なことはしないと思うが)、理事会はどう弁明するのであろう。
おそらく、大学ではきちんとした経営学の教育が行われていたのであるが、それとは違うレベルで経営が破綻したのであるというふうに理事会の方々は述べられるであろう。
私はその通りだと思う。
企業経営を教えていた当の大学が経営破綻したという事実から私たちが引き出しうるのは、「教育にビジネスのロジックは適用できない」という言明である。
そして、これこそは私の年来の主張に他ならない。
「evidence based 」という言葉は、こういう場合に使いたいものである。

第二の問いは、この破綻した大学の学長が「中央教育審議会会長」であるという事実にかかわるものである。
教育にかかわる国策の根本を議する審議会の長が経営破綻した大学にかかわっていた。
この事実から私たち大学人が引き出しうる実践的な(「にべもない」)教訓は「中教審の答申を真に受けて大学の制度改革に走ると危ないかも・・・」ということである。
なんと、これもまた私の年来の主張ではないか。
中教審は教育への「市場原理の導入」を許した。
進んで導入したとは言わないが、教育が市場原理に屈することを座視した。
市場原理とは「市場は間違えない」ということである。市場は「見えざる神の手」によって適者を選別し、不適者を排除するというルールに一票を投じることである。
私が知りたいのは、もしこの大学が市場から「不適」として排除されたとするならば、学長自身はその判定を是として受け容れるかどうか、ということである。
判定を粛々と受け容れ、「市場に不適とされた大学の教学の責任者」という事実を重く受け止めるなら、これから後、教育について公的な場で発言することは慎まねばならないだろう。
この判定を「否」とするなら(私としてはぜひそうしてほしいのだが)、「市場は教育機関の質について誤った判定を下すことがある」ということをこの機会にはっきり語っていただきたいと思う。
市場による格付けとか定員充足率とか偏差値とか科研の採択率とか卒業生の就職力とか生涯賃金とか、そんなものは大学における教育の指標としては「たいした意味はない」ときっぱり語っていただければと思う。
中教審会長のその言葉はどれほど私たちを勇気づけるであろうか。
「数値で教育のアウトカムは測れない。市場のニーズは教育の質に相関しない」
日本における真の「教育再生」はその言明からしか始まらないと私は信じている。

2008.12.20

「おせっかいな人」の孤独

鹿児島に行った話を書き忘れていた。
鹿児島大学におつとめの旧友ヤナガワ先生に呼ばれて、鹿児島大学が採択された教育GPの一環として、キャリア教育について一席おうかがいしたのである。
キャリア教育については、もし「労働のモチベーション」をほんとうに上げようと望むなら、「自己利益の追求」という動機を強化しても得るところはない、と私は考えている。
その話をする。
これについては、『潮』と『新潮45』の近刊にも書いているので、繰り返しになるが、私はこう考えている。
「仕事」には「私の仕事」と「あなたの仕事」のほかに「誰の仕事でもない仕事」というものがある。そして、「誰の仕事でもない仕事は私の仕事である」という考え方をする人のことを「働くモチベーションがある人」と呼ぶのである。
道ばたに空き缶が落ちている。
誰が捨てたかしらないけれど、これを拾って、自前のゴミ袋に入れて、「缶・びんのゴミの日」に出すのは「この空き缶を見つけた私の仕事である」というふうに自然に考えることのできる人間のことを「働くモチベーションのある人」と呼ぶ。
別に私は道徳訓話をしているのではない。
私が知る限り、「仕事のできる人」というのは、例外なく全員「そういう人」だからである。
ビジネスの現場において、「私の仕事」と「あなたの仕事」の隙間に「誰の仕事でもない仕事」が発生する。
これは「誰の仕事でもない」わけであるから、もちろん私がそれをニグレクトしても、誰からも責任を問われることはない。
しかし、現にそこに「誰かがやらないと片付かない仕事」が発生した。
誰もそれを片付けなければ、それは片付かない。
そのまましだいに増殖し、周囲を浸食し、やがてシステム全体を脅かすような災厄の芽となる。
災厄は「芽のうちに摘んでおく」方が巨大化してから対処するよりずっと手間がかからない。
共同体における相互支援というのは要するに「おせっかい」ということである。
最初に「災厄の芽」をみつけてしまった人間がそれを片付ける。
誰もが「自分の仕事」だと思わない仕事は「自分の仕事」であるというのが「労働」の基本ルールである。
たぶん私の言葉は現代日本人の多くには理解できないだろう。
労働者の多くと左派知識人は「できるだけ自分の仕事を軽減することが労働者の権利である」という硬直した思考にしがみついている。
私は実際にそう公言した人間を(大学の教師の中で)たくさん出会った。
彼らはこんなふうに考えていた。
自分は「収奪された労働者」であるから、「労働者を収奪するシステムがクラッシュしても、それは労働者の責任ではない。むしろ、労働者を収奪するシステムの瓦解を加速するという仕方で、私は革命的に行動しているとさえ言えるのである」
そんなロジックで彼ら彼女らは自身の怠業を正当化していた。
ほんとの話である。
私が助手として勤務していたある大学の研究室では、教員たちは(たぶん10年くらい)研究室の掃除を一度もしていなかった。
自分の机のまわりくらいは片付けたかもしれないが、公共スペースはゴミだらけだった。
それは私の仕事ではない、と彼らは言った。
そのようなことのために給料をもらっているのではない、と。
その通りである。
でも、私は助手になって最初に公共スペースの掃除をした。
私は意外なことにわりときれい好きだからである。
研究室を片付けるのに5日ほどかかった。
ものすごい汚れ方だった。
さまざまなゴミが詰まっていて使用不能になっていた演習室が一つあり、それを片付けるのにも3日かかった。
たしかにそれは「私の仕事」ではなかったし、誰も私にそんなことは要求しなかった。
けれども、汚れはすでに研究室の日常業務そのものを浸食し始めていたのである。
だが、専任教師の誰ひとりとして「ここを掃除しないか」とは言い出さなかった。
もしかすると、彼らはこんなふうに研究環境が日々劣化してゆくことを座視することで、自分たちの労働環境がどれほど劣悪なものであるか、自分たちがどれほど非道に収奪された労働者であるかを目に見えるかたちで人々に示したかったのかもしれない。
だから、私が部屋をきれいにしたことに率直に「きれいになったね」とか「ありがとう」と言ってくれた人はほとんどいなかった。
同僚の助手などはあからさまに不快そうな顔をした。
私のボランティア的清掃活動はその助手が在任中これまで環境美化のために何もしなかったことへの迂回的な告発だととったのである。
別のある職場では、着任と同時に、先輩から「できるだけ仕事しないでください」と頼まれたこともある。
「あなたがあまり働くと、私たちがまるで働いていないみたいに見えるから」
ほんとうである。
考えてみれば当然だが、「政治的に正しい」人たちは「よけいな仕事」をしたがらない。
「誰の責任でもない仕事」をさくさくと片付けたせいでシステムの不調が前景化しないと、彼らの「世の中間違っている」という主張が裏付けられないからである。
だから、「誰のものでもない仕事」を「あ、オレがそれやっとくわ」というふうに片付けてしまう「おせっかい」を彼ら彼女らは快く思わない。
私はあらゆるタイプの「政治的に正しい人」から嫌われるけれども、それは私が「ついゴミを拾ってしまう」人間だからである。
私のような人間ばかりであると、社会はどれほど制度設計がろくでもないものであっても「けっこう住みやすく」なってしまう。
だから、「私たちの社会は根本的改革を必要とするほどに病んでいる」という事実を立証したいと思う社会理論家たちは、目の前にある「災厄の芽」を摘むことで、矛盾の露呈を先送りし、社会の崩落を防ごうとする人間を憎むようになるのである。
自己利益だけを追求する人々と、社会の根本的改革を望む「政治的に正しい」人々は、どちらも「おせっかい」なことをせず、私たちの社会をシステムクラッシュに(意識的であれ無意識的にであれ)向かわせる。
その間で「お掃除する人」は孤立している。
けれども、「災厄は先送りせねばならない」ということと「災厄の芽は気づいた人間が摘まなければならない」ということが私たちの社会の常識に再度登録されるまで、私は同じことを執拗に繰り返さねばならない。


2008.12.21

カウントダウン

金曜日の教授会が終わって、年内は会議があと一つ、授業が一つでおしまい。
これで「サラリーマンとして迎える年末」も残り2シーズンとなった。
いろいろなものがカウントダウンで消えてゆく。
「初級フランス語の授業」はもうあと2週で終わりである。
2009年度からはクラス担当をはずしていただいたからである。
28歳から教壇に立ってフランス語の文法を30年教えてきた。
それもあと2週、前未来と中性代名詞と半過去まで教えて、私の「フランス語教師人生」は終わる。
そのあと、フランス語を教えるという機会はもう二度とないであろう。
「ゼミ生面接」も今年が最後である。
今の2年生(来年度のゼミ3年生)といっしょに私も卒業するからである。
毎年12月に数十人の2年生と膝突き合わせて、その知的関心の奈辺にあるかを聞き取るという、たいへんおもしろいイベントであったけれど、それももうおしまい。
学院標語のマタイ伝を拝読するのも来年三月の卒業式で最後である。4年間、入学式と卒業式でそれぞれ2回ずつ、つごう16回やったことになる。
大学クリスマスで学生たちとキャロルを歌うのも、あと2回。
大学の構内をこつこつと靴音をならしながら歩いていると、こんなふうに冬空の下のキャンパスを歩くのもあと何回かね・・・といささか感傷的になる。
私は「カウントダウン」好きなのである。
あらゆるものは「いつかなくなる」。
「いつかなくなる」と思ってみつめていると、いまそれがここにあるということが奇跡的なことのように、恩寵のように思えてくる。
養老先生はよく「オレはもうすぐ死ぬんだから」とあの低い声でおっしゃるけれど、そういうことを言ったあとに「ふぐさし」などをじつに美味しそうに口中に投じられるのである。
自分の存在がこの世界から消えてゆくそのときを「消失点」に擬して、それに基づいて自分がこのあと残された限られた時間の中で、何をするのか、何に優先的に有限のリソースを投じるのかを具体的に考えるというのは、とてもたいせつなことである。
「有限の」というところがキモなのである。
ものを考えるときに、私たちは「無限の時間、無限のリソース」というものを前提にしがちである。
その方が知的負荷が少ないからである。
例えば、「すべての人が幸福になる社会」とか「あらゆる差別が廃絶された社会」とかいうものを実現しようとするプランは「無限の時間、無限のリソース」を前提にしないと起案できない。
それを20年や30年のスパンで実現しようとしたら、「有限」を「無限」と言いくるめるしかない。
つまり、「私の理説に従わない人間は非人間であるので、これらについては考慮する必要がない」「私と理想をともにしない人間は鬼畜であるので、これは一掃してよい」とかいうかたちで適用範囲を暴力的に限定する。
高い理想を短期的に実現しようとする社会理論はしばしば「人間」の範囲をぎりぎりまで限定して、自説に同調しない人間をまとめて「人非人」として「カースト外」にたたき出すことで、理論の純度を守ろうとする。
「私たちが使えるリソースは有限であり、残された時間はわずかである」という限定はが私たちが過度に暴力的になることを抑止することができる。
あと三日で死ぬという人間に向かって「おまえ、生き方変えろよ」と説教する人間はいない。
あと三年で死ぬという人間に向かっても似たようなものである。
「残る時間は思い残すことなく、好きに生きてくれ」と私なら言うであろう。
では、あと三十年で死ぬという人間に向かってはどうか。
この場合には、私なら「生き方変えろよ。いまからでも遅くないからさ」と言いそうな気がする。
では、「あと三年で死ぬ人間」と「あと三十年で死ぬ人間」のあいだのどこにボーダーラインはあるのか。
どこで「うるさく説教をしてよい残り時間」と「もう好きにしてくれとあきらめる残り時間」が区切られるのか。
区切りなんかない、と理論的な人は言うであろう。
しかし、実際には「区切りがある」。
だって、現に私は「うるさく説教する相手」と「もうしない相手」をちゃんと区別して対応しているからである。
どうやって識別しているのか訊かれても私には答えようがない。
でも、ちゃんと識別しているのである。
「有限の時間の中で生きる」というのは「そういうこと」である。
人が「無限の時間の中で生きる」のであれば、私たちは「あらゆる場合に他人の生き方についてがみがみ言う」か「どのような場合にも他人の生き方については干渉しない」か、どちらかを選ばなければならない。
けれども、私たちは無限の時間の中で生きているわけではない。
だから、時と場合によって、「がみがみ言ったり」「何も言わなかったり」する。
そういう態度を「無原則」であると言われても困る。
「有限の時間、有限のリソース」という限定の中で生きている人間が採用する「原則」は、比喩的に言えば、「微分的」なことばづかいでしか語ることができない。
「微分的」というのは「そこで補助線を引くと、どこに向かっているのか、上に向かっているのか、下に向かっているのか、はっきりと見える」ということである。
「カウントダウン」というのは、そのような微分的思考を習得するためにはたいへん効果的な方法である。
私が「カウントダウン」と呼んでいる事態を別のことばづかいで語っている人もいる。
「武士道といふは死ぬ事と見附けたり。毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果たすべきなり。」(山本常朝、『葉隠』)
「家職」という言葉を読んで、若いときの私は「視野の狭い人だな」と思った。
今は違う。

2008.12.24

小体な共同体へ

お掃除部隊の大活躍で、家の煤払いが一日で終了。
ゑぴす屋タニグチ率いる「お掃除部隊」の諸君の獅子奮迅の人海戦術によって洗濯機の排水溝から野菜室で凍り付いていた賞味期限切れ食品まできれいさっぱり片付いた。
うれしいことである。
もともと私はそれほど家を散らかす人間ではない。どちらかといえば、かなり片付け好きな人間である。
だが、家の整理整頓というのは寸暇を惜しんでやるというものではなくて、ゆったりとした気分の中で行い、興が乗って、「よっしゃ、こうなったら徹底的にやるか」というような気合いになっても、それが可能なだけの時間的余裕というものがないとかなわぬのである。現在のようなタイトなタイムテーブルで生きていては、ただ床に散らかっているものをしまいこむ程度のことしかできない。
夏物冬物整理とか、CDとDVDのアルファベット順配架とか、書棚の機能的再編というようなことはまだ遠い夢であるが、とにかく家の中はみちがえるようにぴかぴかになった。
お掃除部隊諸君の健闘に深謝の意を表したい。
ゑぴす屋タニグチ、キヨエ&マサコ、ウッキー&ヒロスエ、ムカイさん、タカトリくん、トーザワくん、みなさん、どうもありがとう。
途中で、お昼ご飯、おやつのブレークを入れて、車座になる。
お茶を啜りながら、がやがやしゃべっていると、何か不思議な既視感が感ぜられるのである。
合気道の諸君といると、いつも感じることだが、この共同体のかたちはずいぶん古めかしいもののような気がする。
従業員十名ほどの町工場の昼休みというか、祖母の十三回忌に集まった田舎の親戚たちというか、そういう感じ。
私が子どものころまではそういうものが共同体のデフォルトだった。
いつかそういう手触りの共同体は私たちのまわりからすっかり失われてしまった。
でも、私にはこのサイズの、この親疎の距離感が、きわめて心地よい。
小津安二郎の『秋日和』に出てくる丸の内のサラリーマンとOLたちの休日が私にとってはある種の理想である。
私が「甲南麻雀連盟」の創設を思い立ったのも、思えば『早春』で須賀不二夫のアパートの一室に集まって、池部良や高橋貞二や田中春男が雀卓を囲む場面があまりに楽しそうだったからである。
『早春』の中には、田舎からうどんを送ってきたので、みんなで鍋をする場面もある。
ちょうど私も丸亀の守さんから明水亭のうどんを送っていただいたので、寄せ鍋とチゲ鍋にうどんを入れて食べようということになったのである。
街はクリスマス時期であるが、お掃除部隊のみなさんは街へ出るよりは、同門の道友たちと集って、鍋をつつきワインを飲みながら、合気道について、恋愛と結婚について、終わりなき対話を繰り広げている方が楽しそうである。
私はこの傾向はずいぶん健全なものではないかと思う。
メディアではものが売れなくなったと言うが、その一方できわめて好調な売り上げを達成している業界もある。
仄聞するところによると、結婚式産業がたいへん潤っているらしい。
ブライダル産業でバイトをしているゼミ生が二人いるが、彼女たちの報告によると、金融危機以降もこの業界はまったく売り上げは落ちていないどころか、どんどんクライアントが増えているそうである。
どうやら、若い人たちは「きちんとした結婚式を挙げる」ことに意欲的になっているらしい。
これは「リスク社会において、人々は再び血縁共同体という相互支援ネットワークをもつことの重要性を思い知るようになるであろう」という私の予言とも平仄が合っている。
私たちはまたふたたび私の父親たちの世代がそうであったような、社員旅行や週末のハイキングや麻雀を待ちわび、結婚式や法事に集まる親戚や旧友たちとのやりとりに打ち興じる小体で慎ましい共同体に回帰しつつあるような気がする。

2008.12.25

福翁の「はげしい」勉強法

文部科学省は22日、13年度の新入生から実施する高校の学習指導要領の改訂案を発表した。「英語の授業は英語で行うのが基本」と明記し、教える英単語 数も4割増とする。
高校の改訂案では英語で教える標準的な単語数が1300語から1800語に増加。同様に増える中学とあわせて3千語となる。中高で2400語だった前回改訂の前をさらに上回り、「中国や韓国の教育基準並みになる」という。
改訂案は「授業は英語で」を初めてうたった。長年の批判を踏まえ「使える英語」の習得を目指すという。
(12月22日朝日新聞)

水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』を読んで、「英語の言語的一元支配」が「現地語文化」をどのように滅ぼすことになるのかについて暗い予測をしているときに、こういう記事を読まされると、ほんとうに気が滅入る。
すでに現在の日本の高校生の英語学力は壊滅的なレベルにある。
それは「文法、訳読中心の授業のせいで、オーラル・コミュニケーションが不自由である」というようなことばで言い表される事態ではない。
ほんとうに「英語ができない」のである。
文法も訳読もできないのである。
別に日本の子どもの外国語習得能力が低下したわけではない。
そうではなくて、人を外国語を学ぶことへと向かわせるモチベーションの根本が腐食しているのである。
私たちはなぜ外国語を学ぶのか、その根本のところの理解を教育行政がまったく取り違えているから、こういうことになるのである。
繰り返し言うが、外国語を学ぶのは、それが「外部へと繋がる回路」だからである。
今年の2月に「小学生から英語を教える」という学習指導要領改訂について書いたので、それをもう一度一部採録する。

外国語は「私がそのような考え方や感じ方があることを想像だにできなかった人」に出会うための特権的な回路である。
それは「私が今住んでいるこの社会の価値観や美意識やイデオロギーや信教」から逃れ出る数少ない道筋の一つである。
その意味で外国語をひとつ知っているということは「タイムマシン」や「宇宙船」を所有するのに匹敵する豊かさを意味する。
けれども、それはあくまで「外部」とつながるための回路であって、「内部」における威信や年収や情報や文化資本にカウントされるために学習するものではない。
外国語は「檻から出る」ための装置であって、「檻の中にとどまる」ための装置ではない。
役人たちは国民を「檻の中に閉じ込める」ことを本務としている。
その人々が外国語学習の本義を理解していると私は考えることができないのである。

私の意見はそのときと変わらない。
学生たちを見ているとわかるけれど、子どもたちの英語運用能力は二極化している。
一方にオーラル・コミュニケーションに熟達して、それを「キャリアアップ」に利用することを願っている少数の層があり、一方に中学三年生程度の英語力で大学まで来てしまった大多数の層がある。
深刻な問題はむしろ「英語のできる少数派」のありように見られる。
その外国語習得の動機が総じてきわめて合理的だからである。
原語で『赤毛のアン』や『ギャツビー』を読みたいというような素朴な動機で英語を勉強するという学生はもうほとんど「化石」である。
大半の学生は英語習得の努力にふさわしい報酬を、職業や資格や年収というかたちで期待している。
だが、「努力と報酬が相関すれば人間は勉強するようになる」というのは合理的なように見えるが、人間観察に欠けた判断と言わなければならない。
私たちをはげしい勉強におしやる動機はたいていもっと「不合理」で、もっと妄想的なものだからである。
そして、ひとは「はげしく勉強する」ことなしに、「檻」を破ることができない。
水村さんも引用している『福翁自伝』の福沢諭吉は日本最初の英語学習者の一人である。
福沢ははじめ緒方洪庵の適塾で蘭語を学んだ(英語にシフトするのは、そのあとのこと)。
その勉強は文字通り「昼夜の区別なし」の「はげしい」ものであった。
福沢は一度熱病を患って床に就いたことがあり、そのときはじめて過去一年間、「夜具を掛けて枕をして寝るなどとうことは、ただの一度もしたことがない」ことに気づいたほどである。
なぜ、それほどはげしく勉強したのか。
キャリアのためではない。
江戸では蘭語ができると幕府や諸藩のお抱えになるという「キャリアパス」が用意されていたが、大阪はそうではない。どれほど蘭語ができても、それで採用してやろうという奇特なものがいないのである。
では、なぜ書生たちは勉強したのか。福沢はこう書いている。
「それゆえ緒方の書生が幾年勉強して何ほどエライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。すなわち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めるということに思いも寄らぬので、しからば何のために苦学するかといえば、一寸と説明はない。前途自分の身体は如何なるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない。名を求めるどころか、蘭学書生といえば世間に悪く言われるばかりで、既に已に焼けに成っている。ただ昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がっているようなもので、実に訳のわからぬ身の有様とは申しながら、一方を進めて当時の書生の心の底を叩いてみれば、おのずから楽しみがある。これを一言すれば-西洋日進の書を望むことは日本国中の人に出来ないことだ、自分たちの仲間に限って斯様なことが出来る。貧乏をしていても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位で、ただ六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽という境遇であったと思われる。たとえば、この薬は何に利くか知らぬけれども、自分たちより外にこんな苦い薬を能く呑む者はなかろうという見識で、病の在るところも問わずに、ただ苦ければもっと呑んでやるというくらいの血気であったに違いはない。」(『福翁自伝』、岩波文庫、1978年、92-93頁)
なんとも勢いのよい話である。
そして、この書生の狂気じみた勉強のありさまを叙した文章を福沢諭吉はこう結んでいる。
「兎に角当時緒方の書生は、十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却って仕合で、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えてみると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く末ばかり考えているようでは、修行は出来なかろうと思う。さればといって、ただ迂闊に本ばかり見ているのは最も宜しくない。宜しくないとはいいながら、また始終今もいう通り自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したら金が手に這入るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心引かれて、齷齪勉強するということでは、決して真の勉強は出来ないだろうと思う。」(94頁)
私はこれまで勉強について書かれた文章の中でも『福翁自伝』のこの箇所は白眉であると思う。
ぜひ中学高校の国語の教科書にこの箇所を載せて、日本中の生徒たちに拳々服膺していただきたいものだと思っている。
ところが現在の教育行政は「自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したら金が手に這入るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心引かれて」勉強するのが標準的な人間だと思い、それをデフォルトにしてすべての教育プログラムを構築している。
それは知識や技能を習得することそれ自体ではなく、知識や技能をもつことで得られる「利得」に照準することへと子どもたちを向かわせる。
重要なのは知識や技能があることで獲得される「利得」であり、知識や技能はそのための迂回的な「ツール」にすぎない。そう教えられていれば、いずれ子どもたちが「ツール抜きで、利得だけ占める方法」を考案することに知的リソースを優先的に配分するようになるのは理の当然である。
現にそうなっている。
「いかに少ない学力で、いかに高い学歴を獲得するか」という競争にこの国の子どもたちは熱中している。
問題は「費用対効果」だからである。
「中学生程度の学力で一流大学に受かる」というのは、「電話一本で1億円稼いだ」とか「キーボード叩くだけで巨富を積んだ」というのと同類の「クレバーな生き方」なのである。
利得という「にんじん」をぶらさげて子どもを利益誘導して勉強させれば、必ず子どもたちは「にんじん」だけ手に入れる方法を考え出す。
英語ができると「いいこと」があると教えられれば、「できるだけ少ない英語の学力で、『いいこと』だけ手に入れる方法」を考え出す。
論理的に考えて一番効率的なのは、「同学齢集団の英語学力をまとめて低下させること」である。
競争における相対優位を占めることを「にんじん」にすれば、子どもたちは必ず「自分以外の子どものやる気を殺ぐ」という戦術を採用するようになる。
それがもっとも合理的だからである。
親たちが子どもに幼児期から英会話を教えたがるのは、それによって会話能力が身につくということをそれほど信じているからではない。そうではなくて、「うちの子、もう英語でしゃべるのよ、やっぱり英語は幼児からネイティヴの先生につかないとね~おほほほ」などということを言いふらすと、周囲の親たちが「ああ、うちの子はもう取り返しのつかないビハインドを負ってしまった。ああ、もうダメだ」とがっくり意欲を失ったり、あるいは「こうしちゃいられないわ」と子どもを殴りつけて英語教室に通わせたりして、めでたく「英語嫌い」の子どもを量産する結果になることを(無意識のうちに)見抜いているからなのである。
競争の相対優位者に利益を独占させるというやりかたで子どもを勉強させようとすれば、それは社会全体の知的劣化をしかもたらさない。
過去30年間の経験から教育行政はそれくらいのことは学習していてもよいはずである。
現に、子どもたちは「利得」のめどが立てばできるだけ費用対効果のよい勉強をし、「利得」のめどが立たなければ、端から何もしないというかたちで二極化した。
私たちの国の子どもたちの中から福沢諭吉や勝麟太郎のような桁外れの知識人を再び生み出したいと教育行政の要路の人々がほんとうに望んでいるなら、「粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位」はどのように生み出されるのかそれについて考えてみてもよいのではないか。
その「気位」はコストパフォーマンスのよい「キャリアパス」を選択できる知のはたらきとは無縁のものだということをときには思い出してみてもよいのではないか。

2008.12.26

ラジオの時代

年末にNHKラジオの収録が二回ある。
ラジオデイズ以来、ぱたぱたとラジオの仕事が続いている。
つねづね申し上げている通り、私はラジオというメディアがわりと好きである。
テレビには出ないが、ラジオには出る。
拘束時間が短いし(収録時間だけで「待ち時間」というのがない)、髪の毛ぼさぼさでパジャマ姿であっても放送上少しも困らない。
現場があまり専門職に分業化していない点もよい。
昨日来た二人はどちらもアナウンサーの方だったが、そのうち一人がMCで、一人はディレクターと録音技師を兼務。
やろうと思えば一人で全部できてしまうということである。
なにしろ制作コストが安い。
ラジオ放送のテクノロジーは「ミシン」や「こうもり傘」や「自転車」と同じで、もう改良の余地がないまで完成されている。
設備はもうできているし、そう簡単に劣化するものでもないから、その気になれば、あと50年くらいは既存の放送施設を使いのばせる。
要るのは電気代くらいである。
やろうと思えば一人で放送できる。
『アメリカン・グラフィティ』でウルフマン・ジャックは一人でやっていたし、『ヴァニシング・ポイント』でスーパー・ソウルは二人だけでやっていた(彼は目が見えないからしかたない)。
昨日録ったのは「村上春樹と音楽」をテーマにした2時間番組だが、たぶん制作コストは同じ企画でテレビの2時間特番を撮った場合の1000分の1くらいだろう。
なにしろ、うちのこたつに三人で座り込んで、お茶をずるずる飲みながらであるから、収録に要したコストはアナウンサーお二人の御影までの電車賃くらいである。
名越先生に聞いた話では、テレビの制作費は以前の10分の1ほどまで下落しているそうである。
TVCMの単価も値崩れしているから、テレビをつけると消費者金融とパチンコの広告ばかりが目に付く。
電通はタクシー使用が禁止されて、営業マンは地下鉄で得意先を回っているそうである。
「テレビの時代」はおそらく終わるだろうと私は思っている。
ビジネスモデルとしてもう限界に来た。
簡単な話、「制作コストがかさばりすぎる」からである。
テレビ業界に寄食している人の数があまりに多くなりすぎのである。
これだけ多くの人間を食わせなければならないということになると、作り手の主たる関心は「何を放送するのか」ということより、「これを放送するといくらになるか」という方にシフトせざるを得ない。
ビジネスとしてはその考え方でよいのだが、メディアとしては自殺にひとしい。
メディアとして生き残るためには、「放送することでいくら儲かるのか」から「放送することで何を伝えるのか」というメディアの王道へ帰還する以外に手だてはない。
それは具体的に言えば「テレビで食っている人間」の数を減らすということである。
制作コストを今の100分の1くらいまで切り下げることができれば、テレビは生き残れるだろう。
それなら、テレビマンたちは代理店やスポンサーや視聴率を気にせずに、いくらでも「好きなこと」ができるからだ。
作り手が「好きなこと」を発信することがメディアの本道である。
その決断を下せないまま、今のビジネスモデルで、今のような低品質のコンテンツを流し続けていれば、ある日テレビは「業界ごと」クラッシュするだろう。
その日はそれほど遠いことのように私には思われない。
そして、そのとき再び私たちは(BBC放送に耳を傾けたフランスのレジスタンスのように)ラジオの前に集まるようになるような気がする。

2008.12.28

宴会知

教務課の忘年会に呼ばれて門戸厄神の居酒屋で行く。
考えたみたら、職員の皆さんの忘年会に招かれたのは、在職18年ではじめてのことである。いや、その前の助手時代や非常勤講師時代を入れてもはじめてのことである。
ずいぶん長いこと、私たちの社会は職場の人たちとの「アフター5のおつきあい」というのを忌避する傾向が続いていた。
私はそういう風潮を「そういうのはどうなんかね」とやや懐疑的なマナザシで見つめていた。
私はご案内のとおり、「おつきあい」とか「義理ごと」というものにたいへん弱い。
「弱い」というのは、文字通り「抵抗できない」ということである。
義理ごとへの出席を欠くと、人間として何かたいせつなことを怠ったような気がして、いつまでもくよくよと後悔するのである。
どのような心理的根拠があるのか、よくわからない。
とにかく、私の心理の古層には、「共同体の節目の行事への参列義務」を命じる何かが蟠っていて、うるさく私の行動に口出しをするのである。
だから、最近の若い人たちの「職場の飲み会なんか行きたくない」という発言に胸を痛めていたのである。
諸君はなにかたいせつなことを忘れている。
「ウチダのはただの宴会好きだろう」というふうに一笑に付す向きもおられるであろう。
たしかに私は「宴会好き」である。
しかし、私の「集まって何かをすることを好む」習性は単に「宴会好き」というだけでは言い尽くせないような気がする。
私が赴任した1990年には、着任と同時に先輩の教員たちからハイキングやら飲み会やらスキーやらに立て続けにお誘いを受けた(私はそのすべてにフルエントリーした)。組合の遠足や温情会(中高部を含めた学校全体の懇親会)にも欠かさず参加した。
おかげで、すぐに教職員の多くと知り合いになった。
そのようなおつきあいを通じて、私は込み入った学内派閥事情や、隠蔽され封印された事件(というものがあるのよ、どこにも)を教えていただき、その結果生じた取り決めとか、不文律というものについて学んだ。
それを聴いて、「無意味にごたついたもの」にしか見えない大学の現行システムが、そうなるべくしてなるに至った歴史的必然に貫通されていることがわかった。
「自分が参加しているゲームのルール(一部非開示)」は知っている方が知らないよりも、そこでの自分の立場を理解したり、意思を実現したりする可能性が高い。
それがどうしたと言われそうだが、経験が教えるのは、「共同体の節目のイベント」というのは、「その種の情報」が選択的に供給される機会だということである。
もちろん「ここだけの話」というようなものは訳知り顔の人に袖を引かれて「en coulisse(こそっと)」教えてもらうこともある。
だが、個人的に耳打ちされた情報というのはあまり信頼性が高くない。
情報それ自体は事実を含んでいるのだが、その手の「コンフィデンシャル」はほとんどの場合、情報をリークしたその人自身にとって「つごうのよい部分」だけを拾い上げたものだからである。
だから、同一事件についての複数のソースからの情報の「突き合わせ」という作業が必要になる。
それを「まとめて」やるのが「共同体節目のイベント」なのである。
これらのイベントでは「ふだんは口を緘して言われないこと」を言ってもよいことになっている。
葬式では必ず「故人について誰も知らないエピソード」をひとつ開示するということが参列者の義務となっている。
せっかく集まったのだから「そういう話」でもするか、ということではなく、むしろ「そういう話」をするために「節目の行事」で集まるということではないかと私は思うのである。
法事の席では必ず親戚の何某の(ふだんは決して言挙げされることのない)遺産相続をめぐる骨肉の争いとか、夜逃げの顛末とか、「あの人は実はほんとうの父親じゃないのよ」といった類のことが話題になる。
私は子どもの頃、どうして法事の席で大人たちはこのような「生々しい話」ばかりするのであろうか訝ったのであるが、長じてその理由がわかってきた。
法事というのは実は「そういうことを話す」ための場なのである。
というのは、そこには同一事実について知っている複数の人間が同席しているからである。
そういう場合には、「ここだけの話」の情報精度が単独のソースからリークされる場合に比べて、はるかに高くなる。
利害や親疎の異なる複数のソースから同一事実が確定された場合、その情報は信頼するに足りるものとされ、それが共同体内的に「正史登録」される。
これは「流れ」でそうなるというのではなく、参加者全員が無意識に「そういう話」をひとつ持ち寄る「義務感」に近いものを感じるからではないか。
少なくとも、私自身はそのような「義務感」を感じる。
共同体節目のイベントというのは、そのような「ふだんは公開されることもコンファームされることもない情報」が共有される場であり、そこに参加する人間は、義理で参加する手間暇の代価として、「共同体の成り立ち」についての知を供与される。
そういう仕掛けになっているのではないかと私は思うのである。
今回の「教務課の忘年会」は今年がはじめての企画である(これまで毎年やっていたのに私だけ呼ばれなかったということではないのです)。
同日に学生生活支援センターも国際交流センターもそれぞれ忘年会をやっていたそうであるが、どちらも「はじめて」のことである。
私はここに潮目の変化を感じる。
人々は「共同体の成り立ち」について、「自分が参加しているゲームのルール」を知ることの必要を感じ始めている。
そういうことではないかと思う。
おそらく、激動の時期を生き延びる力には、「宴会的知」に与るたものと与らないものの間に有意な差ができることに人々は気づき始めているのである。
というわけで本日は我が家で浜松支部を迎えての「甲南麻雀連盟打ち納め」である。
年賀状もあと200枚書かなきゃいけないのに、まことにご苦労なことである。

2008.12.29

「さん」と「先生」のあいだ

『街場の教育論』にいろいろな方から書評をいただいている。
「週刊文春」で先週号に養老孟司先生が、讀賣新聞で福岡伸一先生が21日の書評欄で取り上げてくれた。昨日の讀賣新聞では佐藤卓己さんが「2008年の三冊」に選んでくれた。
ありがたいことである。
と書いて気がついたのだが、前のお二人は「先生」で、後者は「さん」である。
この敬称の使い分けはどういうふうにしてなされているのであろう。
先般の忘年会でも養老孟司「先生」、甲野善紀「先生」、名越康文「先生」、茂木健一郎「さん」である。
養老先生は長者であるから、とても「養老さん」とはお呼びできない。
甲野先生もずっとそうお呼びしている。最初から「教わる立場」で接したわけだから当然である。
名越先生はお医者さんであり、最初にお会いしたときに私のアタマの中身を「診断」していただいたので、当然これは「先生」とお呼びするのが筋であるのだが、おしゃべりに夢中になると、ときどき「ねえ、名越さん」というふうに呼んでいることもある。
このへんの使い分けの基準は不明。
茂木さんは最初から「モギサン」である。
茂木さんは大学の先生だし、博士だし、斯界の泰山北斗であるから、「茂木先生」と呼ぶのが至当である。
でも、最初に橋本麻里さんに「こちら茂木さん」とご紹介したいただいたとき、横に高橋源一郎さん(麻里さんのご尊父)がいて、御尊父のことを私は「タカハシさん」とタメで呼んでいるのに、年下の茂木さんを「モギ先生」と呼ぶのはなんとなく収まりが悪くて、つい「モギさん」と最初に呼んでしまったのが、そのまま定着してしまった。
橋本さんじゃない人に紹介されていて、その人が「茂木先生」と呼んでいたら、そのまま私も「茂木先生」とお呼びして今日に至っていたはずである。
そういうふうに「最初に会ったときに周囲からどう呼ばれていたか」および「そのときに私が『何かを教えていただく』立場にあったか、そうでないか」を基準に「先生」と「さん」の呼称差別化は決定されているようである。
福岡伸一先生はお会いしてすぐに「Y牛」のコストの話とミシシッピの精肉産業の恐るべき(テキサス・チェーンソー・マッサカ的)裏面について「えええ、そうなんですかあ」的お話を伺っていたので、やっぱり最初から「福岡先生」なのである。
橋本治さんはウチダ的には「橋本さん」と「橋本先生」の二重呼称者である(名越先生と一緒である)。
関川夏央さんもそうである。
同僚についてもなかなか一筋縄ではゆかない。
私は基本的に大学の同僚はすべて「先生」と呼ぶことにしている(「それだと名前を覚える必要がない」というたいへん実利的な理由によるのだが、それはヒミツ)のだが、難波江「さん」、石川「さん」、渡部「さん」など同学科の男性教員の何人かについては「親称」を採用している。これはあきらかに「親しみ」の指標と見てよいであろう。
では「先生」と呼んでいる人については「親しみ」を感じていないのかというと、そうではない。親しみを超えるほどの敬意を覚える場合にはやはり「先生」と呼ぶのである。
したがって私から「先生」と呼ばれる方々のうちには「名前を覚えられていない」方から「親しみを超えるほどの敬意を感じられてる」方までずいぶん幅があるのである。
今回の福岡先生の書評の中で、私は「内田センセイ」と呼ばれている。
この「センセイ」には福岡先生独特の含意がありそうである。
書評ではふつう著者には敬称をつけない。
「本書で山田デコ助はこう述べている」というふうに書くのが学術的フォーマットである。
それをあえて「山田さんは」というふうに書くと、「個人的に親しい感情をもっている」ということが暗示される。
だから、福岡先生が書評の中で「内田さんは」と書くと、読者の方々の中には「なんだ身内かよ」と思う根性曲がりがいるかもしれない。
「内田先生は」という敬称を採用した場合には、その人の発信しているコンテンツについての予断を示すことになる(私は以前、院生の書いた学術論文で外国の哲学者のことは呼び捨てにして、自分の大学教師の名前には「氏」をつけて敬語で叙していたものを読んだことがある。「阿諛追従」というのはこういうことを指すのである)。
「内田は」と書くほど他人行儀ではないし、「内田さん」と書くと親しげ過ぎるし、「内田先生」と書くと書評にならない。
そこで福岡先生は「内田センセイ」という独特の表記を採用されたのではないかと忖度するのである。
「センセイ」は「内田先生(ぷふ)」というふうに読んでいただければよろしいかと思う。
「センセイ」は福岡先生から私への個人的な「めくばせ」のようなものであり、私は公器をもちいて、こういう個人的なメッセージを送ってくださる福岡先生の「おちゃめ」なところをたいへん敬愛しているのである。

2008.12.30

仕事納めはラジオ

今年は早手回しに煤払いも終わり、年賀状も出し終えたので、今年最後のお仕事に出かける。
元旦に放送する「時事放談」みたいな番組の収録のためにNHKに伺ったのである。
収録済み識者諸氏の時事についてのコメントを伺ったあと、解説委員の五十嵐公利さん(うっかり「アナウンサーの」と書いてしまいましたが、一昨日はたまたまアナウンサー役を私相手にやってくださったのでした。肩書き間違えてすみません)を相手に私が1時間半にわたって勝手なことぺらぺらしゃべるのを元旦に全国放送するという大胆な番組である。
最初はこれを元旦に渋谷から生放送でやるという企画だったのである。
企画した人々の度量の大きさというか見境のなさに驚嘆するのであるが、さいわい私は「お正月はお雑煮食べたり、娘にお年玉あげたり、いろいろ忙しいのでダメです」とお断りすることでことなきを得た。
それで済んだと思っていたら、じゃあ生放送は諦めて、年内に大阪で収録しますということになった。
せっかくそこまで先方が折れてくれているのに、「いやじゃいやじゃ」とごねるのも良識ある市民として、またきちんと受信料を銀行引き落としで支払っている視聴者の一人としての責任ということも配慮した場合いかがなものかと反省して、師走の寒風の中を谷町四丁目までとことこ出かけたのである。
ラジオというのはたいへんカジュアルなメディアで、スタジオに行って「あ、ども。ウチダです」と挨拶をして、コーヒーを一服して、進行表を一瞥したところで、「じゃ、ぼちぼち始めますか」とたちまち仕事が始まる。
私は「日本一のイラチ男」であるので、ことが始まるまでにぐずぐずするのが大嫌いである。
広告代理店がらみの仕事は一切やらないと公言しているのは、あの業界では仕事が始まる前に「打ち合わせ」とか「顔合わせ」とか「パブリシティ用写真撮影」とかで50人くらいの人間と会ってそのたびに名刺交換しなければならないのだが、その有用性が私にはまったく理解できないからである。
某代理店との打ち合わせのときには会議室に15名くらい代理店の人間が並んで、「ここで本番の芸をしてみろ」と強要されてびっくりしたことがある。ここで「本番の芸」をしたら、本番ではまた別の芸をしなければならない。代理店の諸君はそれでよいかもしれないが、私は厭である。
さらに驚いたことに、そのあと「軽く打ち上げ」に北新地にむりやり連れて行かれ、その席には打ち合わせにもいなかった15名くらいの社員がもう先に来ていて、スポンサーの金でじゃんじゃん飲み食いしていたのである。
「100年に一度の危機」の逆風の中で広告代理店も苦戦と伺っているが、このような無意味な蕩尽のツケはいつかは払わねばならぬのである。
閑話休題。
とにかくラジオは「こんちは」「あ、じゃ始めますか」で始まり、「終わりました」「あ、お疲れ様でした」で終わる。無駄な名刺交換もないし、「どうです、このあと新地でちょっと」などという無意味な接待もない。
ジーパンにポロシャツにセーターにダウンコートという御影のライフに大根を買いに行く時と同じ格好で全国放送に出演できるというのが好ましい。
で、放送の内容であるが、これが自分で言うのも変ですけれど、たいへんに面白い。
コメントしている識者は「子どもと教育と格差社会」の問題が雨宮処凜、水谷修。医療問題が多田富雄、色平哲郎。科学と市民の問題を益川敏英。国際関係を北岡伸一。経済問題を宇沢弘文。
聴いて驚いたのは、ほとんど全員が「競争から共生へ」という趨勢を指摘した上で、共生のための市民的成熟の必要性、そしてイデオロギーや原理をしりぞけて、あくまで「生身の人間」の生活実感を思考の原点とすることのたいせつさを述べていたことである。
とりわけ宇沢先生と益川先生のお言葉が私には身にしみた。
宇沢先生は「社会的共通資本」について語っておられた。
社会的共通資本というのは、自然、環境、教育、芸術、医療、福祉制度など「生身の人間」の豊かな生活と再生産を担保するために必須のインフラのことである。
これは単一の組織や個人が占有したり、一元的に管理したり、投機的に売り買いしたりしてはならないものである。
先日の大瀧詠一さんとのラジオ座談会でも、大瀧さんは「パブリックドメイン」の重要性を繰り返し語っておられた。大瀧さんの「パブリック・ドメイン」論もまた宇沢先生の「社会的共通資本」論とも深いところで繋がっているように私には思われた。
「入会」(「にゅうかい」じゃなくて「いりあい」と読んでね)という概念の重要性についてはつとに『日本人の法意識』の中で川島武宜先生が指摘されている。
「入会」とは地域住民が一定の範囲の森林や原野や漁場について、そこから発生する資源(木材、薪、魚など)を共有することである。
川島先生は「入会権」の研究をつうじて、それが日本人の共同体構築技術の根幹にかかわるものであることを解明した。
「所有物についてどのような行為もなし得るということは、現代においては、所有者である以上当然であるように見える。しかし、このことは近代法(資本制社会に固有の法)の歴史的特質にすぎない。近代以前の社会では、土地、山林、原野、河川等については、それぞれの『物』の性質・効用に応じて、またそれぞれの主体に応じて、限定された異る内容の権利が成立したのであり、(・・・)そうして、それらの権利は言わば並列的に、ひろい意味での『所有』と呼ばれていた(たとえば、地代徴収権者は上級所有権 Obereigentum 或いは直接所有権 dominium directum をもち、地代を払う耕作権者は下級所有権 Untereigentum 或いは利用的所有権 dominium utile をもつというふうに)。だから、一つの物の上に重畳して、いくつもの『所有権』が成立し得たのである。」(『日本人の法意識』、岩波新書、1967年、65頁) 
このようなあいまいな所有権意識というのは私たちの資本主義社会では原理的に排除されている。
所有権は「あるか、ないか」の二者択一であり、「所有しているような、していないような」複雑な運用になじまない。
けれども、やりとりされてはならないもの、個人によって商品として所有されてはならないものがこの世には存在する。
森林や原野や河川や湖沼はそのようなものである。
医療や教育や警察もそうである。
芸術も伝統的な技芸も世界の成り立ちについてなにごとかを教える情報もそうである。
たしかにこれらのリストのうちには商品的な性質をもつものがある。
私たちは森林や原野を「不動産」として購入し、私的に占有し、それを破壊して、そこにコンクリートのビルを建てる権利を持っている。
医療機関や教育機関を私的に所有して、医療行為や教育コンテンツを「商品」として売り買いすることもできる(そこでは金のある人間だけが質の高い「商品」を手に入れることが出来る)。
芸術作品や学術情報もそうなりつつある。コピーライトとか知的所有権というのは、そういう「本来誰によっても占有され得ないはずのもの」を商品にするための理論装置である。
私的所有権を「所有の原基的形態」とすることによって(それが資本主義というものだ)、私たちの社会はすべてのものが「個人の所有物」で埋め尽くされた。
私たちの社会から益川先生の言うような「市民」が消えつつあるのは、おそらくそのせいである。
市民とは、「公的なもの」とのかかわりかたに習熟した人のことである。
市民的成熟は「商品を私的に占有する」経験をどれほど積み重ねても、身につくものではない。
そうではなくて、「個人が私的に所有することができないし、するべきでもないもの」(それが「社会的共通資本」であり、「パブリックドメイン」であり「入会」である)をどのようにして他者と共有するか、その「やりくり」の技術を錬磨してゆくことを通じて、ひとは「市民」となるのである。
それは「競争によって他者を蹴落とす技術」とは無縁であるし、他者を威圧し、他者から畏敬されるだけの経済力や暴力をどうやって確保するかという戦略の延長上にもない。
私が私有できず、あなたも私有できないものが私たちの生存を支えている。それをどうやってともに守るのか。
社会的共通資本についての議論は(環境問題がその典型だが)「社会的共通資本を適切に管理するやり方を知っている私」に全権を委ねよという議論にすぐに転がってゆく。
そういうことを言う人は「社会的共通資本」という概念を取り違えている。
たいせつなのは資本「そのもの」ではなく、資本を「共有する作法」だからである。
そういうことを話したかったのだが、川島先生の話までたどりつけなかったので、ここに「あとぢえ」で記すのである。
1月1日午後7時20分からNHKラジオで放送します。みんな聴いてね。(これも時間間違えて書いてました、すみません!)

2008.12.31

明治の気象

大晦日に掛け取りに払うような借財はないが、「文債」なるものがある。
今年最後のそれはボヤーリン兄弟の『ディアスポラの力』の書評であり、これが終われば、とりあえず課されたすべての仕事を私は真摯かつ誠実に履行したことになる。
掃除は終わったし、年賀状も投函し終えたし、会いに来る人もいないし、会わねばならぬ人もいない。気楽な年の瀬である。
朝寝をして寝床の中で町田康『おっさんは世界の奴隷か』を読む。終日『ディアスポラの力』を読み、風呂に入り、一盞を傾けたのち『福翁自伝』の続きを読了。まことに痛快。明治の人の書き物を読んでいるうちに、明治人の「啖呵」の気合いに身体がなじんできた。
福沢諭吉という人はなかなかに気象の激しい人で、とにかく不合理なものが嫌い、威張るやつが嫌い、性根の卑しいなやつが嫌いで、ばりばり怒ってばかりいる。しかし、だからといって人を低くし自分を高くするというところがないのが爽やかである。
彰義隊のいくさで江戸中が大騒ぎのときも、忠義ぶるでもなく、時流に乗り遅れまいとするでもなく、飄々としている。
なにしろ江戸中が火の海になるかというときに手狭になったからと塾の普請をするのである。八百八町こんなときに普請をする家なんか一軒もない。大工も左官も仕事がなくて困っていたので大喜びで、手間賃もずいぶんと安い。
朋友が忠告に来て、こんなときに普請なんか止めなさいと言うと諭吉はこう答える。
「ソリャそうでない、いま僕が新たに普請するから可笑しいように見えるけれど、去年普請しておいたらドウする。いよいよ戦争になって逃げる時に、その家を担いで行かれるものでない。なるほど今戦争になれば焼けるかも知れない、また焼けないかも知れない、仮令い焼けても去年の家が焼けたと思えば後悔も何もしない、少しも惜しくない」(『福翁自伝』、岩波書店、1978年、191頁)
もうすぐ戦争だという騒ぎの中で諭吉が堂々と普請をしているので、近所の人たちはお城詰めで事情に通じている福沢のところがああしてのんびりしているんだから、きっとこの辺は大丈夫なのだろうと勝手に忖度して、立ち退きを止めたそうである。
そういいながら、諭吉はちゃんと逃げ支度はしている。
弾が飛んできたら、家の庭に穴を掘ろうか、土蔵の縁の下に潜ろうかといろいろ思案した末に、近所の紀州藩の屋敷の庭に手頃な場所を見つける。
「ここが宜かろう、罷り間違っていよいよドンドン遣るようにならば、ここへ逃げて来よう」と腹を決め、伝馬船を5,6日貸し切って、もしものときは一家で船に乗って、海から紀州屋敷の庭に逃げ込もうときちきち段取りをしている。
戦争がなんぼのもんじゃと肚は据わっているのだが、逃げ支度もきちんと調えておくというあたり合理性は諭吉ならではの味である。
いざ上野で戦闘が始まったときも、別段あわてふためくでもなく、平気で塾をやっている。
「明治元年の五月、上野で大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席も見世物も料理茶屋も皆休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やらわからないほどの混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業を罷めない。上野ではどんどん鉄砲を打っている、けれども上野と新銭座とは二里も離れていて、鉄砲玉の飛んでくる気遣はないというので、丁度あのとき私は英書で経済の講義をしていました。」(202頁)
戊辰戦争の間も諭吉は平然と塾を続ける。徳川の学校はもちろんつぶれてしまっている。維新政府は戦争に忙しくて学校どころではない。「日本国中いやしくも書を読んでいるところはただ慶応義塾ばかり」(203頁)
戦乱のさなかに授業をするという「超然」ぶりと、そこで講じているのが「経済」、商売の骨法であるという「リアリスト」ぶりの矛盾のうちに私はよく福沢が体現しえたある種の良質な武士的メンタリティを見るのである。
同じことは諭吉が攘夷家たちから「洋夷の学」を講じる人間と見なされて暗殺の対象になっていた時期に一度として夜間の外出をしなかったという気遣いからも伺える。
「およそ維新前文久二、三年から維新後明治六、七年のころまで、十二、三年の間が最も物騒な世の中で、この間、私は東京に居て夜分は決して外出せず、余儀なく旅行するときは姓名を偽り、荷物にも福沢と記さず、コソコソしているその有様は、欠落者が人目を忍び、泥坊が逃げてまわるような風で、誠に面白くない。」(218頁)
しかし、実際に朋友手塚律蔵、東条礼蔵は洋学者の故をもって長州人に斬殺され、国学者塙二郎は不臣なりと首を刎ねられた。洋学者でありかつ公然たる開国論者である諭吉も何度か間一髪のところで暗殺者から逃れているのであるのだから、この警戒は当然のことである。
あまり知られていないが諭吉は居合の心得があった。
若いときからずいぶん好きで、大阪の緒方塾のときも熱心に稽古を続けていた。
しかし、幕末に人々が急に武張ってきたら、嫌気がさして不意に止めてしまう。「居合刀はすっかり奥にしまい込んで、刀なんぞは生まれてから挟すばかりで抜いたこともなければ抜く法も知らぬというような顔をして」(162頁)過ごしたのである。
幕末の騒動の頃、学者たちまでが護身のために長い刀を佩くようになった風を見て、諭吉は刀をあらかた売り払ってしまう。佩刀している二本も長刀は鞘だけ長刀で中身は脇差、脇差の方は鰹節小刀である。
その頃、友人の高畠五郎を訪れると床の間に長大な刀が飾ってある。そんなものを飾るなばかばかしいと諭吉が言う。第一君には抜けまい。高畠はむろん抜けはしないと答えると、諭吉は庭に出てその四尺ばかりの長刀で居合の形を遣ってみせてから「抜ける者は疾くに刀を売ってしまったのに、抜けない者が飾っておくとは間違いではないか」と小言を言うのである。(228頁)
居合をやったことのない人にはぴんと来ないかも知れないが、四尺の刀を抜くというのは半端な武芸ではない。
私の居合刀は二尺五寸五分、真剣は江戸時代のものだが、これが二尺四寸。
身長175センチの私でも二尺六寸となると抜くのにいささか手こずる。三尺を超えたら、まず私程度の身体能力では居合の形は遣えないであろう。
だいたい武道具店のカタログには居合刀は二尺六寸までしか載っていない。
当今の居合は抜刀と剣尖の速度を競う傾向があるので、選手はできるだけ短く軽い刀を選ぼうとする。長く重い刀を抜く技術の重要性を私は一度も聴いたことがない。
しかし、本来の居合のかんどころは重く長い刀を操ることのできる高度の身体運用にある。
勝小吉には『夢酔独言』の他に『平子龍先生遺事』という逸文がある。小吉が師事した平山行蔵という武芸者の言行録である。
小吉がはじめて会ったときはすでに老齢であったが、八尺五寸の木刀を遣い、七貫余の鉞を片手で振り、差料はどれも三尺八寸。
小兵の行蔵が座っている図像が残されているが、刀の柄が腕の長さとほぼ同じ。鐺はぴんと跳ね上がったまま紙の外に消えている。
行蔵の道場には看板が掛かっていて「他流仕合勝手次第なり。飛道具矢玉にても苦しからず」と大書してあったそうである。
だんだん話が逸脱してゆくが、この人の軍学の師匠が山田茂平という御仁で、「或る時、男は男根ある故に女色に溺れ、志を立てざりと、男根を切られけり」というハードコアな人だったそうであるから弟子筋に破格な人が輩出するのも納得である。
何の話をしていたのだっけ。
そうそう、長刀を遣うことの困難さについてであった。
その平山行蔵の差料が三尺八寸。福沢諭吉は「四尺ばかり」を抜いたということから諭吉の武術家としての技量のたしかさは推察しうるのである。
閑話休題(というかもともと「話」なんかないのであるが)。
『福翁自伝』を読み終えたら、身体が「明治のリズム」になじんできてしまったので、明治の人の書き物が読みたくてたまらなくなり、そのあとさらに一盞を加えて、成島柳北『読売雑譚集』を書架から取り出す。
これは柳北お得意の人を茶にするようなエッセイ集であり、その風味は町田康の『ザ・テイスト・オブ苦虫』に通じるところがある。酔っぱらって読んでいても障りがない。
中に「龍鳳の夜壺」なる一編がある。
柳北はこの手の知っていても何の役にも立たない故事来歴については底なしに博識である。
明に李傑という名臣がいた。その夫人某は美にして賢なれども、少時より遺溺(ねせうべん)の病があった。夜中夢に官女二人が現れて龍鳳のかたちをした溺器(しびん)を捧げ持って出てくると必ず失禁した。つねに同一の夢にして少しも異ならず。
李公もこれは困ったと思いつつも、それ以外はたいそうよくできた細君であったので、破鏡にもならず仲睦まじく過ごした。
あるとき李公が皇太子の婚礼の儀に夫人とともに参内することになった。宮中にて夫人にわかに便意を催し、顰蹙するのを皇后が見とがめて意を問うた。
「夫人已むを得ず、ありのままに申されしかば、二個の官女に命じ、夫人を奥に伴ひ、やがて龍鳳を画きし溺器を出だしたり。其器は勿論二人の女も、少き時より毎夜見し夢の中と少しも異ならざりしかば、夫人は痛く心に驚きしが、其れよりは遺溺の病ひは全く失せて、再び夢も見ざりしと。」
ラカンやユングが知ったらたいそう喜びそうな話ではあるが。

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