100年に一度の危機らしいけど

2008-12-16 mardi

今年の漢字(というイベントはいつから始まったのかしら)は「変」だそうである。
「変」が「あなた、変よ!」という意味の「変」なら、私も同感である。
ただ、「変」が「変化」ということを意味しているとしたら、私はそれにはあまり同感できない。
世間のみなさまは(本邦の総理大臣も)「100年に一度の危機」というような言葉を軽々にお使いになるが、ほんとうに「100年の一度」というような地殻変動的社会構造の崩落現象が起きているとご当人が思っているなら、もう少し「これまでとは違う」対応をされているはずであるし、言葉づかいもずいぶん違ってよいはずである。
でも、私の目には「まったくいつもと同じ」ようにしか見えない。
ボーナスが減りそうだから買い控えをする。売り上げが減ったので非正規労働者を馘首する。貸し剥がしをする。ばらまき財政出動をする。
どれも見慣れた風景である。数年前にも見た覚えがある。
この風景のどこが「100年に一度」なのか、誰か教えていただきたい。
この事実から演繹できる可能性は二つである。
一つは「今起きている変化は『100年に一度の危機』などではなく、『よくある危機』にすぎない」
もう一つは「今起きている変化は『100年に一度の危機』なのであるが、みんなどうしていいかわからないので、『よくある危機』のときと同じようなルーティン的な対応をしている」
前者であれば、別に浮き足立つ必要はない。
後者であれば、いよいよ浮き足だってはならない。
腹を据えて、いったい何が起きているのか。被害はどの程度で、このあとどこまで拡がるのか。使えるリソースは何が残っているのか。それをどのように分配するのか。誰がその「さじ加減」を按分するのか。その適切性とフェアネスはどのように担保されるのか・・・といった一連の問題が考察されなければならないはずである。
しかるに、私が見るところ、そのような仕事はいま我が国要路の人々はどなたもなされていない。
少なくとも、そのような仕事が必要であるということは誰もアナウンスしていない。
総理大臣は解散総選挙もしないし、挙国一致的な救国政権を作る気もなさそうである。
「このまま居座る」というのは「この危機は『いつものルーティン』によって処理するのが最適である」という政治判断をすでに彼が下しているということである。
それは彼が被害評価を「きわめて軽微」と理解しているということを意味している。
しつこく言わせてもらえるけれど、「『100年に一度の危機』なので、いつも通りに処理します」という命題は誰が読んでも論理矛盾をきたしている。
このような論理矛盾を犯して平然としている政治指導者を頂いている国は知的にはかなり危機的な水準にあると判断してよろしいであろう。
というわけで、私は「今起きている変化は『100年に一度の危機』なのであるが、みんなどうしていいかわからないので、『よくある危機』のときと同じようなルーティン的な対応をしている」というふうに現状を理解することにしている。
別にそのように理解したからといって何か特別なことをするわけではない。
いつもと同じ年末年始を過ごすだけである。
「買い控え」というようなせこいことはしない。むしろじゃんじゃんお金を使おうと思っている。
それによってささやかながら市場に需要が発生するなら、それは「危機」対応としては間違いなくプラスに作用するはずだからである。
ほんとうに日本国民のみなさんが「100年に一度の危機」だと思っているなら、同胞諸君は個人金融資産1500兆円の一部なりとも今このときに吐き出して、企業を救い、馘首される労働者たちに雇用を確保すべきではないのか。企業は下請けの切り捨てとか雇用調整というような「いつも通りの対策」とは違う手だてを考え始めるべきではないのか。
そういう「いつもと違うこと」をするのが「変化」ということではないのか。
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