水村美苗さんの話題作『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で』を鹿児島への機内で読了。
まことに肺腑を抉られるような慨世の書である。
『街場の教育論』で論じた日本語教育についての考えと通じるところもあり、また今書いている『日本辺境論』の骨格である、日本はユーラシア大陸の辺境という地政学的に特権的な状況ゆえに「政治的・文化的鎖国」を享受しえた(これは慶賀すべきことである)という考え方にも深いところでは通じているように思う。
とりわけ、「あらまあ」と感動したのは、「アメリカの植民地になった日本」についての考察である。
明治維新のときに欧米帝国主義国家がクリミア戦争や南北戦争や普仏戦争で疲弊していなければ日本は欧米の植民地になっていただろうということを言うひとは少なくないが、「植民地になって150年後の日本」についてまで SF 的想像をめぐらせた人は水村さんをもって嚆矢とするのではないか。
「たとえば、もし、ペリーが艦隊を率いて浦賀に入港したあとアメリカに南北戦争がおこらなかったとする。そして、まさに官軍賊軍開国攘夷入り乱れたままの混乱状態が続くうちに、日本がフィリピンと同様、アメリカの植民地になっていたとする。ありえないことだと思う人もいるかもしれないが、近代史を前に想像力を働かせれば、ありえなかったことではまったくない。」(178頁)
さて、そのとき、日本の言語的状況はどうなっていただろうか。
水村さんはこんなふうに想像する。
アメリカが圧倒的軍事力と科学技術の力をもって列島を占領したとする。もちろんそのあと政治と軍隊と教育と学術の全領域における公用語は英語になる。
「すると、植民地化された国の常として、現地の日本人にとっての最高の出世は、英語を学び、アメリカ人と日本人のあいだのリエゾンたることになってしまう。この場合のリエゾンとは、支配者の命令を被支配者に伝えて、被支配者の陳情を支配者に取り次ぐ役目をになった連絡係である。しかもそのようなリエゾンを選抜するシステムが、出自や貧富を問わない公平なものであればあるほど、日本中の優れた人材が英語を読み書きする二重言語者となる。彼らはあたかも科挙制度が導入されたがごとく、ことごとく英語の〈図書館〉に吸い込まれてしまうようになる。彼らは高等教育を英語で受け、英語で読むだけでなく、英語で書くようになるのである。」(179頁)
〈図書館〉というのは水村さん独特のメタファーで、世界の成り立ちと人間のありかたについての先人たちの知識を収蔵した、ボルへス的に巨大な知のアーカイブのことである。
〈図書館〉のアクセスコードは〈普遍語〉lingua franca である。
このアメリカ植民地時代は20世紀のどこかで終わる。たぶん1960年代に。
アフリカ諸国といっしょに日本も欧米帝国主義から独立を果たすのである。
「ナショナリズムの時代」に「日本人はアメリカの文化的軛から脱せよ。父祖の伝統に還れ」というスローガンのうちに植民地支配は終わる。
ありそうな展開である。
けれどもそのあとふたたび列島の主権者となった日本人たちは「何語を使って思考する」ことになるのであろうか。
そこまで考えた人はこれまでいない。
日本語はおそらく「国語」として再興されるであろう。
しかし、そのとき日本人は英語を捨てるであろうか。
「果たして、行政はどちらの言葉を使うことになったか。学問はどちらの言葉でなされたか。そして、小説はどちらの言葉で書かれたか。いずれにせよ、そのとき〈国語〉として流通する日本語は、今私たちが知っている日本語と同じものではありえない。」(180頁)
どうして、「同じものではありえない」のか。
それについて水村さんが指摘することはめまいがするほどに正しい。
それは、「植民地時代を終えた日本」の近代史を振り返っても、そこには二葉亭四迷も森鴎外も夏目漱石も内田百閒も芥川龍之介も谷崎潤一郎も…誰もいないからである。
彼らを「外国語を読める人間」にしかアクセスできないアーカイブに押しやった推力は、幕末における勝海舟や福沢諭吉や大村益次郎の場合と同じく、書物を介して欧米の「知」にキャッチアップできないと「日本の独立」が守れないという危機感だったからである。
だから、彼らはいずれも「翻訳者」であった。
欧米の知のアーカイブを日本語に複写し、必要な語彙や概念を発明し、日本語を普遍語と共約可能の言語に仕上げることが鴎外や漱石たちの世代の国民的急務であり、現に彼らは超人的な努力によって一世代でそれを成し遂げた。
「普遍語」を知性的にも感性的にも受容しうるだけの厚みと奥行きのある日本語を作り上げるために彼らは論理の必然として「日本近代文学」の出現を必要としたのである。
幕末にアメリカによって占領され、欧米の知のアーカイブに英語学習者がダイレクトにアクセスできるような知的インフラが整備された植民地日本では、日本語を普遍語と共約可能な言語にまで高めねばならないという推力そのものが存在しない。
今私たちがふつうに使っている日本語の学術用語の過半は「翻訳者」たちが作り上げたものである。
彼らがいなければ、ポスト植民地日本の日本語話者の語彙には「社会」も「歴史」も「哲学」も「権利」も「義務」も「自由」も存在しない。そのような日本語の概念は存在しない。
植民地ではそのまま society, history, philosophy, right, duty, liberty といった語で知的な人々は会話し、思考し、論述していたはずだからである。もちろん「植民地」という語も「概念」という語も植民地日本には存在しない。
ポスト植民地日本の私たちの「土語」はそこまでやせ細ったものとなる。
そのときに日本語で学術論文を書く人間はたぶんいないであろう。
書きたくても書けないからである。
同じ理由で、日本語で文学作品を書く人間もいないであろう。
江戸文学からあとの「日本近代文学」を欠落させた150年が終わったとき、私たちにいったいどのような日本語文学が可能であろう。
21世紀の日本人の中に西鶴や南北や馬琴の骨法をただしく伝えた文人の伝統が残って、日本文学を幕末から「接ぎ木」するだろうという楽観に私は与しない。
1860年代に日本が植民地になっていたときに、日本語はどうなっていたのかというスペキュレーションに長々と時間をかけたのは、「植民地になって150年、独立を果たしてから50年」というそのときの日本語の言語状況と「同じ状況」に今私たちは入りつつあるからである。
とりあえず水村さんはそう考えており、私もこの考えに説得された。
私たちは今、この「アメリカのから独立してから50年後の日本」と構造的に類似した知的状況のうちに投じられている。
それは「日本語を英語と共約可能なだけ知性的感性的に厚みのある国語として作り上げる」努力を止めることを日本人たちが受け入れたということである。
まさに私たちのまわりではそのようにすべてが推移している。
「日本の学者たちが、今、英語でそのまま書くようになりつつある。自然科学はいうまでもなく、人文科学でも、意味のある研究をしている研究者ほど、少しずつそうなりつつある。そして、英語で書くことによって、西洋の学問の紹介者という役割から、世界の学問の場に参加する研究者へと初めて変身を遂げつつある。―世界の〈読まれるべき言葉〉の連鎖に入ろうとしつつある。(…)日本の学者たちが英語で書きはじめつつあるその動きは今はまだ水面下の動きでしかなく、町を行く人には見えない。だがあるときからは、誰の目にも明らかになるであろう。(…)日本の大学院、それも優秀な学生を集める大学院ほど、英語で学問をしようという風に動いてきている。特殊な分野をのぞいては、日本語は〈学問の言葉〉にはあらざるものに転じつつあるのである。」(256-6頁)
みなさんはあまり実感がないであろうが、この「学問の言葉を英語にシフトする流れ」(それは言い換えれば「学問の言葉としてもっぱら自国語を用いる学者を低く格付けする流れ」ということに等しいのだが)、今、アジアの大学を、急速に、驚くほど急速に席巻しつつある。
韓国はすでに完全に「高等教育の用語は英語」という方向に国策的に舵を切った。
英語で授業をすること、英語で論文を書くこと、英語圏に留学生を送り出すこと、英語圏の留学生を受け入れること、それらが高い「Index」に結びつき、文教予算の配分において優遇され、受験生に選好される。大学にとっては「英語シフト」は生き残りのための必然である。
中国も台湾もすでにこの「流れ」に巻き込まれている。シンガポールやフィリピンのような旧英米植民地は疾くから「現地語による学問」にリソースを割くような「無駄」はしていない。
ベトナムも漢字文化圏であったが、現在は漢字とベトナムオリジナルの漢字(チュノム・字喃)の使用が排除され、アルファベット表記に切り替えた。国際共通性は確保されたが、ベトナムの人は阮朝以前のテクスト、つまり祖父の代から以前の資料は歴史資料も文学作品ももう読むことができないという大きな代償を払った。
自国語を「生活言語」として退け、英語を「普遍語」とする流れはこのようなアジア全域を巻き込んでいる「競争的」環境においてはとどめることができないだろう。
水村さんが指摘しているように、日本の高等教育のきわだった特徴は鴎外漱石の時代からそれがひさしく「巨大な翻訳機関」だったことにある。
私もまたそのような「翻訳機関」で外国語教育を受け、自分の学術的責務はフランス語や英語で書かれた学術的なテキストを受け止めることのできる日本語を書くこと、それを外国語をよく解さないふつうの日本人の生活言語の中に(むりやりにでも)練り込んでゆくことだとずっと信じてきた。
その意味で私は幕末にオランダ語を読み、訳し続けた人々の直系の末裔である。
私は一度もフランスに留学せず、一度もフランス語で論文を書いたことのないフランス文学者だった。
私の書くものの想定読者はフランス語を共通の学術用語とする外国の人々ではなく、私と生活言語を共有する日本人たちだったからである。
「他者」や「構造」や「現象」や「存在」についてきちんと語ることのできるタフで奥行きのある生活言語の形成にかかわることが私の責務だとずっと思っていた。
でも、私の同世代ではそういう考えをする学者はもう少数派だったし、下の世代にはもうほとんどいない。
彼らははやばやとフランスに留学し、フランス語で論文を書き、フランス語で学会発表をし、日本の生活者の生活言語には関心を示さない。
専門的主題について、日本語で書くことはこの業界ではしばしば「vulgarization」(通俗化)と呼ばれた。
もっとあからさまに「啓蒙書」と言われることもあった。
日本語で論文を書くことは自分の知見の学術的価値を損じることになると公言する人もいた。
そんなふうにしてフランス語で書かれたテクストを練れた日本語に翻訳するという仕事は組織的にニグレクトされ、その結果30年ほどして、日本の大学からフランス文学科というものそのものがなくなった。
もちろん、フランスに行って学位を取り、フランス語で著述している学者はまだいる。けれども、いずれいなくなるだろう。
日本のどこにもニーズがないからである。
日本にはもうフランス文学者もフランス哲学者にも需要がない。
「そのような人々の書くものを読む以外にフランスの文化にアクセスする手だてがない読者」を30年かけて根絶してしまったからである。
どこかフランス語圏の大学にフランス語で教える大学教師のポストがあればよいが、フランス語を母語とする研究者たちとポスト争いをして勝てる可能性は少ない。
フランス語圏で日本人学者に需要がないわけではない。だが、求められているのは「日本文学」や「日本思想」や「仏教思想」などの専門家だけであり、フランスで高等教育を受けたがる日本人の中にそのような領域の専門家はふつういない。
とりあえずフランス語の世界では、「フランス語を日本語に置き換える」という作業の重要性が顧みられなくなった後に、学界そのものが重要性を失った。あと数年から十年のうちに消失するだろう。
もちろん、そのあともフランスで高等教育を受けてフランス語で研究し、著述を行う日本人はいなくならない。
けれども、先達が150年かけて錬成してきた「フランス語で書かれたテクストを適切な日本語に置き換える技術」は誰にも継承されずに消える。
私は長い時間をかけてその技術を身につけたけれど、もうそれを伝える「弟子」はひとりもいない。
私が長い時間をかけて身につけた二つの技術のうちのひとつ(合気道)については、それを伝えてほしいという人々がたくさんいるのに、フランス語を日本語にする技術については後継者が一人もいない。
「モヒカン族の最期」みたいなものである。
同じ理由で明治以来の「英文学研究」も「アメリカ文学研究」の歴史もあと一世代で終わるだろう。
若い研究者たちはアメリカやイギリスで学位を取り、英語で論文を書き、英語で授業をしている。
翻訳を自分の主な責務だと思っている学者はもうほとんどいない(柴田元幸さんくらいである)。
遠からず大学の教壇の過半を占めるはずの英語を母語とする人々は「英語で書かれたテクストを日本語に訳す」という作業に何の知的価値も認めないであろう。
そして、そのときには「英米文学研究」を日本の大学で講ずる理由がもう何も存在していないことに人々は気づくのである。
研究したければ、作家の故国(それはもう英語圏とは限らない)の大学でおやりになればよろしい。そこなら資料も豊富だし、伝記的事実の伝え手もいるはずである。
そのときは「Murakami Haruki研究」が日本の英米文学者が唯一他国の研究者に「勝てる」領域になったりするのかもしれない。
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(2008-12-17 16:10)