福翁の「はげしい」勉強法

2008-12-25 jeudi

文部科学省は22日、13年度の新入生から実施する高校の学習指導要領の改訂案を発表した。「英語の授業は英語で行うのが基本」と明記し、教える英単語数も4割増とする。
高校の改訂案では英語で教える標準的な単語数が1300語から1800語に増加。同様に増える中学とあわせて3千語となる。中高で2400語だった前回改訂の前をさらに上回り、「中国や韓国の教育基準並みになる」という。
改訂案は「授業は英語で」を初めてうたった。長年の批判を踏まえ「使える英語」の習得を目指すという。(12月22日朝日新聞)

水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』を読んで、「英語の言語的一元支配」が「現地語文化」をどのように滅ぼすことになるのかについて暗い予測をしているときに、こういう記事を読まされると、ほんとうに気が滅入る。
すでに現在の日本の高校生の英語学力は壊滅的なレベルにある。
それは「文法、訳読中心の授業のせいで、オーラル・コミュニケーションが不自由である」というようなことばで言い表される事態ではない。
ほんとうに「英語ができない」のである。
文法も訳読もできないのである。
別に日本の子どもの外国語習得能力が低下したわけではない。
そうではなくて、人を外国語を学ぶことへと向かわせるモチベーションの根本が腐食しているのである。
私たちはなぜ外国語を学ぶのか、その根本のところの理解を教育行政がまったく取り違えているから、こういうことになるのである。
繰り返し言うが、外国語を学ぶのは、それが「外部へと繋がる回路」だからである。
今年の2月に「小学生から英語を教える」という学習指導要領改訂について書いたので、それをもう一度一部採録する。

外国語は「私がそのような考え方や感じ方があることを想像だにできなかった人」に出会うための特権的な回路である。
それは「私が今住んでいるこの社会の価値観や美意識やイデオロギーや信教」から逃れ出る数少ない道筋の一つである。
その意味で外国語をひとつ知っているということは「タイムマシン」や「宇宙船」を所有するのに匹敵する豊かさを意味する。
けれども、それはあくまで「外部」とつながるための回路であって、「内部」における威信や年収や情報や文化資本にカウントされるために学習するものではない。
外国語は「檻から出る」ための装置であって、「檻の中にとどまる」ための装置ではない。
役人たちは国民を「檻の中に閉じ込める」ことを本務としている。
その人々が外国語学習の本義を理解していると私は考えることができないのである。

私の意見はそのときと変わらない。
学生たちを見ているとわかるけれど、子どもたちの英語運用能力は二極化している。
一方にオーラル・コミュニケーションに熟達して、それを「キャリアアップ」に利用することを願っている少数の層があり、一方に中学三年生程度の英語力で大学まで来てしまった大多数の層がある。
深刻な問題はむしろ「英語のできる少数派」のありように見られる。
その外国語習得の動機が総じてきわめて合理的だからである。
原語で『赤毛のアン』や『ギャツビー』を読みたいというような素朴な動機で英語を勉強するという学生はもうほとんど「化石」である。
大半の学生は英語習得の努力にふさわしい報酬を、職業や資格や年収というかたちで期待している。
だが、「努力と報酬が相関すれば人間は勉強するようになる」というのは合理的なように見えるが、人間観察に欠けた判断と言わなければならない。
私たちをはげしい勉強におしやる動機はたいていもっと「不合理」で、もっと妄想的なものだからである。
そして、ひとは「はげしく勉強する」ことなしに、「檻」を破ることができない。
水村さんも引用している『福翁自伝』の福沢諭吉は日本最初の英語学習者の一人である。
福沢ははじめ緒方洪庵の適塾で蘭語を学んだ(英語にシフトするのは、そのあとのこと)。
その勉強は文字通り「昼夜の区別なし」の「はげしい」ものであった。
福沢は一度熱病を患って床に就いたことがあり、そのときはじめて過去一年間、「夜具を掛けて枕をして寝るなどとうことは、ただの一度もしたことがない」ことに気づいたほどである。
なぜ、それほどはげしく勉強したのか。
キャリアのためではない。
江戸では蘭語ができると幕府や諸藩のお抱えになるという「キャリアパス」が用意されていたが、大阪はそうではない。どれほど蘭語ができても、それで採用してやろうという奇特なものがいないのである。
では、なぜ書生たちは勉強したのか。福沢はこう書いている。

「それゆえ緒方の書生が幾年勉強して何ほどエライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。すなわち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めるということに思いも寄らぬので、しからば何のために苦学するかといえば、一寸と説明はない。前途自分の身体は如何なるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない。名を求めるどころか、蘭学書生といえば世間に悪く言われるばかりで、既に已に焼けに成っている。ただ昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がっているようなもので、実に訳のわからぬ身の有様とは申しながら、一方を進めて当時の書生の心の底を叩いてみれば、おのずから楽しみがある。これを一言すれば-西洋日進の書を望むことは日本国中の人に出来ないことだ、自分たちの仲間に限って斯様なことが出来る。貧乏をしていても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位で、ただ六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽という境遇であったと思われる。たとえば、この薬は何に利くか知らぬけれども、自分たちより外にこんな苦い薬を能く呑む者はなかろうという見識で、病の在るところも問わずに、ただ苦ければもっと呑んでやるというくらいの血気であったに違いはない。」(『福翁自伝』、岩波文庫、1978 年、92-93頁)

なんとも勢いのよい話である。
そして、この書生の狂気じみた勉強のありさまを叙した文章を福沢諭吉はこう結んでいる。

「兎に角当時緒方の書生は、十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却って仕合で、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えてみると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く末ばかり考えているようでは、修行は出来なかろうと思う。さればといって、ただ迂闊に本ばかり見ているのは最も宜しくない。宜しくないとはいいながら、また始終今もいう通り自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したら金が手に這入るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心引かれて、齷齪勉強するということでは、決して真の勉強は出来ないだろうと思う。」(94頁)

私はこれまで勉強について書かれた文章の中でも『福翁自伝』のこの箇所は白眉であると思う。
ぜひ中学高校の国語の教科書にこの箇所を載せて、日本中の生徒たちに拳々服膺していただきたいものだと思っている。
ところが現在の教育行政は「自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したら金が手に這入るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心引かれて」勉強するのが標準的な人間だと思い、それをデフォルトにしてすべての教育プログラムを構築している。
それは知識や技能を習得することそれ自体ではなく、知識や技能をもつことで得られる「利得」に照準することへと子どもたちを向かわせる。
重要なのは知識や技能があることで獲得される「利得」であり、知識や技能はそのための迂回的な「ツール」にすぎない。そう教えられていれば、いずれ子どもたちが「ツール抜きで、利得だけ占める方法」を考案することに知的リソースを優先的に配分するようになるのは理の当然である。
現にそうなっている。
「いかに少ない学力で、いかに高い学歴を獲得するか」という競争にこの国の子どもたちは熱中している。
問題は「費用対効果」だからである。
「中学生程度の学力で一流大学に受かる」というのは、「電話一本で1億円稼いだ」とか「キーボード叩くだけで巨富を積んだ」というのと同類の「クレバーな生き方」なのである。
利得という「にんじん」をぶらさげて子どもを利益誘導して勉強させれば、必ず子どもたちは「にんじん」だけ手に入れる方法を考え出す。
英語ができると「いいこと」があると教えられれば、「できるだけ少ない英語の学力で、『いいこと』だけ手に入れる方法」を考え出す。
論理的に考えて一番効率的なのは、「同学齢集団の英語学力をまとめて低下させること」である。
競争における相対優位を占めることを「にんじん」にすれば、子どもたちは必ず「自分以外の子どものやる気を殺ぐ」という戦術を採用するようになる。
それがもっとも合理的だからである。
親たちが子どもに幼児期から英会話を教えたがるのは、それによって会話能力が身につくということをそれほど信じているからではない。そうではなくて、「うちの子、もう英語でしゃべるのよ、やっぱり英語は幼児からネイティヴの先生につかないとね〜おほほほ」などということを言いふらすと、周囲の親たちが「ああ、うちの子はもう取り返しのつかないビハインドを負ってしまった。ああ、もうダメだ」とがっくり意欲を失ったり、あるいは「こうしちゃいられないわ」と子どもを殴りつけて英語教室に通わせたりして、めでたく「英語嫌い」の子どもを量産する結果になることを(無意識のうちに)見抜いているからなのである。
競争の相対優位者に利益を独占させるというやりかたで子どもを勉強させようとすれば、それは社会全体の知的劣化をしかもたらさない。
過去 30 年間の経験から教育行政はそれくらいのことは学習していてもよいはずである。
現に、子どもたちは「利得」のめどが立てばできるだけ費用対効果のよい勉強をし、「利得」のめどが立たなければ、端から何もしないというかたちで二極化した。
私たちの国の子どもたちの中から福沢諭吉や勝麟太郎のような桁外れの知識人を再び生み出したいと教育行政の要路の人々がほんとうに望んでいるなら、「粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位」はどのように生み出されるのかそれについて考えてみてもよいのではないか。
その「気位」はコストパフォーマンスのよい「キャリアパス」を選択できる知のはたらきとは無縁のものだということをときには思い出してみてもよいのではないか。
--------