ラジオの時代

2008-12-26 vendredi

年末にNHKラジオの収録が二回ある。
ラジオデイズ以来、ぱたぱたとラジオの仕事が続いている。
つねづね申し上げている通り、私はラジオというメディアがわりと好きである。
テレビには出ないが、ラジオには出る。
拘束時間が短いし(収録時間だけで「待ち時間」というのがない)、髪の毛ぼさぼさでパジャマ姿であっても放送上少しも困らない。
現場があまり専門職に分業化していない点もよい。
昨日来た二人はどちらもアナウンサーの方だったが、そのうち一人がMCで、一人はディレクターと録音技師を兼務。
やろうと思えば一人で全部できてしまうということである。
なにしろ制作コストが安い。
ラジオ放送のテクノロジーは「ミシン」や「こうもり傘」や「自転車」と同じで、もう改良の余地がないまで完成されている。
設備はもうできているし、そう簡単に劣化するものでもないから、その気になれば、あと50年くらいは既存の放送施設を使いのばせる。
要るのは電気代くらいである。
やろうと思えば一人で放送できる。
『アメリカン・グラフィティ』でウルフマン・ジャックは一人でやっていたし、『ヴァニシング・ポイント』でスーパー・ソウルは二人だけでやっていた(彼は目が見えないからしかたない)。
昨日録ったのは「村上春樹と音楽」をテーマにした2時間番組だが、たぶん制作コストは同じ企画でテレビの2時間特番を撮った場合の1000分の1くらいだろう。
なにしろ、うちのこたつに三人で座り込んで、お茶をずるずる飲みながらであるから、収録に要したコストはアナウンサーお二人の御影までの電車賃くらいである。
名越先生に聞いた話では、テレビの制作費は以前の10分の1ほどまで下落しているそうである。
TVCMの単価も値崩れしているから、テレビをつけると消費者金融とパチンコの広告ばかりが目に付く。
電通はタクシー使用が禁止されて、営業マンは地下鉄で得意先を回っているそうである。
「テレビの時代」はおそらく終わるだろうと私は思っている。
ビジネスモデルとしてもう限界に来た。
簡単な話、「制作コストがかさばりすぎる」からである。
テレビ業界に寄食している人の数があまりに多くなりすぎのである。
これだけ多くの人間を食わせなければならないということになると、作り手の主たる関心は「何を放送するのか」ということより、「これを放送するといくらになるか」という方にシフトせざるを得ない。
ビジネスとしてはその考え方でよいのだが、メディアとしては自殺にひとしい。
メディアとして生き残るためには、「放送することでいくら儲かるのか」から「放送することで何を伝えるのか」というメディアの王道へ帰還する以外に手だてはない。
それは具体的に言えば「テレビで食っている人間」の数を減らすということである。
制作コストを今の100分の1くらいまで切り下げることができれば、テレビは生き残れるだろう。
それなら、テレビマンたちは代理店やスポンサーや視聴率を気にせずに、いくらでも「好きなこと」ができるからだ。
作り手が「好きなこと」を発信することがメディアの本道である。
その決断を下せないまま、今のビジネスモデルで、今のような低品質のコンテンツを流し続けていれば、ある日テレビは「業界ごと」クラッシュするだろう。
その日はそれほど遠いことのように私には思われない。
そして、そのとき再び私たちは(BBC放送に耳を傾けたフランスのレジスタンスのように)ラジオの前に集まるようになるような気がする。
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