窮乏シフト

2008-12-06 samedi

ゼミの面接が始まる。
これまでに49人と面談。ひとり10分から長い人は20分くらいなので、すでに12時間くらい学生たちと話し続けている勘定になる。
ふう。
まだ20人くらい残っている。
たいへんな仕事ではあるけれど、総合文化学科の全2年生の3分の1くらいの学生たちと一対一で膝を突き合わせてその知的関心のありかを聞き取る得がたい機会である。
現代日本の20歳の女性たちの喫緊の関心事は何か?
女性メディアの編集者であれば、垂涎のテーマであろう。
お教えしよう。
彼女たちが注目している問題は二点ある。
一つは「東アジア」であり、一つは「窮乏」である。
東アジアへの関心の主題として挙げられたものは「ストリートチルドレン」「麻薬」「売春」「人身売買」「児童虐待」「戦争被害」「テロリズム」「少数民族」などなど。
これらは、「法治、教育、医療、福祉、総じて人権擁護のインフラが整備されていない社会で人はどう尊厳ある生を生きることができるか?」という問いに言い換えることができる。
そう言い換えると、「危機モード、窮乏モードを生きるためにどうすればいいのか?」という彼女たちの関心の射程がある程度見通せる。
若い女性の「窮乏シフト」の徴候は、私が面談した50人弱の中に「消費行動」を研究テーマに挙げた学生が一人もいなかったことからも知られる。
これまでは毎年「ブランド」とか「ファッション」とか「アート」とか「美食」とか「女子アナ」とかいう消費生活オリエンテッドな研究テーマを掲げる学生たちが相当数いたのであるが、今年はみごとにゼロである。
「人はその消費生活を通じて自己実現する」という80年代から私たちの社会を支配していたイデオロギーは少なくとも20歳の女性たちの間では急速に力を失いつつある。
「お金さえあれば自己実現できる」「自己実現とは要するにお金の使い方のことである」というイデオロギーが優勢でありえるのは、「右肩上がり」幻想が共有されている間だけである。
「お金がないから私は “本来の私” であることができません」というエクスキューズはもちろんまだ私たちの社会のほとんど全域で通用している。
その現実認識には「だからお金をもっとください」という遂行的言明が続く。
その前段にあるのは、「私たちの不幸のほとんどすべては『金がない』ということに起因しているから、金さえあれば、私たちは幸福になれる」という「金の全能」イデオロギーである。
このイデオロギーにもっとも深く毒されているのはマスメディアである。
メディアはあらゆる機会に(コンテンツを通じて、CM を通じて)視聴者に「もっともっと金を使え」というメッセージを送り届け、その一方で非正規労働者や失職者がどれほど絶望的な状況であるかをうるさくアナウンスして「消費行動が自由にできないと人間はこんなに不幸になるんですよ」と視聴者を脅しつけている。
「金の全能」をマスメディアはあるときは「セレブ」の豪奢な生活を紹介することで、あるときは「失職者」の絶望的困窮を紹介することで繰り返し視聴者に刷り込んでいる。
そして、メディアの当事者たちは自分たちがそのようなイデオロギー装置の宣布者であることについての「病識」がない。
けれども、若い女性たちはそろそろこのイデオロギーの瀰漫に対しての「嫌厭感」を持ち始めている。
だって、そのイデオロギーを受け入れたら、消費生活が不如意である彼女たちは今「たいへん不幸」でなければならないはずだからである(現に手元にお金がないんだから)。
だが、それは彼女たち自身の生活実感とは「違う」。
「ストリートチルドレン」より私たちはずっと恵まれた環境にいる。
その私たちは彼らに何ができるか。
そういうふうに考える人が(続々と)登場してきた。
彼女たちは「自分より豊かな人たち」に向かって「あなたの持っているものを私に与えよ」と言うのを止めて、「私より貧しい人たち」に「私は何を与えることができるか」を問う方向にシフトしている。
私はこのシフトを健全だと思う。
「自分が所有したいのだけれど所有できていないもの」のリスト作るより、「自分がすでに豊かに所有しているので、他者に分ち与えることのできるもの」のリストを作る方が心身の健康にはずっとよいことである。
「不幸のリスト」はいくらでも長いものにできるが、「幸福のリスト」もその気になればずいぶん長いものになる。
自分の不幸を数え上げることを止めて、自分に「まだ残っているもの」をチェックする仕事に切り替えるということは、実は「危機対応」である。
震災のとき、「自分が失ったもの」を数え上げ、それを「返せ」と言い立てる人たちと、「自分にまだ残っているもの」を数え上げ、それをどれくらい有効利用できるかを考えた人に被災者たちはわかれた。
危機を生き延び、すみやかにそのダメージから回復することができたのはもちろん後者である。
危機のときに「失ったもののリスト」を作る人間には残念ながら未来はない。
若い女性たちが「自分たちには何が欠けているのか」を数え上げることを止めて、「自分たちが豊かにもっているものを誰にどんなかたちで与えることができるのか」を考える方向にシフトしたのは、彼女たちの生物学的本能が「危機」の接近を直感しているからだと私は思う。
このシフトは世を覆う「金の全能」イデオロギーの時代の「終わりの始まり」を告げるものだろうと私は思っている。
「窮乏シフト」の中で個人的にいちばん面白かったのは “『スイート』現象” なのであるが、これはまた次の機会に。
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