カウントダウン

2008-12-21 dimanche

金曜日の教授会が終わって、年内は会議があと一つ、授業が一つでおしまい。
これで「サラリーマンとして迎える年末」も残り2シーズンとなった。
いろいろなものがカウントダウンで消えてゆく。
「初級フランス語の授業」はもうあと2週で終わりである。
2009年度からはクラス担当をはずしていただいたからである。
28歳から教壇に立ってフランス語の文法を30年教えてきた。
それもあと2週、前未来と中性代名詞と半過去まで教えて、私の「フランス語教師人生」は終わる。
そのあと、フランス語を教えるという機会はもう二度とないであろう。
「ゼミ生面接」も今年が最後である。
今の2年生(来年度のゼミ3年生)といっしょに私も卒業するからである。
毎年12月に数十人の2年生と膝突き合わせて、その知的関心の奈辺にあるかを聞き取るという、たいへんおもしろいイベントであったけれど、それももうおしまい。
学院標語のマタイ伝を拝読するのも来年三月の卒業式で最後である。4年間、入学式と卒業式でそれぞれ2回ずつ、つごう16回やったことになる。
大学クリスマスで学生たちとキャロルを歌うのも、あと2回。
大学の構内をこつこつと靴音をならしながら歩いていると、こんなふうに冬空の下のキャンパスを歩くのもあと何回かね・・・といささか感傷的になる。
私は「カウントダウン」好きなのである。
あらゆるものは「いつかなくなる」。
「いつかなくなる」と思ってみつめていると、いまそれがここにあるということが奇跡的なことのように、恩寵のように思えてくる。
養老先生はよく「オレはもうすぐ死ぬんだから」とあの低い声でおっしゃるけれど、そういうことを言ったあとに「ふぐさし」などをじつに美味しそうに口中に投じられるのである。
自分の存在がこの世界から消えてゆくそのときを「消失点」に擬して、それに基づいて自分がこのあと残された限られた時間の中で、何をするのか、何に優先的に有限のリソースを投じるのかを具体的に考えるというのは、とてもたいせつなことである。
「有限の」というところがキモなのである。
ものを考えるときに、私たちは「無限の時間、無限のリソース」というものを前提にしがちである。
その方が知的負荷が少ないからである。
例えば、「すべての人が幸福になる社会」とか「あらゆる差別が廃絶された社会」とかいうものを実現しようとするプランは「無限の時間、無限のリソース」を前提にしないと起案できない。
それを20年や30年のスパンで実現しようとしたら、「有限」を「無限」と言いくるめるしかない。
つまり、「私の理説に従わない人間は非人間であるので、これらについては考慮する必要がない」「私と理想をともにしない人間は鬼畜であるので、これは一掃してよい」とかいうかたちで適用範囲を暴力的に限定する。
高い理想を短期的に実現しようとする社会理論はしばしば「人間」の範囲をぎりぎりまで限定して、自説に同調しない人間をまとめて「人非人」として「カースト外」にたたき出すことで、理論の純度を守ろうとする。
「私たちが使えるリソースは有限であり、残された時間はわずかである」という限定はが私たちが過度に暴力的になることを抑止することができる。
あと三日で死ぬという人間に向かって「おまえ、生き方変えろよ」と説教する人間はいない。
あと三年で死ぬという人間に向かっても似たようなものである。
「残る時間は思い残すことなく、好きに生きてくれ」と私なら言うであろう。
では、あと三十年で死ぬという人間に向かってはどうか。
この場合には、私なら「生き方変えろよ。いまからでも遅くないからさ」と言いそうな気がする。
では、「あと三年で死ぬ人間」と「あと三十年で死ぬ人間」のあいだのどこにボーダーラインはあるのか。
どこで「うるさく説教をしてよい残り時間」と「もう好きにしてくれとあきらめる残り時間」が区切られるのか。
区切りなんかない、と理論的な人は言うであろう。
しかし、実際には「区切りがある」。
だって、現に私は「うるさく説教する相手」と「もうしない相手」をちゃんと区別して対応しているからである。
どうやって識別しているのか訊かれても私には答えようがない。
でも、ちゃんと識別しているのである。
「有限の時間の中で生きる」というのは「そういうこと」である。
人が「無限の時間の中で生きる」のであれば、私たちは「あらゆる場合に他人の生き方についてがみがみ言う」か「どのような場合にも他人の生き方については干渉しない」か、どちらかを選ばなければならない。
けれども、私たちは無限の時間の中で生きているわけではない。
だから、時と場合によって、「がみがみ言ったり」「何も言わなかったり」する。
そういう態度を「無原則」であると言われても困る。
「有限の時間、有限のリソース」という限定の中で生きている人間が採用する「原則」は、比喩的に言えば、「微分的」なことばづかいでしか語ることができない。
「微分的」というのは「そこで補助線を引くと、どこに向かっているのか、上に向かっているのか、下に向かっているのか、はっきりと見える」ということである。
「カウントダウン」というのは、そのような微分的思考を習得するためにはたいへん効果的な方法である。
私が「カウントダウン」と呼んでいる事態を別のことばづかいで語っている人もいる。

「武士道といふは死ぬ事と見附けたり。毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果たすべきなり。」(山本常朝、『葉隠』)

「家職」という言葉を読んで、若いときの私は「視野の狭い人だな」と思った。
今は違う。
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