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2017年01月 アーカイブ

2017.01.08

ル・モンドの記事から

「ルモンド」1月6日は慰安婦問題について短いニュースを報じた。
海外ではこの問題は通常はこういう語り口で報じられているのである。

「慰安婦」で日本政府はソウルの駐韓大使を召還。

日本は釜山領事館前への帝国軍の性奴隷(des esclaves sexuelles de l’armée impériale)を記憶する像の設置に抗議する意向である。
日本は1月6日金曜日に釜山の領事館前に12月に日本帝国軍の性奴隷(いわゆる「慰安婦」)を記憶する像が設置されたことに抗議して大使を一時的に召還すると発表した。
この問題は日韓関係に長年にわたって毒してきた。韓国人たちの多数はこれを1910年から45年にかけての植民地支配時代に日本によって犯された権力濫用と暴力のシンボルと見なしているからである。
歴史家たちの多くは最大で20万人の女性たち(多くは韓国人、その他に中国人、インドネシア人,その他のアジア諸国民を含む)が帝国軍の売春宿に強制的に徴募された(ont été enrôlées de force dans les bordels de l’armée impériale)とみている。
「日本と韓国は2015年に締結された協定が慰安婦問題について決定的かつ不可逆的に解決したと認めている。これにもかかわらず像が設置されたことは両国関係にとって遺憾な結果である」と日本政府のスポークスマンである菅義偉は述べた。
長嶺安政大使の召還に加えて、菅氏は釜山総領事も一時的に召還し、経済についてのハイレベルの会議も延期し、二国間為替についての新協定についての折衝も中止することとした。日本側は像の撤去を求めている。
ソウルは外務省スポークスマンCho June-Hyuckを通じて、日本政府の決定を「きわめて遺憾」なものとした上で、韓国政府は引続き「韓国と日本の相互の信頼関係を追求してゆく」と述べた。
両国は「決定的かつ不可逆的な」協定に合意し、それに則って、日本は「誠実な遺憾の意」を表紙、10億円の損害賠償を生存者の支援のための基金に供与した。
像は12月28日に釜山の南港市街に韓国の活動家によって設置されたが、これはソウルの日本大使館前に建てられた像のコピーである。いったんは撤去されたが、釜山の地方自治体が決定を撤回したために、活動家たちは再びこれを設置した。
この決定撤回は12月29日の日本の稲田朋美防衛相の靖国神社参拝を承けてなされた。靖国神社は日本の戦争犯罪者を祀った神社である。このふるまいは韓国、中国からは挑発とみなされた。
ソウルの像は肩に小鳥がとまったブロンズの少女の座像であり、韓国内ではよく知られたものである。日本は2015年の協定調印後にこれが撤去されるべきものだと考えているが、ソウルはその可能性を検討すると言うに止めている。以来一年活動家たちはその撤去を阻止するために24時間体制で監視している。
韓国内には同じ像が20以上あり、米国やカナダなど他の国にも10ほどの像が設置されている。

2017.01.12

能楽と武道

鎌田東二先生の肝いりで上智大学で行われた国際シンポジウム「世阿弥とスタニスラフスキー」で、「世阿弥の心身変容技法と武道のかかわりについて」という演題での発表を求められた。
そのときのテープ起こしが届いたので、若干加筆して採録しておく。「いつもの話」なので新味はないけれど、「こういう話」をする人が私の他にいないので、しつこく語るのである。

アカデミックな発表が続きましたけれども、僕の発表は全然アカデミックなものではありません。自分自身の経験に基づいて、中世日本人の身体観とコスモロジーに関してお話をしたいと思います。
私は合気道という武道を今年で41年続けております。大学を退職した後、神戸に1階が道場、2階が自宅という凱風館という建物をつくりまして、そこで自分も稽古し、門人にも教授もしています。能楽は今から20年前に稽古を始めました。なぜ能楽の稽古を始めたのかというところからお話ししたいと思います。
それまで、長く合気道の他、杖道や居合などの武術を稽古してきて、どうしても越えられない技術上の壁に突き当たりました。それは、武道というのは、鎌倉時代から室町時代にかけて成立した日本固有の身体技法体系なわけです。ですから、その時代の日本人がどういう身体を持っていたのか、どういうふうに自分の身体を感じ、操作していたのか、その身体を通じて世界をどう見ていたのか、それがわからないと、武道の本質には理解が届かないのではないかと考えました。
身体運用というのはひとつの歴史的形成物です。地域が変われば、身体の使い方は変わりますし、同じ土地でも時代が変われば身体の使い方は変わる。ですから、僕が現代日本人の日常的な身体の使い方をしている限り、中世日本人の身体運用をベースにして体系化された武道の身体感覚や身体操作には理解が及ばない。
武道はさまざまな型があります。その中には現代日本人がふだん絶対にしないような動きがいくつも含まれています。その型がどういう技術を要求しているのか、どの身体部位をどう操作することを要求しているのか、それはどのような能力開発のためのものなのか、それは自分自身が中世の日本人の身体に想像的に入り込んでみないと分からないのではないか、そう思いました。
中世日本人の身体運用について学びたいと思ったときに、思いついた候補が三つあります。一つが能、一つが禅、もう一つが茶道です。この三つはいずれも鎌倉時代・室町時代に発生し、体系化されました。これを修業すれば、中世日本人が、どんなふうに身体を使っていたのか、あるいはどんな体感を持っていたのかが少しはわかるだろうと考えました。

僕は、90年に神戸に赴任してきました。それまで東京に40年暮しておりましたが、一度も能楽堂というところに足を運んだことがありませんでした。引っ越してきたら、阪神間というのは能楽が盛んなところでした。震災前の阪神間はそこここに能楽の舞台があり、頻繁に公演が行われていました。たまたま僕のゼミの学生に2代続けて能楽部の部長がおり、彼女たちが僕にときどき能のチケットをくれました。最初に見たのは能楽部の自演会でしたが、そのうちに玄人の公演も「チケットが余っていますから先生どうぞ」とよく誘われるようになりました。暇だったせいもあって、週末ごとに能楽堂に通うような人間になりました。
ですから、何か中世日本人の身体技法を学ぼうかと思うようになった時にも、せっかくご縁が出来たのだから、能を習おうということに決めました。そして、1997年に観世流の下川宜長先生のところに弟子入りし、以後、20年間稽古をしております。
僕は、何ごとも始めたことはやめないたちなので、能の稽古もずいぶん一生懸命やりました。能はこれまで三番やっております。最初が『土蜘蛛』、次が『羽衣』、今年の6月は、観世のお家元に後見をしていただいて『敦盛』を舞いました。
能の舞台に出るというのは素人にとってはたいへん苛酷な試練です。曲が決まると、まる1年間、それだけ稽古をします。シテとして舞台に出るのはせいぜい1時間ほどですが、その1時間の舞台のために1年間稽古をするわけです。一挙手一投足を注意され、謡を直され、家でも暇さえあれば謡と舞の稽古をしました。そのストレスフルな1年間を過ごして、当日を迎えるわけですが、舞台に出ると、あっという間に終わる。でも、そのわずか1時間の舞台で、詞章を忘れたり、道順を間違えるたりしたら、1年間の努力が水泡に帰してしまう。まして今回の『敦盛』は、後ろにお家元が座っていらっしゃる。その緊張感は生半可なものではありませんでした。
でも、やっぱり、そういうところに追い詰められないとお稽古はする甲斐がない。ふだん先生の家に通ってお稽古をつけてもらっているのと、一人で舞台に上がり、周りは全員玄人、見所の方たちがじっと見つめている状況では経験の質が違います。本番前は胃が痛むほど緊張するわけですけれども、それでも終わるとやってよかったと思いました。
能舞台で能を舞うというところに行く過程で、素人がどのような技術的な困難に遭遇するか、そして、実際に能舞台に立ったときに何を経験するか。そういうことからお話ししたいと思います。

先ほど、松岡先生がご指摘されましたように、素人はまず「歩く」ということができません。ふだん現代人が歩いているような歩き方では、どうやっても型にならない。何とか能舞台で歩けるようになるまで10年間ぐらいかかりました。歩いても、歩いても、先生から、「それでいい」と言われることはありません。「歩けていない」と言われ続けて、10年目ぐらいに少し薄目が開いてきた。そのきっかけは舞囃子を舞うようになったことでした。
能では仕舞という地謡だけで舞うものの他に、舞囃子というものがあります。これは地謡の他にお囃子がつきます。その分だけ技術的難度は高いのですが、やってみると、実は舞囃子の方がむしろ舞い易いということがわかりました。それは囃子が入ることで、能舞台の上に厚み、奥行きのある音響空間ができあがるからです。
先ほど、「我見」と「離見」というお話をされましたけれども、たしかに、我見がある限り能は舞えない。これはその通りなんです。自我とか主体性とかが出しゃばって、「うまく舞ってやろう」、「見所にいいところを見せよう」と思って舞台を踏むと、ぎくしゃくして、ただ道順通り歩くという動作さえできなくなる。
どうすれば「我見を去る」ことができるのか。それは別に哲学的な話ではなく、能の稽古では純粋に技術的な身体運用上の課題であるわけです。
稽古というのはありがたいもので、ひたすら稽古しているうちにだんだんわかってくる。それは三間四方の能舞台には、強度も厚みも手触りも違う無数のシグナルが行き交っているということです。
例えば、目付柱というものがある。能舞台のいわば中心です。目付柱が能舞台空間に一つの秩序を与えている。非常に強い吸引力を持っているので、能舞台に立つと、自然に目付柱の方にこちらの身体が吸い寄せられてゆく。
その対極に切戸口があります。陽極に対する陰極です。小さく、暗い穴が目付柱の対角線上に穿たれている。目付柱がファロスであるとすれば、切戸口は子宮口です。この二つの舞台装置が、陰と陽、天と地、男と女、あるいは生と死、そういう二項対立的な仕方で能舞台を構造化している。
目付柱は陽のエネルギーを発散して、舞台空間を活性化する強い磁力を発揮しています。切戸口もやはり陰のエネルギーの極として働いて、水が低い方に流れるように、人はそこに引き込まれてゆく。その陰陽の拮抗が舞台に一つの緊張をもたらし、秩序を与え、舞台をコスモロジカルに調えているわけです。そこにさらに地謡と囃子方が加わり、ワキがいて、ツレがいて、作り物があり、それらがすべて能舞台空間にそれぞれの仕方で関与してくる。
そういういくつものファクターによって形成されている能舞台空間へ踏み出すと、物理的な手触りのあるシグナルが、そこを行き交っているということが身体実感としてわかります。身体がある方向へ引きつけられたり、ある方向へ押し戻されたり、回転力を与えられたり、ある型をするように誘われたり、そういうことが起きるわけです。
地謡の地鳴りをするような謡が始まってくると、その波動がシテの身体にたしかに触れてくる。囃子方が囃子で激しく煽ってくると、そのリズムにこちらの身体が反応する。ワキ方が謡い出すと今度はワキ方に吸い寄せられる。そういう無数のシグナルが舞台上にひしめいています。三間四方の舞台であるにもかかわらず、立ち位置によって気圧が変わり、空気の密度が変わり、粘り気が変わり、風向きが変わる。
ですから、舞台上でシテがすることは、その無数シグナルが行き交う空間に立って、自分がいるべきところに、いるべき時に立ち、なすべきことをなすということに尽くされるわけです。自分の意思で動くのではありません。もちろん、決められた道順を歩んで、決められた位置で、決められた動作をするのですけれども、それは中立的な、何もない空間で決められた振り付け通りに動いているのではなく、その時、そこにいて、その動作をする以外に選択肢がありえないという必然的な動きでなければならない。刻一刻と変容していく能舞台の環境の中で、シテに要求されている動線、要求されている所作、要求されている謡の節が何であるかを適切に感知できれば、極端な話、シテは何も考えなくても能が成立する。そういうつくりになっているんじゃないかなということが始めて10年くらいの時にぼんやりわかってきました。
それまでは、どうしても近代演劇からの連想で、能も一種の「自己表現」だと思っていました。まず頭の中で道順を考える。角へ行って、角取りをして、左に回って、足かけて・・・・と頭の中で次の自分の動きの下絵を描きながら、それをトレースしていった。でも、そういうふうに動きを「先取り」するのを止めました。ある場所に行ったら、「決められた動作」ではなく、そこで「したい」動作をする。そこで「したい」動作が何であるかは、文脈によって決まっているはずなんです。この位置で、こちらを向いて、こう足をかけたら、これ以外の動作はないという必然性のある動作があるはずなんです。だから、それをする。謡にしても、これからこうなって・・・というふうにあらかじめ次の謡の詞章を頭の中に思い浮かべて、それを読み上げるような謡い方をしない。こう謡ったら,次はどうしてもこう続かないと謡にならない。そういう音の流れがあるはずなんです。
そのように身体が自動的に動き、謡が自然に出るようにするためには、とにかくひたすら稽古するしかありません。ですから、舞台に出たら、もう何も考えないで済むように、何十回も何百回も稽古しました。舞台に立ったら、自分が何をすればいいのかを自分で考えるのではなく、舞台から送られてくるシグナルに従って動く。身体感度を上げて、できるだけ受動的になる。すると、何かが後ろから肩を押して、こっちへ曲がれ、ここで止まれ、と指示してくれる。空気感自体が変化して、自分の動きを指示してくれる。
そのことは本当に、仕舞や舞囃子のときにはよくわかりませんでした。装束を着け、面をつけて、その重みと不自由さで、身体が主体的に統御できない状態に身を置くことでわかったことがあります。能が要求しているのは、身体運用の技術を高めて舞台上で審美的なパフォーマンスを達成することではない。そうではなくて、能が要求しているのは、周りから送られる幽かな、ごく曖昧なシグナルを感知できるような高い身体感受性を作ることである、と。能舞台「の上で」何か技巧的に見事なことをして見せるのではなく、能舞台「と共に」舞い、謡う。その所作に必然性があれば、たとえシテが指一本わずかに動かすだけのことであっても、それによって能舞台全体がたわんだり、色調を変えたり、異界に変じたりすることがありうる。
幽玄という言葉はふつうは美学的な意味で理解されていますけれど、「幽玄」というのは、文字通り「幽(かす)か」でかつ「暗い」ということではないかと思います。微細で、輪郭のはっきりしない、アモルファスなシグナルが能舞台の上には渦巻いている。それを、自分の身体感受性のアンテナの感度を最大化することで感知し、それらのシグナルがシテに求めていることを行う。能舞台という宇宙において、「自分が何をしたいか」ではなく、「何をするためにここにいるのか」を問う。他ならぬここで、他ならぬこの時に、他ならぬ私が余人を以ては代え難い唯一無二の行為をする。だとしたら、それはどのような行為でなければならないのか。それを問うわけです。
これがたぶん中世の日本人が能楽を通じて習得しようとしていたことではないかと思います。どう座る、どう立つ、どう歩くといった個々の技術ではなくて、能楽の稽古を通じて僕は中世日本人たちのそのような身体観、世界の片鱗に触れたように思います。

稽古を始めて10年目くらいの時に、ワキ方の安田登さんと対談することがありました。そのときに、舞囃子の稽古を始めるようになってから、どうも空間が「粘る」んですよね、という話をしました。ヒラキをするときに、扇や袖にものが引っ掛かる感じがしてきた。何だかゼリーの中を動いているような感じがする。能舞台にびっしりとゼリー状のものが詰まっていて、そのゼリーの中を歩いていくような感じがする。何もない空間で手が動かすときは、どんな方向に、どう曲げても、空気抵抗なんかないにわけですけれど、舞の中だと、かすかではあるんですが、空気に物質性がある。粘り気が感じられる。だから、「それ」がまとわりつかないような手の動かし方を工夫するようになる。一番空気抵抗のない、体幹の筋肉とつながった強い動きをするようになる。腰の回転も使うし、重心の移動も使う。
「なんかゼリーの中で動いているみたいな、かすかな粘り気を感じるんです」と申し上げたら、安田さんは「うちの流儀では『寒天』と申します」とおっしゃいました。それを聞いて、僕の感覚は間違っていなかったんだと安心しました。その10年目の「ゼリー・寒天問答」のときに、僕の中でいろいろなものがかちっとつながって、この方向で稽古していいんだなということが得心できました。

その頃、鈴木大拙の『日本的霊性』という本を読んで、平安仏教から鎌倉仏教に、日本仏教が大きく変容して行く時に何が起きたのかということを知りました。大拙によれば、平安時代までの仏教というのは外来のもので、また都市固有のものであった。鎌倉仏教になって初めて、仏教は日本化し、土着化する。
鎌倉期というのは、時代の主人公が都市に暮らす貴族から田園に暮らす武士たちに変わった時代です。坂東武者たちというのは、地面に近い暮らしをしている。野山を歩き、田畑を耕し、馬や牛を飼う。その地面に近い生活者の身体感覚に基づいた新しい宗教が鎌倉仏教である、と。大拙はそう言うわけです。その時代に禅宗や浄土真宗や日蓮宗などが一斉に登場してきます。
鎌倉仏教の基本的な態度は「大地を踏みしめて立つ」ことだと大拙は言います。これは平安時代の殿上人がついに経験したことのないことです。田畑の泥濘を踏みしめる。その足裏から大地の霊が立ち上ってくるのが感じられる。その大地の霊で全身を満たす。そのときに初めて日本的霊性が発動する。大拙は、日本的霊性とは鎌倉武士が泥濘に足を膝まで浸からせて、足裏からこの「大地の霊」を吸い上げた時に生まれたという非常に感動的なフレーズを書き残しています。その実感は能楽の稽古を通じて僕が感じたことに非常に近い。
能のすり足の稽古をしていると、たしかに足裏と舞台の檜の板目の間に、ある種の親密さが生まれます。足と床板の間で、やり取りがある。実際に、きちんと着物を着付けて、足袋を履いて、能舞台をすり足で一巡すれば分かりますが、すごく気持ちがいい。足裏の感度を上げて、板の木目を味わうように進んで行く。板目から送られるメッセージに耳を傾ける。
すり足という動作も発生的には宗教的なものだと思います。足拍子を踏むという動作は中国にもありますけれども、これは天神地祇に対する「挨拶」です。強く足を踏むことで地祇に挨拶を送る。呼び起こした神に対して祈りを捧げ、お酒を注ぎ、大地の恵みに感謝し、豊穣を祈り、災厄を祓う。あるいは再び足を踏んで、目覚めた神を鎮める。
足を強く踏むと神気が発動する。だとすると、すり足というのは「地面の下にいる神様を起こさないようにする」という気遣いの現われだということになる。神気をむやみに発動させてはならないから、人間たちはそっと動く。そして、地面から人間が受け止めることができる程度の制御可能なエネルギーをありがたく受け取る。
すり足というのは、大地に対する感謝と畏怖の念を表現したものではないかと僕は思います。足裏で大地と交感するという所作は、巨大な力を持つものが大地の下に潜んでいるという信憑があってはじめて生まれるものです。すり足という能の基本動作が鎌倉仏教における「大地の霊」の発見と同根のものです。

能楽と鎌倉仏教と武道はほぼ同時期に、同一のパラダイムの中で発祥したというのが僕の仮説です。これは、たぶん日本では僕しか言っていないことだと思います。何の学術的根拠もない、誇大妄想的な思弁ですけれど、僕自身は、これはかなりいけるんじゃないかと思っています。
武道の発生はどこまで遡れるか。僕の仮説では、武道の起源は、日本においては「海部(あまべ)」と「飼部(うまかいべ)」という職能集団に求めらると僕は考えています。海部は操船技術という特殊な職能を以て、飼部は野生獣を制御するという職能によって、それぞれ天皇に仕えました。風と水のエネルギーと野生獣のエネルギーという二種類の野生のエネルギーを人間にとって有用な力に変換する高度な技術をもった集団です。
この二つの職能集団はどちらも天皇に直接仕えていたせいで、宮廷政治とは距離を置いていましたが、それぞれに列島をつなぐ広大なネットワークを形成していた。やがて、平安貴族政治が終わる頃になると、この二つの職能民たちが侮れない巨大な政治勢力として表舞台に登場してくる。
もう分かりますね。海部の末裔が平家、飼部の末裔が源氏です。平家というのはもともと海民なんです。平家は伊勢の出ですが、伊勢は海民の中心地の一つです。清盛が福原遷都をしたのは大輪田泊を拠点に日宋貿易を展開し、東シナ海、南シナ海に広がる一大海上王国を建設するというスケールの大きな構想があったからですが、これは典型的な海民の発想です。
その後、源平合戦で、平家は京都を逐われ、瀬戸内海を船で西へ向かいます。別に、行くとこがなく、難民化して船に乗ったわけではありません。船に乗るのが平家の本来の姿なんです。都に入ってからは「平家の公達」とか言われてすっかり都会化されてしまいましたが、もともとは荒々しい海民の一族ですから、水と風のエネルギーを操作する操船技術こそが彼らの本領なのです。
だから源平合戦のストーリーというのは、「沖には平家の船、陸には源氏の騎馬武者」という非常に分かりやすい図像的な構造になっています。源氏は船を仕立てて追尾するということをしない。つねに船を馬で追います。鵯(ひよどり)越(ごえ)では崖を駆け下り、屋島の戦いでは浅瀬を渡り、騎馬での戦闘能力を限界まで試みる。これには職能民としての維持があるわけですね。それぞれが自分たちの得意分野で戦う。だから、源氏が船を操り、平家が騎馬で戦うということについては微妙に抑制がかかっている。
「逆櫓(さかろ)」というエピソードがあります。義経が、梶原景時の進言した船を巧妙に操って平家を倒すという作戦を退ける話です。それがきっかけとなって義経は頼朝の不興を買って逐われる身となる重大なエピソードですけれども、よく考えると意味がわからない。戦術的には梶原の提案が正しいわけです。でも、義経はあくまで「騎馬で勝つ」という形式にこだわって、操船の利を拒む。これは義経が「飼部」の職能に忠実であることを局地戦での勝利より重く見たということだと僕は思います。職能民には職能民にしかわからない不可視の境界線があり、それを侵すことは許されない。これは単なるヘゲモニー闘争ではなく、技術と技術の戦いであるわけだから、相手の技術を借りて勝つのでは、意味がない。義経はそう考えたのだと思います。ですから、「那須与一の扇の的」も「弓流し」も「八艘(はっそう)飛び」も、義経の戦いの「見せ場」はどれも海上であるにもかかわらず、あえて騎射技術に固執する職能者のこだわりを描いたものです。
そういう象徴的な戦闘であるというふうに考えると、「野生獣のエネルギーを制御する技術に長けた職能民」が「海民」に勝利して、それから幕末まで武家政治体制を維持し続けたという文明史的な流れが見えてくる。そして、武道はこの「海部」から「飼部」へのヘゲモニーの移動と同時期に体系化されています。

野生のエネルギーを、調(ととの)えられた身体と精妙な技術をもって制御する技法ということであれば、操船技術も本来武術に算入してよいはずなんです。でも、源平合戦で源氏が勝ったことによって、日本の武道史では、操船技術は武術のカテゴリーから排除されました。だから武道のことを「弓馬の道」と言う。現代武道では、もう弓も馬も主流ではありませんけれども、それでも「刀槍の道」とは言いません。武道はあくまで「騎射」の技術を祖とするものだからです。
騎射というのは、野生獣と一体化し、そのエネルギーを人間の身体に取り込み、それによって人間単体では引くことができない強弓を引き、人間単体では果たせないほどの命中精度を達成する。そういう技術です。僕たちが現在稽古している武道はもう野生獣のエネルギーの制御技術からは遠く離れてしまっていますけれど、「野生のエネルギーを調えられた身体を通じて解放し、人間単体では達成できないような巨大な力を発動する」という基本的なアイディアにおいては、今も弓馬の道の伝統に従っています。

海民の伝統も源平合戦の敗戦で絶えたわけではありません。間歇的によみがえってくる。戦国時代の末期がそうでした。西国にキリシタン大名が出てきて南蛮貿易を行ったり、呂宋助左衛門、山田長政、高山右近といった人々が東アジアに雄飛した。豊臣秀頼の朝鮮出兵も構想的には海民的なものです。秀吉は明朝を攻め滅ぼして、後陽成帝を招いて新しい王朝を興すつもりでした。秀吉自身は寧波(ニンポー)に拠点を置いて、東シナ海、南シナ海を睥睨するという構想を持っていました。誇大妄想的ではありますけれども、これはあきらかに海民の流れを汲むものだと思います。でも、江戸時代になって、鎖国禁教という政策が採用されると、戦国末期以来の「海上王国」構想は萎んでしまいます。
幕末になると、その海民的な構想がもう一回蘇生してきます。清盛が開港したのと同じところに幕府の海軍操練所ができます。そこに赴任してくるのが勝海舟で、弟子で入ってくるのが坂本龍馬です。彼らが考えたのは海運貿易をさかんにすることによって日本を海上王国とするという千年前に清盛が考えたアイディアに近いものでした。明治維新以後の植民地主義的、膨張主義的な政策も、歪んだかたちではありますけれど、部分的にはこの流れを引き継いでいます。それが1945年の敗戦まで続きます。そして、とりあえず終わる。
海民的なアイディアはそのようにして間歇的に、そのつどかたちを変えて甦ってくる。「弓馬の道」によって日本列島を統御している政治勢力が衰弱してくると、オルタナティブとして海民たちが登場して新しい国のかたちを提案してゆく。海部・飼部の時代から現代に至るまで、この二つの力の拮抗と葛藤が日本の政治史に伏流していて、日本の政治過程を賦活しているというのが僕の仮説です。
 
武道的な考え方が西洋近代とうまく噛み合わないのは、武道では人間の身体は「力の通り道」だと考えるからです。巨大な自然のエネルギーが、調えられた身体を通って発動する。エネルギーは自分から出るわけではありません。源は外部にある。それが自分の中を通過する。水道管と同じです。巨大な水流を通そうとしたら、その水圧に耐えられるだけの、分厚い、抵抗の少ない水道管を用意しなければならない。薄手の管では、水圧に耐えられずに壊れてしまう。また管の表面が滑かでなければ、水流が滞留してしまう。ですから、野生の巨大なエネルギーを身体に通そうと思うなら、それを通しても傷つかないように身体を調えることが必要になります。武道修行の要諦はそこにあります。それは必ずしも自分の運動能力を高めるという表現では尽くせない。筋力を強めるとか、動体視力を高めるとか、反射速度を上げるとか、闘争心を持つとか、そういうことでは尽くせない。本来の武道修行とは、野生の巨大なエネルギーが通過しても傷つかないように心身を調えることにあります。人間の外部にある力を、人間の身体を通して発動し、それを制御する。その技術のことだと思います。
海部と飼部の戦いでは、結果としては、野生獣のエネルギー、陸のエネルギーを制御する技術を持った職能民が勝利しました。だから、武道として「弓馬の道」が残された。でも、本来は、心身を調えて野生のエネルギーを制御する技術は、すべて「武道」と呼ぶことができるだろうと僕は思っています。

鎌倉仏教は「大地の霊」を身体に受け入れ、それを発動するというアイディアによって日本固有の宗教となった。それが武道と発想において同一であることは今の話でご理解頂けると思います。
発生的に言うと室町時代の能楽が一番後に来るわけですけれども、能楽の場合は神霊を源とするエネルギーを、シテがその調えられた身体を通じて、美的なものとして能舞台上に発現する。ですから、シテにおいて「我」というのはあるだけ邪魔だということになります。シテはエネルギーの通り道です。大きな力を通せるだけの厚みがあり、滑らかさがあること、それがシテには求められます。世阿弥はシテの個性とかわざとらしさということを非常に批判したという話をさきほど松岡先生がされましたけれども、それは当然のことだと思います。そんなものがあればあるほど、シテを通じて舞台上に顕現するものは衰え、汚れるからです。
昔は、もう少し能役者の構えが自由だったのが、だんだん型が制約的になってきたというご指摘もその通りだろうと僕も思います。能におけるさまざまな約束事は、シテに自由なことをさせないための仕掛けだからです。かつてはシテが自由に動いても、日常動作自体そのものが規矩にかなっていたので、自然に型になった。でも、時代が下ると、能が要求する「調えられた身体」と、日常的に能楽師が自然に動くときの身体運用の間の「ずれ」が生じてきた。ですから、シテに自然な動きを禁じなければならないようになった。

最後に、能の呪術性ということを知るために、具体的な例を挙げたいと思います。
僕が能楽を稽古し始めてから聞いた話で一番驚いたのは、能の本番中にシテが失神したり、絶命したりした場合は、シテを切戸口から外に連れ出した後は、後見がその続きを舞わなければいけないということでした。重い装束をつけて、面もかけていますから、身体的には負荷が大きい。ですから、ぐっと力んだときに脳内出血とか起こすことがあるんだそうです。ふつうの演劇や舞踊でしたら、主演の役者やダンサーが倒れたら、すぐカーテンを降ろして、「すみません、主演者が倒れてしまったので、本日の公演はこれでおしまいです」となるはずなんです。けれども、能ではそうならない。神霊が舞台上に降りてきているわけですから、曲が終わったら、神霊を再び上げなければならない。だから、シテが倒れても、後見が最後まで舞い切って、最後まで舞台を勤める。
僕が実際に経験したことにこんなことがありました。能を舞い終えると、シテは橋掛かりを歩いて、幕の中に入ります。あの時、シテは自分で足を止めてはいけないんです。後見が先回りして、幕の中でシテの入りを待っている。そのときにシテに向かってお辞儀をします。僕がシテを勤めている時、後見は下川先生です。その先生が舞い終えた僕に「おつかれさん」と言ってお辞儀をしているわけではありません。先生は「僕が背負っているもの」に対してお辞儀をしているのです。そして、両手を差し出して、僕の腰のあたりを押さえて、歩みを止める。後見がそうやって止めるまで、僕の方から足を止めてはいけない。シテは止められるまで歩き続けなければならない。そうすると、どういう感じがするか想像できますね。シテが「背負っているもの」は後見が身体を止めたことによって、そのまま惰性でシテの身体を通り抜けて、外で飛び出す。それがおそらく「上げる」ということの儀礼なんだろうと思います。
自分で足を止めるなという点について、先生は非常に厳しかった。ふだんの稽古の時も、橋掛かりを通って、幕の中に入るところを稽古している時に、僕がついうっかり自分で止まってしまうと、きつく怒られました。これは楽屋内の決まりごとというよりはむしろ宗教的禁忌なんだなと感じました。神霊をそのまま生身の人間の身体の中にとどめ置いてはならない。「それ」は能が終わったら外に出さなければならない。それが実感としてわかったのだと思います。
それから、能楽では装束を着けて、面をかけてのリハーサルということをあまりやりません。玄人の場合、大抵は申し合わせと本番の二回だけです。あれだけ難しいことをやるのですから、同じメンバーで何回も繰り返し稽古して、間違えないように息を合わせるかと思いきや、基本的に二回しかしない。たぶん「慣れ」ということを嫌うのではないかと思います。あれはやはり「人の世ならざるもの」が降りてきて、シテに憑依して、最後に舞い納めて、天に上げるという呪術性の強い芸能ですから、あまり何度も練習するものではない。
実際に生涯に演じることの能の曲数は二千が上限だという話も聞いたことがあります。二千を超えると能楽師の命に関わるという話を玄人の先生から聞いたことがあります。
そういう点でも、能楽は今なお太古的な呪術性を残している芸能です。ですから、修行するものは、能楽のその霊的な意味をきちんと理解する必要があると思います。

最初にお話しされたアニシモフ先生は、自然のエネルギーと人間の関わりを制御する技術が存在する、その自然のエネルギーと人間の関わりの中に芸術的創造があるというお話をされました。それを伺って、基本的な原理は能と同じだなと思いました。スタニスラフスキー・システムについては、『俳優修業』をぱらぱらと読んだだけで、武道や能楽とは何の関係もないと思っていましたが、今日のお話を聞いて、実は非常に深いところではつながっていると実感しました。

2017.01.15

『難しさ』とは何か?

『転換期を生きるきみたちへ』の読者である都内の公立中学の先生から晶文社の安藤さんのところにこんな手紙が来たそうです。
考えさせられる内容でしたので、ご紹介します。

「安藤さまが担当された『転換期を生きるきみたちへ』を購入して、拝読しました。どの文章も大変素晴らしく、大人にとっても勉強になる内容でした。(・・・)そこで早速、本校の図書館にも購入しました。しかしながら、借りる生徒がいません。これでは宝の持ち腐れだと思ったので、生徒会長、生徒会役員、学級委員の三名の男子生徒(全員二年生)に順番に読んでもらいました。彼ら全員の感想は共通しており、『難しすぎる』というものでした。彼らは決して勉強ができない生徒ではありません。成績は上位の生徒たちです。その生徒たちが『難しすぎる』と言っているのです。内田先生はまえがきの中で『理解できなくても、共感できなくても、別に僕はいいです』と書かれていますが、それでは『中高生に伝えておきたいたいせつなこと』がもったいなさすぎると思いました。」

この手紙を安藤さんから転送されて、僕もいろいろ考えてしまいました。
つい先日も若手ジャーナリストの集まりで、視聴者の知的レベルをどの程度に設定すればいいのか、ということについて議論がありました。
若い作り手たちの作品に対して上司がしばしばつけるクレームは「難しすぎる」というものだそうです。それでは視聴者・読者がついてきてくれない。「ひとりよがりになるんじゃないよ」というのが定型的な叱責の言葉だそうです。
「じゃあ、僕らはいったいどんなものを作ればいいんですか?」という悩みを伺いながら、この「難しすぎるものは商品としてダメ」という考え方が日本のメディアの現場を萎縮させ、同時にコンテンツの質を劣化させているということを感じたので、そのようにお答えしました。
でも、その直後に「難しいから読めなかった」という中学生からの反応をうかがったわけで、また考え込んでしまいました。
どうすればいいんだろう。
ちなみに僕は新聞や雑誌に寄稿したときに「難しいから書き直せ」と言われた場合には「じゃあ、いいです」と言ってそれきり書かないということにしております。15年前にメディアに書き出したからずっとそうです。
それはメディアの人たちが「難しい」というのがいったい何を基準にしているのか、僕にはよくわからなかったからのです。
もしそれが読者の中で「最低のリテラシーのもの」でもすらすら分かるように書くというのだったら、新聞も雑誌もひたすらレベルを下げるしかありません。それも一つの「サービス」だと言えるかも知れませんが、リテラシーがいくら低くても情報収集に支障がないという情報環境を作り上げることで社会の知的活動が一層活発になるという見通しに僕はまったく同意することができません。
「標準的なリテラシーを基準にしてくれ、と言っているんだよ」と反論する人もいるでしょう。
でも、何か「標準的」であるかに客観的・汎通的な基準なんかありません。その人の頭の中にある「普通の人」とか「世間の人」とか「大衆」とかいうイメージは主観的なもの、その人の願望に過ぎない。
僕は難しい言葉を使います。わからない言葉があったら辞書を引けばいい。ネットで検索すれば一瞬で調べがつく時代なんだから、そんなことで手間を惜しまない読者を想定して僕は書いています。
でも、そうい「手間暇」を読者に求める以上、それなりの身銭を切らないといけない。
辞書を引かせるためには、「辞書を引いても理解したい」という気分になってもらわないといけない。
目の前にドアがある。ドアノブを回せばドアの向こうの景色が見える。ドアノブを回してほしければ「ドアの向こうが見たい」という気になってもらうしかない。理屈は簡単です。
辞書を引くのも、少し前から読み返して論脈をたどり直すのも、「ドアノブを回す手間」だと僕は思います。
「難しい話」を読んでもらうというのは読者に「手間暇をかけてもらう」ということです。そうしてもらうためには、こちらもそれなりの手間暇をかけないといけない。
だから、僕は何より論理的に書くことを心がけます。手に入る限りは論拠をあげる。できるだけ喩え話を駆使して話をカラフルに表象する。何よりも、音読に耐えるようにリズミカルに書く。これはすごく大事なことで、リズムがよいと「勢いで読んじゃう」ということが起きます。
それを総称して「情理を尽くして書く」というふに僕は呼んでいます。
それは「やさしく書く」ということとは違います。
むずかしい話を「それでもわかってもらえるように書く」ということです。
この二つは全然違うことです。
「わかってもらえるように書く」手間暇をかけることができるのは、読者の知性を対する信頼があるからです。それが読者に伝われば、僕は読者はかなり難しい話でもついてきてくれると信じています。

僕は『転換期を生きるきみたちへ』の「まえがき」に「理解されなくても、共感されなくても、別に構わない」と書いているとこの先生は書かれていますけれど、これだけ読むと、「言ってることが違うじゃないか」と言われそうですけれど、これは引用がちょっと言葉足らずです。
僕は実際にはこう書いたのです。ちょっと長いけれど引用します。「理解されなくても・・」というのは引用の一番最後に出て来ます。
まず最初に寄稿者への「お願い」を掲げておきます。僕が寄稿者のみなさんにお願いしたときの手紙です。

「今回のアンソロジーは晶文社の安藤聡さんからご提案頂いたものですが、読者を中高生に特定して、これからこの転換期を生きてゆかなければならない少年少女たちに、彼らが生き延びるために少しでも役に立ちそうな知見を贈ることを編集目的にしています。その趣旨をうかがって私もそれに深く同意しました。
何より、中高生対象というふうに読者の年齢と知的経験値を限定して書くというアイディアが気に入りました。そういう条件だと、どうしても話が根源的にならざるを得ないからです。「大人」同士であれば通じている(つもりでいる)符牒が若い人たち相手には通じないということがあります。「国家とは何か」、「貨幣とは何か」、「市場とは何か」、「家族とは何か」・・・「大人」たちはそういう根源的な問いを回避したまま、それについて語っていますけれども、それらの術語について、あらためて子どもにでもわかるように解説してくださいと言われると、「大人」たちのおおかたは絶句してしまう。
例えば、今の日本の政治家たちに向って、「国民国家とは何か、その成立要件は何か、それはどのような歴史的条件の下で成立し、どのような条件下で消滅するのか」を問うても即答できる人はほとんどいないと思います。でも、転換期というのは、まさしくそのようなあって当たり前の制度文物が安定的な基礎を失って、あるいは瓦解し、あるいは状況に適応すべく劇的に変貌する局面のことです。
転換期には、ものごとを根源的に考えることが要請されます。
そして、いつの時代でも、若い人たちにものごとの成り立ちを誠実に説明しようとしたら、根源的な問いを忌避することは許されない。つまり、転換期において、若い人たちに向って、今起きていることを説明し、生き延びる道筋を示唆するという仕事は、私たちに二重に根源的であることを要請するということです。これはそう考えると、ずいぶんやりがいのある仕事ではないかと私は思います。
寄稿をお願いしたみなさんは、それぞれのご専門の立場にあって、転換期を若い人が生き延びるための知恵と技術について有用な経験的知見をお持ちだと思います。それをぜひ彼らに贈り物として差し出して頂きたい。それが今回の企画意図です。
どなたもたいへんにご多用であることは私も重々承知しております。しかし、私たちの知っている日本という国が『何か別のもの」』なるリスクが指呼の間に迫っている、今はそういう危機的局面だと私は理解しています。だからこそ、少年少女たちが見晴らしのよい視座から、ひろびろとものを見ることができるように一臂の支援をしたいと願うのです。拝して寄稿のご協力をお願いする次第です。」

この手紙を紹介した後に、僕から読者である「中高生」への「まえがき」が始まります。

「以上が、僕から寄稿者の方々への手紙の全文です。
物書き同士でのやりとりなので、中高生の語彙にはなさそうな漢字や熟語が使ってありますけれど、そこはご容赦ください。この手紙を今年(2106年)の1月に出しました。ほとんどの方が「書きます」とすぐにご返事下さいました。
寄稿者の方々にどういう主題について書いて頂くのか、事前には何も決めませんでした。「あなたにはこれについて書いて欲しい」というようにあらかじめ決めておけば、編集の仕事は効率的に運びますし、同じ主題が重複することもないでしょうが、僕がお願いしたのは、「今中高生に言いたいこと」が何か頭に浮かんだら、それをそのまま書いてくださいということだけでした。
選んで頂く主題は、政治の話でも構わないし、市場や貨幣の話でも、文学や音楽や映画の話でも構わない。家族や性の問題でも構わない。あるいは、「どうして君たちは姿勢が悪いのか」とか「どうして君たちはまわりの友人の学習意欲を殺ぐことについては異常に熱心なのか」とか(これは僕「書こうかな」と一瞬思った主題です)、どんなことについて書いてもらっても構わない。できるだけ、主題の選択が水平方向にも、垂直方向にも「ばらけている」論集になったらいいな、と思っていました。
幸い、集まった論考を読んだら、憲法について、国家について、科学について、人口について、中年の危機について、空気について、消費者マインドについて、弱さや不便さに基づいた生き方について、言葉について・・・などなど、実に多様な主題が選択されていました。
寄稿者の方々から送られてきた原稿を通読して僕が個人的に興味を持ったのは、書き手が「読者の理解度」をどのレベルに設定しているのかが微妙に違っているということでした。「中高生というのは、どの程度までの難度のものなら理解できるのか?」についての判断にはひとりひとりかなりの差があります。そう言われてみれば当たり前のことですけれども、それでも、そのばらつきに僕は軽い衝撃を受けました。そして、ちょっとうれしくなりました。
とにかく分かりやすさを心がけて、語彙や事例も「中高生になじみ深いもの」を選ぼうと努めている書き手もいるし、「中高生ならこれくらいのことは理解できていいはずだから、ふだん通りにやらせてもらうよ」というちょっと突き放したスタイルの書き手もいる。ですから、このアンソロジーは多様性ということについてはかなりよい点を与えられる出来になったと編者としては思っています。こちらには朗々と演説している人がいて、こちらでは小声で語り聴かせている人がいて、こちらでは独り言を言っている人がいて・・・というような「ばらつき」は僕の偏愛するところなのですが、それは長く学校の先生をやってきて、しみじみと身にしみたことです。「まえがき」の場を借りて、「ばらつきの効用」について一言だけ思うところを書き記しておきたいと思います。
この世に「最低の学校」というのがあるとすれば、それは教員全員が同じ教育理念を信じ、同じ教育方法で、同じ教育目標のために授業をしている学校だと思います(独裁者が支配している国の学校はたぶんそういうものになるでしょう)。でも、そういう学校からは「よきもの」は何も生まれません。これは断言できます。とりあえず、僕は、そんな学校に入れられたら、すぐに病気になってしまうでしょう(病気になる前に、窓を破っても、床に穴を掘っても、脱走するとは思いますが)。僕はそういう「閉所的」な空間に耐えることができません。どんな場所であれ、そこで公式に信じられていることに対して「それ、違うような気がするんですけど」という意思表示ができる権利が確保されていること、それが僕にとっては、呼吸して、生きていけるぎりぎり唯一の条件です。
勘違いしないで欲しいのですが、「僕の言うことが正しい」と認めて欲しいわけではないのです。僕が間違っている可能性だってある(だってあるどころかたいていの場合、僕は間違っています)。それでも、みんなが信じている公式見解に対して、「あの、それ、違うような気がするんですけど」と言う権利だけは保証して欲しい。「僕が正しい」とみんなに認めて欲しいのと違うのです。ただ、正しい意見に対して、「それは違うと思う」と言っても処罰されない保証を求めている、それだけです。
教師も生徒も、全員が同じ正しさを信じていて(信じることを強いられていて)、異論の余地が許されていない学校は、知的な生産性という点から言うと、最低の場所になるでしょう。そういう学校から、多様な個性や可能性を備えた若者たちが次々と輩出してくるということは決してないと僕は思います。というのは、知的な生産性というのは「正しい/間違っている」という二項対立とは別のレベルの出来事だからです。
ほんとうに新しいもの、ブレークスルーをもたらすものは、いつだって「思いがけないもの」です。そんなものが存在するとは誰も思っていなかったものです。それが、そんなところから何かが生まれなんて誰も思ってもいなかった場所から生まれ出てくる。そういうものなんです。いつだって、そうなんです。ほんとうに新しいものは、思いもかけないところから生まれてくる。
ですから、知的生産性という点からすると(もう三回目ですけれど、実は僕はこの言葉があまり好きじゃないんです・・・)、学校が多産であるためには、「そんなところから何か価値あるものが生まれて来るとは誰も予測していなかった場所」がたくさんあることが必要だということです。薄暗がりとか、用途のわからない隙間とか、A地点からB地点にゆく場合の最短ルートとは別の迂回ルートとか、坐り込んだら気分よくて立てなくなってしまうソファーとか、意味もなく美しい中庭とか・・・そういう「何の役に立つのかよくわからないもの」たちが群生しているのが知的空間としては極上だと僕は思います。これは僕が長く生きてきて得た経験的確信です。
ですから、この本もまた一つの学校のようなものだと思って読んで頂ければ僕としては、とてもうれしいです。この本には「公式に共有された正しいこと」はありません。書き手たちの唯一の共通了解点は「中高生たちに今すぐ伝えたいことがある」という現状認識だけです。それだけは共通しています(それが共有されなければ、そもそも寄稿してくれません)。でも、「伝えたいこと」は全員ばらばらです。僕はそれでいいと思います。というか、「それがいい」と思います。
この学校では、いろんな先生が、いろんな教科を、いろんな口調で教えています。教育方法も、教育目標も、全員が違います。共通するのは、全員がみなさんの知的な成熟を願っているということです。
タイトルにある「転換期」というのは、世の中の枠組みが大きく変化する時代のことです。みなさんの事情に即して言えば、転換期とは「短期間に成熟することを求められている時代」のことです。すぐ大人にならないと生き延びることが難しい時代のことです。そういう状況にみなさんは投じられています(気の毒ですけど)。
もっと安定的な時代でしたら、大人たちの言うことを、わからないなりに黙って聞いて従っていれば、それほど大きなリスクを背負うことはないのですけれど、転換期は違います。転換期というのは、大人たちの大半が今何が起きているのかを実は理解できていない状況のことです。だから、大人たちが「こうしなさい」「こうすれば大丈夫」と言うことについても、とりあえず全部疑ってかかる必要がある。今は「マジョリティについて行けばとりあえず安心」という時代ではないからです。社会成員の過半数がまっすぐに崖に向かって行進しているということだっておおいにありうるのです。
ですから、この本に書かれていることだって(今僕が書いているこの言葉を含めて)、みなさんは基本的には「全部疑ってかかる」必要があります。「大人の言うことだから信じる」という態度も「大人の言うことだから信じない」という態度も、どちらも単純すぎて、知的成熟にとっては何の役にも立ちません。だから、まず疑ってかかる。でも、疑うというのは「排除する」とか「無視する」ということとは違います。「頭から信じる」でもなく、「頭から信じない」でもなく、信憑性をとりあえず「かっこに入れて」、ひとつひとつの言葉を吟味するということです。そうすればおそらくみなさんは「なんとなく、身にしみ入る言葉」と「なんとなく、違和感がする言葉」を識別できるはずです。それくらいの判断力は生物である限りは備わっています。原生動物だって、「自分を食べに来る捕食者」と「自分が食べる餌」の区別くらいはできます。原生動物に出来ることが人間に出来ないはずはない。まずはそこから始めて欲しいと思います。
本の内容については、とりあえずどうでもいいです。理解できなくても、共感できなくても、別に僕はいいです。それよりも、世の人たちは「中高生に向かって言いたいことがあれば言って下さい」というリクエストにずいぶんいろいろな文体で、いろいろな回答をしてくるものだな、という事実をまずそのまま受け止めて欲しいと思います。そして、この多声的な環境こそが僕たちからみなさんへの「贈り物」なのだということを(いつか、でいいですから)分かってくれたらうれしいです。

以上です。どうですか。「わかりにくい」ですか。そんなにはわかりにくくないと僕は思います。でも、かなり難しいことを書いているという自覚はありました。だって、「こういうこと」を言う大人はたぶん今の中高生の周りにはいないからです。「初めて聞く話」ではある。でも、決して「聞いてもわからない話」じゃない。
僕はこの「まえがき」を書くときに、とにかく読者の知性を信じるという構えを貫きました。もしかするとすこし「高め」に設定したかも知れませんが、再三言うように、僕はそれで構わないと思っています。
僕たちは母語を習得するときに、自分が知らない語が、自分が知らない文法規則に基ついて、自分が再生できない音韻で語られるのを聞いて育ちます。人間というのは「そういうこと」ができる生き物です。知らない言葉を浴びるように聞いているうちに、知らない言葉の意味がわかってくる。
そういう力動的な過程に読者をどうやって巻き込んで行くのか。それが書き手に問われているんじゃないかと僕は思いました。
この手紙を書いてくれた先生によると、「難しい」と言っていた三人の中学生たちが「それでも最後まで読めた」書き手が何人かいたそうです。それが救いです。

「民の原像」と「死者の国」

高橋源一郎さんと昨日『Sight』のために渋谷陽一さんをまじえて懇談した。
いろいろ話しているうちに、話題は政治と言葉(あるいは広く文学)という主題に収斂していった。
そのときに「政治について語る人」として対比的に論じられたのが「安倍首相」と「天皇陛下」だった。
この二人はある決定的な違いがある。
政策のことではない。霊的ポジションの違いである。
それについてそのときに話しそこねたことを書いておく。

なぜ、日本のリベラルや左翼は決定的な国民的エネルギーを喚起する力を持ち得ないのかというのは、久しく日本の政治思想上の課題だった。
僕はちょうど昨日渡辺京二の『維新の夢』を読み終えたところだったので、とりわけ問題意識がそういう言葉づかいで意識の前景にあった。
渡辺は西郷隆盛を論じた「死者の国からの革命家」で国民的規模の「回天」のエネルギーの源泉として「民に頭を垂れること」と「死者をとむらうこと」の二つを挙げている。
すこし長くなるけれど、それについて書かれた部分を再録する。

渡辺によれば第二回目の流刑のときまで西郷はスケールは大きいけれど、思想的には卓越したところのない人物だった。

「政治的な見識や展望はどうか。そういうことはみな、当時の賢者たちから教えられた。教えられれば、目を丸くして感心し、それを誠心実行に移そうとした。勝海舟、横井小楠、坂本竜馬、アーネスト・サトウ、みな西郷に新生日本の行路を教えた人で、西郷自身から出た維新の政治理念は皆無に等しかった。だから、この維新回天の立役者はハリボテであった。だが、政治能力において思想的構想力において西郷よりまさっていた人物たちは、このハリボテを中心にすえねば回天の仕事ができなかった。これは人格の力である。この場合人格とは、度量の広さをいうのでも、衆心をとる力をいうのでも、徳性をいうのでもない。それは国家の進路、革命の進路を、つねにひとつの理想によって照らし出そうとする情熱であり誠心であった。革命はそういう熱情と誠心によってのみエトスを獲得することができる。エトスなき革命がありえない以上、西郷は衆目の一致するところ最高の指導者であった。」(『維新の夢』、ちくま学芸文庫、2011年、341頁)

彼は戊辰のいくさが終わったあと、中央政府にとどまらず、沖永良部島に戻るつもりでいた。「官にいて道心を失う」ことを嫌ったのである。
島は彼の「回心」であったというのが渡辺京二の仮説である。
島で西郷は何を経験したのか。
渡辺は「民」と「死者」とがひとつに絡み合う革命的ヴィジョンを西郷がそこで幻視したからだと推論する。

「西郷は同志を殺された人である。第一回流島のさいは月照を殺され、第二回には有馬新七を殺された。この他にも彼は、橋本左内、平野国臣という莫逆の友を喪っている。」(343頁)。

この経験は彼に革命家は殺されるものだということを教えた。革命闘争の中では革命家は敵に殺されるだけでなく、味方によっても殺される。「革命を裏切るのは政治である」。
死者はそれだけでは終わらなかった。
寺田屋の変で西郷は旧友有馬を殺された。西郷の同志たち、森山新蔵、村田新八、篠原國幹、大山巌、伊集院兼寛も藩主の命で処罰された。渡辺は「これが西郷を真の覚醒に導いた惨劇である」と書く。
事実、この直後に西郷が知人に書き送った書簡にはこうある。

「此の度は徳之島より二度出申さずとあきらめ候処、何の苦もこれなく安心なものに御座候。骨肉同様の人々をさえ、只事の真意も問わずして罪に落とし、また朋友も悉く殺され、何を頼みに致すべきや。馬鹿らしき忠義立ては取り止め申し候。お見限り下さるべく候。」

西郷は同志朋友を殺され、同志朋友と信じた人々によって罪に落とされた。もう生者たちに忠義立てなどしない。自分が忠義立てをするのは死者たちに対してだけだと西郷は言外に宣言したのである。
彼が維新回天の中心人物として縦横の活躍をするようになるのは、彼が「お見限り下さるべく候」と書いた「あと」の話なのである。同志朋友を殺した島津藩への忠義を断念し、死者のために生きると決意したときに西郷は政治家としてのブレークスルーを果した。

「いまや何を信ずればよいのか。ここで西郷の心は死者の国へととぶ。彼はもう昨日までの薩摩家臣団の一員ではない。忠義の意図は切れた。彼は大久保らの見知らぬ異界の人となったのである。彼の忠誠はただ月照以来の累々たる死者の上にのみ置かれた。」(346頁)

みずからを「死者の国の住人」と思い定めた西郷は島で「民」に出遭う。
西郷はそれまでも気質的には農本主義者であり、護民官的な気質の人であったが、民はあくまで保護し、慰撫し、支配する対象にとどまっていた。それが島で逆転する。

「彼が島の老婆から、二度も島に流されるとは何と心掛けの改まらぬことかと叱られ、涙を流してあやまったという話がある。これは従来、彼の正直で恭謙な人柄を示す挿話と受けとられたきたと思う。しかしかほど正直だからといって、事情もわきまえぬ的外れの説教になぜ涙を流さねばならぬのか。老婆の情が嬉しかったというだけでは腑に落ちない。西郷はこの時必ずや、朋友をして死なしめて生き残っている自分のことを思ったに違いない。涙はそれだから流れたのである。しかしここで決定的に重要なのは、彼が老婆におのれを責める十全の資格を認めたことである。それは彼が老婆を民の原像といったふうに感じたということで、この民に頭を垂れることは、彼にとってそのまま死者を弔う姿勢であった。」(347頁)

革命はまさにそのような基底のうえに立ってのみ義であると彼には感じられた。維新後の悲劇の後半生は、このような彼の覚醒のうちにはらまれたのである。」(348頁)

長い論考の一部だけ引いたので、論旨についてゆきずらいと思うけれど、僕はこの「民の原像」と「死者の国」という二つの言葉からつよいインパクトを受けた。
渡辺京二の仮説はたいへん魅力的である。歴史学者からは「思弁的」とされるかも知れないが、僕は「これで正しい」と直感的に思う。

という読後の興奮状態の中で源ちゃんと会ったら、話がいきなり「大衆の欲望」と「死者の鎮魂」から始まったので、その符合に驚いたのである。
『維新の夢』本で、渡辺京二は日本のリベラル・左翼・知識人たちがなぜ「国家の進路、革命の進路を、つねにひとつの理想によって照らし出そうとする情熱と誠心」を持ち得ないのかについてきびしい言葉を繰り返し連ねている。
それは畢竟するに、「民の原像」をつかみえていないこと、「死者の国」に踏み込みえないことに尽くされるだろう。
「大衆の原像」という言葉は吉本隆明の鍵概念だから、渡辺もそれは念頭にあるはずである。
だが、「死者の国」に軸足を置くことが革命的エトスにとって死活的に重要だという実感を日本の左翼知識人はこれまでたぶん持ったことがない。
彼らにとって政治革命はあくまで「よりよき世界を創造する。権力によって不当に奪われた資源を奪還して(少しでも暮し向きをよくする)」という未来志向の実践的・功利的な運動にとどまる。
だから、横死した死者たちの魂を鎮めるための儀礼にはあまり手間暇を割かない。
日本の(だけでなく、世界どこでもそうだけれど)、リベラル・左翼・知識人がなかなか決定的な政治的エネルギーの結集軸たりえないのは「死者からの負託」ということの意味を重くとらないからである。僕はそう感じる。
日本でもどこでも、極右の政治家の方がリベラル・左翼・知識人よりも政治的熱狂を掻き立てる能力において優越しているのは、彼らが「死者を呼び出す」ことの効果を直感的に知っているからである。
靖国神社へ参拝する日本の政治家たちは死者に対して(西郷が同志朋友に抱いたような)誠心を抱いてはいない。そうではなくて、死者を呼び出すと人々が熱狂する(賛意であれ、反感であれ)ことを知っているから、そうするのである。
どんな種類のものであれ、政治的エネルギーは資源として利用可能である。隣国国民の怒りや国際社会からの反発というようなネガティブなかたちのものさえ、当の政治家にとっては「活用可能な資源」にしか見えないのである。かつて「金に色はついていない」という名言を吐いたビジネスマンがいたが、その言い分を借りて言えば、「政治的エネルギーに色はついていない」のである。
どんな手を使っても、エネルギーを喚起し、制御しえたものの「勝ち」なのである。

世界中でリベラル・左翼・知識人が敗色濃厚なのは、掲げる政策が合理的で政治的に正しければ人々は必ずや彼らを支持し、信頼するはずだ(支持しないのは、無知だからだ、あるいはプロパガンダによって目を曇らされているからだ)という前提が間違っているからである。
政策的整合性を基準にして人々の政治的エネルギーは運動しているのではない。
政治的エネルギーの源泉は「死者たちの国」にある。
リベラル・左翼・知識人は「死者はきちんと葬式を出せばそれで片がつく」と思っている。いつまでも死人に仕事をさせるのはたぶん礼儀にはずれると思っているのだ。
極右の政治家たちはその点ではブラック企業の経営者のように仮借がない。「死者はいつまでも利用可能である」ということを政治技術として知っている。
それだけの違いである。けれども、その違いが決定的になることもある。

安倍晋三は今の日本の現役政治家の中で「死者を背負っている」という点では抜きん出た存在である。
彼はたしかに岸信介という生々しい死者を肩に担いでいる。祖父のし残した仕事を成し遂げるというような「個人的動機」で政治をするなんてけしからんと言う人がいるが、それは話の筋目が逆である。
今の日本の政治家の中で「死者に負託された仕事をしている」ことに自覚的なのは安倍晋三くらいである。だから、その政策のほとんどに対して国民は不同意であるにもかかわらず、彼の政治的「力」に対しては高い評価を与えているのである。
ただし、安倍にも限界がある。それは彼が同志でも朋友でもなく、「自分の血縁者だけを選択的に死者として背負っている」点にある。
これに対して「すべての死者を背負う」という霊的スタンスを取っているのが天皇陛下である。
首相はその点について「天皇に勝てない」ということを知っている。
だから、天皇の政治的影響力を無化することにこれほど懸命なのである。
現代日本の政治の本質的なバトルは「ある種の死者の負託を背負う首相」と「すべての死者の負託を背負う陛下」の間の「霊的レベル」で展開している。
というふうな話を源ちゃんとした。
もちろん、こんなことは新聞も書かないし、テレビでも誰も言わない。
でも、ほんとうにそうなのだ。

2017.01.24

なぜトランプ政権のスタッフは嘘をつくのか?

というタイトルの記事が眼に止まったので、訳したみた。なかなか面白い。
Why Trump's staff is lying?
Bloomberg View 23 Jan 2017
by Taylor Cowen

発足したばかりのトランプ政権のもっとも際立った特徴の一つは嘘の政治的利用である。先週話題になったのは、ドナルド・トランプの報道担当官ショーン・スパイサーが「トランプは就任演説でアメリカ史上最多の聴衆を集めた」という明らかな虚偽を申し立てたことであった。この事件をてがかりに、リーダーが自分の部下に嘘を言わせるとき、彼は何をしようとしているのかについて考えてみたい。
誰の目にも明らかなことは、この指導者が大衆をミスリードしようとしており、彼の部下たちにも同じことをさせようとしているということである。多くの市民は事後にファクト・チェックなどしないので、大衆をミスリードすることは別に難しいことではない。
というのは、表面的な説明であって、裏にはもっと深い事情がひそんでいる。
自分の部下に虚偽を言わせることによって、指導者は自分の部下たちの自立のための足場を-それは彼らと大衆との関係の足場でもあるし、あるいはメディアや他の政権メンバーとの関係の足場でもある-切り崩すことができる。足場を失った人々はリーダーへの依存を強め、命令機構に対して単身では抵抗できなくなる。
嘘の連鎖を助長するというのは、指導者が自分の部下を信用しておらず、また将来的にも信用するつもりがない場合に用いる古典的な戦術である。
嘘をつかせるもう一つの理由は経済学者が「忠誠心テスト」と呼ぶものである。
もしあなたがある人があなたに対して真に忠誠心を抱いているかどうかを知りたいと思ったら、彼らに非常識なこと、愚劣なことを命じるといい。彼らがそれに抵抗したら、それは彼らがあなたに心服していないということであるし、いずれ支配者たちの派閥内部に疑惑を生み出す予兆でもある。トランプが家族を重用するのはそのせいである。
この「忠誠心テスト」は、まだ部下の本性がわかっていない体制発足の初期において、新しい雇用者に対してよく行われる。トランプ大統領は別に複雑怪奇な策略を弄しているわけではない。単にこれまでのビジネスとメディアでのキャリアを通じて有用と知った戦術をここでも繰り返しているに過ぎない。
トランプの支持者たちはこれまでの政権もさんざん嘘をついてきたと指摘しているが、これはその通りである。嘘の種類がちょっと違うだけで、その通りである。ただし、「嘘とは言えないが、本当でもない」ことというのはいろいろな形態をとるものである。
これには上層の形態と下層の形態の二つがある。
上層のは、大使や外交官が用いるものである。
大使たちはあとあと面倒を引き起こすのが嫌なので、反論される可能性のある、明白な嘘をつくことはしない。しかし、もし大使が言った言葉をそのまま鵜呑みにしたら、それはあまりに無邪気である。大使はふつう複数の聴衆に向かって同時に話す。彼がほんとうは何を言おうとしているのかを知るためには、その話を複数の文脈に即して聴き分ける必要がある。言葉を愚直に文字通りに解釈したりすると、言葉の意味をまったく取り違えることになる。ほとんどの場合、大使たちは一目で知れるような真実は口にしないものだ。
これらの外交官たちの語る言葉は厳密には嘘ではない。しかし、はっきりとした、生の真実とは間接的な関係しか持っていない。
大使たちや外交官たちがそのような言葉づかいをするのは、彼らが長期にわたって、さまざまな相手とのデリケートな連携関係を維持できるように最大限の可動域を保とうとするからである。
トランプ政権がこのタイプの「嘘」(と言ってよいなら)を活用することも理屈の上ではありえない話ではない。だが、この外交官的な嘘はトランプのスタイルではない。
それに、彼の支持者たちの多くは(そう考える理由がないわけではないが)、彼を重大な真実を喜んで告げる人物だと見なしている。トランプの敵対者たちはそのことを見落としてはならない。外交官的な嘘と大衆をミスディレクトする多様な方法の間の社会学的な差異を見分けないならば、彼らはトランプの訴求力を過小評価し続けることになるだろうし、またその独善性ゆえに彼ら自身が大衆からどれほど不信の目で見られているかをも過小評価することになるだろう。
トランプの専門は「下層の形態」である。もっと破廉恥な嘘、つまり明らかに「Xでない」場合に「Xだ」と言うタイプの嘘である。
だが、これは実は権力の誇示なのである。メインストリームのメディアや政治的対抗勢力を断固として無視するという意思表示なのである。
彼の嘘は単なる嘘以上のものとして理解されることを求めている。
一つには、多くのアメリカ人、とりわけトランプ支持者たちは、エスタブリッシュメントの口から出る「リファインされた」嘘よりも、トランプのがさつな嘘の方をより快適に感じるということがある。
もう一つ理由がある。それは周縁にいる部外者にとっては、今さらトランプ連合に参加するためのハードルは高く、政治的対抗者たちにとってトランプ陣営との結びつきなどは考えられもしない。ということは、トランプ政権はあからさまな嘘をつくことを通じて、支持者たちに向かって、他の陣営と通じる橋を焼き落とせという、忠誠心を試すシグナルを送っているのである。
この下層の嘘もまた短期的な戦略である。これらの嘘の多くはその場の使い捨てのものであり、何が真実であるかがますますわかりにくくなっているという環境の下では、そもそも何一つ長期にわたる信頼性など求められていないのである。
だからと言って、ひとたび私たちがトランプのさまざまな非行を責めることに飽き飽きして、それを止めてしまったら、それこそ彼の思うつぼだということをわきまえておいた方がいい。
要するに、トランプ政権は自ら指名した閣僚たちも、彼の支持者たちもどちらも信用していないのである。そして、この信頼の欠如がトランプ自身に向けられるような相互不信の状況を作り出しつつある。これは何かを始めるというよりは、何かを終わらせるための戦略である。
だとすると、トランプ政権の最初の100日は破局に向かう日々だということになるだろう。


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