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2016年12月 アーカイブ

2016.12.07

『赤旗』インタビューロングヴァージョン

『赤旗』の12月4日号にインタビューが載った。
記事には書き切れなかったこともあったので、以下にロング・ヴァージョンを掲げておく。

―トランプが勝つと予想していましたか。
まさか。けっこういいところまでゆくだろうと思っていましたけれど、僅差でヒラリーが勝つと思っていました。実際、200万もヒラリーの得票の方が多かったわけですから「アメリカ人はヒラリーを選ぶ」という予測は間違ってはいなかったわけです。選挙制度のせいで、得票数の少ない方が大統領になってしまった。僕はヒラリーが別に好きじゃないけど、トランプは何をしでかすかわからないから怖いです。現段階ではアメリカの国際的な威信が地に落ちるだろうということしかわからない。
―トランプ勝利の背景に何があったのか。日本共産党は、第回大会決議案で、アメリカ社会はグローバル資本主義のもとで格差と貧困が広がり、深刻な行き詰まりと矛盾に直面しており、トランプ勝利はそのひとつの反映にほかならないと指摘しました。
中西部の製造業で働く人たちが雪崩を打ってトランプに投票した。中産階級の没落と格差の拡大が、今回の投票行動に関与した最大の要因だったと思います。一握りの巨大多国籍企業や最富裕層に富が集中し、階層分化が極限化していくグローバル資本主義がついに限界に達した。トランプ登場はその断末魔の痙攣みたいなものじゃないですかね。
もちろん、グローバル資本主義の欠陥を補正できる手立てをトランプが持っているわけじゃない。たぶんトランプ政権下で、格差はさらに拡大し、トランプを支持したブルーカラーの生活はさらに苦しくなると思います。
でも、トランプはその「諸悪の根源」を資本主義システムではなく、ヒスパニックやイスラム教徒に転嫁することで本質的な問題を隠蔽した。排外主義的なイデオロギーを煽り立て、国内外に「アメリカをダメにした」元凶を見つけるように仕向ければ、失政が続いても、支持層の不満をしばらくの間はそらすことができるでしょう。
―日本でいえば、橋下・維新の手法や期待に似ていますね。
そっくりです。やることは洋の東西を問いません。体制の「不当な受益者なるもの」を特定して、これが「諸悪の根源」なので、これを排除すればすべての問題は解決するというデマゴギーです。攻撃する対象がユダヤ人なら反ユダヤ主義になり、対象が移民なら排外主義になる。大阪の場合は、公務員・教員・生活保護受給者などを「受益者」に仕立てて、それを攻撃して市民たちの不満をそらした。
―ヨーロッパでも同じような動きが生まれています
ヨーロッパ諸国でも、次々と極右政治家が登場してきています。その前提になっている歴史的条件は「グローバル資本主義の終わり」ということです。
グローバル資本主義によって、世界はフラット化し、資本・商品・情報・人間が国境を越えて高速移動するようになった。グローバル化に適応できない人たち、高速移動できるような社会的機動性を持っていない人たちは下層に脱落した。製造業の工場労働者が典型的ですけれど、特定の業種に特化した技術や知識で生計を立て、生まれ故郷の地域社会で暮してきた人は、グローバル化した世界では、それだけの理由で下層に振り分けられる。両親や祖父母の代までだったら「まっとうな生き方」をしてきたのに、まさに「まっとうな生き方』をしてきたという当の理由で下層に格付けされることになった。不条理な話です。ですから、彼らが「アンチ・グローバル化」に振れるのは当然なんです。
でも、彼らが選択した「アンチ・グローバル化」はさまざまな人種や宗教や価値観が相互に敬意をもって距離を置き、穏やかに共生するという方向には向かわなかった。そうではなくて、「自分たちさえよければ外の世界なんかどうなっても構わない」という偏狭な自国第一主義に向かっている。
―アメリカではサンダース現象が起き、世界中で格差と貧困をなくす運動が広がり、日本では市民革命的な動きが起きています。
あまり語られることがありませんが、19世紀までのアメリカは社会主義運動の先進国の一つでした。東欧ロシアからの社会主義者が19世紀末からアメリカに群れをなして移民していったんですから当然です。カール・マルクスでさえ青年期にはテキサスへの移住を夢見ていた。それくらいに当時のアメリカはヨーロッパに比べると自由で開放的な社会に見えた。けれども、ジョン・エドガー・フーヴァーのFBIの偏執的な反共活動と、1950年から54年まで猛威をふるったマッカーシズムによって、アメリカ国内の左翼運動はほぼ根絶されてしまった。
その「左翼アレルギー」もソ連崩壊、中国の「資本主義化」による「国際共産主義運動の終焉」によって「敵」を失った。サンダースの登場はアメリカ社会が70年に及ぶ「反共」のファンタジーから覚醒して、現実を見るようになった兆候だろうと思います。
いずれにせよ、トランプの登場によって、私たちがどのような歴史的転換点にいるのかはっきり可視化されました。グローバル資本主義の終りが始まったということです。
脱グローバル化は政治過程でも、経済活動の過程でもこれから必然的な流れとなるでしょう。この流れは市場の飽和と人口減という一国の政策レベルではどうにもならない人類史的条件の所産ですから、抵抗することができない。私たちにできるのは、「グローバル資本主義の終わり」をソフトランディングさせるための具体的な手立てを考えるだけです。世界中の人々が衆知を集めて知恵を絞るしかない。
そのような歴史的局面にあって、日本の反=歴史的な暴走だけが異常に際立っています。世界は脱グローバル化局面にどう対処するか考え始めたときに、今ごろになってグローバル化に最適化すべくすべての社会制度を変えようとしている。自分たちがどういう世界史的文脈の中にいるのか、日本の指導層はまったくわかっていない。何が起きているのか理解しないままに「アクセルをふかして」突っ込んでゆく。安保法制、改憲、原発再稼働、TPP、南スーダン派兵、カジノ合法化、どれをとっても「なぜ今そんなことを慌ててやらなければいけないのか」理由がわからないことばかりです。
安倍首相自身は主観的には「最高速でグローバル化に最適化している」つもりなのでしょう。たぶん「慌てる」ということが「グローバル化」だと思っている。TPPがよい例ですけれど、先行きの見通せない国際情勢の中で「慌ててみせた」ことでいかなる国益を確保できたのか。
これから先の政治的な対立軸はそこに置かれるべきだと思います。
暴走する政治を止めて、とにかくいったん立ち止まる。今世界では何が起きているか、世界はどこに向かっているかを見つめる。先行きが見通せない時に、アクセルをふかして暴走すれば事故を起こすに決まっています。こんな政治をいつまでも続ければ取り返しのつかないことになる。「暴走」か「スローダウン」か。政治の対抗軸はそこだと私は思います。
国際情勢の変化と「脱グローバル化」に振れている市民感情を適切にとらえられれば、野党共闘が次の選挙で安倍政権を追い落とす可能性は十分にあると思います。

2016.12.14

『困難な成熟』韓国語版序文

「困難な成熟」韓国語版序文

みなさん、こんにちは。内田樹です。
『困難な成熟』韓国語版お買い上げありがとうございます。これで韓国語に翻訳された僕の本は何冊になるのでしょうか。10冊以上にはなっていると思います。多くの韓国の方々が僕の本を読んで下さっていることに改めて感謝致します。
いつも申し上げていることですけれど、日韓の密接な連携と相互理解はこれからの東アジアで、最重要の外交的課題だと僕は思っています。でも、残念ながら、日本国内では、僕のような考えは少数意見にとどまっています。政治家たちも官僚もジャーナリストたちも、日韓連携が死活的に緊急であるという考え方には特段の興味を示しれくれません。韓国でも、事情はそれほど変わらないのではないかと思います。
でも、僕はあまり悲観的ではありません。政治の水準での日韓連携が進んでいなくても、日韓両国の市民たちの間の草の根の繋がりは確実に深化していることがはっきりと実感できるからです。
僕が最初に講演のために韓国を訪れたのは2012年の8月です(その前には短い観光旅行で一度ソウルを訪れたことがあるだけです)。
『街場の教育論』や『先生はえらい』を出してくれたタンポポの金敬玉さんの企画で韓国を訪れ、ソウルでギルダム書院を主宰されていた朴聖焌先生や新羅大学の朴東燮さんや本書の翻訳者である金京媛さんをはじめとする韓国の読者たちにお会いすることができました。
僕が「自分の本の外国語訳の読者」という人たちに出会ったのはそのときが最初です。それはとても不思議な経験でした。
僕は日本の読者たちだけを想定してそれまでずっと書いてきました。海外の雑誌に短文が翻訳されて掲載されたことはありましたが、それはよくニュースで特派員が「現地の人の話を聞いてみました」とマイクを向けて街の声を拾うというような感じの紹介の仕方でした。「ちょっと変わったことを言う、日本の知識人のひとり」という程度の扱いでした。それらの雑誌でたまたま僕のエッセイを読んだ人たちも僕の名前なんかすぐに忘れてしまったでしょう。
でも、韓国語の訳書の場合はそうではありませんでした。
僕の日本語の著作を原文で熱心に読んでくれた人たちがいて、その人たちが「ぜひ、この人の本を韓国に紹介したい」と思って、翻訳出版の労を取ってくれたのです。これは僕にとってはじめての経験でした。
隣国の人たちがそういう関心を持って日本の書き手のものを吟味しているということを僕は考えたことがなかったのです。もちろん、村上春樹のような世界的な作家の場合は別ですけれど、僕はとくに読んで面白いものを書いているわけではありません。
大学の教師を長くしておりましたから、教育についてはいろいろ言いたいことがある。また武道を長く修業してきましたので、その経験に基づいて言えることはある。フランスの現代思想を専門的に研究していましたから、その分野については多少の知識がある。それだけです。
教育に興味がある人や、武道に興味がある人や、哲学に興味がある人は僕の書いたものをたまたま手に取ることがあるかも知れないけれど、広いポピュラリティを得られるようなタイプの書き手ではありません。それがなぜか隣国に読者を得た。それもずいぶん熱心な読者です。これはいったいどういうことなんだろうと考えました。
とりあえず一つだけわかったのは、韓国社会でも、僕が取り組んでいるのと同じ問題に強い関心をもって取り組んでいて、それを解決すべく「手当たり次第」に参考になりそうなものを読んでいる人たちがいるということでした。
ただ、僕たちが共有しているのは「問題」でした。「答え」ではありません。
「こうすれば問題は解決します」という具体的な解を共有したのではなく、「こんな題の前で必死に答えを探しています」という答えの欠如を共有していたのです。
僕の本で最初に翻訳されたものはどれも教育論でしたけれど、それは韓国の教育現場の人たちが欲しがっている「答え」を僕が知っていたからではありません。僕がしたことがあるとすれば、それは「教育現場に何が欠けているのか」をかなりはっきり描き出したことです。そして、日本の学校に欠けているものと、韓国の学校に欠けているものがたぶん非常に似ていたのです。
人々は必ずしも「存在するもの」を共有することで相互理解に至るわけではありません。僕が経験したことがあり、他の人も経験したことがあるものを「あ、あれなら知っている」「ああ、あれね」と言って、うれしそうに手を取り合うというのが相互理解だと思っている人がいるかも知れませんけれど、そうでもありません。むしろ、「僕も持っていないし、あなたも持っていないもの」の欠如を切実に感じるということの方が人と人を近づけるということがある。僕はそう思います。
この本で僕が「その欠落」について書いたのは「市民的成熟」です。それが「ない」せいで、僕たちの社会がうまく機能しないもの。それは「はい、これだよ」と言って取り出してお見せすることができません。だって、ないんだから。でも、この本を訳者の金さんが選んで訳してくれたのは、「それがないせいで日本社会がうまく機能していないもの」は、「それがないせいで韓国社会がうまく機能していないもの」と非常に似ていると直感したからではないかと思います。
僕はこれからの日韓の市民的なレベルでの連携は「現に共有しているもの」を基盤にするだけでなく、「欠落感を共有しているもの(だから「まだない」もの)」を基盤にしてしだいにかたちを取ることになるのではないかと思います。
なんだかわかりにくい話になってしまってすみません。
また次の本でお目にかかれるのを楽しみにしています。次に出る訳書はたぶん『困難な結婚』になるのではないかと思います。「市民的成熟」も難しいけれど、「結婚」も難しいです。それについてはご同意頂けると思います。そして、結婚生活においても僕たちは配偶者と共有している「まだないもの」のリストを長くすることで少しずつ幸せになってゆくのだと思います。
訳者の金さんはじめ、この本の出版にご尽力くださったみなさんに感謝します。いつもありがとうございます。

2016.12.23

天皇の「おことば」について

ある通信社から天皇陛下の「おことば」についてのコメントを求められた。一般紙面には「おことば」の要旨だけしか公開されないので、紙面と整合しないところはカットされた。
そこを戻して、すこし加筆したものをここに掲げておく。

今回の陛下のお言葉はかなり「読みで」のあるものだったと思います。
表面的には、ただこの一年間の出来事を羅列したように見えますが、一つ一つの扱いかたや措辞に細やかな気遣いが感じられました。
経時的な理由から最初に置かれた「フィリピン訪問」には分量的には最も多くの字数が割かれていました。
フィリピンでの戦闘については、かつて大岡昇平は『レイテ戦記』で「あの戦争でいちばん苦んだのは日本人でもアメリカ人でもなく、現地のフィリピン人だ」と書いたことがありましたが、「先の大戦で命を落とした多くのフィリピン人、日本人の犠牲の上に」とあえて「フィリピン人」を先に置いた陛下の気遣いには大岡の思いに通じるものが感じられます。
8月の「おことば」において陛下は「象徴的行為」といういささかこなれない言葉を用いて、天皇の責務は何かということを示されました。それは具体的には、戦争や天変地異で横死した人々を鎮魂し、被災者の傍に寄り添う「旅」のことです。そして、今回の「おことば」で、その「人々」とは決して日本人だけに限定されないことを示されました。
今回の「おことば」では、オリンピック・パラリンピックとノーベル賞のほかは、すべて死んだ人、傷ついた人の悲しみ・痛みに言及したものでした。
この「共苦(compassion)」という営みが現代の天皇の引き受けるべき霊的な責務、「象徴的行為」の実体であるということを一歩踏み込んで明らかにしたという点に今回の「おことば」に歴史的意義はあるのだろうと思います。

2016.12.24

世阿弥の身体論

先週の日曜に上智大学で「世阿弥とスタニスラフスキー」というテーマのシンポジウムがあった。そこで「能楽と武道」というお題を頂いて短い発表をした。中身は2年前にある能楽専門誌に寄稿した「世阿弥の身体論」とだいたい同じ。
シンポジウムに来られなかった方のためにオリジナルを公開しておく。
文献的根拠のぜんぜんないまったくの私のスペキュレーションであるので、これを「定説」と勘違いして、人前で話したりすると大恥をかくことになるのでご注意されたい。

世阿弥の身体論

平安末期から室町時代にかけて能楽と武芸と鎌倉仏教が完成した。
それらは日本列島でその時期に起きたパラダイムシフトの相異なる三つ相であるという仮説を私にはしばらく前から取り憑かれている。そういうときには「同じ話」をあちこちで角度を変え、切り口を変えながら繰り返すことになる。今回は能楽の専門誌から「世阿弥の身体論」というお題を頂いたことを奇貨として、「同じ話」を能楽に引き寄せて論じてみたい。
武道と能楽と鎌倉仏教を同列に論ずる人が私の他にいるかどうか知らない。たぶんいないと思う。
私の鎌倉仏教についての理解はほとんどが鈴木大拙の『日本的霊性』からの請け売りだが、武道と能楽については自分の身体実感に基づいている。身体は脳よりも自由である。だから、ふつうはあまり結びつけられないものについても、「これって『あれ』じゃない?」という気づき方をすることがある。武道と能楽と鎌倉仏教が「同一のパラダイムシフトの三つの相」だという直感も、頭で考えたものではなくて、身体が勝手に気づいたことである。居合の稽古中に、門人に剣の操作について説明しているときに、能楽の「すり足」の術理に思い至り、それが鈴木大拙の『日本的霊性』の中の鎌倉仏教についての説明につながって、「ああ、そういうことなのか」と腑に落ちたのである。などという説明ではどなたにも意味がわからないはずなので、順を追って話すことにする。
薩摩示現流の流祖に東郷重位(しげかた)という人がいた。城下に野犬が出て人々が困っているという話を聞きつけて、重位の息子が友人と野犬を斬りに行った。何十匹か斬り殺してから家に戻り、刀の手入れをしながら、「あれだけ野犬を斬ったが、一度も切先が地面に触れなかった」と剣をたくみに制御できたおのれの腕前を友に誇った。隣室で息子たちの会話を聞いていた東郷重位はそれを聞き咎めて、「切先が地面に触れなかったことなど誇ってはならない」と言って、「斬るとはこういうことだ」と脇差で目の前にあった碁盤を両断し、畳を両断し、根太まで切り下ろしてみせた。
私の合気道の師である多田宏先生は稽古で剣を使うときには必ずまずこの話をされる。剣技の本質をまっすぐに衝いた逸話だからである。重位が息子に教えたのは剣技とは「自分の持つ力を発揮する」技術ではなく、むしろ「外部から到来する、制御できない力に自分の身体を捧げる」技術だということである。
剣というのは、扱ってみるとわかるが、手の延長として便利に使える刃物のことではない。そうではなくて、剣を手にすると自分の身体が整うのである。私が剣を扱うのではなく、剣が私を「あるべきかたち」へ導くのである。
「身体が整う」「身体がまとまる」というのが剣を擬したときの体感である。ひとりではできないことが剣を手にしたことでできるようになる。構えが決まると足裏から大きな力が身体の中に流れ込んで来て、それが刀身を通って、剣尖からほとばしり出るような感じがすることがある。そのとき人間は剣を制御する「主体」ではもはやなく、ある野生の力の通り道になっている。
東郷重位は「斬るとはこういうことだ」と言って、地面に深々と斬り込むほどの剣勢を示してみせたが、人間の筋力を以てしては木製の碁盤を斬ることはできない。むろん鉄製の甲冑を斬ることもできない。できないはずである。でも、それができる人がいる。それらの剣聖たちの逸話が教えるのは、彼らは「人間の力」を使っていなかったということである。
解剖学的にも生理学的にも人間には出せるはずのない力を発動する技術がある。良導体となって野生の力を人間の世界に発現する技術がある。それが武芸である。今のところ私はそのように理解している。
それが能楽とどう繋がるのか。
古代に「海部(あまべ)」「飼部(うまかひべ)」という職能民がいた。「海部」は操船の技術、飼部は騎乗の技術を以て天皇に仕えた。それぞれ「風と水の力」「野生獣の力」という自然エネルギーを人間にとって有用なものに変換する技術に熟達していた人々である。この二つの職能民がヘゲモニーを争って、最終的に「騎馬武者」が「海民」に勝利したのが源平合戦である。
この戦いで、騎馬武者たちは馬の野生の力をただ高速移動のために利用しただけでなく、「人馬一体」となることで人間単独では引くことのできぬほどの強弓を引き、人間単独では操作することのできないほど重く長い槍を振り回してみせた。
那須与一が屋島の戦いで船に掲げられた扇を射抜いた話は広く知られているが、与一はこのとき騎射をしている。的は揺れる船の上にある。砂浜に立って静止して射る方が精度が高いのではないかと私は思っていたが、たぶんそうではないのだ。騎射するとき、乗り手は馬の筋肉をおのれのそれと連結させて、人間単体にはできないことをし遂げる。だから騎射の方が強度も精度も高いのである。そのような技術の到達点を那須与一は示したのである。
他にも、源氏の側の軍功にはその卓越した「野生獣の制御技術」にかかわるものが多い(義経は難所鵯越(ひよどりごえ)を騎馬で下り、木曾義仲は倶利伽羅(くりから)峠の戦いで数百頭の牛を平家の陣に放った)。
それも源平の戦いが、海民と騎手が「自然力の制御技術」の強さと巧みさを競ったのだと考えると筋が通る。
戦いは「野生獣のエネルギーを御する一族」が「風と水のエネルギーを御する一族」を滅ぼして終わった。けれども、能楽にはにこのとき敗れ去った海民の文化を惜しむ心情がゆたかに伏流している。
古代に演芸を伝えた職能民たちは「獣の力」よりもむしろ「風と水の力」に親しみを感じる海民の系譜に連なっていたのではあるまいか。
海幸彦・山幸彦の神話でも、戦いに敗れ、おのれの敗北のさまを繰り返し演じてみせる「俳優(わざおぎ)」の祖となったのは漁りを業とする海幸彦の方である。
今さら言うまでもなく、能楽には『敦盛』『清経』『船弁慶』をはじめ『平家物語』の平家方に取材した曲の方が多い。そればかりか龍神・水神が水しぶきを上げて舞い(『竹生島』『岩船』)、船が海を勇壮に進む情景を叙し(『高砂』)、海浜の風景や松籟の音を好む(『松風』『弱法師』)。ここにかつて「風と水のエネルギー」を御して列島に覇を唱えた一族への挽歌を読むのはそれほど無稽な想像ではないのではないか。
「飼部」が体系化した「弓馬の道」はわれわれの修業している武芸のおおもとのかたちである。それは野生の力と親しみ、身を整えてその力を受け入れ、わが身をいわば「供物」として捧げることでその強大な力を発動させる技法である。能楽に通じた人なら、この定義がシテに求められている資質ときわめて近いことに気づくはずである。
能楽は起源においては呪術的な儀礼であった。その断片は今日でも『翁』や『三番叟』に残っている。シャーマンがトランス状態に入って、神霊・死霊を呼び寄せ、彼らにその恨みや悲しみや口惜しさを語らせ、その物語を観衆たちともども歌い、舞い、集団的なカタルシスとして経験することで「災いをなすもの、祟りをなすもの」を鎮める。おそらくはそのようなものであったはずである。起源的に言えば、シテは巫覡(ふげき)であり、祭司である。おのれの「自我」を一時的に停止させ、その身を神霊に委ねる。ただ、その巨大なエネルギーは能舞台という定型化された空間に封じ込められ、美的表象として限定的に発露することしか許されない。それが舞台からはみ出して、人間の世界に入り込まないように、人間の世界と神霊の世界を切り分ける境界線については、いくつもの約束事が能楽には定められている。
例えば、シテは舞い納めて橋懸かりから鏡の間に入るとき、自分で足を止めてはならない。後見に止められるまで歩き続ける。それはあたかもシテに取り憑いた神霊が、後見が身体を止めた瞬間に、そのまま惰性で身体から抜け出すのを支援するかのような動作である。あるいは演能中にシテが意識を失ったり、急な発作で倒れたりした場合も舞台は止めてはならない。後見はシテを切り戸口から引き出した後、シテに代わって最後まで舞い納めて、舞台におろした霊をふたたび「上げる」責任がある。
私がなにより能楽のきわだった特徴だとみなすのは「すり足」である。「すり足」の起源については諸説あるが、温帯モンスーン地帯で泥濘の中を歩むという自然条件が要求したごく合理的な歩行法であるという武智鉄二説には十分な説得力がある。膝をゆるめ、股関節の可動域をひろく取り、足裏全体に荷重を散し、そっと滑るように泥濘の上を歩む。たしかにヨーロッパ人が石畳を踵から打ち下ろすような仕方で泥濘を歩めば、脚を泥にとられ、身動きならなくなるだろう。しかし、「すり足」を要求したのは、そのような物理的理由だけにはとどまらない。
温帯モンスーンの湿潤な気候と生い茂る照葉樹林という豊穣で、宥和的な生態学的環境は、そこに住む人々にある種の身体運用の「傾向」を作り出しはしなかったであろうか。
「すり足」は言い方を換えれば、足裏の感度を最大化して、地面とのゆるやかな、親しみ深い交流を享受する歩行法である。そうやって触れる大地は、そこに種を撒くと、収穫の時には豊かな収穫をもたらす「贈与者」である。列島における私たちの祖先たちは、その泥濘の上を一歩進むごとに、「おのれを養うもの」と触れ合っていた。贈与者との直接的な触れ合いを足裏から伝わる湿気や粘り気から感じ取っていたはずである。おのれを養う、贈与者たる大地との一歩ごとの接触という宗教的な感覚が身体運用に影響しないはずがない。
能楽には「拍子を踏む」という動作がある。強く踏みならす場合もあるし、かたちだけで音を立てない場合もあるが、いずれにせよ「地の神霊への挨拶」であることに違いはない。土地の神を安んじ鎮めるために盃にたたえた酒を地面に振り注ぐ儀礼は古代中国では「興」と呼ばれたと白川静は書いているが、それは「地鎮」の儀礼として現代日本にも残っている。酒を注ぐと地霊は目覚める。そして、儀礼を行った人間の思いに応えて、祝福をなす。この信憑は稲作文化圏には広くゆきわたっているものであろう。
足拍子もまた、神社の拝殿で鈴を鳴らすのと同じく、地霊を呼び起こすための合図であったのだと思う。それは逆から言えば、足拍子を踏むとき以外、人間は地霊が目覚めぬように、静かに、音を立てず、振動を起こさぬように、滑るように地面を歩まねばならぬという身体運用上の「しばり」をも意味している。「すり足」とはこの地霊・地祇の住まいする大地との慎み深い交流を、かたちとして示したものではあるまいか。一歩進むごとに大地との親しみを味わい、自然の恵みへの感謝を告げ、ときには大地からの祝福を促すような歩き方を、日本列島の住民たちはその自然との固有なかかわり方の中で選択したのではあるまいか。
私が「すり足」に特にこだわるのは、この「すり足」的メンタリティから鎌倉仏教が生まれたというのが鈴木大拙の「日本的霊性」仮説の核心的な命題だからである。
大拙はその『日本的霊性論』において、古代においても、平安時代においても、日本人にはまだ宗教を自前で作り出すほどの霊的成熟には達していなかったと書いている。日本において本格的に宗教が成立するのは鎌倉時代、親鸞を以て嚆矢(こうし)とする。というのが大拙の説である。その親鸞も京都で教理を学問として学んでいたときには宗教の本質にいまだ触れ得ていない。親鸞が日本的霊性の覚醒を経験するのは大地との触れ合いを通じてである。

「人間は大地において自然と人間との交錯を経験する。人間はその力を大地に加えて農産物の収穫に努める。大地は人間の力に応じてこれを助ける。人間の力に誠がなければ大地は協力せぬ。誠が深ければ深いだけ大地はこれを助ける。(・・・)大地は詐らぬ、欺かぬ、またごまかされぬ。」(鈴木大拙、『日本的霊性』、岩波文庫、1972年、44頁、強調は鈴木)
「それゆえ宗教は、親しく大地の上に起臥する人間-即ち農民の中から出るときに、最も真実性をもつ。」(45頁)
 
大宮人たちの都会文化は洗練されてはいたが、「自然との交錯」がなかった。『方丈記』に記すように、「京のならひ なにわざにつけても みなもとは田舎をこそたのめる」のが都会文化の実相である。都会には「なまもの」がない。加工され、人為の手垢のついた商品しかない。そして、大拙によれば、自然との交流のないところに宗教は生まれない。

「大地を通さねばならぬ。大地を通すというのは、大地と人間の感応道交の在るところを通すとの義である。」(45頁)

だから、都市貴族は没落し、農村を拠点とする武士が勃興する必然性があったと大拙は説く。
 
「平安文化はどうしても大地からの文化に置き換えられねばならなかった。その大地を代表したものは、地方に地盤をもつ、直接農民と交渉していた武士である。それゆえ大宮人は、どうしても武家の門前に屈伏すべきであった。武家に武力という物理的・勢力的なものがあったがためでない。彼らの脚跟(きゃっこん)が、深く地中に食い込んでいたからである。歴史家は、これを経済力と物質力(または腕力)と言うかも知れぬ。しかし自分は、大地の霊と言う。」(49頁、強調は内田)
 
流刑以後、関東でひとりの田夫として生きた親鸞は「大地の霊」との出会いを通じて一種の回心を経験した。「深く地中に食い込む脚跟」の、その素足の足裏から、大地から送られる巨大な野生の力、無尽蔵の生成と贈与の力が流れ込んでくるのを経験した。そのような力動的・生成的なしかた超越者が切迫してくるのを感知したとき、日本的霊性は誕生した。大拙はそう仮説している。
そして、「大地の霊」との霊的交流は、能楽の誕生、武芸の体系化とほぼ同時期の出来事であった。この三つの出来事の間に深いつながりがある。列島住民が経験したある地殻変動的な文化的土壌の変化がこの三つの領域ではっきりしたかたちを取った。他にもこのパラダイムシフトが別のかたちで露頭した文化現象があるのかも知れないが、私の思弁がたどりついたのは、はとりあえずここまでである。
世阿弥の能楽は海民文化をどのように受け継いでいるのか、世阿弥の技術論において「大地の霊」との交錯はどのように表象されているのか、興味深い論件はまだいくつ手つかずのまま残されている。いずれそれらについても語る機会があるだろう。

2016.12.26

司馬遼太郎についての連載最終回

産経新聞に1年間に4回寄稿した「司馬遼太郎」についてのエッセイ。最終回は「司馬遼太郎と国民国家」

日本はいつから「こんな国」になってしまったのか。
誰もがこの定型的な慨嘆句を口にする。リベラルも極右も、グローバリストもレイシストも、その政治的立場の違いにもかかわらず、「日本の劣化」という現実評価については同じ言葉づかいをする。
この吐き捨てるような現実嫌悪の言を制して、「少し前にもっとひどい時代もあったじゃないか。あれに比べたら今の方がまだずっとましだよ」と言ってくれる人は周りにもう見当たらない。司馬遼太郎がいなくなったというのは「そういうこと」なのだと思う。
司馬遼太郎は「国民作家」だった。
国民作家とは、国民国家を終の棲家と思い定めて、そこを動かぬ人のことである。
国民国家は石や滝のような自然物ではない。歴史の流れの中で形成された暫定的な制度である。歴史的条件が変われば変容し、時には消失する。司馬もそのことは骨身にしみて知っていたはずである。国民国家は脆い。だからこそ人々は日々の営みを通じてそれを支えなければならない。
『坂の上の雲』は次のような一節から始まる。

「小さな。
といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。
その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力の限りをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい。」

わずか数行のうちにちりばめられた「小さな」「辛うじて」「精一杯」「幸運」「力の限り」といった徴候的な言葉を見落としてはならない。近代史をすみずみまで渉猟した司馬のもっとも率直な実感は、私たちの国がいまここにこうしてあるのは「ひやりとするほどの奇蹟」の賜だということであった。
司馬遼太郎が描いた国は小さな町内に似ている。それはたかだか暫定的な制度に過ぎない。集団のあるべき理想ではないし、他の「町内」に際立って卓越する必要もない。けれども、そこに生活しているものにとっては、そここそが命がけの現場である。天災に襲われ、建物が壊れ、田畑が流れ、死者が出れば、災禍が去った後、人々はとりあえず生き延びたことを言祝ぎ、失われたもののために涙し、暮らしの場を再建しようとするだろう。生活者というのはそういうものである。
司馬遼太郎は国民国家を「生活者がそこを離れては生きてゆけない必死の場」としてとらえた。
左翼でも右翼でも、政治思想を語る人々にとって国家はもっと「ファンタスティック」なものである。それを一過的な政治的擬制とみなそうとも、天壌無窮のものとみなそうとも、彼らにとって「生活者の必死」などは副次的な問題に過ぎない。
司馬遼太郎はそうではなかった。日本という国は、五体と同じく、私たちに与えられた生得的環境、初期条件である。私たちはそれを選び直すことができない。それを受け容れ、それを害するものを避け、益するものを求め、欠点を正し、長所を伸ばすしかない。
司馬遼太郎にとって国とはそのように「可憐なもの」だった。儚く、脆く、傷は容易には癒えず、一度滅したらもう蘇生することはない。だからこそ、心を鎮めて、ていねいに扱わなければならない。国家を政治的幻想の道具として手荒に扱う人は、自分の身体を観念や欲望の道具とする人と変わらない。だが、思い通りに動かないからと言って、自分の手足を罵倒したり、斬り落とす人がいるだろうか。国も同じだ。司馬遼太郎はそのように考えていたと思う。

私は司馬のその国家観を支持する。それもまた一つの「物語」に過ぎないことを私は否定しない。それでも私はそれを支持する。

2016.12.31

2016年の十大ニュース

今年の10大ニュース。
大晦日になったので、恒例の今年の10大ニュースを思い出しつつ書き出す。

(1) 二歳年上の兄・内田徹が8月11日に癌で死んだ。去年の暮れ12月1日に母が逝き、これで近親者が二年続けていなくなった。父も母も兄も亡くなって、かつての「内田家」の構成メンバーで生き残っているのは私一人になった。下丸子のあの小さな家でのさまざまなささやかな出来事を記憶しているのがもう自分ひとりしかおらず、「こんなことがあったよね」という記憶の確認を求めることができる相手がこの世にもういない。
私が死んだら、あの家にかかわる記憶は全部消えてしまう。家族が死ぬというのは、そういうことなのだということが骨身にしみた。
兄は5月に鶴岡の宗傳寺で母の納骨を済ませるときまでは気を張っていたけれど、納骨が終わって肩の荷がおりたのか、病勢が一気に進んだ。7月末パリでの多田先生の講習会に出発する前に関空から電話して容態を尋ねたときは予想外に元気そうな声だったのでとりあえず安心して出かけたが、二週間後、凱風館海の家からの帰路に甥から電話があって、危篤だと知らされた。そのまま東京に向かったが、もう息をするのも苦しそうだった。宿に引き上げた朝方臨終を伝える電話があった。
とても仲の良い兄弟だった。私は最初の頃からずっと「兄と平川君」の二人を想定読者にして書いてきた。ある程度キャリアを積んだ後は「こういう想定読者で書いてください」という条件で書くこともあったけれど、ほとんどの書き物はこの二人の想定読者の批判に耐えられるかどうかを基準にして書かれた。音楽についても文学についても映画についてもビジネスについても政治についても、兄から多くのものを学んだ。兄が「これはいい」というものは素直に信じた。信じてあとで「間違った」と思ったことがない。
「温泉麻雀」はその創立メンバーを失ってしまった(兄と私と平川克美くんと石川茂樹くんで始めた)。「四人で打ち続けるのは、体力的につらい」というので、数年前に僕の高校時代からの旧友植木正一郎くんが加わり、さらに1年前からは大学時代からの旧友阿部安治くんが加わった。兄が体がきつくてもう打てないという7月の温泉麻雀には兄の代わりとして小田嶋隆さんに新メンバーに加わってもらった。
これからも集まって卓を囲む限り、みんなでずっと兄の話をし続けことになると思う。陽気で豪放な楽しい打ち手だった。いつもみんなが愉しんでいることを愉しんでいた。ほんとうによい人だった。
兄の魂の天上での平安を祈って、兄が好きだった一曲をかける。Tal Farlow のIsn’t it romantic?
兄ちゃんのご冥福を祈ります。合掌。

(2)一九会初学修行成就。2月25日から28日まで3泊4日で一九会の初学修行に参加し、無事成就を果した。
初学修行はたいへんつらいものだと経験者たちからは繰り返し教えられていた。東京にいた頃にも機会がなかったわけではなかったが、話を聴くだけで怖気をふるって、とても手を挙げる気になれなかった。神戸に来た後は、世事にとりまぎれて、とても「命がけの行」に行くような心理的・体力的な余裕がなかった。
去年の多田塾合宿のときに坪井先輩からお声がけ頂いて、「一九会の初学参加者が減っている。内田さんが行けば、あとについてくる人もあるだろう」と励まされて、「では、参ります」とご返事をした。それを聴いた諸先輩がた(窪田先生や山田先生までが)やってきて「よく決意した。つらいだろうが、得るものが多い」と励ましてくれた。もしかしたら調子にのって大失敗を犯したのかも・・・と思ったが、もう後の祭り。年齢的にも今しかないし、自分のこれまでの40年の合気道修業でどの程度肚ができたかを知る上でもよい機会と思い切って一九会へ参じた。
行の中身については「自分で経験してくれ」と言う他ない。
私自身は3日目が終わった時に「これは実によく練られたすばらしい教育的プログラムだ」だと思った。3泊4日という短期間でふつうの修業であればうっかりすると5年10年かかるところを一気に踏破させようというのである。無理があって当たり前である。
ふつう、私たちはどんな身体的心理的につらい負荷を課された場合でも、プログラムの全体について「たぶん、こんな構成だろう」という予測を立てる。そして、それに合わせて「エネルギーの配分」ということをしてしまう。これは避けられない。
「手を抜く」というのではないが無意識のうちに「全力を出し惜しむ」という対応をしてしまう。この先まだ続く厳しい修業を乗り切らなければならないと思えば思うほど、つまり「行を達成しなければならない」と真面目になればなるほど、今この瞬間に全力を出すことに歯止めがかかるのである。
この「3日にわたる行への身体資源の配分を考えて、今ここで全力を出すことを抑制する」という無意識の防衛機制を打ち砕くのが「鞭撻」である。これは今ここで全力で対応しなければ、明日どころか次の座のわが身も保てないというほど厳しいものである。
「自分が発揮できる体力・精神力の最大値は『これくらい』」ということについて私たちはだいたいの推量をしている。そして、それはほんとうに発揮できる体力精神力よりもかなり低めに設定されている。生物としては当然である。限界を実力より高めに設定していたら、すぐにあちこちが故障し、破壊され、悪くすると死んでしまう。
しかし、そのリミッターを解除しないと、自分にどれくらいの「未使用の資源」があるのかは知ることができない。
リミッターを解除するが、それによって心身にダメージを残さず、自分の潜在能力に気づいたせいで自己評価が劇的に向上するという効果だけを取り出す、というのが一九会の教育プログラムのめざすところではないかと私は思う。
もちろん、初学のあと一万度祓いを一度、集いを一度経験しただけの浅学のものの考えであるから、その分は割り引いて聞いてもらわないといけない。
けれども、初学修行は「我慢会」ではない。心身の苦痛にどれくらい耐えられるかを競うものではない。自分の能力の限界の内側で生きようとする生物としての自己保存本能と、生き延びるために自分の限界を超えようとする、これもまた生物としての自己超克本能の葛藤を深く経験するためのものである。
初学修行者が経験するのは「葛藤」である。「忍耐」ではない。
「忍耐」は心身を鈍感にすれば切り抜けられる。思考を停止し、感覚を遮断すれば、時間は経つ。でも、それは修業ではない。忍耐で人は成長することができない。人は葛藤を通じてしか成長しない

(3)能楽「敦盛」を舞った。5月の下川正謡会。一年間稽古し、後見には観世のお家元にお出で頂いた。あまりに緊張していたので、ほとんど舞台の記憶がない。一年間稽古したあげくに本番の舞台で失敗したら何のために一年間稽古したのかわからない。その緊張感と終わったあとの解放感の落差が激し過ぎた。とにかくこれでしばらくは能は出さなくて済むと思う。能に比べたら舞囃子や仕舞はほんとうに楽である(面をかけていないんだから)。お家元には舞台に上がる前には激励の言葉を頂き、舞台を下りたあとには「まじめな舞台でしたね」というご感想を頂いた。一年間稽古した甲斐があった。

(4)以上が三大ニュースで、あとは「ほんわか」した話である。順不同。
まず今年もたくさん本を出した。出し過ぎた。
amazonに出ている順に書き出しておく。編著、一部寄稿、翻訳、復刻、文庫化・新書化も含む。
『街場の共同体論』(新書版)潮出版社
『困難な結婚』(アルテス・パブリッシング)
『転換期を生きるきみたちへ』(編著。鷲田清一、平川克美ほかとの共著)晶文社。
『日本の身体』(文庫版、編著。身体技法の専門家たちとの対談集。インタビュイーは多田宏先生、安田登さん、平尾剛さん他。ライターは橋本麻里ちゃん)新潮社
『内田樹の生存戦略』(『GQ』に連載していた人生相談の単行本化)。自由国民社。
『聖地巡礼リターンズ』(釈先生と巡礼部のみなさんとの長崎キリシタンの旅の記録)東京書籍。
『街場の文体論』(文春文庫)ミシマ社刊の単行本の文庫化。
『世界「最終」戦争論』(姜尚中さんとの対談本)集英社新書
『21世紀の暫定名著』(アンケートのコンピ本)講談社
『池澤夏樹個人編集日本文学全集 枕草子/方丈記/徒然草』(「徒然草」の現代語訳に挑戦。「枕草子」は酒井順子さん、「方丈記」は高橋源一郎さんが訳者でした)河出書房新社
『街場の五輪論』(平川克美、小田嶋隆ご両人との五輪鼎談。前に出したものにボーバストラックをつけて文庫化)朝日文庫
『僕たちの居場所論』(平川克美、名越康文ご両人との鼎談。教訓もオチもない無駄話が延々と続きます。)KADOKAWA
『属国民主主義論』(白井聡さんと『日本戦後史論』に続いて対談)東洋経済社
『生存教室』(光岡英稔先生との武術をめぐる対談)集英社新書
『嘘みたいな本当の話 みどり』(高橋源一郎さんと編著した投稿集の文庫化)文春文庫
『マルクスの心を聴く旅』(石川康宏さんと一緒にドイツ~イギリスを回ったマルクスツアーの記録)かもがわ出版
『才色兼備が育つ神戸女学院の教え』(中高部長林真理子先生の本に女学院教育論二篇を寄稿)中公新書ラクレ
『安倍晋三が〈日本〉を壊す』(山口二郎編の対談集)青灯社
『戦後80年はあるのか』(一色清・姜尚中編の「本と新聞の大学」講義録)集英社新書
『やっぱりあきらめられない民主主義』(大田区議奈須りえさんのイベントで講演してから、平川君奈須さんと鼎談)水声社
『タルムード四講話』(エマニュエル・レヴィナス先生のタルムード講話の翻訳。30年ぶりくらいの新装版)人文書院
『タルムード新五講話』(同上)
よく仕事したなあ・・・これだけの数のゲラを読んだ。来年はほんとに休ませて欲しい。

(5)史上最悪の「若マルツアー」。3月末にドイツ~イギリスと回った8泊9日の「若マルツアー」。
2日目のトリーア観光中に寒気がしてきて、そのまま風邪。ずっと微熱と寒気と鼻水が旅の終わりまで続き、最後に飛行機に乗ったときには「救急車で病院に運ばれている」夢を見続けていた。これほどつらい旅行ははじめて。それでも本一冊分しゃべった。

(6) 新車を買った。8年乗っていたBMWを光嶋君に譲って、ベンツCLA250を購入。どんな車だかよく知らない。『GQ』の鈴木正文編集長に「次買うなら何がいいですかね?」と訊いたら「そりゃ、ベンツでしょ」と即答された。これが生涯最後の車となるやも知れず、冥土の土産話に買うことになった。鈴木さんは「アヴァンギャルド」がよいですとお薦めくださったのだが、ヤナセに行ってじろじろ見てたらCLAという「ベンツにしてはずいぶん野卑な顔付き」のがあったので即決。でも、車載機能が多すぎて、ボタンやスイッチの用途がわからない。今のところ車を走らせる、ライトをつける、エアコンをつける、オーディオを聴くという四機能しか使っていない。たぶん全機能の5%くらいしか使えないままにベンツ人生を終えるような気がする。

(7) 多田先生講習会でパリに行った。今年も講習会の合間にパリで在留日本人の集まりに呼ばれて、時局講談を一席。一年ぶりに京大の野洲くんに会った。

(8) 新しい部活が誕生。夏山ハイキングに山楽莊に行って、山の道具をいろいろ揃えたので、勢い余って「極楽ハイキング部」を設立することにした。部長は井上英作さん。神吉くんとエグッチ、清恵さん、谷尾さん、のびー、が設立メンバー。第一回のハイキングは六甲山。東おたふく山までバスで行って、たらたら登って、有馬温泉でビールのんで、バスで帰って、またご飯を食べてビールを飲むというお気楽スケジュールであったが、頂上がものすごい寒さで、全員歯の根があわず、とにかく「風呂風呂」と叫びつつ下山。第二回はさらに楽ちんなコースを検討中。

(9) 韓国講演旅行に行った。2012年から始まった旅行なので、今年で5年目。いつものように朴東燮先生とEdunity の金社長とドライブしながら、今年は北の方に行った。最初がセジョン(世宗)で教育長招聘の講演会。それから江原道のウォンジュシ(原州市)で講演。そこで不登校や問題行動を起こした生徒たちを集めて実に自由な教育をしている全寮制の公立高校の見学をした。それについてはあちこちで書いたけれど、ほんとうに感動的な経験だった。

(10)たくさん新幹線に乗った。今年の新幹線乗車回数は91回(4日に1回新幹線に乗っている)。学士会館には29泊した。たぶん今年の学士会館宿泊部のthe heaviest user of the year ではないかと思う。表彰されても嬉しくないが。
講演もたくさんした。算えたらこれも29回だった。12.5日に一回講演している勘定である。これも減らしたい。せめて2週間に1回。できれば1月に1回くらいに。

以上、兄が死んだ年、初学修行を成就した年ということで、2016年は忘れがたい年になった。

最後にみなさまのご多幸を祈念いたします。よいお年をお迎え下さい。

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