世阿弥の身体論

2016-12-24 samedi

先週の日曜に上智大学で「世阿弥とスタニスラフスキー」というテーマのシンポジウムがあった。そこで「能楽と武道」というお題を頂いて短い発表をした。中身は2年前にある能楽専門誌に寄稿した「世阿弥の身体論」とだいたい同じ。
シンポジウムに来られなかった方のためにオリジナルを公開しておく。
文献的根拠のぜんぜんないまったくの私のスペキュレーションであるので、これを「定説」と勘違いして、人前で話したりすると大恥をかくことになるのでご注意されたい。

世阿弥の身体論

平安末期から室町時代にかけて能楽と武芸と鎌倉仏教が完成した。
それらは日本列島でその時期に起きたパラダイムシフトの相異なる三つ相であるという仮説を私にはしばらく前から取り憑かれている。そういうときには「同じ話」をあちこちで角度を変え、切り口を変えながら繰り返すことになる。今回は能楽の専門誌から「世阿弥の身体論」というお題を頂いたことを奇貨として、「同じ話」を能楽に引き寄せて論じてみたい。
武道と能楽と鎌倉仏教を同列に論ずる人が私の他にいるかどうか知らない。たぶんいないと思う。
私の鎌倉仏教についての理解はほとんどが鈴木大拙の『日本的霊性』からの請け売りだが、武道と能楽については自分の身体実感に基づいている。身体は脳よりも自由である。だから、ふつうはあまり結びつけられないものについても、「これって『あれ』じゃない?」という気づき方をすることがある。武道と能楽と鎌倉仏教が「同一のパラダイムシフトの三つの相」だという直感も、頭で考えたものではなくて、身体が勝手に気づいたことである。居合の稽古中に、門人に剣の操作について説明しているときに、能楽の「すり足」の術理に思い至り、それが鈴木大拙の『日本的霊性』の中の鎌倉仏教についての説明につながって、「ああ、そういうことなのか」と腑に落ちたのである。などという説明ではどなたにも意味がわからないはずなので、順を追って話すことにする。
薩摩示現流の流祖に東郷重位(しげかた)という人がいた。城下に野犬が出て人々が困っているという話を聞きつけて、重位の息子が友人と野犬を斬りに行った。何十匹か斬り殺してから家に戻り、刀の手入れをしながら、「あれだけ野犬を斬ったが、一度も切先が地面に触れなかった」と剣をたくみに制御できたおのれの腕前を友に誇った。隣室で息子たちの会話を聞いていた東郷重位はそれを聞き咎めて、「切先が地面に触れなかったことなど誇ってはならない」と言って、「斬るとはこういうことだ」と脇差で目の前にあった碁盤を両断し、畳を両断し、根太まで切り下ろしてみせた。
私の合気道の師である多田宏先生は稽古で剣を使うときには必ずまずこの話をされる。剣技の本質をまっすぐに衝いた逸話だからである。重位が息子に教えたのは剣技とは「自分の持つ力を発揮する」技術ではなく、むしろ「外部から到来する、制御できない力に自分の身体を捧げる」技術だということである。
剣というのは、扱ってみるとわかるが、手の延長として便利に使える刃物のことではない。そうではなくて、剣を手にすると自分の身体が整うのである。私が剣を扱うのではなく、剣が私を「あるべきかたち」へ導くのである。
「身体が整う」「身体がまとまる」というのが剣を擬したときの体感である。ひとりではできないことが剣を手にしたことでできるようになる。構えが決まると足裏から大きな力が身体の中に流れ込んで来て、それが刀身を通って、剣尖からほとばしり出るような感じがすることがある。そのとき人間は剣を制御する「主体」ではもはやなく、ある野生の力の通り道になっている。
東郷重位は「斬るとはこういうことだ」と言って、地面に深々と斬り込むほどの剣勢を示してみせたが、人間の筋力を以てしては木製の碁盤を斬ることはできない。むろん鉄製の甲冑を斬ることもできない。できないはずである。でも、それができる人がいる。それらの剣聖たちの逸話が教えるのは、彼らは「人間の力」を使っていなかったということである。
解剖学的にも生理学的にも人間には出せるはずのない力を発動する技術がある。良導体となって野生の力を人間の世界に発現する技術がある。それが武芸である。今のところ私はそのように理解している。
それが能楽とどう繋がるのか。
古代に「海部(あまべ)」「飼部(うまかひべ)」という職能民がいた。「海部」は操船の技術、飼部は騎乗の技術を以て天皇に仕えた。それぞれ「風と水の力」「野生獣の力」という自然エネルギーを人間にとって有用なものに変換する技術に熟達していた人々である。この二つの職能民がヘゲモニーを争って、最終的に「騎馬武者」が「海民」に勝利したのが源平合戦である。
この戦いで、騎馬武者たちは馬の野生の力をただ高速移動のために利用しただけでなく、「人馬一体」となることで人間単独では引くことのできぬほどの強弓を引き、人間単独では操作することのできないほど重く長い槍を振り回してみせた。
那須与一が屋島の戦いで船に掲げられた扇を射抜いた話は広く知られているが、与一はこのとき騎射をしている。的は揺れる船の上にある。砂浜に立って静止して射る方が精度が高いのではないかと私は思っていたが、たぶんそうではないのだ。騎射するとき、乗り手は馬の筋肉をおのれのそれと連結させて、人間単体にはできないことをし遂げる。だから騎射の方が強度も精度も高いのである。そのような技術の到達点を那須与一は示したのである。
他にも、源氏の側の軍功にはその卓越した「野生獣の制御技術」にかかわるものが多い(義経は難所鵯越(ひよどりごえ)を騎馬で下り、木曾義仲は倶利伽羅(くりから)峠の戦いで数百頭の牛を平家の陣に放った)。
それも源平の戦いが、海民と騎手が「自然力の制御技術」の強さと巧みさを競ったのだと考えると筋が通る。
戦いは「野生獣のエネルギーを御する一族」が「風と水のエネルギーを御する一族」を滅ぼして終わった。けれども、能楽にはにこのとき敗れ去った海民の文化を惜しむ心情がゆたかに伏流している。
古代に演芸を伝えた職能民たちは「獣の力」よりもむしろ「風と水の力」に親しみを感じる海民の系譜に連なっていたのではあるまいか。
海幸彦・山幸彦の神話でも、戦いに敗れ、おのれの敗北のさまを繰り返し演じてみせる「俳優(わざおぎ)」の祖となったのは漁りを業とする海幸彦の方である。
今さら言うまでもなく、能楽には『敦盛』『清経』『船弁慶』をはじめ『平家物語』の平家方に取材した曲の方が多い。そればかりか龍神・水神が水しぶきを上げて舞い(『竹生島』『岩船』)、船が海を勇壮に進む情景を叙し(『高砂』)、海浜の風景や松籟の音を好む(『松風』『弱法師』)。ここにかつて「風と水のエネルギー」を御して列島に覇を唱えた一族への挽歌を読むのはそれほど無稽な想像ではないのではないか。
「飼部」が体系化した「弓馬の道」はわれわれの修業している武芸のおおもとのかたちである。それは野生の力と親しみ、身を整えてその力を受け入れ、わが身をいわば「供物」として捧げることでその強大な力を発動させる技法である。能楽に通じた人なら、この定義がシテに求められている資質ときわめて近いことに気づくはずである。
能楽は起源においては呪術的な儀礼であった。その断片は今日でも『翁』や『三番叟』に残っている。シャーマンがトランス状態に入って、神霊・死霊を呼び寄せ、彼らにその恨みや悲しみや口惜しさを語らせ、その物語を観衆たちともども歌い、舞い、集団的なカタルシスとして経験することで「災いをなすもの、祟りをなすもの」を鎮める。おそらくはそのようなものであったはずである。起源的に言えば、シテは巫覡(ふげき)であり、祭司である。おのれの「自我」を一時的に停止させ、その身を神霊に委ねる。ただ、その巨大なエネルギーは能舞台という定型化された空間に封じ込められ、美的表象として限定的に発露することしか許されない。それが舞台からはみ出して、人間の世界に入り込まないように、人間の世界と神霊の世界を切り分ける境界線については、いくつもの約束事が能楽には定められている。
例えば、シテは舞い納めて橋懸かりから鏡の間に入るとき、自分で足を止めてはならない。後見に止められるまで歩き続ける。それはあたかもシテに取り憑いた神霊が、後見が身体を止めた瞬間に、そのまま惰性で身体から抜け出すのを支援するかのような動作である。あるいは演能中にシテが意識を失ったり、急な発作で倒れたりした場合も舞台は止めてはならない。後見はシテを切り戸口から引き出した後、シテに代わって最後まで舞い納めて、舞台におろした霊をふたたび「上げる」責任がある。
私がなにより能楽のきわだった特徴だとみなすのは「すり足」である。「すり足」の起源については諸説あるが、温帯モンスーン地帯で泥濘の中を歩むという自然条件が要求したごく合理的な歩行法であるという武智鉄二説には十分な説得力がある。膝をゆるめ、股関節の可動域をひろく取り、足裏全体に荷重を散し、そっと滑るように泥濘の上を歩む。たしかにヨーロッパ人が石畳を踵から打ち下ろすような仕方で泥濘を歩めば、脚を泥にとられ、身動きならなくなるだろう。しかし、「すり足」を要求したのは、そのような物理的理由だけにはとどまらない。
温帯モンスーンの湿潤な気候と生い茂る照葉樹林という豊穣で、宥和的な生態学的環境は、そこに住む人々にある種の身体運用の「傾向」を作り出しはしなかったであろうか。
「すり足」は言い方を換えれば、足裏の感度を最大化して、地面とのゆるやかな、親しみ深い交流を享受する歩行法である。そうやって触れる大地は、そこに種を撒くと、収穫の時には豊かな収穫をもたらす「贈与者」である。列島における私たちの祖先たちは、その泥濘の上を一歩進むごとに、「おのれを養うもの」と触れ合っていた。贈与者との直接的な触れ合いを足裏から伝わる湿気や粘り気から感じ取っていたはずである。おのれを養う、贈与者たる大地との一歩ごとの接触という宗教的な感覚が身体運用に影響しないはずがない。
能楽には「拍子を踏む」という動作がある。強く踏みならす場合もあるし、かたちだけで音を立てない場合もあるが、いずれにせよ「地の神霊への挨拶」であることに違いはない。土地の神を安んじ鎮めるために盃にたたえた酒を地面に振り注ぐ儀礼は古代中国では「興」と呼ばれたと白川静は書いているが、それは「地鎮」の儀礼として現代日本にも残っている。酒を注ぐと地霊は目覚める。そして、儀礼を行った人間の思いに応えて、祝福をなす。この信憑は稲作文化圏には広くゆきわたっているものであろう。
足拍子もまた、神社の拝殿で鈴を鳴らすのと同じく、地霊を呼び起こすための合図であったのだと思う。それは逆から言えば、足拍子を踏むとき以外、人間は地霊が目覚めぬように、静かに、音を立てず、振動を起こさぬように、滑るように地面を歩まねばならぬという身体運用上の「しばり」をも意味している。「すり足」とはこの地霊・地祇の住まいする大地との慎み深い交流を、かたちとして示したものではあるまいか。一歩進むごとに大地との親しみを味わい、自然の恵みへの感謝を告げ、ときには大地からの祝福を促すような歩き方を、日本列島の住民たちはその自然との固有なかかわり方の中で選択したのではあるまいか。
私が「すり足」に特にこだわるのは、この「すり足」的メンタリティから鎌倉仏教が生まれたというのが鈴木大拙の「日本的霊性」仮説の核心的な命題だからである。
大拙はその『日本的霊性論』において、古代においても、平安時代においても、日本人にはまだ宗教を自前で作り出すほどの霊的成熟には達していなかったと書いている。日本において本格的に宗教が成立するのは鎌倉時代、親鸞を以て嚆矢(こうし)とする。というのが大拙の説である。その親鸞も京都で教理を学問として学んでいたときには宗教の本質にいまだ触れ得ていない。親鸞が日本的霊性の覚醒を経験するのは大地との触れ合いを通じてである。

「人間は大地において自然と人間との交錯を経験する。人間はその力を大地に加えて農産物の収穫に努める。大地は人間の力に応じてこれを助ける。人間の力に誠がなければ大地は協力せぬ。誠が深ければ深いだけ大地はこれを助ける。(…) 大地は詐らぬ、欺かぬ、またごまかされぬ。」(鈴木大拙、『日本的霊性』、岩波文庫、1972年、44頁、強調は鈴木)
「それゆえ宗教は、親しく大地の上に起臥する人間-即ち農民の中から出るときに、最も真実性をもつ。」(45頁)
 
大宮人たちの都会文化は洗練されてはいたが、「自然との交錯」がなかった。『方丈記』に記すように、「京のならひ なにわざにつけても みなもとは田舎をこそたのめる」のが都会文化の実相である。都会には「なまもの」がない。加工され、人為の手垢のついた商品しかない。そして、大拙によれば、自然との交流のないところに宗教は生まれない。

「大地を通さねばならぬ。大地を通すというのは、大地と人間の感応道交の在るところを通すとの義である。」(45頁)

だから、都市貴族は没落し、農村を拠点とする武士が勃興する必然性があったと大拙は説く。
 
「平安文化はどうしても大地からの文化に置き換えられねばならなかった。その大地を代表したものは、地方に地盤をもつ、直接農民と交渉していた武士である。それゆえ大宮人は、どうしても武家の門前に屈伏すべきであった。武家に武力という物理的・勢力的なものがあったがためでない。彼らの脚跟(きゃっこん)が、深く地中に食い込んでいたからである。歴史家は、これを経済力と物質力(または腕力)と言うかも知れぬ。しかし自分は、大地の霊と言う。」(49頁、強調は内田)
 
流刑以後、関東でひとりの田夫として生きた親鸞は「大地の霊」との出会いを通じて一種の回心を経験した。「深く地中に食い込む脚跟」の、その素足の足裏から、大地から送られる巨大な野生の力、無尽蔵の生成と贈与の力が流れ込んでくるのを経験した。そのような力動的・生成的なしかた超越者が切迫してくるのを感知したとき、日本的霊性は誕生した。大拙はそう仮説している。
そして、「大地の霊」との霊的交流は、能楽の誕生、武芸の体系化とほぼ同時期の出来事であった。この三つの出来事の間に深いつながりがある。列島住民が経験したある地殻変動的な文化的土壌の変化がこの三つの領域ではっきりしたかたちを取った。他にもこのパラダイムシフトが別のかたちで露頭した文化現象があるのかも知れないが、私の思弁がたどりついたのは、はとりあえずここまでである。
世阿弥の能楽は海民文化をどのように受け継いでいるのか、世阿弥の技術論において「大地の霊」との交錯はどのように表象されているのか、興味深い論件はまだいくつ手つかずのまま残されている。いずれそれらについても語る機会があるだろう。