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2007年08月 アーカイブ

2007.08.04

大丈夫、まだ生きてます

言うまいと思えど、今日の忙しさ。
夏休みにはいったはずであるが、寸刻の暇もなく仕事をし続けている。
31日、終日原稿書き。
真夜中に日経から電話があり、『旅の途中』に寄稿したエッセイの原稿が「断定的すぎる」ので書き換えを要求される。
「日本属国論」という、このところ私が繰り返し論及している主題についてのものである。
「・・・である」と私が書いた箇所を「・・・という考え方もある」に書き換えてはどうかという。
面倒だが、とりあえずさらさらと改稿して送稿する。
しばらくして、それもダメで、こういうのはどうかという切り貼りした「案」を送ってくる。
これは私の文章ではない。
私の書いた文章ではないものを私の名前で新聞に掲載するのは、読者に対するある種の「詐欺」である。
これは受け容れられないので、原稿は没として、連載もこれで打ち切っていただきたいとお願いする。
この種の問題に遭遇することはもう何度目かであるが、そのつど同じことを申し上げている。
これは署名原稿であるから、私は自己責任で自分の書きたいことを書く。
私はこれまでにすでに相当量のテクストを公開してきているから、私がどのような主張をどのような文体で書く人間であるかは周知されているはずである。
日経もその上で寄稿を依頼されたはずである。
そのテクストが日経的基準からして許容できないから、「書き換えろ」というのは、「あなたに寄稿を依頼した私たちの人選は適切であったが、あなたはその期待に背いた」
ということである。
要するに、「私たちは正しく、おまえは間違っている」ということである。
そう言われてにこやかに「おっしゃる通りです」というためには相当の人間修業が必要だろう。
私はまだそこまで人間ができていない。
一時間ほどもめたあげくに、結局私が改稿したものをいじらずに掲載するということになる。
一度こういう「あや」がつくと、もうテンションが維持できないので、日経の連載はこれにて打ち切りということにする。
大学へ行って集中講義最終日の甲野先生、山本画伯にご挨拶。いっしょにお昼ご飯。
甲野先生の集中講義を覗いたあとに、前期の成績提出。
15時からAERAの取材。
「現代の肖像」というシリーズ記事に出ることになった。
後藤正治さんというノンフィクションライターがインタビュアーでこれから2ヶ月ほど、私の周辺取材を行うらしい。
私について取材されるみなさん、どうもご迷惑をおかけします。
7時過ぎに甲野先生の講義が終わり、陽紀さん、画伯、ウッキー、なぜかついてきたミゾグチさんと芦屋で打ち上げ。
みなさん、どうもご苦労さまでした。
2日、堂島のクラブ関西の午餐会で講演。
お題は「日本属国論 辺境人として生きるために」。
このネタで講演するのは、IAMAS,大拙忌と3回目である。
IAMASでは「めちゃモテニッポン論」、大谷大学では「日本的霊性と辺境性」。今回はおもに日米中関係に焦点を合わせて、親鸞の「コペルニクス的転回」について論じ、ついでどうして安倍首相は参院選で大敗したのかを辺境論の立場から解明する。
オーディエンスは平均年齢70歳くらいの財界人たち30名。
話し出したらすぐに3人くらいが鼾をかいて眠り始める。
1時間15分しゃべり終わる頃には彼らも起きていたから、私はよほど大きな声でどなり散らしていたのであろう。
家に戻り、仕事。
3日、大雨の中、御影の転居先で契約。
鍵をもらったので、これからしばらくは芦屋と御影の二箇所に家があることになる。
電気、水道、ガスのライフラインを繋ぐ。
電気屋さんに来てもらって、照明とエアコンの取り付けをお願いする。
引越は12日である。
家にもどって朝日新書の最後の追い込み。
夜8時にようやく脱稿して、石川さんと平尾さんに送稿。
やれやれ。
しかし、本日締め切りのゲラがもう一つあった。
角川書店の「疲れすぎて・・・」の文庫版ゲラはまだ封を切ってさえいなかったのである。
締め切りを6日まで延ばしてもらうが、4日も5日も予定がぎっしり詰まっているので、ゲラを見ている時間はない。
どうしたらよいのであろう。
こんなところでブログ日記なんか書いてる暇はないのである。

2007.08.09

引越直前どたばたデイズ

またも日記の更新が遅れてしまった。
ご賢察のとおり、とっても忙しかったのである。
とりあえず備忘のために、この間の出来事を記しておく。
8月4日。朝4時に起きて、角川書店のゲラを直し、そのまま宅急便で送稿。10時から下川先生のお稽古。
12時から合気道の稽古。
AERAの取材陣が二人、新人が一人(志木道場の人で、亀井先輩のお弟子さんである)、見学者が二人、ミネソタから帰ってきたおいちゃんと、その教え子のヘンリー・シブリー高校のタヨちゃん・・・とたいへん賑やか。
そのままわが家にて新入生歓迎コンパ。途中からヤベッチとクーとを相手にコイバナと結婚バナ(もう10年くらいこればかりだ)。だんだん人だかりがしてくる。
○ロ○エがゲロを吐く。新歓コンパとしてはたいへん珍しい事態である。山手山荘蟹ゲロ事件以来、わが家の宴会では「飲むなら吐くな、吐くなら飲むな」ということが家訓として掲げられており、これ以後ヒ○ロ○はわが家においてはどぶ板(ないけど)を這って歩まねばならない。
全員が帰ったあと、脱力状態で『墨攻』を見る。
酒見賢一の原作である。
日本人の作家が造型した墨家の物語が漫画化されて、中国語に翻訳されて、ポピュラリティを獲得して、中国で実写版の映画になった。
これはたいへん可能性の低いことである。
非中国人が書いた中国人の物語はいくらもある。
けれども、それが中国語に翻訳されて、中国人に愛され、中国人自身が物語としてそれを「奪還」するということは希有のことである。
例えば、パール・バックの『大地』は非中国人が描いた中国人の物語であるが、『大地』を中国人が自身の物語として「奪還」するという事態は想像できない。
5日から7日までは恒例の7ヶ月に一度の「温泉麻雀」である。
二日酔いでふらふらしながら新幹線に乗る。
新横浜で兄ちゃんに拾ってもらって、いつもの箱根湯本吉池へ。
すでに平川くん、石川くんは到着している。
露天風呂に浸かって、真夏の青空を見上げる。降り注ぐ蝉しぐれ。
ようやく夏休みになった気分である。
風呂から上がってただちに戦闘開始。
音楽は全員持ち寄りのiPod。60年代ポップスがほとんど無限に続く。コニー・フランシス(Too many rules)、ヘイリー・ミルズ(『罠にかかったパパとママ』)、ミーナ(いんたれんたりるんな)などなどを全員が合唱。
この頃のポップスはほとんど漣健児が訳詞して、日本語カバーがなされていたのである。
日本語でカバーされた曲は子どもの記憶に深く刻まれ、リスナーはオリジナルとカバーの両方を等しく愛するようになる。
「日本語カバー」という習慣を失ってから外国の楽曲は私たちにとってただの「外国の楽曲」になった。
初日に親の役満を上がる(四暗刻自摸)。二日目に再び親の役満を上がる(大三元)。
大三元は(三枚目の白を「これはない!」と場に叩きつけて泣かせてくれた)兄ちゃんがついでに四七萬待ちの四萬に振り込んでくれた。
二日間の勝率は平川くんが圧勝の14戦7勝(勝率5割)。私は14戦4勝ながら、二回の役満が幸いして得点は210の第一位。
全員ぐったり疲れてお風呂にはいり、爆睡。
三日目の朝ご飯を食べておしゃべりしているときが、一番楽しい。あっというまに時間が経つ。
だったら、麻雀なんかしないでずっとおしゃべりをしていたらいいじゃないかと思うかもしれないが、そうではないのである。
十数時間、無言で(歌いながらだけど)麻雀をし続けたあとだからこそ、このおしゃべりタイムが濃密なのである。
どういうわけか母親と叔母が吉池に「乱入」してきたので、いっしょにコーヒーを飲んで、小田原まで兄に送ってもらう。
新幹線車中で『論座』の原稿を書く。
帰宅して引越し準備。
疲れたのでお風呂にはいり、小田原みやげの「かます」と「あじ」を肴にワインを飲む。
それから寝ころんで『武士の一分』を見る。
キムタクくんのくぐもった山形弁がよい。
この山田洋次の藤沢周平シリーズはどれも山形弁の鈍重さがかえって言葉を語る身体の厚みを感じさせる。
8日。三宅先生のところで治療。右腕の中心にときどき鈍い痛みがある。よく意味がわからない。
13時、日経の担当者たちがやってくる。一方的な連載打ち切り宣告について「わがまま言ってごめんなさい」と謝る。
「こだわり」とか「プリンシプル」とかいうのは、あまりない方がいいとつねづね申し上げているので、これはべつに「物書きとしてのプリンシプル」に基づいての行動ではない。
「こういうこと書くと、怒ってくる人がいますから、ちょっと書き方変えてください」というのは日常茶飯事である。
「怒ってくる人」というのはみなさん言わなくてもおわかりだろうけれど、「あの方」たちと「あの方」たちである。
日本広しと言いながら、出版に圧力をかけることができる方たちというのは実は二種類しかいないということである。
言われれば、私も「はいはい」と書き直す。
あの手の人たちが乱入してきては出版社の諸君だって仕事に障る。それは私の望むところではない。
けれども、見ているとだんだんこの「虎の尾」の表面積が出版人の主観の中では拡大しているような気がする。
「これもやばいんじゃないの?」「これも直しておいた方が無難?」というふうに「自主規制」の幅が無制限に拡がりつつあるように思える。
「尾」が存在するのは客観的事実であるが、「どこからどこまでが尾か」の判断は主観に委ねられている。
「尾」の主観的幅を「広めにとって、とりあえず安全をはかる」出版人と、「どこがぎりぎりのきわか見定めようとする」出版人の間には思っている以上の差が出る。
前者はしばしば「そこは『尾』じゃないところ」まで「尾」だと錯覚して、「尾」の面積を拡大する方向に(無意識に)棹さす。
それは「尾」を最小面積にまで切り縮めようと努力している人々にとっては「敵」である。
私が今回最終的に連載打ち切りを決めたのは「いかなる訂正要求にも応じない」というプリンシプルによるものではなく(そんなプリンシプルを私は持っていない)、「自主規制の範囲がこれ以上拡大してゆくことに対する出版人としての痛み」を「訂正要求」に感じることができなかったからである。
ミシマ社の『街場の中国論』のゲラでもミシマくんから「これ書き換えてもらえませんか」という訂正要求が入ったことがある。
私はにこやかに訂正に応じた。
街宣車が自由が丘の彼のオフィスの前に並んだりすると、立ち上げたばかりのミシマ社の未来に暗雲がたちこめるからである。
彼の言葉からは「そのような事態」を恐れなければならない出版者の非力に対する「痛み」が感じられたので私は訂正に応じたのである。
些細な違いのようだけれど、実は大きな差なのだと私は思っている。
15時、イタリアはパルマの武田さんが遊びに来る。パルマの生ハムご持参である。
お茶をしながら「おばさん的会話」を交わす。
17時、細川商店の細川さんが来る。新居で本棚の採寸と見積もり。
新しく6本本棚を入れることにする。これでたぶん定年で研究室の本が戻ってきても、なんとか収納できそうである。
家に戻り、引き続き引越し準備。
疲れたので、お風呂に入り、サラダと冷や奴を肴にエグッチにもらった「アジアビール」を飲む。
それから平川くんオススメの『フラガール』を見る。
『がんばっていきまっしょい』、『ウォーターボーイズ』、『スイングガール』と続くこの「(あまり才能がない)ふつうの子たちが、いい先生(実はあまり才能がない)に出会い、仲間と友情を深め、ブレークスルーを経験する」という物語群はいずれも教育というものの本質を鋭く衝いている。
教育とは煎じ詰めれば「そういうこと」だからである。
才能なんて、教える側にも教わる側にも、誰にもなくても大丈夫なのである。
それでも手順さえ間違えなければ才能はちゃんと開花する。
これらの映画はそのメッセージ性の明快において、21世紀版の『二十四の瞳』であり、『青い山脈』とみなすことができる。
日本人がみんな「こういう映画」を見て「ほんと、そうだよね」と思ってくれれば、教育再生会議なんか要らない。

2007.08.10

怪異ゴミ屋敷

引越準備に明け暮れ。
今朝は燃えないゴミ捨て。7袋。
前日は燃えるゴミ14袋。
どうしてこんなに必死にゴミ捨てをしているかというと、「らくらくパック」だからである。
「らくらくパック」は梱包を全部引越業者のみなさんがやってくれるのであるが、彼女たちはプロフェッショナリズムゆえに徹底的にすべての家財を梱包してしまうのである。
それゆえ、しばしば「それは誰が見てもゴミでしょう・・・」というものまで丁寧に梱包して新居に運び入れてしまう。
前回の引越のときに手抜きですべてお任せしたら、大量の不要品が新居に運び込まれてしまった。
むろん大量の不要品をかかえて生活していた私が悪いのである。
今回は前回の轍を踏まぬように、事前に「煤払い」を断行した。
かつてドクター佐藤はヴァン・ヘイレンの力を借りて、大量の衣類を「えいや」とゴミ袋に投じたそうであるが、私の場合はなにしろ家財の30%がゴミであり、ゴミを収納するためだけに3LDKの1室を明け渡していたので、「えいや」どころでは済まぬのである。
私は決してものを貯め込むタイプの人間ではない。
むしろ、できるだけものを持たないように心がけてきた人間である。
もとより「コレクション」と呼ばれるようなものは何一つ所持しておらない。
私が唯一コレクトしているのは山本浩二画伯のタブローだけである。
それだって7点しかない。
あとは何もない。
レコードもCDもDVDも段ボール5箱くらいに収まる。
私のような商売の場合はどなたも蔵書で苦労されるのであるが、私は本を持たないことをプリンシプルとしている。
蔵書はせいぜい4000冊程度である。
だから、私の家を訪れた同業者たちは書棚を一瞥したあとに一様に「で、あとの本はどこに?」とお訊ねになる。
これで全部ですというとみな絶句する。
「あなたはこのわずかな蔵書だけをネタに本を書いているのか?」という非難のまじった(というよりは非難が97%くらいの)まなざしで見つめられると私はあいまいに頷くのだが、実はその蔵書だって8割方は読んでないのである。
つまり実質1000冊ほどの蔵書だけをレフェランスに私の学的生活は営まれているのである(おまけにそのうち半分はマンガである)。
私はここに粛然とカミングアウトするが、私は「日本で一番蔵書の少ない学者」ランキングがあれば、間違いなくベスト100にはランクインされるであろう。
高校大学の頃に買った本は震災のあとにあらかた捨ててしまった。
捨てあとで「あれはどこだっけ?」と探して「しまった」と後悔したものもないわけではないが、それだって今のところ一冊だけであり、アマゾンでまた買うことができたからノープロブレムなのである。
にもかかわらず大量の家財に埋もれて暮らしているというのはどういうことなのであろう。
理由のひとつは人々が私の家を「パブリックスペース」として使う傾向があるということである。
私の家には雀卓が3つあり、麻雀牌が5セットある。
ワイングラスとビールグラスは50人でパーティができるくらいある(実際に47人でパーティをしたことがある)。
「こたつ」だって二個あった(和室が一個しかないのに)。
「置き傘」「置き皿」「置きタッパ」は売るほどあるし、「置き酒」は床が抜けるほどある。
もう一つは家財の量がある閾値を超えると、ゴミが幾何級数的に増えるという数理が存在するためである。
その理路は賢明な読者諸氏にはただちにご理解いただけるであろう。
「家財」はある段階で「ゴミ」になる。
使用価値に経年変化が生じるからである。
例えば、どのように質のよい衣類であっても、過去3年間一度も袖を通していない場合、引き続き二度と袖を通す機会がない確率は90%を超えるので、これはカテゴリー的には「ゴミ」に類別せねばならない。
だから、家財の使用価値の逓減について定期的に正確な評価を下していさえすれば、家財がゴミ化したときに適切に処分することができる。
家の中には有用な家財しか存在しない、というのは主婦の夢である(私の夢でもある)。
ところが家財が収納スペースに対して過剰になるとそれができなくなる。
それは、もっとも使用されない家財(つまり使用価値がゼロになりつつあるもの)が原理的に収納スペースのいちばん奥にしまい込まれているためである。
そして、恐ろしいことに、家財が増えすぎると、「収納スペースそのものにアクセスできない」という事態が生じるのである。
わが家の場合はだいぶ前から(2年ほど前から)収納スペースのドアを開くためには、かなりの量の家財を移動させなければならないという危機的水域に達していた。
当然、本来の収納スペースの中にはすでに経年的に「ゴミ化」した家財がぎっしり詰まっている。
そこに収納すべきそれよりゴミ度の少ない家財がスペースの手前に位置し、もっとも有用性の高いものがいちばん手前に位置するという地政学的配置になる。
「あ、今日はゴミの日だ!」と朝、ねぼけ頭で納戸を開いたときに、ゴミとして処分すべきものに到達するためには相当の努力が要されるという場合に、二日酔いの中年男がエプロンをかけてさくさく掃除を始めるということは考えにくい。
少なくとも私はそのような行動をとることができなかった。
ともあれ、そのようにしてわが家は「家財の30%がゴミ」という状態になったのである。
引越を機に、それらを一斉処分できることはまことに欣快の至りである。
朝はまず電話回線の工事立ち合いのために新居に。
それから家に戻って荷造り。
三宅接骨院帰りのタムラくんが手伝いに来てくれたので、タムラくんを相手に駄弁を弄しつつ本をどんどん捨ててゆく。
午後2時にSightの編集者が来る。
参院選の総括について取材。
自民党はどうして後継首相選びで党内闘争をしないのか、ということを申し上げる。
「安倍おろし」に対して「徹底抗戦」とことになると、メディアの注目は自民党に集中する。
新聞紙面もTVも「自民党の話」で持ちきりである。
黒塗りのハイヤーから降りてくる議員たちを記者たちが追いかけて争って談話をとろうとする。
全国放送の画面で自分の政治的意見を開陳し、自分の個性や才覚をアピールする絶好の機会である。
どうして彼らはその機会を利用しないのか?
自民党が後継者選びで内紛激化すれば、メディアは民主党のことなんか見向きもしなくなる。
次の総選挙のとき、有権者がその見識や雄弁について詳細に「知っている」のは自民党議員ばかりで、民主党の議員ではないというチャンスが目の前にぶらさがっているのに、どうしてそれを利用しないのか?
リアルに自身の総選挙対策を考えるなら、ここは「挙党一致」というような近視眼的な対応ではなく、「解党的危機」をアジテートして、「党の分裂をも辞さず」というような大法螺を吹き上げる方が有権者受けはいいに決まっている。
そうすれば次の総選挙は自民党圧勝である。
そういう悪知恵が働かなくなったというところが自民党の落日である。
そんなヨタ話をしているところに青山さんと平尾くんが引越助っ人に登場。
釈老師の朝カルを聴きに行く前にお立ち寄り下さったのである。
汗とほこりにまみれて2時間余。
みなさん、どうもありがとう。
シャワーを浴びて再び御影へ。
カーテンの採寸と書棚の見積もり。
終わって家に戻る。
もう鍋釜も調味料も片付けてしまったので、料理ができない。
お弁当を買ってきて、ビールで流し込む。
ラポルテで過ごすのも今日が最後。

2007.08.13

御影は静かです

狭義の「引越」が終わる。
広義の「引越」は家探しから始まり、荷造り、もろもろの契約、搬出、搬入、掃除と整理、住民登録、電話回線、ライフラインの立ち上げ、近所へのご挨拶、転居通知の発送までの長期の作業である。
新居にはまだカーテンも入ってないし、食器棚も書棚も納品されておらず、うずたかい段ボールの山に埋もれて暮らしている。
それでもいずれ収まるべきものは収まり、それなりに生活が落ち着いてくるまでざっと3週間というところであろうか。
あら、夏休みが終わってしまう。
しかし、この引越は正解であった。
芦屋駅前はとにかく便利であったが、騒音と空気の悪さがこたえた。芦屋でいちばん交通量の多いエリアだったんだから仕方がないけど。
今度の家はまことに静かである。
車の音も、人の声もほとんど聞こえない。
聞こえるのは蝉しぐれだけである。
前回御影土山町にいたのは1996年から2001年まで。震災で芦屋山手町の山手山荘を出て、るんちゃんと一緒に御影の少し広めのマンションに移り住んだ。急坂の上で、ちょうどそのころ膝を痛めていたので、上り下りがけっこうきつかったのを覚えている。
でも、窓から大阪湾が一望できるすばらしい眺望で、海を見ながら集中的にものを書いた。
そのときの場所より1キロほど南に下がったところである。
ベランダから海と山が見える。
この家でこれからどんな生活が始まるのか、まだよくわからない。
引越のお手伝いに合気道関係者がぞろぞろとやってきて掃除を手伝ってくれる。
「立つ鳥跡を濁さず」と言うけれど、このまま撤去したのでは人間としていささか問題がある汚れ方である。
言い訳をさせていただくけれど、私はどちらかという「きれ好き」な人間である。
それがこれだけ汚い部屋にしてしまったのは、「休日がない」という日々が久しく続いたからである。
朝から晩まで机にしがみついて締め切りぎりぎりの原稿を書き飛ばしていたのであるから、風呂場の掃除とか、洗濯機の裏側のカビ落としとか、そんなところに手が回るはずもない。
パソコンのキーボードにこぼれたコーヒーさえ拭き取らずに仕事していたんだから。
谷尾さん、キヨエさん、ウッキー、ヒロスエ、谷口さん、ヤマダくんが手伝いに来てくれる。マサコ&キヨエのコンビがぐいぐいと家の中をクリーンにしてゆく。
すごい。
搬出が終わり、ロイホで昼ご飯を食べて、午後は搬入。
イワモト秘書が登場して、さくさくとパソコンを設定してゆく。
4時頃、一段落してもう疲れ果てて声もでないので、「ビールでも飲むか」ということになる。
だらだらビールを飲んでいるうちに、ドクターやゼンゾーくんたちBBQをしていた合気道の諸君が「二次会」に雪崩れ込んでくる。
マサコ&キヨエコンビはこんどは「引っ越しソバ」をぐいぐいと製作している。
数えてみたら13人で宴会をしていた。
みんな好き勝手に人の新居に「マーキング」をして、満足げに帰って行った。
この新居もまた第一日目から「セミ・パブリック」スペースとしての刻印を押されてしまったようである。

2007.08.14

猛暑です

荷物の梱包をほどいて、ようやく人間らしい住みかになってきた。
とはいえ、まだ本棚と食器棚が届いていないので、その分の段ボールは床に積み上げられたままである。
それにしても暑い。
クーラーの設定温度を18度(!)にしているのに、室温は30度(室外は34度)。
少し動くだけで汗がだらだら流れてくる。
こういうときは高原のロッジとか、ハワイの海岸とかで「らりほ~」となっているのが人間としてあるべき姿ではないかと思うのだが、今年の夏休みも「遊ぶ」という計画はまるでないのである。
思えば、「海で泳いだ」というのもハワイが最後ではなかったか。あれはもう4年前だ(一昨年、南芦屋浜の「海岸」で胸まで水に浸かったが、あれは「泳ぐ」というよりは「肝試し」のような感じであった)。
どこか海岸のホテルのプールサイドでピナコラーダを飲みながら潮風になぶられて爆睡したいのだが・・・・夢のまた夢である。
昨夜は来週から広州外語外貿大学に留学するゼミ生のぴんちゃんの送別会で梅田に出る。
「梅田のビッグマン前6時半集合」。
学生さんたちは「ビッグマン前」が好きである。
関西圏以外の方はご存じないであろうが、梅田の「ビッグマン前」というのは新宿「アルタ前」のような場所である。
紀伊国屋の前に大きなスクリーンがあって、あらゆる待ち合わせがそこで行われるために黒山のひとだかりができており、待ち人を捜し出すのに15分くらいかかる。だから遅刻した場合でも「ずっと探してたんだよ!」という言い訳ができるのである。
学生たち12名とお初天神通りの居酒屋へ。
冷たいビールをごくごく飲んで、ようやく人心地がつく。
ぴんちゃんはたいへん活動的な女子なので、きっと広州でも見聞を広めてくれるであろう。
「よせがき」を集めて、送る。
ついでに8月が誕生日のゼミ生ふたりにハッピーバースデーを歌う。
「すなお」と「なつこ」なのだが、予約電話の聞き違いでチョコレートの文字が「なすこ」になっていた。
ゼミ生諸君はその間ひっきりなしにデジカメで写真を撮り続けている。
明日は8月15日。
終戦記念日に兵庫県教職員組合の宝塚支部で戦争の話をすることになっている。
このところの持ちネタの「日本属国論」で一席弁じるのである。
こんな暑いとわかっていたら、ましてや引越するとわかっていたら、夏休み中の講演なんか引き受けるはずがなかったのであるが、人生というのは予断を許さぬものである。
聴きに来られる方々もご苦労さまなことである。
明日まで『論座』の締め切り6000字というのがあるので、これからそれを書き上げねばならない。
さいわいお盆で出版社の諸君もおおかたお休みなので、メールも電話もも来ないのがありがたい。

2007.08.15

「愛己心」な人々

引越の片付けは止めて、一日原稿書き。
『論座』の「愛国心論」6000字。
家が変わり、パソコンの位置も変わり、なんとなくキータッチも変わり(コーヒーのしみを拭き取ったせいかもしれない)、いつものようにすらすら書き始められない。しばらく「助走」を重ねる。
夕方近くにようやく浮力を得てテイクオフする。
物を書くときは、この「テイクオフ」までの助走距離がとれるかどうかが質的な分かれ目となる。
「いますぐ書け」といわれれば、そこそこの字数のものは書けるが、「浮力」が得られないで書いたものは、すでに書いたことの焼き直しにしかならない。
そういうものを書いて送稿してしまうと、深い徒労感に襲われる。
わずかでも浮力を得て書かれたものにはたとえ一行であれ、「生まれて初めて思いついたこと」が書かれている。
その一行を手がかりにして一冊の本が生まれることもある。
愛国心についてはこれまでなんどか書いた。
当然、編集者が頼んでくるのは「・・・で書かれたような内容」を本誌読者向けにひとつよろしく、というかたちになる。
それだと書く方はおもしろくない。
せっかくの機会であるから、これまで書いたことがないことを書きたい。
最初のアイディアは「私は愛国者である」ということを前面に押し出して、「愛国」というのがいかに病的な心性であるかを縷々書きつづるという趣向のものであったが、書いてみたら、自分が「真性の愛国者」ではないことに気がついたので、取りやめる。
方向を変えて、「真の愛国者」と「似而非愛国者」の二元論というものを書いてみることにする。
「真の愛国者」と「似而非愛国者」の二本立てというロジックは「似而非フランス人」と「真のフランス人」という、シャルル・モーラスが愛用し(のちにティエリ・モーニエの国民革命論に受け継がれた)フランス極右の思想家の論争ツールをそのままお借りしたのである。
暑気払いに、それをちょっとご紹介しよう。
モーラスによると、フランスには「深層フランス」と「表層フランス」の二種類の存在様態がある。
「深層フランス」はフランスの大地の古層にある水脈のようなもので、そこから「フランス文化の精華」が豊かに湧き出ている。
「真のフランス人」というのはその恩沢に浴すことのできる人間である。
彼らは生まれついてずっと「真のフランス人」である。
ご飯を食べていても昼寝をしていても、まるまる「真のフランス人」であるので、「フランス人であれば、どうふるまうべきであろう?」という問いが芽生えたときには「自分はどうしたいのか?」という問いに書き換えればよろしい。
一方、「表層フランス」というのは歴史的な変動の果てに、たまたま現在「フランス」とよばれている国家「制度」のことである。ここには最近になってフランスに領土として組み込まれた地域や、最近になってフランス国籍を得た人間が含まれる。
この法理的な国民国家のメンバーは「法制上のフランス人」と呼ばれる。
国籍はあっても、彼らは「フランス文化の精華」を自分の内側に感じることはできない。
だから、彼らは精一杯「フランス人らしく」ふるまおうと努力する。
彼らは「フランス人であれば、どうふるまうべきであろう?」という疑問が兆すと、思わずきょろきょろとあたりを見回すので、それと知れるのである。
モーラスによれば、フランスの不幸のすべてはこの「似而非フランス人」どもがフランスの政治・経済・文化制度に入り込み、本来フランス的なものではない(ドリュモン的に言えば「セム」的な)制度を導入し、本来「真のフランス人」に帰属するはずの資源を蚕食したことに起因するのである。
「フランスをフランス人の手に」(La France aux Français)というのがそのスローガンであり、これはドリュモンの『自由公論』誌のエピグラフであり、のちにアクシオン・フランセーズに採用された(ブニュエルの『小間使いの日記』はこのスローガンを大書した旗を掲げてデモをするアクシオン・フランセーズの「真のフランス人」たちのアップで終わる)。
これはたいへん便利でイージーな論争ツールであることはただちにおわかりいただけるであろう。
なにしろ、「私は真のフランス人である」という論点が先取されているのであるからして、「フランスはどうすべきか?」という問いはただちに「私はどうしたいのか?」に書き換えられてしまう。
「私はこうしたい。私は真の日本人である。ゆえにすべての日本人は私に同意すべきである」というどこかの国の首相やどこかの都知事らが好んで口にする論法はいずれもドリュモン=モーラスを祖とする「真の・・・人」論を(それと知らずに)流用したものなのである。
ここには「説得」という契機が存在しない。
「説得」というのは、「たぶん、相手は自分の言うことを簡単には信じてくれないだろうな・・・」という予測があるときにしかなされない。
自分の言うことが真理であると思っている人はそんな面倒なことはしない。
「私の言うことが真理であることはもとより証明の要もないが、真理であることをぜひ証明したいというのなら、それはあなたの仕事である」
まことに合理的な論争術である。
ただ一つだけ問題がある。
自分を「真の日本人」であるとする基礎づけが学的には不可能だということである。
だって自己申告しかないんだから。
この論法で大成功した反ユダヤ主義者エドゥアール・ドリュモンはあるとき「そういうお前はユダヤ人ではないのか?」という嫌疑をかけられて、焦りまくったことがある。
とりあえず祖父の一人がフランス革命のときに農民だったということを示す系図のようなものを取り出してはみせたのだが、ドリュモン自身が「自分は『真のフランス人』だと自称するユダヤ人どもが出してみせる系図などはすべてインチキである」と書いたばかりだったので、あまり説得力がなかったのである。
それでも、日本でも相変わらず「私こそが真の日本人である」という「言ったもの勝ち」の名乗りをする人は多い。
国益と私益がイコールなのであるからして、国益について思量する必要がないのである。
歴史的知識も経済統計も国際関係についての情報も何も考慮する必要がない。
知的負荷ゼロである。
この自称「真の日本人」たる人々の口にする「愛国心」は、だから「愛己心」というのとほとんど変わらない。
自分が好きで好きでしかたがなくて、自分の旗を掲げて、自分を讃える歌を作って歌っている人間がいたとする。彼が通りがかりの人間をつかまえて「旗に敬礼して、歌を歌え。そうしないと、お前は私ではないということになるが、それでいいのか」と凄んでみせたら、彼が救いがたく愚鈍であるということは誰にでもわかるであろう。
というところまでが話の前半で、そのあと「愛国心論」は驚くべきツイストを遂げて、他者論へと展開することになるのである。
詳細は『論座』の次号を読まれよ。

2007.08.16

田中角栄 is coming back!

兵庫県教職員組合の宝塚支部というところの「8・15反戦平和のつどい」という学習会にお招きいただいて、憲法の話をする。
教育現場からの依頼にはなるべく応えるようにしているので、この夏はそういう講演がいくつか続く。
講演のマクラは参院選の総括。
このあいだSightの取材のときに聞き込んだ「参院選は福田派と田中派の代理戦争である」というアイディアを展開する。
考えてみると、これは刻下の政局を解釈する上でなかなか適切な補助線のように思われる。
竹下派「七奉行」と称された経世会(=旧田中派)の後継者たちのうち、橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六を除く四人すなわち奥田敬和、小沢一郎、渡部恒三、羽田孜は民主党の創立メンバーである(七人のうちすでに四人が物故者であるが)。鳩山由紀夫も岡田克也ももとをただせば経世会出身であるから、民主党は旧田中派の「直系」と言うことができる。
つまり、今回の参院選は森・小泉・安倍と三代にわたって総理を輩出した清和会(旧・福田派)と経世会(旧・田中派)の、遠く遡れば福田赳夫、田中角栄の1972年の「角福戦争」以来の「遺恨」試合の最新の一幕として見ることができるということである。
福田派は日米同盟重視のグローバリストであり、田中=竹下派はアジア外交重視であり、「列島改造論」や「ふるさと創生」で知られるように「都市と地方の格差の解消」を最優先の政治課題に掲げていた。
小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」と言ったときに標的にされていたのは、要するに族議員の仲介によって霞ヶ関と各業界をリンクした利権システムを完成させた「経世会的なもの」であった。
つまり、いま「二大政党」とよばれているものも実体は自民党のかつての「二大派閥」に他ならないということである。
だから、「政権交代可能な二大政党」とは、政策選択の幅が拡がったということではなく、自民党の二大派閥のどちらかを選ぶ以外に有権者に選択肢がなくなったということなのである。
善し悪しは別にして、それは日本の政治的選択肢がそれだけ狭く、かつ先鋭化してきたというふうにも解釈できる。
世界戦略的に言えば、「対米追随」か「アジア重視」かという二者択一であり、内政的に言えば、「市場原理の導入」(民営化、市場開放)か「親方日の丸・護送船団方式の再導入」(大きな政府、市場参入の制限)かという二者択一である。
90年代以来ひたすら突っ走ってきたグローバリゼーションの流れにブレーキがかかり、右すべきか左すべきか、日本人は今立ち止まって考えている。
今、外交的にはアメリカの軍事戦略に完全に組み込まれて、「アジアの孤児」となりつつある。国内における地域格差(地方切り捨て)も、非正規雇用者の「窮民化」問題も深刻さを増している。
おそらく、今の日本人が懐かしく求めているのは小泉純一郎=安倍晋三が弊履のごとく捨て去ったタケシタノボル的なものである。
「ま、アラファトさんにもアラファトさんのお立場というものがあるわな」というあの無原則主義である。
「ふるさと創生1億円」などというのは政策的にはまったく無意味であったけれど、おじいちゃんが年金をはたいて孫たちにわずかばかりの「お年玉」を上げるようなとんちんかんな、しかしそれなりにヒューマンな肌触りのものではあった。
旧・田中派的な政治を懐かしむ有権者たちは、安倍晋三が予感させる「新しいタイプの痛みと不安」よりもむしろあの「なじみ深い、手垢まみれの不満」のうちに回帰することを夢みているのではないか。

2007.08.17

ワガママ道前途遼遠

『新潮』9月号に養老孟司先生が河合隼雄さんの追悼文を寄せている。
養老先生は旧友の死を悼んで、「なぜ、文化庁長官なんか、長いことやらせたのか」と書いている。
「河合さんは名伯楽で、それを上手に使うメタ伯楽はたぶんいない。日本の世間はそういう世間である。河合さんのワガママを誰が聞いてあげただろうか。ふとそう思ったりした。もったいないなあ。この世間は本当にもったいない人の使い方をする。
河合さんの訃報を聞いて、私はもっとワガママをしようと思った。」
いかにも養老先生らしいおことばである。
河合隼雄さんを文化庁長官に任命したのは、文化行政についての政府の取り組みの積極性を示したひとつの「見識」と言ってよいだろう。
けれども、河合さんは着任してすぐの仕事は高松塚古墳にカビが生えたという文化庁の不始末をわびるために、あちこちに頭を下げて回ったことだそうである。
そういうことのために河合さんを任命したわけではないだろう。
「政府の文化行政への取り組みの真剣さ」を内外に示す記号として河合隼雄さんを「消費」してしまったのだとしたら、いったいこの人事は何のためのものだったのか。
「この世間はほんとうにもったいない人の使い方をする」というのはほんとうに養老先生のおっしゃる通りである。
でも、それはある意味当たり前のことだとも言える。
ビジネスの鉄則に「急いでいる仕事は、いちばん忙しそうにしているやつにやらせろ」というものがある。
「そういう使い方」をするべきではない人に限って「そういう仕事」をいちばん迅速かつ適切にこなすということが経験的に知られているからである。
おそらく河合長官の「お詫び行脚」は、それ以外の人が長官であった場合よりも迅速かつ適切になされたのではないかと私は推察する。
そういう(どうでもいい)仕事に「命をすり減らす」ことをあえて辞さない人にだけ選択的に「命をすり減らす」ような仕事が回ってくるのである。
不条理だけれど、そういうものである。
鷲田清一さんが阪大の学長を引き受けたのも、きっとそういうことだろうと思う。
そういえば、河合さんも鷲田さんも「臨床」の人である。
自分の理説がほんとうに通用するかどうかを、いちばんそれが「通用しそうもない現場」に出向いていって検証してみたくなる、というのが臨床家の「業」である。
だから、もしかするとご本人たちは自分たちが「もったいない使われ方」をしている、というふうには考えていなかったのかも知れない(河合さんは無理だけれど、鷲田さんには機会があったら、直接訊いてみよう)。
それにしても、「私はもっとワガママをしようと思った」には感動した。
養老先生はあれでもまだ「ワガママ」が足りない状態なのである。
そうだったのか。
まだ先生ご自身がワガママ道修業の途上におられるのである。
私ごときが自分の「ワガママ」を自制するのは100年早いということである。
私もはやく「ウチダのようにワガママな人間は見たことがない」と世上評されるようにならねばと決意を新たにする。

2007.08.18

田岡嶺雲の東夷論

森銑三といっても知る人は少ないが、私の大好きな文士の一人である。
この人の『明治人物閑話』が私の座右の書の一つであるのは折に触れて書いている通りである。
手元にあるのは昭和63年の版のものであるから、おそらく私が30代の終わり頃か40代の始め頃に手に取ったものであろう。
それはポストモダンとかデコンストラクションとかジェンダースタディーズとかポストコロニアリズムとかやたらに新帰朝の理説が幅を利かせていた時代であった。
そういう時流がどうも気に染まず、家に籠もって森鴎外や夏目漱石や永井荷風や石川淳や中島敦や森銑三のような「明治の匂い」のするものばかり読んでいた。
森銑三を読んで成島柳北の存在を教えられ、それから柳北のものを読み始めたのである。
私が「日本のおじさんは偉い」という確信を得たのはこれらの明治人のおかげである。
中央公論社から復刻される森銑三著作集の解説を書くために、また本を取り出してはじめから読み出した。
もう何度も読んでいるので、内容は熟知していると思っていたが、久しぶりに読むと、「こんなことが・・・」というようなことが書いてあった。
田岡嶺雲という人(私は寡聞にしてこの人の事績を森銑三に教えてもらうまで知らなかった)のプロフィールを素描した文の中に、嶺雲の絶筆「無当語」が採録されている。
それが何と「日本属国論」なのである。
私の「日本属国論」はもしかすると田岡嶺雲に最初に「刷り込み」されたアイディアかもしれない。
嶺雲はこう書いている。
「万世一系の我が皇室を除いて、日本は果たして其誇るべき特有の何者かをか有する。試みに其文、其制度、其慣習の一切を仔細に検し視よ、其の孰れか果たして模倣踏襲に非ざるものぞ。国民が有する何物か果たして其の独創発明に出でしものぞ。已むを得ずして之に美名を被らしめて、同化力に富むといふ。而も如何なる国か他を模擬する説き、此に幾分の自個を加味せざるものや有るべき。若し之を同化といふべくは、一切の模擬は皆同化也。日本は過去に於て印度の文明、支那の文明を同化せりといふも、若し之を所謂同化したるものありとせば、其は其のあまりに大なるが為めに尽く之を受容する能はずして、之を自個の偏隘なる島国的小模型中に改修するの已むを得ざりし者のみ。其過去に於ると等しく、現在に於ても亦泰西の文明を活剥生呑す。(・・・) 
日本は国に於て独立なり、然れども思想に於て事大主義也。事として毎に大国の後塵を拝せざること莫き也。人は物徂徠が自ら東夷と謂ひたるを誹れども、之を誹るものも亦事実の上に東夷たるを甘んずるもの也。今の思想界の人は、唯支那に対して東夷といふを恥づるのみ。泰西の思想に対して東夷たるを恥ぢざるのみならず、寧ろ此を以て誇とするのは、滔々皆是に非ずや。」
嶺雲がこの文を草したのは明治43年(1910年)のことである。
私の「日本属国論」は日本が「西の中華」(嶺雲のいう「印度」と「支那」)と「東の中華」(「泰西」)の間をゆれうごき、いずれを「模擬」すべきか逡巡している状を日本人の「生産的葛藤」として嘉する議論なのであるから、やや嶺雲とは趣向を異にする。
だが、それでも1980-90年代のニューアカとか脱構築とかいう言葉が喧しかった時世に、私が「泰西の思想に対して東夷たるを恥ぢざるのみならず、寧ろ此を以て誇とするのは、滔々皆是に非ずや」という一文を読んで溜飲を下げたことは想像に難くないのである。

2007.08.19

K錬会のK野くん

K錬会のK野くんが遊びに来る。
別に本名を公開してもよいのであるが、すでにK錬会でも、同門の諸君からK野くんは「ケーレンカイのケーノクン」と呼ばれているそうであるので、この呼称を引き継ぐのである。
K野くんとは彼が大学二年のお正月に多田先生のお宅のダイニングでお目にかかった。
工藤くんたちと並んで愉快そうにお酒をのんでいたので、古手のOBだろうと思っていたら、2年生であった。
今年のお年賀のときも多田先生のお宅でおめにかかった。
わいわいとお酒をのんでいい機嫌になっておしゃべりしていたら、彼の携帯が鳴った。
「もうみんな集まっているんだけれど、店どこに行けばいいの?だいたい、K野どこなの?」という問い合わせの電話であった。
彼はその日の同窓会の幹事であり、駅頭に人を集めておいて、そのことを忘れていたのである。
そういう愉しいK野くんである。
いまはロースクールの研修で、「たつの市」に来ていて、土曜に休みがとれたので、甲南合気会のお稽古に参加してくれたのである。
暑い中、30人近い諸君が稽古に集まる(暑いのに、ほんとによく来るなあ)。
熱中症で倒れられてはこまるので、ふだんより抑え気味の稽古にして、休みをおおめにとる。
みんなそれでも構わずがんがん飛ばしている。
元気な諸君である。
稽古のあと、みんなで氷を食べに行く。
「宇治クリーム」を食べる。
身体がしんしんと冷えてくる。氷というのはフィジカルに身体を冷やす食べ物なのであるということがよくわかる。
K野くんを囲んでプチ宴会をやりますから、このあとお時間のある人はうちに来てください、と稽古のときにアナウンスをした。
急なことだったので、集まってくれるのは4,5人くらいかなと思っていたら、炎天下にもかかわらず続々と人々がお酒や食材を手にやって来る。
さすがK野くん、人望があつい。
たちまち「勝手知ったる人の家」のリビングにご飯が並べられ、酒が注がれる。
K野くんを囲んで合気道の話をじっくりしようと思っていたのであるが、結局いつものぶんかちゃか宴会になってしまう。
K野くんは水を得た魚のようにたいへん楽しそうであった。
また遊びに来てくださいね。

2007.08.21

亀寿司で中トロ食べて、海星で本の話をする

亀寿司中店が8月一杯で閉店することになったので、「中店で中トロを食べる会」(画伯とえぴす屋さんの共同企画)メンバーが一夕中店二階に集まって、まっちゃんの握る寿司を堪能することになった。
えぴす屋さんに仕切りを任せると、とにかく人の集まりがよい。
今回は16名。
亀寿司二階を占拠し、「半ケツ」「半身半立」など身体技法を駆使して、約2メートル半ほどのカウンターに16名が犇めく(この字、実感があっていいなあ。「ひしめく」と読むのです)。
加えて、二階のクーラーが故障していて、暑い空気を扇風機がかき回すだけなので、文字通り「汗牛充棟」の惨状を呈する。
私は中トロ、穴子、イカ、鯛、赤貝、鉄火巻、穴子巻などを食し、ビールを飲み、熱燗をのむ。
この暑いのに熱燗なので、ますます汗がだらだら出てくる。
最後なので、まっちゃんの中トロの握り方がだんだん過激になってきて、最後の方はしゃり1に対して中トロ5という比率になっていた。
画伯はもう一度29日にも中トロを食す予定のようであるが、私はその日東京で仕事なので、これが食べ納めなのである。
「昭和の寿司屋」の面影を湛えた亀寿司中店と中トロ握りforever!

一夜明けて、朝から神戸海星女子へ。
兵庫県学校図書館研究大会の講演を仰せつかったのである。
酷暑の中、くらくらと王子公園まででかける。
オーディエンスは学校図書館の司書のみなさん。
お題は「ことばの力」。
本好きの聴衆を前にして、言語の力について語るのであるから、これは私としては珍しく「専門領域」の演題と申し上げてよろしい。
安倍晋三のコミュニケーション能力評価から始まって、メタ・コミュニケーションについて、音韻について、拍(モーラ)について、倍音について、「浸透性のあることば」について、村上春樹と太宰治の天才性について、大瀧詠一の歌唱法について・・・あれこれと1時間しゃべって、きりのよいところでおしまい。
海星の森田校長と、先日の舞子ビラでの中堅教員研修会でご挨拶をした甲陽学院の石川校長(本日は司会の労をとってくださった)とおしゃべりをしてから、また熱気の中を帰る。
でも、午前11時にその日のメインの仕事が終わるというのは、うれしいものである。
これでこの夏の講演は土曜日の大阪府教組でおしまい。
ゲラも『私の身体は頭がいい』(文春文庫)、『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川文庫)、『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『村上春樹にご用心』(アルテス・パブリッシング)と四つ仕上げた。
残りは二つ。
レヴィナスの『困難な自由』(国文社)と『大人の言い分』(仮題・・・このタイトル、つまんないよ、ヤマちゃん)(文春)が残っている。
これを今月中に仕上げる予定である。
ということはつまり私は7月8月に6冊のゲラを校正するということである。
ということはつまりこのあと本が6冊出るということである。
いくら既発の文庫化やありものコンピや翻訳とはいいつつ、人間技とは思えぬハイペースである。
そんなにいっぺんに本を出したら、いくら寛大な読者にも忍耐の限度というものがあろう。
そんなには買えんぞ、と。
そうおっしゃるであろう。
当然である。
私がウチダ本の愛読者でもまさか6冊全部は買わない。
せいぜい2冊である。
レヴィナス『困難な自由』の復刻は、これはどなたにも必ず買ってもらわねばならぬものであるから、これで1冊。
残り5冊から一つを選ぶとなると・・・
まあ、平尾くんのデビュー作となる朝日新書のラグビー・合気道本と、アルテス・パブリッシングの創立第一作である村上本のいずれかをオススメするということになるであろう。
文春と角川にはこの際泣いてもらうしかない。
気の毒だけど。
そんなにたくさん本出したら、みんな飽きて、いずれ誰も買わなくなるよ、とあれほど言っているのにどうして出版社の諸君はひとのいうことを聞かぬのであろう。
本は二年に一冊くらい出すのがちょうどいいペースである。
私はこのままゆくと2007年は単著共著あわせて年間16冊ということになる。
ちょうどいいペースで書いてる人の32年分である。
肩がばりばりに凝るのも当然である。

2007.08.22

レヴィナス先生、こんにちは

ゲラの山が二つに減ったので、レヴィナスの『困難な自由』の校正にとりかかる。
今年のはじめくらいに受けとったまま、次々やってくる急ぎのゲラに押しやられて、これまで日陰の身に甘んじていたのである。
すまない。
私の本のゲラなんか、ほんとはどうだってよいのである。
レヴィナス老師の翻訳を一日でも早く出すことの方が出版史的には比較を絶して重要性が高い仕事なのであるが、なかなか世の中はそのような常識が通らないのである。
今回の『困難な自由』は1963年の初版を底本としている。
これはもう入手が不可能であろうと思われていたのであるが、奇跡的に発掘されたのである。
そしてここには再版では削除されていた論文が七つ収録されている。
これは今回はじめて訳出される。
再版に際して削除した理由はよくわからない。
論文のいくつかはソ連型社会主義とそれに拍手を送っていたフランスの左翼知識人に対する批判である。
1950年代のフランスの左翼知識人と共産党の圧倒的「威信」について、政治史的知識しか持っていない読者には、この批判が当時どれほど「大胆」なものであったか想像することはむずかしいであろう。
現代日本に暮らしている私たちはこれに類する政治的=思想的な「圧倒的威信」というものをもう知らない。
その政治的=政治的実践が「理性」の現実化そのものであると自称することを誰も止められないような巨大な運動を私たちはもう知らない(「日米軍事同盟は日本の生命線だ」というようなことを心のそこから信じている人の頭にはそれに類するものが存在するかもしれないが、彼らだとて、アメリカの覇権が世界の終わりまで続くと信じてはいないであろう。けれども、1950年代に社会主義が「歴史の終わり」だと信じている知識人は世界中に存在し、教壇やメディアの一隅を支配していたのである)。
だから、ここでレヴィナスが何に抵抗しているのかを現代日本の読者は想像的に追体験することはむずかしい。
ボーヴォワールという人は『第二の性』というフェミニズムの古典ばかりが有名だが(それさえもう読まれないが)、彼女の『娘時代』や『女ざかり』といった回想録は1940-50年代のフランス知識人の「混迷」ぶりを知る上ではまことに貴重な証言である。
それを読むと、リアルタイムでの「ソ連」の威信とそれに対する知識人たちの恐怖(しばしば原爆と強制収容所に対する恐怖が彼らを共産主義者にしたのである)がどれほどのものであったかが偲ばれる。
その時代に、レヴィナスはコミュニズムに対して(レイモン・アロンやアルベール・カミュとは違った仕方で)、それが「正義」と「理性」のシステムを完成させようとしているという当の理由で「否」をつきつけた。
システムが正義や理性を体現することがあってはならないし、そのようなシステムを構築しようと望んでもならない。
というのは、もしそれが可能であったとしたら、正義と理性のシステムが完成したあと、もう個人にはする仕事がなくなってしまうからである。
個人がどれほど隣人に無関心であっても、システムが貧者や弱者をきめこまかくケアしてくれるような体制があったとして、それを「道徳的な社会」と言うことができるであろうか。
中にいる人間がどれほど不道徳であっても、道徳的に機能するシステムを人間は作り出すことができるのであろうか。
このレヴィナスの問いかけの深みは当時のフランスの読者たちにでさえほとんどその緊急性が理解できなかった。
だから、現代の日本人読者に十分な理解を求めるのは至難のことであろう。
けれども、これは今ここでただちに読まれねばならないテクストの一つであると私は思う。
ひさしぶりに(何年ぶりであろう)レヴィナスのテクストを仏和辞書を片手に翻訳をする。
あいかわらず関係代名詞と無冠詞名詞と同格形容詞と条件法のからみあいが無限に続く悪夢のような文章である。
でも、この悪夢の果てに、戦慄するような叡智のことばが浮かび上がるのである。

2007.08.24

用事がないから原稿でも書こう

金曜のGoogleカレンダーは空白。
どこに行かなくてもよいし、誰も来ないということである。
何もすることがないので、とりあえず9月の下旬締め切りの原稿を書いてしまうことにする。
神奈川大学から頼まれた「格差社会論」。
8000字か・・・ずいぶん多いな。
格差社会論を論ずる学者たちは彼ら自身が「より政治的に正しい格差社会論」を語ることで、「不出来な格差社会論」を語る学者を「知的位階の下位に格付け」して、格差を再生産していることに果たして自覚的なのであろうか・・・という書き出しを思いつく。
意地の悪い書き出しを思いつくとなぜか筆が走る。
すらすらすいすいと書いているうちに気がついたら、8000字を超していた。
こういう「書きスケ」体質ゆえに私は締め切り地獄から逃れられないのである。
わかっているけれど、鼻歌まじりで書いたものを苦吟して書いたと嘘をつくわけにもゆかぬ。
半月ほど塩漬けにしておくことにする。
文春のコンピ本の校正締め切りを11月まで延ばしてもらう。
これでしばらくはレヴィナスの翻訳にかかりきりになることができた。
7本論文があるので、一日一本のペースで訳してゆく。
一本がだいたい2頁から5頁くらいの量なので、ちょうどよい分量である。
翻訳は一気にやらないと文体のリズムというか思考の波に乗れない。
山下達郎くんのOn the street corner の一人多重録音アカペラと一緒である(あれは一日に一曲録音するそうである。二日にわたってやると、前日の歌と拍が合わなくなるらしい)。
翻訳も同じ。
日を跨ぐと、拍が合わなくなる。
それでも「うまく乗れた日」と「乗り損なった日」がある。
うまく乗れるているときはフランス語を見ると訳語がすぐに浮かんでくる。乗れないときはフランス語の意味はなんとなくわかるのだが、それが日本語にならない。
柴田元幸さんは、英語のテクストの上にもう訳し終えた日本語が見えるので、ただそれをそのまま「筆写」しているだけだそうである。
柴田さんくらい英語ができるとそういう感じになるのであろう。
レヴィナス老師は悪魔のような文体で書くということはこれまでに何度も書いているが、それは老師が「わざと」わかりにくく書いているからである。
ほんとうにそうなのだ。
それは老師が「わかりやすく」書いている文章を読むとわかる。
今日訳したのは「教育の10年」という、戦後フランスにおけるヘブライ語教育を論じたものであるが、おそらく掲載された媒体が「ふつうの学校教育関係者」が読むものであったのであろう。
レヴィナス老師がなんと「ふつうの文章」(!)を書いているのである。
老師は「こういう文章」も書けるのであった。
たしかにそうでなければ、実務家として生きてゆけたはずがない(レヴィナス老師は久しく東方イスラエル師範学校の校長先生だったのである)。
校長先生の訓話が毎回あのような文体のものであったら、生徒たちの多くはおのれの知力に絶望して不登校になっていたであろうし、校長先生の年次報告書があのような文体のものであったら、フランスの文部省の担当官も師範学校への補助金交付の適切性について判断に窮したであろう。
つまり、あの「悪夢のような文体」はレヴィナス老師から私たち読者への「贈りもの」なのである。
あの文体のうねりのうちに師の愛を感じ取ることが「レヴィナスの弟子」のおそらくは条件なのである。

2007.08.25

ジニ係数って何?

「所得格差が拡大」と朝刊の見出しにあった。
05年の所得再分配調査の結果が厚労省から発表された。
それによると、ジニ係数は前回調査(02年)より上昇し、過去最高となった。
ジニ係数というのは所得の均等度を示す数値で、どうやって算定するのか数式は知らないけれど、1が最高で0が最低。
1というのは1人の国民が国民所得をぜんぶ独占している状態を表し、0は全国民の所得がまったく同一の状態を表す。
それで日本の場合、世帯単位の当初所得のジニ係数は0.5263。再分配所得(税や社会保障であれこれ手当をしたあと)のジニ係数は0.3873。
これだけでは何のことかよくわからない。
日本の趨勢だけ見てみる。
1967年が当初所得が0.37,再分配が0.33,それから漸減(つまり均等化が進んで)。81年が底で、0.35、0.31。それから上昇カーブになって、統計のいちばん新しい数値である99年で0.47,0.38。
8年前と比較すると、当初所得のジニ係数は0.05ポイント上がっている。
数値は所得の不平等(つまり富者と貧者の二極化)が進行しつつあることを示している。
その原因としては年金受給世帯の増加、単身者世帯の増加が上げられている。(公的年金は「所得」にカウントされないので、年金生活者は所得ゼロとみなされる。)社会保障制度の不備も指摘されている。
なるほど、そうですか。
アメリカのジニ係数はどうなっているのか調べてみたが、数値がいろいろあって、どれを見てよいのかわからない。いずれも0.5を越える数値ではない。0.5を越えているのはザンビアとかボツワナとかブラジルとかメキシコとか、アフリカ、中南米の国だけである。日本もそんな国と同じように貧富の差が激しいのだろうか・・・と思うと、そのデータ
http://devdata.worldbank.org/wdi2005/Section2.htm
では日本のジニ係数は0.249(1993年)と表示されている。
どうもよくわからない。
よくわからない数字に基づいて議論するのは危険だし、意味のないことなので、この話はこれで止めておく。
というか誰が教えてください。
(1) 国際比較をすると、日本の所得格差は大きいのか小さいのかどちらなのか(ネットで検索していると、「日本でも格差がアメリカ並みに拡がっている」と書いている人と「日本は世界でも例外的に格差の少ない社会である」と書いている人と両方いる。どっちがほんと?)
(2) 当初所得格差が拡大していることはわかったけれど、再分配によってその格差の補正はある効果的に程度なされているのか、なされていないのか(ネットで検索していると、「日本はちゃんとやっている方だ」という解釈と「ぜんぜんダメだ」という解釈と両方ある。どっちがほんと?)
ご教示をお待ちしております。
「どっちがほんと?」と訊いておきながら、その舌の根も乾かぬうちに失礼なことだが、私はじつはそれは「どっちもほんと」だと思っている。
本人が「ほんと」だと思っていることは、その人にとっては「ほんと」である。
私自身は「格差」というのは(ひろく「貧富」といってもいい)幻想的なものだと考えている。
かつて「一億総中流」という認識がひろく流布しているときには(実際には天地ほどの所得差があったが)日本人は一億総中流気分であった。
それと同じように「格差が広がっている」という認識がひろく受け容れられているときには、(実際に所得差がそれほどなくても)格差「感」は強く意識される。
所得200万円の人から見ると、所得が1億円の人も所得が10億円の人も「(雲の上の)同じ世界の人」である。
だが、同じその人は所得500万円の人を自分とは「(同じ地上の)別世界の人」だと思っている。
一方では9億円の所得差が「ゼロ」査定され、一方では「300万円」の所得差が「越えがたい階層差」として意識される。
格差というのは数値的なものではなく、幻想的なものであるというのはそのことである。
人は自分の等身大を原器としてしか、所得差の意味を測ることができないのだが、人が「自分の等身大」と思っているものは、ほとんどの場合、イデオロギー的構築物なのである。

2007.08.30

一瞬の夏休み

ただいま東京へ向かう新幹線車中。
ひさしぶりにパソコンのディスプレイに向かう。
土曜日は南港で大阪府教組での講演。帰ってから三宮に本を買いに行く。夜はまとめ買いした『スパイ大作戦』シリーズを見る。
監督はブライアン・デ・パルマ、ジョン・ウー、J・J・エイブラムス。
監督の選択を見る限り、プロデューサーとしてのトム・クルーズの手腕はなかなかのものである。
このシリーズの魅力はラロ・シフリンのテーマ音楽によって25%くらい底上げされている。
あのテーマを聴くと、私たちの世代はもう「わくわく」感を抑制することができぬのである。
日曜は下川正謡会の歌仙会。
来年の大会のための準備の最初の会である。
私は来年『菊慈童』の舞囃子なので、その仕舞。それと素謡『弱法師』のワキ。
仕舞は短いし、ワキの謡はむずかしい節回しのものではないので、わりと気楽である。
それ以外に地謡がたくさんついている。『蝉丸』、『遊行柳』、『俊寛』などなど。
10時にはじまって、5時ころに終わる。
ビールで乾杯してから、ぱたぱたと家に戻る。
画伯、青山さん、平尾さん、かんちきくんがもう来ている。
御影に引っ越して最初の甲南麻雀連盟の例会である。
今回は浜松支部が来襲。第三次(もう第四次だったかな)の「浜寇」である。
最初の年は本部がぼろ負けして、スーさんが「また太ったころにむしりに来るぜ」と高笑いして帰ってゆく後姿を、本部会員一同悔し涙に泣き伏して見送ったのである。
緒戦を落としたものの、回を重ねるにつけて敵の手の内もわかってきて、それ以後は順調にリベンジを果たして、今回の交流戦も本部の圧勝であった。
私も着実に点棒をゲットして、ようやく例会の通算勝率を3割に乗せる。
やれやれ。
通算戦績は画伯と弱雀小僧の一騎打ち状態である。
弱雀ジローが年間王座を狙うというようなことはあってよいはずもないので、秋風の吹くころにはまたなつかしい「あ~れ~」という泣き声が聞こえるようになるであろう。
翌日は浜松支部の諸君(スーさん、小野ちゃん、オーツボくん、ヨッシー、シンムラくん)と画伯と城崎温泉“温泉麻雀”ツアーに出発。
画伯は大病をされて以来、美食を控え、美酒を禁ぜられ、運動のできぬ身となり、「唯一の楽しみは麻雀」という身の上であるので、こころみにお誘いすると快諾せられたのである。
私のBMWに画伯とスーさんを乗せて、中国道、播但道をびゅんと走って、わいわいおしゃべりしながら出石へ。
出石ではコヤタ先生ご姉妹のご案内で「甚兵衛」という名代の蕎麦屋を訪れる。
皿蕎麦17枚を食す。
美味である。
烏賊の一夜干しもさよりの干物も美味である。
ビールがのみたくなるが、まだ運転があるので、がまんする。
スーさんたちはドライバー一人を残して、はやくも宴会状態。
「甚兵衛」は大塚久雄先生の旧宅跡だそうである。
蕎麦で満腹した状態で、げっぷまじりに「そうか、マックス・ウェーバーか・・・」などとつぶやいてみるが、そのあとが続かない。
姉妹にお礼を申し上げてから城崎へ。
まずは外湯の御所の湯へ。
ここには前に三木屋に茂木健一郎さんと泊まったときに入ったお風呂である。
青空を見ながらのがらがらの露天風呂。
よい気分である。
でも、城崎の温泉は少し熱いので、あまりのんびりと入っていられない。
風呂上りにハーゲンダッツのクッキー&クリームを食べて、マッサージ機で腰をもんでもらって、からんころんと下駄を鳴らして通りを戻り、宇治アイスを食べ、部屋に戻って対戦スタート。
緒戦、いきなり画伯にドライブがかかって大勝(私はぼろ負け)。
どうも城崎と麻雀は相性が悪い。
夕食をはさんで、三戦してようやく一勝。トータルではマイナスだが、なんとか勝率3割はキープ。
内湯に入って、みなさんの打牌の音を聞きつつ爆睡。
夜半に雷鳴、雨。
朝起きてまたお風呂。
朝ごはんをしこたま食べて、コーヒーを飲んで、だらだらおしゃべりをする。
このチェックアウト前30分くらいの、だらけた状態でのおしゃべりというのが、なんだかいちばん楽しい。
とくにまとまった話をするという場面でもないので、みんな断片的なことをぽつぽつと話す。
「それは違うよ」と反論をしたり、「論拠を示せ」とか野暮なことを言う人間もいないので、話がぼんやりふわふわと空中を漂っている。
宴会のあと、帰りの電車を待つ駅のホームで、酔客同士が話しているような感じである。
「ああ、今日は愉快やった。札幌、いきとないなあ・・・。手紙くださいね。ほんまですよ・・・・・ああ、今日は愉快やった」
と宝田明が司葉子に話しかけるのはなんだったからしら。『小早川家の秋』だったかしら、『秋日和』かしら。
ああいう感じである。
こういうせりふをきっちりと脚本に書ける作家はもういなくなった。
吉田喜重が晩年の小津安二郎をと東京駅でみかけたことがあった。
ほろ酔いの小津は横須賀線を待ちながら「男純情の、愛の星の色」という灰田勝彦の歌のあたまのフレーズだけを延々と繰り返しつづけていて、さっぱり歌が先に進まないのであったと吉田は回想していた。
よい話である。
温泉旅館のチェックアウト待ちの30分というのは、このエンドレスの「男純情の・・・」みたいな感じがする。
城崎温泉のはずれで浜松の諸君と別れて、画伯と御影に戻る。
帰るとすぐに仕事の電話が3本かかってくる。
短い夏休みであった。

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