大丈夫、まだ生きてます

2007-08-04 samedi

言うまいと思えど、今日の忙しさ。
夏休みにはいったはずであるが、寸刻の暇もなく仕事をし続けている。
31日、終日原稿書き。
真夜中に日経から電話があり、『旅の途中』に寄稿したエッセイの原稿が「断定的すぎる」ので書き換えを要求される。
「日本属国論」という、このところ私が繰り返し論及している主題についてのものである。
「・・・である」と私が書いた箇所を「・・・という考え方もある」に書き換えてはどうかという。
面倒だが、とりあえずさらさらと改稿して送稿する。
しばらくして、それもダメで、こういうのはどうかという切り貼りした「案」を送ってくる。
これは私の文章ではない。
私の書いた文章ではないものを私の名前で新聞に掲載するのは、読者に対するある種の「詐欺」である。
これは受け容れられないので、原稿は没として、連載もこれで打ち切っていただきたいとお願いする。
この種の問題に遭遇することはもう何度目かであるが、そのつど同じことを申し上げている。
これは署名原稿であるから、私は自己責任で自分の書きたいことを書く。
私はこれまでにすでに相当量のテクストを公開してきているから、私がどのような主張をどのような文体で書く人間であるかは周知されているはずである。
日経もその上で寄稿を依頼されたはずである。
そのテクストが日経的基準からして許容できないから、「書き換えろ」というのは、「あなたに寄稿を依頼した私たちの人選は適切であったが、あなたはその期待に背いた」
ということである。
要するに、「私たちは正しく、おまえは間違っている」ということである。
そう言われてにこやかに「おっしゃる通りです」というためには相当の人間修業が必要だろう。
私はまだそこまで人間ができていない。
一時間ほどもめたあげくに、結局私が改稿したものをいじらずに掲載するということになる。
一度こういう「あや」がつくと、もうテンションが維持できないので、日経の連載はこれにて打ち切りということにする。
大学へ行って集中講義最終日の甲野先生、山本画伯にご挨拶。いっしょにお昼ご飯。
甲野先生の集中講義を覗いたあとに、前期の成績提出。
15時からAERAの取材。
「現代の肖像」というシリーズ記事に出ることになった。
後藤正治さんというノンフィクションライターがインタビュアーでこれから2ヶ月ほど、私の周辺取材を行うらしい。
私について取材されるみなさん、どうもご迷惑をおかけします。
7時過ぎに甲野先生の講義が終わり、陽紀さん、画伯、ウッキー、なぜかついてきたミゾグチさんと芦屋で打ち上げ。
みなさん、どうもご苦労さまでした。
2日、堂島のクラブ関西の午餐会で講演。
お題は「日本属国論 辺境人として生きるために」。
このネタで講演するのは、IAMAS,大拙忌と3回目である。
IAMASでは「めちゃモテニッポン論」、大谷大学では「日本的霊性と辺境性」。今回はおもに日米中関係に焦点を合わせて、親鸞の「コペルニクス的転回」について論じ、ついでどうして安倍首相は参院選で大敗したのかを辺境論の立場から解明する。
オーディエンスは平均年齢70歳くらいの財界人たち30名。
話し出したらすぐに3人くらいが鼾をかいて眠り始める。
1時間15分しゃべり終わる頃には彼らも起きていたから、私はよほど大きな声でどなり散らしていたのであろう。
家に戻り、仕事。
3日、大雨の中、御影の転居先で契約。
鍵をもらったので、これからしばらくは芦屋と御影の二箇所に家があることになる。
電気、水道、ガスのライフラインを繋ぐ。
電気屋さんに来てもらって、照明とエアコンの取り付けをお願いする。
引越は12日である。
家にもどって朝日新書の最後の追い込み。
夜8時にようやく脱稿して、石川さんと平尾さんに送稿。
やれやれ。
しかし、本日締め切りのゲラがもう一つあった。
角川書店の「疲れすぎて・・・」の文庫版ゲラはまだ封を切ってさえいなかったのである。
締め切りを6日まで延ばしてもらうが、4日も5日も予定がぎっしり詰まっているので、ゲラを見ている時間はない。
どうしたらよいのであろう。
こんなところでブログ日記なんか書いてる暇はないのである。
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