鼓腹撃壌のしあわせ

2007-07-31 mardi

安倍首相は続投のようである。
「厳しいご批判を頂いたので、このまま職責を全うすることで負託された使命を果たしたい」という、企業不祥事を起こした会社の経営者が「最初の記者会見」で必ず口にする台詞を首相も繰り返した。
不思議なロジックである。
「不思議」というのは「不合理」ということとは違う。
仕事に失敗したときに、その場から逃げ出さす、踏みとどまって批判の十字砲火の下で引き続き仕事をするという選択は「あり」である。
「あり」どころか、場合によっては、それなりに自負心のある人間にしか下せない勇気ある決断と申し上げてよい。
しかし、これが「勇気ある決断」として称揚されるためにはひとつだけ条件がある。
それは「この決断を下した人はこれまで高い確率で正しい決断を下し続けてきたので、この『勇気ある決断』もまた正しい決断である蓋然性が高い」という外部評価が存在することである。
失敗を咎められた人間が「引き続き職責を全うするという私の決断の正しさを信じて欲しい」と切り返すことができるためには、「直近の失敗を除いては、彼はこれまでほとんどの決断において正しい判断を下し続けてきた」ということについての集団的合意が成り立っていなければならない。
問題はロジックそのものの構造的整合性にではなく、計量的なレベルにある。
安倍首相がこれまで重要な政治的選択においてほとんどすべて正しく、今回に限ってしくじったということであれば、「引き続き職責を全うして・・・」というロジックは成立する。
これまで下した重要な政治的選択の多くですでに誤りを犯している場合には、今回の進退にかかわる選択でも誤りを犯している可能性が高い。
そういうふうに推論するのが合理的である。
私は「安倍首相がこれまで重要な政治的選択においてほとんどすべて正しく、今回に限ってしくじった」という判断には与さない。
国民の大多数とともに、彼が就任以来10ヶ月の間に下してきた政治的決断のうちに適切でないものがあまりに多かった事実がこの歴史的大敗を結果したという判断に与するのである。
したがって、今回の「続投宣言」という政治決定もまた不適切なものである可能性が高いと推論する。
桝添要一は選挙戦の最初のころは「獲得議席が40を切るようなら首相は退陣するのが当然である」と語っていたが、選挙が終わったら、「今は後継者争いのようなことができる党内事情にはない」という理由で安倍続投を支持すると意見を変えた。
政治的意見なんかいくら変えてもらっても結構であるが、一国の総理大臣の政権維持を支持する唯一の理由が「党内事情」であるということをマスメディアで公言したことの意味は重いと思う。
この総理大臣を選択することが「日本の国益の増大に資する」という論ならわかるけれど、「自党の党益の増大に資する」という論は寡聞にして、これまで聞いたことがない。
もちろん本音はいつでも「党益」「閥益」「自己利益」なのであろうが、それでもそれをなんとか「公益」として偽善的にいいくるめなければ世間に通らないというところで、政治的正義はかろうじて担保されてきたという切ない事情だってあるのである。
どうやら日本の政治家たちは合理的に思考し、推論するという知的習慣から急速に無縁になりつつあるようである。
しかし、私はそれを別に悲しんではいない。
統治者がどれほど愚鈍であっても、それでもなお国境線が守られ、法治が行われ、通貨が安定しているなら、それこそが「すばらしい国」だと言うことができる、というのが私の持論である。
例外的にすぐれた統治者でなければ治められない国の国民であるより、どれほど愚鈍な統治者であっても人々が鼓腹撃壌をことほぐことのできる国の民であることの方が100倍も幸福なことである。
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