『新潮』9月号に養老孟司先生が河合隼雄さんの追悼文を寄せている。
養老先生は旧友の死を悼んで、「なぜ、文化庁長官なんか、長いことやらせたのか」と書いている。
「河合さんは名伯楽で、それを上手に使うメタ伯楽はたぶんいない。日本の世間はそういう世間である。河合さんのワガママを誰が聞いてあげただろうか。ふとそう思ったりした。もったいないなあ。この世間は本当にもったいない人の使い方をする。
河合さんの訃報を聞いて、私はもっとワガママをしようと思った。」
いかにも養老先生らしいおことばである。
河合隼雄さんを文化庁長官に任命したのは、文化行政についての政府の取り組みの積極性を示したひとつの「見識」と言ってよいだろう。
けれども、河合さんは着任してすぐの仕事は高松塚古墳にカビが生えたという文化庁の不始末をわびるために、あちこちに頭を下げて回ったことだそうである。
そういうことのために河合さんを任命したわけではないだろう。
「政府の文化行政への取り組みの真剣さ」を内外に示す記号として河合隼雄さんを「消費」してしまったのだとしたら、いったいこの人事は何のためのものだったのか。
「この世間はほんとうにもったいない人の使い方をする」というのはほんとうに養老先生のおっしゃる通りである。
でも、それはある意味当たり前のことだとも言える。
ビジネスの鉄則に「急いでいる仕事は、いちばん忙しそうにしているやつにやらせろ」というものがある。
「そういう使い方」をするべきではない人に限って「そういう仕事」をいちばん迅速かつ適切にこなすということが経験的に知られているからである。
おそらく河合長官の「お詫び行脚」は、それ以外の人が長官であった場合よりも迅速かつ適切になされたのではないかと私は推察する。
そういう(どうでもいい)仕事に「命をすり減らす」ことをあえて辞さない人にだけ選択的に「命をすり減らす」ような仕事が回ってくるのである。
不条理だけれど、そういうものである。
鷲田清一さんが阪大の学長を引き受けたのも、きっとそういうことだろうと思う。
そういえば、河合さんも鷲田さんも「臨床」の人である。
自分の理説がほんとうに通用するかどうかを、いちばんそれが「通用しそうもない現場」に出向いていって検証してみたくなる、というのが臨床家の「業」である。
だから、もしかするとご本人たちは自分たちが「もったいない使われ方」をしている、というふうには考えていなかったのかも知れない(河合さんは無理だけれど、鷲田さんには機会があったら、直接訊いてみよう)。
それにしても、「私はもっとワガママをしようと思った」には感動した。
養老先生はあれでもまだ「ワガママ」が足りない状態なのである。
そうだったのか。
まだ先生ご自身がワガママ道修業の途上におられるのである。
私ごときが自分の「ワガママ」を自制するのは100年早いということである。
私もはやく「ウチダのようにワガママな人間は見たことがない」と世上評されるようにならねばと決意を新たにする。
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(2007-08-17 08:59)