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2009年02月 アーカイブ

2009.02.01

忙しい一週間でした

今日の県民武道大会で「とっても忙しい一週間」が終わる(予定)。
26日が神戸国語教育研究会で講演。27日が神戸大学付属住吉中学で講演。それから大学で会議、ゼミ、下川先生のお稽古。28日が11時からインターンシップの打ち合わせ、取材が2件、写真撮影が1件。そのあと釈先生、フジモトさんと講談社の加藤さん、山中さんとペルシエで会食。『現代霊性論』がめぐりめぐって講談社に「養子」に出されることになったのである。
この日、加藤さんは奈良地裁での公判で被告側証人として出廷した帰り。草薙さんの本を出版したのは講談社の判断ミスという会社をきびしく批判する証言をしたのである。
お疲れさまでしたということでシャンペンで乾杯してから、あの本の出版をめぐるコンフィデンシャルな話をいろいろ伺う。
えええ、そうなんですか~的オドロキ満載であるが、もちろんこのようなところで公開するわけにはゆかぬのである。
出版社もいろいろご苦労の多いお仕事である。
おいしいフレンチを食べながら、宗教学者の釈先生と「絶対本にならない『肉の話』」をする。
なぜ「食肉」について人間はさまざまな宗教的禁忌を持っているのか。禁忌を犯したことへの「自罰」を人間社会はどのように制度化しているか、という話。
前に養老先生とも『考える人』のときに同じ話題で2時間ほど話したことがあったけれど、これはさっくり削除されていた。
たいへんに興味深いのだが、諸般の事情により決して活字にすることのできないトピックというものが存在する。
「肉の話」はその一つである。
それがこれまで活字化されてこなかったというのは、たぶん活字化されるべきではないということを直感的に私たちが感知しているからである。
禁忌というのはその必要性が説明できないときにこそ効果的に機能する。そして、この禁忌はたしかに人類が生き延びるためには必要なのである。
ペルシエから家に戻って毎日新聞を拡げたら、今駅前で別れたばかりの加藤さんの写真が社会面に大きく出ていた。
「おお」と思って次の頁をめくったら、今度は自分の顔写真と遭遇してしまった。
28,29,30日は地方入試。前日現地入りなので、28日の昼過ぎに天王寺へ。
天王寺なら御影からも電車で通えるのであるが、試験問題の管理ということがあって、前夜には監督者が施錠したトランクを抱いて寝なければいけないのである。
試験はA日程B日程と二日別の試験があるので、天王寺に二泊する。
カレー臭と場末感の漂うナイスなホテルで三日近く過ごすうちに、天王寺のディープ感に次第に身体がなじんでくる。
試験はなにごともなく無事終了。みなさん、お疲れさまでした。
明けて31日はかねてより予定の関川夏央さんを囲んでのシンポジウム、「大学で文学を教えるということ」。
関川さんも神戸女学院の空気にだいぶなじんでこられたようで、たいへんグルーヴ感のある貴重報告をしてくれる(ふだんの関川さんはもうすこし脇が固いのだけれど、うちのオーディエンスは「ほわん」としているので、しゃべる方も圭角が取れて、ついドライブしてしまうのである)。
それから難波江先生、飯田先生といっしょに居酒屋カウンター的文学論をわいわいと1時間。
いま、日本中の大学から「文学部」という名称がなくなりつつある。「文学研究をしたい」と言って入学してくる学生もほとんどいない。
文学に対する評価はたぶん明治以来今が最低だろう。
それは「文学を創作すること」「文学を批評すること」「文学を研究すること」が職業として成立してしまったことの「ありがたさ」を、当事者たちがすっかり忘れてしまったことにたぶん関係がある。
私たちは「暇人の暇ごと」をしている。
まさに、そのような世上無益のことに大の大人がかかずらわっているという事実についての「疚しさ」ゆえに、文学にかかわる人間は「大の大人がこんなことにかかずらわっていることのやむにやまれなさ」についてのアカウンタビリティを負う。
文学は「正業」ではない。
そして、それゆえに「正業とは何か?」ということを絶えず自問することを構造的に強いられている。
「自分がここでこんなことをしていることに意味はあるのか?」という切実な問いを抱え込んでいるということそれ自体が文学の手柄であると私は思っている。
文学も文芸批評も文学研究も文学部も、軒並みダメになったのは、文学にかかわる人間たちが自分たちの仕事を「正業」だと思い始めたからである。
文学部がダメになったのは、看板を「現代文化学部」とか「国際情報学部」とか「人間総合研究学部」とかつけかえると「正業らしく見えるんじゃないか」と思ったというような「浅はかさ」ゆえである。
文学はどう転んでも「正業」にはならない。
胸を張って「文学してます」と言えないという、この「疚しさ」が文学のたったひとつの「いいところ」なのである。
かつて文学が君子の必須であったのは、ヒエラルヒーの上層にいる人間には「自分はこんなところで、こんなことをしている資格がほんとうにあるのだろうか?」という切実な懐疑に囚われていることが必要だからである。
「私にはこれらの権力や財貨や文化資本を享受する『資格』がある」と思っている人間には絶対に権力や財貨や文化資本を与えてはならない。
これは万古不易の人類学的ルールである。
そんなことをしたら「交換」が停止してしまうからである。
「貸し家と唐様で書く三代目」というのは、文学が「没落の装置」だということをみごとに言い表した俚諺である。
そして、「没落のための装置」は穏やかで余情のある社会的流動性を担保するために必須のものなのである。
関川さんが基調講演で繰り返し強調したのは「文学はある種の“醜業”だ」ということである。
まともな家の子どもが就くものではない。
それでも「やりたい」という子どもは文字通り「自己責任」において文学をやるしかない。
そういう条件を課してはじめて「文学をやることの意味(というよりは社会的な無意味さ)」について熟慮する仕事が始まる。
今の日本で「文学部」の看板を掲げているということは、「私に生きる価値はあるか?」という問いをおでこに貼り付けて生きているようなものである。
こういう問いを引き受けて生きる「狂」の人が社会には一定数(一定数で十分だが)必要である。
ほとんどの大学から文学部が消えて、いくつかの文学部が残る。そこで人々は「私たちには生き残っただけの理由があるのだろうか?」という重い問いを抱えて生きている。
そういうのが「好き」という人たちだけが文学部に集まってくる。
心温まる光景である。
「美とは痙攣的なものだろう。さもなければ存在しないだろう。」
La beauté sera convulsive, ou ne sera pas
というのはアンドレ・ブルトンの『ナジャ』の最後のフレーズだが、この「美」は「文学」に置き換え可能だと私は思う(昔、このフランス語を「美とは痙攣的なものだろう。さもなければ痙攣的でないだろう」と訳してげらげら笑うというのが竹信くんと私の間のお約束であった・・・合掌)
そのあと、東京からいらした文藝春秋の担当編集者の石原さん、大村さん、弁護士の近藤さんとそのお弟子さまたち、あまから手帖と双葉社のエディターさんたちと「並木屋」にて打ち上げ。
みなさん、ご苦労さまでした!

2009.02.07

バリ島にて

バリ島に来ている。
このところ毎年二月にバリ島に5日ほど滞在するというのが慣例化している。
一度はじめたことはなかなか止めないというのは私の悪癖であるが、バリ島もそうなりつつある。
2月は雨期なので、毎日雨がじゃんじゃん降っている。
「車軸を流すような雨」という言葉があるが、ほんとうに車軸ほどの太さの雨が豪快に天から降り注ぐ。
日本なら、たちまち土砂崩れ、新幹線不通、高速道路通行止めレベルの豪雨である。
それが「ふつう」なのである。
バリ島の人々はそんな雨をにこやかに眺めて、動じる風もない。
温帯モンスーン地域固有のこの「自然に対するなげやりな態度」が私は好きである。
ヨーロッパ人は「自然は征服し、統御すべきもの」として観念しているから、こんな雨に対して、なんとなく「許せない」という印象を抱くのであろうが、私たちアジア人は雨を見ているとつい「だらりん」としてしまう。
「雨雨ふれふれ」という童謡があるが、「ふれふれ」というこの「対自然どうでもええけんね(所詮わしらただの人間じゃけん)」感はアジアならではのものである。
というわけで雨がじゃんじゃん降るバリ島のホテルの一室で、朝からぼんやり外の「車軸」を眺めつつ、次々と原稿を書き飛ばしている。
「マルクス書簡その2」(これは石川“ワルモノ”康宏先生との往復書簡。「高校生にマルクスを読んでもらおう」というたいへん教化的な企画である)。
『共産党宣言』から『資本論』まで、一冊ずつブックガイドをして、高校生に(中学生あるいは大学生でも可)「マルクス、読みたい」と思わせようというねらいである。
石川先生がマルクスの思想や文献の解題といった「学問的パート」を担当し、私がマルクスの文章のどこが「かっこいい」かを論じる「文学的パート」を担当する。
マルクスは「かっこいい」ということを指摘する人はあまりいないが、古今東西どんなテクストであれ、100年読み継がれる名作というのは、だいたい5頁おきに「決めのフレーズ」が満載されている本と相場が決まっている。
かたわらにノートを置いて「名言集」を書き出したくなる、というのが「100年リーダブルな名作」の条件である。
その場合の「名言」というのはそこで論じている当の論件にはしばしば無関係である。
推論の運びや修辞的なトリックや絶妙のメタファーに私たちは「おおお、かっこいい」と震えるのである。
世界の構造が解明されても、読者はあまり感動しないが、世界の構造を解明するとき書き手自身の高揚感(「どうしてこんなことがすらすらわかっちゃうんだろう。オレって、天才?もしかして」)がもたらす「筆の走り」のもたらす快楽は感動的である。
マルクスは掛け値なしの天才であり、その天才性は「自分がどうしてこんなにすらすらものごとを解明できるのか、自分でもよくわからない」
という「あれよあれよ」感のうちににじみ出すのである。
私の仕事はそのマルクス自身のエクリチュールの絶頂感をひたすら追い求め、読者にも追体験していただくことである。
マルクス主義の「コンテンツ」の意義や有用性についてはワルモノ先生に丸投げして、私は「快楽方面」にだけ特化、というたいへん美味しい企画なのである。
続いて「日本辺境論」の続きを書く。
ほぼ半分書き終わる。
これは夏ごろに新潮新書から出る予定。
締め切りがあるので、毎日新聞の「水脈」の原稿を書く。さらさら。
もうひとつ『ミーツ』のケータイ文化論の原稿を書く。
これはドコモとのタイアップ記事なので、ケータイの否定的側面にはいっさい言及してはならないという「コンプライアンス」付きの原稿である。
ふつう私はそのような七面倒な原稿は引き受けないのであるが、ゼミの卒業生のタダヒロコの頼みなので、引き受けたのである。
しかし、「コンプライアンス」などといわれると、生来の「あまのじゃく」がむらむらと発動して、頭の中に浮かぶのは「ケータイがいかに禍々しいツールであり、日本の青少年を害しているか」という話柄ばかりである。
もって生まれた性格とはいえ、因果なことである。
しかたがないので、できるだけケータイが出てこない話を書く。
これではタイアップ記事として機能しないのではないかと思うが…
バリ島で書くべきすべての原稿を書き上げたら、ちょうど雨が上がったので、海パンに履き換えて海岸に行くことにする。
今回もってきた本は『アンナ・カレーニナ』。
前にハワイにトーマス・マンの『魔の山』をもっていったことがあったが、これはまったくミスマッチであった。
バリ島と『アンナ・カレーニナ』はなかなか相性がよいと見た。
『アンナ・カレーニナ』に出てくる諸君も、さっぱり仕事をしないで、だらだら舞踏会や社交的な集まりや噂話に耽っているからである。
ペテルスブルクの雪景色とバリ島の「のほほん」感はナイスマッチングである。
『アンナ・カレーニナ』も世界文学だけあって「おおお」と思わず唸り出すような洞察の言葉に満ちている。
冒頭の一句はあまりに有名。
「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。」(木村浩訳、新潮文庫、1972年、5頁)
その他にも名言の宝庫である。
「オブロンスキーは微笑を浮かべた。彼にはリョービンの気持ちが手に取るようにわかっていたのである。つまり、リョービンにとっては、世界じゅうの娘たちは二つの種類に分かれているのだ。第一は彼女をのぞいた世界じゅうの娘たちで、それらの娘たちはあらゆる人間的欠点をもった、もっとも平凡な娘たちであり、第二の種類は彼女ただひとりで、それはなにひとつ欠点をもたない、いっさいの人間的なものを超越した存在であった。」(80頁)
なるほど、なかなか巧みな修辞ですが、それが何か…と疑問をもたれる方もおられるだろうが、その方は次の引用を読まねばならぬ。
「ペテルブルクにおけるヴロンスキーの世界は、すべての人びとがまったく相反する二つの種類にわかれていた。一つは下等な種類であって、これは月並みな、愚劣な、とくに、こっけいな連中が属しており、この連中は、夫たるものはいったん結婚したら、ただひとりの妻を守らねばならぬとか、乙女は純潔でなければならぬとか、女はしとやかで、男は男らしく節操を持して堅実でなければならぬとか、子女を教育し、労働によってみずからのパンをかせぎ、借金は返さねばならぬとか、そういったばかげたことを信じているのであった。つまり、旧式でこっけいな人びとに属していたのである。ところが、もうひとつ別の種類の、ほんとうの人間がおり、彼らはみはこれに属していた。この種の人びとは、なによりもまず優美で、美しく、おおらかで、大胆で、快活でなければならず、また頬を赤らめもせずに、あらゆる情欲に身をゆだね、その他いっさいのものを冷笑しなければならなかった。」(235−6頁)
「すべての人間は二種類にわかたれる」というのは『スイングガールズ』で繰り返される名台詞だが、元ネタはトルストイだったんですね。
さて、そのトルストイは「愚鈍さの諸様態」を愛情をこめて描くことにおいてその天才を発揮するわけだが、どうやらトルストイは「世界は二種類の人間に分たれる」という考え方をある種の愚鈍さの典型的な様態とみなしていたようである。
おそらく世界は二種類の人間に分たれるのだ。
「『世界は二種類の人間に分たれる』と考える人間と、そう考えない人間」に。
つまり、人間の愚かしさには底がない、ということである。
さすが文豪。


大学はどうなるのか

バリ島から帰ってきてそのまま会議。
ほんとうは午前中にも会議があり、それにも出席しなければならなかったのであるが、その頃はまだ家にたどりついていなかったのでご無礼。
30分ほど前に教務部長のデスクにつくや、教務課長が「ちょっとご相談が・・・」とおいでになっていろいろ相談ごと。
むむむ、それは困ったことですな。
ま、ナントカしましょう。
その後学長を囲んでややコンフィデンシャルな会議。
むむむ、それは困ったことですな。
ま、ナントカなるでしょう。
その後合否判定教授会。
一般入試の志願者数は全学平均で前年比98%(総合文化学科は前年比103%)。
「100年に一度」の経済危機で、志願者が志望校の絞り込みに入っている今年は、私学はどこも軒並み志願者数を下げて、苦戦している。
新学部新学科は「ご祝儀」で、初年度には必ず志願者が殺到するのだが、それもうまくゆかない大学が多い。
受験生たちも「こうやれば受験生は集まる」というあざとい経営感覚に対してはかなり警戒的になっているのだと思う。
小泉構造改革の目玉の一つだった「株式会社立大学」はすでに急激な志願者減に苦しんでいる。
遠からず、そのほとんどが廃校になるだろうと私は予測している。
だが、当然にもという言うべきか、株式会社立大学の旗を振った政治家や官僚や知識人やコンサル稼業の諸君の中で、この状況に際会して、「どうもすみませんでした」と詫びる人間は一人もいない。
そのせいで、現実感覚に乏しい大学の多くはいまだに「経営主導」で大学教育をいじり回している。
繰り返し言うが、大学は「こういう教育を行いたい」と強く念じる人によって創建されたのであり、大学を存続させるために「どういう教育プログラムを実施すればいいのか?」という問いを立てること自体、そもそも本末転倒なのである。
大学を存続させる力は「世間がなんと言おうと、こういう教育を行いたい」とつよく念じるモラルの高い教職員たちのオーバーアチーブである。
ビジネスマン主導の大学の共通する特徴は、大学教授会の権限がきわめて低いことである。
大学教員は本態的に惰性が強く、変化を好まないので、新学部や新学科の設置や新しい教育プログラムの導入に、あまり積極的ではない。
これはそれでよいのである。
教師というのは「そういうもの」だからである。
教師というのは、「これまで誰もやったことのないすばらしい教育を行おう」というふうにはふつう考えない。
現状に満足しているからではない。
そうではなくて、「むかしはうまくいっていたのに、いつのまにすっかり堕落してしまった“教育の黄金時代”にもう一度還らなければならない」と考えるのである。
教育者は本質的に「黄金時代」を懐古的に志向する。
私が知る限り、「教える」ことに卓越していたすべての知者がそうである。
むろん、ビジネスマンはそのようなことを考えない。
「むかしはうまくいっていた、あの“商いの黄金時代”にもう一度還ろう」というようなことを言う経営者はどこにもいない。
しかし、大学に30年いてわかったことは、教育については「あらゆる教育プログラムが滑らかに進行し、学生たちの顔が知性と歓喜に輝いていた“教育の黄金時代”をもう一度甦らせよう」というタイプの「物語」が教育者を「やる気」にさせる上でもっとも効果的であるということである。
大学のような人的資源「だけ」がほとんど唯一の駆動力であるシステムにおいては、「教師のやる気」をどうやって恒常的に高揚させ続けるかということがマネジメントの基本である。
ところが、大学教育に参入してきた“ビジネスマン”たちの中に、「大学という特殊なシステムにおいて教職員のパフォーマンスを継続的に高止まりさせるにはどうしたらいいのか?」というふうに問いを立てる人間はみごとにひとりもいなかった。
彼らは「どうやって教職員を脅し上げ、萎縮させ、従順にさせ、馴致させるか」ということばかり考えてきた。
そうやれば「給料分の仕事はするだろう」と思ったのである。
たしかに、そうすれば多くの人は「給料分の仕事をする」ようになる。
けれども、それは同時に「給料分以上の仕事をしていた人々」からフリーハンドを奪うことを意味している。
教育の現場は「給料分以上の仕事(場合によってはその10倍、20倍分の仕事)をする人々」が一定数恒常的に存在することで保っているということを忘れてもらっては困る。
そういう人たちがまったく自発的に「給料分の仕事をしない」教職員(もちろん、たくさんいる)の不足分を補う以上のことをしているから教育現場は回ってきているのである。
ところが、「給料分の仕事を、Job description 通りの仕事をしろ」ということは、オーバーアチーブの機会そのものを奪うことになる。
そのリスクに対してビジネスマインドな人たちはあまりに無自覚である。
教育上のオーバーアチーブというのは、平たく言えば、「レギュラーな教育活動以外のことを、大学の内外で、公的資源も私的資源もごっちゃにして、管理も統制も受けないで気ままに行う」ことだからである。
そのようなアナーキーを管理的マインドの勝った経営者は許さない。
だから、ビジネスマインドで経営される大学では、たしかに大学構成員のあれこれの議を経ることなしに、トップダウンで次々と機構改革が行われ、教育プログラムが刷新されて、すばらしい「ハコ」はできあがるのだが、それにつれて、実際にそれを機能させなければならない教職員たちの「やる気」はどんどん劣化してゆくのである。
教職員の全員に「給料分の仕事をきちんとさせるシステム」を作ると、教育現場のパフォーマンスは低下する。
「全員に給料分の仕事をきちんとさせるシステム」は「やりたい人間は給料分以上の仕事をいくらでもできるシステム」とは共存できないからである。
システム管理の原理において、この両者は氷炭相容れない。
私たちはどちらかを選ぶしかない。
そして、凡庸なビジネスマンは決して後者を選ばないのである。

2009.02.09

山廻りするぞ苦しき

下川正謡会の新年会。
ふつうは5月末か6月はじめに「大会」があり、9月には「歌仙会」というものがあって、翌年の演目の「予告編」をやる。それから約半年稽古しての「リハーサル」が「新年会」。
この段階で大会でやることはだいたいできあがっていないといけない。
新年会では、社中のみなさんがふだんお稽古しているお囃子なども拝見できる。
今年の大会は5月31日。場所は例年と違って、大阪能楽会館である。(湊川神社の神能殿は閉鎖されてしまったのである。この経緯については納得のゆかないことが多い。神社もビジネスマインドで経営する時代になったらしい)
大阪能楽会館は阪急梅田駅から10分ほどの距離。建物はだいぶ古いけれど、よい能楽堂である。
また間近になったらご案内しますけれど、関西方面のみなさん、どうぞお運びくださって、会場を賑わしてください。
私は「山姥」の舞囃子と、素謡「安宅」のワキ(富樫)をやります。
ドクター佐藤は舞囃子「猩々」、素謡「熊野」のワキ。
ウッキーは舞囃子「高砂」のほか、素謡「隅田川」「安宅」などに出演。
飯田先生は赤ちゃんのお世話で今年の会はお休みである。
「山姥」の舞囃子はクセのところが長く、「立ち廻り」といって杖をつきながら「山廻り」する舞があって、これがむずかしい。
ただ杖をついて舞台をくるくる歩くだけなので、見ている人は「簡単」と思うかも知れないけれど、そういうものでもない。
だいたい左足、杖、右足という順番で動かしながら、能楽のリズムに「乗る」というのが難物である。
そして、「山姥の山廻り」というのは「峯に翔り谷に響きて今まで此処にあるよと見えしが山また山に山廻りして」という詞章から知れ得るように、超人的なスピードで山中を移動しているのである。
「山廻り」という動きがどういうものであるかを私たちは知らない。
現物を見たことがないのだからしかたがない。
けれども、そういう言葉がある以上、それに類した身体技法が中世にはおそらく存在したのである。
少なくとも、世阿彌の時代の観客は、それがどういう身体技法であるかについてある種の「共通の了解」を持っていたはずである。
そして、その超常的な身体運用を連想させるような足の運びを愛でたはずなのである。
以前、ヨガの成瀬雅春さんから、ヒマラヤの行者の中には人間ばなれした高速で山中を疾走する術者がいるという話を伺ったことがある。
合気道の先輩の笹本猛さんが、成瀬さんの指導でその歩行法を習得して、ヒマラヤを歩いてみたことがあった。
足の裏が地面に着かないまま、空中を滑っているような感じがするのだそうである。
あるいは日本の中世の山岳居住民の中にも、これに似た歩行法を身体文化として継承していた人たちがいたのかも知れない。
能には「土蜘蛛」とか「安達原」とか「山姥」とか、“人外魔境人”が出てくる話が多い。たぶん、そのような縄文系の「まつろわぬ人々」が中世の東北にはいまだ蟠踞していたのであろう。
メル・ギブソンの『アポカリプト』は時代考証にかなり問題のあるアクション歴史映画であるが、中世のユカタン半島のジャングルに暮らす人々の「歩行術」については考えさせられた。
主人公ジャガーが追っ手を逃れてジャングルを超高速で移動する場面がある。
ジャングルの地面には尖った木の根もあるし、足首にからみつく下枝もあるし、足首をねじるような段差や、指をとらえて骨を折ってしまうような穴も空いているはずである。けれども、ジャガーはそのジャングルをまるで飛ぶように走り抜ける。
ジャガーを演じたルディ・ヤングブラッドはクリー、コマンチ、ヤキ族の血を引くネイティヴアメリカンで、少年時代からずっとネイティヴのダンスチームのメンバーとして興行の旅を続けていたそうである。
その身体文化の継承の過程で、「ジャングル廻り」の歩行法もまたルディ君はいつのまにか習得されたのであろうか。
興味深いことではある。


2009.02.14

政権末期内閣の願うことは

小泉首相の「わらっちゃう発言」によって自民党のメルトダウンが始まっている。
それにつけても、麻生政権は「もう末期」と昨秋から言われながら、なかなか倒壊する気配がない。
これはいったいどういうことであろう。
代議士たちも自身の選挙の当落についての個人的危機感はずいぶんと高いようだけれど、そのわりには政治家たちの表情にあまり「国難」を前にした危機感が見られない。
「どうしてなんでしょう」と訊かれたので、あまり考えずについ「その方が投票率が下がるからじゃないの」と答えた。
答えてから、なるほどそうかもしれないと思った。
その理路について書きたい。
支持率が20%を切った麻生政権下で迎えるにせよ、あるいは麻生退陣後の「選挙管理内閣」で迎えるにせよ、総選挙における自民党の大敗は避けがたい。
だから、現在の自民党執行部の脳裏を占めている喫緊の政策的課題は、「どうやって選挙に勝つか」ではなく、「どうやって『負け幅』を減らすか」である。
とりあえず自民党選対委員長の古賀誠はそう考えているはずである。
だが、どう見ても、このあと、内閣支持率を一気にV字回復させるような起死回生の政策を自公政権が起案できるとは考えられない。
となると待つのは「敵失」だけである。
民主党内の内紛、執行部の失言やスキャンダルを自民党としては必死に念じているのだが、それは先方も承知している。
だから、W杯イタリアチームの「カテナチオ」ばりの超守備的布陣で、とにかく「無失点」で総選挙に突入することに全力をかけている。
このままゆけば選挙での自民党の大敗は目に見えているのだから、リスクの高い攻撃を仕掛けることはない。
そこで、窮した自民党が最後にすがったのが、「投票率を下げる」という方法であった、というのが私の見方である。
ご存じの通り、「投票率が下がる」とまず都市部の浮動票が消える。
民主党の「大勝」があるとすれば、それはこの浮動票が雪崩打って民主党候補に流れることによってもたらされることは間違いない。
これを防ぐためのもっとも効果的な方法は、都市部の浮動票(「支持政党なし」層)に「投票なんか、する気にもなれない」というくらいに政治に対する倦厭感を募らせることである。
「支持政党なし」層が大挙して棄権を選択すれば、公明党の手堅い組織票に支えられて、「首の皮一枚」で当選を果たす自民党候補が増えるであろう。
自民の「負け幅」はこれで縮めることができる。
そのことが日本国民の政治意識にどのような傷を残すかということは、とりあえず脇に置いて、選挙での当落だけに的を絞れば、「政治に対する倦厭感を募らせ、組織票を生かす」というのは、合理的な選択である。
こうなったら麻生でいけるところまで行こう。
仮に支持率が10%を切っても、就任以来ずっと「政権末期」の数字なのだから、特段危機感を持つ必要もない。
最後まで麻生で行こうとも、どたばた騒ぎの中で、誰かがワンポイントリリーフに立とうとも、「猿芝居」だとメディアに叩かれることに変わりはない。
夏が来る頃には日本国民は低レベルの政争と政治家たちのあまりの無為と無能に心底うんざりして、投票する気にさえなれないほど政治に絶望しているであろう。
そうなれば、あまり負けないで済む。
この「投票率を下げる」策は選挙戦術的には合理的判断だと思う。
現に、前回2007年の参院選挙のときには投票時間の繰り上げが全国30%の投票所で実施された。
開票を早めるために投票を早く締め切るというのが総務省の説明だった。
開票結果を早く知ることと投票率を上げることのどちらが民主主義にとって優先順位の高い課題かは問うまでもあるまいが。
このときも、選挙期間中から「投票率が上がると自民党大敗」とメディアは繰り返し告知していた。
ほとんど国民的理解が得られていないにもかかわらず、定額給付金に自公政権が固執する理由も、そう考えると得心がゆく。
それが「政治に対する失望」(投票率の低下)と「公明党の組織的引き締め」を同時的にもたらすからである。
「国民が政治に関心を失うことを切望する政権」が私たちの国では国政を担当し、引き続き担当することに強い意欲を示している。
不思議な民主国家だ。

2009.02.18

壁と卵

村上春樹のエルサレム賞の受賞スピーチが公開されている。
非常にクリスプで、ユーモラスで、そして反骨の気合の入ったよいスピーチである。

「それでも私は最終的に熟慮の末、ここに来ることを決意しました。気持ちが固まった理由の一つは、あまりに多くの人が止めたほうがいいと私に忠告したからです。他の多くの小説家たちと同じように、私もまたやりなさいといわれたことのちょうど反対のことがしたくなるのです。私は遠く距離を保っていることよりも、ここに来ることを選びました。自分の眼で見ることを選びました。」

そして、たいへん印象的な「壁と卵」の比喩に続く。

Between a high solid wall and a small egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how right the wall may be, how wrong the egg, I will be standing with the egg.
「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」

このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。
たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。
こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。
彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。
しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。
経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。
そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。
それが「本態的に弱い」ということである。
村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。
それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。
「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる。
弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である。
そして、村上春樹は間違いなく人間の「本態的な弱さ」を、あらゆる作品で、執拗なまでに書き続けてきた作家である。
『風の歌を聴け』にその最初の印象的なフレーズはすでに書き込まれている。

物語の中で、「僕」は「鼠」にこう告げる。
「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」
あらゆる人間は弱いのだ、と「僕」は“一般論”として言う。
「鼠」はその言葉に深く傷つく。
それは「鼠」は、「一般的な弱さ」とは異質な、酸のように人間を腐らせてゆく、残酷で無慈悲な弱さについて「僕」よりは多少多くを知っていたからである。

「ひとつ質問していいか?」
僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じてる?」  
「ああ。」  
鼠はしばらく黙りこんでビールグラスをじっと眺めていた。  
「嘘だと言ってくれないか?」  
鼠は真剣にそう言った。
(『風の歌を聴け』)

2009.02.20

それにしても

忙しい一週間であった。
12日が入試CD日程。
川合学長がイギリスに出張されていたので、そのあいだ私が学長代行なので、終日試験本部にすわっている。
「何かあったとき」のためであるが、できるだけ何もない方がいいので、「何もありませんように」と念じつつ、じっと置物のように座っている。
幸い、なにごともなく終わる。
地方入試の監督者たちが答案を入れたケースを持って帰ってきて、「ご苦労さまでした」と声を掛けて仕事が終わる。
13日は税務の日。
三島から小島税理士が来て、去年の経費と源泉徴収票をチェック。
去年は「たなぼた」のキャピタルゲインがあったので、今年払う税金は気が遠くなるほどの金額になる。
住民税を給料からの天引にすると、今年度はその不足分を毎月大学に支払わなければならないそうである。
これだけ働いていて、大学からいただく給料がゼロというのはいくらなんでも不条理である。
源泉徴収票は積み上げたら1センチくらいあった。
断筆宣言していて、これだけ書いたのだから、もししなければ、どうなっていたのであろう。
死んでいたかもしれない。
小島税理士から道場の法人化についてアドバイスを受ける。
道場を私的に所有していると、相続のときに相続人が大変困るからである。
道場主が亡くなったあと、相続人が税金を払うために売却してしまって、道場がなくなるというケースをこれまでいくつか見てきた。
うちの道場はそういうことにしたくないので、道場を法人化するつもりでいる。
これだと私が死んでも門人たちは稽古場所には困らない。
でも、そうすると私は「道場に間借り」することになる。
自分で建てた道場に毎月家賃を払って住まわせてもらうことになる。
その分を給料として法人からもらって相殺するにしても、何だか変である。
理事会で「ウチダ理事長は道場を私物化している。公私混同ではないか」と糾弾されて解任されたりすると、私は自分で建てた道場から追い出されて、路頭に迷うことになる。
変な話である。
漢字検定協会の理事長一家が公私混同問題で連日報道されていたが、もしかすると本人は「協会っていっても、これはオレのもんだろ!オレがゼロから作ったんだぜ」と思っているのかもしれない。
14日はめずらしく「ふつうの土曜日」。
15日は東京日帰りで多田塾研修会。
『考える人』の次の回が多田先生との対談なので、その写真撮影。
かなぴょん、ヨハンナ、イッシーが来ている。
ヨハンナはいつもの「深夜バス」。
よくやるな~。
ブルーノくん、高畑さんも来ている。
やっほう。
16日は朝から大学で修論の口頭試問。
イッシー姉とトガワさんの修論の主査。副査はどちらもイーダ先生。
口頭試問というのは場合によっては「針のむしろ」になることがある。
その昔、助手をしていたころ、ほんとうに「針のむしろ」に座らされた院生を見たことがある。
論文を提出する前に、何度か指導教官に相談して、「ここ直しなさい」というような点検を受けていれば、そんなハメにはならないのであるが、その叱声を聴くのがイヤさにずるずる日を延ばしているうちに、修論締め切りの日となる。
院生というのは総じて鼻っぱしらが強く、腹の中では「教師ったって、なんぼのもんじゃい」くらいに思っていることがあるので、こうるさくチェックされるのがどうにも業腹なのである。
そして、指導教官のチェックなしに論文だけ提出してしまう。
教師の方も「指導も受けずに論文出しやがって」という態度の大きさにけっこう頭に来ているから、口頭試問で、「あとにぺんぺん草も残らない」ほどの猛爆を加えることになる。
二、三百枚の論文が「最初から最後までまったく無価値」であるという宣告を受けたケースを私はかつて二回見たことがある。
そのときの「被告席」にたたされた院生の顔色が、紅潮し、青ざめやがて死人のような土気色になるのを見て、人間というのは、その知的プライドをずたずたに切り裂かれると、生命力まで損なわれることがあるということを知った。
今回の被害者たちは「針のむしろ」というほどではないが、「しびれが来たけれど膝を崩せない」くらいの苦痛は味わったのかもしれない。
夕方から朝日カルチャーセンターで鷲田清一先生と対談。
鷲田先生とお会いするのは2007年の暮以来。
去年は体を壊されて入院されていたが、すっかり回復されて、お元気そうであった。
おしゃべりのあと、江さん、かんちきくん、トガワさん、ウッキー、ヒロスエ、オガワさんと北新地でいつものプチ打ち上げ。
鷲田先生といっしょに阪大の仲野徹先生と作家の久坂部羊さんがお見えになる。
仲野先生はドクター佐藤の上司でもある。
仲野、久坂部のやりとりは「い、いいんですか。医者がそこまで言って」と満座が顔をひきつらせる「地雷原ジョギング」的危険度。
阪大恐るべし。
17日はまたも東京日帰りツァー。
多田先生に月窓寺道場でロングインタビュー。
同じ月窓寺道場で15年前にも多田先生にインタビューした。
そのときのテクスト「武道的身体論」は今でも多田先生のHPで読むことができる。
15年間に多田先生のお考えについての私の理解がどれほど進んだのか、はなはだ心許ないことではあるが、多田先生と膝突き合わせて3時間余、たっぷりとお話を聞くことができたのはひとりの弟子としては望外の幸せと言わねばならない。
インタビュー後、月窓寺の稽古に1時間ほど参加する。
月窓寺の北村さんと稽古する。
道場で「ひさしぶり」と背中と叩かれた。
同期の門人同士には特別の感慨がある。
「よくやってるね」「君もね」という無言のメッセージが行き来する。
先生に挨拶して、新幹線に飛び乗る。御影に帰り着いたら、翌日になっていた。
18日は朝から会議が4つ。電話取材が1つ。
19日は会議が3つ。途中に取材が1つ。電話取材が1つ。
電話取材はどちらも「村上春樹のエルサレム・スピーチ」についてのコメント。
忙しいよお。

壁と卵(つづき)

村上春樹のエルサレム・スピーチについて二件の電話取材を受けたと書いた。
電話取材というのはむずかしい。
30分ほどしゃべったことを5行くらいにまとめられているコメントの場合には、「言いたいこと」が活字になっているということはほとんどない。
私が「言いたいこと」というよりは記者が「理解できたこと」が書いてある。
場合によっては記者が「言いたいこと」が私の名前で書いてあるということもある。
たぶん読む方もそれくらいに割り引いて読んでくれるだろうから、あまり硬いことは言わないつもりである。
それでも、わずかな字数では意を尽くせないことがある。
私がそのとき言いたかったことをここに書きとめておきたい。

それは「壁」というメタファーについてである。
もっとも一般的な解釈は「壁」を政治的な暴力装置、「卵」をその犠牲者と見立てることである。
もちろん、村上春樹自身もその解釈を否定しているわけではない。

What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high wall.
The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them.
This is one meaning of the metaphor.

「このメタファーは何を意味しているのでしょう?場合によってはあまりに単純かつ明白です。爆撃機、戦車、ロケット弾、白リン弾、それらがこの高い壁です。卵とは、それによって押し潰され、焼かれ、撃ち殺される非戦闘員市民たちのことです。これはこのメタファーの一つの意味です。」

けれども、村上春樹はこう続けている。

But this is not all. It carries a deeper meaning. Think of it this way.

「しかし、それだけではありません。これにはもっと深い意味があります。こんなふうに考えてください。」

Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall.
The wall has a name: it is “The System.”

「私たちは誰もが、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちのひとりひとりは脆い殻に包まれた、ひとつひとつがユニークで、代替不能の命です。私はそうです。みなさんもそうです。私たちは誰も、程度の差はあれ、高く硬い壁の前に立っています。
その壁には名前があります。『システム』です。」

The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others—coldly, efficiently, systematically.

「『システム』は私たちを保護することになっています。けれども、しばしばシステムはそれ自身の命を持ち、私たちを殺し、また私たちが他者を殺すように仕向ける始めます。冷血に、効率的に、組織的に。」

I have only one reason to write novels, and that is to bring the dignity of the individual soul to the surface and shine a light upon it. The purpose of a story is to sound an alarm, to keep a light trained on the System in order to prevent it from tangling our souls in its web and demeaning them.

「私が小説を書く目的はただ一つです。それはひとつひとつの命をすくい上げ、それに光を当てることです。物語の目的は警鐘を鳴らすことです、『システム』にサーチライトを向けることです。『システム』が私たちのいのちを蜘蛛の巣に絡め取り、それを枯渇させるのを防ぐために。」

I truly believe it is the novelist’s job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories—stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter.
This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.

「小説家の仕事とは、ひとりひとりの命のかけがえのなさを物語を書くことを通じて明らかにしようとすることだと私は確信しています。生と死の物語、愛の物語、人々を涙ぐませ、ときには恐怖で震え上がらせ、また爆笑させるような物語を書くことによって。
そのために私たちは毎日完全な真剣さをもって作り話をでっち上げているのです。」

そして、唐突に村上春樹は彼がこれまで小説でもエッセイでも、ほとんど言及したことのなかった父親について語り始める。

My father passed away last year at the age of ninety.
He was a retired teacher and a part-time Buddhist priest.
When he was in graduate school in Kyoto, he was drafted into the army and sent to fight in China.
As a child born after the war, I used to see him every morning before breakfast offering up long, deeply-felt prayers at the small Buddhist altar in our house.
One time I asked him why he did this, and he told me he was praying for the people who had died in the battlefield.
He was praying for all the people who died, he said, both ally and enemy alike.
Staring at his back as he knelt at the altar, I seemed to feel the shadow of death hovering around him.

「私の父は昨年、90歳で死にました。父は引退した教師で、パートタイムの僧侶でした。京都の大学院生だったときに父は徴兵されて、中国の戦場に送られました。戦後生まれの子どもである私は、父が朝食前に家の小さな仏壇の前で、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見ました。
ある時、私は父になぜ祈るのかを尋ねました。戦場で死んだ人々のために祈っているのだと父は私に教えました。
父は、すべての死者のために、敵であろうと味方であろうと変わりなく祈っていました。
父が仏壇のに座して祈っている姿を見ているときに、私は父のまわりに死の影が漂っているのを感じたように思います。」

My father died, and with him he took his memories, memories that I can never know. But the presence of death that lurked about him remains in my own memory. It is one of the few things I carry on from him, and one of the most important.

「父は死に、父は自分とともにその記憶を、私が決して知ることのできない記憶を持ち去りました。しかし、父のまわりにわだかまっていた死の存在は私の記憶にとどまっています。これは私が父について話すことのできるわずかな、そしてもっとも重要なことの一つです。」

そして、父の回想から再びスピーチは「システム」の話題に戻る。

I have only one thing I hope to convey to you today. We are all human beings, individuals transcending nationality and race and religion, and we are all fragile eggs faced with a solid wall called The System. To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong—and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others’ souls and from our believing in the warmth we gain by joining souls together.

「今日、皆さんにお伝えしたいことはたった一つしかありません。それは私たちは国籍も人種も宗教も超えた個としての人間だということです。そして、私たちはみな『システム』と呼ばれる堅牢な壁の前に立っている脆い卵です。どう見ても、勝ち目はありません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい。もし、私たちにわずかなりとも勝利の希望があるとしたら、それは自分自身と他者たちの命の完全な代替不能性を信じること、命と命を繋げるときに感じる暖かさを信じることのうちにしか見出せないでしょう。」

Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow the System to exploit us. We must not allow the System to take on a life of its own. The System did not make us: we made the System.
That is all I have to say to you.

「少しだけそれについて考えてみてください。私たちはひとりひとり手に触れることのできる、生きた命を持っています。『システム』にはそういうものはありません。だから、私たちは『システム』が私たちを利用することを、『システム』がそれ自身の命を持つことを防がなければなりません。『システム』が私たちを作り出したのではなく、私たちが『システム』を作り出したのだからです。
これが私が言いたいことのすべてです。」

「システム」を国家権力とか暴力装置とかあるいは資本主義体制というふうに実体として読んだ人には、どうして村上春樹が「父」の話をここに挿入したのか、その意図がわからないだろう。
村上春樹が問題にしているのは、「物語」であり、より広くは「言葉」のことである。
わが身に空洞のように穿たれた「死の影」を「父」自身はついに言葉にすることができなかった。
そして、それを抱え込んだまま死んだ。
けれども、その「言葉にすることのできないもの」こそが「父」のsoul であり、「父」の唯一無二性を担保していた、と村上春樹は考えている。
「言葉にできる」というのは理解され、共有されるということであり、それは「かけがえのなさ」uniquenesse 「代替不可能性」irreplaceablity という「いのち」の定義に悖る。

言葉にすることができないものが、私たちひとりひとりの「命」soul をかたちづくっている。

作家はそれに「寄り添う」ことを本務とする。
村上春樹は「父」を主題にして物語を書くことにいまだに成功していない。
これからも成功しないかもしれない。
それだけ彼が寄り添おうとしている「卵」は脆いということだ。

村上春樹はいっさい中華料理を食べない。食べることができない。
中国にかかわるある種のオブセッションかもしれない、と村上春樹はどこかで書いていた。
「飲み込むことができない」というのは、きわだって象徴的なふるまいである。
中国についてのある経験(それは彼自身の経験でさえない)が名付けられ、理解され、類別され、忘却されることを拒んでいる。
その「名付けられ、理解され、類別され、忘却されることを拒むもの」が「父」のsoulであったと、それが無言のまま遺贈された、と。そう「息子」は感じている。
その「遺贈された空洞」が村上文学の「核」のひとつを形成していると私は思っている。
どうして、そんなことが言えるのかといえば、私もまた「父」から「戦争についての沈黙」を遺贈された「息子」のひとりだからである。
幸運にも、そのような「子どもたち」は私たちの国には私たちの世代を最後にして、もう存在しない。
けれども、世界中で、いまも繰り返し生まれ続けている。
村上春樹は彼らに向かって語りかけているのだと思う。

System というのは端的には「言語」あるいは「記号体系」のことだ.
私はこのスピーチをそう理解した。
「政治」とは「記号の最たるもの」である。
現に、このスピーチの中の「システム」を「記号」に置き換えても意味が通じる。

「私たちはみな『記号』と呼ばれる堅牢な壁の前に立っている脆い卵です。どう見ても、勝ち目はありません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい。もし、私たちにわずかなりとも勝利の希望があるとしたら、それは自分自身と他者たちの命の完全な代替不能性を信じること、命と命を繋げるときに感じる暖かさを信じることのうちにしか見出せないでしょう。
考えてみてください。私たちはひとりひとり手に触れることのできる、生きた命を持っています。『記号』にはそういうものはありません。だから、私たちは『記号』が私たちを利用することを、『記号』がそれ自身の命を持つことを防がなければなりません。『記号』が私たちを作り出したのではなく、私たちが『記号』を作り出したのだからです。」

私はこの言葉に遠い昔に読んだブランショの一節を思い出した。
何度目の引用になるかわからないけれど、その一節をもう一度引いておこう。

神を見た者は死ぬ。言葉の中で言葉に生命を与えたものは息絶える。言葉とはこの死の生命なのだ。それは「死をもたらし、死のうちで保たれる生命」なのだ。驚嘆すべき力。何かがそこにあった。そして、今はもうない。何かが消え去った。
(Maurice Blanchot, La Part du feu, Gallimard, 1949)

ブランショが「言葉に生命を与えたもの」と名づけたもの。言葉のうちに息絶えるもの。
それを村上春樹はsoulと呼んでいるのだと私は思う。


2009.02.22

講演カウントダウン

土曜日なのだけれど、お稽古をお休みして、天王寺まで行く。
大阪教育大付属天王寺で教育研究会があり、その講演に呼ばれたのである。
お題は「現場の教育論」
昨秋からあと、新規の講演は全部お断りしているので、講演もカウントダウンである。
このあと、4月に日比谷高校の同窓会の講演があって(これは断れないですよね、だいたい卒業してないんだから)、6月にめぐみ会の講演があって(これも断れないですね)、あと2つくらい去年うっかり引き受けてしまったものがあり、それでおしまいである。
入試部長になるので、職務上人前でしゃべる機会は増えるけれど、それはセールストークで講演ではない。
講演がたいへんなのは、その日その時間にそこにいなければいけないからである。
原稿はその点自由で、締め切りさえ守れば、いつどこでどんな恰好で書いたって構わない。
風邪引いて、鼻水たらしながら、パジャマで書いてもいい。
講演はそうはゆかない。
一応、きちんとネクタイを締めてスーツを着て、靴も磨いて、髪も整えて、それなりの健康状態で、それなりの機嫌で迎えねばならぬ。
それが面倒である。
それに、同じ話をしなければならぬことが多い。
別に、違う話をしてもよいのであるが、教育関係の講演しか引き受けていないので、いきおいどこでも似たようなお題を頂く。
すると、結局、「なぜ子どもたちは学びを忌避するのか」「消費文化は主体性のありようをどのように変えたのか」「市場原理の導入は学校教育をどう破壊したか」といった基本的なことは抑えておかなければならない。
だが、私の考える「なぜ」「どのように」「どう」というのはふつうの人が言うこととぜんぜん違うので、情理を尽くしてご説明しなければ意味が通じない。
そのため「語の定義」の部分に講演時間の半分、うっかりすると8割ほどを割くことになる。
これでは話している私もいい加減退屈するのもやむを得ない。
私が退屈すると、退屈はただちに聴衆に感染し、ぱたぱたと眠り出す人が出て来る。それを見て私はますますやる気をなくして、話はさらに退屈になり・・・という悪循環に陥るのである。
これから話すことはだいたい本に書いてありますから、本買って読んでください、じゃあね~と降壇したいのであるが、そうもゆかない。
というわけで講演はもう引き受けないことにした。
それなのに、今も三日に一度くらい講演依頼が来る。
それをいちいち「あのですね」と窮状を訴えて断らなければならない。
最近多いのは、もともと私の名前も知らず、本も読んだことないけれど、今朝の新聞でたまたまコラムを読んで「なかなか面白そうなこと書かれていたので」といきなり大学に電話をかけてきて「うちに来て、ちょっと講演してくれませんか」と言う人たちである。
あまつさえ、「で、お願いしたいのは来月なんですけど」と無理なことを言う。
きっと年度内に予算を消化しなければならないのであろう。
町田康の『外道の条件』を思い出す。
原稿依頼も同傾向である。
書評が新聞に出た翌日に限って「締め切りはタイトで、内容についての注文が多く、原稿料は些少」という寄稿依頼がばたばた来る。
困ったものである。
とはいえ、今回の講演は教育研究会で、聴衆はほとんどが中高の現役の先生たちであるから、聴き方は真剣で、寝ている人はあまりいない(後ろの方で一人、居眠りして途中で席から転げ落ちそうになった男がいたが)。
食い入るような聴衆の熱気にこちらも反応して、つい30分も時間をオーバーしてしまう。
「お話聞いて元気が出ました」と言われる。
私のような人間の話を聴いて、「明日からがんばるぞ」という気分になってくれる先生たちが実際にいるなら、こういう講演はやっぱり止めちゃいけないのかな・・・と決意が揺らぐ。
だから、なかなか仕事が減らないんだな。


2009.02.23

痩我慢合戦

麻生内閣の支持率が11%まで落ちたと毎日新聞が報じている。
でも、首相は恋々として政権にしがみついている。
恋々というのも正確ではない。
おそらく、「やめどき」を逸したせいで、やめようがなくなって、困惑し果てているのだろう。
舞台に出たはいいが、退場のきっかけがわからず、観客から「ひっこめ」とトマトとかバナナの皮とか投げつけられてるのだけれど「ひっこむタイミングがわかんないんです」と半べそをかいているへぼ役者のようである。
気の毒である。
政治家の出処進退はまことにむずかしい。
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」
これは勝海舟の言葉である。
出処進退の決定については私には私なりの基準がある。それは公言して、他人の承認を求める筋のものでもない。毀誉褒貶は所詮他人ごとである。オレは知らんよ。
もちろん勝海舟だって、できることなら「勝先生は実に出処進退が鮮やかですなあ」とほめられたかった。
でも、実は内心忸怩たるものがあったので、こんな言葉を書いてしまったのである。
その話をしよう。

福沢諭吉に『痩我慢の説』と題する奇書がある。
旧幕臣でありながら、維新後新政府に出仕して栄達を遂げた勝海舟と榎本武揚の出処進退をきびしく批判したテクストである。
福沢は『福翁自伝』で幕末の幕府の制度劣化を口を極めて罵っているが、にもかかかわらず、旧君徳川家の鴻恩を忘れず、明治政府の政策に対して歯に衣着せぬ寸鉄の批判を繰り広げ、一私塾の教師として、生涯を終えた。
「旧君の鴻恩を忘れず」というのは、ほんとうは正確ではない。
「旧君の鴻恩を忘れない」という「構え」が(たとえそれが実感をもたないフィクションであっても)社会の一部の人間によって引き受けられていないと、社会制度は保たないと考えていたので、あえてそのようにふるまったのである。
「きれいごと」をリアルかつクールに演じ切れる人間が、一定数いないと、社会は保たない。
そこらの十把一絡げの三下連中は、強いものについて付和雷同すればよい。
どうせ三下なんだから、たいしたことはできやしない。
けれども、勝や榎本のような傑出した人間は、無理を承知で「痩我慢」する例外的な責務があるんじゃないか。
そういうことができるだけの器量に生まれついたか、刻苦勉励それだけのスケールの人間になれたんだから。
「痩我慢」ができる人間とできない人間のあいだに人間の格の違いというのは出るんじゃないか。
勝や榎本の炯眼をもってすれば、そのあたりのことは熟知されていていいんじゃないか。
というようなことを福沢は述べているのである。
福沢諭吉というのは、まことに近代日本を代表する“リアリスト”とである。
その『痩我慢の説』の冒頭に曰く。

「立国は私なり、公に非ざるなり」

国民国家なんていうものをつくるのは「私」的な事情だ、と言っているのである。
国家というのは、本質的に「プライヴェートなもの」だと言っているのである。
すごいね。

「なんぞ必ずしも区々たる人為の国を分て人為の境界を定むることを須いんや。いはんやその国を分て隣国と境界を争うにおいてをや。いはんや隣の不幸を顧みずして自ら利せんとするにおいてをや。いはんや国に一個の首領を立て、これを君として仰ぎこれを主として事え、その君主のために衆人の生命財産を空しうするがごときにおいてをや。いはんや一国中になお幾多の小区域を分ち、毎区の人民おのおの一個の長者を戴きてこれに服従するのみか、つねに隣区と競争して利害を殊にするにおいてをや。」

国境だの国土などというものは、要するに人間が勝手にこしらえあげたものであって、単なる「想像の共同体」にすぎぬと言うのである。
ルナンよりもゲルナーよりもミシュレよりも早く、明治24年にちゃんと福沢諭吉がそう言っているのである。
国家なんていうのはただの「アイディア」だぜ、と。

「すべてこれ人間の私情に生じたることにして天然の公道にあらずといへども、開闢以来今日に至るまで世界中の事相を観るに、各種の人民相分れて一群を成し、その一群中に言語文字を共にし、歴史口碑を共にし、婚姻相通じ、交際相親しみ、飲食衣服の物、すべてその趣を同じうして、自ら苦楽を共にするときは、復た離散すること能はず。すなわち国を立てまた政府を設くる所以にして、すでに一国の名を成すときは人民ますますこれに固着して自他の分を明かにし、他国政府に対しては恰も痛痒相感ぜざるがごとくなるのみならず、陰陽表裏共に自家の利益栄誉を主張してほとんど至らざるところなく、そのこれを主張することいよいよ盛なる者に附するに忠君愛国の名を以てして、国民最上の美徳と称するこそ不思議なれ。」(福沢諭吉、「痩我慢の説」、『明治十年丁丑公論・痩我慢の説』、講談社学術文庫、1985年、50-51頁)

そういうふうに勝手に作り出した政治的幻想である国家に「鴻恩」を感じ、そのようなメンタリティを「忠君愛国」と称して賞美するなんてバカじゃないのと言っているのである。
それだけなら、当今の高校生だって言えそうである。
福沢諭吉がすごいのは、話がそれで終わるのではなく、話がそこから始まるからである。

「忠君愛国は哲学流に解すれば純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といはざるを得ず。すなわち哲学の私情は立国の公道にして、(・・・)外に対するの私を以て内のためにするの公道と認めざるはなし。」(51頁)

立国立政府は論理的には純然たる私事であるけれど、「当今の世界の事相」を鑑みるに、これをあたかも「公道」であるかに偽称せざるを得ない、と。
論理的には私だが、現実的には公である。
ふつうは逆ですよね。
きょうびの政治家や高級官僚たちは、国や政府を「現実的には私物であるが、建前上は公物」として扱っている。
福沢はその逆を言っているのである。
国家は私的幻想にすぎない。
しかし、これをあたかも公道であるかのように見立てることが私たちが生き延びるためには必要である、と。
話はそれでは終わらない。
どうやって私的幻想を公道にみせかけるか。
福沢はその政治技術論に進む。
私的幻想を公道に見せかける「大技」は平時には不要である。(「平時にありてはさしたる艱難もなし」)
それは国家危急存亡のときに繰り出すべきものである。

「時勢の変遷に従て国の盛衰なきを得ず。その衰勢に及んではとても自他の地歩を維持するに足らず、廃滅の数すでに明かなりといへども、なお万一の僥倖を期して屈することを為さず、実際に力尽きて然る後に斃るるはこれまた人情の然らしむるところにして、その趣を喩へていへば、父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるがごとし。(・・・)
さすれば自国の衰頽に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を議するか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなはち俗に言う痩我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの痩我慢に拠らざるはなし。啻に戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際においても痩我慢の一義は決してこれを忘れるべからず。(・・・)我慢能く国の栄誉を保つものといふべし。」(52-3頁)

国家は私情である。
痩我慢はさらに私情である。
しかし、この私情の痩我慢抜きには私情としての国家は成り立たない。

「痩我慢の一主義は固より私情に出ることにして、冷淡なる数理より論ずるときはほとんど児戯に等しといはるるも弁解に辞なきがごとくなれども、世界古今の実際において、所謂国家なるものを目的に定めてこれを維持保存せんとする者は、この主義に由らざるはなし。」(54頁)

そして、話は王政復古。
勝海舟の江戸無血開城は数理の結論ではあるが人情に背反しているがゆえに、いずれ数理的にも失着であるとして福沢はこれに筆誅を加えるのである。

「蓋し勝氏輩の所見は内乱の戦争を以て無上の災害無益の労費と認め、味方に勝算なき限りは速に和して速に事を収るに若かずとの数理を信じたるものより外ならず。その口に説くところを聞けば主公の安危または外交の利害などいふといへども、その心術の底を叩いてこれを極むるときは彼の哲学流の一種にして、人事国事に痩我慢は無益なりとて、古来日本国の上流社会にもっとも重んずるところの一大主義を曖昧模糊の間に瞞着したる者なりと評して、これに答ふる辞はなかるべし。(・・・)
当時積弱の幕府に勝算なきは我輩も勝氏とともにこれを知るといへども、士風維持の一方より論ずるときは、国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言うべき限りに非ず。」(57頁)

そして、福沢は勝海舟にこう宣告を下す。

「我日本国民に固有する痩我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。一時の兵禍を免れしめたると、万世の士気を傷つけたると、その功罪相償うべきや。」(61頁)

短期的なタームで観れば勝海舟の選択は正しい。
けれども、「一時の兵禍」を免れた代償に、爾今、日本人が「痩我慢」の美風を捨てることになったとすれば、これは結局算盤に合わない。
「痩我慢」を放棄したことがいずれどれほどの国家的災厄を呼び寄せることになるか、私たちはこれから近代日本人の限りない「愚化俗化」というかたちで骨身にしみて経験することになるだろう。
福沢はそう言っている。
この論が生産的なのは、福沢と勝という二人の傑出したリアリストが「どちらがよりリアリスト」かを競っているからである。
どちらが正しいか、ではない。
どちらの見通しが「妥当する範囲が広い」かを競っているのである。
ここでの賭け金は「計量的な正しさ」である。
「私が正しく、おまえは間違っている」ではなく「私は51%くらい正しく、君は49%くらい正しい。だから2%分、私が正しい。さて、その2%とは何かというと、君が見落としたファクターである・・・」という話をしているのである。
だから、この草稿を、「これを公刊するつもりだが、事実誤認ほか、訂正すべき箇所があればご教示願いたい」と福沢が勝に示したときに、勝はこう答えた。

「いにしえより当路者、古今一世の人物にあらざれば、衆賢の批評に当たる者あらず。はからずも拙老先年の行為に於て御議論数百言御指摘、実に慚愧に堪へず。御深志忝なく存じ候。」

むかしから政治の要路にいたもので、後世の史家の批評に耐えるほどの仕事をした人間は希である。自分のような鈍才の仕事の欠陥が指摘されるのは当然のことで、ごめんねと言うしかない。

「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せずと存じ候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これ無く候。御差越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候。」

出処進退はその人が自己決定することである。その成否や理非を論じるのは他人の仕事である。
私が「私のことはこう評価してください」と他人にあれこれリクエストする筋のものではない。
私への批判の文章、じゃんじゃん世間に発表してくださって結構。
でも、戴いた草稿は(なかなか面白いし、私自身の反省材料にもなるから)このままくださいね。
では~

と勝手に現代語訳してしまったが、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」というこの「突っ張りぶり」を「痩我慢」と言わずしてなんと言うべきか。
福沢諭吉の「痩我慢の一大主義をあんたはどこに遣ったんだ」という詰問に、勝海舟は一世一代の痩我慢を以て回答したわけである。

小学生にはむずかしい文章

ある教科書会社から小学校の教科書のために何か書いて欲しいと頼まれた。
めんどくさいから厭だと最初は断った。
「中学生にもわかるように書く」ということは『先生はえらい』でやってみたので、できそうな気もするが、「小学生にもわかるように書く」というのはちょっと私には無理そうに思えたからである。
私は一度書いた原稿に「ここがわかりにくいので書き換えてくれ」とか「この字は読みなれていないので、ひらがなにしてくれ」とか言われるのが嫌いである。
だから、「そのままの原稿では出せません」と言われると、「あ、そうですか」とそのままオサラバすることにしている。
私の文章を読んで「意味がわかりません」という人間と「私の文章」を介して話し合いをすることは,論理的に考えて、純粋な消耗だからである。
今回は、「私の書くものは小学生向きじゃないですよ」といったのに、でもぜひにと頼まれたので、なるべくむずかしい漢字や子どもの知らない人名などは使わないようにして、いつも言っているようなことを書いてお渡しした。
しばらくして、やはり編集会議でボツになりましたという知らせが来た。
小学生にはむずかしいだろうという理由である。
なるほど。
まことに理にかなった展開である。
でも、せっかく書いたものであるから、その原稿をここに公開して、諸賢のご高覧に供したいと思う。
こんなの。

もしも歴史が


「歴史に『もしも』はない」というのはよく口にされる言葉です。
たしかに、「起きなかったこと」は起きなかったことですから、「起きなかったこと」なんか考えてもしかたがないのかも知れません。
でも、どうして「あること」が起きて、「そうではないこと」は起きなかったのか。その理由について考えるのはなかなかにたいせつな知性の訓練ではないかと私は思っています。
どうしてかというと、過去の「(起こってもよかったのに)起こらなかったこと」について想像するときに使う脳の部位は、未来の「起こるかもしれないこと」を想像するときに使う部位とたぶん同じ場所のような気がするからです(解剖学的にはどうか知りませんけれど)。

歴史の勉強をすると、「出来事Aがあったために、出来事Bがその後に起きた」というふうに書いてあります。歴史的事件はまるで因果関係に基づいて整然と配列されているかのようです。けれども、ほんとうにそうなのでしょうか。というのは、私たちの世界で今起きている出来事の多くは「そんなことがまさか現実になるとは思いもしなかったこと」だからです。
例えば、第二次世界大戦が始まる前に、ヨーロッパはいずれフランスとドイツを中心とした国家連合体になり、パスポートも国ごとの通貨もなくなるだろうと予測していた人はほとんど存在しませんでした。同じように、太平洋戦争が始まった頃に日米の緊密な同盟関係が戦後の日本外交の基軸になると予見していた人もほとんど存在しませんでした。
でも、「そういうこと」がいったん現実になってしまうと、みんな「そういうこと」が起こるのは必然的であったというようなことを言います。
でも、歴史上のどんな大きな事件でも、それを事前に予見できた人はいつでもほとんどいません。
同じことが未来についても言えるだろうと私は思います。
私たちの前に拡がる未来がこれからどうなるか、正直言って、私にはぜんぜん予測ができません。わかっているのは「あらかじめ決められていた通りのことが起こる」ということは絶対にないということだけです。後になってから「きっとこうなると私ははじめからわかっていた」と言う人がいても(たくさんいますが)、私はそんな人の話は信じません。

未来はつねに未決定です。
今、この瞬間も未決定なままです。
一人の人間の、なにげない行為が巨大な変動のきっかけとなり、それによって民族や大陸の運命さえも変わってしまう。そういうことがあります。歴史はそう教えています。誰がその人なのか、どのような行為がその行為なのか。それはまだ私たちにはわかりません。ということは、その誰かは「私」かも知れないし、「あなた」かも知れないということです。

過去に起きたかもしれないことを想像することはたいせつだと私は最初に書きました。それは、今この瞬間に、私たちの前に広がる未来について想像するときと、知性の使い方が同じだからです。
歴史に「もしも」を導入するというのは、単にSF的想像力を暴走させてみせるということではありません(それはそれで楽しいことですけれど)。それよりはむしろ、一人の人間が世界の運行にどれくらい関与することができるのかについて考えることです。
私たちひとりひとりの、ごくささいな選択が、実は重大な社会的変化を引き起こす引き金となり、未来の社会のありかたに決定的な影響を及ぼすかもしれない、その可能性について深く考えることです。もしかするとほかならぬこの自分が起点になって歴史は誰も予測できなかったような劇的な転換を遂げるかもしれない。
そういう想像をすることはとてもたいせつです。
何より、「私ひとりががんばって善いことをしても、何が変わるわけでもない」とか「私ひとりがこっそり悪いことをしても、何が変わるわけでもない」というふうに自分の歴史への参与を低く見積もって、なげやりになっている人に比べて、今この瞬間においてはるかに人生が充実しているとは思いませんか。

読み返してみたら、「でも」で始まる文が二つ続いたりしていて、けっこう不出来な文章ですね。


2009.02.26

je pense, donc ça se pense

24,25日と白浜で杖道会の初合宿。
杖道会はできてからもう10年くらいになる。
身体技法の研究というつもりで杖や居合を稽古していて、段位とか試合とかいうこととは無縁のクラブなので、合気道部の有段者が興味をもって入ってくるくらいで、他にはあまり会員がいなかった。
4年前に若さまとエクソシストあまのが入部してきて、杖道会プロパーの核が出来て、去年新一年生に5人部員が入って賑やかになった。
週一の稽古では物足りない、もっと集中的に稽古したいという要望が出てきたので、合宿をすることにしたのである。
白浜にしたのは、合気道の合宿が神鍋高原なので、「じゃあ、海のそば」というたいへん単純な理由。
2月の合宿だから「暖かいところ」がいい。
温泉もあるし。
それに和歌山は合気道部主将で杖道会員、二重国籍のサキちゃんの地元であるので、「合宿先探しておいてね」と頼んだら、「はいよ」と気楽に引き受けてくれた(いいやつだ)。
「よいこのしおり」も作ってくれた。
初合宿の参加者は、4回生主将の若さま(あまのはオックスフォード大学に留学中)、3回生サキちゃん、1回生マサキ、クロダ、モリ、ホリカワ、エグチの5人。それに院生のトガワさん、OGのヨハンナ、大学の杖道クラスの非常勤講師をしているウッキー。
ちょうど手頃な人数である。
白浜会館という広い建物を借りて、初日は13時半から17時、二日目は9時から11時45分まで、稽古をする。
ふだんより時間があるので、呼吸法をする。
呼吸法をしてから形を遣うと動きに「甘み」が出てくる。
神道夢想流杖道はもともとは黒田藩に伝えられた武技であるが、全剣連では競技として行われている。
私は武術の競技化に懐疑的(というより端的に反対している)人間なので、術技の巧拙を競うのではなく、ひとりひとりの身体感覚を高めることの教育的な有効性に目的を限定して教えている。
どう考えても、この女子学生たちが剣で人を斬ったり、杖で人のあたまをかち割ったりするような状況に遭遇する蓋然性は低いからである。
むかしの武士が武術を学んだのは、そういう機会に現にしばしば遭遇したからである。
そのような機会において「生き延びる」ことが切実な人間的課題だったから必死で修業したのである。
しかし、いまは他人に剣で斬りかかられるという状況に備えて身体訓練をすることの現実的必要性はきわめて低い。
サイコパスからいきなり斬りかかられる可能性はなくはないが、そのとき、腰間に一剣を佩刀しているとか、愛用の杖が手元にあって・・・という可能性はさらに低い。
リアルに護身術を学ぶのであれば、「鞄の角でこめかみをヒットする術」とか「ハイヒール両手持ちによる双峯貫耳」などを練習する方がはるかに実用的である。
現実的必要性のない身体技法を修業するためには、それとは別の動機付けが必要になる。
術技の巧拙を競い、数値化して、勝ち負けを楽しむ「スポーツ化」は、そのようにして発明された“苦肉の”動機付けである。
だが、武道はスポーツではない。
武道がスポーツの「仮面」をかぶったのは歴史的理由があってのことである。
GHQの禁制で息絶えようとしていた武道的な身体技法を後世に生き残らせるために1950年代の武道家たちが「スポーツ化」という迂路を選択したことは、戦術的判断としてありうるオプションだったと私は思う。
私がその時代に生きていたら、その判断に同意した可能性は高い。
けれども、これはあくまで緊急避難的な迂回である。
GHQの占領体制が終焉した段階で、「武道はスポーツだと言ったのは、当座の方便で、武道はもちろんスポーツではない」という「変節の名乗り」をなすべきだった。
日本の武道史上最大の失敗は、生き残るために政治的工作をしたことではなく、政治的工作をしたことを隠蔽したことである。
幕末以来、明治維新、軍国主義イデオロギーへの荷担、敗戦という激しい変遷の中で、武道はさまざまな歴史的淘汰圧にさらされ、それに耐えて、そのつど「変身」を遂げつつ生き延びてきた。
それは一つの技芸の生き残り戦略としては妥当なものであったと私は思う。
けれども、それはあくまで生き残りのための「適応」であって、しばしば不本意なものであり、まして「進化」などではなかった。
だから、現状を「武道のあるべき姿である」とのほほんと言い放つことは武道家には許されない。
どのような「適応」によって、武道はどのように「変化」してしまったのか、それを冷静にトレースしていなければ、武道は「還るべき原点」を見失ってしまうであろう。
私は現代における武道の有効性を信じている。
女子学生たちに杖の打ち方、剣の抜き方を教えるのは、杖や剣を実際に道具として活用して欲しいからではない。
ましてや、「礼儀正しくなる」とか「日本の伝統文化に対する敬意が涵養される」とか「愛国心が身につく」とかいうような功利的理由からではない。
とりあえず学生たちには形を遣い、剣の抜き方納め方を稽古してもらう。
当面の課題は「刃筋が通る」というのはどういうことかを実感することである。
それは要するに「剣には剣固有の動線があり、人間は賢しらをもってそれを妨げてはならない」ということに気づくということである。
自分を主体として立てて、剣や杖を対象的に操作しようとしてはならない。
剣や杖には、それぞれ「お立場」というものがある。
だから、それを尊重する。
私自身の筋肉や関節や腱や靱帯にだって、やはり「お立場」というものがある。
だから、それを尊重する(しないとあとで痛い思いをする)。
そんなふうだから、武道の稽古をしていると、あちこち気を遣う相手ばかりで気疲れしてしょうがない。
だが、そうやって剣やら杖やら体術の相手やら自分の身体各部やら、すべてのもののはたらきを妨げないように気を遣っていると、「そもそも、この『気を遣っている』主体というのはどこにいるのか?」という深甚な疑問に逢着することになる。
主体って何?
武道はこのデカルト的省察をデカルトとは逆方向に進む。
「我思う」ゆえに「『我』在り」ではなく、「我思う」ゆえに「『思う』あり」の方に分岐しちゃうのである。
術技的には、主体なんてなくてもぜんぜん困らないし、むしろない方がましだからである。
この逆説的状況に学生諸君を投じるために、お稽古しているのである。

2009.02.27

翻訳についての二つの対話

高橋源一郎さんと柴田元幸さんの対談集 『小説の読み方・書き方・訳し方』(河出書房新社)のゲラが届いたので、読む。
高橋さんも柴田さんも、小説を読んで、書いて、訳している。
柴田さんは不思議な味わいの短編集をいくつか出している(『バレンタイン』と『それは私です』が私の書架にはある)。
高橋さんの訳書にはジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ・ビッグシティー』がある。
よい訳である。
高橋さんにももっと翻訳をしてほしいけれど、小説を書く方が忙しくて、そこまで手が回らないようである。
小説を書くことの意味、小説を訳すことの意味について、たぶん現代日本でもっとも深く遠くまで考えている二人による対談であるから、すごく面白い。
私はよく考えたら、小説を書いたこともないし、訳したこともない。
あれほどたくさん翻訳をしていながら、一度も小説を訳したことがない。
どうしてだろう。
一人一人には、なにか性格的趨向性のようなものがあって、それに無意識に縛られているのかもしれない。
よく、わからない。
「小説を読んで、書いて、訳して」という営みをほぼ完璧なバランスで行っている人というと村上春樹である。
柴田さんはその翻訳家としてのキャリアを実際には村上春樹の翻訳チェックの仕事から始めた。
そして、「翻訳を舐めるようにチェックする仕事を何冊かやらせてもらって、その中で『あっ、これはこう訳せばいいのか』みたいに、なんとなく思ったことがいっぱいあった。それが私にとっての唯一の翻訳の勉強で、あれは得難い経験でした」(58頁)と回想している。
高橋さんは1979年に横浜の有隣堂で『群像』を立ち読みして、その年の新人賞受賞作を読んだときに、「驚いたのは、方向は違うんだけれども、この人も同じことをやっているなと思った」(36頁)と書いている。
だから、村上春樹はこの対談の「その場に居合わせない三人目の参会者」のようにずっと対談の上に影を投げかけている。
でも、村上春樹を「バランスのよい作家」というふうにすらっと言ってしまってから、それはちょっと変だと気づいた。
「読み、書き、訳す」ことの「バランスがよい」という言い方そのものがかなり特異なことだからである。
というのは、英語圏やフランス語圏の作家たちが、例えば中国語や日本語で書かれた小説を、何年にもわたって日課として(「写経」するかのように)訳すという光景を私はうまく想像することができないからである。
東洋の言語で書かれた小説を訳すことが彼らの小説家としての成熟に必須であると本人が信じ、周りの人もその翻訳を心待ちにしているというようなことが日本語圏以外の地の作家たちの身に起きているのだろうか。
たぶん起きてないと思う。
日課のように外国語の文献を読み続け、それを受け容れ、咀嚼できるように、自国語そのものを改鋳し、押し広げてゆくことは私たちにとっては知的営為のほとんど「基本」である。
けれども、それはもしかすると、アジアやアフリカのごく一部の地域の、ごく一部の社会集団でだけ行われていることではあるまいか。
外国語を読み、それと自国語を突き合わせ、それによって現に自分がそれを用いて思考し、表現している自国語の構造について遡及的に省察することの有用性は「読み、書き、訳す」人間にとっては自明のことだけれど、それが自明であると感じられるのは、ごく例外的な文化圏においてだけのことではあるまいか。
そして、そのポジションがときに人を例外的な知的高揚をもたらすことがある。
高橋さんと柴田さんの対談を読んで、私はむかし、これと似たような種類の知的緊張感にあふれた翻訳論があったことを思い出した。
それは福原麟太郎と吉川幸次郎の往復書簡『二都詩問』(新潮社、1971年)である。
実は、「思い出した」わりに、私はこの原著を読んだことがないのである。
当時、石川淳が朝日新聞の夕刊に月一で書いていた「文林通言」にあった短い引用を読んで「わ、すごい本」と思っただけである。
でも二十歳の私はビンボーだったので、こんな高い本は買えずに、そのままになっていた。
記憶にインプリントされていたその書名が高橋さんと柴田さんの対談を読んでいるうちに思い出され、amazonで検索したら、古本がマーケットプレイスに出ていた(ほんとうに便利な世の中になったものである)。さっそく購入。
一読して驚倒。
この本が出た頃、私はまだ二十歳だったわけだが、そのころには「こういう桁外れの学殖を備えた大人」がいたのである。
もういない。
大人がいなくなったのは、歴史のしからしむるところだから嘆いても仕方がない。
さいわい書物は残っている。
石川淳が書評で引用していたのは、韻をめぐる吉川幸次郎の一文である(40年前のことを覚えていたところをみると、よほど印象的な一節だったのであろう)。
すぐにみつかった。
「この外国人からは面倒そうに見える詩法を、本国の人には、所要の行き先と合致するバスを、町角で待っているほどの面倒としか感じさせないのでないかと申すにとどめます。」(23頁)
ここで福原、吉川はそれぞれ英文学、中国文学についての膨大な学殖を駆使して、「韻」とは何かということを論じている。
そして、吉川は詩法としての韻とは何かと正面から問い、それが「わからない」と答えている。
「それよりも伺いたいのは、尾韻というものは、一たい何だろうということです。何だろうとは、大へん漠然たる問い方ですが、詩法としてどういう効果なり意義なりをもつかということになりましょう。中国ではあまりに普通のことだからでありましょう。それを説いたものを思い当たりません。(・・・)韻のふみ方はいろいろ書いてあっても、韻とは何ぞやという問題は、あまり論ぜられていないと感じました」(23-24頁)
私はここで「ぱたり」と本を取り落としてしまった(騒がしい読者である)。
すげ~
それはソシュールのことを思い出したからである。
ご存じないかたが多いだろうが、ソシュールは一般言語学講義のあと、ラテン詩における「アナグラム」の研究に余生を割いた。
アナグラムというは「変綴」のことである。
詩編の主題をなる鍵語がある(ふつうは人名とか、印象深い名詞)その綴り字をバラした語が詩編中に散乱している。
例えば、ルクレティウスの『物性について』の冒頭十三行はヴィーナスに対する呼びかけの詩句であるが、その中にソシュールはAphrodite(これはヴィーナスのギリシャ語名)のアナグラム三つを発見した。
これは意図的な修辞なのか、偶然の結果なのか。ソシュールはその問いを前にして困惑した。
というのは、もしアナグラムが修辞法の一部であるとするならば、古典の詩論の中に一つくらいは「アナグラムによる修辞的効果」についての言及があってよいはずだからである。
だが、ソシュールの強記博覧をもってしても、アナグラムの詩学について書かれたラテン語文献は一つも発見できなかった。
「だが、吉川幸次郎の強記博覧をもってしても、押韻の意味について書かれた中国語文献は一つも発見できなかった」
アナグラムと押韻は「あまりにふつうに行われているので、それについて誰も主題的に論じることのない詩法」である。
どうして、それは主題的に論じられないのか。
私の仮説はこうだ。
それはこの二つがいずれも「時間をフライングすること」だからである。
福原は吉川のこの問いの前の書簡で、英詩人の押韻についてこう書いている。
「そこで私は、英国の詩人たちに、韻(ライム)は、君達にとってどうなのだと、いく人かに聞いてみたことがあります。(・・・)韻を踏む必要があるために、自然、内容を制限されて、言いたいことも十分言えず、また余計なことばを加えて不自然になることもあるのではないか、と訊ねたのでした。例えば、ファウンテン(泉)という語を使うと、どうしても、それに押韻してマウンテン(山)という語をあとで使わざるを得なくなるだろう、そうするとどうしても詩的感興の自由な正直な表現を欠くに至るだろうと申しました。すると彼らの一人が非常に適切な返事をしてくれました。『それはそうだけれどね、』と彼は答えたのでした。『ぼくたちはカプレット(二行並韻)を書くときは、二行一しょに考えているんだよ。』」(13頁)
「なぜ韻を踏むのか」を説く詩学が存在しないのは、「なぜアナグラムが存在するのか」を説く詩学が存在しないのと同じ理由による。
それは私たちが実は時間をフライングして未来にゆけるのだが、そのことをうまく説明できる「時間論」をまだ持っていないからである。


2009.02.28

人間的時間

大学で昼から会議があるので、ブログを途中まで書いて、大急ぎで投稿してしまったが、もちろん、こんな説明では誰にも意味がわからないであろう。
どうして、押韻とアナグラムは「時間的現象」であり、私たちはそれをうまく語る時間論を持っていないのか。
それについてご説明しよう。
ある行末にfountain という語を置いたら、次の行の末尾はmountain が選好されるというふうに韻が選択されるとしたら、それはずいぶん詩作において不自由なことではないか。
福原麟太郎は英国の詩人たちにそう問いただした。
答えは「ノー」であった。
なぜなら、二行並韻は「いっしょに来る」からである。
因習的に、時間意識というのは直線的に「過去から未来に向けて流れる」と考えると尾韻は音楽的な響きの代償に詩想を制限するものとして現れてくる。
末尾の同音が二行続くことの代償に、詩想が制約されることは、どう考えても不利なバーゲンである。
だから、近代の詩人たちは定型詩を棄てた。
音楽的定型よりも詩想の自由を。
ぱちぱち。
しかし、この「詩想の自由」論の前提になっているのは「時間は過去から未来に直線的に流れる」という命題である。
でも、ほんとうに時間はそんなふうに流れているのだろうか。
「二行並韻はいっしょに来る」というのは、押韻している行は同時に構想されているということである。
例えばシェークスピア。
O! she doth teach the torches to burn bright.
It seems she hangs upon the cheek of night
Like a rich jewel in an Ethiop’s ear;
Beauty too rich for use, for earth too dear!
So shows a snowy dove trooping with crows,
As yonder lady o’er her fellows shows.
おお、燈火はあの娘に輝く術を教わるがいい!
黒人の耳を飾る目映い宝石さながら夜の頬に輝いている
手に取るにはあまりに美しい、この世のものとは思えぬ!
雪を欺く白鳩が烏の群れに降り立ったのか、
娘たちに立ち混じり一際燦然と輝くあの美しさ
(『ロミオとジュリエット』、福田恆存訳)
この6行では、bright と night, ear と dear, crows とshows が韻を踏んでいるわけであるが、シェークスピアはこれを二行ずつ書いていた、ということである。
つまり、一行目の最後がbright 「だったから」二行目の最後は同音の単語をスキャンして、nightをみつけたという時間の流れではなく、bright とnight は詩人に「同時に到来した」ということである。
同時に到来した二つの語を、シェークスピアは(どっちが先がいいかなと考えて)二行のそれぞれの末尾に配当したのである。
たぶん。
末尾の韻だけではない。。
他の語や文字も、どれも実際には詩人の「詩魂」には同時に到来しているのだと私は思う。
たとえば、最初の二行をよく見ると、teach, torche, cheek と同音が繰り返されている。
she, teach, she, seems, cheek でも同音も執拗に繰り返されている。
三行目と四行目を見る。
韻はもちろんear と dear であるが、それだけではない。
この二行のうちでもっとも「強い」語は固有名詞であるEthiop(エチオピア)である。
よく見ると4行目を構成する34文字のうちに、Ethiopのアナグラムを構成する語17文字がある。
Beauty too rich for use, for earth too dear!
細かく見ると切りがないが、このような「同音、同綴、アナグラムを構成する文字」が2行ごとに「固め打ち」されているということから、私たちが想像できるのは、二行並韻はおそらく「聴覚映像と視覚映像のアモルファスなかたまり」として詩人に到来するということである。
詩人はそれを分節して、経時的に配列する。
その結果、あたかも先行する文字や音韻が後続する文字や音韻を「導き出している」かのように仮象する。
詩人は時間の流れの中で詩作しているのではなく、詩作することによって、詩人が時間を紡ぎ出しているのである。
韻とアナグラムは時間系の中に紛れ込んだ美的変数ではなく、韻とアナグラムを常数核にして、時間そのものが醸成されているのである。
私はそんなふうに考えている。
それは音楽の場合も同じである。
モーツァルトの楽曲はすべて「一気に」その脳裏に到来した。彼はただそれを楽譜に「転写」するだけだったと言われている(だから、彼の楽譜には1カ所も書き直しがない)。
けれども、楽譜に転写中のモーツァルトに向かって「途中はいいから、最終楽章の最終楽節だけ聴かせてくれ」と頼んでも、あるいは「次の楽節を最後の音から逆に演奏してくれ」と頼んでも、たぶん「それは無理だ」と言われただろう。
たしかに曲は終わりまで完成している。
モーツァルトはそれを「出力」しているだけである。
けれども、それを「出力」するためには、通時的な流れを形成しなければならない。
定められた順番通りに演奏しないと、次の楽章には進めない。
時間はそのようにして生成されるのである。
詩や音楽が人間にとっての時間を作り出すのである。
「人間的時間」とはそのことである。

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