大学はどうなるのか

2009-02-07 samedi

バリ島から帰ってきてそのまま会議。
ほんとうは午前中にも会議があり、それにも出席しなければならなかったのであるが、その頃はまだ家にたどりついていなかったのでご無礼。
30分ほど前に教務部長のデスクにつくや、教務課長が「ちょっとご相談が・・・」とおいでになっていろいろ相談ごと。
むむむ、それは困ったことですな。
ま、ナントカしましょう。
その後学長を囲んでややコンフィデンシャルな会議。
むむむ、それは困ったことですな。
ま、ナントカなるでしょう。
その後合否判定教授会。
一般入試の志願者数は全学平均で前年比98%(総合文化学科は前年比103%)。
「100年に一度」の経済危機で、志願者が志望校の絞り込みに入っている今年は、私学はどこも軒並み志願者数を下げて、苦戦している。
新学部新学科は「ご祝儀」で、初年度には必ず志願者が殺到するのだが、それもうまくゆかない大学が多い。
受験生たちも「こうやれば受験生は集まる」というあざとい経営感覚に対してはかなり警戒的になっているのだと思う。
小泉構造改革の目玉の一つだった「株式会社立大学」はすでに急激な志願者減に苦しんでいる。
遠からず、そのほとんどが廃校になるだろうと私は予測している。
だが、当然にもという言うべきか、株式会社立大学の旗を振った政治家や官僚や知識人やコンサル稼業の諸君の中で、この状況に際会して、「どうもすみませんでした」と詫びる人間は一人もいない。
そのせいで、現実感覚に乏しい大学の多くはいまだに「経営主導」で大学教育をいじり回している。
繰り返し言うが、大学は「こういう教育を行いたい」と強く念じる人によって創建されたのであり、大学を存続させるために「どういう教育プログラムを実施すればいいのか?」という問いを立てること自体、そもそも本末転倒なのである。
大学を存続させる力は「世間がなんと言おうと、こういう教育を行いたい」とつよく念じるモラルの高い教職員たちのオーバーアチーブである。
ビジネスマン主導の大学の共通する特徴は、大学教授会の権限がきわめて低いことである。
大学教員は本態的に惰性が強く、変化を好まないので、新学部や新学科の設置や新しい教育プログラムの導入に、あまり積極的ではない。
これはそれでよいのである。
教師というのは「そういうもの」だからである。
教師というのは、「これまで誰もやったことのないすばらしい教育を行おう」というふうにはふつう考えない。
現状に満足しているからではない。
そうではなくて、「むかしはうまくいっていたのに、いつのまにすっかり堕落してしまった “教育の黄金時代” にもう一度還らなければならない」と考えるのである。
教育者は本質的に「黄金時代」を懐古的に志向する。
私が知る限り、「教える」ことに卓越していたすべての知者がそうである。
むろん、ビジネスマンはそのようなことを考えない。
「むかしはうまくいっていた、あの “商いの黄金時代” にもう一度還ろう」というようなことを言う経営者はどこにもいない。
しかし、大学に30年いてわかったことは、教育については「あらゆる教育プログラムが滑らかに進行し、学生たちの顔が知性と歓喜に輝いていた “教育の黄金時代” をもう一度甦らせよう」というタイプの「物語」が教育者を「やる気」にさせる上でもっとも効果的であるということである。
大学のような人的資源「だけ」がほとんど唯一の駆動力であるシステムにおいては、「教師のやる気」をどうやって恒常的に高揚させ続けるかということがマネジメントの基本である。
ところが、大学教育に参入してきた “ビジネスマン” たちの中に、「大学という特殊なシステムにおいて教職員のパフォーマンスを継続的に高止まりさせるにはどうしたらいいのか?」というふうに問いを立てる人間はみごとにひとりもいなかった。
彼らは「どうやって教職員を脅し上げ、萎縮させ、従順にさせ、馴致させるか」ということばかり考えてきた。
そうやれば「給料分の仕事はするだろう」と思ったのである。
たしかに、そうすれば多くの人は「給料分の仕事をする」ようになる。
けれども、それは同時に「給料分以上の仕事をしていた人々」からフリーハンドを奪うことを意味している。
教育の現場は「給料分以上の仕事(場合によってはその10倍、20倍分の仕事)をする人々」が一定数恒常的に存在することで保っているということを忘れてもらっては困る。
そういう人たちがまったく自発的に「給料分の仕事をしない」教職員(もちろん、たくさんいる)の不足分を補う以上のことをしているから教育現場は回ってきているのである。
ところが、「給料分の仕事を、Job description 通りの仕事をしろ」ということは、オーバーアチーブの機会そのものを奪うことになる。
そのリスクに対してビジネスマインドな人たちはあまりに無自覚である。
教育上のオーバーアチーブというのは、平たく言えば、「レギュラーな教育活動以外のことを、大学の内外で、公的資源も私的資源もごっちゃにして、管理も統制も受けないで気ままに行う」ことだからである。
そのようなアナーキーを管理的マインドの勝った経営者は許さない。
だから、ビジネスマインドで経営される大学では、たしかに大学構成員のあれこれの議を経ることなしに、トップダウンで次々と機構改革が行われ、教育プログラムが刷新されて、すばらしい「ハコ」はできあがるのだが、それにつれて、実際にそれを機能させなければならない教職員たちの「やる気」はどんどん劣化してゆくのである。
教職員の全員に「給料分の仕事をきちんとさせるシステム」を作ると、教育現場のパフォーマンスは低下する。
「全員に給料分の仕事をきちんとさせるシステム」は「やりたい人間は給料分以上の仕事をいくらでもできるシステム」とは共存できないからである。
システム管理の原理において、この両者は氷炭相容れない。
私たちはどちらかを選ぶしかない。
そして、凡庸なビジネスマンは決して後者を選ばないのである。
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