バリ島に来ている。
このところ毎年二月にバリ島に5日ほど滞在するというのが慣例化している。
一度はじめたことはなかなか止めないというのは私の悪癖であるが、バリ島もそうなりつつある。
2月は雨期なので、毎日雨がじゃんじゃん降っている。
「車軸を流すような雨」という言葉があるが、ほんとうに車軸ほどの太さの雨が豪快に天から降り注ぐ。
日本なら、たちまち土砂崩れ、新幹線不通、高速道路通行止めレベルの豪雨である。
それが「ふつう」なのである。
バリ島の人々はそんな雨をにこやかに眺めて、動じる風もない。
温帯モンスーン地域固有のこの「自然に対するなげやりな態度」が私は好きである。
ヨーロッパ人は「自然は征服し、統御すべきもの」として観念しているから、こんな雨に対して、なんとなく「許せない」という印象を抱くのであろうが、私たちアジア人は雨を見ているとつい「だらりん」としてしまう。
「雨雨ふれふれ」という童謡があるが、「ふれふれ」というこの「対自然どうでもええけんね(所詮わしらただの人間じゃけん)」感はアジアならではのものである。
というわけで雨がじゃんじゃん降るバリ島のホテルの一室で、朝からぼんやり外の「車軸」を眺めつつ、次々と原稿を書き飛ばしている。
「マルクス書簡その2」(これは石川 “ワルモノ” 康宏先生との往復書簡。「高校生にマルクスを読んでもらおう」というたいへん教化的な企画である)。
『共産党宣言』から『資本論』まで、一冊ずつブックガイドをして、高校生に(中学生あるいは大学生でも可)「マルクス、読みたい」と思わせようというねらいである。
石川先生がマルクスの思想や文献の解題といった「学問的パート」を担当し、私がマルクスの文章のどこが「かっこいい」かを論じる「文学的パート」を担当する。
マルクスは「かっこいい」ということを指摘する人はあまりいないが、古今東西どんなテクストであれ、100年読み継がれる名作というのは、だいたい5頁おきに「決めのフレーズ」が満載されている本と相場が決まっている。
かたわらにノートを置いて「名言集」を書き出したくなる、というのが「100年リーダブルな名作」の条件である。
その場合の「名言」というのはそこで論じている当の論件にはしばしば無関係である。
推論の運びや修辞的なトリックや絶妙のメタファーに私たちは「おおお、かっこいい」と震えるのである。
世界の構造が解明されても、読者はあまり感動しないが、世界の構造を解明するとき書き手自身の高揚感(「どうしてこんなことがすらすらわかっちゃうんだろう。オレって、天才? もしかして」)がもたらす「筆の走り」のもたらす快楽は感動的である。
マルクスは掛け値なしの天才であり、その天才性は「自分がどうしてこんなにすらすらものごとを解明できるのか、自分でもよくわからない」
という「あれよあれよ」感のうちににじみ出すのである。
私の仕事はそのマルクス自身のエクリチュールの絶頂感をひたすら追い求め、読者にも追体験していただくことである。
マルクス主義の「コンテンツ」の意義や有用性についてはワルモノ先生に丸投げして、私は「快楽方面」にだけ特化、というたいへん美味しい企画なのである。
続いて「日本辺境論」の続きを書く。
ほぼ半分書き終わる。
これは夏ごろに新潮新書から出る予定。
締め切りがあるので、毎日新聞の「水脈」の原稿を書く。さらさら。
もうひとつ『ミーツ』のケータイ文化論の原稿を書く。
これはドコモとのタイアップ記事なので、ケータイの否定的側面にはいっさい言及してはならないという「コンプライアンス」付きの原稿である。
ふつう私はそのような七面倒な原稿は引き受けないのであるが、ゼミの卒業生のタダヒロコの頼みなので、引き受けたのである。
しかし、「コンプライアンス」などといわれると、生来の「あまのじゃく」がむらむらと発動して、頭の中に浮かぶのは「ケータイがいかに禍々しいツールであり、日本の青少年を害しているか」という話柄ばかりである。
もって生まれた性格とはいえ、因果なことである。
しかたがないので、できるだけケータイが出てこない話を書く。
これではタイアップ記事として機能しないのではないかと思うが…
バリ島で書くべきすべての原稿を書き上げたら、ちょうど雨が上がったので、海パンに履き換えて海岸に行くことにする。
今回もってきた本は『アンナ・カレーニナ』。
前にハワイにトーマス・マンの『魔の山』をもっていったことがあったが、これはまったくミスマッチであった。
バリ島と『アンナ・カレーニナ』はなかなか相性がよいと見た。
『アンナ・カレーニナ』に出てくる諸君も、さっぱり仕事をしないで、だらだら舞踏会や社交的な集まりや噂話に耽っているからである。
ペテルスブルクの雪景色とバリ島の「のほほん」感はナイスマッチングである。
『アンナ・カレーニナ』も世界文学だけあって「おおお」と思わず唸り出すような洞察の言葉に満ちている。
冒頭の一句はあまりに有名。
「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。」(木村浩訳、新潮文庫、1972年、5頁)
その他にも名言の宝庫である。
「オブロンスキーは微笑を浮かべた。彼にはリョービンの気持ちが手に取るようにわかっていたのである。つまり、リョービンにとっては、世界じゅうの娘たちは二つの種類に分かれているのだ。第一は彼女をのぞいた世界じゅうの娘たちで、それらの娘たちはあらゆる人間的欠点をもった、もっとも平凡な娘たちであり、第二の種類は彼女ただひとりで、それはなにひとつ欠点をもたない、いっさいの人間的なものを超越した存在であった。」(80頁)
なるほど、なかなか巧みな修辞ですが、それが何か…と疑問をもたれる方もおられるだろうが、その方は次の引用を読まねばならぬ。
「ペテルブルクにおけるヴロンスキーの世界は、すべての人びとがまったく相反する二つの種類にわかれていた。一つは下等な種類であって、これは月並みな、愚劣な、とくに、こっけいな連中が属しており、この連中は、夫たるものはいったん結婚したら、ただひとりの妻を守らねばならぬとか、乙女は純潔でなければならぬとか、女はしとやかで、男は男らしく節操を持して堅実でなければならぬとか、子女を教育し、労働によってみずからのパンをかせぎ、借金は返さねばならぬとか、そういったばかげたことを信じているのであった。つまり、旧式でこっけいな人びとに属していたのである。ところが、もうひとつ別の種類の、ほんとうの人間がおり、彼らはみはこれに属していた。この種の人びとは、なによりもまず優美で、美しく、おおらかで、大胆で、快活でなければならず、また頬を赤らめもせずに、あらゆる情欲に身をゆだね、その他いっさいのものを冷笑しなければならなかった。」(235−6頁)
「すべての人間は二種類にわかたれる」というのは『スイングガールズ』で繰り返される名台詞だが、元ネタはトルストイだったんですね。
さて、そのトルストイは「愚鈍さの諸様態」を愛情をこめて描くことにおいてその天才を発揮するわけだが、どうやらトルストイは「世界は二種類の人間に分たれる」という考え方をある種の愚鈍さの典型的な様態とみなしていたようである。
おそらく世界は二種類の人間に分たれるのだ。
「『世界は二種類の人間に分たれる』と考える人間と、そう考えない人間」に。
つまり、人間の愚かしさには底がない、ということである。
さすが文豪。
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(2009-02-07 10:33)