人間的時間

2009-02-28 samedi

大学で昼から会議があるので、ブログを途中まで書いて、大急ぎで投稿してしまったが、もちろん、こんな説明では誰にも意味がわからないであろう。
どうして、押韻とアナグラムは「時間的現象」であり、私たちはそれをうまく語る時間論を持っていないのか。
それについてご説明しよう。
ある行末に fountain という語を置いたら、次の行の末尾は mountain が選好されるというふうに韻が選択されるとしたら、それはずいぶん詩作において不自由なことではないか。
福原麟太郎は英国の詩人たちにそう問いただした。
答えは「ノー」であった。
なぜなら、二行並韻は「いっしょに来る」からである。
因習的に、時間意識というのは直線的に「過去から未来に向けて流れる」と考えると尾韻は音楽的な響きの代償に詩想を制限するものとして現れてくる。
末尾の同音が二行続くことの代償に、詩想が制約されることは、どう考えても不利なバーゲンである。
だから、近代の詩人たちは定型詩を棄てた。
音楽的定型よりも詩想の自由を。
ぱちぱち。
しかし、この「詩想の自由」論の前提になっているのは「時間は過去から未来に直線的に流れる」という命題である。
でも、ほんとうに時間はそんなふうに流れているのだろうか。
「二行並韻はいっしょに来る」というのは、押韻している行は同時に構想されているということである。
例えばシェークスピア。

O! she doth teach the torches to burn bright.
It seems she hangs upon the cheek of night
Like a rich jewel in an Ethiop’s ear;
Beauty too rich for use, for earth too dear!
So shows a snowy dove trooping with crows,
As yonder lady o’er her fellows shows.
おお、燈火はあの娘に輝く術を教わるがいい!
黒人の耳を飾る目映い宝石さながら夜の頬に輝いている
手に取るにはあまりに美しい、この世のものとは思えぬ!
雪を欺く白鳩が烏の群れに降り立ったのか、
娘たちに立ち混じり一際燦然と輝くあの美しさ
(『ロミオとジュリエット』、福田恆存訳)

この6行では、bright と night、ear と dear、crows と shows が韻を踏んでいるわけであるが、シェークスピアはこれを二行ずつ書いていた、ということである。
つまり、一行目の最後が bright「だったから」二行目の最後は同音の単語をスキャンして、night をみつけたという時間の流れではなく、bright と night は詩人に「同時に到来した」ということである。
同時に到来した二つの語を、シェークスピアは(どっちが先がいいかなと考えて)二行のそれぞれの末尾に配当したのである。
たぶん。
末尾の韻だけではない。
他の語や文字も、どれも実際には詩人の「詩魂」には同時に到来しているのだと私は思う。
たとえば、最初の二行をよく見ると、teach, torche, cheek と同音が繰り返されている。
she, teach, she, seems, cheek でも同音も執拗に繰り返されている。
三行目と四行目を見る。
韻はもちろん ear と dear であるが、それだけではない。
この二行のうちでもっとも「強い」語は固有名詞である Ethiop(エチオピア)である。
よく見ると4行目を構成する34文字のうちに、Ethiop のアナグラムを構成する語17文字がある。
Beauty too rich for use, for earth too dear!
細かく見ると切りがないが、このような「同音、同綴、アナグラムを構成する文字」が2行ごとに「固め打ち」されているということから、私たちが想像できるのは、二行並韻はおそらく「聴覚映像と視覚映像のアモルファスなかたまり」として詩人に到来するということである。
詩人はそれを分節して、経時的に配列する。
その結果、あたかも先行する文字や音韻が後続する文字や音韻を「導き出している」かのように仮象する。
詩人は時間の流れの中で詩作しているのではなく、詩作することによって、詩人が時間を紡ぎ出しているのである。
韻とアナグラムは時間系の中に紛れ込んだ美的変数ではなく、韻とアナグラムを常数核にして、時間そのものが醸成されているのである。
私はそんなふうに考えている。
それは音楽の場合も同じである。
モーツァルトの楽曲はすべて「一気に」その脳裏に到来した。彼はただそれを楽譜に「転写」するだけだったと言われている(だから、彼の楽譜には1カ所も書き直しがない)。
けれども、楽譜に転写中のモーツァルトに向かって「途中はいいから、最終楽章の最終楽節だけ聴かせてくれ」と頼んでも、あるいは「次の楽節を最後の音から逆に演奏してくれ」と頼んでも、たぶん「それは無理だ」と言われただろう。
たしかに曲は終わりまで完成している。
モーツァルトはそれを「出力」しているだけである。
けれども、それを「出力」するためには、通時的な流れを形成しなければならない。
定められた順番通りに演奏しないと、次の楽章には進めない。
時間はそのようにして生成されるのである。
詩や音楽が人間にとっての時間を作り出すのである。
「人間的時間」とはそのことである。
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