翻訳についての二つの対話

2009-02-27 vendredi

高橋源一郎さんと柴田元幸さんの対談集『小説の読み方・書き方・訳し方』(河出書房新社)のゲラが届いたので、読む。
高橋さんも柴田さんも、小説を読んで、書いて、訳している。
柴田さんは不思議な味わいの短編集をいくつか出している(『バレンタイン』と『それは私です』が私の書架にはある)。
高橋さんの訳書にはジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ・ビッグシティー』がある。
よい訳である。
高橋さんにももっと翻訳をしてほしいけれど、小説を書く方が忙しくて、そこまで手が回らないようである。
小説を書くことの意味、小説を訳すことの意味について、たぶん現代日本でもっとも深く遠くまで考えている二人による対談であるから、すごく面白い。
私はよく考えたら、小説を書いたこともないし、訳したこともない。
あれほどたくさん翻訳をしていながら、一度も小説を訳したことがない。
どうしてだろう。
一人一人には、なにか性格的趨向性のようなものがあって、それに無意識に縛られているのかもしれない。
よく、わからない。
「小説を読んで、書いて、訳して」という営みをほぼ完璧なバランスで行っている人というと村上春樹である。
柴田さんはその翻訳家としてのキャリアを実際には村上春樹の翻訳チェックの仕事から始めた。
そして、「翻訳を舐めるようにチェックする仕事を何冊かやらせてもらって、その中で『あっ、これはこう訳せばいいのか』みたいに、なんとなく思ったことがいっぱいあった。それが私にとっての唯一の翻訳の勉強で、あれは得難い経験でした」(58頁)と回想している。
高橋さんは 1979 年に横浜の有隣堂で『群像』を立ち読みして、その年の新人賞受賞作を読んだときに、「驚いたのは、方向は違うんだけれども、この人も同じことをやっているなと思った」(36頁)と書いている。
だから、村上春樹はこの対談の「その場に居合わせない三人目の参会者」のようにずっと対談の上に影を投げかけている。
でも、村上春樹を「バランスのよい作家」というふうにすらっと言ってしまってから、それはちょっと変だと気づいた。
「読み、書き、訳す」ことの「バランスがよい」という言い方そのものがかなり特異なことだからである。
というのは、英語圏やフランス語圏の作家たちが、例えば中国語や日本語で書かれた小説を、何年にもわたって日課として(「写経」するかのように)訳すという光景を私はうまく想像することができないからである。
東洋の言語で書かれた小説を訳すことが彼らの小説家としての成熟に必須であると本人が信じ、周りの人もその翻訳を心待ちにしているというようなことが日本語圏以外の地の作家たちの身に起きているのだろうか。
たぶん起きてないと思う。
日課のように外国語の文献を読み続け、それを受け容れ、咀嚼できるように、自国語そのものを改鋳し、押し広げてゆくことは私たちにとっては知的営為のほとんど「基本」である。
けれども、それはもしかすると、アジアやアフリカのごく一部の地域の、ごく一部の社会集団でだけ行われていることではあるまいか。
外国語を読み、それと自国語を突き合わせ、それによって現に自分がそれを用いて思考し、表現している自国語の構造について遡及的に省察することの有用性は「読み、書き、訳す」人間にとっては自明のことだけれど、それが自明であると感じられるのは、ごく例外的な文化圏においてだけのことではあるまいか。
そして、そのポジションがときに人を例外的な知的高揚をもたらすことがある。
高橋さんと柴田さんの対談を読んで、私はむかし、これと似たような種類の知的緊張感にあふれた翻訳論があったことを思い出した。
それは福原麟太郎と吉川幸次郎の往復書簡『二都詩問』(新潮社、1971年)である。
実は、「思い出した」わりに、私はこの原著を読んだことがないのである。
当時、石川淳が朝日新聞の夕刊に月一で書いていた「文林通言」にあった短い引用を読んで「わ、すごい本」と思っただけである。
でも二十歳の私はビンボーだったので、こんな高い本は買えずに、そのままになっていた。
記憶にインプリントされていたその書名が高橋さんと柴田さんの対談を読んでいるうちに思い出され、amazon で検索したら、古本がマーケットプレイスに出ていた(ほんとうに便利な世の中になったものである)。さっそく購入。
一読して驚倒。
この本が出た頃、私はまだ二十歳だったわけだが、そのころには「こういう桁外れの学殖を備えた大人」がいたのである。
もういない。
大人がいなくなったのは、歴史のしからしむるところだから嘆いても仕方がない。
さいわい書物は残っている。
石川淳が書評で引用していたのは、韻をめぐる吉川幸次郎の一文である(40 年前のことを覚えていたところをみると、よほど印象的な一節だったのであろう)。
すぐにみつかった。

「この外国人からは面倒そうに見える詩法を、本国の人には、所要の行き先と合致するバスを、町角で待っているほどの面倒としか感じさせないのでないかと申すにとどめます。」(23頁)

ここで福原、吉川はそれぞれ英文学、中国文学についての膨大な学殖を駆使して、「韻」とは何かということを論じている。
そして、吉川は詩法としての韻とは何かと正面から問い、それが「わからない」と答えている。

「それよりも伺いたいのは、尾韻というものは、一たい何だろうということです。何だろうとは、大へん漠然たる問い方ですが、詩法としてどういう効果なり意義なりをもつかということになりましょう。中国ではあまりに普通のことだからでありましょう。それを説いたものを思い当たりません。(…) 韻のふみ方はいろいろ書いてあっても、韻とは何ぞやという問題は、あまり論ぜられていないと感じました」(23-24頁)

私はここで「ぱたり」と本を取り落としてしまった(騒がしい読者である)。
すげ〜
それはソシュールのことを思い出したからである。
ご存じないかたが多いだろうが、ソシュールは一般言語学講義のあと、ラテン詩における「アナグラム」の研究に余生を割いた。
アナグラムというは「変綴」のことである。
詩編の主題をなる鍵語がある(ふつうは人名とか、印象深い名詞)その綴り字をバラした語が詩編中に散乱している。
例えば、ルクレティウスの『物性について』の冒頭十三行はヴィーナスに対する呼びかけの詩句であるが、その中にソシュールは Aphrodite(これはヴィーナスのギリシャ語名)のアナグラム三つを発見した。
これは意図的な修辞なのか、偶然の結果なのか。ソシュールはその問いを前にして困惑した。
というのは、もしアナグラムが修辞法の一部であるとするならば、古典の詩論の中に一つくらいは「アナグラムによる修辞的効果」についての言及があってよいはずだからである。
だが、ソシュールの強記博覧をもってしても、アナグラムの詩学について書かれたラテン語文献は一つも発見できなかった。

「だが、吉川幸次郎の強記博覧をもってしても、押韻の意味について書かれた中国語文献は一つも発見できなかった」

アナグラムと押韻は「あまりにふつうに行われているので、それについて誰も主題的に論じることのない詩法」である。
どうして、それは主題的に論じられないのか。
私の仮説はこうだ。
それはこの二つがいずれも「時間をフライングすること」だからである。
福原は吉川のこの問いの前の書簡で、英詩人の押韻についてこう書いている。
「そこで私は、英国の詩人たちに、韻(ライム)は、君達にとってどうなのだと、いく人かに聞いてみたことがあります。(…) 韻を踏む必要があるために、自然、内容を制限されて、言いたいことも十分言えず、また余計なことばを加えて不自然になることもあるのではないか、と訊ねたのでした。例えば、ファウンテン(泉)という語を使うと、どうしても、それに押韻してマウンテン(山)という語をあとで使わざるを得なくなるだろう、そうするとどうしても詩的感興の自由な正直な表現を欠くに至るだろうと申しました。すると彼らの一人が非常に適切な返事をしてくれました。『それはそうだけれどね、』と彼は答えたのでした。『ぼくたちはカプレット(二行並韻)を書くときは、二行一しょに考えているんだよ。』」(13頁)

「なぜ韻を踏むのか」を説く詩学が存在しないのは、「なぜアナグラムが存在するのか」を説く詩学が存在しないのと同じ理由による。
それは私たちが実は時間をフライングして未来にゆけるのだが、そのことをうまく説明できる「時間論」をまだ持っていないからである。
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