痩我慢合戦

2009-02-23 lundi

麻生内閣の支持率が11%まで落ちたと毎日新聞が報じている。
でも、首相は恋々として政権にしがみついている。
恋々というのも正確ではない。
おそらく、「やめどき」を逸したせいで、やめようがなくなって、困惑し果てているのだろう。
舞台に出たはいいが、退場のきっかけがわからず、観客から「ひっこめ」とトマトとかバナナの皮とか投げつけられてるのだけれど「ひっこむタイミングがわかんないんです」と半べそをかいているへぼ役者のようである。
気の毒である。
政治家の出処進退はまことにむずかしい。
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」
これは勝海舟の言葉である。
出処進退の決定については私には私なりの基準がある。それは公言して、他人の承認を求める筋のものでもない。毀誉褒貶は所詮他人ごとである。オレは知らんよ。
もちろん勝海舟だって、できることなら「勝先生は実に出処進退が鮮やかですなあ」とほめられたかった。
でも、実は内心忸怩たるものがあったので、こんな言葉を書いてしまったのである。
その話をしよう。

福沢諭吉に『痩我慢の説』と題する奇書がある。
旧幕臣でありながら、維新後新政府に出仕して栄達を遂げた勝海舟と榎本武揚の出処進退をきびしく批判したテクストである。
福沢は『福翁自伝』で幕末の幕府の制度劣化を口を極めて罵っているが、にもかかかわらず、旧君徳川家の鴻恩を忘れず、明治政府の政策に対して歯に衣着せぬ寸鉄の批判を繰り広げ、一私塾の教師として、生涯を終えた。
「旧君の鴻恩を忘れず」というのは、ほんとうは正確ではない。
「旧君の鴻恩を忘れない」という「構え」が(たとえそれが実感をもたないフィクションであっても)社会の一部の人間によって引き受けられていないと、社会制度は保たないと考えていたので、あえてそのようにふるまったのである。
「きれいごと」をリアルかつクールに演じ切れる人間が、一定数いないと、社会は保たない。
そこらの十把一絡げの三下連中は、強いものについて付和雷同すればよい。
どうせ三下なんだから、たいしたことはできやしない。
けれども、勝や榎本のような傑出した人間は、無理を承知で「痩我慢」する例外的な責務があるんじゃないか。
そういうことができるだけの器量に生まれついたか、刻苦勉励それだけのスケールの人間になれたんだから。
「痩我慢」ができる人間とできない人間のあいだに人間の格の違いというのは出るんじゃないか。
勝や榎本の炯眼をもってすれば、そのあたりのことは熟知されていていいんじゃないか。
というようなことを福沢は述べているのである。
福沢諭吉というのは、まことに近代日本を代表する “リアリスト” である。
その『痩我慢の説』の冒頭に曰く。

「立国は私なり、公に非ざるなり」

国民国家なんていうものをつくるのは「私」的な事情だ、と言っているのである。
国家というのは、本質的に「プライヴェートなもの」だと言っているのである。
すごいね。

「なんぞ必ずしも区々たる人為の国を分て人為の境界を定むることを須いんや。いはんやその国を分て隣国と境界を争うにおいてをや。いはんや隣の不幸を顧みずして自ら利せんとするにおいてをや。いはんや国に一個の首領を立て、これを君として仰ぎこれを主として事え、その君主のために衆人の生命財産を空しうするがごときにおいてをや。いはんや一国中になお幾多の小区域を分ち、毎区の人民おのおの一個の長者を戴きてこれに服従するのみか、つねに隣区と競争して利害を殊にするにおいてをや。」

国境だの国土などというものは、要するに人間が勝手にこしらえあげたものであって、単なる「想像の共同体」にすぎぬと言うのである。
ルナンよりもゲルナーよりもミシュレよりも早く、明治24年にちゃんと福沢諭吉がそう言っているのである。
国家なんていうのはただの「アイディア」だぜ、と。

「すべてこれ人間の私情に生じたることにして天然の公道にあらずといへども、開闢以来今日に至るまで世界中の事相を観るに、各種の人民相分れて一群を成し、その一群中に言語文字を共にし、歴史口碑を共にし、婚姻相通じ、交際相親しみ、飲食衣服の物、すべてその趣を同じうして、自ら苦楽を共にするときは、復た離散すること能はず。すなわち国を立てまた政府を設くる所以にして、すでに一国の名を成すときは人民ますますこれに固着して自他の分を明かにし、他国政府に対しては恰も痛痒相感ぜざるがごとくなるのみならず、陰陽表裏共に自家の利益栄誉を主張してほとんど至らざるところなく、そのこれを主張することいよいよ盛なる者に附するに忠君愛国の名を以てして、国民最上の美徳と称するこそ不思議なれ。」(福沢諭吉、「痩我慢の説」、『明治十年丁丑公論・痩我慢の説』、講談社学術文庫、1985年、50-51頁)

そういうふうに勝手に作り出した政治的幻想である国家に「鴻恩」を感じ、そのようなメンタリティを「忠君愛国」と称して賞美するなんてバカじゃないのと言っているのである。
それだけなら、当今の高校生だって言えそうである。
福沢諭吉がすごいのは、話がそれで終わるのではなく、話がそこから始まるからである。

「忠君愛国は哲学流に解すれば純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といはざるを得ず。すなわち哲学の私情は立国の公道にして、(…) 外に対するの私を以て内のためにするの公道と認めざるはなし。」(51頁)

立国立政府は論理的には純然たる私事であるけれど、「当今の世界の事相」を鑑みるに、これをあたかも「公道」であるかに偽称せざるを得ない、と。
論理的には私だが、現実的には公である。
ふつうは逆ですよね。
きょうびの政治家や高級官僚たちは、国や政府を「現実的には私物であるが、建前上は公物」として扱っている。
福沢はその逆を言っているのである。
国家は私的幻想にすぎない。
しかし、これをあたかも公道であるかのように見立てることが私たちが生き延びるためには必要である、と。
話はそれでは終わらない。
どうやって私的幻想を公道にみせかけるか。
福沢はその政治技術論に進む。
私的幻想を公道に見せかける「大技」は平時には不要である。(「平時にありてはさしたる艱難もなし」)
それは国家危急存亡のときに繰り出すべきものである。

「時勢の変遷に従て国の盛衰なきを得ず。その衰勢に及んではとても自他の地歩を維持するに足らず、廃滅の数すでに明かなりといへども、なお万一の僥倖を期して屈することを為さず、実際に力尽きて然る後に斃るるはこれまた人情の然らしむるところにして、その趣を喩へていへば、父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるがごとし。(…)
さすれば自国の衰頽に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を議するか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなはち俗に言う痩我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの痩我慢に拠らざるはなし。啻に戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際においても痩我慢の一義は決してこれを忘れるべからず。(…) 我慢能く国の栄誉を保つものといふべし。」(52-3頁)

国家は私情である。
痩我慢はさらに私情である。
しかし、この私情の痩我慢抜きには私情としての国家は成り立たない。

「痩我慢の一主義は固より私情に出ることにして、冷淡なる数理より論ずるときはほとんど児戯に等しといはるるも弁解に辞なきがごとくなれども、世界古今の実際において、所謂国家なるものを目的に定めてこれを維持保存せんとする者は、この主義に由らざるはなし。」(54頁)

そして、話は王政復古。
勝海舟の江戸無血開城は数理の結論ではあるが人情に背反しているがゆえに、いずれ数理的にも失着であるとして福沢はこれに筆誅を加えるのである。

「蓋し勝氏輩の所見は内乱の戦争を以て無上の災害無益の労費と認め、味方に勝算なき限りは速に和して速に事を収るに若かずとの数理を信じたるものより外ならず。その口に説くところを聞けば主公の安危または外交の利害などいふといへども、その心術の底を叩いてこれを極むるときは彼の哲学流の一種にして、人事国事に痩我慢は無益なりとて、古来日本国の上流社会にもっとも重んずるところの一大主義を曖昧模糊の間に瞞着したる者なりと評して、これに答ふる辞はなかるべし。(…)
当時積弱の幕府に勝算なきは我輩も勝氏とともにこれを知るといへども、士風維持の一方より論ずるときは、国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言うべき限りに非ず。」(57頁)

そして、福沢は勝海舟にこう宣告を下す。

「我日本国民に固有する痩我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。一時の兵禍を免れしめたると、万世の士気を傷つけたると、その功罪相償うべきや。」(61頁)

短期的なタームで観れば勝海舟の選択は正しい。
けれども、「一時の兵禍」を免れた代償に、爾今、日本人が「痩我慢」の美風を捨てることになったとすれば、これは結局算盤に合わない。
「痩我慢」を放棄したことがいずれどれほどの国家的災厄を呼び寄せることになるか、私たちはこれから近代日本人の限りない「愚化俗化」というかたちで骨身にしみて経験することになるだろう。
福沢はそう言っている。
この論が生産的なのは、福沢と勝という二人の傑出したリアリストが「どちらがよりリアリスト」かを競っているからである。
どちらが正しいか、ではない。
どちらの見通しが「妥当する範囲が広い」かを競っているのである。
ここでの賭け金は「計量的な正しさ」である。
「私が正しく、おまえは間違っている」ではなく「私は51%くらい正しく、君は49%くらい正しい。だから2%分、私が正しい。さて、その2%とは何かというと、君が見落としたファクターである・・・」という話をしているのである。
だから、この草稿を、「これを公刊するつもりだが、事実誤認ほか、訂正すべき箇所があればご教示願いたい」と福沢が勝に示したときに、勝はこう答えた。

「いにしえより当路者、古今一世の人物にあらざれば、衆賢の批評に当たる者あらず。はからずも拙老先年の行為に於て御議論数百言御指摘、実に慚愧に堪へず。御深志忝なく存じ候。」

むかしから政治の要路にいたもので、後世の史家の批評に耐えるほどの仕事をした人間は希である。自分のような鈍才の仕事の欠陥が指摘されるのは当然のことで、ごめんねと言うしかない。

「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せずと存じ候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これ無く候。御差越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候。」

出処進退はその人が自己決定することである。その成否や理非を論じるのは他人の仕事である。
私が「私のことはこう評価してください」と他人にあれこれリクエストする筋のものではない。
私への批判の文章、じゃんじゃん世間に発表してくださって結構。
でも、戴いた草稿は(なかなか面白いし、私自身の反省材料にもなるから)このままくださいね。
では〜

と勝手に現代語訳してしまったが、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」というこの「突っ張りぶり」を「痩我慢」と言わずしてなんと言うべきか。
福沢諭吉の「痩我慢の一大主義をあんたはどこに遣ったんだ」という詰問に、勝海舟は一世一代の痩我慢を以て回答したわけである。
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