講演カウントダウン

2009-02-22 dimanche

土曜日なのだけれど、お稽古をお休みして、天王寺まで行く。
大阪教育大付属天王寺で教育研究会があり、その講演に呼ばれたのである。
お題は「現場の教育論」
昨秋からあと、新規の講演は全部お断りしているので、講演もカウントダウンである。
このあと、4月に日比谷高校の同窓会の講演があって(これは断れないですよね、だいたい卒業してないんだから)、6月にめぐみ会の講演があって(これも断れないですね)、あと2つくらい去年うっかり引き受けてしまったものがあり、それでおしまいである。
入試部長になるので、職務上人前でしゃべる機会は増えるけれど、それはセールストークで講演ではない。
講演がたいへんなのは、その日その時間にそこにいなければいけないからである。
原稿はその点自由で、締め切りさえ守れば、いつどこでどんな恰好で書いたって構わない。
風邪引いて、鼻水たらしながら、パジャマで書いてもいい。
講演はそうはゆかない。
一応、きちんとネクタイを締めてスーツを着て、靴も磨いて、髪も整えて、それなりの健康状態で、それなりの機嫌で迎えねばならぬ。
それが面倒である。
それに、同じ話をしなければならぬことが多い。
別に、違う話をしてもよいのであるが、教育関係の講演しか引き受けていないので、いきおいどこでも似たようなお題を頂く。
すると、結局、「なぜ子どもたちは学びを忌避するのか」「消費文化は主体性のありようをどのように変えたのか」「市場原理の導入は学校教育をどう破壊したか」といった基本的なことは抑えておかなければならない。
だが、私の考える「なぜ」「どのように」「どう」というのはふつうの人が言うこととぜんぜん違うので、情理を尽くしてご説明しなければ意味が通じない。
そのため「語の定義」の部分に講演時間の半分、うっかりすると8割ほどを割くことになる。
これでは話している私もいい加減退屈するのもやむを得ない。
私が退屈すると、退屈はただちに聴衆に感染し、ぱたぱたと眠り出す人が出て来る。それを見て私はますますやる気をなくして、話はさらに退屈になり・・・という悪循環に陥るのである。
これから話すことはだいたい本に書いてありますから、本買って読んでください、じゃあね〜と降壇したいのであるが、そうもゆかない。
というわけで講演はもう引き受けないことにした。
それなのに、今も三日に一度くらい講演依頼が来る。
それをいちいち「あのですね」と窮状を訴えて断らなければならない。
最近多いのは、もともと私の名前も知らず、本も読んだことないけれど、今朝の新聞でたまたまコラムを読んで「なかなか面白そうなこと書かれていたので」といきなり大学に電話をかけてきて「うちに来て、ちょっと講演してくれませんか」と言う人たちである。
あまつさえ、「で、お願いしたいのは来月なんですけど」と無理なことを言う。
きっと年度内に予算を消化しなければならないのであろう。
町田康の『外道の条件』を思い出す。
原稿依頼も同傾向である。
書評が新聞に出た翌日に限って「締め切りはタイトで、内容についての注文が多く、原稿料は些少」という寄稿依頼がばたばた来る。
困ったものである。
とはいえ、今回の講演は教育研究会で、聴衆はほとんどが中高の現役の先生たちであるから、聴き方は真剣で、寝ている人はあまりいない(後ろの方で一人、居眠りして途中で席から転げ落ちそうになった男がいたが)。
食い入るような聴衆の熱気にこちらも反応して、つい30分も時間をオーバーしてしまう。
「お話聞いて元気が出ました」と言われる。
私のような人間の話を聴いて、「明日からがんばるぞ」という気分になってくれる先生たちが実際にいるなら、こういう講演はやっぱり止めちゃいけないのかな・・・と決意が揺らぐ。
だから、なかなか仕事が減らないんだな。
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