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2011年04月 アーカイブ

2011.04.03

ル・モンドの記事を訳してみました

ル・モンドの4月1日の記事を訳出してみました。
サルコジ来日についての解説です。
クールですね。

「在日フランス人たちの反応のあまりの迅速さに対して、多少の留保があったことを私は理解している。」と共和国大統領は述べた。
「だが、これははっきり申し上げねばならない。『予防の原則』を適用することはフランス政府の義務であったということである。東京にぜひともとどまらなければならないもの以外のフランス人たちに対して出国を勧奨した決定の責任を私は引き受ける。」

ここでいう『多少の留保』とはどういうことであろう。
大使館はよれば、それは在日フランス人たちの中には、フランス外交官たちの反応が迅速すぎるというものがあり、一方には緊張感が足りないというものがあったということを意味しているそうである。
だが、フランス外務省にとって、それは日本のメディアのことである。日本のメディアは外国人たちのあまりにすばやい離日に驚いたのである。とりわけこの留保は、困難なときに外国人たちに見捨てられたと感じて傷ついた日本人たち自身のものである。

日本人はニコラ・サルコジに対して決してよいイメージを持ってはいない。2004年の演説の中でジャック・シラクの相撲への情熱を嘲弄したことを忘れていない。サルコジはこう言ったのだ。「てかてか油で光らせた巻き髪を結った肥満した男たちの格闘のいったいどこが面白いのか。あれは知識人のスポーツではない。」

日本の日刊紙、産経新聞はそのときのことを忘れずに引用して、大統領の日本文化への興味の乏しさをを強調した。とはいえ、大統領の演説は日本のメディアからはおおむね好印象をもって迎えられた。核の安全処理についての支援の約束に敬意を表したのである。

震災の翌日、フランス大使館のサイトの「情報と勧告」のブログに次のようなメッセージが通達された。「現在の状況(大地震のリスクと核問題による世情不安)を勘案すると、東京地域にとどまる特別の理由なきものについては、数日間関東地方を離れることを勧告することが合理的と思われる。またこれから日本に向かおうとするフランス人には止めることを勧告する。日本旅行を計画している方には計画の延期をお勧めしたい。」
数日後、このメッセージは消去された。
日本のメディアと政府が国民に冷静と連帯を求めているときに、このような脱出の誘いが日本人を不愉快にしたのはある意味当然である。大使館はこれは離日を勧めるものではないと訴えたが、17日18日にはフランス人をソウル経由で帰国させる特別便がチャーターされた。

日本にはフランスの企業が、とくに奢侈品と製造業の分野で、何社も展開している(Valeoなど)。例えば、Arevaは震災の翌日に従業員を西日本に送り出した。

この緊張を緩和するために、フランス大使フィリップ・フォールは日経新聞の閲覧者限定インタビューに応じた。迂回的な修辞を駆使して、大使は言い訳をしたが、あまり成功したようには思われない。

「ショックを受けて帰国したフランス人たちは個人的決断によってそうしたのです。中には勤め先の許可なしに帰国したものもいます。これは個人主義的な対応であり、眼に見えない核の脅威に対する恐怖に駆られたものです。だが、これがほめられた行動でないというのは事実であります。彼らとフランス企業に成り代わりまして、日本のみなさんに心からお詫びを申し上げたいと思います。」

メディアはニコラ・サルコジの介入とフランスからの支援に対しては敬意を表したが、フランスと日本のビジネスの関係がこれによってどういう影響を受けることになるのかは見通し不透明である。


2011.04.04

リスクヘッジについて

「疎開」について書いたのはもう2週間以上前のことだ。
そのときにいずれ政府や地方自治体が主導するかたちで組織的な疎開が進むだろうと書いた。
でも、そうなっていない。
枝野官房長官は18日の段階で記者会見でこう語っている。
「集団疎開の問題が県知事レベルで出てきている。疎開という言い方が正しいのかはわからないが、妊婦や高齢者など災害弱者とも言うべき人たちがいて、その人たちが当面の生活をおくるために、全国各地の人に協力してもらうということは具体的に考え始めているところ。」
この段階としては適切な発言だったと私は思うが、このあと、集団的な疎開についての積極的な提言があったことを知らない。

同じ頃、私のところへ「疎開論を撤回せよ」という声が集中的に寄せられた。
理由は「首都圏からの疎開」が大規模に実施されると、ただでさえ低迷している消費活動が鈍化し、日本経済に悪い影響を与えるからだという。
なるほど。そういう考え方もあるのか。

おっしゃるとおり、日本経済は東京一極集中構造である。
東京での経済活動が低迷すると、列島全体が地盤沈下するように制度設計されている。
現に、石原慎太郎も東国原英夫も「東京が日本を牽引しなければ、日本に未来はない」という、似たような言葉づかいで首都の重要性を強調していた。
だが、一都市が機能停止すると、国家全体が機能停止するようにシステムが設計されているとすれば、それは制度設計そのものが間違っているということである。
東京がシステムダウンしても、列島全体としてはただちに「東京抜き」でも社会システムが継続できるようにシステムは設計されるべきなのである。
リスクヘッジというのは「そういうもの」だ。

今回の原発事故で私たちが学んだ(と過去形で言えるとよいのだが)もっともたいせつな教訓の一つは、私たちの国のエスタブリッシュメントは「リスクヘッジ」ということの重要性をあまり理解していない方たちだったということである。
外交における安全保障を「日米安保一極集中」で処理してきたことを「成功体験」として総括した人たちは、無意識のうちにそれと同じように「すべての卵を同じ籠の中に入れる」方法がいちばん効率的で安全だと信じ込むようになった。
原発への依存も、資源の東京一極集中も、「日米安保一極集中」をモデルとして、社会制度を全部設計しようとしてきたこの30年間ほどの日本人の無意識の選択の結果のように私には見える。
私はおもに教育の現場に身を置いて、そこから発言してきたが、そこで繰り返し申し上げたことは「教育理念や教育方法は均質化・規格化すべきでない」ということである。
子どもたちを標準化して、「馴致しやすい市民」を人形焼きのように叩き出すことは平時においてはそれなりに賢明な選択である。
社会成員の全員が同じような価値観をもち、同質の能力をもち、欲望を共有する共同体では成員全員を1番からn番まで「格付け」することができるからである。
その「ポジション」に従って資源配分する。
それがグローバリズム的なフェアネスである。
けれども、全員が同質的であり、数値的な能力差だけがある「格付けしやすい社会」の最大の欠陥は、「想定外」の入力に対応できず、わずかな躓きで崩壊することである。

私たちの国の最大の強みは「付和雷同」という国民性格である。
「一億一丸となる」という点において、これほど凝集力のある国民国家は他に見出しがたい。
けれどもそれは同時に最大の弱みでもある。
生物学的多様性を確保できないからである。
みんなが同じ方向を向いて進む先に断崖があれば、全員ぱたぱたと墜落死する。
そのとき、さしたる理由もなく、「オレはそっちに行きたくないね」と別行動をとる個体が一定数いれば、集団は全滅を回避できる。
生物学的多様性というのは「そういうこと」である。
システムの適所に「付和雷同しないもの」をつねに一定数確保しておくということは、「システムクラッシュの回避」という点において必須の配慮なのである。
そのことを私たちの国の「秀才」たちはすぐに忘れてしまう。
というか「秀才」というのは定義上、「システムの平時」において能力を最大化するもののことであり、彼らに「有事対応能力」を求めること自体が間違っているのである。
そのような能力は別のタイプの人間たちに委ねなければならない。
その「別のタイプの人間」の育成と確保ということを、私はこれまで教育論の中でもときどき申し上げていたのであるが、誰も取り合ってくれなかった。

というわけで、もう一度申し上げるが、「有事対応」モデルというものが存在する。
宗教や武道は、そのような「有事対応モデル」を確保して、共同体を生き延びさせるという機能を久しく担っていたのである。
有事対応モデルというのは、ひとことで言えば、「どうしていいかわからないときに、どうしていいかわかる人間」のことである。
これについては、前に『亡国のイージス』という映画を見たあとの感想に書いたことがある。それを再録する。

『亡国のイージス』では、真田広之の演じる中間管理職サラリーマン的な先任伍長がファナティックで病的な愛国少年兵とコンビで日本を襲った軍事的危機を救う。
真田広之が敵にむけてためらわず銃撃する少年兵をたしなめて言う。
「撃つ前にためらうのが人間だろう。撃つ前に考えろ」
その忠告を受け容れて、動作に一瞬の「ためらい」を挟んだ少年兵は、こんどは「ためらわない」テロリストに撃ち殺されてしまう。
真田は「言われた通り、撃つ前に考えた」とつぶやく瀕死の少年兵にこう言う。
「考える前に考えるんだ」
よいことばである。
最適な戦略的選択をためらわない冷血さと同胞に対する制御できないほどの愛情という矛盾を同時に引き受け、それに引き裂かれてあることを常態とすること、それが「戦争ができる人間」の条件である。
その「引き裂かれてあること」を徹底的に身体化するというのが、「考える前に考える」ということである。

私は別のところで、「考える前に考える」能力を「先駆的直感」と言い換えたことがある。どちらも同じことである。
別に魔術を使うわけではない。
まだ「情報」というはっきりした輪郭をとらないノイジーな入力を「シグナル」として解読できる力のことである。
単純に言えば、「危険に対するセンサーの感度を上げる」ということである。
人間は生物である以上、自分の生存にかかわる危険に対しては程度の差はあれ、「ざわざわ感」を覚える。
それは数値的・外形的には表示されない。「データとして読まれる」閾値にまで達しないからである。
けれども、データとかエビデンスとかいうのは、尽きるところ「計測機器の精度」の産物である。
計測機器のメカニカルな精度が上がれば、「それまではエビデンスと認知されなかったもの」がエビデンスとみなされる。
エビデンスについて「存在する・しない」を論じるのは本質的にはナンセンスなことである。
エビデンスというのは、「その時点での手持ちの計測機器の精度の関数」に過ぎないのだから、エビデンスは本来「感知できる・できない」という言葉で語るべきなのである。
感知できる人間に感知できることが、感知できない人間には感知できない。
それは単純にメカニズムの精度の差に過ぎない。
「数値的に考量できるものだけが存在するものであり、数値化できないものは存在しないものだ」と思いなすのは、「エビデンスが検知できないのは自分の手持ちの計測機器の性能が低いからではないか」という自省の習慣をもたない怠惰な知性である。
そのような人間は「想定外」の事態の出来に対応することができない。

話を戻す。
危機の経験から私たちが学ぶべきなのは、「どうすれば危機は避けられたのか」という条件法過去的な吟味である。
私の答えは、繰り返し申し上げているように、「『他の人間には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえ、感知できないものが感知できる人間』を適所に配備し、有事においてはその知見を重んじる」ことができるようにシステムを設計する、ということである。
つまり、「秀才以外の人間」を一定数、私たちの社会機構の中枢に置くということである。
ある種の企業には新人採用において「バカ枠」というものが設けられているそうである。
言葉はあまりだが、言いたいことはよくわかる。
他の人間とは違う価値観をもち、違う視点、違う射程でものを眺め、誰も思いつかないソリューションを思いつく「変人枠」はどのような集団でも制度的に確保されていなければならない。
それは「政治的正しさ」でも「博愛主義」でもなく、共同体を存続させなければならないという剥き出しのリアリズムが要請するものなのである。

繰り返し書くが、危機に対する緊急避難的な手立ては、それが「正しい選択だった」というエビデンスが示されたときは、もう選択肢には残されていない。


2011.04.07

荒ぶる神の鎮め方

秋葉原のリナックス・カフェで、ラジオカフェの収録。今回はustで画像放映。
平川くん、中沢新一さんと、「カタストロフの後、日本をどう復興するか」について、語り合う。
その中で、中沢さんが「第七次エネルギー革命」で人類ははじめて、生態系に存在しないエネルギーを、いわば「神の火」を扱うようになった、という話を切り出した。
そのときmonotheisticとい単語が出て来た。
原子力テクノロジーというのは、いわば「荒ぶる神」をどう祀るかという問題である。
そうである以上、それぞれの社会の「神霊的」なもののとらえ方をストレートに繋がるのではないか。
という話を中沢さんから聞いているうちに、いろいろなことが「がちゃがちゃ」っとつながった。
数千年前、中東の荒野に起きた「一神教革命」というのは、人知を超え、人力によっては制することのできない、理解も共感も絶した巨大な力と人間はどう「折り合って」いけるかという問題に対しての一つの「答え」であった。
人知人力をはるかに超える巨大な力と「折り合う」ためには、ただ巨大な力を畏れ、慄くだけでは足りない。
信仰する側が、「絶えざる自己超克」という苦役をおのれに課すことではじめて、一神教の宗教意識は成り立つ。
おのれの理解も共感も絶した存在に向けて、おのれの知性の射程を限界まで延長し、霊的容量を限界まで押し広げるという「自己超越」の構えそのものを「信仰」のかたちに採用することによって、人類はその宗教性と科学性の爆発的な進化を成し遂げたのである。
爾来、一神教文化圏においては「主」を祀る仕方について膨大な経験知が蓄積されてきた。
原子力は20世紀に登場した「荒ぶる神」である。
そうである以上、欧米における原子力テクノロジーは、ユダヤ=キリスト教の祭儀と本質的な同型的な持つはずである。
神殿をつくり、神官をはべらせ、儀礼を行い、聖典を整える。
そう考えてヨーロッパの原発を思い浮かべると、これらがどれも「神殿」を模してつくられたものであることがわかる。
中央に「神殿」があり、「神官」たちの働く場所がそれを同心円的に囲んでいる。
その周囲何十キロかは恐るべき「神域」であるから、一般人は「神威」を畏れて、眼を伏せ、肌を覆い、禁忌に触れないための備えをせずには近づくことが許されない。
それは爆発的なエネルギーを人々にもたらすけれど、神意は計りがたく、いつ雷撃や噴火を以て人々を罰するか知れない・・・
原子力にかかわるときに、ヨーロッパの人々はおそらく一神教的なマナーを総動員して、「現代に荒ぶる神」に拝跪した。
そうではないかと思う。
それに対して、日本人はこれにどう対応したか。
最初それは広島長崎への原爆投下というかたちで日本人を襲った。
でも、それは「神の火」ではなく、「アメリカの火」であった。
だから、日本人は「神」ではなく、アメリカを拝跪することによって、原子力の怒りを鎮めることができるのではないかと考えた。
それが日米安保条約に日本人が託した霊的機能だったと私は思う。
神そのものではなく、世界内存在であるところの「その代理人」「その媒介者」「そのエージェント」に「とりなし」を求める。
代理人におべっかを使い、土下座し、袖の下を握らせることで、「外来の恐るべきもの」の圭角を削ろうとする。
これはきわめて日本人的なソリューションのように私には思われる。
神仏習合以来、日本人は外来の「恐るべきもの」を手近にある「具体的な存在者」と同一視したり、混同したり、アマルガムを作ったりして、「現実になじませる」という手法を採ってきた。
一神教圏で人々が「恐るべきもの」を隔離し、不可蝕のものとして敬するというかたちで身を守るのに対し、日本人は「恐るべきもの」を「あまり畏れなくていいもの」と化学的に結合させ、こてこてと装飾し、なじみのデザインで彩色し、「恐るべきものだか、あまり恐れなくもいいものだか、よくわかんない」状態のものに仕上げてしまうというかたちで自分を守る。
日本人は原子力に対してまず「金」をまぶしてみせた。
これでいきなり「荒ぶる神」は滑稽なほどに通俗化した。
「原子力は金になりまっせ」
という下卑たワーディングは、日本人の卑俗さを表しているというよりは、日本人の「恐怖」のねじくれた表象だと思った方がいい。
日本人は「あ、それは金の話なのか」と思うと「ほっとする」のである。
金の話なら、マネージ可能、コントロール可能だからだ。
なんでも金の話にする人間というのがいるけれど、あれは別に人並み外れて強欲なのではなく(そういう面もあるが)、むしろ人並み外れて「恐怖心が強い」人間なのではないかと思う。
出版社系の週刊誌の基本は「人間は色と欲でしか動かない」というシンプルな人間観だが、それは彼らがそう信じているということよりもむしろ、そう「信じたい」という無意識の欲望を映し出していると考えた方がいい。
彼らは「よくわからない人間」が怖いのだ。
どういうロジックで行動するのか見えない人間に対して恐怖を感じると、彼らは「それもこれも、結局は金が欲しいからなんだよ」という(自分でもあまり信じていない)説明で心を落ち着かせるのである。
その手を日本人は原子力相手に使った。
「原子力というのはね、あれは金になるんだよ」
そう言われ、自分でもそう言い聞かせているうちに、原子力という「人外」のものに対する恐怖心が抑制されたのである。
なんだ、そうなのか。あれはただの金づるなのか。なんだ、そうか。そうなら怖いことなんか、ありゃしない。ははは。ただの金儲けの道具なんだ、原子力って。
全員がそういう語り口を採用したのである。
政治家も、官僚も、もちろん電力会社の経営者も、原発を誘致した地方政治家も、地元の土建屋も、補償金をもらった人々も、みんな「あれはただの金儲けの道具なんだよ」と自分に言い聞かせることによって、原子力に対する自分自身の中にある底知れぬ恐怖をごまかしたのである。
一神教文化圏の人々は荒ぶる神を巨大な神殿に祀り、それを「畏れ、隔離する」というかたちで「テクニカルなリスクヘッジ」を試みた。
日本の人々は荒ぶる神を金儲けの道具にまで堕落させ、その在所を安っぽいベニヤの書き割りで囲って、「あんなもん、怖くもなんともないよ」と言い募ることで、「心のリスクヘッジ」を試みた。
福島原発のふざけた書き割りを見たヨーロッパやアメリカの原発関係者はかなり衝撃を受けたのではないかと思う。
その施設の老朽ぶりや、コストの安さや、安全設備の手抜きに心底驚愕したのではないかと思う。
どうして原子力のような危険なものを、こんなふうに「雑に」扱うのだろう・・・と海外の原子力研究者は頭を抱えたはずである。
そこまでして「コストカット」したかったのか?日本人は命より金が大事なのか?
もちろんそうではない。話は逆なのだ。
あまりに怖かったので、「あれは金儲けの道具にすぎない」という嘘を採用したのである。
原発の設備をあれほど粗雑に作ったのは、原子力に対する恐怖心をそうやってごまかそうとしたからなのである。「こんなものいくら粗雑に扱っても抵抗しやしねんだよ」と蹴ったり、唾を吐きかけたりして、「強がって」みせていたのである。
私はそう思う。
そうでも思わないと、あの粗雑な設備や安全管理のすさまじい手抜きを説明することができない。
原発は人間の欲望に奉仕する道具だ。
そういう話型にすべてを落とし込むことによって、私たち日本人は原子力を「頽落し果てて、人間に頤使されるほどに力を失った神」にみせかけようとしてきたのである。
もちろん、そうではなかった。
だから、私たちはいま「罰が当たった」という言葉に深く頷いてしまうのである。
自分たちがこれまで「瀆聖」のふるまいをしてきたことを、私たちは実は知っていたからである。

2011.04.08

原発供養

昨日の話の続き。
それぞれの社会集団は、「恐るべきもの」と折り合うために、それぞれ固有の「霊的作法」を持っているという話だった。
日本人は外来のものを排除せず、それを受け容れ、「アマルガム」を作る。
ユーラシア大陸の東端にあり、これから先はない、という辺境民が採用したのは、いわば、「ピジン型」の文明摂取方法だった。
これはヨーロッパの辺境、アイルランドの文明史的地位と構造的に似ている。
聖パトリキウスはケルトやドルイドの土着の神々たちとのまじわりの中でキリスト教を布教した。
そのときに土着の神々を「根絶」するというユダヤの神の苛烈さを避け、地祇たちを生き残らせた。
それがアイルランドに今も生き残る「妖精たち」である。
前に中沢新一さんとおしゃべりしたときに、『伊勢物語』に出てくる「在原業平」というのは固有名詞ではなく、ある種の「集団」ではなかったのか、という話になったことがある。
彼らは「東夷」を平定するために京から東国に派遣されるのだが、その主務は軍事ではなく、房事なのである。
それぞれの土地の権力者たちのもとにまずは彼らの苦手とする「文事」を以て入り込み、土地の風物を歌に詠んで「褒めあげ」、権力者の妻や娘たちを籠絡して、「混血」して、そのまま逃げ出す。
それによって、種族間の非妥協的な対立の隙間に「どっちつかずのもの」が生成する。
そういえば、「そういう話」ってほんとに多いよな・・・と思ったのである。
最近見た映画でも、『特攻野郎Aチーム』と『マチェーテ』がどちらも「そういう話」であった。
『特攻野郎』では“フェイスマン”ペック中尉(ブラッドリー・クーパー)が業平役。
Faceman というのは「金と力がない色男」のことである。
ペック中尉は脱獄したAチームを追跡する軍情報部のソーサ中尉(ジェシカ・ビール)と因縁があり、そのぐずぐずの恋愛関係を利用して、敵味方の筋目をごちゃごちゃにしてしまう。
『マチェーテ』では、あろうことかダニー・トレホが業平。
このインディペンデントな暴力男といい仲になって、彼を別の「組織体」と繋いで、そこに「アマルガム」を作る女の子たちはミシェル・ロドリゲス(メキシコからの不法移民組織)、リンジー・ローハン(ワルモノ組織)、ジェシカ・アルバ(入国管理局)。
すごいね。
トレホくんの活発な「業平」活動によって、組織の筋目はぐちゃぐちゃになり、誰が味方で誰が敵だかよくわからなくなって、話は終わる。
佳話である。
たぶん人類史の黎明期から存在した、「異族との接触に際してのプランB」のようなものとして「業平戦略」は存在したのであろう(「プランA」はもちろん「殲滅」)。
日本の場合はその地理的辺境性と地勢の複雑さ(「落人部落」がどこにでも作れる)ゆえに、異族との接触時に「一方が他方を殲滅する」というプランA的な展開にはならず、同一空間内に微妙に生態学的ニッチを分けて共生するという方向に進んだ。
とりわけ、正規軍同士が対決するという状況ではなく、複数の集団間での利害関係の入り組んだ暴力的なインターフェイスにおいては、「業平」的なものが活躍したのである。
そういえば、『仁義なき戦い』の広能昌三という人物は、菅原文太兄貴が「とれるもんなら、とってみいや」と凄むのでわかりにくくなっているが、あきらかに広島やくざ世界における「業平」的な機能を担っていたように思われる。
彼は親分の山守(金子信雄)にも大久保(内田朝雄)にも明石組の岩井(梅宮辰夫)にも若頭の武田(小林旭)にも打本(加藤武)にも、およそ出てくる極道たちの全員と「関係」を持っている。
村岡組の新年会の場面で、広能は山守を評して「敵味方の筋目がつかん」と難じているが、それはそのまま広能自身について言えることである。彼はまさに「敵味方の筋目をごちゃごちゃにすること」で身の安全を保つ異能の人だったからである。
『仁義なき戦い』のモデルになった美能幸三自身は、山守のモデルとなった山村辰雄から盃を貰っていなかった。まわりからは「山村七人衆」のひとりと目され、山村自身も「うちの若衆」と呼んでいたが、美能はこれを訂正せず、筋目の混乱を最後まで放置するに任せたのである。
「誰とつながっているのか、よくわからない人間」であることのメリットを美能は熟知していたということである。
話があさっての方向へ行ってしまった。
辺境人が採用した「ピジン」型のアマルガム戦略の話をしていたのである。『日本辺境論』でも、『街場のメディア論』でも書いたことだが、これは「土着のコロキアルな言語」の上に「外来のテクスチュアルな言語」を載せて「アマルガム言語」を作るという日本語の構造特性に典型的に現れている。
だから、本来であれば、「原子力」は天神地祇を祀る古代的な作法に従って呪鎮されるべきものであった。
伝統的な日本的なソリューションは「塚」と「神社」である。
「荒々しいもの」は塚に収め、その上に神社仏閣を建立して、これを鎮める。
将門の首塚も、鵺塚も、処女塚も、「祟りがありそうなもの」はとりあえず「塚」を作って、そこに収める。
塚に草が茂り、あたりに桜の木が生え、ふもとに池ができ、まわりで鳥や虫が囀るようになれば、それは「生態系」に回収されたとみなされる。
自然力に任せておけないときは、神社仏閣を建てて、積極的に呪鎮する。
それでもダメなときは、「歌を詠む」「物語に語り継ぐ」という手立てを用いる。
日本では内戦の死者たちは物語によって呪鎮されてきた。『平家物語』は平家の人々と源義経・義仲らを、『太平記』は楠木正成や新田義貞ら敗れたものたちを弔った。幕末の戦いについては、子母澤寛、司馬遼太郎から藤沢周平、浅田次郎に至る無数の作家たちが殺された若者たちのために鎮魂の物語を紡いだ。
日本史上もっともその祟りが畏れられた崇徳上皇にしても、西行法師がその塚に捧げた一首によって怒りを鎮めたと伝えられている。
原子力についても、そもそもその設営のときに、伝来の古法に則って、呪鎮の儀を執り行うべきだったと私は思う。
盛り土をして、原発をそこに収める。土中に置くのである。そして、上には塚を築く。そこに草が茂り、桜が咲き、鳥がさえずるような広々とした場の下に原発を安置する。
もちろん呪鎮のために、そこに神社仏閣を勧請するのである。
「原発神社」
そして、桜が咲く頃には地域の人を集めて、「原発祭り」を挙行する。
荒ぶる神がとりあえずは「よきこと」だけをなし、恐るべき力の暴発を抑制してくれていることを感謝するのである。
私はふざけてこんなことを言っているのではない。
日本人は「こういうやりかた」をするときにいちばん「真剣」になるからである。
ほんとうに「こういうやりかた」をして原発を管理運営していたら、今回のような事故は起こらなかっただろうと私は思う。
それは私たちのDNAの中に根を下ろした「恐るべきもの」との「折り合い」の仕方だからである。
呪鎮の目的は「危険を忘れ去ること」にあるのではない。
逆である。
「恐るべきもの」を「恐るべきもの」としてつねに脳裏にとどめおき、絶えざる緊張を維持するための「覚醒」の装置として、それが必要だったと私は申し上げているのである。
現に一神教文化圏では原発は「神殿」に収められていた。
彼らのDNAの中に残る「超越的なものを畏怖する気持ち」をONにしておくために、そのような装置を用いたのである。
それに倣うなら、私たちの国では「塚」に収め、神社仏閣を以て封印すべきだったのである。
愚かな政治家や官僚やビジネスマンたちは、それを「嗤った」のである。
だが、原発の工事のときにも地鎮祭は行われたはずである(地鎮祭を執行しなければ、建築現場には誰も入らない)。
天神地祇の祟りを嗤うのなら、なぜ地鎮祭の執行を禁止しなかったのか。
地鎮祭をしないと、日本人の大工が入らないというのなら、中国からでもフィリピンからでも建築労働者を連れてきて断行すればよかったのである。
なぜ地鎮祭を行うのか。
それは家を建てる工事でさえ、「恐るべきもの」の不意の闖入についての警戒心がなければ、思いがけない事故が起こることを私たちが知っているからである。
地鎮祭は地祇を鎮めるためのではなく、人間の側の緊張感を亢進させるための心的装置なのである。
だから、ほんとうに人間が最大限の緊張をもって取り組まなければならないリスクの高い仕事に際しては、「超越的なものに向かって祈る」という営みが必須なのである(『ロッキー』でロッキー・バルボアがアポロとの戦いの前に、洗面台に向かって祈るように)。
ロジカルな話を私はしているのである。
名越康文先生と橋口いくよさんとの鼎談のとき、いちばん感動したトピックは橋口さんが震災からあとずっと「原発に向かって祈っている」という話だった。
40年間、耐用年数を10年過ぎてまで酷使され、ろくな手当てもされず、安全管理も手抜きされ、あげくに地震と津波で機能不全に陥った原発に対して、日本中がまるで「原子怪獣」に向けるような嫌悪と恐怖のまなざしを向けている。
それでは原発が気の毒だ、と橋口さんは言った。
誰かが「40年間働いてくれて、ありがとう」と言わなければ、原発だって浮かばれない、と。
橋口さんがその「原発供養」の祈りを捧げているとブログに書いたら、テキサス在住の日本人女性からも「私も祈っています」というメールが来たそうである。
たぶん同時多発的にいま日本全国で数千人規模の人々が「原発供養」の祈りを捧げているのではないかと思う。
私はこの宗教的態度を日本人としてきわめて「伝統的」なものだと思う。
ばかばかしいと嗤う人は嗤えばいい。
けれども、触れたら穢れる汚物に触れるように原発に向かうのと、「成仏せえよ」と遙拝しながら原発に向かうのでは、現場の人々のマインドセットが違う。
「供養」しつつ廃炉の作業にかかわる方が、みんなが厭がる「汚物処理」を押し付けられて取り組むよりも、どう考えても、作業効率が高く、ミスが少なく、高いモラルが維持できるはずである。
私は骨の髄まで合理的でビジネスライクな人間である。
その私が言っているのだから、どうか信じて欲しい。
今日本人がまずなすべきなのは「原発供養」である。
すでに「あのお方」がなされているとは思うが。

2011.04.09

人間が人間であるための神について

前に「辺境ラジオ」で名越康文先生と西靖さんとおしゃべりしたときに、「うめきた大仏」の話が出た。
これは海野つなみさん(このペンネーム、今はちょっと口に出しにくいですね)というマンガ家さんが投稿してくれたものである。
大阪駅の北ヤード開発はずいぶん前から衆知を集めて議論されていたのだが、いまだに話がまとまらないようである。
昨日もある雑誌から「北ヤードの再開発について」、三菱地所の役員ふたりと鼎談して欲しいというご提案を頂いた。
もちろん私が「うめきた大仏」構想の推進者であるということなどご存じないままに出た案であろうから、「私の話を聞いたら、不動産会社の役員さんたちは激怒されることでしょう」とお断りした。
「激怒」くらいで済めばいいが、そのせいで「誰だ、ウチダなんて野郎を連れてきたのは!」と上司に叱責されて起案した担当編集者が進退伺いとか減俸処分とかいうことになっては気の毒である。
でも、私は「うめきた」には大仏しかない、とほんとうに思っているのである。
もし、「うめきた」に大仏建立ということで大阪市民の合意が成立したら、その日をさかいにして、日本は変わるだろう。
私はとりあえずはまず大阪を「宗教観光都市」として再生すべきだと考えている。
もともと大阪は上町台地という南北の台地を中心に形成された街であり、この上町台地は(中沢新一さんの「大阪アースダイバー」に詳しいが)、南に四天王寺、北に石山本願寺という「浄土信仰の二大拠点」があり、この台地と東西にクロスする線(東に「生駒」、西に「西方浄土」)が大阪の霊的な方位をかたちづくっているのである。
大阪のメインストリートである「御堂筋」はご存じのように、北御堂と南御堂という二つの浄土真宗の寺院を結ぶ道筋のことである。
かつて近江や越前や能登から大阪にやってきた一向宗門徒たちは、この界隈に居を構え、「朝夕、御堂の鐘の聞こえる場所」で商売を営むことを願ったのである。
大阪はそのような因子が絡み合って形成された「宗教都市」である。
今日の大阪がしきりに「元気がない」といわれるのは、久しく大阪にその根源的な活力を供与してきた「霊的センター」そのものが衰微していることに多大な理由があると私は思っている。
今日、「街づくり」という行政がらみの話の中で、「そのエリアを霊的にどう賦活するか」というトピックが論じられることはまずないだろう(出たことがないので知らないけど、たぶんないと思う)。
昭和30年代から日本中に造成された「ニュータウン」の類は、いまほとんどがゴーストタウン化している。
それらの団地は、人跡のない丘陵地帯や埋め立て地に作られたので、広漠たる広がりだけがあって、神社仏閣も教会も宗教施設は何一つ勧請されていない。
それがそこに住む人々にある種の「霊的な飢餓状態」を作り出した。
そのエアポケットに乗ずるようにして、新興宗教や、オカルト教団や、ビジネスマインデッドな霊能者たちが「土地を守護する天神地祇」を持たない住宅地に侵入していったのはご案内の通りである。
前にも書いたことだが、阪急電鉄の小林一三は造成した千里ニュータウンの中に寺院の建立を許した。
戦後のデベロッパーの中で、「土地を守護する霊的センター」の必要性を理解できたのは小林一三が最後であろう。
たぶんその後は一人もいないと思う。
六本木ヒルズは霊的にはきわめて脆弱な建物だが、この設計に携わった人たちの中に、「この建物は霊的な守りが弱いので、いろいろと事故が起こる可能性がある」ということをプラニングの段階で指摘したものはいなかったのだろうか。
たぶんいなかったのだろう。
「霊的なプロテクション」などというものには数値的・外形的にお示しできるエビデンスが存在しないのだから、ビジネスマンの頭では無理である。
けれども、60年も生きてくると、いろいろ見聞してわかることもある。
それは人間が暮らす空間には、「霊的な備え」が必須だということである。
その理路はもう述べた。
霊的な備えをしておかないと、鬼神の類が人間を襲うというような話をしているのではない。
人間を襲うのは人間だけである。
人間が住まないエリアには神社仏閣などなくても、何の障りもない。
でも、いやしくも人間が住む場所については、「人間の愚鈍さや邪悪さ」ができるだけ物質化しないような「仕掛け」を凝らすことは必須の仕事である。
霊的装置が呪鎮する相手は天魔鬼神ではなく、生身の人間である。
生身の人間というのは、それぞれの社会集団に固有の「死生観」「霊魂観」を骨肉化している。
そのような宗教的「臆断」からまったく自由な人間など、世界のどこにもいない。
というのも、これもまた繰り返し書いてきたことだが、人間というのは「死者」という概念を有することで、他の霊長類と差別化された種だからである。
「死者」とは、「存在するとは別の仕方で」私たち生きている人間の生き方に関与するもののことである。
死者を正しく祀らないと「祟り」をなすという信憑を持たない集団は世界に一つも存在しない。
一つも、ない。
墓所も持たず、聖地も寺院もなく、死者についての神話も語り伝えず、誰かが死んでも葬儀をしない社会集団というものがどこかにあるなら是非教えて欲しい。
人間は喪の儀礼をなす。
それが人間の定義だからだ。
人間は「存在しないもの」に対しても、定められた礼法に従って、コミュニケーションを試みなければならない(返事はないが)。
だが、それにもかかわらず、「存在しないもの」をあたかも「存在するもの」たちのうちに立ち交じって、さまざまな具体的な働きをするものであるかのように「遇する」という義務からは逃れることが許されない。
人間が一定数以上住む場所には、必ず霊的なセンターを置き、「存在しないもの」に対する配慮を覚醒させ続けることは、人類学的には抗命を許されない絶対的命令なのである。
「存在しないものをして、『存在しないもの』としてそこにあらしめよ」
というのが私たちがそこから逃れることのできない人類学的命令である。
ビジネスマンたちは「『存在しないもの』は存在しないんだから、そんなもののことは考える必要がない」という、実は本人もほんとうは信じていないロジックで、都市から霊的なセンターを次々と放逐していった。
本人もほんとうは自分の言っていることを信じていない。
というのは、もしそれが本当なら、彼らは自分たちの祖先の墓をとうに棄てているはずだし、家族が死んでも葬儀も出さないはずだし、「どうして死体をそのまま生ゴミの日に出しちゃいかんのだ」と市役所に怒鳴り込むはずだからである。
でも、どんな超近代的な、非-霊的なビルを建てるビジネスマンでも、「そんなこと」はしない。
自分は私生活では「存在しないもの」の祟りを信じているのに、会社では「存在しないもの」は存在しないから、そんなものに配慮する必要はないと平気で言い募っている。
それができるのは、会社では彼らは「貨幣」という神さま(これも「存在しないもの」だが)を拝んでいるからである。
この「貨幣という神さま」はたいへん嫉妬深くて、自分以外の神を認めない。
そして、自分のことを「存在するもの」と呼べと信者たちには命じる。
「『存在しないものは』存在しないが、『存在するものは』存在する」というトートロジーのような呪文を「貨幣」信者たちは会社という聖所で毎日唱えさせられているのである。
つまり、ビジネスマンたちは会社では「会社の神さま」を拝み、家では「家の神さま」を拝んでいるのである。
無神論でもなんでもない。彼らもまた一日中「存在しないもの」を拝んでいるのである。
私はそれが「悪い」と言っているのではない。
どうせ拝んでいるんだから、「私はいつも拝んでいます」ということを率直にお認めになればよいと申し上げているのである。
人間は「拝むもの」がなければ、一瞬たりと生きてはゆけぬものなのです、とカミングアウトしてくださればいいのにと申し上げているのである。
そう言っていただいてはじめて「大阪にはちょっと『拝むもの』が足りないような気がするんですけど」という話が始められるのである。
というわけで、どうです「うめきた大仏」建立案。
政治家も官僚もビジネスマンも、真剣に考えてはくれないだろうか。
ほんとうにこれで大阪は起死回生的に蘇生する。
むろん神威によって蘇生するのではない。
大阪に住む人間が大阪を賦活させるのである。
人間というのは「霊的に賦活された気になると、毎日機嫌よく働く」のである。
レヴィナス老師が言われたように、「人間が人間に対して犯した罪は神といえどもこれを代わって償うことはできない」。
同じように、「人間が人間を励まし、癒し、支援する仕事は、神といえどもこれを代行することはできない」のである。
その「神といえどもこれを代行することができない」という一行があるからこそ、人間は「やる気」になるのである。
人間が「私には人間的責務が負託されている」と感じるためには、超越者を経由することが必要なのである。
人間が人間であるためにはどうしたって神霊たちの支援が必要なのである。
これがそれほど理解に難い話であるよう私には思えないのだが。

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