原発供養

2011-04-08 vendredi

昨日の話の続き。
それぞれの社会集団は、「恐るべきもの」と折り合うために、それぞれ固有の「霊的作法」を持っているという話だった。
日本人は外来のものを排除せず、それを受け容れ、「アマルガム」を作る。
ユーラシア大陸の東端にあり、これから先はない、という辺境民が採用したのは、いわば、「ピジン型」の文明摂取方法だった。
これはヨーロッパの辺境、アイルランドの文明史的地位と構造的に似ている。
聖パトリキウスはケルトやドルイドの土着の神々たちとのまじわりの中でキリスト教を布教した。
そのときに土着の神々を「根絶」するというユダヤの神の苛烈さを避け、地祇たちを生き残らせた。
それがアイルランドに今も生き残る「妖精たち」である。
前に中沢新一さんとおしゃべりしたときに、『伊勢物語』に出てくる「在原業平」というのは固有名詞ではなく、ある種の「集団」ではなかったのか、という話になったことがある。
彼らは「東夷」を平定するために京から東国に派遣されるのだが、その主務は軍事ではなく、房事なのである。
それぞれの土地の権力者たちのもとにまずは彼らの苦手とする「文事」を以て入り込み、土地の風物を歌に詠んで「褒めあげ」、権力者の妻や娘たちを籠絡して、「混血」して、そのまま逃げ出す。
それによって、種族間の非妥協的な対立の隙間に「どっちつかずのもの」が生成する。
そういえば、「そういう話」ってほんとに多いよな・・・と思ったのである。
最近見た映画でも、『特攻野郎Aチーム』と『マチェーテ』がどちらも「そういう話」であった。
『特攻野郎』では“フェイスマン”ペック中尉(ブラッドリー・クーパー)が業平役。
Faceman というのは「金と力がない色男」のことである。
ペック中尉は脱獄したAチームを追跡する軍情報部のソーサ中尉(ジェシカ・ビール)と因縁があり、そのぐずぐずの恋愛関係を利用して、敵味方の筋目をごちゃごちゃにしてしまう。
『マチェーテ』では、あろうことかダニー・トレホが業平。
このインディペンデントな暴力男といい仲になって、彼を別の「組織体」と繋いで、そこに「アマルガム」を作る女の子たちはミシェル・ロドリゲス(メキシコからの不法移民組織)、リンジー・ローハン(ワルモノ組織)、ジェシカ・アルバ(入国管理局)。
すごいね。
トレホくんの活発な「業平」活動によって、組織の筋目はぐちゃぐちゃになり、誰が味方で誰が敵だかよくわからなくなって、話は終わる。
佳話である。
たぶん人類史の黎明期から存在した、「異族との接触に際してのプランB」のようなものとして「業平戦略」は存在したのであろう(「プランA」はもちろん「殲滅」)。
日本の場合はその地理的辺境性と地勢の複雑さ(「落人部落」がどこにでも作れる)ゆえに、異族との接触時に「一方が他方を殲滅する」というプランA的な展開にはならず、同一空間内に微妙に生態学的ニッチを分けて共生するという方向に進んだ。
とりわけ、正規軍同士が対決するという状況ではなく、複数の集団間での利害関係の入り組んだ暴力的なインターフェイスにおいては、「業平」的なものが活躍したのである。
そういえば、『仁義なき戦い』の広能昌三という人物は、菅原文太兄貴が「とれるもんなら、とってみいや」と凄むのでわかりにくくなっているが、あきらかに広島やくざ世界における「業平」的な機能を担っていたように思われる。
彼は親分の山守(金子信雄)にも大久保(内田朝雄)にも明石組の岩井(梅宮辰夫)にも若頭の武田(小林旭)にも打本(加藤武)にも、およそ出てくる極道たちの全員と「関係」を持っている。
村岡組の新年会の場面で、広能は山守を評して「敵味方の筋目がつかん」と難じているが、それはそのまま広能自身について言えることである。彼はまさに「敵味方の筋目をごちゃごちゃにすること」で身の安全を保つ異能の人だったからである。
『仁義なき戦い』のモデルになった美能幸三自身は、山守のモデルとなった山村辰雄から盃を貰っていなかった。まわりからは「山村七人衆」のひとりと目され、山村自身も「うちの若衆」と呼んでいたが、美能はこれを訂正せず、筋目の混乱を最後まで放置するに任せたのである。
「誰とつながっているのか、よくわからない人間」であることのメリットを美能は熟知していたということである。
話があさっての方向へ行ってしまった。
辺境人が採用した「ピジン」型のアマルガム戦略の話をしていたのである。『日本辺境論』でも、『街場のメディア論』でも書いたことだが、これは「土着のコロキアルな言語」の上に「外来のテクスチュアルな言語」を載せて「アマルガム言語」を作るという日本語の構造特性に典型的に現れている。
だから、本来であれば、「原子力」は天神地祇を祀る古代的な作法に従って呪鎮されるべきものであった。
伝統的な日本的なソリューションは「塚」と「神社」である。
「荒々しいもの」は塚に収め、その上に神社仏閣を建立して、これを鎮める。
将門の首塚も、鵺塚も、処女塚も、「祟りがありそうなもの」はとりあえず「塚」を作って、そこに収める。
塚に草が茂り、あたりに桜の木が生え、ふもとに池ができ、まわりで鳥や虫が囀るようになれば、それは「生態系」に回収されたとみなされる。
自然力に任せておけないときは、神社仏閣を建てて、積極的に呪鎮する。
それでもダメなときは、「歌を詠む」「物語に語り継ぐ」という手立てを用いる。
日本では内戦の死者たちは物語によって呪鎮されてきた。『平家物語』は平家の人々と源義経・義仲らを、『太平記』は楠木正成や新田義貞ら敗れたものたちを弔った。幕末の戦いについては、子母澤寛、司馬遼太郎から藤沢周平、浅田次郎に至る無数の作家たちが殺された若者たちのために鎮魂の物語を紡いだ。
日本史上もっともその祟りが畏れられた崇徳上皇にしても、西行法師がその塚に捧げた一首によって怒りを鎮めたと伝えられている。
原子力についても、そもそもその設営のときに、伝来の古法に則って、呪鎮の儀を執り行うべきだったと私は思う。
盛り土をして、原発をそこに収める。土中に置くのである。そして、上には塚を築く。そこに草が茂り、桜が咲き、鳥がさえずるような広々とした場の下に原発を安置する。
もちろん呪鎮のために、そこに神社仏閣を勧請するのである。
「原発神社」
そして、桜が咲く頃には地域の人を集めて、「原発祭り」を挙行する。
荒ぶる神がとりあえずは「よきこと」だけをなし、恐るべき力の暴発を抑制してくれていることを感謝するのである。
私はふざけてこんなことを言っているのではない。
日本人は「こういうやりかた」をするときにいちばん「真剣」になるからである。
ほんとうに「こういうやりかた」をして原発を管理運営していたら、今回のような事故は起こらなかっただろうと私は思う。
それは私たちのDNAの中に根を下ろした「恐るべきもの」との「折り合い」の仕方だからである。
呪鎮の目的は「危険を忘れ去ること」にあるのではない。
逆である。
「恐るべきもの」を「恐るべきもの」としてつねに脳裏にとどめおき、絶えざる緊張を維持するための「覚醒」の装置として、それが必要だったと私は申し上げているのである。
現に一神教文化圏では原発は「神殿」に収められていた。
彼らのDNAの中に残る「超越的なものを畏怖する気持ち」をONにしておくために、そのような装置を用いたのである。
それに倣うなら、私たちの国では「塚」に収め、神社仏閣を以て封印すべきだったのである。
愚かな政治家や官僚やビジネスマンたちは、それを「嗤った」のである。
だが、原発の工事のときにも地鎮祭は行われたはずである(地鎮祭を執行しなければ、建築現場には誰も入らない)。
天神地祇の祟りを嗤うのなら、なぜ地鎮祭の執行を禁止しなかったのか。
地鎮祭をしないと、日本人の大工が入らないというのなら、中国からでもフィリピンからでも建築労働者を連れてきて断行すればよかったのである。
なぜ地鎮祭を行うのか。
それは家を建てる工事でさえ、「恐るべきもの」の不意の闖入についての警戒心がなければ、思いがけない事故が起こることを私たちが知っているからである。
地鎮祭は地祇を鎮めるためのではなく、人間の側の緊張感を亢進させるための心的装置なのである。
だから、ほんとうに人間が最大限の緊張をもって取り組まなければならないリスクの高い仕事に際しては、「超越的なものに向かって祈る」という営みが必須なのである(『ロッキー』でロッキー・バルボアがアポロとの戦いの前に、洗面台に向かって祈るように)。
ロジカルな話を私はしているのである。
名越康文先生と橋口いくよさんとの鼎談のとき、いちばん感動したトピックは橋口さんが震災からあとずっと「原発に向かって祈っている」という話だった。
40年間、耐用年数を10年過ぎてまで酷使され、ろくな手当てもされず、安全管理も手抜きされ、あげくに地震と津波で機能不全に陥った原発に対して、日本中がまるで「原子怪獣」に向けるような嫌悪と恐怖のまなざしを向けている。
それでは原発が気の毒だ、と橋口さんは言った。
誰かが「40年間働いてくれて、ありがとう」と言わなければ、原発だって浮かばれない、と。
橋口さんがその「原発供養」の祈りを捧げているとブログに書いたら、テキサス在住の日本人女性からも「私も祈っています」というメールが来たそうである。
たぶん同時多発的にいま日本全国で数千人規模の人々が「原発供養」の祈りを捧げているのではないかと思う。
私はこの宗教的態度を日本人としてきわめて「伝統的」なものだと思う。
ばかばかしいと嗤う人は嗤えばいい。
けれども、触れたら穢れる汚物に触れるように原発に向かうのと、「成仏せえよ」と遙拝しながら原発に向かうのでは、現場の人々のマインドセットが違う。
「供養」しつつ廃炉の作業にかかわる方が、みんなが厭がる「汚物処理」を押し付けられて取り組むよりも、どう考えても、作業効率が高く、ミスが少なく、高いモラルが維持できるはずである。
私は骨の髄まで合理的でビジネスライクな人間である。
その私が言っているのだから、どうか信じて欲しい。
今日本人がまずなすべきなのは「原発供養」である。
すでに「あのお方」がなされているとは思うが。