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2012年10月 アーカイブ

2012.10.05

「En Rich」のロングインタビュー

沖縄で出ている『En Rich』という雑誌からロングインタビューを受けた。
沖縄以外ではなかなか手に取る機会のないメディアなので、ブログに採録する。
「いつもの話」で、かつ長いので、お暇なときにどうぞ。

―大津市のいじめ自殺事件に関するブログで、「いじめというのは、教育の失敗ではなく、むしろ成果だ」と語られていたのが印象的でした。

今回の事件で、学校や教育委員会が情報を隠蔽した理由は、「バレたら叱られる」からです。だから、とにかく目の前の問題解決を先送りしようとする。
ミスがあれば、お互いに責任をなすりつけあって、責任を押しつけられたものが周りからの集中攻撃を浴びる。学校教育そのものがその「いじめの構造」を再生産している。
だから、他者からの攻撃を恐れて身を縮める。嵐が過ぎるのを首をすくめて堪え忍ぶという生き方が日本社会に行き渡っている。「何もしない」というのがもっとも合理的な選択だと思われている。

今の日本では、失敗があった場合に、「なぜこんな失敗が起きたのか、システムのどこに瑕疵があったのか、管理運営のどこに手落ちがあったのか」を問うということをしません。反撃できない弱い個人や集団に罪を押しつけて、そこに攻撃を集中し、彼らを排除することで「穢れを祓う」ということを社会問題のほとんど唯一の解決法としている。日本全体が「いじめ社会」になってるんです。

際だった弱者に「穢れ」を押しつけて、それを排除することで集団の統合を達成するという「スケープゴート」の仕組みというのは、人類と同じくらいに古いものです。
倫理的には許しがたいものですが、現に集団統合の仕掛けとしては有効だった。だから、現代まで生き延びたわけです。
でも、今の日本に蔓延している「いじめ」はもう「スケープゴート」というシステムとは違います。際だった徴がなくても、誰でも攻撃の対象に選ばれる。昨日までいじめる側にいた人間がいきなりいじめられる。結果的に集団の全員が絶えず排除の対象になるリスクに怯えることになる。それが集団の力をどれほど損なっているか、誰も真剣に考えていません。

破局的な事態が起きたときに、対処の仕方には二通りのものがあります。
一つには真相追求、有責者の特定。「誰のせいだ」という問題のとらえ方。
でも、もう一つ伝統的な方法があります。
それは「物語る」ということです。
何か忌まわしい事件があったとき、そのときほんとうは何が起きたのかを当事者自身の口から語らせること。「供養」するというのは、このことです。

―原発事故の後にも「供養」という言葉お使いでしたね。原発を叩いたり忌避したりするのとは全く異なる違う眼差しで、「そういうのもアリなのか」と静かな感銘を受けました。

能楽には、加害者・被害者の両方から物語っていく手法があります。ちょうどこの辺りの芦屋が舞台となった「鵺」という演目があるのですが、怪物を弓で射殺した源頼政と、射殺された怪物の両方をシテが前後で演じ分ける。
一つの忌わしい事件を対立する二つの立場からそれぞれ主観的に語らせるのです。それによって事件は立体的に再構成され、そのときはじめて怨みを残して死んだ鵺の霊は鎮められる。
起きてしまったことはもう取り返しが付きません。でも、物語を語ることを通じて、失敗事例を学び、死者を弔うことができる。

今のメディアがやってるのは、どう考えてみても供養ではありません。誰かを血祭りに上げて、血の匂いで酔いしれて、不安を忘れようとしている。

今度の大津の事件も、刑法上の犯罪になれば法律に基づいて審判が下るのでしょうけれど、個別的なケースはそれで一件落着しても、同じ事件を二度と起こさないという遂行的な意味ではどうしても供養が必要なんです。
でも、出来事の全貌を物語り、それによって死者を鎮め、生き残ったものを慰撫するという志が今のメディアにはありません。そんなのは自分たちの仕事ではないと思っている。

―今のお話で思い出したのが、沖縄タイムスのロングインタビューで語られていた「二度と負けない姿勢」という表現です。「二度と戦争はしません」という紋切り型の姿勢でなく、「二度と負けない」「同じ過ちをおかさない」というメンタリティーをみんなが持つようになるにはどうすればいいでしょうか?

さっき、遂行的という言い方をしましたが、遂行的というのは未来を作り出すことなんです。過去を振り返って「誰が悪い、誰のせいだ」といっても、それで未来が作り出せるわけではない。
僕が「二度と戦争に負けない」という言葉を選んだのは、「もう二度と戦争はしません」があまりに後ろ向きの言葉だからです。「じゃあ、何をするんだ」と問われたら、「だから何もしません」としか答えようがない。
「二度と戦争に負けない」ためにはどうするのか。これはきわめて具体的だし、個別的なことです。考えなければいけないことが無数にある。それを私たちが国民的課題として受け入れたときにはじめて、「日米安保条約はほんとうに有効なのか?」という話になってくる。

―はじめに安保ありきで、ある種の思考停止を起こした上での個別の議論になってしまうから、分析の方向が逆になるという…。

若い政治家と話していても安全保障や国防の話になると、ほんとうにスケールが小さい。データや数字は知っているんだけれど、すべて「だから現状維持しかないんです」という結論に収まってしまう。話を聞いているうちにだんだん酸欠になってくる。
安全保障の問題こそ知性の活動を最大化して論ずるべき主題なのに、「日米同盟基軸以外の安全保障はありえない」という前提から話が始まり、それが結論になる。話がぐるぐる循環しているだけなんです。
まず大きな国家目標をはっきり掲げて「だいたいあっちの方向」に向う。同時に、そちらに向かうためにはいろいろな手段があるわけで、それはそのつど吟味する。飛行機で行ってもいいし、新幹線に乗ってもいいし、船でも自動車でもいい。まっすぐ行ってもいいし、迂回した方が早い場合もある。使える手段については洩らさず吟味する。大筋の剛胆さと、細部の精密さが同居していないと国家は成り立たないんです。

武道でも繊細さと剛胆さは同時に要請されます。刀で斬る場合なら、鋭利なメスで切り裂くような精度の高い斬りと、巨大なマサカリを振り上げて、畳も根太も叩き斬る豪放な斬りの二つを同時に行うことが求められる。そんなこと言われても、こちらはどうしていいかわからない。でも、不思議なもので、脳で身体を統御することを諦めると、思いがけない力が発揮される。方程式では解けない問題を身体が解いてしまう。
今の日本は、国の方針をまっすぐに示す骨太な物語もないし、どういう国相手にどんな外交カードを切って国益を増すかを冷徹に考える技術もない。日米同盟基軸という単純な物語の中にすべてを流し込んで、複雑な現実と全知全能をあげて切り結ぶという仕事を放棄している。国民を統合できる大きな物語もないし、指南力の強いメッセージもないし、システムの問題点を一つずつ、部品を交換するように補正してゆこうという忍耐づよい努力もない。

—かつては、そういう政治家もいたような気がしますが。

70年代くらいまではいましたね。
戦争の前後で、一身に二世を生きるという、自分自身、本質的な分裂を経験した人たちがいた。敗戦国民であることの屈辱を骨身にしみて味わった。そういう人たちはギリギリに追いつめられると、直感に導かれて最適選択をするということを繰り返してきたのだと思います。そういうときの判断基準はできあいの政治理論や政策ではなくて、結局は人間なんです。目の前にいるのが、器の大きい人間か、信義に篤い人間か、そういうことで腹を決めていたのだと思います。
かつての自民党なんか、左から右までまるでイデオロギーの違う人たちが同居していたけれど、最終的には「人間的に信用できるかどうか」だけの結びつきでしょう。そういう旧制高校的なエートス(習性・気風)でかつては政党が統合されていた。
今の政党の統合軸は利害得失とイデオロギーだけです。

今、日本の国家意思の決定は誰がどういう基準で行っているのかがさっぱり見えない。何年か前には「消費税絶対反対」と言っていたはずの総理大臣が「消費増税に政治生命をかける」と宣言している。政策が変わるのはいいんです。誰でも間違いはあるんだから。でも、前に「間違った政策判断」をしたのは、どういうデータを見落としていて、どういう推論上の誤りを犯したからであるについて彼には開示義務があると思う。「私はかつても正しく、今も正しい」では困る。

—変節はありかと思いますが、変わった基準がわからないというのは違和感があります。

間違いを認めると、責任追及がうるさいからです。でも、「私は一度も間違ったことがない」とでたらめでも言い続けているとメディアは飽きて追求を止めてしまう。ほんとにすぐ止めてしまう。次の標的が出てきたら、そちらに攻撃が向かうから。だから、政治家もビジネスマンも、みんな嘘をつき、詭弁を弄しても、自分の非を認めないで時間稼ぎをするようになってきた。何ヶ月か意地でも「私は間違っていない」と言い続けていれば、ほんとうにそれで通ってしまうんです。

—何年か前に「前言撤回できるのが大人の器量だ」という主旨のブログを拝読した記憶がありますが、前言撤回できないから責任逃れが起こるんですね。本当は「ごめんなさい」と言いたい人というのは、大人にも子供にもいるんじゃないかと思うのですが、それができないように外堀を埋められてるような…。

そうですね。「すいません」「俺が責任取ります」って言うのを、ほんとにみんな嫌がりますね。僕はすぐ言いますけど(笑)。
「責任は俺が取る」って。だって、その方がどう考えても仕事が円滑に進むから。「俺は責任取らないよ。失敗したらお前の責任だぞ」って突き放すと、言われた方は怯えて手元が狂ってしまう。逆に、「失敗しても構わないから好きにやりなさい。後のことは引き受けた」と言ってあげれば、リラックスできるから仕事の精度が上がる。「俺が責任をとる」と言えば言うほど責任を取らなければならないような事態が起きる確率は減るんです。
だから、「責任取る」って言葉を人々が忌避する理由が僕にはわからない。たぶんよい仕事を仕上げることより、人から責められない立場であることの方が優先順位が高いんでしょう。

でも、考えればわかるけれど、責任なんて、結局誰にも取れないんです。失敗して、何かが致命的に失われた場合、時間が過去に戻らない以上、起きてしまったことは取り消せない。
だから、責任というのは本来予防的な概念なんです。事が起こった後に「誰が悪いのか」を言い立てるためにではなく、悪いことが何も起こらないようにするために、「何か起こった場合は自分が罪を被る」と宣言しておく。その誓言によって、起きたかもしれない災禍を未然に防ぐ。こういうのを遂行的っていうんです。

―何かとても日本的な祈りの作法に叶ってるような気がします。

祝福みたいなものですから。「俺が責任とる」「いや、俺が取るよ」「いや俺だよ」「俺だよ」なんて(笑)。責任というのは、お互いに押し付けあうんじゃなくて、取り合うものなんです。そういう集団においては、誰かが責任をとらなければならない問題そのものが起きないんです。

―実力のある人がリーダーであるというよりも、その言葉を口にできる人が、ということですね。原発の問題にしても、その言葉を口にできる人は誰もいないように見えます。

一人もいませんね。
大飯再稼働の際の首相の声明からしてあまりに出来の悪い詭弁でした。重大な文はほとんど主語がない。「安全性が確認された」とかいうような受動態の文が多用されていて、「誰が」確認したのか、「誰が」決定したのかということは、巧妙に言い落としてある。卑怯ですよ。一国の総理大臣なんだから、「もしものことがあったら私が腹を切る」くらいのことは言ってほしかった。
今度事故が起きたら総理大臣が自決するかもしれないという場合と、何が起きてもこの人は責任逃れを言うだろうという場合では、事故が起きる確率に有意な差が出る。ほんとうに原発の安全性を高めようと思ったら、「私がすべての責任を負う」と言うべきだったんです
。でも、彼がほんとうに恐怖していたのは電力不足と電力高騰で産業界から突き上げを食うことだった。原発の安全性は二の次だったんです。

-その意味でも「責任を取る」というのは大きな祈りの言葉ですね。武道でいうと、予見的な身体能力といいますか、先ほどの、相反するものを同時にやったときに非常に高いパフォーマンスが出ることにつながるかと思うのですが、そういった知恵を、学校教育をはじめ身近なところに落とし込む手法はないものでしょうか。

今の学校教育というのは、子どもたちを競争させて、数値的にランクづけをしている。
相対的優劣を競わせて、勝者に褒美を、敗者に罰を与えれば人間はその能力を開花させるという「競争信仰」が学校を覆い尽くしていますけれど、これは現場の実感からすると、まったく非現実的なことです。
競争させても、学力なんか伸びません。逆に、どんどん劣化してくるんです。

僕が合気道という武道を通じて教えているのは、「生きる知恵と力」をどう伸ばすかということです。武道では強弱勝敗巧拙を論じません。他者との相対的優劣は問題じゃないんです。競争相手がいるとしたら、それは「昨日の自分」です。昨日の自分よりどれくらい感覚が敏感になったか、どれくらい動きが冴えたか、どれくらい判断力が的確になったか、そういうところを自己点検することが稽古の目的であって、同門の誰より技が巧いとか、動きが速いとかいうことには何の意味もないのです。

競争というのはルールがあって、審判がいて、勝敗や記録のつけ方が決まっている競争です。武道が設定している状況は、生き死にです。
どこで、何が起きても生き延びる。それが武道修業の目的です。武道的な意味での「敵」とは、自分の生きる力を殺ぐものすべてがカウントされる。天変地異も、病気も老化も家庭不和も仕事上のトラブルも、全部そうです。どれも自分の心身のパフォーマンスを損なう。それがもたらすネガティブな影響をどう抑止するか。それが武道的な課題なんです。

武道はもともと戦技であって、競技じゃない。
戦場に放り込まれたときに、「こんな不利なルールではゲームはできない」とか「こんな弱兵では戦えないから精兵と取り替えてくれ」いうような要請はできません。手持ちの資源でやりくりするしかない。その弱兵たちの才能をどうやって開花させ、能力を最大化させるか、それを考える。それを自分自身の心身について行うわけです。
おのれの潜在可能性を爆発的に開花させるためには、何をすればよいのか。
やればわかりますけれど、才能開発の最大のトリガーは「相互扶助」なんです。
「自分が守らなければならないものがいる」人間は強い。自分の能力の受益者が自分ひとりである人間は弱い。
遭難した場合でも、家で妻子が待っているという人は、独身者よりも生存確率が高いことが知られています。そういうものなんです。
集団もそうです。メンバーの中の「弱い個体」を守るために制度設計されている集団は強い。「強者連合」集団は強いように思えますが、メンバー資格のない「弱い個体」を摘発して、それを叩き出す作業に夢中になっているうちに、集団そのものが痩せ細ってしまう。

競争的な発想をすると、修業の目的は地球上の70億人全員を倒してチャンピオンになるということになる。
すると、論理的には自分以外の70億ができるだけ弱くて、愚鈍で、無能であることを願うようになる。できれば、この世界にいるのが自分ひとりで、あとは全部消えてしまうことを願うようになる。
武道の目的はそれとは逆です。地上の70億人全員が武道の達人になることが目標だからです。
すべての人間がおのれの潜在可能性を開花させ、心身の能力を最大化した状態の世界はどれほど愉快で住みやすいか。
競争的なマインドの人は、つねにどうやったら周りの人間の心身の発達を阻害し、能力を下げることができるかを考える。
閉鎖集団内部での相対的優劣を競う限り、自分の能力を高めることと、他人の能力を引き下げることは同義ですから。日本の場合は、競争原理によって、これにみごとに成功した。その結果、全員が全員の足をひっぱるような情けない社会ができてしまった。
競争は国を滅ぼす。僕はそう考えています。

-私たちが発信しているEnRichもそのことを考えています。ところで、道場では子供たちにそのことを浸透させるためにどのような教え方をされるのですか?

僕は中学生以上しか担当してませんが、門人たちはそれぞれのレベルで解釈して自分なりに消化して教えてくれてます。
合気道に入門する人は対立的な競技武道と肌が合わない人が多いんです。階層社会・個人主義のヨーロッパでも合気道人口は多いですね。他人との競争や、自己主張が苦手な人は、どこの国にも一定数いるんです。
例えば、フランスでは自分の意見をきっぱり述べないとまるで存在しないような扱いを受けるけれども、実際には自己主張が苦手なフランス人もいるわけです。そういう人たちは競争しないでもいい身体技法がないかなと思っている。そして、合気道に出会うと「ああ、これがやりたかった」というふうになる。合気道はもう世界で100カ国近くに広まってます。フランス、アメリカ、ロシア、中国など、個人主義的な傾向の強いところの方がむしろ修業者が多い。
逆に、人心が穏やかなアジアの仏教国にあまり拡がらないのは、そういう種類の欲求不満がないからかもしれないですね。

僕は正直に言うと、競技武道は本来の意味での武道ではないと思っているんです。
だから、武道必修化にもずっと反対でした。
あれは武道のことを何も知らない人たちが思いついたことです。
武道をやると礼儀正しくなるとか、愛国心が涵養されるというのは、あまりにも武道をバカにした物言いです。
武道はそれ自体が目的であって、社会的訓練の道具じゃない。
子どもをそんなに礼儀正しく育てたいなら「礼儀」という教科を立てて必修化すればいい。
愛国心を扶植したいなら「愛国心」という科目をつくればいい。
教師に向かって「おまえは愛国心が足りない非国民だ」と怒鳴りつけるような子どもに5をつけてやればいいでしょう。
今の日本で「愛国心」と呼ばれているものは、同胞に対して非寛容であることです。「ほんとうの日本人」の頭数をいかにして減らすかに夢中になっている人間じゃなければ「非国民」とか「売国奴」などという言葉は口にしません。彼らはべつに国を愛しているわけじゃない。誰かに「非国民」と言われるのが怖いので、自分が言う側に回ろうとしているだけです。本来の愛国心は恐怖や恫喝と最も無縁なものです。

でも、日本人は無垢な愛国心というものをもう持てなくなっています。前の戦争であまりにひどい負け方をしたから。
ただ戦争に負けただけならこれほどまで卑屈にはならない。でも、あまりにひどい負け方をした。国運をかけた戦争で、何百万人も死んだ後に、戦争指導部が驚くほど愚劣で無能な人間たちによって占められていたことを知らされた。救いがないんです。
ただの敗戦なら、「臥薪嘗胆」で耐えられる。でも、これほどみじめな敗戦では「次は勝つぞ」という言葉がどこからも出てこない。日本人は敗戦で何か大きなものをなくした。「誇り」というものを根こそぎ失ったんです。

―今「誇り」という概念を子供たちに教えるのはすごく難しい気がします。国に対しても、自分の属する母集団に対しても。先生が合気道で教えていらっしゃる「誇り」とはどういうものですか。

僕が武道を始めたのは1975年ですが、今思うと、一番大きな理由はそれだと思います。敗戦国に生まれた子どもとして、二言目には「日本は戦争に負けたから」と言われて育ってきた。でも、何か世界に誇れるものがなければ子どもだってやっていけない。そのときに発見したのが武道です。それが僕にとっては国民的な矜持の支えだった。
その事情は今でも変わりません。
経済力があっても軍事力があっても、それだけでは国民的な誇りは持てません。誇れるのは伝統的な文化だけなんです。それだけは金で買えないし、暴力でも奪えない。
それが日本にはある。それだけが国民的な誇りの足場なんです。
なのに、人々は金や軍事力で誇りを手に入れようとする。
伝統文化が存在しない国で、どうやって自国への誇りを保つことができなすか。
シンガポールの最大の懸念は伝統文化がないことです。ビジネスチャンスがあるということだけでは愛国心は基礎づけられない。金で人を引きつけているなら、もし他にもっと条件のいい国が出てくれば、国民がそちらに流れ出てゆくことを止められない。
ブータンでは「国民総幸福量」ということが言われましたけれど、あの国で何が国民の幸福を支えているかというと、他の国にはない文化なんです。貨幣の量じゃない。

―明日、私たちにが何をできるかという卑近な事例で説明していただくとしたら?

何ができるんでしょうかね。とにかく僕は顔が見えて声が聞こえて手が届く範囲からしか始められない。だから、道場を作った。
最年少は4歳から入ってきます。小さい頃からやっていると、やっぱり佇まいが違いますね。昔の日本の少年らしさというか。姿勢とか歩き方とか礼のしかたとかが。今の子どもたちのやっているだらだらと崩れた身体運用も一つの「型」であって、あれはあれなりに社会的な規制に従っているわけで、別に楽なわけじゃない。だから、武道の道場で気分のいい身体の使い方を知ってしまうと、もうああいうだらだらした身体の使い方ができなくなる。

―佇まいというのはとても美しい日本語ですが、メディアで目にしなくなりました。その美しさは見える範囲内でしか伝えるのが難しいですね。

言葉で伝えるものじゃありませんから、日常の起居を通じて、礼儀正しくしている人をみて身体的に感化されるしかない。
「礼儀正しくしろ」って言ってもダメなんです。現に礼儀正しい人がかたわらにいれば、自然に呼吸するように礼儀正しさが身について行く。道場というのはそういう空間なんです。

本来、学校もそういう道場的な働きがあったと思いますが、今はもうありません。
今の学校は教育商品や教育サービスを販売してる「市場」ですから。
先生は売り手で、保護者や子供が消費者。消費者は別にマーケットに何かを学んだり、人間的成長を遂げたりするために来ているわけじゃない。買い物に来ているだけです。
スーパーの入り口から入った消費者が出口にたどりついたときには別人になっていました、ということはありえない。店内に何時間いようと、何年いようと、入り口から入ったときとまったく同一の人物であって、買い物籠の中身だけが増えているというのが消費者です。
市場では消費者の欲望の初期設定は最後まで変わらない。
学校は本来欲望を更新するための場所です。学校に入学するときは、そこで卒業するまでに何を学ぶことになるのかわからない。自分がそんなことを学ぶと思ってもいなかったことを学んで別人になることが教育なんです。

2012.10.20

平田オリザの法外な過激さについて

想田和弘監督の『演劇1』『演劇2』の公開が始まった。
オフィシャル・パンフレットにちょっと長めのコメントを載せたので、それを転載。
たいへん面白い映画なので、みなさん見に行きましょうね!


 『演劇1』『演劇2』、まとめて5時間42分を三晩かけて見た。たいへんに面白かった。何がどう面白かったのか、手持ちの映画批評の用語ではうまく表現できない。そういう種類の経験だった。
 私は何であれinnovativeなものに対しては基本的に好意的な人間である。自分がそこで経験したことを記述したり、人に説明したりするためには、新しい概念と新しい言葉を自分でつくり出さなければならないという切迫を愛するのである。まだ見終わったばかりの、興奮さめやらぬ状態で、この映画のどこが私に切迫してきたのか、それについて書いてみたい。
 この映画の「成功」(と言ってよいと思う)の理由は二つある。
一つは「観察映画」という独特のドキュメンタリーの方法を貫いた想田和弘監督のクリエーターとしての破格であり、もう一つは素材に選ばれた平田オリザという世界的な戯曲か・演出家その人の破格である。この二つの「破格」が出会うことで「ケミストリー」が生み出された。二人がそれぞれのしかたで発信している、微細な歪音がぶつかりあい、周波数を増幅し、倍音をつくり出し、ある種の「音楽」を作り出している。私はそんな印象を受けた。
 私は想田監督にはお会いしたことがないが、平田オリザさんには何度かお会いしたことがある。この映画にも出てくる民主党参議院議員の松井孝治さんにご紹介頂いたのである。
平田さんからは、笑顔を絶やさず、ゆっくり言葉を選びながら話す知的で温和な人という印象を受けた。だが、知的で温和で物静かな人物が、劇作家として世界的なポピュラリティを獲得し、内閣参与になって総理大臣のスピーチライターをするというようなことはふつうは起こらない。だから、この笑顔と違うところに、これとは「別の顔」を隠しているのだろうと思った。しかし、何度かお会いしたが、平田さんは「別の顔」を見せない。つねに笑顔である。
想田監督のこの映画を見て、「平田オリザの笑顔」の深みが少し分ったような気になった。
それは平田さんがスタニスラフスキー・システムをきびしい口調で批判するときの、抑制の外れ方が私のセンサーに「ヒット」したからである。この映画の中で、平田さんがこれほど否定的感情を剥き出しにした場面は他にない。
スタニスラフスキー・システムはいわゆる「新劇的」演技の基本をなす演劇理論である。自分が演じる役柄について徹底的なリサーチを行い、その役柄を俳優が生身に引き受け、舞台上では、その人物がその劇的状況に投じられた場合に、どのようにふるまうか、それを擬似的に再現しようとするのである。「役になりきる」演技術である。古くはマーロン・ブランド、ジェームス・ディーン、ポール・ニューマン、近くはロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノら、ハリウッドきっての「名優」たちがこのメソッドの信奉者だった。
平田さんはそのメソッドをあっさりと退ける。俳優の内側に「自然にわき上がる感情」などはとりあえずどうでもよろしい。俳優に要求されるのは、演出家の指示通り、目線を何センチずらす、ある単語と次の単語の間をコンマ何秒縮めるといった純粋に技術的なことに限定される。俳優は演出家の意のままに口を開き、閉じ、手を上げ下ろしする「ロボット」でいい。現に、その平田さんの過激なアイディアは「ロボット演劇」というかたちで実現してしまう。
映画は冒頭の『ヤルタ会談』の稽古から最後の『砂と兵隊』のフランス公演に至るまで、平田さんはすべての演出シーンでついに一度も登場人物の「内面」に言及しない。これが想田監督の編集上の作為でないなら、この「内面を持つこと」あるいは「自然発生的な情緒に身を委ねること」、さらに言えば「深層が露出すること」へのアレルギーの症状そのもののうちに、私たちは「平田オリザの深層」が露出するのを見ることになる。
5時間にわたって映画の中の平田さんの笑顔を見続けているうちに、私はこの「はりついたような」笑顔が実際には状況によって、かなり微妙な変化があることに気づくようになった。「平田笑顔の見巧者」になったのである。
平田さんだって生身の人間である。ときには「むかっ」とすることもあるし、「いらっ」とすることもあるし、「コノヤロ」と憤りがこみ上げるときもある(と思う。本人に訊いたら「ありません」とあの笑顔で答えると思うけれど)。そういうとき、マイナスの感情が湧出してきて、笑顔が維持しがたくなると、たぶん平田さんの中では小さくアラームが鳴るのだ。すると、平田さんは「自己抑制」のアクセルをぐいと踏み込む。すると、ふたたび笑顔が戻って来る。この切り替えの速さに私は驚嘆した。
見始めて3時間目くらいから、私はF1レーサーの微妙なハンドリングを見つめるように、平田オリザの「笑顔の微細な変化」に見入ってしまった。彼が画面に出てこない時間帯の「空虚さ」に耐えられないほど、あの笑顔に魅了されてしまったのである。そして、笑顔が画面に拡がると、それのわずかな変化も見落とすまいと緊張した。「あ、いま一瞬『素』になって、0.3秒で笑顔に戻った・・・」というような、ほとんど平田オリザ演出と同じような時間の区切りでじっと画面を見つめた。
なるほど。平田さんの人間観察の最大の資源は「自分自身」なのだとそのときわかった。わずか0.3秒の間のあるなしで、一つの台詞の意味が反転することがありうるということを、まさに平田さんは彼自身の、現実の世界での他者との対話のうちでこれ以上ないほど雄弁に示していたのである。
たぶん平田オリザさんは自分ほど「過激なこと」を好む人間を他に知らないくらいに本性から過激な人なのだと思う(なにしろ16歳で自転車で世界一周に出かけてしまうのである)。あまりに過激なので、おのれの過激さを「こうです」と提示するための既存の方法を思いつかなかった。そして、論理の経済の赴くところ、自分の過激さを完全に抑制することができるくらいに過激という逆説的な形態を選択したのである。のだと思う。たぶん。
こういう「虚の過激さ」というのは、欧米のドラマツルギーのうちにはまず見ることのできないものである。
かの地では、「自分はこう思い、こう感じる」ということを明晰判明かつはっきりした声で言わないと「存在しない」かのように扱われる。だから、過激さを表現しようとする人々は目を剥き、声を荒立て、口から唾を飛ばし、汗をたらし、舞台を走り回るようになる。でも、想像すればわかるけれど、みんながそういう演技をする芝居に私たちはたぶんすぐに飽きてしまう。
しかし、ほんとうに法外な思念や感情は、人々から「ああ、『あれ』ですね」と簡単に了解されるような既存の度量衡で考量されることを拒む。そんなふうに「たかをくくった」かたちで了解され、それに基づいて慰撫されたり、気味悪がられたり、気を遣われたりするくらいなら、いっそ「ないもの」と思われた方がまだましだ。ほんとうに法外な思念や感情を抱く人はたぶんそういうふうに考えるのではあるまいか。
私自身はどんな意味でも「法外」さとは無縁な人間なので、これはあくまで想像であるが、平田オリザさんが舞台で造形しようとしているのは、「いかなる既存の過激さの表象にも回収されない種類の過激さ」ではないかと私は思う。
もちろん登場人物の全員がそうであるわけではない。でも、外形的には穏やかで、内省的に見える人たちの中に、あるいは定型的なふるまいを繰り返す人たちの中に、「内面が法外すぎて、それに相応しい表現形を見出すことができないので『出来合い』の型をやむなく採用している」人がいくたりか混じり込んでいる。誰が「それ」なのか、それを血眼で探し出すことが、あるいは平田演劇を鑑賞している観客たちが味わっているひりひりするようなサスペンスなのかも知れない。
以上、平田オリザさんの演劇について私なりの勝手な印象を記した。
と、ここまで読んで、「それでは想田監督の映画への解説になっていないのでは・・・」と不安になった方もおられると思うが、ご心配には及ばない。私は映画の話をずっとしていたのである。試みに、いま記した最後のパラグラフの「平田演劇」を「想田映画」に置き換えても、私の言いたいことは少しも変わらないことがわかるはずである。

2012.10.24

人々が「立ち去る」職場について

大阪府教委は23日、来春採用の府内の公立学校教員採用試験で、平均倍率が4倍で史上2番目の低さだったと発表した。
中学理科では倍率が2倍を切り、府教委は「水準に達する人材が確保できなかった」と異例の追加募集を行う。
大阪維新の会の主導で厳しい教員評価などが盛り込まれた条例の施行後、初の採用試験。大阪府では橋下前知事時代から給与カットが続き、小中学校教員の平均基本給が全国平均より月約2万8千円低いことも響いた可能性がある。(朝日新聞、10月24日)
記事によると、中学理科の倍率は大阪が1.9倍、京都は3.85倍、兵庫は3.1倍。東京は(中高共通枠なので単純に比較はできないが)5.44倍。
条例施行によって、大阪府の教員応募者が激減することは当然予測されていたはずである。
絶えざる査定と格付け圧力にさらされ、保護者からのクレームに対して行政は原則として「保護者の側に立つ」と公言している就業環境である。
このような事態になることは高い確率で予想されていたはずである。
雇用条件が全国平均よりはるか低いレベルにまで引き下げられ、首長や議会や教委がきびしく教育活動を監視し、保護者たちが教員にクレームをつけることそのものを制度化し、産業界が要求する「グローバル人材」の効率的な育成をうるさく求められるような職場環境に進んで就職したがる若者がいるだろうか。
ふつうに考えればわかるはずである。
維新の会の橋下代表は府知事時代から、反撃するだけの力のない「敵」を選び出しては、そこに攻撃を集中させるという手法で、「既得権益を享受している層を叩き潰す」風景に溜飲を下げる選挙民たちのポピュラリティを獲得してきた。
短期的には愉快なスペクタクルだったかも知れない。
だが、そのようにして叩き潰されたセクターの中には「士気が高く、使命感のある人たちが安定的に供給されなければ、システムそのものが停滞する」ものも含まれていた。
教員もそのようなセクターの一つである。
そこに人が来なくなった。
維新の会が教育行政を統括している限り、この流れは止らないだろう。
能力の高い教員志願者たちは、大阪よりはるかに条件のよい就職先を探して、近県に散らばるはずである。
わざわざ監視や恫喝や罵倒が制度化された職場を選ばなければならない理由は誰にもないからだ。
府教委が率直にカミングアウトしているように、今年の志願者には「水準に達しなかった」ものが例年よりも多く含まれていた。
来年以降この傾向が回復するということはあるまい。
あるいは「異常に低い倍率で教員試験に合格できる大阪府は今が狙い目だ(それに府知事や市長がいずれ代れば、こんな条例は廃止されて教員の待遇はふたたび好転するはずだ)」というようなクールな計算をする若者たちが集まってくるのかも知れない。
だが、彼らにしても維新の会の教育行政方針に賛同したわけではない。
むしろ「こんな非常識な条例がいつまでも保つはずがない」という条例の短命についての見通しによって進路を選択するのである。
同じような「立ち去り型サボタージュ」は維新の会がこれまで攻撃の標的にしたすべてのセクターで起きる可能性がある。
職員基本条例によって政治活動を規制され、組合活動を抑圧された府市の職員たちが、これまで以上に高い士気と創発性を発揮するだろうという見通しに私は与しない。
「公務員は勝手にさせると、仕事をさぼり、不当に利得をむさぼる」という公務員観に一面の真理があることを私は認める。
だが、それを前面に掲げて、公務員を監視と査定の対象にした場合に、組織のパフォーマンスが向上するということはありえない。
人間には「好きにやっていいよ」と言われると「果てしなく手を抜く」アンダーアチーブタイプと、「やりたいことを寝食を忘れてやる」オーバーアチーブタイプに二分される。
このどちらかだけを作り出すということはできない。
そして、ブリリアントな成功を収めた組織というのは、例外なく「『好きにやっていいよ』と言われたので、つい寝食を忘れて働いてしまった人たち」のもたらした利益が、「手を抜いた」人たちのもたらした損失を超えた組織である。
「手を抜く人間」の摘発と処罰に熱中する組織はそれと同時にオーバーアチーブする人間を排除してしまう。
必ずそうなる。
「手を抜く人間」を際立たせるためには「全員を規格化する」以外に手立てがないからである。
だが、それが成功した場合でも、達成されるのはせいぜい全員が定時に来て定時に帰り、労働契約通りの仕事しかしない組織が出来上がるというだけのことである。
そのような組織が高いパフォーマンスを達成し、創造的な事業を始めるということは原理的にありえない。
維新の会はこれまでそのようにして「現場の自由裁量を許すことによってのみ発揮される潜在的な組織の力」を潰してきた。
みごとな手腕だったと思う。
だが、壊すだけ壊しただけで、「新しいもの」はまだ何も生まれていない。
これから生まれるかどうかについても私は懐疑的である。

2012.10.29

無謬の政治家の陥穽について

石原慎太郎東京都知事が知事職を辞任して、国政進出めざして新党の党首となることになった。
「第三極」を結集するとして、維新の会、みんなの党との連携・連帯を模索しているが、政策の擦り合わせがうまくゆかない。
原発稼働にしても、TPPにしても、消費増税にしても、領土問題へのアプローチにしても、三党間にはかなりの隔たりがある。
政策上の差異は調整可能であるということで、とりあえず維新の会と石原新党は連携の方向だと今朝の新聞には書いてあった。
維新の会はたしか、その前日に政策上100%の一致がない政治組織とは組織的な連携はしないということを各地の「維新の会」に対して通告していたはずだが、石原新党とはOKらしい。
政策上の差異は調整可能なのか、調整不可能なのか。
判断はケースバイケースであるらしい。
まあ、好きにすればいいと思うけれど、政党が重要な政治的決定を下すときの根拠についての説明をそのつどころころ変えるとあまりよいことはない。
選挙民にとってというより、政党ご自身にとって。
政策が状況によって変わるのは当然のことである。
前とは事情が違ってしまったのだから、判断も変わる。
それを責める人はいない。
けれども、それでも、どこの「事情」がどう変わったのかについての説明責任は残る。
判断が変わったということは、自分が以前になした「未来予測」が外れたということである。
なぜ、自分は予測を誤ったのか。
どのようなデータの入力を忘れたのか。どのファクターの現実性を過小評価したのか。どのファクターの現実性を過大評価したのか。なぜ、そのような評価ミスを犯したのか。どのような推論上の瑕疵があったのか。
それが「失敗から学ぶ」ということである。
同じ失敗を二度と繰り返したくないと願うものは、自分の失敗について、ていねいな吟味を行う。
誰のためでもない、自分のためである。
だが、世の中には、自分の判断ミスを決してて認めない人たちがいる。
石原慎太郎はそういう人の一人である。
つねに自分は正しい選択だけをし続けてきて、一度も失敗をしたことがないという「物語」のうちで彼は自分の政治家としての自己史を語っている。
もちろん、彼が掲げた約束の中には実現しなかったものがあるし、無惨な失敗に終わったものもある。
でも、それを彼は「失敗」とは総括しない。
「邪悪な勢力による妨害工作によって」成功するはずのことが頓挫させられたという「物語」に回収して、話を済ませるのが彼の風儀である。
自分の選択も、その実現のための行動も100%正しかったのだが、それが成功しなかったのは、100%外部の邪悪な干渉ゆえである。
そういう話になっている。
とても、わかりやすい。
今回の石原新党もうそうである。
「官僚」が諸悪の根源として、彼の「よき思念」の物質化を妨げているという「物語」になっている。
だから、「官僚支配打破」が石原新党の党是の根幹となっている。
あ、そうですか。
でも、この「諸悪の根源」にすべてを還元して話を単純化するのは、あまり賢いやり方とは思えない。
というのは、それは都知事時代に「よい」政策を起案したり、実施しようとしていたときに、彼がこの「諸悪の根源」の組織力や行動を過小評価していたということを意味するからである。
それほど巨大な「悪の組織」が現に活発に機能していることを、国会議員を20年やってきた政治家が「気づかなかった」というのは、あまりにナイーブに過ぎる。
いや、気づいていたし、現にそれと戦ってきたのだと彼は抗弁するだろう。
でも、気づいていて、戦ってきて、その挙句に「いいようにされた」のであれば、それは彼が政治家として無力だということを意味してしまう。
どちらにしても困る。
自分の「敵」の力量や行動原則についてまったく知らぬまま政治家として何十年も過ごしてきたのであれば、彼は国政を議するにはあまりに愚鈍だということになる。
わかった上で「敵」と戦ってきて、結果ぼろ負けしたというのがほんとうなら、彼は国政を委ねるにはあまりに無力だということになる。
誤解して欲しくないが、私は石原慎太郎が愚鈍であるとか無力であるとか言っているのではない。
彼はなかなかにスマートで有力な政治家である。
私は彼の政治的力量を過小評価したりしない。
だからこそ「官僚が諸悪の根源だ」というのは彼の「つくりばなし」だと思うのである。
自分の失政の理由をアウトソーシングしたくなるのは、「勝率10割」にこだわることができるほどにスマートで有力な政治家だけが罹患する「病気」である。
けれども、彼自身がスマートで有力であればあるほど、彼の政策の実現を妨害できる「敵」はその分だけ巨大で狡猾な組織にならざるを得ない。
論理の経済がそれを要請するのである。
これが「勝率10割にこだわる人間」すなわち「すべての失敗の理由を外部化しようとする人間」の陥るピットフォールである。
彼が有能で賢明であればあるほど、そんな彼を効果的に妨害でき、彼が果敢な戦いを挑まねばならぬとされる相手もまた彼と同じように強力で狡猾なものへと競り上げられてゆく。
ここまでもけっこう怖い話だが、ここからあとがもっと怖い話になる。
自分ほど賢く力のある人間の政策実現を阻止できるほどに賢く強い組織が「外部に存在する」という物語をひとたび採用したあと何が起るか。
人は自分のついた「嘘」を補強するために行動することを余儀なくされる。
彼のついた嘘を本当らしくみせるために一番効果的な方法は何か。
それは失敗することである。
さまざまな「よき計画」を提言するのだが、それがことごとく阻害され、挫折させられるという事実が、彼の語る物語の信憑性を高めるもっとも効果的な方法なのである。
ほら、ここでも、ここでも、サボタージュが行われていて、実現されるべき「素晴らしい政策」が葬り去られている。
ああ、なんという悲劇であろう。
そう慨嘆してみせることで、彼は彼の作り出した「物語」の信憑性を維持しようとする。
つまり、彼は自分が起案した政策が失敗した場合でも、その失敗から「利益」を引き出すことができるようになる。
成功すれば、それは自分の功績である。失敗すれば彼の作り出した物語の信憑性が高まる。
成功しても、失敗しても、成功する。
それが「失敗を認めない」人が陥る「落とし穴」である。
「働いても、さぼっていても、働いていることになる」というルールで働かされている労働者の就労態度がどのようなものになるかは、想像してみればわかる。
石原慎太郎は都知事の途中から、あきらかに都政に興味を失っていた。
それはそうだろうと思う。
「成功しても、失政を犯しても、何をしてもしなくても、つねに成功している政治家」という必勝モデルを自分のために作ってしまったのである。
そりゃ、退屈するだろう。
だから、尖閣列島が彼を惹きつけたのだと私は思っている。
これはとりあえずゲームの相手に総理大臣と外務省を引きずり出すことができうる。
うまくすれば中国の国家主席がゲームの相手である。
誰が出てこようとも、彼らが全力で石原慎太郎の「憂国の赤心」の実現を阻むことは間違いない。
ほら、こんなふうに「巨悪」がいて、私のやりたいことを阻むのだ。
というふうに、ある時点を越すと、「成功しても、失敗しても、いつでも成功する政治家」は無意識のうちに「よりスペクタキュラーな失敗」を願うようになる。
必ず、そうなる。
そうしないと、話が「保たない」からである。
領土問題の「スペクタキュラーな成功」は都知事の権能の範囲にない。
そうである以上、彼にできる最大限のことは「派手な失敗」である。
彼の夢の実現が遠のけば遠のくほど、彼の理想の実現を阻む「諸悪の根源」はさらに全知全能のものになってゆき、「単身でその巨悪と戦うサムライ」という彼のセルフイメージはいっそう輪郭を鮮やかなものしてゆく。
きっと楽しい人生なのだろうと思う。
けれども、彼によって「外部化」され続けている「失敗」の代価はいったい誰が支払うことになるのか。
それについて彼は考えることはあるのだろうか。
たぶん、ないのだと思う。
「失敗を外部化する政治家たち」こそが「諸悪の根源」であるという「悪の外部化」の言葉が今私の喉元まで出かかっている。
でも、「それを言っちゃあ、おしまい」なのである。
彼らを生み出し、彼らにそのようなふるまいを許してきたのは私たちであり、その限りにおいて、彼らがなすすべての失敗は私たちの失敗なのである。
その失敗を自分のものとして引き受ける以外に、彼らが犯すさまざまな失敗の被害を最小化する方法はない。


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