「En Rich」のロングインタビュー

2012-10-05 vendredi

沖縄で出ている『En Rich』という雑誌からロングインタビューを受けた。
沖縄以外ではなかなか手に取る機会のないメディアなので、ブログに採録する。
「いつもの話」で、かつ長いので、お暇なときにどうぞ。

―大津市のいじめ自殺事件に関するブログで、「いじめというのは、教育の失敗ではなく、むしろ成果だ」と語られていたのが印象的でした。

今回の事件で、学校や教育委員会が情報を隠蔽した理由は、「バレたら叱られる」からです。だから、とにかく目の前の問題解決を先送りしようとする。
ミスがあれば、お互いに責任をなすりつけあって、責任を押しつけられたものが周りからの集中攻撃を浴びる。学校教育そのものがその「いじめの構造」を再生産している。
だから、他者からの攻撃を恐れて身を縮める。嵐が過ぎるのを首をすくめて堪え忍ぶという生き方が日本社会に行き渡っている。「何もしない」というのがもっとも合理的な選択だと思われている。

今の日本では、失敗があった場合に、「なぜこんな失敗が起きたのか、システムのどこに瑕疵があったのか、管理運営のどこに手落ちがあったのか」を問うということをしません。反撃できない弱い個人や集団に罪を押しつけて、そこに攻撃を集中し、彼らを排除することで「穢れを祓う」ということを社会問題のほとんど唯一の解決法としている。日本全体が「いじめ社会」になってるんです。

際だった弱者に「穢れ」を押しつけて、それを排除することで集団の統合を達成するという「スケープゴート」の仕組みというのは、人類と同じくらいに古いものです。
倫理的には許しがたいものですが、現に集団統合の仕掛けとしては有効だった。だから、現代まで生き延びたわけです。
でも、今の日本に蔓延している「いじめ」はもう「スケープゴート」というシステムとは違います。際だった徴がなくても、誰でも攻撃の対象に選ばれる。昨日までいじめる側にいた人間がいきなりいじめられる。結果的に集団の全員が絶えず排除の対象になるリスクに怯えることになる。それが集団の力をどれほど損なっているか、誰も真剣に考えていません。

破局的な事態が起きたときに、対処の仕方には二通りのものがあります。
一つには真相追求、有責者の特定。「誰のせいだ」という問題のとらえ方。
でも、もう一つ伝統的な方法があります。
それは「物語る」ということです。
何か忌まわしい事件があったとき、そのときほんとうは何が起きたのかを当事者自身の口から語らせること。「供養」するというのは、このことです。

―原発事故の後にも「供養」という言葉お使いでしたね。原発を叩いたり忌避したりするのとは全く異なる違う眼差しで、「そういうのもアリなのか」と静かな感銘を受けました。

能楽には、加害者・被害者の両方から物語っていく手法があります。ちょうどこの辺りの芦屋が舞台となった「鵺」という演目があるのですが、怪物を弓で射殺した源頼政と、射殺された怪物の両方をシテが前後で演じ分ける。
一つの忌わしい事件を対立する二つの立場からそれぞれ主観的に語らせるのです。それによって事件は立体的に再構成され、そのときはじめて怨みを残して死んだ鵺の霊は鎮められる。
起きてしまったことはもう取り返しが付きません。でも、物語を語ることを通じて、失敗事例を学び、死者を弔うことができる。

今のメディアがやってるのは、どう考えてみても供養ではありません。誰かを血祭りに上げて、血の匂いで酔いしれて、不安を忘れようとしている。

今度の大津の事件も、刑法上の犯罪になれば法律に基づいて審判が下るのでしょうけれど、個別的なケースはそれで一件落着しても、同じ事件を二度と起こさないという遂行的な意味ではどうしても供養が必要なんです。
でも、出来事の全貌を物語り、それによって死者を鎮め、生き残ったものを慰撫するという志が今のメディアにはありません。そんなのは自分たちの仕事ではないと思っている。

―今のお話で思い出したのが、沖縄タイムスのロングインタビューで語られていた「二度と負けない姿勢」という表現です。「二度と戦争はしません」という紋切り型の姿勢でなく、「二度と負けない」「同じ過ちをおかさない」というメンタリティーをみんなが持つようになるにはどうすればいいでしょうか?

さっき、遂行的という言い方をしましたが、遂行的というのは未来を作り出すことなんです。過去を振り返って「誰が悪い、誰のせいだ」といっても、それで未来が作り出せるわけではない。
僕が「二度と戦争に負けない」という言葉を選んだのは、「もう二度と戦争はしません」があまりに後ろ向きの言葉だからです。「じゃあ、何をするんだ」と問われたら、「だから何もしません」としか答えようがない。
「二度と戦争に負けない」ためにはどうするのか。これはきわめて具体的だし、個別的なことです。考えなければいけないことが無数にある。それを私たちが国民的課題として受け入れたときにはじめて、「日米安保条約はほんとうに有効なのか?」という話になってくる。

―はじめに安保ありきで、ある種の思考停止を起こした上での個別の議論になってしまうから、分析の方向が逆になるという…。

若い政治家と話していても安全保障や国防の話になると、ほんとうにスケールが小さい。データや数字は知っているんだけれど、すべて「だから現状維持しかないんです」という結論に収まってしまう。話を聞いているうちにだんだん酸欠になってくる。
安全保障の問題こそ知性の活動を最大化して論ずるべき主題なのに、「日米同盟基軸以外の安全保障はありえない」という前提から話が始まり、それが結論になる。話がぐるぐる循環しているだけなんです。
まず大きな国家目標をはっきり掲げて「だいたいあっちの方向」に向う。同時に、そちらに向かうためにはいろいろな手段があるわけで、それはそのつど吟味する。飛行機で行ってもいいし、新幹線に乗ってもいいし、船でも自動車でもいい。まっすぐ行ってもいいし、迂回した方が早い場合もある。使える手段については洩らさず吟味する。大筋の剛胆さと、細部の精密さが同居していないと国家は成り立たないんです。

武道でも繊細さと剛胆さは同時に要請されます。刀で斬る場合なら、鋭利なメスで切り裂くような精度の高い斬りと、巨大なマサカリを振り上げて、畳も根太も叩き斬る豪放な斬りの二つを同時に行うことが求められる。そんなこと言われても、こちらはどうしていいかわからない。でも、不思議なもので、脳で身体を統御することを諦めると、思いがけない力が発揮される。方程式では解けない問題を身体が解いてしまう。
今の日本は、国の方針をまっすぐに示す骨太な物語もないし、どういう国相手にどんな外交カードを切って国益を増すかを冷徹に考える技術もない。日米同盟基軸という単純な物語の中にすべてを流し込んで、複雑な現実と全知全能をあげて切り結ぶという仕事を放棄している。国民を統合できる大きな物語もないし、指南力の強いメッセージもないし、システムの問題点を一つずつ、部品を交換するように補正してゆこうという忍耐づよい努力もない。

—かつては、そういう政治家もいたような気がしますが。

70年代くらいまではいましたね。
戦争の前後で、一身に二世を生きるという、自分自身、本質的な分裂を経験した人たちがいた。敗戦国民であることの屈辱を骨身にしみて味わった。そういう人たちはギリギリに追いつめられると、直感に導かれて最適選択をするということを繰り返してきたのだと思います。そういうときの判断基準はできあいの政治理論や政策ではなくて、結局は人間なんです。目の前にいるのが、器の大きい人間か、信義に篤い人間か、そういうことで腹を決めていたのだと思います。
かつての自民党なんか、左から右までまるでイデオロギーの違う人たちが同居していたけれど、最終的には「人間的に信用できるかどうか」だけの結びつきでしょう。そういう旧制高校的なエートス(習性・気風)でかつては政党が統合されていた。
今の政党の統合軸は利害得失とイデオロギーだけです。

今、日本の国家意思の決定は誰がどういう基準で行っているのかがさっぱり見えない。何年か前には「消費税絶対反対」と言っていたはずの総理大臣が「消費増税に政治生命をかける」と宣言している。政策が変わるのはいいんです。誰でも間違いはあるんだから。でも、前に「間違った政策判断」をしたのは、どういうデータを見落としていて、どういう推論上の誤りを犯したからであるについて彼には開示義務があると思う。「私はかつても正しく、今も正しい」では困る。

—変節はありかと思いますが、変わった基準がわからないというのは違和感があります。

間違いを認めると、責任追及がうるさいからです。でも、「私は一度も間違ったことがない」とでたらめでも言い続けているとメディアは飽きて追求を止めてしまう。ほんとにすぐ止めてしまう。次の標的が出てきたら、そちらに攻撃が向かうから。だから、政治家もビジネスマンも、みんな嘘をつき、詭弁を弄しても、自分の非を認めないで時間稼ぎをするようになってきた。何ヶ月か意地でも「私は間違っていない」と言い続けていれば、ほんとうにそれで通ってしまうんです。

—何年か前に「前言撤回できるのが大人の器量だ」という主旨のブログを拝読した記憶がありますが、前言撤回できないから責任逃れが起こるんですね。本当は「ごめんなさい」と言いたい人というのは、大人にも子供にもいるんじゃないかと思うのですが、それができないように外堀を埋められてるような…。

そうですね。「すいません」「俺が責任取ります」って言うのを、ほんとにみんな嫌がりますね。僕はすぐ言いますけど(笑)。
「責任は俺が取る」って。だって、その方がどう考えても仕事が円滑に進むから。「俺は責任取らないよ。失敗したらお前の責任だぞ」って突き放すと、言われた方は怯えて手元が狂ってしまう。逆に、「失敗しても構わないから好きにやりなさい。後のことは引き受けた」と言ってあげれば、リラックスできるから仕事の精度が上がる。「俺が責任をとる」と言えば言うほど責任を取らなければならないような事態が起きる確率は減るんです。
だから、「責任取る」って言葉を人々が忌避する理由が僕にはわからない。たぶんよい仕事を仕上げることより、人から責められない立場であることの方が優先順位が高いんでしょう。

でも、考えればわかるけれど、責任なんて、結局誰にも取れないんです。失敗して、何かが致命的に失われた場合、時間が過去に戻らない以上、起きてしまったことは取り消せない。
だから、責任というのは本来予防的な概念なんです。事が起こった後に「誰が悪いのか」を言い立てるためにではなく、悪いことが何も起こらないようにするために、「何か起こった場合は自分が罪を被る」と宣言しておく。その誓言によって、起きたかもしれない災禍を未然に防ぐ。こういうのを遂行的っていうんです。

―何かとても日本的な祈りの作法に叶ってるような気がします。

祝福みたいなものですから。「俺が責任とる」「いや、俺が取るよ」「いや俺だよ」「俺だよ」なんて(笑)。責任というのは、お互いに押し付けあうんじゃなくて、取り合うものなんです。そういう集団においては、誰かが責任をとらなければならない問題そのものが起きないんです。

―実力のある人がリーダーであるというよりも、その言葉を口にできる人が、ということですね。原発の問題にしても、その言葉を口にできる人は誰もいないように見えます。

一人もいませんね。
大飯再稼働の際の首相の声明からしてあまりに出来の悪い詭弁でした。重大な文はほとんど主語がない。「安全性が確認された」とかいうような受動態の文が多用されていて、「誰が」確認したのか、「誰が」決定したのかということは、巧妙に言い落としてある。卑怯ですよ。一国の総理大臣なんだから、「もしものことがあったら私が腹を切る」くらいのことは言ってほしかった。
今度事故が起きたら総理大臣が自決するかもしれないという場合と、何が起きてもこの人は責任逃れを言うだろうという場合では、事故が起きる確率に有意な差が出る。ほんとうに原発の安全性を高めようと思ったら、「私がすべての責任を負う」と言うべきだったんです
。でも、彼がほんとうに恐怖していたのは電力不足と電力高騰で産業界から突き上げを食うことだった。原発の安全性は二の次だったんです。

-その意味でも「責任を取る」というのは大きな祈りの言葉ですね。武道でいうと、予見的な身体能力といいますか、先ほどの、相反するものを同時にやったときに非常に高いパフォーマンスが出ることにつながるかと思うのですが、そういった知恵を、学校教育をはじめ身近なところに落とし込む手法はないものでしょうか。

今の学校教育というのは、子どもたちを競争させて、数値的にランクづけをしている。
相対的優劣を競わせて、勝者に褒美を、敗者に罰を与えれば人間はその能力を開花させるという「競争信仰」が学校を覆い尽くしていますけれど、これは現場の実感からすると、まったく非現実的なことです。
競争させても、学力なんか伸びません。逆に、どんどん劣化してくるんです。

僕が合気道という武道を通じて教えているのは、「生きる知恵と力」をどう伸ばすかということです。武道では強弱勝敗巧拙を論じません。他者との相対的優劣は問題じゃないんです。競争相手がいるとしたら、それは「昨日の自分」です。昨日の自分よりどれくらい感覚が敏感になったか、どれくらい動きが冴えたか、どれくらい判断力が的確になったか、そういうところを自己点検することが稽古の目的であって、同門の誰より技が巧いとか、動きが速いとかいうことには何の意味もないのです。

競争というのはルールがあって、審判がいて、勝敗や記録のつけ方が決まっている競争です。武道が設定している状況は、生き死にです。
どこで、何が起きても生き延びる。それが武道修業の目的です。武道的な意味での「敵」とは、自分の生きる力を殺ぐものすべてがカウントされる。天変地異も、病気も老化も家庭不和も仕事上のトラブルも、全部そうです。どれも自分の心身のパフォーマンスを損なう。それがもたらすネガティブな影響をどう抑止するか。それが武道的な課題なんです。

武道はもともと戦技であって、競技じゃない。
戦場に放り込まれたときに、「こんな不利なルールではゲームはできない」とか「こんな弱兵では戦えないから精兵と取り替えてくれ」いうような要請はできません。手持ちの資源でやりくりするしかない。その弱兵たちの才能をどうやって開花させ、能力を最大化させるか、それを考える。それを自分自身の心身について行うわけです。
おのれの潜在可能性を爆発的に開花させるためには、何をすればよいのか。
やればわかりますけれど、才能開発の最大のトリガーは「相互扶助」なんです。
「自分が守らなければならないものがいる」人間は強い。自分の能力の受益者が自分ひとりである人間は弱い。
遭難した場合でも、家で妻子が待っているという人は、独身者よりも生存確率が高いことが知られています。そういうものなんです。
集団もそうです。メンバーの中の「弱い個体」を守るために制度設計されている集団は強い。「強者連合」集団は強いように思えますが、メンバー資格のない「弱い個体」を摘発して、それを叩き出す作業に夢中になっているうちに、集団そのものが痩せ細ってしまう。

競争的な発想をすると、修業の目的は地球上の70億人全員を倒してチャンピオンになるということになる。
すると、論理的には自分以外の70億ができるだけ弱くて、愚鈍で、無能であることを願うようになる。できれば、この世界にいるのが自分ひとりで、あとは全部消えてしまうことを願うようになる。
武道の目的はそれとは逆です。地上の70億人全員が武道の達人になることが目標だからです。
すべての人間がおのれの潜在可能性を開花させ、心身の能力を最大化した状態の世界はどれほど愉快で住みやすいか。
競争的なマインドの人は、つねにどうやったら周りの人間の心身の発達を阻害し、能力を下げることができるかを考える。
閉鎖集団内部での相対的優劣を競う限り、自分の能力を高めることと、他人の能力を引き下げることは同義ですから。日本の場合は、競争原理によって、これにみごとに成功した。その結果、全員が全員の足をひっぱるような情けない社会ができてしまった。
競争は国を滅ぼす。僕はそう考えています。

-私たちが発信しているEnRichもそのことを考えています。ところで、道場では子供たちにそのことを浸透させるためにどのような教え方をされるのですか?

僕は中学生以上しか担当してませんが、門人たちはそれぞれのレベルで解釈して自分なりに消化して教えてくれてます。
合気道に入門する人は対立的な競技武道と肌が合わない人が多いんです。階層社会・個人主義のヨーロッパでも合気道人口は多いですね。他人との競争や、自己主張が苦手な人は、どこの国にも一定数いるんです。
例えば、フランスでは自分の意見をきっぱり述べないとまるで存在しないような扱いを受けるけれども、実際には自己主張が苦手なフランス人もいるわけです。そういう人たちは競争しないでもいい身体技法がないかなと思っている。そして、合気道に出会うと「ああ、これがやりたかった」というふうになる。合気道はもう世界で100カ国近くに広まってます。フランス、アメリカ、ロシア、中国など、個人主義的な傾向の強いところの方がむしろ修業者が多い。
逆に、人心が穏やかなアジアの仏教国にあまり拡がらないのは、そういう種類の欲求不満がないからかもしれないですね。

僕は正直に言うと、競技武道は本来の意味での武道ではないと思っているんです。
だから、武道必修化にもずっと反対でした。
あれは武道のことを何も知らない人たちが思いついたことです。
武道をやると礼儀正しくなるとか、愛国心が涵養されるというのは、あまりにも武道をバカにした物言いです。
武道はそれ自体が目的であって、社会的訓練の道具じゃない。
子どもをそんなに礼儀正しく育てたいなら「礼儀」という教科を立てて必修化すればいい。
愛国心を扶植したいなら「愛国心」という科目をつくればいい。
教師に向かって「おまえは愛国心が足りない非国民だ」と怒鳴りつけるような子どもに5をつけてやればいいでしょう。
今の日本で「愛国心」と呼ばれているものは、同胞に対して非寛容であることです。「ほんとうの日本人」の頭数をいかにして減らすかに夢中になっている人間じゃなければ「非国民」とか「売国奴」などという言葉は口にしません。彼らはべつに国を愛しているわけじゃない。誰かに「非国民」と言われるのが怖いので、自分が言う側に回ろうとしているだけです。本来の愛国心は恐怖や恫喝と最も無縁なものです。

でも、日本人は無垢な愛国心というものをもう持てなくなっています。前の戦争であまりにひどい負け方をしたから。
ただ戦争に負けただけならこれほどまで卑屈にはならない。でも、あまりにひどい負け方をした。国運をかけた戦争で、何百万人も死んだ後に、戦争指導部が驚くほど愚劣で無能な人間たちによって占められていたことを知らされた。救いがないんです。
ただの敗戦なら、「臥薪嘗胆」で耐えられる。でも、これほどみじめな敗戦では「次は勝つぞ」という言葉がどこからも出てこない。日本人は敗戦で何か大きなものをなくした。「誇り」というものを根こそぎ失ったんです。

―今「誇り」という概念を子供たちに教えるのはすごく難しい気がします。国に対しても、自分の属する母集団に対しても。先生が合気道で教えていらっしゃる「誇り」とはどういうものですか。

僕が武道を始めたのは1975年ですが、今思うと、一番大きな理由はそれだと思います。敗戦国に生まれた子どもとして、二言目には「日本は戦争に負けたから」と言われて育ってきた。でも、何か世界に誇れるものがなければ子どもだってやっていけない。そのときに発見したのが武道です。それが僕にとっては国民的な矜持の支えだった。
その事情は今でも変わりません。
経済力があっても軍事力があっても、それだけでは国民的な誇りは持てません。誇れるのは伝統的な文化だけなんです。それだけは金で買えないし、暴力でも奪えない。
それが日本にはある。それだけが国民的な誇りの足場なんです。
なのに、人々は金や軍事力で誇りを手に入れようとする。
伝統文化が存在しない国で、どうやって自国への誇りを保つことができなすか。
シンガポールの最大の懸念は伝統文化がないことです。ビジネスチャンスがあるということだけでは愛国心は基礎づけられない。金で人を引きつけているなら、もし他にもっと条件のいい国が出てくれば、国民がそちらに流れ出てゆくことを止められない。
ブータンでは「国民総幸福量」ということが言われましたけれど、あの国で何が国民の幸福を支えているかというと、他の国にはない文化なんです。貨幣の量じゃない。

―明日、私たちにが何をできるかという卑近な事例で説明していただくとしたら?

何ができるんでしょうかね。とにかく僕は顔が見えて声が聞こえて手が届く範囲からしか始められない。だから、道場を作った。
最年少は4歳から入ってきます。小さい頃からやっていると、やっぱり佇まいが違いますね。昔の日本の少年らしさというか。姿勢とか歩き方とか礼のしかたとかが。今の子どもたちのやっているだらだらと崩れた身体運用も一つの「型」であって、あれはあれなりに社会的な規制に従っているわけで、別に楽なわけじゃない。だから、武道の道場で気分のいい身体の使い方を知ってしまうと、もうああいうだらだらした身体の使い方ができなくなる。

―佇まいというのはとても美しい日本語ですが、メディアで目にしなくなりました。その美しさは見える範囲内でしか伝えるのが難しいですね。

言葉で伝えるものじゃありませんから、日常の起居を通じて、礼儀正しくしている人をみて身体的に感化されるしかない。
「礼儀正しくしろ」って言ってもダメなんです。現に礼儀正しい人がかたわらにいれば、自然に呼吸するように礼儀正しさが身について行く。道場というのはそういう空間なんです。

本来、学校もそういう道場的な働きがあったと思いますが、今はもうありません。
今の学校は教育商品や教育サービスを販売してる「市場」ですから。
先生は売り手で、保護者や子供が消費者。消費者は別にマーケットに何かを学んだり、人間的成長を遂げたりするために来ているわけじゃない。買い物に来ているだけです。
スーパーの入り口から入った消費者が出口にたどりついたときには別人になっていました、ということはありえない。店内に何時間いようと、何年いようと、入り口から入ったときとまったく同一の人物であって、買い物籠の中身だけが増えているというのが消費者です。
市場では消費者の欲望の初期設定は最後まで変わらない。
学校は本来欲望を更新するための場所です。学校に入学するときは、そこで卒業するまでに何を学ぶことになるのかわからない。自分がそんなことを学ぶと思ってもいなかったことを学んで別人になることが教育なんです。