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2017年11月 アーカイブ

2017.11.03

大学教育は生き延びられるのか?

ご紹介いただきました、内田でございます。本日は、国立大学の教養教育の担当の人たちがお集まりになっていると伺いました。ずいぶんご苦労されてると思います。日々本当に胃が痛むような、苛立つような思いをしていらっしゃると思います。今回のご依頼をいただいたとき、かなり絶望的な話をしようと思ったんですけども、先ほどみんなを励ますようなことをお話しくださいと頼まれましたので、なんとか終わりの頃には少し希望が持てるような話にできればと思っています。

「大学教育は生き延びられるのか?」という問いの答えは「ノー」です。それは皆さん実感してると思います。大学教育は生き延びられるのか。生き延びられないです。今のまま状況では。
でも、仕方がないと言えば仕方がないのです。急激な人口減少局面にあり、経済成長の望みはまったくない。かつては学術的発信力でも、教育水準でも、日本の大学は東アジアの頂点にいましたけれ。でも今はもう中国やシンガポール、韓国にも台湾にも抜かれようとしている。急激に大学のレベルが下がっているのです。そして、急激に大学のレベルが国際的に低下していることについて、当の大学人たちにも教育行政の当局にもその自覚がない。これが危機の本質だと思います。
私は今もいくつかの大学で客員教授や理事をして、大学の現場とのかかわりを維持していますけれど、フルタイムの大学教員ではありません。ですから、好きなことを言わせてもらいいます。
正直に言って、日本の大学は、このままではもう先はないです。教育制度は惰性が強いですから、簡単には潰れはしません。民間企業のようにいきなり倒産するということはない。でも、じりじりと駄目になってゆく。長期停滞傾向が続いて、20年、30年経ったあたりで、もう本当に使い物にならなる。それでもまだ組織としてはもつでしょう。医療とか教育というのは「それがなくては共同体が存続しえない」本質的な制度ですから、最終的には現場にいる人たちが身体を張って守ります。ですから、どんなにシステムがおかしくなっても、公的な支援が途絶えても、それでもなんとか持続はします。でも、それはほんとうに現場の人が命を削ってもたせているからもっているのであって、公的制度としてはもう破綻している。ブラック企業と同じでです。フロントラインに立ってる生身の人間が必死になって現場を回しているわけで、その人たちがばたばた過労死しているおかげでかろうじてシステムの体をなしている。大学もそういう状況にいずれなりますし、局所的にはもうそうなっている。
医療の世界でかつて「立ち去り型サボタージュ」という言葉が使われました。小松秀樹さんの書かれた『医療崩壊』という本がその事実を明らかにしました。小松先生とは一度お会いしたことがありますけれど、その時に教えられたのは、「医療崩壊」というけれど、医療もやはり惰性の強いシステムなので、簡単には崩壊しないということでした。それは現場に立って医療の最前線を守っているドクターやナースは自分の健康や家庭生活を犠牲にしても医療を守ろうとするからです。そういう「業」を抱えた人が医療の現場に立っている。だから、制度的に破綻していても、簡単には崩壊しないんだ、と。でも、生身の人間ですから、彼らのオーバーアチーブメントに頼って支援の手当をせずに放置しておけば、いずれ一人倒れ二人倒れ、前線の維持が難しくなる。そういうお話でした。
10年ぐらい前に医療で起きたのと同じことが今、大学で起こっているような気がします。教育現場で働いてる人間を支援するという体制が国にも自治体にもメディアにも市民社会にもない。逆に、公的な制度やメディアが現場の教職員たちを追いつめている。精神的にも身体的にも「まだ働き方が足りない」と負荷をかけている。
それでもなんとか現場がもっているのは、教育に関わる人間もまた医療人と同じようにある種の「業」を抱えているからです。教員という職業を選ぶ人には一定の傾向性があります。医療を職業に選ぶ人たちと同じように、教員は学校という場が好きなんです。教室で若い人たちの前に立って何かを教えることが好きで、研究が好きで、アカデミアで異なる領域の知性と出会うことが好きで、という人が学校教育の場には引き寄せられてくる。だから、常軌を逸した負荷がかかっていても、なんとか踏みとどまろうとする。家庭生活や健康を犠牲にしても、自分の職域を守り抜こうとする。今の日本の大学がこれほど否定的環境にありながら、なんとか保っているのは、教育人たちのこの「業の深さ」のおかげです。
でも、生身の人間が蔵している生命資源は本来であれば他のことに使わなければいけないものです。一家団欒とか、文化活動とか。運動したり、遊んだり、自分の好きな研究をしたり、そういう本当にしたいことを断念して、その資源を学校の管理業務とか文科省の命じてくる意味のない作業に割かなければならない。
僕は選択定年制で大学を5年早く辞めたのですが、最大の理由は会議と書類書きが受忍限度を超えたからです。研究することも教育することも大好きなんですけれど、会議と書類書きが大嫌いでした。50代の途中からは6年間管理職でした。授業のない日に会議のためだけに登校するということが何度もありました。だから、あと5年いても、退職まで管理職が続くことがほぼ確実だったので、申し訳ないけれど60歳で退職しました。そういう意味では僕も「立ち去り型サボタージュ」の一人なんです。でも、これ以上いると、自分自身が干上がってしまうと思った。60歳になって、残りの人生のカウントダウンが始まったのに、まだやり残した仕事がたくさんある。研究の領域でもありましたし、武道家としてもやらなければならないことがたくさんありました。大学を守るためには現場に残って、仲間たちと激務を分担しなければいけないということは理屈ではわかっていたのですが、会議と書類書きで自分の時間をこれ以上費やすことに耐えられなかった。その点では忸怩たる思いがあります。そうやって現場を棄てた人間の慚愧の思いを込めて、今日本の大学教育が一体どういうところにあるか、お話をしたいと思います。

まず具体的な実態から、お話します。2002年から日本の学術研究は質、量ともに国際競争力が低下しています。2015年の「人口あたり論文数」は世界37位。中国、台湾、韓国のはるか後塵を拝しています。現在の日本の学術的発信力はOECD諸国の中では最下位レベルです。
論文数の減少が著しいのが、かつて国際競争力が高かった分野だというのも気になります。工学系は2004年以降論文数が減少。生命科学系、農学系、理学系も低下傾向です。社会科学系では論文数はそれほど減っていませんが、もともと国際競争力のない分野です。総体として、日本の大学の国際競争力は過去15年間下がり続けています。
でも、この「人口当たり論文数」が先進国最低という事実をメディアは報道したがりません。代わりによく報道するのが「教育に対する公的支出の比率」です。公的支出の中に占める教育費の割合は先進国最低。それも5年連続です。この事実についての反省の弁を政府部内から聞いた記憶が僕にはありません。この国の政府は教育研究の支援には関心がないということです。ですから、今のシステムが続く限り、教育に対する公的支出比率先進国最下位という定位置に日本はとどまり続けることになります。
なぜ、日本の大学の学術的発信力がこれほど急激に衰えたのか。僕は35年間大学の教壇に立ってきましたので、この経年変化を砂かぶりで観察してきました。はっきりした変化が始まったのは1991年の大学設置基準の大綱化からです。
誤解して欲しくないのですが、設置基準の大綱化そのものが研究教育能力の劣化をもたらしたわけではありません。大綱化を導入せざるを得なくなった歴史的な教育環境の変化があり、それが日本の大学の学術的な生産力を損なったのです。
でも、これについて教育行政当局は何も分析していない。先進国の中で日本の大学教育のアウトカムが最低レベルにまで下がったという事実については「全部大学の責任」であり、教育行政には何の瑕疵もないという態度を貫いている。悪いのは文科省ではなくて大学であるわけですから、失敗の原因を探求するのも、対応策を講じるのも全部大学の自己責任であるという話になっている。ですから、文科省の仕事はそういう「できの悪い大学に罰を与える」ことに限定されている。そうやって毎年助成金を削り、学長に権限を集中させて教授会自治を否定し、大学の自由裁量権を奪い、自己評価自己点検作業を強要し、次から次への大学への課題を課して、研究教育のための時間を奪っておいて、その上で「どうして研究教育がうまくゆかないのか」について会議を開き、山のような報告書を書くことを義務づけている。
文科省は大学に自己評価を求めていますが、僕はまず文科省自身が自己評価する必要があると思います。過去25年間の教育行政を点検して、現状はどうか、なぜこんなことになったのか、どうすれば改善できるのか。大学に要求するより先に、文科省自身がPDCAサイクル回してみればいい。どんな点数がつくかみものです。
先ほど申し上げましたが、転換点は91年の大学設置基準の大綱化でした。それまでの日本の大学はよく言われる通り「護送船団方式」でした。いわゆる「親方日の丸」です。箸の上げ下ろしまでうるさく文部省が指図する代わりに、面倒は全部見る。そういう家父長制的な制度だった。
でも、大綱化によって、細かいことに関しては、大学の自由に任せようということになった。家父長的な制度がなくなって、大学が自由にカリキュラムを作ることができるようになったことそれ自体はたいへんよいことだったと僕は思います。当時も僕はこの方向性を歓迎しておりました。「自己決定・自己責任」でいいじゃないかと僕も思いました。でも、文科省が大学に自由を与え、権限委譲することに裏がないはずがない。実際にそれが意味したのは大学の淘汰を市場に委ねるということでした。
91年段階で、今後18歳人口が急激に減ってゆくことが予測されていました。60年代には250万人いた18歳人口は以後漸減して76年に156万まで減りましたが、その後V字回復して1992年に205万人に戻しました。そして、そこから減り続けた。2017年では120万人。25年間で40%減少したことになります。
大綱化は18歳人口がピークアウトして、以後急減局面に入り、増え過ぎた大学定員を満たすことが困難な局面に入るということがはっきりわかった時点で導入されました。これから大学の数を減らさなければいけないということは文科省(当時は文部省)にもわかっていました。もう護送船団方式は維持できない。文部省と大学はそれまで親鳥とひな鳥のような関係でした。親鳥はひな鳥を扶養する代わりにあらゆることについて口出しした。でも、親鳥が増え過ぎたひな鳥を扶養できない時代がもうすぐ来ることがわかった。護送船団のロジックからしたら、ひな鳥が死んだらそれは親鳥の責任になる。こんな弱い鳥を産んだお前が悪いということになる。でも、これから後、ひな鳥はばたばた死ぬ。だから、親鳥の仕事を放棄して、「これからは自己裁量で生き抜きなさい」と言い出した。なぜ淘汰圧に耐えられないような高等教育機関を認可したのか。なぜそこに税金を投入したのか。そういう問いに対して文部省には備えがなかったからです。
でも、それはある意味では当然のことでした。明治の近代学制の導入以来、日本の教育行政の最大の使命は教育機会の増大だったからです。国民にいか多くの良質な就学機会を提供するか、それが近代日本の教育行政の本務だった。だから、学校を増やすことを正当化するロジックでしたら教育官僚は無限に作り出すことができた。そして、実際にそのロジックを駆使して、国民の就学機会を増やし続けたのです。それは敗戦後も変わりませんでした。敗戦国日本は軍事力や外交力ではなく、むしろ経済力や教育力や学術的発信力によって国際社会に認知される道を進むべきだということについては国民的な合意が形成されていました。
だから、ある意味で文部省の仕事は簡単だったのです。でも、80年代になって難問に遭遇しました。18歳人口が減ることがわかってきたからです。しばらくは大学進学率の上昇が期待できるので、大学定員は満たせるだろうけれど、それもどこかで天井を打つ。そのあとは大学を減らさなければならない。でも、文科省にはどうやって教育機会を増やすかについての理屈はあるけれど、どうやって教育機会を減らすかのロジックがなかった。護送船団方式でそれまでやってきたわけですから、自分が認可し、自分が指図して育てて来た大学に対して「お前は失敗作だったから廃校しろ」というわけにはゆかない。製造者責任を問われるのは文部省自身だからです。
そこで大学の淘汰は市場に委ねるというアイディアに飛びついたのです。強者が生き残り、弱者は淘汰されるというのは市場では自明のことです。自分の生んで育てたひな鳥を殺す仕事を親鳥は放棄して、市場に丸投げしたのです。これが91年の大学設置基準大綱化の歴史的な意味です。これは明治維新以降の教育行政の決定的な転換点でした。でも、その時点では僕も僕のまわりの大学人も、この変化の歴史的意味に気づいていなかった。18歳人口が減ってゆく以上、大学が生き残りをかけてそれぞれに創意工夫を凝らすことは「当たり前」のことであり、その淘汰プロセスで大学教育研究の質は向上するに違いないと、僕も信じておりました。
けれども、この期待はまったく外れてしまった。市場に委ねるということは、それぞれの大学に好き勝手なことをしてくれということではなかったのです。というのは、求められたのは、どの大学が「要らない大学」であるか可視化することだったからです。そのためにはシンプルでわかりやすい指標に基づいて大学を格付けしなければならない。市場はそれを要求してきたのです。
この場合の「市場」というのは、どの大学のどの学部を受験するか選ぶ志願者たちとその保護者のことであり、また彼らが就職する先の企業のことです。志願者と保護者が求めたのは「そこを卒業すると、どれくらいの年収や地位が期待できるか」についての情報であり、採用先が求めたのは「そこを卒業した労働者にはどれくらいの能力と忠誠心を期待できるか」についての情報でした。
大綱化というのは自由化のことだと僕は勘違いしていました。でも、そうではなかったんです。それは「どの大学から順番に淘汰されてゆくかを可視化して、市場に開示せよ」ということだったのです。
僕は大学のカリキュラムの自由化によって、それぞれ日本中の大学が、それぞれの教育理念と教育方法を持ち、それぞれの教育プログラムを編成して、それぞれ異なる達成目標をめざすということになると思い込んでいた。でも、大綱化から後、大学に求められたのは均質化・同質化でした。「自由に競争してよい」というものの、その競争の結果出てくる優劣の差はわかりやすい仕方で表示されなければならない。競争することは自由になったけれど、教育や研究のあり方が自由になったわけではない。むしろそれはより不自由なものになった。というのは、格付けのためには全ての大学の活動を同じ「ものさし」で考量する必要があったからです。格付けというのはそういうことです。複数の教育機関の優劣を判定するためには、同じ「ものさし」をあてがってその差を数値的に表示しなければならない。入学者の偏差値であるとか、就職率であるとか、卒業時点でのTOEICスコアであるとか、そういう共通性の高い「ものさし」を当ててみせないと大学間の優劣は可視化できない。そして、そのためにはものさしが当てやすいように教育内容を揃えることが全大学に求められることになった。
まことに逆説的なことですけれど、「好きにやってよい。その結果について格付けをする」と言われたのだけれど、よく考えてみたら「同じようなことをしないと格付けができない」以上、日本中の大学が自発的に相互模倣する他ないという倒錯的な事態が生じることになった。
考えてみれば、それと同じことはすでに研究領域でも起きていたのでした。若い研究者たちは専任のポストを求めて競争することを強いられています。でも、研究領域がばらばらで、テーマがばらばらで、研究方法もばらばらだと、研究成果の優劣は確定しがたい。それよりは、研究者たちができるだけ同じ研究領域に集中して、同じ研究方法で、同じ研究課題に取り組んでいてもらう方がひとりひとりの出来不出来を比較しやすい。当然です。その結果、若い研究者たちを競争的環境に投じたら、研究者ができるだけたくさんいる領域を選んで専攻するようになった。誰も手がけない、前人未到の領域こそが本来なら研究者の知的関心を掻き立てるはずですけれど、そういう領域に踏み込むと「研究成果が査定不能」というリスクを負うことになる。「格付け不能」というのは市場からすると「無価値」と同義です。だから、リスクを避ける秀才たちは「誰も手がけない領域」ではなく「競争相手で混み合っている領域」に頭から突っ込んでゆくようになった。そうやって日本の学術研究の多様性は短期間に急激に失われていったのでした。
部分的に見ると適切なように見えるものも、少し広めのタイムスパンの中に置き換えると不適切であり有害であるということがあります。大学の格付けというのは、まさにそのようなものでした。大学の優劣を可視化するという社会的要請はそれだけ見れば合理的なものに思えますけれど、その帰結が大学の均質化と研究成果の劣化だったとすれば全体的には不適切なものだったという他ない。

自己評価というのも今ではどこの大学も当たり前のようにやっていますけれど、そもそも何のために自己評価活動が要るのかというおおもとのところに還って考えるということをしていないので、膨大な無駄が生じている。はっきり言って、こんなものは日本の大学には不要なものです。でも、アメリカでは大学の評価活動を熱心に行っているから日本でもやろうということになった。それは社会の中における大学のありようが日米では全然違うということがわかっていないから起きた重大な誤解です。
アメリカの大学の中にはとても大学とは言い難いようなものがたくさんあります。大学設置基準が日本とは違うからです。アメリカの場合、ビルの一室、私書箱一つでも大学が開校できる。校地面積であるとか、教員数であるとか、蔵書数であるとか、そういうことについてうるさい縛りがない。教育活動としての実態がないのだけれど、「大学」を名乗っている機関がある。そういう大学のことをDegree millとか、Diploma millと呼びます。「学位工場」です。学士号や修士号や博士号を単なる商品として売るのです。
学位工場はアメリカの商習慣から言うと違法ではありません。というのは、一方には金を出せば学位を売るという大学があり、他方には金を出して学位を買いたいという消費者がいて、需給の要請が一致してるからです。売り買いされているものが無価値な、ジャンクな商品だということは売る側も買う側も知っている。無価値なものを売り買いしており、その価格が適正だと双方が思っているなら、法的な規制はかけられない。そうやってアメリカ国内には無数の学位工場が存在している。
そこでアメリカの「まともな大学」が集まって、「まともな大学」と「学位工場」の差別化をはかった。でも、「学位工場」のブラックリストを作ることはできません。それは彼らの営業を妨害することになり、場合によっては巨額の賠償請求を求められるリスクがあるからです。合法的に経営されている企業の活動を妨害するわけにはゆかない。だから、「この学校はインチキですよ。この大学の出している修士号とか博士号とかはほんとうは無価値なんですよ」ということはアナウンスできない。できるのは「私たちはまともな大学であり、私たちの出す学位は信頼性があります」という自己主張だけです。でも、自分ひとりで「うちはまともです」と言っても十分な信頼性がない。だから、世間に名の通った「まともな大学」を集めて、「まともな大学同士でお互いの品質保証をし合う」という「ホワイトリスト」の仕組みを作った。それが相互評価です。
でも、日本にはそんな相互評価の必要性なんかありませんでした。だって、学位工場なんか存在しなかったからです。日本の大学は厳しい設置基準をクリアしてきて創立されたもので、教育しないで、学位を金で売るようなインチキな大学は存在する余地がなかった。
でも、確かにある時点からそれが必要になってきた。それは小泉内閣以後の「規制緩和」によって、大学の設置基準も緩和されたからです。厳しい設置基準審査は割愛する。その大学が存在するだけの価値があるかどうかの判定は市場に委ねる。「事前審査」から「事後評価」へというこの流れは「護送船団方式」から「市場へ丸投げ」という大綱化と同じ文脈で登場してきました。
2003年に規制緩和路線の中で株式会社立大学が登場しました。「構造改革特区」においては学校法人ではなく、株式会社にも学校経営への参入が容認されたのです。それ以前は私立学校の設立母体となることができるのは学校法人だけでした。規制緩和によって、2004年から続々と株式会社立大学が設立されました。でも、株式会社立大学のその後はかなり悲惨なものでした。
全国14キャンパスを展開したLECリーガルマインド大学は2009年度に学部が募集停止。2006年開学のLCA大学院大学も2009年に募集停止。TAC大学院大学、WAO大学院大学は申請に至らず。ビジネス・ブレークスルー大学は2012年度の大学基準協会の大学認証評価で「不適合」判定を受けました。実質的に専任教員が置かれていないこと、研究を支援・促進する仕組みが整備されていないこと、自己点検評価・第三者評価の結果を組織改善・向上に結びつける仕組みが機能していないことなどが指摘されましたが、これは経営破綻に至った他の株式会社立大学にも共通していたことでした。
でも、僕はこの失敗についても株式会社立大学を推進した人々からまともな反省の弁を聞いたことがありません。導入時点では、財界人たちからは、大学の教員というのはビジネスを知らない、マーケットの仕組みが分かってない、組織マネジメントができていない、だから駄目なんだということがうるさく言われました。生き馬の目を抜くマーケットで成功している本物のビジネスマンが大学を経営すれば大成功するに決まっているという触れ込みでしたが、蓋を開けてみたらほとんど全部失敗した。それについても、なぜ失敗したのかについて真剣な反省の弁を聞いたことがありません。誰の口からも。もし大学人に足りないのはビジネスマインドだというのが本当なら、この「ビジネスマン」たちもかなりビジネスマインドに致命的な欠陥を抱えていたということになります。でも、それよりむしろ学校教育に市場原理を持ち込むという発想そのものに誤りがあったのだと僕は思います。
これらの出来事はすべて同一の文脈の中で生起したことです。これらの出来事に伏流しているのは「市場は間違えない」という信憑です。学校教育の良否を判定するのは市場であると考えたビジネスマンたちは、消費者が喜びそうな教育商品・教育サービスを展開すれば、必ず学生たちは集まってくると考えました。株式会社立大学はいろいろな手で志願者を集めましたが、それは商品を売る場合と同じ考え方に基づくものでした。駅前で足の便がいいとか、スクーリングなくて一度も登校しなくても学位が取れるとか。でも、消費者を引き付けようとするなら、最終的に一番魅力的な訴えは「うちは勉強しなくても学位が取れます」ということになる。そうならざるを得ない。市場モデルでは、学習努力が貨幣、単位や学位が商品とみなされます。最も安価で商品を提供できるのがよい企業だという図式をそのまま学校教育に適用すれば、学習努力がゼロで学位が取れる学校が一番いい学校だということになる。実際に、そう信じて株式会社立大学の経営者たちは専任教員を雇わず、ビデオを流してコストカットに励み、学生たちには「最低の学習努力で卒業できます」と宣伝した。それは学位工場に限りなく近いかたちの大学を日本にも創り出そうとしたということです。でも、幸いにもその企ては成功しなかった。果たしてその失敗の経験から、株式会社立大学の導入を進めた人々は一体何を学んだのか。たぶん何も学んでいないと思います。今も「大学では実学を教えろ」とか「実務経験者を教授にしろ」と言い立てている人はいくらもいます。彼らの記憶の中では株式会社立大学のことはたぶん「なかったこと」になっているのでしょう。
その後に登場してきたのが「グローバル教育」です。これも表向きは経済のグローバル化に対応して云々ということになっていますけれど、実態は格付けのためです。大学の優劣をどうやって数値的に可視化するかということが90年代以降の文科省の教育行政の最優先の課題でしたけれど、グローバル教育はまさにそのためのものでした。つまり、「グローバル化度」という数値によって全大学を格付けすることにしたのです。これはたしかに賢い方法でした。「グローバル化度」は簡単に数値的に表示できるからです。受け入れ留学生数、派遣留学生数、海外提携校数、英語で行っている授業のコマ数、外国人教員数、TOEICのスコア・・・これは全部数値です。これらの数値のそれぞれにしかるべき指数を乗じると、その大学の「グローバル化度」がはじき出される。電卓一つあれば、大学の「グローバル化度」は計算できる。
でも、留学生の数とか、海外提携校の数とか、外国人教員数とか、英語での授業の数は大学の研究教育の質とは実際には何の関係もありません。今の日本の大学生は日本語での授業でさえ十分に理解しているとは言い難い。それを英語で行うことによって彼らの学力が向上するという見通しに僕はまったく同意できません。
今、どこの大学でも「一年間留学を義務づける」ということが「グローバル化度」ポイントを上げるために導入されています。学生からは授業料を徴収しておいて、授業は海外の大学に丸投げして、先方が請求してくる授業料との「さや」を取る。何もしないで金が入ってくるのですから、大学としては笑いが止まらない。25%の学生が不在なのですから、光熱費もかからない、トイレットペーパーの消費量も減る、教職員もその分削減できる。いいことづくめです。そのうち「いっそ2年間海外留学必須にしたらどうか」と言い出す知恵者が出てくるでしょう。さらにコストカットが進んで利益が出る。すると誰かさらに知恵のある者が「いっそ4年間海外留学必須にしたらどうか」と言い出すかもしれない。そうしたら校舎も要らないし、教職員も要らない。管理コストはゼロになる。でも、そのときは大学ももう存在しない。でも、自分たちがそういうふうに足元を掘り崩すようなリスクを冒しているということを、この「グローバル教育」推進者たちはたぶん気づいていないような気がします。
シラバスというのも、そのような学校教育への市場原理の侵入の一つの徴候です。もちろんそれまでも授業便覧・学修便覧は存在していたわけですけれど、シラバスはそれとは性格がまったく違います。あれは工業製品につける「仕様書」だからです。含有物質は何か、どういう規格に従って製造されたのか、どういう効用があるのか、そういう情報を消費者に開示するためのものです。ある意味では契約書です。「こういう授業をいついつにする」と教師は約束する。学生はそれが履行されることを教師に要求できる。予定通りに授業をしなかった場合、所期の学習効果が得られなかった場合、学生は教師に対して「契約不履行」でクレームをつけて、謝罪なり補講なりを請求できる。そういう趣旨のものです。
でも、大学の授業は工業製品じゃありません。本来は生身の教師が生身の学生たちの前に立ったときにその場で一回的に生成するものです。そこで教師が語る言葉にはそれまで生きてきて学んだこと、経験したこと、感じたことのすべてが断片的には含まれている。それが何の役に立つのか、そんなことは教師にだって予見不能です。どうしてこの科目を履修することになったのかは学生にだってわからない。学んだことの意味がわかるのは、場合によっては何年も、何十年もあとになることさえある。そういうものです。
スティーヴン・ジョブズは大学時代にたまたま「カリグラフィー(書法)」の授業を履修しました。どうしてそんな趣味的な授業を自分が毎週聴いているのか当時は理由がよくわからなかった。でも、何年か経ってスティーヴ・ウォズニアックと最初のマッキントッシュを設計したときに、フォントの選択と字間調整機能を標準装備として搭載したときに大学時代に「美しい文字を書く」授業を受けたこととの関連に気がついた。
授業がどういう教育効果をひとりひとりの学生にもたらすことになるのか、それは教師にも学生自身にも予見できません。もちろんシラバスに適当なことを書くことはできます。でも、シラバスを目を皿のようにして読んで履修科目を選ぶ学生なんて、実際にはいません。このコマが空いているからとか、友だちが受講しているからとか、この先生面白そうだからとか、試験がなくてレポートだけだからとか、そういう理由で履修科目を選んでいる。
私が在職中にとった統計でわかったことは「シラバス通りに授業をしているかどうか」ということと学生の授業満足度の間には統計的に有意な連関がないということでした。それ以外のすべての質問は学生の授業満足度と相関がありました。「時間通りに授業を始めるか?」とか「板書が見やすいか?」とか「十分な準備をして授業に臨んでいるか?」といった問いは満足度と相関していました。でも、全部の質問の中でただ一つだけ何の相関もない質問がありました。それが「シラバス通りに授業をしているか?」です。学生たちはシラバス通りに授業が行われることに特段の重要性を認めていない。それはアンケートの統計的処理の結果でも、僕の教壇での実感でもそうです。
だから、「シラバスを細かく書け」という文科省からの命令を僕は無視しました。だって意味がないんだから。いやしくもこちらは学者です。論理的にものを考えるのが商売です。シラバスを事細かに書くと授業効果が上がるということについて実証的根拠があるなら、それを示してくれればいいだけの話です。それを示さずに、もっと細かく書けとか英語で書けとか同僚の教員同士でチェックし合えとか、どんどん作業を増やしてきたのです。
僕が教務部長のときにうちの大学のシラバスに「精粗がある」という理由で助成金の減額が告げられました。これは教育行政として自殺行為だと僕は思いました。シラバスを書かせたかったら「それには教育効果がある」という理由を示せばいい。何の教育効果があるのか命令している文科省が知らない作業を現場に頭ごなしに命令して、違反者に処罰を課す。それも「助成金の減額」という「金目の話」に落とし込んできた。僕はこれを「教育行政の自殺」だと言ったのです。仮にも大学教育ですよ。文科省は「大学の教員というのは『金を削る』と脅したら意味がない仕事でも平気でやる生き物だ」という人間観を公然と明らかにしているわけです。財務省あたりが言うならわかりもするが、教育行政を担当する省庁が「人間は金で動く」という人間観を本人も信じ、人にも信じさせようとしていることを少しは恥ずかしいと思わないのか。まことに情けない気持ちがしました。
シラバスは氷山の一角です。大学人全体がこういうやり方にいつの間にかなじんでしまった。意味がないとわかっていることでも、「文科省がやれと言ってきたから」というだけの理由でやる。意味のないことのために長い時間をかけて会議をして、分厚い書類を書いて、教職員たちが身を削っている。腹が立つのはそれが「大学における教育研究の質を高めるため」という大義名分を掲げて命じられていることです。教員の教育研究のための時間を削って、体力を奪っておいて、どうやって教育研究の質を上げようというのです。
問題はこの理不尽に大学人が「なじんでいる」ということだと思います。仮にも学術を研究し、教育している人たちが「理不尽な命令」に対して、「逆らうと金がもらえないから」というような俗な理由で屈服するということはあってはならないんじゃないかと僕は思います。無意味なこと、不条理なことに対して耐性ができてしまって、反応しなくなったら、悪いけど学者として終わりでしょう。目の前で明らかに不合理なことが行われているのに、「いや、世の中そんなもんだよ」とスルーできるような人間に科学とか知性とかについてっ僕は語って欲しくない。
今、日本中の大学でやっていますけれど、評価活動というのはナンセンスなんです。何度も申し上げますけれど、無意味なんです。これは自らの失敗を踏まえて申し上げているんです。神戸女学院大学に教員評価システム導入の旗振りをしたのは僕です。当時、評価に関するさまざまなセミナーや講演に出ました。製造業の人から品質管理についての話も聞きました。そういう仕組みを大学にも導入すべきだと、もっとビジネスライクに大学のシステムを管理しなければいけないと、その頃は信じていたのです。でも、はじめてすぐに失敗だということに気づきました。
僕が考えたのは、大学内の全教員の研究教育学務での活動を数値化して公表し、それに基づいて教員の格付けを行い、予算配分や昇級昇格に反映させるというものでした。さすがに教授会では昇級昇格に反映させるという僕の案は否決されましたけれど、教員たちの評価を各学科・部署の予算配分に反映させるというところまでは同意をとりつけました。
僕は教員の個人的な評価なんて簡単にできると思っていたのです。教育だったら、担当クラス数とか、ゼミで指導している学生数、論文指導している院生数などを数値化して、それを足せばいい。研究だったら年間にどれくらい論文を書いているか、レフェリー付きのジャーナルに書いているのか紀要に書いているのかで点をつける。学務は管理職なら何点、学部長なら何点、入試委員なら何点、というふうに拘束時間の長さや責任の重さで配点を変える。それを電卓一つで叩けば年間の教員の活動評価なんか出せると思っていたんです。でも、それが短慮でした。
配点を決める委員会でいきなり引っ掛かったのが著作でした。単著一つで何点と決めるときに、同僚から待ったがかかった。「年間5冊も6冊も書き飛ばした本と、20年かかって書いた1冊では価値が違う。それが同じ配点というのはおかしい」と言われた。これはおっしゃる通りなんです。年間5,6冊書き飛ばしているというのはもちろん僕のことなんですが、その1冊と、その先生が20年かけて書き上げた畢生の労作d1冊を同点にするのはおかしいと言われたら、たしかにおかしい。でも、そう言われたら全部そうなんです。授業を何コマ担当しているかと言っても、「ウチダ君のように何の準備もしないで、その場で思いついた話をぺらぺら漫談のようにして90分終わらせる教員」と何時間も真剣に下準備をしてから教場に出かける教員の1コマが同じ1コマとして扱われるのは不当である。内容の違いを配点に反映させろと言われたら、こちらはぐうの音もありません。ほんとうなんだから。
何より、気の毒だったのは、教員たちの実際の働きや貢献度を公的な立場から採点することを求められた方々です。だって、そういう人たちはすでに学部長とか学長とかしているわけです。そういう役職に選ばれる人たちというのは教育面でも学生の面倒見がよくて、研究でも高いアクティヴィティを誇っている方々です。そういうただでさえ忙しい人たちに同僚の査定をするという余計な仕事を押しつけることになった。評価活動というのは、そもそも研究教育を効率的に行い、質の向上を果たすために導入したものです。でも、やってみてわかったのは、そんなことのために査定システムを考案したり、合意形成をもとめて会議をしたり、あれこれ書類を書いたりしていたら、それは全部研究教育学務のための時間に食い込んでくるということでした。評価コストは評価がもたらすベネフィットを超える。研究教育の向上のための評価が研究教育の劣化をもたらすという事実に、僕は評価活動をはじめて半年ほどで気がつきました。
僕が教員評価にこだわったのは、教員の中に、あきらかに給料分の働きをしていない教員たちがいたからです。ろくに仕事をしないで高給を食んでいる人たちが手を抜いているせいで、学務の負担が他の教員に回ってくる。さぼる教員のせいで、他の教員たちの研究教育の時間が削られている。それがどうしても許せなかった。そういう怠け者をあぶり出して、仕事をさせなくちゃいけないと思って、教員を管理する仕組みを考えたのです。
でも、これはまったく失敗だった。だって、怠け者の教員というのは評価しようとしまいと関係ないからです。休日を返上してセクハラ講習会を開いても、セクハラ教員はそういう講習会には来ないのと一緒です。絶対にセクハラなんかしそうもない人たちだけが集まってまじめに研修している。そういうのは時間の無駄なんです。働かない人は評価システムがあろうがなかろうが働かない。せいぜい給料分ぎりぎりしか働かない。でも、評価システムを制度設計し、立ち上げ、維持運営するために、これまで研究教育で高い成果を上げて来た教員たちの時間と労力を奪うことになった。この人たちはこれまでもらう給料の何倍もオーバーアチーブしていたわけですけれど、その人たちの足をひっぱることになった。だから、評価システムの導入は、トータルでは、大学全体の研究教育のパフォーマンスを下げることにしかならなかった。
国立大学の場合はもっと悲惨です。独立行政法人化から後、日本の大学の学術発信力は一気に低下しましたけれど、それも当然なんです。法人化があって、学部改組があって、カリキュラム改革があって、そこに自己評価や相互評価が入ってきて、次はCOEだとかRU11だとかグローバル人材教育とか、ついには英語で授業やれとか言われて、この15年くらいずっとそういうことに追い回されてきたわけです。そういう仕事を担当するのは、どこの大学でも30代40代の仕事の早い教員たちです。頭がよくて手際のよい教員たちが、そういう「雑務」を押しつけられた。会議とペーパーワークだけで研究者として脂の乗り切る10年間を空費してしまったという教員が日本中の国立大学に何百人となくいるのです。この人たちがその時間を研究教育に充てていたら、どれぐらいの学的達成が蓄積されたか、それを思うと失ったものの大きさに言葉を失います。
今は定年前に辞める教員がどこの大学でも増えています。専任教員として教えなくても、授業だけすればいいという特任教員の給与や著述での収入だけで生活が成り立つという人はそういう方を選んでしまう。だって、あまりにばかばかしいから。グローバル人材育成と称して、今はどこでも英語で授業をやれというプレッシャーがかかっている。どう考えても、日本人の学生相手に日本人の教員が英語で授業やることに意味があるとは思えない。
実際にそういう大学で働いている人に聞きましたけれど、オール・イングリッシュで授業をするとクラスがたちまち階層化されるんだそうです。一番上がネイティヴ、二番目が帰国子女、一番下が日本の中学高校で英語を習った学生。発音のよい順に知的階層が出来て、いくら教員が必死に英語で話しても、ネイティヴが流暢な英語でそれに反対意見を述べると、教室の風向きが一斉にネイティヴに肩入れするのがわかるんだそうです。コンテンツの当否よりも英語の発音の方が知的な位階差の形成に関与している。
これも英語で授業をしている学部の先生からうかがった話ですけれど、ゼミの選択のときに、学生たちはいろいろな先生の研究室を訪ねて、しばらくおしゃべりをする。その先生のところに来たある学生はしばらく話したあとさらっと「先生、英語の発音悪いから、僕このゼミはとりません」と言ったそうです。その方、日本を代表する批評家なんですけれど、学生はその名前も知らなかった。
そういうことが今実際に起きているわけです。ではなぜこんなに英語の能力を好むというと、英語のオーラルが教員の持っている能力の中で最も格付けしやすいからです。一瞬で分かる。それ以外の、その人の学殖の深さや見識の高さは短い時間ではわからない。でも、英語の発音がネイティヴのものか、後天的に学習したものかは1秒でわかる。
『マイ・フェア・レディ』では、言語学者のヒギンズ教授が出会う人たち一人一人の出自をぴたぴたと当てるところから話が始まります。『マイ・フェア・レディ』の原作はバーナード・ショーの『ピグマリオン』という戯曲です。ショーはヒギンズ教授の口を通して、イギリスでは、誰でも一言口を開いた瞬間に出身地も、職業も、所属階層も分かってしまうということを「言語による差別化」(verbal distinction)としてきびしく告発させます。ヒギンズ教授は誰でも口を開いて発語したとたんに、その出身地も学歴も所属階級もわかってしまうというイギリスの言語状況を批判するためにそういう曲芸的なことをしてみせたのです。すべてのイギリス人は同じ「美しい英語」を話すべきであって、口を開いた瞬間に差別化が達成されるような言語状況は乗り越えられねばならない、と。だから、すさまじいコックニー訛りで話す花売り娘のイライザに「美しい英語」を教えて、出身階層の軛から脱出させるという難事業に取り組むことになるのです。
でも、今日本でやろうとしているのは、まさにヒギンズ教授がしようとしたことの逆方向を目指している。口を開いた瞬間に「グローバル度」の差が可視化されるように英語のオーラル能力を知的優越性の指標に使おうとしているんですから。それは別に、英語がネイティヴのように流暢に話せると知的に生産的だからということではなく、オーラル能力で階層化するのが一番正確で、一番コストがかからないからです。
日本中の大学が「グローバル化」と称して英語教育、それも会話に教育資源の相当部分を費やすのは、そうすれば知的生産性が向上するという見込みがあるからではないんです。知的な生産性という点から言ったら、大学ではできるだけ多くの外国語が履修される方がいい。国際理解ということを考えたら、あるいはもっと現実的に国際社会で起きていることを理解しようと望むなら、英会話習得に教育資源を集中させるよりは、外国語履修者が中国語やドイツ語やトルコ語やアラビア語などに散らばった方がいいに決まっている。でも、そういう必要な外国語の履修については何のインセンティブも用意されていない。それは、英語の履修目的が異文化理解や異文化とのコミュニケーションのためである以上に格付けのためのものだからです。
TOEICはおそらく大学で教えられているすべての教科の中で最も格付けが客観的で精密なテストです。だからみんなそのスコアを競うわけです。競争相手が多ければ多いほど優劣の精度は高まる。前に申し上げた通りです。だから、精密な格付けを求めれば求めるほど、若い人たちは同じ領域にひしめくようになる。「誰でもできること」を「きわだってうまくできる」ことの方が「できる人があまりいないこと」を「そこそこできる」ことよりも高く評価される。格付けに基づいて資源分配する競争的な社会は必然的に均質的な社会になる。そうやって日本中の大学は規格化、均質化し、定型化していった。
若い人たちは今でも地方を出て東京に行きたがります。そして、ミュージシャンだったり俳優だったり、カメラマンだったり、デザイナーだったり、とにかく才能のある人が集まっているところに行きたがる。それは精密な査定を求めてそうしているのです。故郷の街にいて、どれほどまわりから「町で一番才能がある」と言われても、それでは納得できないのです。もっと広いところで、たくさん競争相手がいるところに出てゆきたい。正確な格付けを求めてそうするのです。競争相手がたくさんいる領域に突っ込んでいって、低い格付けをされても、それは自分のようなことをしている人間が自分ひとりしかいない環境で、格付けされないでいるよりはまだましなんです。狭いところで「あなたは余人を以ては代え難い」と言われることよりも、広いところで「あなたの替えはいくらでもいる」と言われる方を求める。それは自分の唯一無二性よりも自分のカテゴリー内順位の方が自分のアイデンティティを基礎づけると彼らが信じているからです。「そんなことをしているのは自分しかいない」という状態が不安で仕方がないのです。「みんなやっていることを自分もやっている」方がいいのです。たとえどれほど低くても、精度の高い格付けを受けている方が安心できるのです。これは現代日本人が罹患している病です。そして、日本の大学もまたそれと同じ病に罹っている。
大学に格付けを要求するのは社会全体からの要請です。あなたの大学がどういう大学であるのかは、「他の大学を以ては代え難い」ところの唯一無二の個性によってではなく、日本のすべての大学を含む単一のランキングにおいて何位であるかによって決定される、そういう考え方に日本中が同意しているのです。そのせいで、大学の多様性が失われた。本当にユニークな研究教育活動は比較考量ができませんから、格付けすると「評価不能」としてゼロ査定される。研究教育活動がユニークであればあるほど評価が下がるという仕組みがもう出来上がっているのです。そのせいで日本の大学の学術的発信力は致死的なレベルにまで低下している。しかし、文科省はその学術的発信力の低下を「グローバル化が不十分だから。実学への資源投資が不十分だから」という理由で説明して、さらに全国の大学を均質化し、規格化し、競争を激化させ、格付けを精密にしようとしている。その結果、ますますユニークな研究教育のための場所は失われている。
そんなことをしているんですから、日本の大学に未来がないのは当然なんです。多様なできごとが無秩序に生起している場所でのみ、それらのうちで最も「生き延びる」確率の高いものが際立ってくる。「ランダムさのないところに新たなものは生じない」(Without the random, there can be no new thing)。これは『精神と自然』の中のグレゴリー・ベイトソンの言葉です。日本の大学教育はまさにその逆の方向に向かって進んでいる。でも、すべてが規格化され、単一の「ものさし」で比較考量され、格付けされるところからは、いかなる新しいものも生まれません。
教育の目的というのは、一言にして尽くせば、どうやって若い同胞たちの成熟を支援するか、それだけです。格付けとは何の関係もない。精密な格付けをすれば、若い人たちがどんどん知性的・感性的に成熟するというエビデンスがあるというのなら、大学からイノベーティヴな発見が次々世界に向けて発信されているというエビデンスがあるというのなら、格付けしたって結構です。でも、そんなエビデンスはどこにもありません。あるのは、大学が評価や査定や格付けにかまけてきた間に日本の大学の学術的発信力は先進国最低レベルに低下したという冷厳な事実だけです。
今、子どもたちの貧困が大きな社会問題になっていますけれど、貧困層の再生産には残念ながら子どもたち自身も消極的には加担してるんです。それは貧困層の人たちに対しては学校でも地域社会でも、「貧乏人らしくふるまえ」という強いプレッシャーがあるからです。貧しい人間は身を縮めて生きるべきだ、イノベーションを担ったり、リーダーシップをとったりすることは許されない。そういう考え方を持つ人が多数派です。そして、貧困層自身も、そういう社会観を自身のうちに内面化してしまっている。自分は貧しいのだから、楽しそうに生きてはいけない。明るくふるまってはいけない。新しいアイディアを提出してはいけない。リーダーシップをとってはいけない、そういう外部からの禁圧をそのまま内面化してしまっている。
以前、ある子育て中の母親がそう訴えていました。その人はシングルマザーで、確かに生活は苦しい。本当なら、親が貧しいことと子どもたちがのびのびと暮らすことの間には関係ないはずなのだけれど、貧しいというだけで、子どもたち自身が委縮してる。貧しい人間はにこにこしてはいけないと思っている。貧しくて不幸だという顔をしなくてはいけない。周囲がそういうふるまいを期待しているので、子どもたちはそれに応えてしまっているんじゃないか、と。
これは例えば生活保護を受けてる人がパチンコやったら許さないとか、芝居や映画見に行ったら怒るとかいうのと同じですね。主婦が子どもを保育園に預けて演劇見に行ったら、「ふざけるな」と怒鳴る人がいる。意地悪なんです。それが社会的なフェアネスだと本気で思って、意地悪をする。異常ですよ、皆さん。でも、日本はもうそういう異常な人が自分のことを「異常」だと思わないくらいに異常な社会になっているんです。
同じことが大学生自身にも起きている。低いランク付けをされると、自動的に自己評価も下方修正してしまう。あなた方はランクが低いんだから、もっとおどおどしなさい、もっといじけなさいって言われると、大学生の方も納得してしまって、おどおどして、いじけるようになる。格付けのせいで、いじけて、怯えて、自己評価を下げて、自分には何もたいしたことなんかできやしないと思っている若者たちを今の日本社会は大量に生み出しています。そんな人たちがどうして未来の日本を支えてゆくことができるでしょう。
冒頭に結論を申し上げましたけど、とにかく日本の大学は、今行われているような仕組みを是認されるのであれば、先はないです。日本の大学は滅びます、遠からず。どこかで抵抗するしかありません。「もういい加減にしてくれ」って、声を上げるべきです。文科省だってそんなにバカばかりじゃない。官僚の中には過去25年間の教育行政がことごとく失敗だったということを素直に認める人だってきっといると思います。でも、役人はその性として「間違えました」「すみません」とは言いません。
だから、大学側で声を合わせて言うしかないんです。国立大学の先生は立場上なかなか声を出しにくいかも知れませんけれど、でも声を出して欲しい。どうしたら教職員がイノベーティブになれるか。どうしたらキャンパスの中がもっと明るくなるか。教職員も学生も笑顔でいて、知的な刺激に満ちている環境をどうやって作るか。それについて考える事が最優先の課題だと僕は思います。
このまま手をつかねていたら、日本の大学は滅びます。皆さんが生活を犠牲にして、命を削って、大学のフロントラインを死守していることを僕はよく存じていますし、それに対して敬意も持ってます。でも、生身の人間ですから、無理は効きません。どこかで燃え尽きてしまう。だから、燃え尽きる前に、声を上げて欲しいと思います。「もういい加減にしろ」って。ちゃぶ台をひっくり返して頂きたい。日本中の学校で先生たちが一斉にちゃぶ台返しをしてくれたら、日本の未来も大学教育も救われるんじゃないかと思ってます。どうぞ頑張っていただきたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。
(2016年5月19日、国立大学教養教育実施組織会議特別講演・サンポートホール高松にて)

2017.11.10

吉本隆明1967

鹿島茂先生の『吉本隆明1968』(平凡社ライブラリー)の解説を書いた。
みなさんにぜひ読んで欲しい本であるので販促のために解説だけ公開。

たいへん面白く読んだ。吉本隆明の解説書としては、これまで書かれたものの中で最高のものの一つだと思う。これから吉本隆明を読む人にとっては絶好のブックガイドであるし、これまで吉本を久しく読み込んできた人にとっても「なるほど、あれは『こういうこと』だったのか」と腑に落ちる解釈がいくつもあると思う。本書が今後ひさしく吉本隆明研究の必須のレフェランスとなるだろうと私は確信している。
というくらいで「帯文」としては十分なのだが、頼まれたのは「解説」なので、話は少し長くなる。鹿島先生がどうしてただ「吉本隆明研究」とか「吉本隆明論考」ではなく「吉本隆明1968年」という年号入りのタイトルを撰したのか、その理由について以下にひとこと私見を述べて解説に代えたいと思う(今、「鹿島先生」という表記が気になった方がいると思うけれど、これはご本人にお会いするとそう呼んでいるので仕方がない。いきなり「鹿島は」とは書けません)。

1968年は鹿島先生が大学に入ってはじめて吉本隆明と対峙した年である。私の場合はそれが一年前の1967年なので、上のような題になった。私もまた吉本隆明と少年の時に出会って、人生が変わった人間のひとりである。
私は高校生から大学院生の頃までは吉本隆明の熱心な読者だった。でも、ある時期から読まなくなり、95年の阪神の大震災の時に高校時代からの蔵書をまとめて処分した時に、埴谷雄高や谷川雁や平岡正明の本といっしょに吉本の本も捨ててしまった。けれども、その後またふと読みたくなって、結局吉本隆明についてだけは捨てた本を全部また買い集めた。それは父が2001年に亡くなり、その後父のことを回顧するにつれ「戦中派の人たちは、戦前の自分と戦後の自分を縫合するためにずいぶん苦労をしたんだろうな」ということがひしひしと感じられるようになったからである。そして齢耳順を超えて読み返しながら、私もまた鹿島先生と同じように「ああ、おれはこの歳になっても、吉本主義者であったか」と深く感じ入ったのである。

鹿島先生と私は一歳違いで、鹿島先生の方が一歳年長である。鹿島先生は現役で東大に入学したが、私は69年に入試中止のあおりをくらって一浪し、70年に入学したので、学年は二つ下になる。鹿島先生は入れ違いに本郷に進学されたはずなので、キャンパスで遭遇したことはなかったと思う。でも、ほぼ同時期に同じキャンパスの同じ空気を吸ったことは間違いない。だから、この本に鹿島先生が書かれている回想については、細部まではっきりとしたリアリティをもって私も思い出すことができる。
吉本隆明は鹿島先生や私の世代に圧倒的な影響力を有していた。もちろん、それは二十歳前後の少年たちが吉本の思想的営為の独創性が理解できたことを意味しない。「『吉本はすごい』と感じてはいましたが、どこがどうすごいのか、それを説明することは不可能だったのです。いいかえてみると、自分の所有している語彙と観念と関係性に、吉本特有のそれらを翻訳・転換してみせるということができなかったのです」(278頁)と鹿島先生も書かれているけれど、私の場合もまったく同じである。
それでも、私は一読して、「この人が何を言おうとしているのかを理解しないと日本の政治的状況の本質に触れることはできない」ということまではわかった。鹿島先生もそうだったと思う。他の政治学者や政治思想家たちの書き物については、私はそれに類する感懐を持ったことはなかった。難解な術語や聞いたことのない固有名詞をまぶした評論を読んで、どうしてもう少しわかりやすく書けないのか(それほど頭が良いなら、その頭の良さをどうしてわかりやすく書くことには使えないのか)とうんざりすることはあっても、この人が書いていることを理解できないと先がないという焦燥感を覚えたことはない。そんなことを思わせた書き手は、私にとっては日本人では吉本隆明ひとりである。
私が最初に手にした吉本隆明の本は『自立の思想的拠点』で、1967年、高校二年生のときだった。なぜその本を買ったのか、記憶は定かではないが、周りの誰かが推薦したわけではなかったと思う。私が通っていたのは都立日比谷高校という進学校で、そこには鹿島先生が書いているような「自分が日本人だという要素をいっさい考えに入れずにヴァレリーやサルトルなどの抽象的思考と戯れることができるような人」(352頁)がいくたりもいて、彼らが校内で閉鎖的な知的サークルをかたちづくっていた。彼らが時おり「ヨシモト」という人名を口にすることがあったが、その時に一瞬微妙に苦い表情を浮かべることを私は見逃さなかった。どうやらヨシモトという人はこの「知的上層階級」の諸君にもうまく呑み込めないらしいということはわかった。彼らを「出し抜く」ためには、この人の本を読むのが捷径ではないかと私は考えた。子どもながら直感の筋は悪くない。だから、ある日書店でその名前を見た時に、深く考えずに購入したのである。
もちろん、理解できなかった。そこで論じられている政治潮流のことも、固有名詞として言及されている人の名前も私は知らなかった。でも、この人は私が緊急に理解しなければならないことを書いているということはありありと実感された(同じようなことはそれから十五年後にエマニュエル・レヴィナスを読んだ時にも感じた)。
書いてあることが理解できなくても、そこに私宛てのメッセージが含まれており、それは私が(政治的に、あるいは市民的に)成熟しなければ読解できないものだということはわかる、ということがある。メッセージのコンテンツとアドレスは別次元に属する。そして私たちにとってより緊急なのはもちろん宛先なのである。
はじめは先輩たちを「出し抜く」ために読み始めた吉本隆明だったけれど、すぐにそのような相対的な知的優位性に立つことはどうでもよくなった。吉本の言葉は鋭利な刃物に似ていた。そして、それを突き立てる先は「論敵」たちであるより先にまず自分自身だったからである。
高校二年の少年がそのような鋭利な刃物を手にしてよかったのだろうか。今から考えてみると、よかったのか、よくなかったのか、よくわからない。
高校に入った時点では、私は大学を出て、法曹か新聞記者か文学研究者になるという「大衆からの離脱コース」のキャリアパスを望見していた。しかし、高校での受験秀才としての穏やかな生活は長くは続かなかった。一つには先に述べた「知的サークル」に潜り込んだせいで、そこでの知恵比べや「おどかしっこ」(「お前、あれ読んだ?」)に必死でキャッチアップする必要があったからである。だが、それ以上の手間暇を要したのは不良化活動(麻雀、飲酒、喫煙、ジャズ喫茶通い)であった。別にそんなところに貴重なリソースを投じる理由はなかったのだが、私は中学生までは「箱入りの優等生」だったので、その手の誘惑にまったく免疫がなかったのである。
濫読と不良化活動への邁進のせいで、私の学業成績はたちまち悲惨なことになり、「箱入り優等生」の私しか知らない家族や友人やガールフレンドたち周囲の「良きひとびと」を嘆かせた。彼らに背を向けて遠ざかってゆく私の姿に、彼らはあるいは「名状し難い寂しさや切なさ」を感じたかも知れない。でも、私自身はそれまで無縁であった「ウッドビー知識人」と「都会の不良少年」という別種の「良きひとびと」との出会いに興奮していた。
そこに吉本隆明が来た。衝撃だった。免疫のない子どもにこんな過激な思想を注入したらどういうことになるか。私は「子どもが吉本隆明を読むとどうなるか」という危険な実験の一症例だったのではないかと思う。
私は吉本を読んで、すぐに「高校をやめよう」と思った。それは歩き始めたばかりの「大衆から知識人への上昇過程」をいきなり逆走するというとんちんかんなアイディアであったが、こういう無謀なことは高校生しか思いつかない。もし私が中学生の時に吉本を読んだとしても、「中学をやめて働こう」とは思わなかっただろう(思ってもそれを実行するだけの社会的実力がない)。大学生になって読んだ場合には、大衆は「原像」として概念的に把持される他ないほどすでに遠い存在になっていただろう。だが、高校生は生活者大衆でもないし、知識人でもない。まだ何者でもない。それでも、親に内緒で退学届けを出したり、家を出て働くことくらいはできる。この特権的なポジションを利用して、大衆でも知識人でもない、その二つを架橋できる存在になろうと私は思った(ほんとうにそう思ったのである)。
でも、もちろんそんな野心的企てが成功するはずもなく、私は中卒労働者としてしばらく極貧生活を送った後、反社会的な生活態度に怒った大家さんにアパートを追い出されて、家出してわずか半年で親に叩頭して家に戻る許しを請うことになったのである。
中卒労働者はつらかった(何より空腹がつらかった)。だから、温かい部屋で、母親の作った夜食を食べながらの受験勉強など、それに比べたら極楽であるとしみじみ思った。なるほど、知識人への上昇というのは別に大衆からの離脱というような観念的な営みである以上に、「楽な暮らしをしたい」という自然過程なのだと私は17歳にして深く得心がいった。
だから、大検を通って大学に入った時、私はずいぶん態度の悪い学生だったと思う。左翼の学生たちの政治談議はまったく空疎なものに思えたし、受験勉強の反動でただ遊んでいる学生は幼児に見えた。「大学解体」を呼号し、学校教育は無意味だと冷笑的に言う学生たちには「なんで高校の時にはそれに気づかずに受験勉強してたんだよ」と憎まれ口をきいた。厭味な学生だったと思う。大衆と知識人を架橋する存在になるという17歳の野望は潰えたけれど、知識人トラックに自分の走路だけは確保しつつ、効率的に受験勉強をクリアーして進学してきた同輩たちに向かっては中卒労働者の空腹を経験したことがあるかとすごむという「鵺(ぬえ)」的な狡猾さだけは身に着けていた。吉本隆明を「悪用する」方法というのが他にもあるのかどうか知らないが、私は間違いなくその好個の適例だった。
けれども、一言言い訳をするが、本書でも重く扱われている「転向」の問題は私たちの世代にとっても決して他人事ではなかったのである。それは「ブル転」とか、もっと穏やかに「運動からの召還」と呼ばれていたけれど、平たく言えば、政治革命をめざす活動から撤退して、就活にとりかかることである。多くの活動家学生たちが四年生になるとヘルメットを脱いで、汚れたジーンズを脱いでこぎれいなスーツに着替え、長い髪を切って七三に分けて就活を始めた。私はこれには驚いた。私はたしかに厭味な「鵺」的学生ではあったけれど、「鵺」であることに殉じる覚悟はあった。まさか「日帝打倒」とシュプレヒコールしていた学生たちがその当の日帝企業の就職の面談に行って、「御社の将来性に期待して」というような空語を吐くようなことが実際にあるとは思ってもいなかった。
なるほど、彼らにとって知識人でありかつ大衆であるというのは「こういうこと」なのかと腑に落ちた。まったく吉本が言った通りではないか。彼らは一方では空疎で観念的な世界革命論を語り、その一方では「己のためなら他人のことなど構ってられるかという明治資本主義が育てた『本音』としての個人主義的リアリズム」(320頁)にも忠実であったのである。
「この種の上昇的インテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で目の前につきつけられたとき、何が起こるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば、本格的な思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである」という『転向論』の中の吉本隆明の言葉がこのときほど身にしみたことはなかった。
私はそのとき、ただ一人になっても「日本的情況」を見くびることだけはすまいと心に誓った。天皇制を、家族制度を、あるいは日本的政治思想を、宗教や伝統技芸を、それがどれほど「理に合わぬ」ものと見えても、私はそれを思考と、かなうなら実践の対象としようと決めた。空疎な政治革命論は語らない。けれども「己のためなら他人のことなど構ってられるか」というようなベタな個人主義リアリズムとも結託しない。その中ほどのところが、「鵺」的吉本主義者として私が選んだ立ち位置であった。
以後半世紀に近い歳月を閲した。私は後にフランスの哲学と文学を研究する学者になったが、その一方で父子家庭で子どもを育て、武道と能楽を稽古し、禊行を修し、祭祀儀礼を守り、今は自分の道場で地域の人々に合気道を教えて余生を過ごしている。他の点ではずいぶんわきの甘い男だったが、知識人と生活者大衆の中ほどのどっちつかずの立ち位置を守り、何があっても「日本的情況を見くびらない」という点については一度も警戒心を失ったことはない。その自負だけはある。それほどまでに『転向論』の吉本の言葉は私の胸に突き刺さったのである。

以上が私にとっての吉本隆明との出会いとその後のいきさつである。17歳で吉本隆明に出会って「よかったのか、よくなかったのか、よくわからない」というのは如上のような事情によるのである。
鹿島先生もおそらくは吉本隆明との出会いがきっかけになって知的成熟の道を歩み始めたはずである(そうでなければ、こんな本は書かなかっただろう)。鹿島先生が進まれた道と私が進んだ道が結果的にはずいぶん方向違いのものだったにせよ、私たちはどちらも(主観的には)同じ「母鳥」の後を追って歩いてきたのだと思う。

2017.11.21

『変調「日本の古典」講義』まえがき

はじめに

みなさん、こんにちは。内田樹です。今回は安田登さんとの『論語』と能楽をめぐる対談本です。
安田さんとお話するのは、僕にとって最大の楽しみの一つです。とにかく安田さんも僕も「変な話」が大好きなので、どんなトピックでおしゃべりしていても、「話がきちんとした合理的な結論に到達しそうな道」と「話頭は転々奇を究めて、何が何だかわからない話になってしまいそうな道」があると、必ず後の方を選んでしまいます。結論とか教訓とか一般性とか、そんなことははっきり言ってどうでもいいんです。それより、安田さんからこれまで一度も聞いたことのない話を聞きたい、自分もこれまで誰にも言ったことのない話(これまで一度も僕の脳裏に浮かんだことのない話)をしたい。そういう対話相手って、なかなかいません。
もちろん、「変な話」をする人は世の中にたくさんいます。でも、そういう人たちはしばしば自分の話に夢中になると、こちらの話は拾ってくれないんですよね。自分の十八番の「変な話」をまくしたてられると、そのうちなんだか録音したものを聞かされているような気になって、げんなりしてきます。
「変な話」のし甲斐があるのは、お互いに「変な話」に没入しつつ、時折相手の話題を素材に繰り込みながら、さらに「変な話」を広げ、深めてゆくというかたちのものです。そういう対話相手として安田登さんは望みうる最高の相手です。
本書で披歴されている「変な話」やそれに付随するトリヴィア的雑学はとくに読者の皆さんが今すぐに了解しなければならないほどに緊急性のあるものではありません。なにしろ「論語」と「能楽」ですからね。2500年前の学術と650年前の芸能の話ですから、速報性も緊急性もぜんぜんありません。
それにこの本に収録されている対談そのものが、もうずいぶん前に行ったものなんです(ものによっては7,8年前)。それを祥伝社の栗原さんにテープ起こししてもらって、データにしてもらって、それに加筆するという仕事を僕も安田さんもずいぶんのんびりとやりました。時事的なトピックを扱った新書なんかの場合だと、原稿が半年も遅れると「もうそんな話に誰も興味示さないので、出版しません」というような悲痛なことが起こりますけれど、本書の場合はそういう心配がぜんぜんありません。出版が5年や10年遅れても、書かれていることのリーダビリティは揺るがない。主題が主題ですから、そうでなくては困ります。
でも、今回久しぶりにゲラを読み返してみて、たいへん面白かったです(書いた当人が言うのも何ですが)。だいぶ前のものですと、本人も何を話したのか覚えていないので、自分の発言を読みながら、「え? それで、それで、どうなるの?」とどきどきするということさえありました。「自分で言ったことくらい覚えておけよ」というお叱りもあるでしょうけれど、「売り言葉に買い言葉」ならぬ「安田さんの『変な話』に対抗してさらに『変な話』で応酬」ということを必死でしていたせいで、そのとき思いついて、そのまま忘れてしまった話というのが多いのです。書いた本人が読んでも面白いくらいですから、読者においておや。
 
安田登さんと知り合ったのは、どういうきっかけだったでしょうか。もう10年以上前、たしか『ブロードマッスル活性術』という本がうちにありました。ロルフィングをしている頃の安田さんが書かれた本です。うちの奥さんが持ち帰ってきた本だと思います。暇な日にこたつでごろごろしているとき手に取りました。僕はそういう「ハウツー本」というのはあまり読まないのですけれど、その日はたまたま「本と目が合う」ということが起きたようです。そのまま一気に最後まで読んでしまい、世の中にはおもしろいことをしている人がいるなと感心して、さっそく次の週から「ブロードマッスル合気道」というものを道場で実験してみました。するとこれがたいへん効果的であった。そこで奥さんに「この本、すごく面白かった。役に立った」と感想を述べたら、「私、その本書いた安田登さんと一緒に箱根神社で子どもに能を教えています」とのこと。おお、これは意外な縁が(ちなみにうちの奥さんは大倉流の小鼓方です)。
そのうち、たぶん奥さんが安田さんに箱根で会った時に「内田が安田さんの本を面白がってました」と伝えてくれたのでしょう、安田さんが横浜のカルチャーセンターで能楽講座をするのだけれど、そのゲストスピーカーとして来てくれないかというオッファーがありました。喜んでお受けしました。それがたぶんお会いした最初だったと思います。
そのとき講座で対談し、打ち上げで行った中華街でもそのまま話し続けました。そのときにたまたま祥伝社の栗原さんが同席されていて、「この二人のとりとめのない話を本にしたら・・・」と思った成果が本書であります(と思ってから本になるまでたいへんに長い時間がかかりました。栗原さん、遅くなってほんとうにすみませんでした)。
もしかすると、新潮社の『考える人』で連載していた、僕がホストとして身体技法の名人たちとお話しをする「日本の身体」シリーズの第一回ゲストを安田さんにお願いしたのがお会いした最初かも知れません。昔のことなので、記憶が定かではありませんが、いずれにせよ、最初にお会いしたときに「この人とは長いつきあいになりそうだな」と思ったことはたしかです。
それから後は安田さんの主宰する「天籟の会」のイベントにお誘い頂いたり、僕の道場である凱風館に来て頂いたり、いろいろなところでお話をしてきました。
この対談本にはその10年近い二人のおしゃべりのエッセンスが漏れなく収録されています。トリヴィア的なことはあちこちでもっと話していますけれど、「エッセンス」はここに尽くされていると言ってよいと思います。

この本を誰に読んで欲しいのか、今ちょっと考えましたけれど、若い人たち(できたら中学生や高校生)です。そういう人たちに読んでもらえたらうれしいです。理由は本書を徴して頂ければ、おのずと知れるのですけれど、僕たちがそれと知らぬままに深く「伝統文化」に半身を浸して生きているかことに気づくのは早ければ早いほどいいと思うからです。
若い人たちは、どちらかと言うと、「自国の伝統と何の関係もないまったく新しいもの」に惹きつけられます。僕自身、中学生の頃、いちばん夢中になって読んだのはアメリカのSFでした。それは明らかにそれが日本の文化的伝統とほとんど無縁のものに思えたからです。「100%ブランニュー」というところに魅せられたのです。正直言うと、大人たちが見向きもしない新しいものであれば何でもよかったんです。
二十代の半ばくらいまでは「新しいものはよい。古いものはダメだ」という単純な進歩史観の信奉者でした。当たり前ですね。子どもが大人に勝てるとしたら「新しいものに対する感度の高さ」しかないんですから。
でも、文化的な作物について、「これがわかんねえやつは時代遅れ」というような定型的な決めつけをして勝った負けたで一喜一憂するのは、ほんとうは意味がないことなんです。だって、この世に「ほんとうに新しいもの」なんてほとんどないからです。多くは「ありものの使い回し」です。ほんとうにそうなんです。
でも、勘違いしないで欲しいのですけれど、僕はそれが「悪い」と言っているんじゃないんです。むしろ「すごいこと」だと思っています。何度も何度も使い回しされ、焼き直しされるものというのは歴史の風雪に耐えて生き延び、あらゆる場所の、あらゆる世代の人々の創造的な気分を活性化しているんですから。たぶんそれは人間がそれなしでは創造することができない何かなんだと思います。
というわけで、ある時点から僕は「新しいもの」を追いかけるのを止めて、長い期間にわたり(ものによっては何百年にわたって)文化的創造を通じて執拗に繰り返され、反復されるものを検出することの方に興味を持つようになりました。武道や能楽や古典文学に関心が移ったのはそのせいです。
それは単なる知的関心という以上に、自分自身がどれほど豊かな文化的伝統に養われているのか、それに気づくと、急に生きやすくなったからです。
『未知との遭遇』というスティーブン・スピルバーグの映画がありましたけれど、そのキャッチコピーはWe are not aloneでした(ずいぶん古い話ですから、若い人はご存じないと思いますが)。
このwe are not alone ということを感じることが時々あります。古流の型を稽古しているうちに古人がその型に託した術理に気づいたときとか、能楽の謡を稽古しているときに思いがけなく身体の深層の筋肉が震動し始めたときです。「ああ、昔の人も『これと同じこと』を感じたんだな」ということが実感されると、「私はひとりじゃない」と思うのです。何というか暖かくて、フレンドリーなものに触れた感じです。そして、当然ながら、時代が隔たっていればいるほど、「あ、昔の人も、これと同じことを感じたのかな・・・」と直感したときの喜びは深い。

長くなってきたので、そろそろ話をまとめます。
これから先、若者たちの中から「出家」したり、「諸国一見」の旅に出たり、伝統的な芸能や技術の習得のために師匠に「弟子入り」したり・・・という生き方を選ぶ人が増えてくるんじゃないかという気がします。気がするだけで、何の根拠もないんですけれど。
でも、僕たちが豊かで多様な伝統的な文化的資源に養われて日々暮らしているということが感知されたとき、どうすれば昔の人たちの思いや感情と交流できるのか考え始めたとき、そういう生き方はごく自然に選ばれるのではないかと思います。
安田さんと僕は二人ながら「昔の人の心身のうちに想像的に入り込む」ということの専門家です。そんなことを専門にしてどんな「いいこと」があるんだろうと疑問を抱く人がきっといると思いますが、その疑問はお読みになるうちに氷解すると思います。とりあえず二人とも最初から最後まで上機嫌ですから、「そういうこと」ができると機嫌よく暮らせるということは確かです。
ではどうぞゆっくりお読みください。

2017.11.24

日本。長髪とフォークの思想 

11月22日付けのLibération に日本の70年代ポップスについてのOlivier Lammという署名入りの長文の記事が掲載された。
はっぴいえんどの四人の写真が掲げられた記事を見てびっくりした。なんで「リベラシオン」にはっぴいえんどが出るんだと思って記事を読んだら、まことに興味深い内容だった。
You Tube のせいで今は世界中のあらゆる時代の楽曲を好きなだけ聴けるようになったわけだけれど、その過程でヨーロッパのユーチューバーたちは偶然日本の60~90年代のポップスを「発見」したのである。そして、そのクオリティの高さにびっくりした。
「日本ポップス、すげえ」と思ったプロデューサーが日本ポップスの網羅的なコンピレーションアルバムを作成する企画を出し、それが実現したという話である。
その経緯を知ったオリヴィエ・ラムさんという日本ポップス大好きなフランス人が「日本のポップスは1970年代初頭に同時代に世界のポップスのポールポジションを制していた(でも日本以外の人は誰もそれを知らなかった)」、そして、この時期まさに世界のポップ・ミュージックの先頭を走っていたのがはっぴいえんどだったという感動的な記事を書いてくれたのである。
泉下の大瀧詠一師匠が読んでくれたら、どれほど笑ってくださったであろう。
文中には「当時アルバム一枚の値段は労働者の平均月給と同額であった」とか「アングラの拠点は東北の秋田であった」とか「渋谷の高台にDIGという喫茶店があった」とかちょっと不正確な記述もあるが、それにしてもたいへんによく調べてあって、感涙。ではどうぞ。長いよ!

60年代の終わり、日本人の対米感情は良いものではなかった。1968年間にNHKが行った世論調査では「アメリカによい感情を抱いている」いう回答は31%にとどまった。東京から福岡まで、相当数の学生たちは1960年の安保条約延長をめぐる運動の中から生まれた新左翼に対して程度の差はあれ親近感を示しており、カウンター・カルチャーへの渇望が高まっていた。
沖縄で米軍駐留反対運動を戦う人たちや、1964年の東京五輪のための土木工事で破壊される前の東京の風景を懐かしむ人たちは、自分たちがサンフランシスコのヘイト・アシュベリーのヒッピー・コミューンとどこかで繋がっていると感じていた。東京の新宿駅のまわりにたむろしていた「フーテン族」たちの長髪の頭の中はユートピア的な共同体とルソー的な夢に満たされていた。彼らはその少し前まで銀座のブルジョワ的な街路をプレッピースタイルで闊歩していた「みゆき族」に代わって登場してきた。さまざまなアイディアが相克しながら創り出したこの腐葉土から「アングラ」が生まれた。そして、この日本版のアンダーグラウンド・フォークからその後の日本のポップソングの系譜のほとんどが生まれたのである。外国音楽の影響を否定せず、都会的洗練を求めながら、なお日本語で歌うことを選んだミュージシャンが登場したのはこの時のことである。

「木も涙を流す 日本のフォークとロック:1969―1973」(Even a tree can shed tears: Japanese Folk and Rock: 1969-1973)というタイトルはこのムーヴメントの先駆者西岡たかしの歌に由来する。このアンソロジーは日本のポピュラー音楽における決定的な出来事をはじめて欧米に紹介したものである。日本のエレクトロニックミュージック、ジャズ、ノイズなどのアヴァンギャルドに比べると、この時期の音楽活動は日本の外では知られることが少なかった。
1970年代初めの日本のカウンター・カルチャーの歴史に関心を寄せる人々は、例えば雑誌「Provoke」の日本特集や若松孝二の『連合赤軍』を通じて、その時代の日本の音楽には何かしら眩いものがあふれていたことに気づいたのである。それは歌詞の場合もあるし(いくつかは英訳されている)、楽曲の場合もある。その洗練度は同時期の英米の作物と比較してもいささかも見劣りがしないし、その不安定性は90年代のインディーズの爆発を告知していた。

1960年代末まで、日本のポップスは洋楽の模倣であった。大衆が好む音楽は「歌謡曲」と呼ばれ、そのより感傷的なタイプの楽曲が「演歌」である。これらの音楽は昭和時代(1926―89)を通じて、アフロ・キューバンのリズムやロックンロールと接触しても変化することがなかった。
その後、日本人は彼ら独特の「イェイェ」を創り出した。最初は60年代の「エレキ」ブームである。ブームのきっかけを作ったのはアメリカのサーフ・ミュージック・コンボ、ザ・ヴェンチャーズの日本ツァーであった。彼らの音楽がインストであったことも幸いした。その後、「グループ・サウンズ」の時代が続く。そして、ロックの「津波」を引き起こしたのは1966年間6月のザ・ビートルズの東京の武道館公演である。
この時代のロックバンドは曲の多くを英語(のような言語)で歌った。この時期に、日本語で歌うミュージシャンは下位に格付けされたのである。

「木も涙を流す」に収録されているミュージシャンたちの多くは「グループ・サウンズ」の枠組みの中でデビューした。例えばクルーナーの布谷文夫はブルース・クリエーションで、細野晴臣はエイプリルフールで活動を開始した。その後、彼らはフォークに向けて音楽的進化を遂げてゆくわけだが、それは彼らがアイドルとしてきたアメリカのミュージシャンたちの音楽的進化に多くの点で影響をされていたからである。だが、1970年代に入り、日本のロック文字通りそのようなアメリカの影響から解放された。この時期のアーティストたちによる創造的な活動が、加藤和彦や吉田拓郎のように日本の政治と教育のシステムに対する反抗者たちで満たされていた大学キャンパスで流行していた「プロテスト・フォーク」の純粋志向の延長上にあった場合も、あるいははっぴいえんどやはちみつぱいのようによりソフィスティケイトされた音楽的経験への野心に燃えていた場合も、どちらも母語を奪還することを目指していたのは偶然ではない。
「英語で歌うか、日本語で歌うか、どちらかをめぐって、日本のロック界では激しい論争が繰り広げられた」とDavid Marx(日本のポップスの専門家で、“Ametora”―アメリカのモードの日本文化への影響についての参考文献―の著者)は書いている。
「内田裕也(歌手で、サイケデリックバンド、フラワー・トラベリング・バンドのリーダー)はあくまで英語で歌うことにこだわり、一方はっぴいえんどは日本語で歌うことにこだわった。その時代にも日本語で歌うグループは存在したが、彼らは『クール』ではないと見られていた。そして、英語か日本語か、どちらで歌うか迷っていたミュージシャンたちに方向を決めさせたのははっぴいえんどだった。」

はっぴいえんどは四人の日本ポップスの巨人たちによって始められた。ソングライターの大瀧詠一、ドラマーの松本隆、ギタリストの鈴木茂、飽くことを知らないイノベーターである細野晴臣(細野はその10年後にテクノ・ポップのトリオ、イエロー・マジック・オーケストラを結成することになる)。
はっぴえんどは疑いの余地なく日本のロックを成熟期に導いたグループであった。とはいえ、彼らが実際に活動していた時期(1969―1972)には人気のあるグループではなかった。その点でも、アウトサイダーでありながら、次世代に続く多くの扉を開いたヴェルヴェット・アンダーグラウンドに比較することが可能だろう。
David Marxはこう書いている。「はっぴいえんどのメンバーたちはさまざまなバンド、例えばバッファロー・スプリングフィールドの影響下に、欧米の音楽構造とメロディと日本的な感受性との独特のハイブリッドを創り出した。それは60年代のグループが欧米のポップスの様式を機械的に理解し、ほとんどの場合欧米の楽器を使って日本の歌を歌うことに行き着いたのとは対照的であった。」
はっぴいえんどは曲を作り、ライブ活動をし、プロデュースをするかたわら、さまざまなミュージシャンの熟練したバックバンドを務めた。岡林信康、荒井由実(日本のフランソワーズ・アルディ)、伝説の金延幸子(日本のジョニ・ミッチェル、残念ながら最初のアルバムを出した後にアメリカのジャーナリスト、Paul Williams と結婚して音楽の世界を去った)。その要求の高さによって、またその野心によって、とりわけ細野と大瀧によってそれと知られぬうちに行われた忍耐強い作業によって(この二人はやがて実に多様な領域で最も高く評価される作曲家となった)、はっぴいえんどは後に「ニュー・ミュージック」(Jポップの先祖。世界第二位のレコード市場の出現を決定づけた)と呼ばれることになるものの先陣を切ることになったのである。
1970年代始めの日本では、アルバム一枚の価格は労働者の平均給与の一ヶ月分に相当した。ましてや外国のアーティストのレコードを探し出すことは絶望的に困難であった。「よほど有名なアーティストでなければ公式のライセンスを得てレコードを出すことができなかった」とDavid Marxは書いている。「海外の楽曲にアクセスしようと思ったら、外国に行くしかなかった。はっぴいえんどはレコードを買い漁るつもりでロサンゼルスに赴いたのだと思う。」

当時、音楽を聴くのは「喫茶店」においてであった。喫茶店というのはヨーロッパのカフェに着想を得たコーヒーショップの原型で、最新のハイファイセットを装備しているところもあった。1930年代以降に流行した「ジャズ喫茶」「名曲喫茶」の伝統を受け継いだもので、若者たちは彼らの世界に登場してきた新しいものを発見するために喫茶店に足繁く通った。東京では、喫茶店は渋谷の高台に集中していた。DIG、BYG、 ライオンなどという名前の店があった。地下室がある喫茶店はしばしばそこに仮設の舞台を造営していた。
東北地方の秋田や、関西の諸都市(大阪、京都、神戸)では、アングラはより政治化しており、岡林信康やフォーク・クルセイダーズ(加藤和彦が最初に属していたバンド)のようなアーティストはピート・シーガー、ジョーン・バエズ、あるいはボブ・ディランのプロテスト・フォークの流れを受け継いで活動していた。
日本で最初の独立レーベルURC(Underground Record Club)が創立されたのは大阪である。
率いたのはラディカルなジャックスのリーダーであった奇人早川義夫。このバンドは日本のロックに「マリアンヌ」という名曲を残して1968年に解散した。
「木も涙を流す」に収録されているアーティストの多くはURCあるいはその後続々と登場したレーベル(ベルウッド、エレック)と契約した。
それから40年経った今ヨーロッパでこれらの音楽を聴くことができるのは、この時のマイナーレーベルのもたらした開放的な空気のおかげである。メジャーが制作するレコードは日本レコード産業協会の定めるコードの制約下にあったからである。
この時期に日本のポップスは同時代の世界の音楽ファンたちがその存在を知らないうちに世界のポップ・ミュージックのポールポジションを制したのである。

日本のポップスの各時代毎のテーマ別アンソロジーのシリーズ企画が出て来たのは、数年前、Atticの中のLightレーベルにおいてであった。編集者の一人Yosuke Kitazawaによると、会社を説得したのはJeff the BrotherhoodのJake Orrallである。
「最初のアイディアが出されたのは3年前で、Jakeが編集したカセットを受け取った。それを聴いて、コンピレーションアルバムとして日本の外で発表したいと思えるような曲がいくつもあった。これらの歌はかつて欧米で一度も発売されたことがなかった。」
アルバムを編集しているうちに他のアンソロジーも続けて出すことが決まった「シティポップ、AOR&ブギ 1975―1985」と「アンビエント、環境、ニューエイジ・ミュージック 1980―1990」である。その時代の特色を示すタイトルが付けられた。聴いてわかるのは、この続くアルバムに収録された音楽はきわめてひろい領域にわたっているが、相当数のアーティストは(細野晴臣を筆頭に)第1アルバムにすでに登場しているということだ。
「木も涙を流す」はそれらのアルバム群の序章という役割を果たすことになる。
名曲を集めたコレクションだが、1960年代から90年代にかけて日本のポップスが海外のリスナーの関心をまったく惹きつけていなかった時期の日本のポップスの黄金時代に照準を合わせている。まずは第一アルバムを聴いて、それからその後の日本ポップスの展開をたどるというのが適切な聴き方だろう。

このようなアルバム編纂事業がこの時期に、つまり2000年以後、聴きたいと思えば世界中のどんな種類の音楽も、それを理解したり、鑑賞したりするためのガイドなしでいくらでも聴ける時代になって出てきたということはある意味では逆説的である。
実際には、日本の音楽は、あまり事情に通じていない音楽ファンのブログを通じて、バイアスのかかったかたちで紹介され、流通してきた。残念ながら、音楽に関わる日本語の文献はほとんどフランス語には翻訳されていない。あと10年くらいすれば、われわれももう少しまともなカタログを整備できるだろう。とりあえずは、フランスの音楽ファンたちが手探りで情報をやりとりしている謎に満ちたYouTubeの迷宮の背後に、日本のポピュラーミュージックの王国が、その王たち、道化師たち、一匹狼たちが豊かな財宝と共に存在していることを言祝ごうではないか。

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