『変調「日本の古典」講義』まえがき

2017-11-21 mardi

はじめに

みなさん、こんにちは。内田樹です。今回は安田登さんとの『論語』と能楽をめぐる対談本です。
安田さんとお話するのは、僕にとって最大の楽しみの一つです。とにかく安田さんも僕も「変な話」が大好きなので、どんなトピックでおしゃべりしていても、「話がきちんとした合理的な結論に到達しそうな道」と「話頭は転々奇を究めて、何が何だかわからない話になってしまいそうな道」があると、必ず後の方を選んでしまいます。結論とか教訓とか一般性とか、そんなことははっきり言ってどうでもいいんです。それより、安田さんからこれまで一度も聞いたことのない話を聞きたい、自分もこれまで誰にも言ったことのない話(これまで一度も僕の脳裏に浮かんだことのない話)をしたい。そういう対話相手って、なかなかいません。
もちろん、「変な話」をする人は世の中にたくさんいます。でも、そういう人たちはしばしば自分の話に夢中になると、こちらの話は拾ってくれないんですよね。自分の十八番の「変な話」をまくしたてられると、そのうちなんだか録音したものを聞かされているような気になって、げんなりしてきます。
「変な話」のし甲斐があるのは、お互いに「変な話」に没入しつつ、時折相手の話題を素材に繰り込みながら、さらに「変な話」を広げ、深めてゆくというかたちのものです。そういう対話相手として安田登さんは望みうる最高の相手です。
本書で披歴されている「変な話」やそれに付随するトリヴィア的雑学はとくに読者の皆さんが今すぐに了解しなければならないほどに緊急性のあるものではありません。なにしろ「論語」と「能楽」ですからね。2500年前の学術と650年前の芸能の話ですから、速報性も緊急性もぜんぜんありません。
それにこの本に収録されている対談そのものが、もうずいぶん前に行ったものなんです(ものによっては7,8年前)。それを祥伝社の栗原さんにテープ起こししてもらって、データにしてもらって、それに加筆するという仕事を僕も安田さんもずいぶんのんびりとやりました。時事的なトピックを扱った新書なんかの場合だと、原稿が半年も遅れると「もうそんな話に誰も興味示さないので、出版しません」というような悲痛なことが起こりますけれど、本書の場合はそういう心配がぜんぜんありません。出版が5年や10年遅れても、書かれていることのリーダビリティは揺るがない。主題が主題ですから、そうでなくては困ります。
でも、今回久しぶりにゲラを読み返してみて、たいへん面白かったです(書いた当人が言うのも何ですが)。だいぶ前のものですと、本人も何を話したのか覚えていないので、自分の発言を読みながら、「え? それで、それで、どうなるの?」とどきどきするということさえありました。「自分で言ったことくらい覚えておけよ」というお叱りもあるでしょうけれど、「売り言葉に買い言葉」ならぬ「安田さんの『変な話』に対抗してさらに『変な話』で応酬」ということを必死でしていたせいで、そのとき思いついて、そのまま忘れてしまった話というのが多いのです。書いた本人が読んでも面白いくらいですから、読者においておや。
 
安田登さんと知り合ったのは、どういうきっかけだったでしょうか。もう10年以上前、たしか『ブロードマッスル活性術』という本がうちにありました。ロルフィングをしている頃の安田さんが書かれた本です。うちの奥さんが持ち帰ってきた本だと思います。暇な日にこたつでごろごろしているとき手に取りました。僕はそういう「ハウツー本」というのはあまり読まないのですけれど、その日はたまたま「本と目が合う」ということが起きたようです。そのまま一気に最後まで読んでしまい、世の中にはおもしろいことをしている人がいるなと感心して、さっそく次の週から「ブロードマッスル合気道」というものを道場で実験してみました。するとこれがたいへん効果的であった。そこで奥さんに「この本、すごく面白かった。役に立った」と感想を述べたら、「私、その本書いた安田登さんと一緒に箱根神社で子どもに能を教えています」とのこと。おお、これは意外な縁が(ちなみにうちの奥さんは大倉流の小鼓方です)。
そのうち、たぶん奥さんが安田さんに箱根で会った時に「内田が安田さんの本を面白がってました」と伝えてくれたのでしょう、安田さんが横浜のカルチャーセンターで能楽講座をするのだけれど、そのゲストスピーカーとして来てくれないかというオッファーがありました。喜んでお受けしました。それがたぶんお会いした最初だったと思います。
そのとき講座で対談し、打ち上げで行った中華街でもそのまま話し続けました。そのときにたまたま祥伝社の栗原さんが同席されていて、「この二人のとりとめのない話を本にしたら・・・」と思った成果が本書であります(と思ってから本になるまでたいへんに長い時間がかかりました。栗原さん、遅くなってほんとうにすみませんでした)。
もしかすると、新潮社の『考える人』で連載していた、僕がホストとして身体技法の名人たちとお話しをする「日本の身体」シリーズの第一回ゲストを安田さんにお願いしたのがお会いした最初かも知れません。昔のことなので、記憶が定かではありませんが、いずれにせよ、最初にお会いしたときに「この人とは長いつきあいになりそうだな」と思ったことはたしかです。
それから後は安田さんの主宰する「天籟の会」のイベントにお誘い頂いたり、僕の道場である凱風館に来て頂いたり、いろいろなところでお話をしてきました。
この対談本にはその10年近い二人のおしゃべりのエッセンスが漏れなく収録されています。トリヴィア的なことはあちこちでもっと話していますけれど、「エッセンス」はここに尽くされていると言ってよいと思います。

この本を誰に読んで欲しいのか、今ちょっと考えましたけれど、若い人たち(できたら中学生や高校生)です。そういう人たちに読んでもらえたらうれしいです。理由は本書を徴して頂ければ、おのずと知れるのですけれど、僕たちがそれと知らぬままに深く「伝統文化」に半身を浸して生きているかことに気づくのは早ければ早いほどいいと思うからです。
若い人たちは、どちらかと言うと、「自国の伝統と何の関係もないまったく新しいもの」に惹きつけられます。僕自身、中学生の頃、いちばん夢中になって読んだのはアメリカのSFでした。それは明らかにそれが日本の文化的伝統とほとんど無縁のものに思えたからです。「100%ブランニュー」というところに魅せられたのです。正直言うと、大人たちが見向きもしない新しいものであれば何でもよかったんです。
二十代の半ばくらいまでは「新しいものはよい。古いものはダメだ」という単純な進歩史観の信奉者でした。当たり前ですね。子どもが大人に勝てるとしたら「新しいものに対する感度の高さ」しかないんですから。
でも、文化的な作物について、「これがわかんねえやつは時代遅れ」というような定型的な決めつけをして勝った負けたで一喜一憂するのは、ほんとうは意味がないことなんです。だって、この世に「ほんとうに新しいもの」なんてほとんどないからです。多くは「ありものの使い回し」です。ほんとうにそうなんです。
でも、勘違いしないで欲しいのですけれど、僕はそれが「悪い」と言っているんじゃないんです。むしろ「すごいこと」だと思っています。何度も何度も使い回しされ、焼き直しされるものというのは歴史の風雪に耐えて生き延び、あらゆる場所の、あらゆる世代の人々の創造的な気分を活性化しているんですから。たぶんそれは人間がそれなしでは創造することができない何かなんだと思います。
というわけで、ある時点から僕は「新しいもの」を追いかけるのを止めて、長い期間にわたり(ものによっては何百年にわたって)文化的創造を通じて執拗に繰り返され、反復されるものを検出することの方に興味を持つようになりました。武道や能楽や古典文学に関心が移ったのはそのせいです。
それは単なる知的関心という以上に、自分自身がどれほど豊かな文化的伝統に養われているのか、それに気づくと、急に生きやすくなったからです。
『未知との遭遇』というスティーブン・スピルバーグの映画がありましたけれど、そのキャッチコピーはWe are not aloneでした(ずいぶん古い話ですから、若い人はご存じないと思いますが)。
このwe are not alone ということを感じることが時々あります。古流の型を稽古しているうちに古人がその型に託した術理に気づいたときとか、能楽の謡を稽古しているときに思いがけなく身体の深層の筋肉が震動し始めたときです。「ああ、昔の人も『これと同じこと』を感じたんだな」ということが実感されると、「私はひとりじゃない」と思うのです。何というか暖かくて、フレンドリーなものに触れた感じです。そして、当然ながら、時代が隔たっていればいるほど、「あ、昔の人も、これと同じことを感じたのかな・・・」と直感したときの喜びは深い。

長くなってきたので、そろそろ話をまとめます。
これから先、若者たちの中から「出家」したり、「諸国一見」の旅に出たり、伝統的な芸能や技術の習得のために師匠に「弟子入り」したり・・・という生き方を選ぶ人が増えてくるんじゃないかという気がします。気がするだけで、何の根拠もないんですけれど。
でも、僕たちが豊かで多様な伝統的な文化的資源に養われて日々暮らしているということが感知されたとき、どうすれば昔の人たちの思いや感情と交流できるのか考え始めたとき、そういう生き方はごく自然に選ばれるのではないかと思います。
安田さんと僕は二人ながら「昔の人の心身のうちに想像的に入り込む」ということの専門家です。そんなことを専門にしてどんな「いいこと」があるんだろうと疑問を抱く人がきっといると思いますが、その疑問はお読みになるうちに氷解すると思います。とりあえず二人とも最初から最後まで上機嫌ですから、「そういうこと」ができると機嫌よく暮らせるということは確かです。
ではどうぞゆっくりお読みください。