11月22日付けのLibération に日本の70年代ポップスについてのOlivier Lammという署名入りの長文の記事が掲載された。
はっぴいえんどの四人の写真が掲げられた記事を見てびっくりした。なんで「リベラシオン」にはっぴいえんどが出るんだと思って記事を読んだら、まことに興味深い内容だった。
You Tube のせいで今は世界中のあらゆる時代の楽曲を好きなだけ聴けるようになったわけだけれど、その過程でヨーロッパのユーチューバーたちは偶然日本の60~90年代のポップスを「発見」したのである。そして、そのクオリティの高さにびっくりした。
「日本ポップス、すげえ」と思ったプロデューサーが日本ポップスの網羅的なコンピレーションアルバムを作成する企画を出し、それが実現したという話である。
その経緯を知ったオリヴィエ・ラムさんという日本ポップス大好きなフランス人が「日本のポップスは1970年代初頭に同時代に世界のポップスのポールポジションを制していた(でも日本以外の人は誰もそれを知らなかった)」、そして、この時期まさに世界のポップ・ミュージックの先頭を走っていたのがはっぴいえんどだったという感動的な記事を書いてくれたのである。
泉下の大瀧詠一師匠が読んでくれたら、どれほど笑ってくださったであろう。
文中には「当時アルバム一枚の値段は労働者の平均月給と同額であった」とか「アングラの拠点は東北の秋田であった」とか「渋谷の高台にDIGという喫茶店があった」とかちょっと不正確な記述もあるが、それにしてもたいへんによく調べてあって、感涙。ではどうぞ。長いよ!
60年代の終わり、日本人の対米感情は良いものではなかった。1968年にNHKが行った世論調査では「アメリカによい感情を抱いている」いう回答は31%にとどまった。東京から福岡まで、相当数の学生たちは1960年の安保条約延長をめぐる運動の中から生まれた新左翼に対して程度の差はあれ親近感を示しており、カウンター・カルチャーへの渇望が高まっていた。
沖縄で米軍駐留反対運動を戦う人たちや、1964年の東京五輪のための土木工事で破壊される前の東京の風景を懐かしむ人たちは、自分たちがサンフランシスコのヘイト・アシュベリーのヒッピー・コミューンとどこかで繋がっていると感じていた。東京の新宿駅のまわりにたむろしていた「フーテン族」たちの長髪の頭の中はユートピア的な共同体とルソー的な夢に満たされていた。彼らはその少し前まで銀座のブルジョワ的な街路をプレッピースタイルで闊歩していた「みゆき族」に代わって登場してきた。さまざまなアイディアが相克しながら創り出したこの腐葉土から「アングラ」が生まれた。そして、この日本版のアンダーグラウンド・フォークからその後の日本のポップソングの系譜のほとんどが生まれたのである。外国音楽の影響を否定せず、都会的洗練を求めながら、なお日本語で歌うことを選んだミュージシャンが登場したのはこの時のことである。
「木も涙を流す 日本のフォークとロック:1969―1973」(Even a tree can shed tears: Japanese Folk and Rock: 1969-1973)というタイトルはこのムーヴメントの先駆者西岡たかしの歌に由来する。このアンソロジーは日本のポピュラー音楽における決定的な出来事をはじめて欧米に紹介したものである。日本のエレクトロニックミュージック、ジャズ、ノイズなどのアヴァンギャルドに比べると、この時期の音楽活動は日本の外では知られることが少なかった。
1970年代初めの日本のカウンター・カルチャーの歴史に関心を寄せる人々は、例えば雑誌「Provoke」の日本特集や若松孝二の『連合赤軍』を通じて、その時代の日本の音楽には何かしら眩いものがあふれていたことに気づいたのである。それは歌詞の場合もあるし(いくつかは英訳されている)、楽曲の場合もある。その洗練度は同時期の英米の作物と比較してもいささかも見劣りがしないし、その不安定性は90年代のインディーズの爆発を告知していた。
1960年代末まで、日本のポップスは洋楽の模倣であった。大衆が好む音楽は「歌謡曲」と呼ばれ、そのより感傷的なタイプの楽曲が「演歌」である。これらの音楽は昭和時代(1926―89)を通じて、アフロ・キューバンのリズムやロックンロールと接触しても変化することがなかった。
その後、日本人は彼ら独特の「イェイェ」を創り出した。最初は60年代の「エレキ」ブームである。ブームのきっかけを作ったのはアメリカのサーフ・ミュージック・コンボ、ザ・ヴェンチャーズの日本ツァーであった。彼らの音楽がインストであったことも幸いした。その後、「グループ・サウンズ」の時代が続く。そして、ロックの「津波」を引き起こしたのは1966年6月のザ・ビートルズの東京の武道館公演である。
この時代のロックバンドは曲の多くを英語(のような言語)で歌った。この時期に、日本語で歌うミュージシャンは下位に格付けされたのである。
「木も涙を流す」に収録されているミュージシャンたちの多くは「グループ・サウンズ」の枠組みの中でデビューした。例えばクルーナーの布谷文夫はブルース・クリエーションで、細野晴臣はエイプリルフールで活動を開始した。その後、彼らはフォークに向けて音楽的進化を遂げてゆくわけだが、それは彼らがアイドルとしてきたアメリカのミュージシャンたちの音楽的進化に多くの点で影響をされていたからである。だが、1970年代に入り、日本のロックはアメリカの影響から解放された。
この時期のアーティストたちによる創造的な活動が、加藤和彦や吉田拓郎のように日本の政治と教育のシステムに対する反抗者たちで満たされていた大学キャンパスで流行していた「プロテスト・フォーク」の純粋志向の延長上にあった場合も、あるいははっぴいえんどやはちみつぱいのようによりソフィスティケイトされた音楽的経験への野心に燃えていた場合も、どちらも母語を奪還することを目指していたのは偶然ではない。
「英語で歌うか、日本語で歌うか、どちらかをめぐって、日本のロック界では激しい論争が繰り広げられた」とDavid Marx(日本のポップスの専門家で、“Ametora”―アメリカのモードの日本文化への影響についての参考文献―の著者)は書いている。
「内田裕也(歌手で、サイケデリックバンド、フラワー・トラベリング・バンドのリーダー)はあくまで英語で歌うことにこだわり、一方はっぴいえんどは日本語で歌うことにこだわった。その時代にも日本語で歌うグループは存在したが、彼らは『クール』ではないと見られていた。そして、英語か日本語か、どちらで歌うか迷っていたミュージシャンたちに方向を決めさせたのははっぴいえんどだった。」
はっぴいえんどは四人の日本ポップスの巨人たちによって始められた。ソングライターの大瀧詠一、ドラマーの松本隆、ギタリストの鈴木茂、飽くことを知らないイノベーターである細野晴臣(細野はその10年後にテクノ・ポップのトリオ、イエロー・マジック・オーケストラを結成することになる)。
はっぴえんどは疑いの余地なく日本のロックを成熟期に導いたグループであった。とはいえ、彼らが実際に活動していた時期(1969―1972)には人気のあるグループではなかった。その点でも、アウトサイダーでありながら、次世代に続く多くの扉を開いたヴェルヴェット・アンダーグラウンドに比較することが可能だろう。
David Marxはこう書いている。「はっぴいえんどのメンバーたちはさまざまなバンド、例えばバッファロー・スプリングフィールドの影響下に、欧米の音楽構造とメロディと日本的な感受性との独特のハイブリッドを創り出した。それは60年代のグループが欧米のポップスの様式を機械的に理解し、ほとんどの場合欧米の楽器を使って日本の歌を歌うことに行き着いたのとは対照的であった。」
はっぴいえんどは曲を作り、ライブ活動をし、プロデュースをするかたわら、さまざまなミュージシャンの熟練したバックバンドを務めた。岡林信康、荒井由実(日本のフランソワーズ・アルディ)、伝説の金延幸子(日本のジョニ・ミッチェル、残念ながら最初のアルバムを出した後にアメリカのジャーナリスト、Paul Williams と結婚して音楽の世界を去った)。その要求の高さによって、またその野心によって、とりわけ細野と大瀧によってそれと知られぬうちに行われた忍耐強い作業によって(この二人はやがて実に多様な領域で最も高く評価される作曲家となった)、はっぴいえんどは後に「ニュー・ミュージック」(Jポップの先祖。世界第二位のレコード市場の出現を決定づけた)と呼ばれることになるものの先陣を切ることになったのである。
1970年代始めの日本では、アルバム一枚の価格は労働者の平均給与の一ヶ月分に相当した。ましてや外国のアーティストのレコードを探し出すことは絶望的に困難であった。「よほど有名なアーティストでなければ公式のライセンスを得てレコードを出すことができなかった」とDavid Marxは書いている。「海外の楽曲にアクセスしようと思ったら、外国に行くしかなかった。はっぴいえんどはレコードを買い漁るつもりでロサンゼルスに赴いたのだと思う。」
当時、音楽を聴くのは「喫茶店」においてであった。喫茶店というのはヨーロッパのカフェに着想を得たコーヒーショップの原型で、最新のハイファイセットを装備しているところもあった。1930年代以降に流行した「ジャズ喫茶」「名曲喫茶」の伝統を受け継いだもので、若者たちは彼らの世界に登場してきた新しいものを発見するために喫茶店に足繁く通った。東京では、喫茶店は渋谷の高台に集中していた。DIG、BYG、 ライオンなどという名前の店があった。地下室がある喫茶店はしばしばそこに仮設の舞台を造営していた。
東北地方の秋田や、関西の諸都市(大阪、京都、神戸)では、アングラはより政治化しており、岡林信康やフォーク・クルセイダーズ(加藤和彦が最初に属していたバンド)のようなアーティストはピート・シーガー、ジョーン・バエズ、あるいはボブ・ディランのプロテスト・フォークの流れを受け継いで活動していた。
日本で最初の独立レーベルURC(Underground Record Club)が創立されたのは大阪である。
率いたのはラディカルなジャックスのリーダーであった奇人早川義夫。このバンドは日本のロックに「マリアンヌ」という名曲を残して1968年に解散した。
「木も涙を流す」に収録されているアーティストの多くはURCあるいはその後続々と登場したレーベル(ベルウッド、エレック)と契約した。
それから40年経った今ヨーロッパでこれらの音楽を聴くことができるのは、この時のマイナーレーベルのもたらした開放的な空気のおかげである。メジャーが制作するレコードは日本レコード産業協会の定めるコードの制約下にあったからである。
この時期に日本のポップスは同時代の世界の音楽ファンたちがその存在を知らないうちに世界のポップ・ミュージックのポールポジションを制したのである。
日本のポップスの各時代毎のテーマ別アンソロジーのシリーズ企画が出て来たのは、数年前、Atticの中のLightレーベルにおいてであった。編集者の一人Yosuke Kitazawaによると、会社を説得したのはJeff the BrotherhoodのJake Orrallである。
「最初のアイディアが出されたのは3年前で、Jakeが編集したカセットを受け取った。それを聴いて、コンピレーションアルバムとして日本の外で発表したいと思えるような曲がいくつもあった。これらの歌はかつて欧米で一度も発売されたことがなかった。」
アルバムを編集しているうちに他のアンソロジーも続けて出すことが決まった「シティポップ、AOR&ブギ 1975―1985」と「アンビエント、環境、ニューエイジ・ミュージック 1980―1990」である。その時代の特色を示すタイトルが付けられた。聴いてわかるのは、この続くアルバムに収録された音楽はきわめてひろい領域にわたっているが、相当数のアーティストは(細野晴臣を筆頭に)第1アルバムにすでに登場しているということだ。
「木も涙を流す」はそれらのアルバム群の序章という役割を果たすことになる。
名曲を集めたコレクションだが、1960年代から90年代にかけて日本のポップスが海外のリスナーの関心をまったく惹きつけていなかった時期の日本のポップスの黄金時代に照準を合わせている。まずは第一アルバムを聴いて、それからその後の日本ポップスの展開をたどるというのが適切な聴き方だろう。
このようなアルバム編纂事業がこの時期に、つまり2000年以後、聴きたいと思えば世界中のどんな種類の音楽も、それを理解したり、鑑賞したりするためのガイドなしでいくらでも聴ける時代になって出てきたということはある意味では逆説的である。
実際には、日本の音楽は、あまり事情に通じていない音楽ファンのブログを通じて、バイアスのかかったかたちで紹介され、流通してきた。残念ながら、音楽に関わる日本語の文献はほとんどフランス語には翻訳されていない。あと10年くらいすれば、われわれももう少しまともなカタログを整備できるだろう。とりあえずは、フランスの音楽ファンたちが手探りで情報をやりとりしている謎に満ちたYouTubeの迷宮の背後に、日本のポピュラーミュージックの王国が、その王たち、道化師たち、一匹狼たちが豊かな財宝と共に存在していることを言祝ごうではないか。
(2017-11-24 08:59)