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2017年10月 アーカイブ

2017.10.01

奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り

リドリー・スコットの『エイリアン・コヴェナント』がいよいよ公開される。
20年くらい前に、『エイリアン』をネタにした映画論とフェミニズム論をいくつか書いた。昔のHPに公開されていたが、今はもうリンクが切れてしまっているので、ネットでは読めなくなった。筐底から引き出して埃をはらってネット上で公開する。何かのコンピレーションに収録されて活字化されたと思っていたが、『映画の構造分析』にも『うほほいシネクラブ』にも収めていなかったので勘違いかもしれない。
最初の『エイリアン・フェミニズム』は1996年に神戸女学院大学の紀要に書いた論文である。『ジェンダー/ハイブリッド/モンスター』はその2,3年後にやはり紀要に書いた。その頃は紀要しか掲載する媒体がなく、「読む人は5人」と言われる学内紀要にたくさん論文を書いていた。大半はその後活字化されて本で読むことができるようになったから、なんでも書いておくものである。
元ゼミ生のreif君によるとWikipediaの「エイリアン」の項にはこの論文からの引用があるそうである。「エイリアン」解釈の一つの定説として評価されているのだとしたら、これほどうれしいことはない。
それにしても20年経つと、90年代というのがいかにフェミニズムが思想的に強い時代だったかよくわかる。私はこの時期ほとんど孤軍奮闘でフェミニズムの「検閲」的体質を批判していたのだが、今読むとなんだか空中楼閣を相手に戦っていたような気がする。

(管理人追記:html 再作成しました。なんと、スマートフォンで快適にご覧いただけます→エイリアン・フェミニズム

『エイリアン・フェミニズム-欲望の表象』

世界は書物を介して語られることがなければ、
それほど真実味にあふれたものではないだろう。
ピエール・マシュレ


1・ 《屋根の上の赤ん坊》

 ある若い夫婦が生まれたばかりの赤ん坊をベビー・ベッドにのせてドライブにでかけた。途中で車がオーヴァーヒートしたので、夫婦は車を止めてエンジンを冷やすことにした。少しでも涼しいようにと赤ん坊はベビー・ベッドごと車の屋根に乗せた。そのうち若い夫婦は言い争いを始めた。エンジンが冷え、車が走り出してもまだ車内では怒鳴り合いが続いた。そのうちに二人はふとさきほどから赤ん坊がずいぶんおとなしいことに気がついた……。
 「友だちから聞いた本当の話」という枕を振って始まるこの種の「奇譚」を社会学は「都市伝説」(urban legend)と呼ぶ。J.H.ブルンヴァンはその都市伝説研究の中で、この「屋根の上の赤ん坊」のヴァリエーションが全米にひろがっていることを確認している。(1)
 「屋根の上の赤ん坊」は、若くして子供を持ってしまったため、身の丈にあわない社会的責任を押しつけられることになった若い夫婦の心にきざした不意の殺意に触れている。ストレスフルな育児のさなかに「この子さえいなければ……」という悪意の訪れを経験したことのある親は少なくないはずだ。しかしその欲望を意識することには強い禁忌が働いている。欲望がありながら、倫理や慣習がそれを意識し表現することを固く禁じているとき、ひとはその欲望が書き込まれた「物語」を必要とする。都市伝説はそのような欲望が要請した物語群である。
 この都市伝説は「完全に伝統的な民話の要素―お粗末な親、捨てられた赤ん坊、奇跡的な救出―から成り立っている。そしてすぐれた民話がすべてそうであるように、われわれのきわめて根源的な情を揺さぶると同時に、ある特定の時代・場所における関心事と不安を反映している」(2)とハロルド・シェクターは書いている。
 
 アカデミー賞二部門にノミネートされ、主演のマコーレー・カルキンを一躍スターダムに押し上げた1990年の大ヒット映画『ホームアローン』Home alone はクリスマス休暇にパリへでかける大家族が、末っ子をうっかり家に置いてきてしまうという「意外」な設定から始まるが、このプロットは実は「子捨て」民話の元型を忠実になぞっている。
 映画のハイライトは、パリ行きの飛行機の中で母親が「何かを忘れたような気がする」と不安にかられて、突然子供を忘れてきたことを思い出す場面であるが、これは「屋根の上の赤ん坊」の「赤ん坊がずいぶんおとなしいことに気がついて……」というクライマックスと話型的には同一である。
 「親が子を捨てる」話はヨーロッパの多くの民話に見ることができる。
 ロバート・ダーントンによれば、「子供を捨てるというモチーフは『親指小僧』の農民版にもそのほかの民話にも存在するし、嬰児殺しや幼児虐待も様々な形をとって物語に登場する。ときには両親が子供を追い出して、乞食や泥棒にしてしまうこともある。両親自身が逃亡して、家に残された子供たちが物乞いをして生きるという場合もある」(3)。
 エリザベト・バダンテールによれば、親による(直接的あるいは間接的な)「子殺し」は十九世紀まで良心の咎めなしに行われていた。例えば、一八世紀のフランスでは、母親が手もとで子どもを育てる習慣がなく、多くの幼児は生まれるとすぐに乳母に預けられた。(その数は一七八○年のパリでは、一年間に生まれる二万一千人の乳児のうち一万九千人に及んだ。)(エリザベート・バダンテール、『母性という神話』、鈴木晶訳、筑摩書房、1998年、84頁)里子に出されたものの生存率は低かったが、両親に育てられた幼児も決して安全ではなかった。繰り返し教会が禁止を命じたにもかかわらず、幼い子どもを両親といっしょに寝かすという習慣は根強く、そのために幼児が窒息死するという事例が頻発したし、衛生についての初歩的な注意を母親も乳母も組織的に怠っていた。これは「家族内の子どもの数をふやさないための方法」だったのではないかという疑問をバダンテールは呈している。(同書、92頁)
 しかし、グリム兄弟が民話の採集を始めた一九世紀のはじめ頃から、「愛し合う家族」という近代的な家族概念が定着し始め、「子供を捨てる」話型をストレートに表現することに対する心理的な禁忌が働き始めた。こうして、「実母」は「継母」に書き換えられ、「子捨て」は「親が意図せず、偶然に、きわめて危険な状態に子供を放置してしまう」という屈折した話型を迂回することになった。『ホームアローン』はその意味で『ヘンゼルとグレーテル』の現代ヴァージョンとして解釈することができる。
 
 シェクターによれば、都市伝説は二つの要素から成っている。一つは人類全体に共通する「元型的な空想」あるいは「集合的無意識」である。もう一つは「特定の時代・場所における関心と不安」である。
 「元型的空想」と「歴史的・場所的に条件づけられた不安」とがリンクしてはじめて「ポピュラー」な都市伝説は成立する。そして、そのような都市伝説の機能はなによりも大衆の「抑圧された欲望」に「物語」としての表現を与えることにある。
 シェクターの仮説に基づいて私たちが以下で分析を試みる都市伝説は映画『エイリアン』シリーズ、すなわちリドリー・スコットの『エイリアン』Alien 1979、ジェームズ・キャメロンの『エイリアン2』Aliens 1986、ディヴィッド・フィンチャーの『エイリアン3』Alien 3 1992、である。(自注:この論考が書かれたのは1996年、まだジャン=ピエール・ジュネの『エイリアン4』Alien: Resurrection 1997は映画化されていなかった)。
 私たちが注目するのは、十三年間三作にわたるこのシリーズをつらぬく「不変の」元型的空想ではなく、むしろ映画を取り囲む社会感受性の「変化」である。

 『エイリアン』を構成している「元型的な空想」は「体内の蛇」という古典的話型である。次章で考察するが、その話型の意味するところを理解するのは難しい仕事ではない。しかし、私たちの「根源的な情を揺さぶる」その元型的話型が、ときどきの社会的感受性の変化に対応して、どのような現代的な恐怖譚に「書き換えられている」のかを特定することは、それほどには容易ではない。
 私たちはここでのシェクターの言う「歴史的・場所的に条件づけられた不安」は、アメリカにおける女性の社会的役割の変化によってもたらされたと考えている。このいささか唐突な着想の妥当性を論証するためには少なからぬ頁数が必要であるだろう。
 私たちはこの映画が、一九七○年代から九○年代のアメリカのフェミニズム・ムーヴメントの中で急速にその相貌を変容させてゆく女たちと、急変してゆく社会に対してアメリカの男たちが抱いた「関心と不安」を的確に映し出していると思う。そして、この「関心と不安」に培われた「欲望」がどのようにしてこの血なまぐさい物語群のうちに繰り返し回帰することになったのか、それをあきらかにして行きたいと思う。


2・《体内の蛇》

 「体内の蛇」はひろく世界に分布した都市伝説元型の一つである。最も古いヴァージョンは16世紀に遡るというこの伝説の基本的なプロットは次のようなものである。
 不用意な行動(蛇の精液のついたクレソンを食べる。湖で泳いでいるときに蛙の卵を呑み込む。池のほとりで口をあけて昼寝をする)のせいで蛇(場合によっては蛙、山椒魚、蜥蜴)が人間の体の中に入ってしまう。蛇はそのまま体内で成長し、そしてあるとき食べ物の匂いにつられて食事中に喉を遡って口から出てくる。この最後の場面はしばしば人間に致命的なダメージを与える。
 よく知られたヴァリエーションの一つに1916年頃にイギリスでひろまった「蛙を呑み込んだ婦人」の話がある。蛙の卵を呑み込んでしまった婦人の胃の中で蛙が成長する。苦しくてたまらないが、蛙が動き回るので手術ができない。最後に思い余って婦人の舌にチーズを一切れのせたら、蛙がその匂いにつられて食道をのぼってきた。しかしそのために婦人は窒息死してしまう。
 リドリー・スコット監督の第一作『エイリアン』の衝撃的シーンはこの古典的都市伝説を忠実になぞっている。
 宇宙船ノストロモ号の7人の乗組員は地球への帰路、意味不明の信号を傍受して、発信地の星に降り立つ。そこで探検に出た乗組員たちは朽ちた宇宙船と化石化したエイリアンと無数の卵を発見する。一人の隊員が卵を調べようとしてかがみ込んだときに、卵の口が開いて中から異星人の幼体が跳び出し、彼の顔面にはりついてしまう。蜥蜴の尻尾を持つ蟹に似たこの幼体(Face Hugger)は意識を失った寄生主とともに宇宙船に入り込む。フェイス・ハガーは顔にはりついているだけでなく、体内に深く触手を挿入しながら、酸素を送り込んで寄生主を殺さないようにして一種の共生関係を作り出している。船長とサイエンス・オフィサーが電気メスではがそうとするが、フェイス・ハガーの傷口から流れ出る強い酸によって宇宙船の船体そのものが浸食され、それ以上手を出すことができない。
 やがてフェイス・ハガーは顔から自然に剥離し、枯死する。隊員は意識を回復する。回復を祝って食事が始まり、彼は猛然たる食欲を示すが、突然、強烈な腹痛のために痙攣し始める。そして全員におさえつけられた彼の腹を喰い破って第二段階への形態変化を遂げた蛇状のエイリアンが出現し、返り血を浴びて呆然としている乗組員を嘲笑うかのように奇声を発して姿を消す。
 映画を見たひとたちの多くが「最も衝撃的」としているこのエピソードはごらんのとおり、「体内の蛇」のモチーフをそのままに再現している。
 はじめに「不注意な行為」(「卵」に顔を近づける)があり、その結果「卵」が体内に送り込まれる。手術の試みは失敗し、最後に「食事の匂いにつられて」「蛇」が出現し、犠牲者は死ぬ。
 この元型的想像が何を象徴しているのかを推察することはそれほどむずかしい仕事ではない。
 体内に「蛇」の「卵」が入り込み、成長し、宿主の腹を膨らまし、最後に腹を破って出てきて、宿主を死に至らしめるという話型は、「蛇」が精神分析的に何を意味するかというようなことを詮索しなくても、「妊娠と出産」のメタファーであることは誰にも分かる。
 女性の意に反して(多くは「不注意」から)、男性という異物の「卵」(精液)がその体内に入り込む。それは成長し、腹を膨らませて母体を苦しめ、あげくに彼女に最初に暴力的に侵入した「蛇」のコピーを再生産させて、彼女を「殺す」。
 この元型説話は「生殖」という女性の生物学的宿命そのものに対する恐怖と嫌悪を表している。「母」とはどのように神話的に脚色しようと、つきるところ「男」が自己複製をつくるための「道具」にすぎないとこの物語は教えているのである。
 生殖に対する恐怖と嫌悪をあらわに示し、男性の自己複製の道具となることを拒絶することがきびしく禁圧されるとき、無意識の領域に追放された欲望は必ず「物語」を迂回して「検閲の番人」の監視をくぐり抜け、意識の表層へと回帰してくる。そのようにして「体内の蛇」の話型は誕生し、語り継がれてきたのである。
 リドリー・スコットが伝承的な話型を意識的に採用したのか、それとも「恐ろしいエピソード」を求めているうちに、無意識的に古典的な恐怖譚に回帰してしまったのか私たちには判定できない。しかしすぐれたストーリー・テラーは自分の個人的な無意識を集合的無意識と通底させる才能に恵まれている。
 その時代の観客が見たがっているもの(しかし抑圧されているもの)を感知するために必要なのは、無意識的な共感能力である。スコットがここで映像的に同調しようと試み、そしてそれに成功したのは1970年代末におけるアメリカ社会の、性関係にかかわる集合的無意識である。


3・《性関係と映像》

 70年代のアメリカ映画に顕著に現れた一つの傾向について、フェミニズムの立場からE.アン・カプランはこう書いている。

 「70年代の終わりになると、もう一つの傾向が商業映画の主流に現れた。それははっきりと女性を観客対象とし、フェミニズム運動が提起した問題をとりあげようとする動きである。(…)これらの映画の内容を提供したのは、映画をとりまく社会的・経済的・文化的な要因である。すなわち女性の教育や雇用問題に生じた顕著な変化、女性解放運動や避妊の方法の普及がもたらした性関係・性意識の変化、そして結婚と離婚のあり方の変化、などである。(…)これらの映画は、女性の新しいあり方を受け入れる用意のまだできていない父権社会で、新しい役割を果たしはじめた女性たちが直面する問題、彼女たちの矛盾にみちた要求をとりあげ、描こうとしている」(4)。

 これらのハリウッド映画に共通するのは、「新しい女性」たちが、当然ながら彼女のあり方を認めようとしない「父権制社会」の執拗な暴力にさらされるという状況設定である。
 女性の自立を阻止せんとする男性側からの暴力をリアルに描くのは、ある意味では「父権社会」の醜悪さを暴露するという「教化的」効果を持つだろう。
 70年代末のアメリカ映画は「よい意味では女性の要求をとり入れ、悪い意味でそれを懐柔する方向に動きだした」とカプランは認識している。
 79年作品である『エイリアン』は主人公にアグレッシヴな顎とボーイッシュで巨大な体躯の持ち主である新人女優シガニー・ウィーヴァーを起用した。それまでのハリウッド・スターのカテゴリーにはあきらかに収まらないこの女優は、「新しい女性」を描こうとする制作者の期待に応えて、フェミニズム興隆期におけるアメリカの若い女性たちの上昇的なはりつめた気運をみごとに表現してみせた。
 彼女の演じる宇宙飛行士リプリーは、その職責を誠実につとめ、つねに男性隊員に伍して労働し、パニックになっても冷静さを失わず、適切な仕方でエイリアンとの闘争を指揮し、結果的にただ一人の生存者として勝ち残る。この映画は女性主人公が、襲いかかる暴力に対して、男性保護者に依存することなく、また「女性的」奸智を駆使することもなく、ストレートな暴力にストレートな暴力を以て対処し勝利するという、ハリウッド映画にとって画期的なプロットを提供した。
 白馬の王子様の到来を待たず、自力で城を奪還する闘う「眠れる森の美女」。(最後の闘いのときリプリーが身にまとう宇宙服は騎士の鎧を象っている。)女性の自立を映像的にサポートするという点について言えば、『エイリアン』はたしかに「よい意味では女性の要求をとり入れ」た映画であると言えるだろう。
 しかし、「父権制社会」の剥き出しの暴力にさらされて戦うヒロインを描くことは、見方を逆にすれば、「父権制社会」に楯突く「生意気な」ヒロインが、父権制的な暴力にひたすら暴行され、凌辱され、その無謀な野心にふさわしい制裁を受ける映像を描くことでもある。
 全編が暗くじめついた宇宙船の中で展開する「ドラゴン&ドンジョン」型RPGにも似たこの武闘劇は、そのような意味では、フェミニズムへの応援歌にしては、あまりにも暗い情念をはびこらせている。おそらくそれは戦う「新しい女性」の不安と、それに脅威を感じている男性の不安の双方を投影した結果である。70年代末のアメリカ社会の性関係の未来に対する不安が全編を領している。そしてその不安の映像的な焦点となっているのが「体内の蛇」である。

 私たちはさきに「体内の蛇」の物語は、女性からする、「男性の自己複製の道具であることの拒絶」、つまり「妊娠と生殖への無意識的な忌避の欲望」の吐露であると書いた。だとすれば、フェミニズム映画としての『エイリアン』もまた「女性としての伝統的な社会的役割の拒絶」のメッセージを発信しているはずである。
 事実、『エイリアン』においてリプリーはよかれあしかれほとんど伝統的な女性の徴候を示さない。彼女は女性的コケットリーによって船内の雰囲気をやわらげようともしないし、男性隊員にコーヒーをいれもしないし、無原則な包容力も示さないし、男性隊員の誰に対してもいかなる性的な関心も示さない。リプリーはただ男たちと同じように不機嫌な顔で黙々とコーヒーを飲み、煙草を吸い、自分の仕事をするだけだ。エイリアンをダクトに追いつめるという危険な任務にも、当然のことのように志願するし、船長の死後は序列に従って指揮官となる。彼女は女性であることをいかなる免責事由にも用いない、女性であることからいかなる利益をも受けていない。
 ではリプリーは完全にニュートラルな存在として描かれているのかと言えば、決してそうではない。彼女はこの映画の中で二回「女性的」弱点を見せる。

 一回目はエイリアンを生きたまま持ち帰れという《会社》の指示に従って、乗組員を犠牲にしてもエイリアンを「保護」しようと企てるサイエンス・オフィサーのアッシュによって暴行を受ける場面。ここでリプリーは映画の中でただ一度だけ男性のすさまじい暴力に屈服する。
 見落としてはらない徴候は、このときアッシュが彼女を窒息させようとして、口の中に丸めた雑誌をねじ込もうとすることである。乱闘が行われるのは船内の食堂で、押し倒されたリプリーの後ろの壁には『プレイボーイ』風のヌード・ピンナップが貼りめぐらされている。アッシュは手近の男性誌をつかんで、それをリプリーの口にむりやり押し込む。
 丸めた雑誌を口に押し込むというのは、どう考えても窒息死させるために有効な方法ではない。これはむしろ象徴的に解釈されるべきだろう。あらゆる場面で女性らしくふるまうことを忌避しているかに映るリプリーに対して、ここで男性側からの「制裁」が加えられるのだ。
 丸められた男性雑誌は、50年代まではアメリカ男性の誰ひとりとしてその正当性を疑うことのなかった「女性を男性の性的愛玩物として消費する文化」を象徴している。リプリーが映画の中で一貫して踏みにじってきたのがこの時代遅れの性幻想であるとすれば、「男性」によって彼女の「口に挿入された」「男性誌」がその「父権的文化」の報復のかたちであることはほとんど論理的に自明である。(『エイリアン2』においても、《会社》の指示に従わないリプリーを黙らせるために、《会社》の代理人であるバークによって彼女の「口」に「凶器」が挿入される。いずれの場合も《会社》の大がかりな企業戦略を「告発」しようとするリプリーの「口」は擬似的なファルスによって封じられるのだ。)
 もう一つの彼女の女性的徴候は、母船を爆破して脱出するという最後の場面でリプリーが猫を探しに行くという致命的なミスを犯すエピソードに見られる。
 リプリーはここで映画の中でただ一度だけ情緒的弱みを見せる。爆破まで残り数分というせっぱ詰まった状態で、生き残った他の二人の乗組員が脱出に必要な酸素を荷積みするという緊急な作業に携わっている間、彼女は「猫を探している」のだ。
 「猫探し」に手間取ったためにリプリーは仲間二人の救出に間に合わず、脱出用シャトルにエイリアンが乗り込む時間的余裕を与えてしまう。それほどのリスクを冒してまで、リプリーは「猫探し」のために船室をはいまわり、みつけた猫を熱情的に抱き締める。いったいなぜ猫はこの局面でそれほどまでにリプリーを引きつけるのか?仲間と自分自身を危険にさらすどのような価値が猫にはあるのか?
 英語話者ならすぐに気づくことだが、「猫」(pussy)は俗語で女性性器を意味する。「忘れてきた「猫」を探しに戻る」という話型は、それまであえて忌避してきた女性性が、決定的局面に臨んだときにいたって、実は「かけがえのないもの」であったことにリプリーが気づいたことを意味している。「猫」は女性がいかに逃れようと望んでも決して逃れることのできない「セクシュアリティ」の記号である。
 ここでもまた映画はアッシュの暴行と同じメッセージを発信している。
 いかに女性性を拒もうとも、「決定的局面」に至れば、女性は「女であること」からは逃れられない。そして彼女が「女でしかない」ことを暴露するとき、「男の暴力」の前に屈服する他ないのである。

4・《母性の復権》

 カプランはさきの書物でハリウッドを「ブルジョワ機構」と規定し、そこで生産される映画は「男性的利益」にもっぱら奉仕するものであって、女性に「どんな主張も可能性も欲望の充足も許さない制度」の中に彼女たちを幽閉するためだけに機能しているというかなり一面的なきめつけを行っている(5)。
 しかし、それでは現に女性観客がハリウッド映画に熱狂していることについて納得のゆく説明ができないだろう。映画はカプランが考えているほどに単純なものではない。(カプランがアメリカ映画について言うように、あるいはジュディス・フェッタリーがアメリカ文学について言うように、それらすべてが単なる「父権制イデオロギーのプロパガンダ」にすぎないのなら、彼女たちがなすべき緊急のことは、映画や文学「について語ること」ではなく、アメリカにおける映画や文学の生産と消費をただちに「禁止する」ことであろう。しかし、彼女たちもその禁止運動がアメリカ女性のマジョリティの支持を得る見通しがないことは分かっているのである。)
 実際には、大衆的な支持を集める映画はつねにアンビヴァレントな映画である。あるレヴェルで語られていることと、別のレヴェルで語られていることが平然と矛盾している、そのような映画にだけ、私たちは惹きつけられる。すぐれた物語は、ある水準における言語的メッセージは、必ず別の水準における非言語的メッセージによって「否定」される。
 敵役が十分に魅力的でなければ主人公の勝利は高揚感をもたらさない。流血の惨事がなくては平和の価値は分からない。戦争の悲惨さを伝えるためには戦争から快楽を得ている人間が描かれねばならない。世界が錯綜していること、あるものの快楽は別のものの不幸と背中合わせになっていること、私たちを惹きつける物語は、つねにそのような仕方で重層的である。
 『エイリアン』は「私たちを惹きつける物語」に必要なアンビヴァレントな構造を備えている。あるレヴェルで見ると、映画は七〇年代の女性観客に対して、新しいヒロインの誕生を告げ、女性の未来についての希望を語っているかに見える。しかし、別のレヴェルでは、その女性たちに対する「父権制社会」の側からの剥き出しの攻撃性が映像的に誇示されている。女性が「ドラゴン」と闘う話型は「フェミニズムを懐柔する」。他方「女性が女性的でなくなること」によって受ける制裁を映像的に飽食させることによって映像は「父権制的観客」の邪悪な欲望をも満たしている。『エイリアン』はその時代の欲望と不安をそのような仕方で映像的に定着することによって大きな商業的成功を収めた。

 『エイリアン2』は七年後の一九八六年に製作されたその続編である。この映画はその時代におけるフェミニズムの最大のトピックであった「母性」の評価についての同じくアンビヴァレントな社会的感受性を映像化して大きな成功を収めた。
 『エイリアン2』は前作の五七年後の未来が舞台となる。ノストロモ号最後の生存者リプリーは長い宇宙漂流の果てサルヴェージ・シップに救助される。《会社》はエイリアン襲撃という彼女の説明を受け入れず、彼女は飛行士の資格を剥奪され、身寄りも知人も死に絶えた未来社会で、肉体労働者として、夜毎エイリアンが自分の腹を喰い破って出現する悪夢にうなされながら暮らす。
 《会社》はエイリアンの卵が発見された星に宇宙植民地を建設していた。その植民地星が不意に通信途絶し、リプリーはアドヴァイザーとして宇宙海兵隊とともにその星を訪れることになる。
 植民地星ではひとりの少女をのぞいて植民者全員がエイリアンの卵を産み付けられた「フェイス・ハガー」の培養体に化しており、海兵隊もたちまち壊滅の危地に追い込まれる。再びエイリアンとの闘いを強いられたリプリーは、とらえられた少女を救出するために、無数の卵を生み続ける「女王エイリアン」にフル武装で対決する……。

 この映画は母性についての対立する二つの対抗的な話型を繰り返す。
 劇場版ではカットされ、ディレクターズ・カットで回復した挿話によれば、リプリーには一人の娘がある。娘はリプリーが宇宙を漂流している間に六六歳で死んでいる。リプリーは「外で働いていたために」自分のただ一人の子供の人生に全くかかわることができなかったわけである。これは「母性が十全な機能を果たさなかった」マイナスの徴候と見なすことができる。
 一方、リプリーは植民地星で奇跡的に生き残った少女ニュートに強い母性的感情を抱く。エイリアンの襲撃からのただ一人の生存者であり、恐怖の経験を共有していることが二人を深く結びつける。リプリーとニュートの擬似的母子関係を描く場面で、リプリーは前作では「猫」に対してのみ示した情緒的な「甘い」表情を見せる。彼女がさまざまな危機からニュートを守り、最後に命がけでニュートを救出に敵地に乗り込むシーンがこの映画のハイライトだが、そこで高らかに歌われるのは「母の愛は海よりも深い」そして「母は強し」というほとんどメロドラマ的なメッセージである。
 これは、「子供を家に残して外へ働きに出て自己実現したい」という自立を求める気分と、「子供の保護をすべてに優先したい」という気分のあいだに引き裂かれて、いずれとも決めかねている八○年代アメリカ女性の内的葛藤をみごとに映し出している。
 そして、最終的に映画のストーリーラインは「子供を見捨てる」女性は罰を受け、「子供を守る」女性は報われるという、どちらかと言えばやや懐古的な母子関係に与しているかに見える。
 しかし母性の評価にかかわる映像記号はそれほど単純ではない。いま論じたのとは違うレヴェルにおいて、つまりリプリーと「女王エイリアン」の対立においては別様の「母子の物語」が語られているからである。
 巨大な「女王エイリアン」は植民地星の地下深くに営巣し、ひたすら卵を排出し続けるだけの生殖機械である。「女王」と遭遇したリプリーは火炎放射器で卵を残らず焼き払う。しかし「女王」は産卵管に繋縛されているために身動きならず、卵が破壊されるのを傍観するばかりで、それを阻止することができない。
 生殖に専念したために結果的に種族に壊滅的な被害が及ぶのを阻止できなかった「女王」。「家」に閉じこもって「育児」に専念していたために社会的能力を失ってしまった「母」。これは「過大評価された母子関係の否定的側面」を意味するだろう。
 産卵という任務から子供たちの死によって解放された「女王」は、ただ一人で侵略者リプリーと闘う。映画の最終場面で二人の「母」は一対一で激突することになるのだが、結果的には肉体労働の経験によって宇宙船内の機材の運用に習熟したリプリーが「女王」を船外に叩き出して勝負を決する。社会的スキルに習熟していない母性はここでも「働く女性」の前に一敗地にまみれる。
 表層における「母性賛歌」とはかなり矛盾する映像的なメッセージがここには盛り込まれていることが分かる。
 映画の中の母子関係とその記号的意味をもう一度図表化してみよう。
(1)「外で働いていたために、娘の死に目に会えなかった母親」であるリプリーは「母が外に働きに出て死んだために、ひとり放置された娘」であるニュートと擬似的な母子関係をもつ。(この説話群のメッセージは「母親が子どもを置いて外へ働きにでると、母子はともに孤独になる」である。)
(2)ニュートの墜落によって、リプリーたちは無用な危険を冒すことを強いられる。卵はエイリアンたちの集団の《弱い環》であり、産卵のために母親は身動きできず、そのため女王は焼死の危険にさらされる」。(この説話群のメッセージは「母子関係が緊密であると、母親は無用の危険に身をさらすことになる」である。)
(3)「娘の救出のためにリプリーは例外的に高度の戦闘力を発揮する」。「死んだ卵の報復のために女王は例外的に高度の戦闘力を発揮する」。(この説話群のメッセージは「母子関係が切り離されると、母親の戦闘能力は向上する」である。)
(4)「社会的スキルの運用に習熟したリプリー」が「情緒的に暴れ回る女王エイリアン」に勝利する。(この説話のメッセージは「外で働く母親は子供を幸福にする」である。)
 映像の記号はごらんの通り、さまざまな矛盾するメッセージを発信している。とはいえそれらのメッセージは均等に配分されているわけではない。劇場公開版においては、さきに述べたようにリプリーに娘がいたエピソードがカットされているばかりでなく、ニュートの両親が宇宙船探検にでかけてエイリアンを発見し、植民地星の全滅の要因を作るという部分もカットされている。つまり「外で働く母親は子供を幸福にしない」という説話的メッセージは「商業的な理由で」集中的に削除されているのである。(市場原理はつねに無意識的な淘汰圧として機能する。)
 一方、「母子関係が緊密であると、母親は危地に追い込まれる」というメッセージは「ニュートを寝かしつけるために添い寝しているうちにエイリアンの侵入を許してしまう」挿話や「ニュートが足を踏み外したために脱出のチャンスを逸する」挿話で執拗に強調される。
 そして「母子の別れ」は悲劇性を払拭され、むしろ劇的興奮を盛り上げるサスペンスとして功利的に活用される。「母子が密着していること」よりも「母子が離ればなれでいること」の方が生産的であり、母の能力開発にプラスであり、それが最終的には子どもの利益となるのだ、というメッセージが声高に叫ばれる。かくして、「外で働く女性」リプリーが「出産育児の専門家」である女王エイリアンを叩き潰して映画は終わる。
 ロビン・ロバートはこの映画が「二つの母性の葛藤」であることを正しく指摘した上で、これが「明確にフェミニズム的な映画」であると賞賛している。

 「キャメロンとハードによって提出された母性のヴィジョンは、確かに、女性の可能性を示し、母性の選択という新しい方法の実践によって、生物学から解放された女性のヴィジョンを示しているのである」(6)。

 ロバートはエイリアンが象徴する「生物学的母性」とリプリー=ニュートの体現する「養子型母性」の葛藤のドラマとして映画を解釈し、後者のうちにフェミニズムの希望を見いだしている。
 『エイリアン2』が「対等なパートナーシップ」に基づいた「新しい母性の定式化」に成功したというロバートの結論は同意しがたいけれども、この映画が「仕事をしようか、それとも子どもと家庭にとどまろうか」逡巡していた八〇年代のアメリカ女性たちに向けて、「母親が仕事をすればするほど子どもは幸福になる」というたいへん耳に快いメッセージを送ったことは間違いがない。

5・《憎悪の映像》

 法規範と言語に象徴される父権制社会の秩序を脅かす「おぞましきもの」としてジュリア・クリステヴァは「女性的なもの」を定義した。

 「われわれが《女性的なもの》という言葉によって指示するのは、生来の本質といったものではなく、名をもたぬ《他者》である」。それは「三角形を形成する父による禁止の機能を突き抜けた果ての、命名しえない一個の他者性」である(7)。

 命名しえぬもの、象徴界に穿たれた根源的喪失、コーラ、ル・セミオティック、「文化という象徴的な構造に対する、言葉で表現できない絶大な自然の力」……ラカン的なジャルゴンで飾られたクリステヴァの「女性性」論は、第三世界論やマイノリティ論とシンクロナイズするかたちで七〇-九〇年代のフェミニズムに鋭利な理論的武器を提供してきた。しかし、この理論はややもすると通俗的な「母性」主義に再利用されかねない危険をはらんでいる。
 もしクリステヴァが言うように、母性がそれほどに父権制秩序を紊乱する潜在的な力を秘めているのであれば、父権制社会の転覆のためには、キャリア・ウーマンとなって男性に伍してばりばり働くより、家で子供との間に濃厚な情念的関係をはぐくんでいる方が有効であることになってしまうからである。
 そのような母性主導的環境に育った男の子たちがうち揃って「セリーヌ=アルトー」的な人格形成(崩壊?)を遂げたら、なるほど父権制社会はがらがらと崩壊するだろう。しかしそれは父権制社会の崩壊というより、「市民社会そのもの」の崩壊を意味するのではあるまいか?市民社会そのものが消滅することによって、女性たちはどんな利益を得ることができるのだろう?
 市民社会の消滅は望まないが、母性的なものの復権は望むということだとすると、それは要するに「父権制社会のサブシステムとして母性的なものを認知して欲しい」ということにすぎないのではないのか?母性的なものはただ「父権制」と葛藤することによってはじめて生成的なものとして機能するというのなら、母性的なものは、結局、「パートナー」としての父権制の永続を願うようにはならないのだろうか? 
 これがフェミニズム本質主義に対する、ラディカルな反問のかたちである。 
モダン的な父権制イデオロギーを一蹴したあとのアメリカ・フェミニズムの次なる闘いは「実体化された女性性」という差異派フェミニズム思想の掃討戦であった。
 「多産な母」「自然な母」「地母神」的女性性、「アップル・パイと日向のにおいのするママ」の神話が一掃されなければならない。
 ロバートによれば、クリステヴァ的な母性(「象徴秩序の外に位置して」おり、「前言語的段階を表象する」母)は『エイリアン2』では「女王エイリアン」によって演じられている。リプリーはそれを殺すことによって近代的な意味での「女性性」の息の根を止めたことになる。
 「生殖」という行為に集約的に象徴される生物学的女性性に対するこの明確な否定が、八十年代中期以降のフェミニズムの新しい思潮を反映している。

 「女性を束縛しているのは、まさに彼女たちの〈女性性〉である(……)。だいたい、女性〈である〉などという状態じたいが、ほんらい存在してはいないのだ。それは性科学的言説や社会活動における論争史によって構築された複合カテゴリーにすぎない」(8)。

 〈サイボーグ・フェミニスト〉ダナ・ハラウェイは一九八五年にそう書いた。

 「サイボーグとは、解体と再構築をくりかえすポスト・モダンな集合的・個人的主体(セルフ)のかたちだ。これこそフェミニストたちがコード化しなければならない主体のありかたなのである」(9)。

 女性性を実体めかして語るというみぶりそのものが、父権制のサブシステムとして機能している以上、女性性、アブジェクシオン、ガイネーシス、といった神話的コンセプトを支えにしては父権制は打倒できない。そう自覚する新しいフェミニズム的知見が80年代にこうして登場してきた。映画はそのような社会的感受性のシフトを直観的にとらえている。
 だが「女らしさ」という社会的役割の拒否にとどまらず、「生殖」に象徴される生物学的女性性の拒否にまで踏み込んだ新しいフェミニズムの思潮に、当然のことながらアメリカ男性は深刻な危機感を抱いた。男たちはあらゆる種類の「女らしさ」を「歴史のゴミ箱」にこともなげに放り投げてゆく女たちに対して強い不安と恐怖を感じた。このような男性側の根深い不安とそこから分泌される強烈な悪意を映像的に表象してみせたのが『エイリアン3』である。
 一九九二年のこの第三作は前二作に比べると、あまりに暗く、あまりに希望がない。それは全編にみなぎる「女性嫌悪」(misogyny)の瘴気のためである。
 この映画で女性嫌悪はむろんフェミニストからすぐに指弾されるようなあからさまな仕方では表現されていない。それは隠微な仕方で、フェミニズムを「懐柔」し、それに「迎合」するような話型を通じて表現されている。
 それどころか、ある意味で『エイリアン3』は「フェミニストの理想を描いた映画」であるとさえ言えるかも知れない。なぜなら、そこには伝統的な意味での女性はもう存在しないからだ。この世界の女性はこれまで女性に帰属させられてきたすべての特性を脱ぎ捨て、剥ぎ取られている。「女性であるなどという状態じたいが、存在してはいない」世界、「女性が女性であることを止めた世界」をこの映画は描いているのである。ただし、「悪夢」として。
 映画はようやく脱出に成功した宇宙船が、潜んでいたエイリアンのために《会社》の所有地である囚人星に墜落するところから始まる。墜落で「娘」ニュートも海兵隊最後の生き残りヒックス伍長もアンドロイドのビショップも死ぬ。リプリー自身は冬眠中にエイリアンの卵を産み付けられた身体で一人生き延びてしまう。そして、二五人の性的凶悪犯と二人の看守だけが住む「男だけの星」でリプリーは三度エイリアンと闘うことになる。
 この映画でのリプリーは絶望的なまでに孤立している。彼女にはもはや何もない。守るべき娘はいない。前作における戦友であったヒックスは死に、ビショップは破壊された。宇宙船には近代的な装備があり、エイリアンを吹き飛ばす武器も望めば手に入ったが、この囚人星には斧より他には武器もない。これまでは冷静な判断力や果敢な行動力を備えた男女のサポーターがいたが、囚人星にいるのは性的な重罪犯と無能な看守だけである。
 これまであれほど懸命に闘ってきた女性が迎えるにしてはあまりに過酷な条件だ。しかしこの映画で冷遇されているのはリプリーの戦闘条件だけではない。これまでリプリーが体現してきた「女性性」のすべての指標もまた、この星では猛然たる攻撃にさらされることになる。
 映画は「女性性なるものはあってはならない」というメッセージを繰り返す。
 星に漂着したリプリーに対して所長は「この星は女性的なものが存在してはならない場所である」と告げる。この囚人星に収容されているのは「常習的・遺伝的な性犯罪者たち」である。「生まれついての性的暴力の愛好者たち」だけから構成される社会(これこそ父権制社会そのものだ)を自由に歩き回る女は暴力と災厄をもたらすだろう。じじつ彼女の出現は鎮静していた性幻想を解発し(リプリーは到着後ただちにレイプの洗礼を受ける)、彼女が「連れてきた」エイリアンは男たちをむさぼり喰う。女性の到来が「男たちだけの世界」に災厄をもたらしたのだ。
 映画の冒頭でリプリーは「シラミが多いから」という不自然な理由で髪の毛を刈られて丸坊主にされる。ストーリー上の必然性がないのに、女優がヌードになる映画は数多いが、ストーリー上の必然性がないのに美人女優がスキンヘッドになる映画はたぶんこれが最初だろう。
 女性の造形的な美しさに過剰な価値を賦与するのは父権制社会の特徴である。
 「女は美しくあらねばならない」という威嚇的な要請は、女性を性的対象として眺めている暴力的な視線に裏づけられているとフェミニズム批評は主張してきた。それを拒むこと、わざと自分の生得的な造形的美貌を毀損することは、論理的に言えば、性的対象として賞味され玩弄することを拒絶することである。
 「醜い主演女優」はその意味で画期的だ。女性の造形的な美、鑑賞用の美貌という抑圧的慣習に異議が申し立てられたのだ。もう女性が性的フェティッシュとして男たちのまなざしに捉えられることはない。
 丸刈りの頭、充血した眼、ぼろぼろの囚人服のリプリーは病的な性的犯罪者たちにとってさえ、もうあまり魅力的ではない。それは映画の観客にとっても同じことだ。私たちは彼女が画面に現れない時間をさしたる欠落感なしにやり過ごすことができる。
 映画の開巻に設定されたこの「ストーリー上必然性のない」断髪が暗示するように、この映画の中でヒロインは繰り返し制裁を受ける。髪を切るというのは女性の造形的な美しさに対する暴行である。フランスで対独協力者の女性が戦後髪を刈られた事実が示すように、女性の髪を刈るのは一種処罰的な含意を持っている。父権制社会の強要する「女らしさ」という抑圧的コードを一蹴した女は「失われたコード」の名において処罰されるのである。
 第三作でリプリーはシリーズではじめてセックスをする。
 リプリーは囚人星ただ一人の知識人である医師を相手に選ぶ。ただしこの性行為は、相手の疑念を封じ、相手から必要な情報を引き出すための一種のマヌーヴァーとして行われる。(かつてジェームス・ボンドが敵役の女性を篭絡し、情報を引き出すため性行為を活用したのと同じように。)
 最初に誘うのはリプリーである。彼女は性行為の主導権を握っており、自分の欲望をコントロールしている。相手の医者は性行為を通じてリプリーに対してなんらかの支配力を手に入れるどころか、行為のあとすぐにエイリアンに喰われ、現れたときと同じようにあわただしく消えてしまう。「セックスがすんだら相手が痕跡も残さずに消滅してくれる」のが性行為の主導者にとって一種の理想であるとすれば、これは女性が久しく夢見てきた理想のセックスに他ならない。
 「女らしさ」を拒絶した代償に、ヒロインは「理想の性生活」を手に入れる。情感も物語性も親密さも愉悦もない物理的な「セックス」。
 リプリーはこの映画で「妊娠」する。彼女があれほど憎んできたエイリアンの幼体を身体に寄生させてしまうのである。《会社》の手に体内のエイリアンを渡さないためにリプリーはみずから溶鉱炉に飛び込む。映画は墜落して行くリプリーの腹を喰い破って蛇状のエイリアンの幼体が飛び出し、呱々の声とも断末魔の悲鳴ともつかぬ叫びをあげるところで終わる。
 すでに検証したとおり、「体内の蛇」という『エイリアン』全編をつらぬく話型は「男性のエゴイスティックな自己複製欲望」に屈服することへの嫌悪と恐怖を伝えている。その屈折した感情がエイリアンとの闘争、あるいはエイリアンの卵の焼却といった物語的な迂回をたどって表現されてきたことは述べてきたとおりである。しかし『エイリアン3』において、妊娠と出産はもはや「物語的迂回」を経由することなしに、これ以上はないほどあからさまに「女性に対する性的攻撃とその拒否」として映像化される。
 リプリーは冬眠中に「不注意」から体内にエイリアンの卵を注入されてしまい「妊娠」する。彼女に「自己複製」を託したエイリアンは種族的配慮から彼女には攻撃を加えず生かしておく。しかしリプリーはエイリアンが自分を殺さないことを逆用して、エイリアンを焼き殺し、エイリアンの「子供」を誕生前に殺害する。
 リプリーを「妊娠」させたエイリアンとは要するに彼女の「夫」である。
 『エイリアン3』において種明かしされたのは、エイリアンとは女性を妊娠させ、自己複製を作らせようとする男性の欲望の形象化に他ならないという事実である。リプリーとエイリアンとの闘いは要するに「妊娠したくない女性と妊娠させようとするファルスの闘い」だったのである。
 考えてみれば、男性の本質を暴力的な侵入と見なすのはフェミニズムに基幹的な主張の一つであった。

「男性性のセクシュアリティの概念とは、女性性にとって暴力の介入と同義なのだ」(10)。

 『エイリアン3』はその主張をみごとに裏づけている。ただしフェミニストのテクストが事実認知的であるのに対して、映画のメッセージはむしろ行為遂行的である。この映画は男性性は本質的に暴力的であると「認知」しているのではなく、そう「宣言」しているのである。『エイリアン3』は「ファルスと闘う女性」の末路についての悪意にみちた予言である。
 自立を求める女性、男の子供をはらむことを拒絶する女性は、徹底的にファルス的な暴力にさらされ、子供を失い、友人を失い、美貌を失い、性生活を失い、夫を殺し、子供を殺し、自分も死ぬことになるだろう。この映画はそう予言している。ファルスと闘う女性はすべてを失うだろう。これがこの映画の発信するあからさまなメッセージである。そして、この映画の作り手たちは自分たちがそのようなメッセージを発信していることをおそらく自覚しておらず、それがアメリカの男性観客の「悪夢」を映像化してみせたのだということにも、おそらく気づいていない。

6・《物語》のために

 『エイリアン』というSFホラーは全編が性的なメタファーに溢れている。H.R.ギーガーがデザインしたエイリアンの頭部の完全にファルス的な形態や、その先端の開口部から垂れ落ちる半透明の粘液、襲撃の直前にぬらぬらと「勃起」してくる突起を思い出せば、エイリアンが男性の攻撃的な性欲の記号であることははじめから分かっていたことだった。
 どこからでも侵入し、不死身で、獲物の殺害と生殖しか念頭になく、《会社》の手厚い保護を受けたエイリアン。女性は「それ」とどう闘うべきかという切実で刺激的な主題をめぐって製作されてきたこのエイリアン・シリーズは、しかしながらここできわめてネガティヴで一面的な結論とともに幕を下ろした。
 《会社》(この宇宙に遍在する全能の組織体はもちろん「父権制社会」のメタファーである)の指示に従わず、妊娠・出産・育児を拒否し、女性的な徴候を身にまとうことを忌避してきた罪科によってリプリーは「殺される」。男に従わない女は罰される。それが第三作が下した「教訓」である。
 六000万ドルの制作費を投じたにもかかわらず『エイリアン3』は興行的には失敗し、批評も芳しくなかった。多くの批評家はこの映画の「ニヒリズム」と「寒々しさ」を指摘した。それが九〇年代アメリカの現実の性関係の「ニヒリズム」と「寒々しさ」をどの程度投影しているのか、私たちには分からない。
 しかし六〇年代以降「右肩上がり」に推移してきたアメリカのフェミニズムに対して、アメリカ男性の側に根深い悪意がわだかまってきていること、そして「父権社会の規範を無視して自由にふるまう女たちのもたらす災厄」を描いた物語が近年集中的にマイケル・ダグラス主演で映像化されているという徴候は指摘しておく価値があるだろう。(『ローズ家の戦争』The War of the Roses,1989 『危険な情事』Fatal Attraction 1987、『氷の微笑』Basic Instinct 1992、『ディスクロージャー』Disclosure1994、『ダイヤルM』The Perfect Muder 1998 )マイケル・ダグラスはこれらの一連の映画で、当代のハリウッド・スター女優を次々と「殺し」、男性観客にカタルシスを味あわせた。(「殺された」のは、キャサリン・ターナー、グレン・クローズ、シャロン・ストーン、デミ・ムーア、グイネス・パルトロゥ) 
 このような映像に「女性嫌悪」の徴候を指摘することはむずしいことではない。その背後にひそむ欲望や不安を暴露することも、それについて教化的な言説を編むことも、場合によってはそのような表現の規制を求めることもできないことではない。(『氷の微笑』に対しては上映禁止運動が試みられた。)しかし、そのような非難、批判、告発、暴露、断罪といったみぶりをいくら繰り返そうとも、「抑圧された悪意」はそれをより巧妙に隠蔽する別の物語を迂回してゆくだけで消失するわけではない。
 私は『エイリアン3』は駄作であると思うが、その理由は映画が「女性嫌悪」的だからではない。(前二作においても父権制社会における「新しい女性」への処罰という話型は繰り返されていた。)第三作が駄作なのは、それが「女性嫌悪」というメッセージ「しか」発信していないからである。
 単一のメッセージしか伝達できない物語は質の低い物語である。(それは「プロパガンダ」にすぎない)。矛盾するメッセージを矛盾したまま、同時に伝え、読みの水準を換えるたびに、そのつど別の読み筋が見いだせるような物語は「質の高い物語」である。
 「質の高い物語」は私たちに「一般解」を与えてくれない。その代わりに「答えのない問題」の下に繰り返しアンダーラインを引く。私たちは「問題」をめぐる終わりのない対話、終わりのない思索へと誘われる。
 大衆芸術としての映画はそのような仕方で現実的な矛盾を矛盾のまま提出し、その「解決」を宙づりにし、「最後の言葉」を先送りしてきた。もしマルクスが20世紀に生きていたらきっと「映画は人民の阿片である」と言っただろう。マルクスが言わなければ私が代わりに言ってもいい。「映画は人民の阿片である」。
 しかし私たちの欲望や不安はつきるところ「物語」として編制されており、それは「物語」として紡がれ、また解きほぐされてゆくほかないのである。
 私たちが映画に望んでいるのは「最終的解決」ではない。ラストシーンに私たちが見たいのは to be continued の文字なのである。

『ジェンダー・ハイブリッド・モンスター:エイリアン・フェミニズム2』


1・抑圧されたことば

 ある祝賀会の席で「それではみなさん、上司の健康を祝して乾杯(anstoβen)しましょう」と言うべきところで、「げろを吐きましょう(aufstoβen)」と言ってしまった紳士の話をフロイトは『精神分析入門』の冒頭で紹介している。
 私自身もこれと似た経験をしたことがある。むかし、ある中堅予備校(Cゼミナールという名前だった)の講師をしていたとき、講師慰労会の席で、理事長が「駿台、代々木ゼミナール、河合塾による全国の予備校系列化に抗して戦おう」と檄を飛ばしたあと、予備校界では高名なある老講師が乞われて乾杯の音頭をとった。そして笑みを浮かべつつ「それでは代々木ゼミナールのますますのご発展を祈念して」と祝杯をかかげたのである。会場は氷のような沈黙につつまれた。老講師は誰も唱和してくれないので、しばらくぼんやりしていたが、やがて誤りに気づいて、よろよろと壇から降りた。
 これらの事例が教えてくれるのは、私たちは「言い間違い」を通じて自分の「本音」を語るということである。「げろ」紳士は「上司にげろを吐きかけてやりたい」と願っており、老講師はただしくCゼミナールの没落を予見していた。しかし、この本音はいずれも彼らの社会的立場と整合しないので抑圧される。抑圧された「本音」は、ちょうど堰き止められた水流が別の水路を迂回して流れ出すように、夢、妄想、神経症、あるいは「言い間違い」のような「症候」として再帰することになる。

 「症候とは抑圧によって阻止されたものの代理物である。」(1)

 こんにちのアメリカ社会はハリウッド映画に対して法外なほどの「政治的な正しさ」(politically correctness)を要求している。女性差別、人種差別、民族差別、宗教差別、障害者差別、あらゆる種類の差別は許すべからざる社会的不正として断固として映画から追放されねばならない。アメリカというのは、このような「正義の要請」が空疎な訓話にとどまることなく、ヘイズ・コードや州単位でのカットや上映禁止といった具体的な圧力を通じて、映画製作そのものに効果的に関与してきた国である。したがってアメリカのフィルムメーカーは、「儲かる映画を作れ」とせっつく製作者や「面白い映画を見せろ」と騒ぐ観客に加えて「ポリティカリーにコレクトな映画を作れ」という知的な批評家からの要請にも応えてゆかなくてはならない。おそらく世界でハリウッド・メジャーのフィルムメーカーほど過酷な社会的圧力のもとで仕事をしている人々はいないだろう。
 しかし、いかにコレクトなフィルムメーカーとはいえ、必要以上に立派にふるまえば、それだけ抑圧するものは多くなり、表現を拒まれた欲望や不安は「症候」として映像に回帰することになる。これらの「症候」は、表層的にはポリティカリーにコレクトな設定で展開する映画の周縁あるいは細部に、ストーリーともテーマとも関係のない映像記号としてさりげなく露出している。それは主要人物の背景にかすむぼやけたシルエットであったり、登場人物の人名や地名であったり、背景の装飾や小道具であったり、誰も聞いていないBGMであったりする。それらの記号はそれ自体としてはほとんど意味をなさない。ただ「なんとなく場違い」であったり、「なんとなく執拗」であったり、「なんとなく過剰」であったりする、という仕方で標準値から差異化しているだけである。
 映画のイデオロギー性の査察を専門にする知的な批評家たちは、映画のプロットや主題や主人公の性格設定や監督のメッセージなどに焦点を合わせて映画を「批評的に」見る。彼らはスクリーンの「背後」にあるメッセージや、「隠された主題」の検出に選択的に意識を集中させている。
 それに対して、ふつうの観客は、映画のテーマにもストーリーにも登場人物の内面にもほとんど関心を持たない。彼らはただぼんやりとスクリーンをながめている。けれども映像の背後を見透かす集中力に欠けている代わりに、彼らは映像の表層に露出する症候には敏感である。これについてはジャン・ポーランが『タルブの花』に含蓄深い言葉を書き残している。

 「ある種の光は、それをぼんやり見ている人には感知できるが、凝視する人には見えない。ある種のみぶりは、なんとなく力を抜かないとうまくやり遂げられない。(例えば星を眺めるときや、手をまっすぐに延ばすときがそうだ。)」(2)

 ドイツ軍の検閲下にガリマール書店から刊行された『タルブの花』で、ポーランは「政治的メタファーを駆使して、文学を語っている」かのように偽装しつつ、実は「政治用語を駆使して、政治を語る」というアクロバシーを堂々と演じてみせた。巻末のこの一節でポーランは自著の読み方を読者に教えているのだが、メタファーを深読みした文学通の検閲官は、これが反ドイツ的な政治パンフレットであることに最後まで気づかなかった。
 ほんとうに言いたいことは表層に露出している。映画についてもたぶん同じことが言えると私たちは思う。ぼんやりした観客だけが見つけられ、目を凝らしている批評家が見落とすものがある。
 ジェンダーとエスニシティにかかわる倫理コードが八〇-九〇年代のハリウッド映画にとって「検閲」として機能していることは否定しようのない事実である。女性差別と人種差別にかかわる「本音」をスマートなフィルムメーカーは決して語らない。攻撃的な性的欲望や女性嫌悪あるいは非白人種に対する差別は「自己検閲」によって周到に排除される。だが、抑圧された心的過程は消え失せたわけではない。それは症候として必ず映像の表層に回帰する。

 私たちはさきに『エイリアン・フェミニズム』という題名の論考において、一九七九年から一九九二年にかけて製作され、大きな商業的成功を収めた『エイリアン』シリーズ三作を物語論の視点から分析した。そのとき、私たちはこの連作の中心にあるのは、「体内の蛇」という説話的原型であるとするハロルド・シェクターの仮説から出発した。(3)
 一九七〇年代の終わりにこの説話原型は『エイリアン』として蘇った。この「体内の蛇」話型の復活はアメリカにおけるラディカル・フェミニズムの興隆期と同調していた。夫に仕え、不払いの家内労働を担い、子供を産み、育てるために存在するような依存的な生き方を否定し、自己実現のために自立して生きたいという強い指向がこの時期のアメリカ女性のあいだにみなぎった。だから、「自立する女性」リプリーが男性の自己複製欲望の記号である「蛇の怪物」とただひとりで戦い、それに勝利する物語は、当時のアメリカ女性の自立志向のたかまりにジャスト・フィットしたのである。
 エイリアンが表象する男性の攻撃的性欲と女性はどう闘うか。この切実で刺激的な主題をめぐってシリーズは製作されてきた。そしてそれは同時に、フェミニズムの「検閲」によって抑圧された男性の性的欲望と、激しい女性嫌悪が、つぎつぎと「偽装」のうちに再帰する、プロテウス的変身の歴程もあった。

 『エイリアン』はプロットの上では、フェミニズムの「検閲」をクリアーするきわめてコレクトな映画であるが、その一方で、エイリアンの造型にはっきり見て取れるように、映像的な水準では、男性の「インコレクト」な性欲があからさまに、執拗に描き出されていた。
 サイエンス・オフィサーのアッシュがリプリーに暴行をふるう場面では、「セクシスト的空間」の中で、彼女の口に擬似的な男性器「挿入」されるし、半裸のリプリーを攻撃するために身を起こすときのエイリアンの頭部のシルエットはあからさまに勃起した男性器をかたどっていた。アンドロイドであるアッシュも、エイリアンも「男性」ではない。だからプロットの水準では、これらのシーンが性的攻撃を「意味する」ことはありえない。しかし、「ぼんやり映画を見ている」男性の観客は、彼らの抑圧された攻撃的性欲を直接的にみたすのに十分エロティックな映像的表現をあやまたずスクリーンの上に見出すことができたのである。

 『エイリアン2』は成功した「女性映画」(少し意地悪く言えば「女性観客から金を搾り取る映画(feminine exploitation movie)」)だった。この映画はフェミニズムの対立する二つの陣営(ラディカル・フェミニズムとフェミニズム本質主義)から課された二種類の「検閲」をのがれるために、両方の要請に同時に応えるというアクロバシーを演じてみせた。
 この「二つのフェミニズム」の葛藤は、八〇年代に入って、「フェミニズム本質主義」というあらたな思潮が出現したことに始まる。フェミニズム本質主義とは、女性性を本質的なものとして認め、その逆説的優位性を説く立場である。
 フェミニズム本質主義によれば、女性は「帝国主義国家対植民地」、「抑圧者対被抑圧者」、「中心対周縁」、「文明対自然」といった二項対立図式の、後の項に固定される。女性は被搾取者であり、被抑圧者であり、踏みにじられた大地であり、汚された母なる自然である。それゆえ、女性は(かつてプロレタリアートや民族解放闘争の戦士がそうであったように)その政治的な負性の代償に「正義」の請求権を手に入れる。
 「差別されてきたものだけが弱者の痛みを理解できる」、「周縁に排除されてきたものだけが制度への異議申し立てを行いうる」といったツイストの利いたロジックによって女性性の優位を説いたこの理説は(イリガライ、クリステヴァらの「フランス・フェミニズム」に理論的に依拠しつつ)八〇年代のアメリカにおいて、それまで過度に貶められてきた母性や育児や家事労働や家庭の価値の見直しへと女性たちを導くことになった。
 上野千鶴子によれば、この「転向」をもたらした理由のひとつは、ラディカル・フェミニズムの担い手たちがこの時期に「母になる生物学的タイムリミット」を迎え、「七〇年代にはキャリアの確立を優先した女性やレズビアンの女性たちが、八〇年代になって三〇代のかけこみ出産ブームをつくった」ことにある。「彼女たちは男性との関係には希望を抱いていなかったが、母性の価値を捨てようとは思わず、八〇年代アメリカのフェミニズムは母性と家庭の価値の再評価に向かった。」(5)
 
 キャリア指向か家庭回帰か?八〇年代フェミニズムが直面したこの緊急な問いに『エイリアン2』はみごとな映像的回答を提出して、大きな商業的成功を収めた。
 キャメロンは二種類のフェミニズムから課された「検閲」を同時にクリアーするという離れ業を演じつつ、『エイリアン』の場合と同じく、男性観客のためのささやかな悪意のスパイスを映像の細部に仕掛けてみせた。『エイリアン2』は、どちらにせよフェミニストが手に入れられた「家庭」がどのようなものでありうるか、そのモデルを映画のラストで映像化してみせる。それは「母親」でありかつ「キャリア・ウーマン」であるリプリーと、そのレプリカであるニュートが作る疑似的母子関係に二人の「不能の男性」を配した聖家族である。
 マイケル・ビーン演じるヒックス伍長は外見的にはマッチョであるが、断片的な映像が繰り返し示すとおり「視る能力のない」男である。彼は「暇さえあれば眠る男」として登場する。エイリアン掃討戦のあいだ彼が口にする言葉は「どこにいる!見えない!」であり、医務室でエイリアンに襲われたリプリーが救援を呼ぶときにはモニターを見落とし、リプリーと女王エイリアンの戦いのときには麻酔を打たれて眠っており、映画の最後の人工冬眠器に収まるシーンでは目を包帯に覆われて横たわっている。
 ヒックスについてまわるこの執拗なまでの「視る力の欠如」は「不能」の記号と解釈することができる。フェミニズム映画論の文脈では、「視る」とは「支配する」の同義語であり、「女性を見る男性の視線」―「三重の男性的視線」(triple male gaze)すなわちカメラの眼、俳優の眼、観客の眼―は窃視的暴力そのものであるとされる。だとすれば「視ることのできない男」ヒックスの男性性は映像的に「去勢」されていたことになる。
 アンドロイドのビショップ(ランス・ヘンリクセン)も別の意味できわだって「非男性」的な存在である。彼は無性の人造人間であり、その男性的外見は単なる仕様にすぎない。彼はクルーの全員から「無償の労働」と「死を顧みない献身」を当然の仕事として期待されており、その卓越した遂行能力を評価し感謝するものは(映画の最後でのリプリーを除いて)一人もいない。ビショップが担っているのはまさに「不払い労働」であり、彼の労働が「不払い」であるのは、その生産物に交換価値がないからではなく、単に彼が「低い序列」に類別されているからにすぎない。つまり、ビショップは外見的には「男性」だが、その社会的役割は完全に「女性ジェンダー化」しているのである。それゆえ、その宿命にふさわしく、ビショップは女王エイリアンの男根状の剣尾で深々とさし貫かれて、引きちぎられることになる。フェミニストたちにとっての「理想」の家庭、それは非血縁的=同志的な母子関係に「不能の男たち」がからみつくようなかたちで構成されるだろうと『エイリアン2』の図像学は告げている。

4・
 
 八〇代中盤からフェミニズムは再び変貌を遂げた。それは女性性を実体めかして語ったフェミニズム本質主義への鋭い批判として語り出されるのだが、それを準備したのは医学上の新たな知見であった。
 それまでのフェミニズムはジェンダーという文化的性差を痛烈に批判しながら、セックスという生物学的性差は価値中立的な事実としてそのままに受け容れてきた。しかし、内分泌学は、男女の性別というデジタルな性差は、実は性ホルモンの分泌量というアナログで連続的な変化の途中に恣意的に引かれた境界に他ならないという考え方を私たちに伝えた。同じように、解剖学は外性器についても二項対立的な性差は存在せず、誕生後に外性器が矮小化したり、肥大化したりすることはまれでないし、両方の性器が発達するandrogynousも存在することを教えている。いずれの水準でも、自然界に見られるのは、多様性と連続性だけであり、デジタルな性差なるものは科学的事実としては存在しない。セックス・ボーダーは人間の作り出した仮象にすぎなかったのである。
 では、なぜセックスはそれにもかかわらず、これまで「自然な」二項対立として観念されてきたのだろうか?
 性同一性障害という事例がその問いに答えの手がかりを与えてくれた。
 性同一性障害とは、自分の生物学的セックスとジェンダー・アイデンティティが一致しない症候のことである。仮に生物学的には「男性」であると認定された人が、ジェンダー・アイデンティティとしては「女性」を自認している場合、この違和感を解決するには二つの可能性がある。「あっちへ行く」か「こっちへ戻る」かである。さて、「彼」はどちらを選ぶだろう。セックスに適合すべく「男性として生きる」ことに努めるか、ジェンダーに適合すべく「女性として生きる」ことか?
 臨床例が教えてくれるのは、ほとんどの性同一性障害者は、自分のセックスに違和を覚え、異性のジェンダーに親和するという事実である。多くの性同一性障害者は、性器切除や造膣術など高額の出費と苦痛をともなう身体加工手術に耐えてまで、異性のジェンダーに自分をなじませる道を選んでいる。つまり、文化的な制度であるジェンダー・アイデンティティは生物学的セックスに優先するのである。
 私たちは『とりかへばや物語』から『ベルサイユのばら』まで、ジェンダー・アイデンティティのゆらぎにかかわる多くの物語を持っている。それらの物語が教えてくれることもまた、性同一性障害者の事例と一致する。それは、個人のレヴェルでは、どのジェンダーを選ぼうとも、いずれかのジェンダーを選んだものは必ずジェンダー構造の強化に奉仕するということである。
 性差の境界を超越する者は、「男」を選ぶときは、因習的な仕方で男性的となり、「女」を選ぶときは因習的な仕方で女性的となる。おのれを閉じ込めているジェンダーの壁を超えようとするものは、「壁の反対側」に安定的に帰属することを望んでいるのであって、壁の解体を望んでいるわけではない。ジェンダーに関する限り、「越境」によって壁は破壊されるのではなく、強化されるのである。
 かかる知見に準備された知的風土から出発して、フェミニズムの刷新を果たしたのがクリスティーヌ・デルフィである。ジェンダー・アイデンティティにおいて、ジェンダーがセックスより優位であるのは、セックスという概念それ自体がジェンダーによって事後的に作られた仮象だからであるという大胆な仮説をデルフィは立てたのである。

 「手短に要約するならば、私たちはジェンダー―女性と男性の相対的な社会的位置―がセックスという(明らかに)自然的なカテゴリーにもとづいて構築されているのではなく、むしろジェンダーが存在するがために、セックスが関連的事象となり、したがって、知覚対象のカテゴリーになったのだと考える。(…)私たちは抑圧がジェンダーをつくりだすと考える。つまり、論理的には、分業の階層的序列が技術的分業に先立って存在していて、この序列が技術的分業、すなわちジェンダーと呼ばれる性的役割をつくりだしたのだと考える。そして、人間の階層的な二分割が解剖学的差異を社会慣行に適合した区別に変化させるという意味において、今度はジェンダーが解剖学的セックスをつくりだしたのである。社会慣行が、しかも社会慣行のみが、一つの自然的事象を思考カテゴリーに変化させるのだ。」(6)

 デルフィによれば、社会の二極への分割は(そう信じられているのとは逆に)階層分化→分業→ジェンダーの差異化→セックスの差異化という順に進んでいる。生物学的性差は差別の「起源」ではなく、「階級」社会のイデオロギー的「産物」だったのである。
 一読しておわかりだろうが、フェミニズムにおける最新の知見は、意外なことに、私たちの世代にとってはきわめて「懐かしい」語法で綴られている。デルフィはフェミニズム本質主義のイデオロギー性を批判してこう書いている。

 「自然界との関係というものは存在しない(…)人間どうしの関係を事物どうしの関係あるいは事物との関係に見せかけるというのは、ブルジョワ・イデオロギーの明白な特徴である。」(7)

 『ドイツ・イデオロギー』にはこう書かれている。

 「諸個人が彼らの生活を表出する仕方は、すなわち彼らが存在する仕方である。したがって、彼らが何であるかは彼らの生産に、すなわち彼らが何を生産するか、ならびにいかに生産するかに合致する。」(8)

 この文章の「彼らが何であるか」を「彼らの(ジェンダーが)何であるか」と書き換えれば、マルクスの命題はそのままデルフィの命題に一致する。
 あるいは、「分業とともに、精神的活動と物質的活動が―享受と労働が、生産と消費が別々な個人の仕事になる可能性、いな現実性が与えられる。(…)それらが矛盾におちいらずにすむ可能性はただ分業がふたたびやめられることのうちにのみ存する」(9)という一節の中の「個人」を「ジェンダー」に書き換えても同様である。
 デルフィにおいて、フェミニズムはいわば一五○年かかってマルクスに回帰したのである。デルフィのマルクス主義的フェミニズムによれば、ジェンダーは階級社会に起因するものであり、それゆえジェンダーの廃絶は階級社会の廃絶と同時的に達成される。(レーニンを信じるなら、それは「ブルジョワジーの暴力装置である国家の廃絶」をも意味するだろう。)事実、デルフィはこう断言している。
 
「さしあたり言えるのは、家父長的生産・再生産システムが廃絶されないかぎり、女性は解放されないだろうということである。このシステムは(どんなふうに生じたにしろ)現に知られている社会すべての中核をなしているのだから、女性の解放のためには、現に知られている社会すべての基礎を完全にくつがえす必要がある。この転覆は革命なしには、すなわち、現在他の人間に握られている、私たち自身を支配する政治的権力を奪取することなしには実現できない。」(10)

 美しいほど明快だ。ここにはもう女性性や母性についての幻想はあとかたもない。性にかかわるすべてのイデオロギー的仮象は消え失せ、主人と奴隷の間の剥き出しの権力闘争という社会関係だけが残る。
 この政治的・唯物論的フェミニズムを通じて、アメリカ映画は「フェミニズムの顔をしたマルクス主義」のつきつける知的・倫理的な「検閲」に直面することになった。およそ知的であろうと望むフィルムメーカーはこの「検閲」をクリアーする映画を作らなければならない。
 さいわい唯物論的フェミニズムのひとつのトピックが製作者の投資意欲と監督の作家的想像力を刺激した。それは「デジタル・セックスのアナログ化」というSF的仮定である。ジェンダーが解体し、二極的セックスが無効になるとき、私たちの眼前にはおそらく人類がこれまでに見たこともないアモルファスでカオティックな「連続体としてのセックス」が展開するに違いない。『エイリアン3』と『エイリアン4』はこのSF的想定から生まれた。


 「検閲」に対するもっとも常套的な反抗は、「過剰に迎合」してみせることである。『エイリアン3』において、女性嫌悪はフェミニズムを懐柔し、それに迎合する話型を通じて吐露された。ここで描かれたのは、因習的な意味での女性ジェンダーがもはや存在しない世界、「女性が女性であることをやめた世界」である。リプリーはそれまでの二作で彼女にまとわりついていたわずかばかりの女性性をことごとく剥ぎ取られる。
 リプリーはこの作品の中ではじめてセックスをするが、その場面からエロティックな要素は周到に排除されている。囚人たちによる未遂に終わるレイプは性的欲望よりもむしろ憎悪によって駆動されており、合意の上のセックスは二人の痩せた病人が寝ているようにしか見えない。
 もし男性の欲望を喚起することが女性の性的「魅力」であると解釈するのが因習的なジェンダー構造の特性であるとしたら、この映画はみごとにそれを無効化することに成功した。リプリーはこの映画の中で、いかなる意味においても「魅力」的ではないからだ。彼女は囚人星の全員にとって最初から最後まで「厄介者」「嫌われ者」であり、この映画の中で彼女が説明や助力を求めた相手は例外なしに(ゴミ捨て場にうちすてられたビショップの残骸までも)その申し出を拒絶する。
 リプリーが彼女を「妊娠」させたエイリアンを焼き殺し、胎児を「中絶」し、溶鉱炉に身を投じて映画は終わる。ある研究者によれば、この結末は映画文法的に予見可能であったということになる。というのは、「子どもの扶養者は決して死なない」ということと「純潔でない女はモンスターに殺されてもしかたがない」はハリウッド・ホラーの不文律だからである。
 『エイリアン2』の終幕で、「リプリーは母であり(負傷し、無力な海兵隊員ヒックスの)『妻』の資格で生き延びたわけである。『本当の女』は生きる。なぜならハリウッドは子どもが母親の保護を受けずにいることには耐えられないからである。」(11)
 リプリーが生き延びたのがその理由によってであったとすれば、保護すべきニュートと死別し、医師と性交し、エイリアンの「子ども」を「中絶」したリプリーに生き延びるチャンスがあるはずはなかった。
 『エイリアン3』は「女性性の否定」というフェミニズムのラディカル化に寄り添うような設定をしつらえながら、実際にはそのような趨勢への嫌悪感をあからさまに映像化したためにきわめて後味の悪い映画に仕上がった。
 しかしハリウッドはSFホラー+フェミニズム映画という、シリーズが開拓した有望なマーケットをこんなふうに消滅させるわけにはゆかなかった。「デジタル・セックスの解体」はもう一度希望の語法で語られなければならない。かくしてハリウッドは死んだ主人公を秘術を尽くして蘇生させ、『エイリアン4』を世に送ることになったのである。

 リプリーが溶鉱炉に身を投じてから二〇〇年。死体から採取された血液と体組織の断片から抽出されたDNA操作によってエレン・リプリーは「復活」する。
 宇宙船オリガ号の中の実験室でリプリーを死から呼び戻した科学者たちの狙いは、死の直前に彼女に「寄生」し、誕生をまぢかにしていた女王エイリアンの胎児を蘇生し、摘出することである。宇宙船の指揮官ペレス将軍は、リプリーの胸部を「帝王切開」して取り出された女王エイリアンが産卵するエイリアンたちを訓練し、宇宙最強の生物兵器として編制するという野心的な計画を抱いている。実験用に生かされることになったリプリーは、エイリアン遺伝子の影響で、異常なスピードで成長をとげ、超人的な運動能力を発揮するようになる。
 エイリアンたちはやがて檻を破り、乗組員たちは次々と惨殺される。混乱の中でリプリーは、エイリアンの「餌」を密輸してきた海賊たちとともに宇宙船内を脱出艇めざして彷徨する。そしてエイリアンの営巣地に迷い込んだリプリーは、そこで人間とエイリアンの遺伝子をあわせもった新世代エイリアンを出産しようとしている女王エイリアンと対面することになる……
 誰にでも分かるように、第四作の主題は「雑種」(ハイブリッド)である。印象的な登場「人物」の多くは雑種である。リプリーと女王エイリアンが産み出した新生命体(Newborn)はともにエイリアンと人間の「混血」である。リプリーを暗殺するために海賊船に乗り込んできたコール(ウィノナ・ライダー)は女性型アンドロイド、海賊船の技師ヴリスは人間と機械のハイブリッド、地獄巡りをともにする「エイリアンの餌」用人間ラリーはすでに腹の中にエイリアンを仕込まれている。ここでは人間と異星人、人間と機械の間の境界は限りなく曖昧である。
 映画の主人公の二人の「女性」、リプリーとコールは、厳密には「女性」でもなければ「人間」でもない。コールは人間の感情と思考パターンをインプットされた(「人間よりも人間的な」)アンドロイドであり、リプリーはエイリアンを受胎したまま死んだ女のクローン、つまり人間とエイリアンの二種族双方の遺伝情報を組み込んだ雑種生命体である。
 「人間であり同時にエイリアンである」というリプリーの設定はこのシリーズ固有の文法に従って解読すれば、「女であり、同時に男である」生命体を意味する。父親も母親もなしに実験室で「孵化」し、男女の性的境界を無化するジェンダー・ハイブリッドであるリプリーについてシガニー・ウィーヴァーはこう語っている。

 「今回のリプリーはもっとサバイバル向きの女で、前よりずっと冷血よ。人間は哺乳類で、哺乳類の脳の奥には冷血動物の脳がひそんでいて、冷血動物の脳が貪欲な食欲を持っている。リプリーはその貪欲な脳に支配されて、貪欲な動物になってしまった。生に執着して、サバイバルのために冷血に行動するのよ。彼女の中にあるものが彼女を冷血な行動に駆りたてる。彼女がどんな存在であれ、人間としての彼女はすでに死んでいて、彼女はエイリアンとして生き延びていく。ここが重要なのよ。」(13)

 『エイリアン4』のリプリーは単に「女性性を欠く」というような生やさしい存在ではない。リプリーはすべての「男性的攻撃」をやすやすとはねかえす。科学者の首を締め上げ、海賊船の巨漢たちをバスケットボール一個でぶちのめし、鉄の扉を素手でこじあけ、エイリアンを撃ち殺す。
 『エイリアン』では自立指向がリプリーを駆動していた。『エイリアン2』では御しがたい母性愛がリプリーをとらえていた。『エイリアン3』では「女性的であってはならない」という否定命令が課されていた。しかし『エイリアン4』のリプリーには、男性的エートスも、女性性も、母性のしがらみも、「女性性」の否認義務も、およそ「性」にかかわる当為は何ひとつ存在しない。「敵を殺して、生き残る」ことだけが彼女の唯一の行動規範である。その意味では彼女はこの映画ではじめてジェンダー・フリー、モラル・フリーな存在として描かれたことになる。
 性的幻想のみならず、血縁幻想からもリプリーは完全に自由である。
 船内を暴れ回るエイリアンたちは外宇宙から飛来した異星人ではなく、発生的にはリプリーの「胎内」から取り出された女王エイリアンの子供たちである。だから(映画の中では「あんたの兄弟姉妹」というふうに呼ばれているが)ただしくはリプリーの「孫たち」に相当する。つまりリプリーのエイリアン退治は親族名称を使って言えば「祖母による孫殺し」なのである。
 『エイリアン2』で「家庭回帰する母性」の記号として存分に悪役ぶりを発揮した女王エイリアンも今回は影が薄い。リプリーから得た遺伝情報のおかげで、胎生動物に「進化」し、「エイリアンと人間の雑種生命体」ニューボーンを産み落とした彼女は、せっかく腹を痛めて産んだばかりの子供にいきなり頭を叩き潰されて絶命する。
 そのニューボーンはなぜかリプリーを慕ってすり寄ってゆく。(どうしてエイリアンの「母」を殺して、人間的な「祖母」を慕うのかは説明されない。)けれども、この「祖母」は逡巡なく「孫」を細切れにして宇宙空間に放り出す。
 「子による母殺し」と「祖母による孫殺し」によって親子関係のラインがきれいに精算されたあと、すべての性的、種族的なしがらみから解放された二体のハイブリッド生命体、リプリーとコールが窓の外に見える青い地球をみつめている場面で映画は終わる。
 私たちはさきに、この映画の基本的な主題が、ジェンダー構造が解体し、デジタル・セックスが無効になるとき、私たちの眼前に展開するはずの「人類がこれまでに見たこともないアモルファスでカオティックな連続体としてのセックス」であると書いた。このプランは「雑種交配」による既存のあらゆるジェンダー構造、親族的エートスの消滅として、たしかに映像化されたと言ってよいだろう。ここにはもう男も女も親も子もいない。
 映画は最後で、リプリーとコールの間に成立した連帯とそれがもたらすはずの来るべき共同体を暗示している。リプリーはエイリアンと人間のハイブリッドであり、コールは人間と機械のハイブリッドであるから、彼女たちがかたちづくる共同体は、エイリアン/人間/機械の三つの領域の癒合体ということになるだろう。そもそもH・R・ギーガーによるエイリアンの最初のデザイン・コンセプトが「マン/マシーン共生ユニット」(バイオメカノイド)であったことを思い出すと、この三領域はきれいなループを構成したことになる。つまりエイリアンと人間と機械は、『ちびくろサンボ』の虎たちのように、お互いのデジタルな尻尾を追っているうちにいつのまにかアナログな「バター」になってしまったのである。
 ジェンダー解体を求める唯物論的フェミニズムの要請に対して、ジャン=ピエール・ジュネは、男も女も母も子もみんなまとめて「バター」にしてみせた。これはある意味では唯物論的フェミニズムの「検閲」に対する「模範回答」である。しかし、エイリアン・サーガの先行作品と同じく、ジュネもまた濃厚な悪意の映像を仕掛けることを忘れなかった。

 リプリーの腕には「8」という入れ墨が入っている。その意味はやがて明らかにされる。リプリーは船内探索の途中、ある実験室の中に「リプリー一号」から「リプリー七号」までの「標本」(七号はまだ生きているが、あとはホルマリン漬け)が陳列してあるのを発見する。クローンの「失敗作」であるこの七体はリプリーとエイリアンの「雑種」の考え得る限りもっともおぞましい姿のカタログである。リプリー八号は「殺して」と訴えるリプリー七号の求めに応えて、すべての「姉妹たち」を涙ながらに火炎放射器で焼き殺す。
 リプリー8号は造形的には人間であり、能力と感性に「エイリアンが入っている」という設定であるので、ヴィジュアルな水準では(やたらに力が強いのと、血が強酸性であることを除くと)前景化しない。しかし「ニューボーン」と七人の姉妹たちは、造型的にも異種混合である。ハイブリッドの本質はこのとき映像のレヴェルできわめて効果的に語られる。
 もしシガニー・ウィーヴァーが言うように、半ば人間であり、半ばエイリアンであるような存在となったリプリーが主人公を演じるべきなら、リプリー七号(女性とエイリアンがぐちゃぐちゃまじっている)にもこの映画の主人公になる権利はあったはずである。しかし、七号にはそのチャンスが与えられなかった。なぜか。理由は簡単である。
 気持ちが悪いからだ。七号は「エイリアンそのもの」よりも遙かに醜悪であり奇怪な「怪物」である。少なくとも観客にはそう感じられる。
 「怪物」とは、「怪物」という独立したカテゴリーに帰属するものを指すのではない。複数の種族の属性を同時に備えているようなものを私たちは「怪物」と呼ぶのである。
 キマイラ、スフィンクス、グリフォン、「ぬえ」といった伝説的な怪物は、さまざまな動物のパーツからなる一種のコラージュである。フランケンシュタインの怪物は人間と非人間の境界におり、狼男は自然と文明の境界におり、屍鬼や吸血鬼や死霊たちは「幽明の境」に蟠踞する。見世物小屋をにぎわすフリークスたち(蛇女、たこ娘、半魚人、髭娘)はそれぞれ二つの種の混淆体である。人間の想像力が生み出した怪物たちはすべて「カテゴリーの境界線を守らぬものたち」である。
 なぜ境界線を行き来するものは私たちを恐怖させるのか?
 その理由をレヴィ=ストロースは簡潔にこう述べている。「いかなるものであれ分類はカオスにまさる。」(14)
 古来、人間は二項対立によるデジタルな二分法を無数に積み重ねることによって、アナログでアモルファスな世界を分節し、記号化し、カタログ化し、理解し、所有し、支配してきた。それは「野生の思考」からコンピュータにおける「ビット」の概念まで変わらない。「アナログな連続体をデジタルな二項に切りさばく」のが人間の思考のパターンである。それが「知」であり、それによって構築されたものを私たちは「文明」と呼んでいる。これまで人間はそのようにして生きてきたし、たぶんこれからもそのようにして生きてゆくだろう。
 そうである以上、デジタルな対立を無効化してアナログな連続性を回復しようとするハイブリッドに嫌悪と恐怖を覚えるのは、「人間として」当然の反応なのである。
 私たちはハイブリッドを「怪物」として恐れ、嫌い、排除する。それは人間の社会がカオスに線を引くことによってはじめて成立するからである。「Aであり同時にBであるもの」を人間の文明は許容しない。
 「そのような分節は人間が勝手に作り出した擬制にすぎない」という異議は正しい。しかし、「人間が勝手に作り出さなかったら誰が文明を作るのだ」という反論も同じように正しいと私たちは思う。「文明」とは要するに境界線なるものを仮構して、連続性を二項対立に読み替える詐術に他ならないのである。
 リプリー七号までの姉妹たちは「文明化」に失敗し、八号がはじめてそれに成功した。彼女は精神的内面においてエイリアンであり、肉体的外面において人間である。境界線は「エイリアン的内面」と「人間的外面」の間に仮構されている。二つの血統を「内面」と「外面」に詐術的に分離することによって、リプリー八号は文明化をなしとげた。それゆえ私たちは彼女を「怪物」ではなく「人間」として認知するのである。
 物語の水準では、リプリーとコールは、エイリアンと人間と機械の境界線を無化したはずでだった。しかし、リプリーはエイリアン要素を、コールは機械要素を「内面」に閉じ込めている。異族との境界線は「内面」と「外面」という垂直的な境界線に置き換えられることで延命を果たしたのである。
 エイリアン/人間/機械の種族境界線は「バター」になって消滅したはずであった。たしかにプロットのレヴェルでは、デジタル・ボーダーは完膚無きまでに破壊された。しかし、映像の表層では、カオスを防ぎ止める境界線はあらわに前景化している。破壊されたはずのボーダーは、美術スタッフの力作である「ニューボーン」と「姉妹たち」の造形的な醜さと、シガニー・ウィーヴァーとウィノナ・ライダーの造形的な美しさがもたらす視覚効果として強固に再構築されたのである。
 アモルファスな世界にデジタルな境界線を引くものだけが生き残る。
 このメッセージは、ここでもまた「怪物」を気持ち悪いと感じ、二人の女優の「美貌」にみとれる「ぼんやりした」観客たちだけに伝達されたのである。

 高橋源一郎は政治と文学の関係について次のように書いている。
「『政治』は『文学』と対峙する時、必ず敗れる。なぜなら、『文学』は『政治』より『深く』『広い』からだ。(…)『政治』の本質が『わたしは正しい、やつは間違っている』なら、『わたしは正しい』と訴える『文学』はすでに『政治』に冒されているのである。そして『わたしは正しい』と主張する『文学』は『政治』であるが故に、ついにこの世界の基底とは成り得ないのだ。
 では、世界の基底に成り得る、世界を成り立たせることのできる『文学』とは何なのか。」(15)
 高橋はこの「最後の問い」を書きとめたところで筆を擱いている。私たちはこの文章の中の「文学」を「映画」に置き換えて読んでみた。そして高橋と同じ「最後の問い」の前にたたずんでいる。
 「コレクトネス」を求める人々が映画をいくら統御しようと試みても、その勝負は必ず映画の勝利に終わるだろう。映画が二〇世紀の生み出したあらゆる物語装置の中でもっとも成功したことの秘密はたぶんそこにある。映画はつねに時代の権威に屈服し、支配的なイデオロギーに迎合し、なりふりかまわず流行を追ってきた。その職業的な変節ぶりは、現政権と反政府ゲリラ組織に同時に献金して「保険」をかけている資本家によく似ている。まさしく「面従腹背」こそは映画の本性である。映画はひとつのメッセージを言語的に語りながら、それと矛盾するメッセージを非言語的に発信することのできる理想的な詐術の装置である。このような映画のあり方はたしかに「正しく」はない。私たちはそれに同意する。けれども映画は「正しい」思想よりもしばしば「広く」「深い」。私たちはこの「映画の狡知」を愛する。おそらく、そこに「世界の基底」に通じる隘路を見出すからである。


『エイリアン・フェミニズム1-欲望の表象』

世界は書物を介して語られることがなければ、
それほど真実味にあふれたものではないだろう。
ピエール・マシュレ


1・ 《屋根の上の赤ん坊》

 ある若い夫婦が生まれたばかりの赤ん坊をベビー・ベッドにのせてドライブにでかけた。途中で車がオーヴァーヒートしたので、夫婦は車を止めてエンジンを冷やすことにした。少しでも涼しいようにと赤ん坊はベビー・ベッドごと車の屋根に乗せた。そのうち若い夫婦は言い争いを始めた。エンジンが冷え、車が走り出してもまだ車内では怒鳴り合いが続いた。そのうちに二人はふとさきほどから赤ん坊がずいぶんおとなしいことに気がついた……。
 「友だちから聞いた本当の話」という枕を振って始まるこの種の「奇譚」を社会学は「都市伝説」(urban legend)と呼ぶ。J.H.ブルンヴァンはその都市伝説研究の中で、この「屋根の上の赤ん坊」のヴァリエーションが全米にひろがっていることを確認している。(1)
 「屋根の上の赤ん坊」は、若くして子供を持ってしまったため、身の丈にあわない社会的責任を押しつけられることになった若い夫婦の心にきざした不意の殺意に触れている。ストレスフルな育児のさなかに「この子さえいなければ……」という悪意の訪れを経験したことのある親は少なくないはずだ。しかしその欲望を意識することには強い禁忌が働いている。欲望がありながら、倫理や慣習がそれを意識し表現することを固く禁じているとき、ひとはその欲望が書き込まれた「物語」を必要とする。都市伝説はそのような欲望が要請した物語群である。
 この都市伝説は「完全に伝統的な民話の要素―お粗末な親、捨てられた赤ん坊、奇跡的な救出―から成り立っている。そしてすぐれた民話がすべてそうであるように、われわれのきわめて根源的な情を揺さぶると同時に、ある特定の時代・場所における関心事と不安を反映している」(2)とハロルド・シェクターは書いている。
 
 アカデミー賞二部門にノミネートされ、主演のマコーレー・カルキンを一躍スターダムに押し上げた1990年の大ヒット映画『ホームアローン』Home alone はクリスマス休暇にパリへでかける大家族が、末っ子をうっかり家に置いてきてしまうという「意外」な設定から始まるが、このプロットは実は「子捨て」民話の元型を忠実になぞっている。
 映画のハイライトは、パリ行きの飛行機の中で母親が「何かを忘れたような気がする」と不安にかられて、突然子供を忘れてきたことを思い出す場面であるが、これは「屋根の上の赤ん坊」の「赤ん坊がずいぶんおとなしいことに気がついて……」というクライマックスと話型的には同一である。
 「親が子を捨てる」話はヨーロッパの多くの民話に見ることができる。
 ロバート・ダーントンによれば、「子供を捨てるというモチーフは『親指小僧』の農民版にもそのほかの民話にも存在するし、嬰児殺しや幼児虐待も様々な形をとって物語に登場する。ときには両親が子供を追い出して、乞食や泥棒にしてしまうこともある。両親自身が逃亡して、家に残された子供たちが物乞いをして生きるという場合もある」(3)。
 エリザベト・バダンテールによれば、親による(直接的あるいは間接的な)「子殺し」は十九世紀まで良心の咎めなしに行われていた。例えば、一八世紀のフランスでは、母親が手もとで子どもを育てる習慣がなく、多くの幼児は生まれるとすぐに乳母に預けられた。(その数は一七八○年のパリでは、一年間に生まれる二万一千人の乳児のうち一万九千人に及んだ。)(エリザベート・バダンテール、『母性という神話』、鈴木晶訳、筑摩書房、1998年、84頁)里子に出されたものの生存率は低かったが、両親に育てられた幼児も決して安全ではなかった。繰り返し教会が禁止を命じたにもかかわらず、幼い子どもを両親といっしょに寝かすという習慣は根強く、そのために幼児が窒息死するという事例が頻発したし、衛生についての初歩的な注意を母親も乳母も組織的に怠っていた。これは「家族内の子どもの数をふやさないための方法」だったのではないかという疑問をバダンテールは呈している。(同書、92頁)
 しかし、グリム兄弟が民話の採集を始めた一九世紀のはじめ頃から、「愛し合う家族」という近代的な家族概念が定着し始め、「子供を捨てる」話型をストレートに表現することに対する心理的な禁忌が働き始めた。こうして、「実母」は「継母」に書き換えられ、「子捨て」は「親が意図せず、偶然に、きわめて危険な状態に子供を放置してしまう」という屈折した話型を迂回することになった。『ホームアローン』はその意味で『ヘンゼルとグレーテル』の現代ヴァージョンとして解釈することができる。
 
 シェクターによれば、都市伝説は二つの要素から成っている。一つは人類全体に共通する「元型的な空想」あるいは「集合的無意識」である。もう一つは「特定の時代・場所における関心と不安」である。
 「元型的空想」と「歴史的・場所的に条件づけられた不安」とがリンクしてはじめて「ポピュラー」な都市伝説は成立する。そして、そのような都市伝説の機能はなによりも大衆の「抑圧された欲望」に「物語」としての表現を与えることにある。
 シェクターの仮説に基づいて私たちが以下で分析を試みる都市伝説は映画『エイリアン』シリーズ、すなわちリドリー・スコットの『エイリアン』Alien 1979、ジェームズ・キャメロンの『エイリアン2』Aliens 1986、ディヴィッド・フィンチャーの『エイリアン3』Alien 3 1992、である。(自注:この論考が書かれたのは1996年、まだジャン=ピエール・ジュネの『エイリアン4』Alien: Resurrection 1997は映画化されていなかった)。
 私たちが注目するのは、十三年間三作にわたるこのシリーズをつらぬく「不変の」元型的空想ではなく、むしろ映画を取り囲む社会感受性の「変化」である。

 『エイリアン』を構成している「元型的な空想」は「体内の蛇」という古典的話型である。次章で考察するが、その話型の意味するところを理解するのは難しい仕事ではない。しかし、私たちの「根源的な情を揺さぶる」その元型的話型が、ときどきの社会的感受性の変化に対応して、どのような現代的な恐怖譚に「書き換えられている」のかを特定することは、それほどには容易ではない。
 私たちはここでのシェクターの言う「歴史的・場所的に条件づけられた不安」は、アメリカにおける女性の社会的役割の変化によってもたらされたと考えている。このいささか唐突な着想の妥当性を論証するためには少なからぬ頁数が必要であるだろう。
 私たちはこの映画が、一九七○年代から九○年代のアメリカのフェミニズム・ムーヴメントの中で急速にその相貌を変容させてゆく女たちと、急変してゆく社会に対してアメリカの男たちが抱いた「関心と不安」を的確に映し出していると思う。そして、この「関心と不安」に培われた「欲望」がどのようにしてこの血なまぐさい物語群のうちに繰り返し回帰することになったのか、それをあきらかにして行きたいと思う。


2・《体内の蛇》

 「体内の蛇」はひろく世界に分布した都市伝説元型の一つである。最も古いヴァージョンは16世紀に遡るというこの伝説の基本的なプロットは次のようなものである。
 不用意な行動(蛇の精液のついたクレソンを食べる。湖で泳いでいるときに蛙の卵を呑み込む。池のほとりで口をあけて昼寝をする)のせいで蛇(場合によっては蛙、山椒魚、蜥蜴)が人間の体の中に入ってしまう。蛇はそのまま体内で成長し、そしてあるとき食べ物の匂いにつられて食事中に喉を遡って口から出てくる。この最後の場面はしばしば人間に致命的なダメージを与える。
 よく知られたヴァリエーションの一つに1916年頃にイギリスでひろまった「蛙を呑み込んだ婦人」の話がある。蛙の卵を呑み込んでしまった婦人の胃の中で蛙が成長する。苦しくてたまらないが、蛙が動き回るので手術ができない。最後に思い余って婦人の舌にチーズを一切れのせたら、蛙がその匂いにつられて食道をのぼってきた。しかしそのために婦人は窒息死してしまう。
 リドリー・スコット監督の第一作『エイリアン』の衝撃的シーンはこの古典的都市伝説を忠実になぞっている。
 宇宙船ノストロモ号の7人の乗組員は地球への帰路、意味不明の信号を傍受して、発信地の星に降り立つ。そこで探検に出た乗組員たちは朽ちた宇宙船と化石化したエイリアンと無数の卵を発見する。一人の隊員が卵を調べようとしてかがみ込んだときに、卵の口が開いて中から異星人の幼体が跳び出し、彼の顔面にはりついてしまう。蜥蜴の尻尾を持つ蟹に似たこの幼体(Face Hugger)は意識を失った寄生主とともに宇宙船に入り込む。フェイス・ハガーは顔にはりついているだけでなく、体内に深く触手を挿入しながら、酸素を送り込んで寄生主を殺さないようにして一種の共生関係を作り出している。船長とサイエンス・オフィサーが電気メスではがそうとするが、フェイス・ハガーの傷口から流れ出る強い酸によって宇宙船の船体そのものが浸食され、それ以上手を出すことができない。
 やがてフェイス・ハガーは顔から自然に剥離し、枯死する。隊員は意識を回復する。回復を祝って食事が始まり、彼は猛然たる食欲を示すが、突然、強烈な腹痛のために痙攣し始める。そして全員におさえつけられた彼の腹を喰い破って第二段階への形態変化を遂げた蛇状のエイリアンが出現し、返り血を浴びて呆然としている乗組員を嘲笑うかのように奇声を発して姿を消す。
 映画を見たひとたちの多くが「最も衝撃的」としているこのエピソードはごらんのとおり、「体内の蛇」のモチーフをそのままに再現している。
 はじめに「不注意な行為」(「卵」に顔を近づける)があり、その結果「卵」が体内に送り込まれる。手術の試みは失敗し、最後に「食事の匂いにつられて」「蛇」が出現し、犠牲者は死ぬ。
 この元型的想像が何を象徴しているのかを推察することはそれほどむずかしい仕事ではない。
 体内に「蛇」の「卵」が入り込み、成長し、宿主の腹を膨らまし、最後に腹を破って出てきて、宿主を死に至らしめるという話型は、「蛇」が精神分析的に何を意味するかというようなことを詮索しなくても、「妊娠と出産」のメタファーであることは誰にも分かる。
 女性の意に反して(多くは「不注意」から)、男性という異物の「卵」(精液)がその体内に入り込む。それは成長し、腹を膨らませて母体を苦しめ、あげくに彼女に最初に暴力的に侵入した「蛇」のコピーを再生産させて、彼女を「殺す」。
 この元型説話は「生殖」という女性の生物学的宿命そのものに対する恐怖と嫌悪を表している。「母」とはどのように神話的に脚色しようと、つきるところ「男」が自己複製をつくるための「道具」にすぎないとこの物語は教えているのである。
 生殖に対する恐怖と嫌悪をあらわに示し、男性の自己複製の道具となることを拒絶することがきびしく禁圧されるとき、無意識の領域に追放された欲望は必ず「物語」を迂回して「検閲の番人」の監視をくぐり抜け、意識の表層へと回帰してくる。そのようにして「体内の蛇」の話型は誕生し、語り継がれてきたのである。
 リドリー・スコットが伝承的な話型を意識的に採用したのか、それとも「恐ろしいエピソード」を求めているうちに、無意識的に古典的な恐怖譚に回帰してしまったのか私たちには判定できない。しかしすぐれたストーリー・テラーは自分の個人的な無意識を集合的無意識と通底させる才能に恵まれている。
 その時代の観客が見たがっているもの(しかし抑圧されているもの)を感知するために必要なのは、無意識的な共感能力である。スコットがここで映像的に同調しようと試み、そしてそれに成功したのは1970年代末におけるアメリカ社会の、性関係にかかわる集合的無意識である。


3・《性関係と映像》

 70年代のアメリカ映画に顕著に現れた一つの傾向について、フェミニズムの立場からE.アン・カプランはこう書いている。

 「70年代の終わりになると、もう一つの傾向が商業映画の主流に現れた。それははっきりと女性を観客対象とし、フェミニズム運動が提起した問題をとりあげようとする動きである。(…)これらの映画の内容を提供したのは、映画をとりまく社会的・経済的・文化的な要因である。すなわち女性の教育や雇用問題に生じた顕著な変化、女性解放運動や避妊の方法の普及がもたらした性関係・性意識の変化、そして結婚と離婚のあり方の変化、などである。(…)これらの映画は、女性の新しいあり方を受け入れる用意のまだできていない父権社会で、新しい役割を果たしはじめた女性たちが直面する問題、彼女たちの矛盾にみちた要求をとりあげ、描こうとしている」(4)。

 これらのハリウッド映画に共通するのは、「新しい女性」たちが、当然ながら彼女のあり方を認めようとしない「父権制社会」の執拗な暴力にさらされるという状況設定である。
 女性の自立を阻止せんとする男性側からの暴力をリアルに描くのは、ある意味では「父権社会」の醜悪さを暴露するという「教化的」効果を持つだろう。
 70年代末のアメリカ映画は「よい意味では女性の要求をとり入れ、悪い意味でそれを懐柔する方向に動きだした」とカプランは認識している。
 79年作品である『エイリアン』は主人公にアグレッシヴな顎とボーイッシュで巨大な体躯の持ち主である新人女優シガニー・ウィーヴァーを起用した。それまでのハリウッド・スターのカテゴリーにはあきらかに収まらないこの女優は、「新しい女性」を描こうとする制作者の期待に応えて、フェミニズム興隆期におけるアメリカの若い女性たちの上昇的なはりつめた気運をみごとに表現してみせた。
 彼女の演じる宇宙飛行士リプリーは、その職責を誠実につとめ、つねに男性隊員に伍して労働し、パニックになっても冷静さを失わず、適切な仕方でエイリアンとの闘争を指揮し、結果的にただ一人の生存者として勝ち残る。この映画は女性主人公が、襲いかかる暴力に対して、男性保護者に依存することなく、また「女性的」奸智を駆使することもなく、ストレートな暴力にストレートな暴力を以て対処し勝利するという、ハリウッド映画にとって画期的なプロットを提供した。
 白馬の王子様の到来を待たず、自力で城を奪還する闘う「眠れる森の美女」。(最後の闘いのときリプリーが身にまとう宇宙服は騎士の鎧を象っている。)女性の自立を映像的にサポートするという点について言えば、『エイリアン』はたしかに「よい意味では女性の要求をとり入れ」た映画であると言えるだろう。
 しかし、「父権制社会」の剥き出しの暴力にさらされて戦うヒロインを描くことは、見方を逆にすれば、「父権制社会」に楯突く「生意気な」ヒロインが、父権制的な暴力にひたすら暴行され、凌辱され、その無謀な野心にふさわしい制裁を受ける映像を描くことでもある。
 全編が暗くじめついた宇宙船の中で展開する「ドラゴン&ドンジョン」型RPGにも似たこの武闘劇は、そのような意味では、フェミニズムへの応援歌にしては、あまりにも暗い情念をはびこらせている。おそらくそれは戦う「新しい女性」の不安と、それに脅威を感じている男性の不安の双方を投影した結果である。70年代末のアメリカ社会の性関係の未来に対する不安が全編を領している。そしてその不安の映像的な焦点となっているのが「体内の蛇」である。

 私たちはさきに「体内の蛇」の物語は、女性からする、「男性の自己複製の道具であることの拒絶」、つまり「妊娠と生殖への無意識的な忌避の欲望」の吐露であると書いた。だとすれば、フェミニズム映画としての『エイリアン』もまた「女性としての伝統的な社会的役割の拒絶」のメッセージを発信しているはずである。
 事実、『エイリアン』においてリプリーはよかれあしかれほとんど伝統的な女性の徴候を示さない。彼女は女性的コケットリーによって船内の雰囲気をやわらげようともしないし、男性隊員にコーヒーをいれもしないし、無原則な包容力も示さないし、男性隊員の誰に対してもいかなる性的な関心も示さない。リプリーはただ男たちと同じように不機嫌な顔で黙々とコーヒーを飲み、煙草を吸い、自分の仕事をするだけだ。エイリアンをダクトに追いつめるという危険な任務にも、当然のことのように志願するし、船長の死後は序列に従って指揮官となる。彼女は女性であることをいかなる免責事由にも用いない、女性であることからいかなる利益をも受けていない。
 ではリプリーは完全にニュートラルな存在として描かれているのかと言えば、決してそうではない。彼女はこの映画の中で二回「女性的」弱点を見せる。

 一回目はエイリアンを生きたまま持ち帰れという《会社》の指示に従って、乗組員を犠牲にしてもエイリアンを「保護」しようと企てるサイエンス・オフィサーのアッシュによって暴行を受ける場面。ここでリプリーは映画の中でただ一度だけ男性のすさまじい暴力に屈服する。
 見落としてはらない徴候は、このときアッシュが彼女を窒息させようとして、口の中に丸めた雑誌をねじ込もうとすることである。乱闘が行われるのは船内の食堂で、押し倒されたリプリーの後ろの壁には『プレイボーイ』風のヌード・ピンナップが貼りめぐらされている。アッシュは手近の男性誌をつかんで、それをリプリーの口にむりやり押し込む。
 丸めた雑誌を口に押し込むというのは、どう考えても窒息死させるために有効な方法ではない。これはむしろ象徴的に解釈されるべきだろう。あらゆる場面で女性らしくふるまうことを忌避しているかに映るリプリーに対して、ここで男性側からの「制裁」が加えられるのだ。
 丸められた男性雑誌は、50年代まではアメリカ男性の誰ひとりとしてその正当性を疑うことのなかった「女性を男性の性的愛玩物として消費する文化」を象徴している。リプリーが映画の中で一貫して踏みにじってきたのがこの時代遅れの性幻想であるとすれば、「男性」によって彼女の「口に挿入された」「男性誌」がその「父権的文化」の報復のかたちであることはほとんど論理的に自明である。(『エイリアン2』においても、《会社》の指示に従わないリプリーを黙らせるために、《会社》の代理人であるバークによって彼女の「口」に「凶器」が挿入される。いずれの場合も《会社》の大がかりな企業戦略を「告発」しようとするリプリーの「口」は擬似的なファルスによって封じられるのだ。)
 もう一つの彼女の女性的徴候は、母船を爆破して脱出するという最後の場面でリプリーが猫を探しに行くという致命的なミスを犯すエピソードに見られる。
 リプリーはここで映画の中でただ一度だけ情緒的弱みを見せる。爆破まで残り数分というせっぱ詰まった状態で、生き残った他の二人の乗組員が脱出に必要な酸素を荷積みするという緊急な作業に携わっている間、彼女は「猫を探している」のだ。
 「猫探し」に手間取ったためにリプリーは仲間二人の救出に間に合わず、脱出用シャトルにエイリアンが乗り込む時間的余裕を与えてしまう。それほどのリスクを冒してまで、リプリーは「猫探し」のために船室をはいまわり、みつけた猫を熱情的に抱き締める。いったいなぜ猫はこの局面でそれほどまでにリプリーを引きつけるのか?仲間と自分自身を危険にさらすどのような価値が猫にはあるのか?
 英語話者ならすぐに気づくことだが、「猫」(pussy)は俗語で女性性器を意味する。「忘れてきた「猫」を探しに戻る」という話型は、それまであえて忌避してきた女性性が、決定的局面に臨んだときにいたって、実は「かけがえのないもの」であったことにリプリーが気づいたことを意味している。「猫」は女性がいかに逃れようと望んでも決して逃れることのできない「セクシュアリティ」の記号である。
 ここでもまた映画はアッシュの暴行と同じメッセージを発信している。
 いかに女性性を拒もうとも、「決定的局面」に至れば、女性は「女であること」からは逃れられない。そして彼女が「女でしかない」ことを暴露するとき、「男の暴力」の前に屈服する他ないのである。

4・《母性の復権》

 カプランはさきの書物でハリウッドを「ブルジョワ機構」と規定し、そこで生産される映画は「男性的利益」にもっぱら奉仕するものであって、女性に「どんな主張も可能性も欲望の充足も許さない制度」の中に彼女たちを幽閉するためだけに機能しているというかなり一面的なきめつけを行っている(5)。
 しかし、それでは現に女性観客がハリウッド映画に熱狂していることについて納得のゆく説明ができないだろう。映画はカプランが考えているほどに単純なものではない。(カプランがアメリカ映画について言うように、あるいはジュディス・フェッタリーがアメリカ文学について言うように、それらすべてが単なる「父権制イデオロギーのプロパガンダ」にすぎないのなら、彼女たちがなすべき緊急のことは、映画や文学「について語ること」ではなく、アメリカにおける映画や文学の生産と消費をただちに「禁止する」ことであろう。しかし、彼女たちもその禁止運動がアメリカ女性のマジョリティの支持を得る見通しがないことは分かっているのである。)
 実際には、大衆的な支持を集める映画はつねにアンビヴァレントな映画である。あるレヴェルで語られていることと、別のレヴェルで語られていることが平然と矛盾している、そのような映画にだけ、私たちは惹きつけられる。すぐれた物語は、ある水準における言語的メッセージは、必ず別の水準における非言語的メッセージによって「否定」される。
 敵役が十分に魅力的でなければ主人公の勝利は高揚感をもたらさない。流血の惨事がなくては平和の価値は分からない。戦争の悲惨さを伝えるためには戦争から快楽を得ている人間が描かれねばならない。世界が錯綜していること、あるものの快楽は別のものの不幸と背中合わせになっていること、私たちを惹きつける物語は、つねにそのような仕方で重層的である。
 『エイリアン』は「私たちを惹きつける物語」に必要なアンビヴァレントな構造を備えている。あるレヴェルで見ると、映画は七〇年代の女性観客に対して、新しいヒロインの誕生を告げ、女性の未来についての希望を語っているかに見える。しかし、別のレヴェルでは、その女性たちに対する「父権制社会」の側からの剥き出しの攻撃性が映像的に誇示されている。女性が「ドラゴン」と闘う話型は「フェミニズムを懐柔する」。他方「女性が女性的でなくなること」によって受ける制裁を映像的に飽食させることによって映像は「父権制的観客」の邪悪な欲望をも満たしている。『エイリアン』はその時代の欲望と不安をそのような仕方で映像的に定着することによって大きな商業的成功を収めた。

 『エイリアン2』は七年後の一九八六年に製作されたその続編である。この映画はその時代におけるフェミニズムの最大のトピックであった「母性」の評価についての同じくアンビヴァレントな社会的感受性を映像化して大きな成功を収めた。
 『エイリアン2』は前作の五七年後の未来が舞台となる。ノストロモ号最後の生存者リプリーは長い宇宙漂流の果てサルヴェージ・シップに救助される。《会社》はエイリアン襲撃という彼女の説明を受け入れず、彼女は飛行士の資格を剥奪され、身寄りも知人も死に絶えた未来社会で、肉体労働者として、夜毎エイリアンが自分の腹を喰い破って出現する悪夢にうなされながら暮らす。
 《会社》はエイリアンの卵が発見された星に宇宙植民地を建設していた。その植民地星が不意に通信途絶し、リプリーはアドヴァイザーとして宇宙海兵隊とともにその星を訪れることになる。
 植民地星ではひとりの少女をのぞいて植民者全員がエイリアンの卵を産み付けられた「フェイス・ハガー」の培養体に化しており、海兵隊もたちまち壊滅の危地に追い込まれる。再びエイリアンとの闘いを強いられたリプリーは、とらえられた少女を救出するために、無数の卵を生み続ける「女王エイリアン」にフル武装で対決する……。

 この映画は母性についての対立する二つの対抗的な話型を繰り返す。
 劇場版ではカットされ、ディレクターズ・カットで回復した挿話によれば、リプリーには一人の娘がある。娘はリプリーが宇宙を漂流している間に六六歳で死んでいる。リプリーは「外で働いていたために」自分のただ一人の子供の人生に全くかかわることができなかったわけである。これは「母性が十全な機能を果たさなかった」マイナスの徴候と見なすことができる。
 一方、リプリーは植民地星で奇跡的に生き残った少女ニュートに強い母性的感情を抱く。エイリアンの襲撃からのただ一人の生存者であり、恐怖の経験を共有していることが二人を深く結びつける。リプリーとニュートの擬似的母子関係を描く場面で、リプリーは前作では「猫」に対してのみ示した情緒的な「甘い」表情を見せる。彼女がさまざまな危機からニュートを守り、最後に命がけでニュートを救出に敵地に乗り込むシーンがこの映画のハイライトだが、そこで高らかに歌われるのは「母の愛は海よりも深い」そして「母は強し」というほとんどメロドラマ的なメッセージである。
 これは、「子供を家に残して外へ働きに出て自己実現したい」という自立を求める気分と、「子供の保護をすべてに優先したい」という気分のあいだに引き裂かれて、いずれとも決めかねている八○年代アメリカ女性の内的葛藤をみごとに映し出している。
 そして、最終的に映画のストーリーラインは「子供を見捨てる」女性は罰を受け、「子供を守る」女性は報われるという、どちらかと言えばやや懐古的な母子関係に与しているかに見える。
 しかし母性の評価にかかわる映像記号はそれほど単純ではない。いま論じたのとは違うレヴェルにおいて、つまりリプリーと「女王エイリアン」の対立においては別様の「母子の物語」が語られているからである。
 巨大な「女王エイリアン」は植民地星の地下深くに営巣し、ひたすら卵を排出し続けるだけの生殖機械である。「女王」と遭遇したリプリーは火炎放射器で卵を残らず焼き払う。しかし「女王」は産卵管に繋縛されているために身動きならず、卵が破壊されるのを傍観するばかりで、それを阻止することができない。
 生殖に専念したために結果的に種族に壊滅的な被害が及ぶのを阻止できなかった「女王」。「家」に閉じこもって「育児」に専念していたために社会的能力を失ってしまった「母」。これは「過大評価された母子関係の否定的側面」を意味するだろう。
 産卵という任務から子供たちの死によって解放された「女王」は、ただ一人で侵略者リプリーと闘う。映画の最終場面で二人の「母」は一対一で激突することになるのだが、結果的には肉体労働の経験によって宇宙船内の機材の運用に習熟したリプリーが「女王」を船外に叩き出して勝負を決する。社会的スキルに習熟していない母性はここでも「働く女性」の前に一敗地にまみれる。
 表層における「母性賛歌」とはかなり矛盾する映像的なメッセージがここには盛り込まれていることが分かる。
 映画の中の母子関係とその記号的意味をもう一度図表化してみよう。
(1)「外で働いていたために、娘の死に目に会えなかった母親」であるリプリーは「母が外に働きに出て死んだために、ひとり放置された娘」であるニュートと擬似的な母子関係をもつ。(この説話群のメッセージは「母親が子どもを置いて外へ働きにでると、母子はともに孤独になる」である。)
(2)ニュートの墜落によって、リプリーたちは無用な危険を冒すことを強いられる。卵はエイリアンたちの集団の《弱い環》であり、産卵のために母親は身動きできず、そのため女王は焼死の危険にさらされる」。(この説話群のメッセージは「母子関係が緊密であると、母親は無用の危険に身をさらすことになる」である。)
(3)「娘の救出のためにリプリーは例外的に高度の戦闘力を発揮する」。「死んだ卵の報復のために女王は例外的に高度の戦闘力を発揮する」。(この説話群のメッセージは「母子関係が切り離されると、母親の戦闘能力は向上する」である。)
(4)「社会的スキルの運用に習熟したリプリー」が「情緒的に暴れ回る女王エイリアン」に勝利する。(この説話のメッセージは「外で働く母親は子供を幸福にする」である。)
 映像の記号はごらんの通り、さまざまな矛盾するメッセージを発信している。とはいえそれらのメッセージは均等に配分されているわけではない。劇場公開版においては、さきに述べたようにリプリーに娘がいたエピソードがカットされているばかりでなく、ニュートの両親が宇宙船探検にでかけてエイリアンを発見し、植民地星の全滅の要因を作るという部分もカットされている。つまり「外で働く母親は子供を幸福にしない」という説話的メッセージは「商業的な理由で」集中的に削除されているのである。(市場原理はつねに無意識的な淘汰圧として機能する。)
 一方、「母子関係が緊密であると、母親は危地に追い込まれる」というメッセージは「ニュートを寝かしつけるために添い寝しているうちにエイリアンの侵入を許してしまう」挿話や「ニュートが足を踏み外したために脱出のチャンスを逸する」挿話で執拗に強調される。
 そして「母子の別れ」は悲劇性を払拭され、むしろ劇的興奮を盛り上げるサスペンスとして功利的に活用される。「母子が密着していること」よりも「母子が離ればなれでいること」の方が生産的であり、母の能力開発にプラスであり、それが最終的には子どもの利益となるのだ、というメッセージが声高に叫ばれる。かくして、「外で働く女性」リプリーが「出産育児の専門家」である女王エイリアンを叩き潰して映画は終わる。
 ロビン・ロバートはこの映画が「二つの母性の葛藤」であることを正しく指摘した上で、これが「明確にフェミニズム的な映画」であると賞賛している。

 「キャメロンとハードによって提出された母性のヴィジョンは、確かに、女性の可能性を示し、母性の選択という新しい方法の実践によって、生物学から解放された女性のヴィジョンを示しているのである」(6)。

 ロバートはエイリアンが象徴する「生物学的母性」とリプリー=ニュートの体現する「養子型母性」の葛藤のドラマとして映画を解釈し、後者のうちにフェミニズムの希望を見いだしている。
 『エイリアン2』が「対等なパートナーシップ」に基づいた「新しい母性の定式化」に成功したというロバートの結論は同意しがたいけれども、この映画が「仕事をしようか、それとも子どもと家庭にとどまろうか」逡巡していた八〇年代のアメリカ女性たちに向けて、「母親が仕事をすればするほど子どもは幸福になる」というたいへん耳に快いメッセージを送ったことは間違いがない。

5・《憎悪の映像》

 法規範と言語に象徴される父権制社会の秩序を脅かす「おぞましきもの」としてジュリア・クリステヴァは「女性的なもの」を定義した。

 「われわれが《女性的なもの》という言葉によって指示するのは、生来の本質といったものではなく、名をもたぬ《他者》である」。それは「三角形を形成する父による禁止の機能を突き抜けた果ての、命名しえない一個の他者性」である(7)。

 命名しえぬもの、象徴界に穿たれた根源的喪失、コーラ、ル・セミオティック、「文化という象徴的な構造に対する、言葉で表現できない絶大な自然の力」……ラカン的なジャルゴンで飾られたクリステヴァの「女性性」論は、第三世界論やマイノリティ論とシンクロナイズするかたちで七〇-九〇年代のフェミニズムに鋭利な理論的武器を提供してきた。しかし、この理論はややもすると通俗的な「母性」主義に再利用されかねない危険をはらんでいる。
 もしクリステヴァが言うように、母性がそれほどに父権制秩序を紊乱する潜在的な力を秘めているのであれば、父権制社会の転覆のためには、キャリア・ウーマンとなって男性に伍してばりばり働くより、家で子供との間に濃厚な情念的関係をはぐくんでいる方が有効であることになってしまうからである。
 そのような母性主導的環境に育った男の子たちがうち揃って「セリーヌ=アルトー」的な人格形成(崩壊?)を遂げたら、なるほど父権制社会はがらがらと崩壊するだろう。しかしそれは父権制社会の崩壊というより、「市民社会そのもの」の崩壊を意味するのではあるまいか?市民社会そのものが消滅することによって、女性たちはどんな利益を得ることができるのだろう?
 市民社会の消滅は望まないが、母性的なものの復権は望むということだとすると、それは要するに「父権制社会のサブシステムとして母性的なものを認知して欲しい」ということにすぎないのではないのか?母性的なものはただ「父権制」と葛藤することによってはじめて生成的なものとして機能するというのなら、母性的なものは、結局、「パートナー」としての父権制の永続を願うようにはならないのだろうか? 
 これがフェミニズム本質主義に対する、ラディカルな反問のかたちである。 
モダン的な父権制イデオロギーを一蹴したあとのアメリカ・フェミニズムの次なる闘いは「実体化された女性性」という差異派フェミニズム思想の掃討戦であった。
 「多産な母」「自然な母」「地母神」的女性性、「アップル・パイと日向のにおいのするママ」の神話が一掃されなければならない。
 ロバートによれば、クリステヴァ的な母性(「象徴秩序の外に位置して」おり、「前言語的段階を表象する」母)は『エイリアン2』では「女王エイリアン」によって演じられている。リプリーはそれを殺すことによって近代的な意味での「女性性」の息の根を止めたことになる。
 「生殖」という行為に集約的に象徴される生物学的女性性に対するこの明確な否定が、八十年代中期以降のフェミニズムの新しい思潮を反映している。

 「女性を束縛しているのは、まさに彼女たちの〈女性性〉である(……)。だいたい、女性〈である〉などという状態じたいが、ほんらい存在してはいないのだ。それは性科学的言説や社会活動における論争史によって構築された複合カテゴリーにすぎない」(8)。

 〈サイボーグ・フェミニスト〉ダナ・ハラウェイは一九八五年にそう書いた。

 「サイボーグとは、解体と再構築をくりかえすポスト・モダンな集合的・個人的主体(セルフ)のかたちだ。これこそフェミニストたちがコード化しなければならない主体のありかたなのである」(9)。

 女性性を実体めかして語るというみぶりそのものが、父権制のサブシステムとして機能している以上、女性性、アブジェクシオン、ガイネーシス、といった神話的コンセプトを支えにしては父権制は打倒できない。そう自覚する新しいフェミニズム的知見が80年代にこうして登場してきた。映画はそのような社会的感受性のシフトを直観的にとらえている。
 だが「女らしさ」という社会的役割の拒否にとどまらず、「生殖」に象徴される生物学的女性性の拒否にまで踏み込んだ新しいフェミニズムの思潮に、当然のことながらアメリカ男性は深刻な危機感を抱いた。男たちはあらゆる種類の「女らしさ」を「歴史のゴミ箱」にこともなげに放り投げてゆく女たちに対して強い不安と恐怖を感じた。このような男性側の根深い不安とそこから分泌される強烈な悪意を映像的に表象してみせたのが『エイリアン3』である。
 一九九二年のこの第三作は前二作に比べると、あまりに暗く、あまりに希望がない。それは全編にみなぎる「女性嫌悪」(misogyny)の瘴気のためである。
 この映画で女性嫌悪はむろんフェミニストからすぐに指弾されるようなあからさまな仕方では表現されていない。それは隠微な仕方で、フェミニズムを「懐柔」し、それに「迎合」するような話型を通じて表現されている。
 それどころか、ある意味で『エイリアン3』は「フェミニストの理想を描いた映画」であるとさえ言えるかも知れない。なぜなら、そこには伝統的な意味での女性はもう存在しないからだ。この世界の女性はこれまで女性に帰属させられてきたすべての特性を脱ぎ捨て、剥ぎ取られている。「女性であるなどという状態じたいが、存在してはいない」世界、「女性が女性であることを止めた世界」をこの映画は描いているのである。ただし、「悪夢」として。
 映画はようやく脱出に成功した宇宙船が、潜んでいたエイリアンのために《会社》の所有地である囚人星に墜落するところから始まる。墜落で「娘」ニュートも海兵隊最後の生き残りヒックス伍長もアンドロイドのビショップも死ぬ。リプリー自身は冬眠中にエイリアンの卵を産み付けられた身体で一人生き延びてしまう。そして、二五人の性的凶悪犯と二人の看守だけが住む「男だけの星」でリプリーは三度エイリアンと闘うことになる。
 この映画でのリプリーは絶望的なまでに孤立している。彼女にはもはや何もない。守るべき娘はいない。前作における戦友であったヒックスは死に、ビショップは破壊された。宇宙船には近代的な装備があり、エイリアンを吹き飛ばす武器も望めば手に入ったが、この囚人星には斧より他には武器もない。これまでは冷静な判断力や果敢な行動力を備えた男女のサポーターがいたが、囚人星にいるのは性的な重罪犯と無能な看守だけである。
 これまであれほど懸命に闘ってきた女性が迎えるにしてはあまりに過酷な条件だ。しかしこの映画で冷遇されているのはリプリーの戦闘条件だけではない。これまでリプリーが体現してきた「女性性」のすべての指標もまた、この星では猛然たる攻撃にさらされることになる。
 映画は「女性性なるものはあってはならない」というメッセージを繰り返す。
 星に漂着したリプリーに対して所長は「この星は女性的なものが存在してはならない場所である」と告げる。この囚人星に収容されているのは「常習的・遺伝的な性犯罪者たち」である。「生まれついての性的暴力の愛好者たち」だけから構成される社会(これこそ父権制社会そのものだ)を自由に歩き回る女は暴力と災厄をもたらすだろう。じじつ彼女の出現は鎮静していた性幻想を解発し(リプリーは到着後ただちにレイプの洗礼を受ける)、彼女が「連れてきた」エイリアンは男たちをむさぼり喰う。女性の到来が「男たちだけの世界」に災厄をもたらしたのだ。
 映画の冒頭でリプリーは「シラミが多いから」という不自然な理由で髪の毛を刈られて丸坊主にされる。ストーリー上の必然性がないのに、女優がヌードになる映画は数多いが、ストーリー上の必然性がないのに美人女優がスキンヘッドになる映画はたぶんこれが最初だろう。
 女性の造形的な美しさに過剰な価値を賦与するのは父権制社会の特徴である。
 「女は美しくあらねばならない」という威嚇的な要請は、女性を性的対象として眺めている暴力的な視線に裏づけられているとフェミニズム批評は主張してきた。それを拒むこと、わざと自分の生得的な造形的美貌を毀損することは、論理的に言えば、性的対象として賞味され玩弄することを拒絶することである。
 「醜い主演女優」はその意味で画期的だ。女性の造形的な美、鑑賞用の美貌という抑圧的慣習に異議が申し立てられたのだ。もう女性が性的フェティッシュとして男たちのまなざしに捉えられることはない。
 丸刈りの頭、充血した眼、ぼろぼろの囚人服のリプリーは病的な性的犯罪者たちにとってさえ、もうあまり魅力的ではない。それは映画の観客にとっても同じことだ。私たちは彼女が画面に現れない時間をさしたる欠落感なしにやり過ごすことができる。
 映画の開巻に設定されたこの「ストーリー上必然性のない」断髪が暗示するように、この映画の中でヒロインは繰り返し制裁を受ける。髪を切るというのは女性の造形的な美しさに対する暴行である。フランスで対独協力者の女性が戦後髪を刈られた事実が示すように、女性の髪を刈るのは一種処罰的な含意を持っている。父権制社会の強要する「女らしさ」という抑圧的コードを一蹴した女は「失われたコード」の名において処罰されるのである。
 第三作でリプリーはシリーズではじめてセックスをする。
 リプリーは囚人星ただ一人の知識人である医師を相手に選ぶ。ただしこの性行為は、相手の疑念を封じ、相手から必要な情報を引き出すための一種のマヌーヴァーとして行われる。(かつてジェームス・ボンドが敵役の女性を篭絡し、情報を引き出すため性行為を活用したのと同じように。)
 最初に誘うのはリプリーである。彼女は性行為の主導権を握っており、自分の欲望をコントロールしている。相手の医者は性行為を通じてリプリーに対してなんらかの支配力を手に入れるどころか、行為のあとすぐにエイリアンに喰われ、現れたときと同じようにあわただしく消えてしまう。「セックスがすんだら相手が痕跡も残さずに消滅してくれる」のが性行為の主導者にとって一種の理想であるとすれば、これは女性が久しく夢見てきた理想のセックスに他ならない。
 「女らしさ」を拒絶した代償に、ヒロインは「理想の性生活」を手に入れる。情感も物語性も親密さも愉悦もない物理的な「セックス」。
 リプリーはこの映画で「妊娠」する。彼女があれほど憎んできたエイリアンの幼体を身体に寄生させてしまうのである。《会社》の手に体内のエイリアンを渡さないためにリプリーはみずから溶鉱炉に飛び込む。映画は墜落して行くリプリーの腹を喰い破って蛇状のエイリアンの幼体が飛び出し、呱々の声とも断末魔の悲鳴ともつかぬ叫びをあげるところで終わる。
 すでに検証したとおり、「体内の蛇」という『エイリアン』全編をつらぬく話型は「男性のエゴイスティックな自己複製欲望」に屈服することへの嫌悪と恐怖を伝えている。その屈折した感情がエイリアンとの闘争、あるいはエイリアンの卵の焼却といった物語的な迂回をたどって表現されてきたことは述べてきたとおりである。しかし『エイリアン3』において、妊娠と出産はもはや「物語的迂回」を経由することなしに、これ以上はないほどあからさまに「女性に対する性的攻撃とその拒否」として映像化される。
 リプリーは冬眠中に「不注意」から体内にエイリアンの卵を注入されてしまい「妊娠」する。彼女に「自己複製」を託したエイリアンは種族的配慮から彼女には攻撃を加えず生かしておく。しかしリプリーはエイリアンが自分を殺さないことを逆用して、エイリアンを焼き殺し、エイリアンの「子供」を誕生前に殺害する。
 リプリーを「妊娠」させたエイリアンとは要するに彼女の「夫」である。
 『エイリアン3』において種明かしされたのは、エイリアンとは女性を妊娠させ、自己複製を作らせようとする男性の欲望の形象化に他ならないという事実である。リプリーとエイリアンとの闘いは要するに「妊娠したくない女性と妊娠させようとするファルスの闘い」だったのである。
 考えてみれば、男性の本質を暴力的な侵入と見なすのはフェミニズムに基幹的な主張の一つであった。

「男性性のセクシュアリティの概念とは、女性性にとって暴力の介入と同義なのだ」(10)。

 『エイリアン3』はその主張をみごとに裏づけている。ただしフェミニストのテクストが事実認知的であるのに対して、映画のメッセージはむしろ行為遂行的である。この映画は男性性は本質的に暴力的であると「認知」しているのではなく、そう「宣言」しているのである。『エイリアン3』は「ファルスと闘う女性」の末路についての悪意にみちた予言である。
 自立を求める女性、男の子供をはらむことを拒絶する女性は、徹底的にファルス的な暴力にさらされ、子供を失い、友人を失い、美貌を失い、性生活を失い、夫を殺し、子供を殺し、自分も死ぬことになるだろう。この映画はそう予言している。ファルスと闘う女性はすべてを失うだろう。これがこの映画の発信するあからさまなメッセージである。そして、この映画の作り手たちは自分たちがそのようなメッセージを発信していることをおそらく自覚しておらず、それがアメリカの男性観客の「悪夢」を映像化してみせたのだということにも、おそらく気づいていない。

6・《物語》のために

 『エイリアン』というSFホラーは全編が性的なメタファーに溢れている。H.R.ギーガーがデザインしたエイリアンの頭部の完全にファルス的な形態や、その先端の開口部から垂れ落ちる半透明の粘液、襲撃の直前にぬらぬらと「勃起」してくる突起を思い出せば、エイリアンが男性の攻撃的な性欲の記号であることははじめから分かっていたことだった。
 どこからでも侵入し、不死身で、獲物の殺害と生殖しか念頭になく、《会社》の手厚い保護を受けたエイリアン。女性は「それ」とどう闘うべきかという切実で刺激的な主題をめぐって製作されてきたこのエイリアン・シリーズは、しかしながらここできわめてネガティヴで一面的な結論とともに幕を下ろした。
 《会社》(この宇宙に遍在する全能の組織体はもちろん「父権制社会」のメタファーである)の指示に従わず、妊娠・出産・育児を拒否し、女性的な徴候を身にまとうことを忌避してきた罪科によってリプリーは「殺される」。男に従わない女は罰される。それが第三作が下した「教訓」である。
 六000万ドルの制作費を投じたにもかかわらず『エイリアン3』は興行的には失敗し、批評も芳しくなかった。多くの批評家はこの映画の「ニヒリズム」と「寒々しさ」を指摘した。それが九〇年代アメリカの現実の性関係の「ニヒリズム」と「寒々しさ」をどの程度投影しているのか、私たちには分からない。
 しかし六〇年代以降「右肩上がり」に推移してきたアメリカのフェミニズムに対して、アメリカ男性の側に根深い悪意がわだかまってきていること、そして「父権社会の規範を無視して自由にふるまう女たちのもたらす災厄」を描いた物語が近年集中的にマイケル・ダグラス主演で映像化されているという徴候は指摘しておく価値があるだろう。(『ローズ家の戦争』The War of the Roses,1989 『危険な情事』Fatal Attraction 1987、『氷の微笑』Basic Instinct 1992、『ディスクロージャー』Disclosure1994、『ダイヤルM』The Perfect Muder 1998 )マイケル・ダグラスはこれらの一連の映画で、当代のハリウッド・スター女優を次々と「殺し」、男性観客にカタルシスを味あわせた。(「殺された」のは、キャサリン・ターナー、グレン・クローズ、シャロン・ストーン、デミ・ムーア、グイネス・パルトロゥ) 
 このような映像に「女性嫌悪」の徴候を指摘することはむずしいことではない。その背後にひそむ欲望や不安を暴露することも、それについて教化的な言説を編むことも、場合によってはそのような表現の規制を求めることもできないことではない。(『氷の微笑』に対しては上映禁止運動が試みられた。)しかし、そのような非難、批判、告発、暴露、断罪といったみぶりをいくら繰り返そうとも、「抑圧された悪意」はそれをより巧妙に隠蔽する別の物語を迂回してゆくだけで消失するわけではない。
 私は『エイリアン3』は駄作であると思うが、その理由は映画が「女性嫌悪」的だからではない。(前二作においても父権制社会における「新しい女性」への処罰という話型は繰り返されていた。)第三作が駄作なのは、それが「女性嫌悪」というメッセージ「しか」発信していないからである。
 単一のメッセージしか伝達できない物語は質の低い物語である。(それは「プロパガンダ」にすぎない)。矛盾するメッセージを矛盾したまま、同時に伝え、読みの水準を換えるたびに、そのつど別の読み筋が見いだせるような物語は「質の高い物語」である。
 「質の高い物語」は私たちに「一般解」を与えてくれない。その代わりに「答えのない問題」の下に繰り返しアンダーラインを引く。私たちは「問題」をめぐる終わりのない対話、終わりのない思索へと誘われる。
 大衆芸術としての映画はそのような仕方で現実的な矛盾を矛盾のまま提出し、その「解決」を宙づりにし、「最後の言葉」を先送りしてきた。もしマルクスが20世紀に生きていたらきっと「映画は人民の阿片である」と言っただろう。マルクスが言わなければ私が代わりに言ってもいい。「映画は人民の阿片である」。
 しかし私たちの欲望や不安はつきるところ「物語」として編制されており、それは「物語」として紡がれ、また解きほぐされてゆくほかないのである。
 私たちが映画に望んでいるのは「最終的解決」ではない。ラストシーンに私たちが見たいのは to be continued の文字なのである。


『ジェンダー・ハイブリッド・モンスター』


1・抑圧されたことば

 ある祝賀会の席で「それではみなさん、上司の健康を祝して乾杯(anstoβen)しましょう」と言うべきところで、「げろを吐きましょう(aufstoβen)」と言ってしまった紳士の話をフロイトは『精神分析入門』の冒頭で紹介している。
 私自身もこれと似た経験をしたことがある。むかし、ある中堅予備校(Cゼミナールという名前だった)の講師をしていたとき、講師慰労会の席で、理事長が「駿台、代々木ゼミナール、河合塾による全国の予備校系列化に抗して戦おう」と檄を飛ばしたあと、予備校界では高名なある老講師が乞われて乾杯の音頭をとった。そして笑みを浮かべつつ「それでは代々木ゼミナールのますますのご発展を祈念して」と祝杯をかかげたのである。会場は氷のような沈黙につつまれた。老講師は誰も唱和してくれないので、しばらくぼんやりしていたが、やがて誤りに気づいて、よろよろと壇から降りた。
 これらの事例が教えてくれるのは、私たちは「言い間違い」を通じて自分の「本音」を語るということである。「げろ」紳士は「上司にげろを吐きかけてやりたい」と願っており、老講師はただしくCゼミナールの没落を予見していた。しかし、この本音はいずれも彼らの社会的立場と整合しないので抑圧される。抑圧された「本音」は、ちょうど堰き止められた水流が別の水路を迂回して流れ出すように、夢、妄想、神経症、あるいは「言い間違い」のような「症候」として再帰することになる。

 「症候とは抑圧によって阻止されたものの代理物である。」(1)

 こんにちのアメリカ社会はハリウッド映画に対して法外なほどの「政治的な正しさ」(politically correctness)を要求している。女性差別、人種差別、民族差別、宗教差別、障害者差別、あらゆる種類の差別は許すべからざる社会的不正として断固として映画から追放されねばならない。アメリカというのは、このような「正義の要請」が空疎な訓話にとどまることなく、ヘイズ・コードや州単位でのカットや上映禁止といった具体的な圧力を通じて、映画製作そのものに効果的に関与してきた国である。したがってアメリカのフィルムメーカーは、「儲かる映画を作れ」とせっつく製作者や「面白い映画を見せろ」と騒ぐ観客に加えて「ポリティカリーにコレクトな映画を作れ」という知的な批評家からの要請にも応えてゆかなくてはならない。おそらく世界でハリウッド・メジャーのフィルムメーカーほど過酷な社会的圧力のもとで仕事をしている人々はいないだろう。
 しかし、いかにコレクトなフィルムメーカーとはいえ、必要以上に立派にふるまえば、それだけ抑圧するものは多くなり、表現を拒まれた欲望や不安は「症候」として映像に回帰することになる。これらの「症候」は、表層的にはポリティカリーにコレクトな設定で展開する映画の周縁あるいは細部に、ストーリーともテーマとも関係のない映像記号としてさりげなく露出している。それは主要人物の背景にかすむぼやけたシルエットであったり、登場人物の人名や地名であったり、背景の装飾や小道具であったり、誰も聞いていないBGMであったりする。それらの記号はそれ自体としてはほとんど意味をなさない。ただ「なんとなく場違い」であったり、「なんとなく執拗」であったり、「なんとなく過剰」であったりする、という仕方で標準値から差異化しているだけである。
 映画のイデオロギー性の査察を専門にする知的な批評家たちは、映画のプロットや主題や主人公の性格設定や監督のメッセージなどに焦点を合わせて映画を「批評的に」見る。彼らはスクリーンの「背後」にあるメッセージや、「隠された主題」の検出に選択的に意識を集中させている。
 それに対して、ふつうの観客は、映画のテーマにもストーリーにも登場人物の内面にもほとんど関心を持たない。彼らはただぼんやりとスクリーンをながめている。けれども映像の背後を見透かす集中力に欠けている代わりに、彼らは映像の表層に露出する症候には敏感である。これについてはジャン・ポーランが『タルブの花』に含蓄深い言葉を書き残している。

 「ある種の光は、それをぼんやり見ている人には感知できるが、凝視する人には見えない。ある種のみぶりは、なんとなく力を抜かないとうまくやり遂げられない。(例えば星を眺めるときや、手をまっすぐに延ばすときがそうだ。)」(2)

 ドイツ軍の検閲下にガリマール書店から刊行された『タルブの花』で、ポーランは「政治的メタファーを駆使して、文学を語っている」かのように偽装しつつ、実は「政治用語を駆使して、政治を語る」というアクロバシーを堂々と演じてみせた。巻末のこの一節でポーランは自著の読み方を読者に教えているのだが、メタファーを深読みした文学通の検閲官は、これが反ドイツ的な政治パンフレットであることに最後まで気づかなかった。
 ほんとうに言いたいことは表層に露出している。映画についてもたぶん同じことが言えると私たちは思う。ぼんやりした観客だけが見つけられ、目を凝らしている批評家が見落とすものがある。
 ジェンダーとエスニシティにかかわる倫理コードが八〇-九〇年代のハリウッド映画にとって「検閲」として機能していることは否定しようのない事実である。女性差別と人種差別にかかわる「本音」をスマートなフィルムメーカーは決して語らない。攻撃的な性的欲望や女性嫌悪あるいは非白人種に対する差別は「自己検閲」によって周到に排除される。だが、抑圧された心的過程は消え失せたわけではない。それは症候として必ず映像の表層に回帰する。

 私たちはさきに『エイリアン・フェミニズム』という題名の論考において、一九七九年から一九九二年にかけて製作され、大きな商業的成功を収めた『エイリアン』シリーズ三作を物語論の視点から分析した。そのとき、私たちはこの連作の中心にあるのは、「体内の蛇」という説話的原型であるとするハロルド・シェクターの仮説から出発した。(3)
 一九七〇年代の終わりにこの説話原型は『エイリアン』として蘇った。この「体内の蛇」話型の復活はアメリカにおけるラディカル・フェミニズムの興隆期と同調していた。夫に仕え、不払いの家内労働を担い、子供を産み、育てるために存在するような依存的な生き方を否定し、自己実現のために自立して生きたいという強い指向がこの時期のアメリカ女性のあいだにみなぎった。だから、「自立する女性」リプリーが男性の自己複製欲望の記号である「蛇の怪物」とただひとりで戦い、それに勝利する物語は、当時のアメリカ女性の自立志向のたかまりにジャスト・フィットしたのである。
 エイリアンが表象する男性の攻撃的性欲と女性はどう闘うか。この切実で刺激的な主題をめぐってシリーズは製作されてきた。そしてそれは同時に、フェミニズムの「検閲」によって抑圧された男性の性的欲望と、激しい女性嫌悪が、つぎつぎと「偽装」のうちに再帰する、プロテウス的変身の歴程もあった。

 『エイリアン』はプロットの上では、フェミニズムの「検閲」をクリアーするきわめてコレクトな映画であるが、その一方で、エイリアンの造型にはっきり見て取れるように、映像的な水準では、男性の「インコレクト」な性欲があからさまに、執拗に描き出されていた。
 サイエンス・オフィサーのアッシュがリプリーに暴行をふるう場面では、「セクシスト的空間」の中で、彼女の口に擬似的な男性器「挿入」されるし、半裸のリプリーを攻撃するために身を起こすときのエイリアンの頭部のシルエットはあからさまに勃起した男性器をかたどっていた。アンドロイドであるアッシュも、エイリアンも「男性」ではない。だからプロットの水準では、これらのシーンが性的攻撃を「意味する」ことはありえない。しかし、「ぼんやり映画を見ている」男性の観客は、彼らの抑圧された攻撃的性欲を直接的にみたすのに十分エロティックな映像的表現をあやまたずスクリーンの上に見出すことができたのである。

 『エイリアン2』は成功した「女性映画」(少し意地悪く言えば「女性観客から金を搾り取る映画(feminine exploitation movie)」)だった。この映画はフェミニズムの対立する二つの陣営(ラディカル・フェミニズムとフェミニズム本質主義)から課された二種類の「検閲」をのがれるために、両方の要請に同時に応えるというアクロバシーを演じてみせた。
 この「二つのフェミニズム」の葛藤は、八〇年代に入って、「フェミニズム本質主義」というあらたな思潮が出現したことに始まる。フェミニズム本質主義とは、女性性を本質的なものとして認め、その逆説的優位性を説く立場である。
 フェミニズム本質主義によれば、女性は「帝国主義国家対植民地」、「抑圧者対被抑圧者」、「中心対周縁」、「文明対自然」といった二項対立図式の、後の項に固定される。女性は被搾取者であり、被抑圧者であり、踏みにじられた大地であり、汚された母なる自然である。それゆえ、女性は(かつてプロレタリアートや民族解放闘争の戦士がそうであったように)その政治的な負性の代償に「正義」の請求権を手に入れる。
 「差別されてきたものだけが弱者の痛みを理解できる」、「周縁に排除されてきたものだけが制度への異議申し立てを行いうる」といったツイストの利いたロジックによって女性性の優位を説いたこの理説は(イリガライ、クリステヴァらの「フランス・フェミニズム」に理論的に依拠しつつ)八〇年代のアメリカにおいて、それまで過度に貶められてきた母性や育児や家事労働や家庭の価値の見直しへと女性たちを導くことになった。
 上野千鶴子によれば、この「転向」をもたらした理由のひとつは、ラディカル・フェミニズムの担い手たちがこの時期に「母になる生物学的タイムリミット」を迎え、「七〇年代にはキャリアの確立を優先した女性やレズビアンの女性たちが、八〇年代になって三〇代のかけこみ出産ブームをつくった」ことにある。「彼女たちは男性との関係には希望を抱いていなかったが、母性の価値を捨てようとは思わず、八〇年代アメリカのフェミニズムは母性と家庭の価値の再評価に向かった。」(5)
 
 キャリア指向か家庭回帰か?八〇年代フェミニズムが直面したこの緊急な問いに『エイリアン2』はみごとな映像的回答を提出して、大きな商業的成功を収めた。
 キャメロンは二種類のフェミニズムから課された「検閲」を同時にクリアーするという離れ業を演じつつ、『エイリアン』の場合と同じく、男性観客のためのささやかな悪意のスパイスを映像の細部に仕掛けてみせた。『エイリアン2』は、どちらにせよフェミニストが手に入れられた「家庭」がどのようなものでありうるか、そのモデルを映画のラストで映像化してみせる。それは「母親」でありかつ「キャリア・ウーマン」であるリプリーと、そのレプリカであるニュートが作る疑似的母子関係に二人の「不能の男性」を配した聖家族である。
 マイケル・ビーン演じるヒックス伍長は外見的にはマッチョであるが、断片的な映像が繰り返し示すとおり「視る能力のない」男である。彼は「暇さえあれば眠る男」として登場する。エイリアン掃討戦のあいだ彼が口にする言葉は「どこにいる!見えない!」であり、医務室でエイリアンに襲われたリプリーが救援を呼ぶときにはモニターを見落とし、リプリーと女王エイリアンの戦いのときには麻酔を打たれて眠っており、映画の最後の人工冬眠器に収まるシーンでは目を包帯に覆われて横たわっている。
 ヒックスについてまわるこの執拗なまでの「視る力の欠如」は「不能」の記号と解釈することができる。フェミニズム映画論の文脈では、「視る」とは「支配する」の同義語であり、「女性を見る男性の視線」―「三重の男性的視線」(triple male gaze)すなわちカメラの眼、俳優の眼、観客の眼―は窃視的暴力そのものであるとされる。だとすれば「視ることのできない男」ヒックスの男性性は映像的に「去勢」されていたことになる。
 アンドロイドのビショップ(ランス・ヘンリクセン)も別の意味できわだって「非男性」的な存在である。彼は無性の人造人間であり、その男性的外見は単なる仕様にすぎない。彼はクルーの全員から「無償の労働」と「死を顧みない献身」を当然の仕事として期待されており、その卓越した遂行能力を評価し感謝するものは(映画の最後でのリプリーを除いて)一人もいない。ビショップが担っているのはまさに「不払い労働」であり、彼の労働が「不払い」であるのは、その生産物に交換価値がないからではなく、単に彼が「低い序列」に類別されているからにすぎない。つまり、ビショップは外見的には「男性」だが、その社会的役割は完全に「女性ジェンダー化」しているのである。それゆえ、その宿命にふさわしく、ビショップは女王エイリアンの男根状の剣尾で深々とさし貫かれて、引きちぎられることになる。フェミニストたちにとっての「理想」の家庭、それは非血縁的=同志的な母子関係に「不能の男たち」がからみつくようなかたちで構成されるだろうと『エイリアン2』の図像学は告げている。

4・
 
 八〇代中盤からフェミニズムは再び変貌を遂げた。それは女性性を実体めかして語ったフェミニズム本質主義への鋭い批判として語り出されるのだが、それを準備したのは医学上の新たな知見であった。
 それまでのフェミニズムはジェンダーという文化的性差を痛烈に批判しながら、セックスという生物学的性差は価値中立的な事実としてそのままに受け容れてきた。しかし、内分泌学は、男女の性別というデジタルな性差は、実は性ホルモンの分泌量というアナログで連続的な変化の途中に恣意的に引かれた境界に他ならないという考え方を私たちに伝えた。同じように、解剖学は外性器についても二項対立的な性差は存在せず、誕生後に外性器が矮小化したり、肥大化したりすることはまれでないし、両方の性器が発達するandrogynousも存在することを教えている。いずれの水準でも、自然界に見られるのは、多様性と連続性だけであり、デジタルな性差なるものは科学的事実としては存在しない。セックス・ボーダーは人間の作り出した仮象にすぎなかったのである。
 では、なぜセックスはそれにもかかわらず、これまで「自然な」二項対立として観念されてきたのだろうか?
 性同一性障害という事例がその問いに答えの手がかりを与えてくれた。
 性同一性障害とは、自分の生物学的セックスとジェンダー・アイデンティティが一致しない症候のことである。仮に生物学的には「男性」であると認定された人が、ジェンダー・アイデンティティとしては「女性」を自認している場合、この違和感を解決するには二つの可能性がある。「あっちへ行く」か「こっちへ戻る」かである。さて、「彼」はどちらを選ぶだろう。セックスに適合すべく「男性として生きる」ことに努めるか、ジェンダーに適合すべく「女性として生きる」ことか?
 臨床例が教えてくれるのは、ほとんどの性同一性障害者は、自分のセックスに違和を覚え、異性のジェンダーに親和するという事実である。多くの性同一性障害者は、性器切除や造膣術など高額の出費と苦痛をともなう身体加工手術に耐えてまで、異性のジェンダーに自分をなじませる道を選んでいる。つまり、文化的な制度であるジェンダー・アイデンティティは生物学的セックスに優先するのである。
 私たちは『とりかへばや物語』から『ベルサイユのばら』まで、ジェンダー・アイデンティティのゆらぎにかかわる多くの物語を持っている。それらの物語が教えてくれることもまた、性同一性障害者の事例と一致する。それは、個人のレヴェルでは、どのジェンダーを選ぼうとも、いずれかのジェンダーを選んだものは必ずジェンダー構造の強化に奉仕するということである。
 性差の境界を超越する者は、「男」を選ぶときは、因習的な仕方で男性的となり、「女」を選ぶときは因習的な仕方で女性的となる。おのれを閉じ込めているジェンダーの壁を超えようとするものは、「壁の反対側」に安定的に帰属することを望んでいるのであって、壁の解体を望んでいるわけではない。ジェンダーに関する限り、「越境」によって壁は破壊されるのではなく、強化されるのである。
 かかる知見に準備された知的風土から出発して、フェミニズムの刷新を果たしたのがクリスティーヌ・デルフィである。ジェンダー・アイデンティティにおいて、ジェンダーがセックスより優位であるのは、セックスという概念それ自体がジェンダーによって事後的に作られた仮象だからであるという大胆な仮説をデルフィは立てたのである。

 「手短に要約するならば、私たちはジェンダー―女性と男性の相対的な社会的位置―がセックスという(明らかに)自然的なカテゴリーにもとづいて構築されているのではなく、むしろジェンダーが存在するがために、セックスが関連的事象となり、したがって、知覚対象のカテゴリーになったのだと考える。(…)私たちは抑圧がジェンダーをつくりだすと考える。つまり、論理的には、分業の階層的序列が技術的分業に先立って存在していて、この序列が技術的分業、すなわちジェンダーと呼ばれる性的役割をつくりだしたのだと考える。そして、人間の階層的な二分割が解剖学的差異を社会慣行に適合した区別に変化させるという意味において、今度はジェンダーが解剖学的セックスをつくりだしたのである。社会慣行が、しかも社会慣行のみが、一つの自然的事象を思考カテゴリーに変化させるのだ。」(6)

 デルフィによれば、社会の二極への分割は(そう信じられているのとは逆に)階層分化→分業→ジェンダーの差異化→セックスの差異化という順に進んでいる。生物学的性差は差別の「起源」ではなく、「階級」社会のイデオロギー的「産物」だったのである。
 一読しておわかりだろうが、フェミニズムにおける最新の知見は、意外なことに、私たちの世代にとってはきわめて「懐かしい」語法で綴られている。デルフィはフェミニズム本質主義のイデオロギー性を批判してこう書いている。

 「自然界との関係というものは存在しない(…)人間どうしの関係を事物どうしの関係あるいは事物との関係に見せかけるというのは、ブルジョワ・イデオロギーの明白な特徴である。」(7)

 『ドイツ・イデオロギー』にはこう書かれている。

 「諸個人が彼らの生活を表出する仕方は、すなわち彼らが存在する仕方である。したがって、彼らが何であるかは彼らの生産に、すなわち彼らが何を生産するか、ならびにいかに生産するかに合致する。」(8)

 この文章の「彼らが何であるか」を「彼らの(ジェンダーが)何であるか」と書き換えれば、マルクスの命題はそのままデルフィの命題に一致する。
 あるいは、「分業とともに、精神的活動と物質的活動が―享受と労働が、生産と消費が別々な個人の仕事になる可能性、いな現実性が与えられる。(…)それらが矛盾におちいらずにすむ可能性はただ分業がふたたびやめられることのうちにのみ存する」(9)という一節の中の「個人」を「ジェンダー」に書き換えても同様である。
 デルフィにおいて、フェミニズムはいわば一五○年かかってマルクスに回帰したのである。デルフィのマルクス主義的フェミニズムによれば、ジェンダーは階級社会に起因するものであり、それゆえジェンダーの廃絶は階級社会の廃絶と同時的に達成される。(レーニンを信じるなら、それは「ブルジョワジーの暴力装置である国家の廃絶」をも意味するだろう。)事実、デルフィはこう断言している。
 
「さしあたり言えるのは、家父長的生産・再生産システムが廃絶されないかぎり、女性は解放されないだろうということである。このシステムは(どんなふうに生じたにしろ)現に知られている社会すべての中核をなしているのだから、女性の解放のためには、現に知られている社会すべての基礎を完全にくつがえす必要がある。この転覆は革命なしには、すなわち、現在他の人間に握られている、私たち自身を支配する政治的権力を奪取することなしには実現できない。」(10)

 美しいほど明快だ。ここにはもう女性性や母性についての幻想はあとかたもない。性にかかわるすべてのイデオロギー的仮象は消え失せ、主人と奴隷の間の剥き出しの権力闘争という社会関係だけが残る。
 この政治的・唯物論的フェミニズムを通じて、アメリカ映画は「フェミニズムの顔をしたマルクス主義」のつきつける知的・倫理的な「検閲」に直面することになった。およそ知的であろうと望むフィルムメーカーはこの「検閲」をクリアーする映画を作らなければならない。
 さいわい唯物論的フェミニズムのひとつのトピックが製作者の投資意欲と監督の作家的想像力を刺激した。それは「デジタル・セックスのアナログ化」というSF的仮定である。ジェンダーが解体し、二極的セックスが無効になるとき、私たちの眼前にはおそらく人類がこれまでに見たこともないアモルファスでカオティックな「連続体としてのセックス」が展開するに違いない。『エイリアン3』と『エイリアン4』はこのSF的想定から生まれた。


 「検閲」に対するもっとも常套的な反抗は、「過剰に迎合」してみせることである。『エイリアン3』において、女性嫌悪はフェミニズムを懐柔し、それに迎合する話型を通じて吐露された。ここで描かれたのは、因習的な意味での女性ジェンダーがもはや存在しない世界、「女性が女性であることをやめた世界」である。リプリーはそれまでの二作で彼女にまとわりついていたわずかばかりの女性性をことごとく剥ぎ取られる。
 リプリーはこの作品の中ではじめてセックスをするが、その場面からエロティックな要素は周到に排除されている。囚人たちによる未遂に終わるレイプは性的欲望よりもむしろ憎悪によって駆動されており、合意の上のセックスは二人の痩せた病人が寝ているようにしか見えない。
 もし男性の欲望を喚起することが女性の性的「魅力」であると解釈するのが因習的なジェンダー構造の特性であるとしたら、この映画はみごとにそれを無効化することに成功した。リプリーはこの映画の中で、いかなる意味においても「魅力」的ではないからだ。彼女は囚人星の全員にとって最初から最後まで「厄介者」「嫌われ者」であり、この映画の中で彼女が説明や助力を求めた相手は例外なしに(ゴミ捨て場にうちすてられたビショップの残骸までも)その申し出を拒絶する。
 リプリーが彼女を「妊娠」させたエイリアンを焼き殺し、胎児を「中絶」し、溶鉱炉に身を投じて映画は終わる。ある研究者によれば、この結末は映画文法的に予見可能であったということになる。というのは、「子どもの扶養者は決して死なない」ということと「純潔でない女はモンスターに殺されてもしかたがない」はハリウッド・ホラーの不文律だからである。
 『エイリアン2』の終幕で、「リプリーは母であり(負傷し、無力な海兵隊員ヒックスの)『妻』の資格で生き延びたわけである。『本当の女』は生きる。なぜならハリウッドは子どもが母親の保護を受けずにいることには耐えられないからである。」(11)
 リプリーが生き延びたのがその理由によってであったとすれば、保護すべきニュートと死別し、医師と性交し、エイリアンの「子ども」を「中絶」したリプリーに生き延びるチャンスがあるはずはなかった。
 『エイリアン3』は「女性性の否定」というフェミニズムのラディカル化に寄り添うような設定をしつらえながら、実際にはそのような趨勢への嫌悪感をあからさまに映像化したためにきわめて後味の悪い映画に仕上がった。
 しかしハリウッドはSFホラー+フェミニズム映画という、シリーズが開拓した有望なマーケットをこんなふうに消滅させるわけにはゆかなかった。「デジタル・セックスの解体」はもう一度希望の語法で語られなければならない。かくしてハリウッドは死んだ主人公を秘術を尽くして蘇生させ、『エイリアン4』を世に送ることになったのである。

 リプリーが溶鉱炉に身を投じてから二〇〇年。死体から採取された血液と体組織の断片から抽出されたDNA操作によってエレン・リプリーは「復活」する。
 宇宙船オリガ号の中の実験室でリプリーを死から呼び戻した科学者たちの狙いは、死の直前に彼女に「寄生」し、誕生をまぢかにしていた女王エイリアンの胎児を蘇生し、摘出することである。宇宙船の指揮官ペレス将軍は、リプリーの胸部を「帝王切開」して取り出された女王エイリアンが産卵するエイリアンたちを訓練し、宇宙最強の生物兵器として編制するという野心的な計画を抱いている。実験用に生かされることになったリプリーは、エイリアン遺伝子の影響で、異常なスピードで成長をとげ、超人的な運動能力を発揮するようになる。
 エイリアンたちはやがて檻を破り、乗組員たちは次々と惨殺される。混乱の中でリプリーは、エイリアンの「餌」を密輸してきた海賊たちとともに宇宙船内を脱出艇めざして彷徨する。そしてエイリアンの営巣地に迷い込んだリプリーは、そこで人間とエイリアンの遺伝子をあわせもった新世代エイリアンを出産しようとしている女王エイリアンと対面することになる……
 誰にでも分かるように、第四作の主題は「雑種」(ハイブリッド)である。印象的な登場「人物」の多くは雑種である。リプリーと女王エイリアンが産み出した新生命体(Newborn)はともにエイリアンと人間の「混血」である。リプリーを暗殺するために海賊船に乗り込んできたコール(ウィノナ・ライダー)は女性型アンドロイド、海賊船の技師ヴリスは人間と機械のハイブリッド、地獄巡りをともにする「エイリアンの餌」用人間ラリーはすでに腹の中にエイリアンを仕込まれている。ここでは人間と異星人、人間と機械の間の境界は限りなく曖昧である。
 映画の主人公の二人の「女性」、リプリーとコールは、厳密には「女性」でもなければ「人間」でもない。コールは人間の感情と思考パターンをインプットされた(「人間よりも人間的な」)アンドロイドであり、リプリーはエイリアンを受胎したまま死んだ女のクローン、つまり人間とエイリアンの二種族双方の遺伝情報を組み込んだ雑種生命体である。
 「人間であり同時にエイリアンである」というリプリーの設定はこのシリーズ固有の文法に従って解読すれば、「女であり、同時に男である」生命体を意味する。父親も母親もなしに実験室で「孵化」し、男女の性的境界を無化するジェンダー・ハイブリッドであるリプリーについてシガニー・ウィーヴァーはこう語っている。

 「今回のリプリーはもっとサバイバル向きの女で、前よりずっと冷血よ。人間は哺乳類で、哺乳類の脳の奥には冷血動物の脳がひそんでいて、冷血動物の脳が貪欲な食欲を持っている。リプリーはその貪欲な脳に支配されて、貪欲な動物になってしまった。生に執着して、サバイバルのために冷血に行動するのよ。彼女の中にあるものが彼女を冷血な行動に駆りたてる。彼女がどんな存在であれ、人間としての彼女はすでに死んでいて、彼女はエイリアンとして生き延びていく。ここが重要なのよ。」(13)

 『エイリアン4』のリプリーは単に「女性性を欠く」というような生やさしい存在ではない。リプリーはすべての「男性的攻撃」をやすやすとはねかえす。科学者の首を締め上げ、海賊船の巨漢たちをバスケットボール一個でぶちのめし、鉄の扉を素手でこじあけ、エイリアンを撃ち殺す。
 『エイリアン』では自立指向がリプリーを駆動していた。『エイリアン2』では御しがたい母性愛がリプリーをとらえていた。『エイリアン3』では「女性的であってはならない」という否定命令が課されていた。しかし『エイリアン4』のリプリーには、男性的エートスも、女性性も、母性のしがらみも、「女性性」の否認義務も、およそ「性」にかかわる当為は何ひとつ存在しない。「敵を殺して、生き残る」ことだけが彼女の唯一の行動規範である。その意味では彼女はこの映画ではじめてジェンダー・フリー、モラル・フリーな存在として描かれたことになる。
 性的幻想のみならず、血縁幻想からもリプリーは完全に自由である。
 船内を暴れ回るエイリアンたちは外宇宙から飛来した異星人ではなく、発生的にはリプリーの「胎内」から取り出された女王エイリアンの子供たちである。だから(映画の中では「あんたの兄弟姉妹」というふうに呼ばれているが)ただしくはリプリーの「孫たち」に相当する。つまりリプリーのエイリアン退治は親族名称を使って言えば「祖母による孫殺し」なのである。
 『エイリアン2』で「家庭回帰する母性」の記号として存分に悪役ぶりを発揮した女王エイリアンも今回は影が薄い。リプリーから得た遺伝情報のおかげで、胎生動物に「進化」し、「エイリアンと人間の雑種生命体」ニューボーンを産み落とした彼女は、せっかく腹を痛めて産んだばかりの子供にいきなり頭を叩き潰されて絶命する。
 そのニューボーンはなぜかリプリーを慕ってすり寄ってゆく。(どうしてエイリアンの「母」を殺して、人間的な「祖母」を慕うのかは説明されない。)けれども、この「祖母」は逡巡なく「孫」を細切れにして宇宙空間に放り出す。
 「子による母殺し」と「祖母による孫殺し」によって親子関係のラインがきれいに精算されたあと、すべての性的、種族的なしがらみから解放された二体のハイブリッド生命体、リプリーとコールが窓の外に見える青い地球をみつめている場面で映画は終わる。
 私たちはさきに、この映画の基本的な主題が、ジェンダー構造が解体し、デジタル・セックスが無効になるとき、私たちの眼前に展開するはずの「人類がこれまでに見たこともないアモルファスでカオティックな連続体としてのセックス」であると書いた。このプランは「雑種交配」による既存のあらゆるジェンダー構造、親族的エートスの消滅として、たしかに映像化されたと言ってよいだろう。ここにはもう男も女も親も子もいない。
 映画は最後で、リプリーとコールの間に成立した連帯とそれがもたらすはずの来るべき共同体を暗示している。リプリーはエイリアンと人間のハイブリッドであり、コールは人間と機械のハイブリッドであるから、彼女たちがかたちづくる共同体は、エイリアン/人間/機械の三つの領域の癒合体ということになるだろう。そもそもH・R・ギーガーによるエイリアンの最初のデザイン・コンセプトが「マン/マシーン共生ユニット」(バイオメカノイド)であったことを思い出すと、この三領域はきれいなループを構成したことになる。つまりエイリアンと人間と機械は、『ちびくろサンボ』の虎たちのように、お互いのデジタルな尻尾を追っているうちにいつのまにかアナログな「バター」になってしまったのである。
 ジェンダー解体を求める唯物論的フェミニズムの要請に対して、ジャン=ピエール・ジュネは、男も女も母も子もみんなまとめて「バター」にしてみせた。これはある意味では唯物論的フェミニズムの「検閲」に対する「模範回答」である。しかし、エイリアン・サーガの先行作品と同じく、ジュネもまた濃厚な悪意の映像を仕掛けることを忘れなかった。

 リプリーの腕には「8」という入れ墨が入っている。その意味はやがて明らかにされる。リプリーは船内探索の途中、ある実験室の中に「リプリー一号」から「リプリー七号」までの「標本」(七号はまだ生きているが、あとはホルマリン漬け)が陳列してあるのを発見する。クローンの「失敗作」であるこの七体はリプリーとエイリアンの「雑種」の考え得る限りもっともおぞましい姿のカタログである。リプリー八号は「殺して」と訴えるリプリー七号の求めに応えて、すべての「姉妹たち」を涙ながらに火炎放射器で焼き殺す。
 リプリー8号は造形的には人間であり、能力と感性に「エイリアンが入っている」という設定であるので、ヴィジュアルな水準では(やたらに力が強いのと、血が強酸性であることを除くと)前景化しない。しかし「ニューボーン」と七人の姉妹たちは、造型的にも異種混合である。ハイブリッドの本質はこのとき映像のレヴェルできわめて効果的に語られる。
 もしシガニー・ウィーヴァーが言うように、半ば人間であり、半ばエイリアンであるような存在となったリプリーが主人公を演じるべきなら、リプリー七号(女性とエイリアンがぐちゃぐちゃまじっている)にもこの映画の主人公になる権利はあったはずである。しかし、七号にはそのチャンスが与えられなかった。なぜか。理由は簡単である。
 気持ちが悪いからだ。七号は「エイリアンそのもの」よりも遙かに醜悪であり奇怪な「怪物」である。少なくとも観客にはそう感じられる。
 「怪物」とは、「怪物」という独立したカテゴリーに帰属するものを指すのではない。複数の種族の属性を同時に備えているようなものを私たちは「怪物」と呼ぶのである。
 キマイラ、スフィンクス、グリフォン、「ぬえ」といった伝説的な怪物は、さまざまな動物のパーツからなる一種のコラージュである。フランケンシュタインの怪物は人間と非人間の境界におり、狼男は自然と文明の境界におり、屍鬼や吸血鬼や死霊たちは「幽明の境」に蟠踞する。見世物小屋をにぎわすフリークスたち(蛇女、たこ娘、半魚人、髭娘)はそれぞれ二つの種の混淆体である。人間の想像力が生み出した怪物たちはすべて「カテゴリーの境界線を守らぬものたち」である。
 なぜ境界線を行き来するものは私たちを恐怖させるのか?
 その理由をレヴィ=ストロースは簡潔にこう述べている。「いかなるものであれ分類はカオスにまさる。」(14)
 古来、人間は二項対立によるデジタルな二分法を無数に積み重ねることによって、アナログでアモルファスな世界を分節し、記号化し、カタログ化し、理解し、所有し、支配してきた。それは「野生の思考」からコンピュータにおける「ビット」の概念まで変わらない。「アナログな連続体をデジタルな二項に切りさばく」のが人間の思考のパターンである。それが「知」であり、それによって構築されたものを私たちは「文明」と呼んでいる。これまで人間はそのようにして生きてきたし、たぶんこれからもそのようにして生きてゆくだろう。
 そうである以上、デジタルな対立を無効化してアナログな連続性を回復しようとするハイブリッドに嫌悪と恐怖を覚えるのは、「人間として」当然の反応なのである。
 私たちはハイブリッドを「怪物」として恐れ、嫌い、排除する。それは人間の社会がカオスに線を引くことによってはじめて成立するからである。「Aであり同時にBであるもの」を人間の文明は許容しない。
 「そのような分節は人間が勝手に作り出した擬制にすぎない」という異議は正しい。しかし、「人間が勝手に作り出さなかったら誰が文明を作るのだ」という反論も同じように正しいと私たちは思う。「文明」とは要するに境界線なるものを仮構して、連続性を二項対立に読み替える詐術に他ならないのである。
 リプリー七号までの姉妹たちは「文明化」に失敗し、八号がはじめてそれに成功した。彼女は精神的内面においてエイリアンであり、肉体的外面において人間である。境界線は「エイリアン的内面」と「人間的外面」の間に仮構されている。二つの血統を「内面」と「外面」に詐術的に分離することによって、リプリー八号は文明化をなしとげた。それゆえ私たちは彼女を「怪物」ではなく「人間」として認知するのである。
 物語の水準では、リプリーとコールは、エイリアンと人間と機械の境界線を無化したはずでだった。しかし、リプリーはエイリアン要素を、コールは機械要素を「内面」に閉じ込めている。異族との境界線は「内面」と「外面」という垂直的な境界線に置き換えられることで延命を果たしたのである。
 エイリアン/人間/機械の種族境界線は「バター」になって消滅したはずであった。たしかにプロットのレヴェルでは、デジタル・ボーダーは完膚無きまでに破壊された。しかし、映像の表層では、カオスを防ぎ止める境界線はあらわに前景化している。破壊されたはずのボーダーは、美術スタッフの力作である「ニューボーン」と「姉妹たち」の造形的な醜さと、シガニー・ウィーヴァーとウィノナ・ライダーの造形的な美しさがもたらす視覚効果として強固に再構築されたのである。
 アモルファスな世界にデジタルな境界線を引くものだけが生き残る。
 このメッセージは、ここでもまた「怪物」を気持ち悪いと感じ、二人の女優の「美貌」にみとれる「ぼんやりした」観客たちだけに伝達されたのである。

 高橋源一郎は政治と文学の関係について次のように書いている。
「『政治』は『文学』と対峙する時、必ず敗れる。なぜなら、『文学』は『政治』より『深く』『広い』からだ。(…)『政治』の本質が『わたしは正しい、やつは間違っている』なら、『わたしは正しい』と訴える『文学』はすでに『政治』に冒されているのである。そして『わたしは正しい』と主張する『文学』は『政治』であるが故に、ついにこの世界の基底とは成り得ないのだ。
 では、世界の基底に成り得る、世界を成り立たせることのできる『文学』とは何なのか。」(15)
 高橋はこの「最後の問い」を書きとめたところで筆を擱いている。私たちはこの文章の中の「文学」を「映画」に置き換えて読んでみた。そして高橋と同じ「最後の問い」の前にたたずんでいる。
 「コレクトネス」を求める人々が映画をいくら統御しようと試みても、その勝負は必ず映画の勝利に終わるだろう。映画が二〇世紀の生み出したあらゆる物語装置の中でもっとも成功したことの秘密はたぶんそこにある。映画はつねに時代の権威に屈服し、支配的なイデオロギーに迎合し、なりふりかまわず流行を追ってきた。その職業的な変節ぶりは、現政権と反政府ゲリラ組織に同時に献金して「保険」をかけている資本家によく似ている。まさしく「面従腹背」こそは映画の本性である。映画はひとつのメッセージを言語的に語りながら、それと矛盾するメッセージを非言語的に発信することのできる理想的な詐術の装置である。このような映画のあり方はたしかに「正しく」はない。私たちはそれに同意する。けれども映画は「正しい」思想よりもしばしば「広く」「深い」。私たちはこの「映画の狡知」を愛する。おそらく、そこに「世界の基底」に通じる隘路を見出すからである。

2017.10.03

昨日の朝日新聞への寄稿

昨日(10月2日)の朝日新聞にやや長めのコメントを寄せた。
総選挙について。日替わりで事件が起こるので、書いた段階では立憲民主党の結党のニュースはまだ知られていなかったので、それについては言及がない。

北朝鮮ミサイル問題で政権の支持率が回復し、野党第1党の民進党は離党ドミノで弱体化しているのを好機と見て、安倍晋三首相は国会解散を決めました。
ところが、思いがけなく小池百合子・東京都知事の新党が登場し、そこに民進党が合流することになって、いきなり自民党は政局の主導権を奪われてしまった。
しかし、個人的にはこのカオス的状況を歓迎する気分にはなれません。
民進党の議員たちはこれまで主張してきた「安保法制反対・改憲反対」を棄てて180度逆の立場に立たなければ公認されないという「踏み絵」を踏まされようとしています。新党は反立憲・独裁志向の安倍自民党のさらに右に、自民党以上に新自由主義的で排外主義的な新政党が「受け皿」として登場しようとしている。
ただし、これは世界的な傾向であって、日本だけの特殊事情ではありません。世界中どこの国でも、「理解も共感も絶した他者との気まずい共生」という困難な道を拒絶して、仲間うちだけで固まり、仲間うちの利益だけを優先する「身内ファースト」的な政治勢力が大衆的な支持を得つつあります。英国のEU離脱も、トランプ大統領の登場も、ドイツ連邦議会でのAfDの進出も、希望の党も同じ文脈の中の出来事だと私は解釈しています。
これは現に起きつつある地殻変動的な変化が理解できず、対応することもできないおのれの無能と不安ゆえの退行的な選択であって、外界の出来事に目を閉じ、耳を塞いで、「変化なんか起きてない」と自分に言い聞かせているに過ぎません。ですから、遠からずあまりに変化の速い状況に追い抜かれ、押し寄せる難問に対処できずに、その無能をさらすことになるでしょう。
ここでいう「地殻変動的な変化」というのは、国際政治における超覇権国家の衰退と「地域帝国化」、そして地球的規模での人口減のことです。
地域帝国化は半世紀スパンでの変化ですから、今すぐどうしなければならないというような喫緊の課題ではありませんが、少子・高齢化による社会の変化はすでに日本を直撃しています。21世紀末には人口は5千万人程度にまで減ると推定されています。80年間で7千万人減です。人口減と高齢化に伴う産業構造・社会制度の変化は想像を絶した規模のものになるはずですが、それにどう備えるかという危機感は国民的にはほとんど共有されていません。政府もまったくの無策で手をつかねている。
その危機の切迫のうちにありながら、安倍政権は森友・加計問題に露出したようにネポティズム(縁故主義)にすがりついています。イエスマンだけを登用し、限られた国民資源を仲間うちに優先的に分配する仕組みです。これは「身内ファースト」という世界的なスケールでの政治的退廃の日本版です。安倍首相がもともとそういう排他的なパーソナリティであるということと世界史的なネポティズム傾向があいまってこれまでの長期政権がありえたのです。
しかし、安倍自民党に対抗して登場した小池新党も、「身内ファースト」であることに変わりはありません。民進党との「合流」プロセスで見られたどたばた騒ぎで明らかなように、小池代表の軍門に下ったのは、政策の一貫性を振り捨てても「わが議席」の確保を優先させていてる「自分ファースト」の人たちばかりでした。これまで掲げて来た政策の一貫性や論理性よりも、おのれの「明日の米びつ」を優先的に配慮する政治家たちが、今切迫しつつある文明史的な転換に対応できる能力があると私は考えません。
日本はしばらくカオス的状況が続くでしょう。でも、それは世界中どこの国でも程度の差はあれ同じことです。「他の国もひどいことになっている」と言われて心がなごむというものではありませんが。

こちらは「サンデー毎日」没原稿

こちらは「サンデー毎日」の没原稿。
9月末日締め切りで、9月19日に書き上げてのんびりしていたら、解散、小池新党、民進党解党、希望維新連携、立憲民主党結党・・・と文字通り政局が日替わり。おかげで「北朝鮮と安倍政権」という論の枠組み自体にまったくニュースとしての鮮度がなくなってしまった(北朝鮮のミサイル攻撃が明日にでもあるぞ、というあの官邸の煽りは何だったんだろう)。
でもまあ、書いたわけなので、このまま筐底に腐らせるよりは日の眼を見せてあげようということで、ブログにて公開。

北朝鮮の核実験とミサイル発射によって東アジアの軍事的情勢が緊張度を増している。「米朝もし戦わば」というようなシミュレーションを妙にうれしげに語っている専門家たちがいる。戦争が始まるというのがそんなにわくわくすることなのだろうか。日本の国土にミサイルが着弾して多くの死傷者が出たり、稼働中の原発が被弾したりするリスクを考えたら、石にかじりついても軍事的衝突を回避したいと望むのが「人情」だと思うけれども、そうではない人たちも日本人の中には多くいるということである。
安倍首相は北朝鮮への圧力の行使にはたいへん熱心だが、「全力を挙げて戦争を回避する」ということは口にしない。だから、国際社会からは「首相はほんとうに朝鮮半島情勢の鎮静化を望んでいるのか」について懸念が語られている。その懸念について誰も責任ある回答をしないようなので、私が海外の皆さんの懸念について、日本人を代表してお答えしたいと思う。
安倍首相は本気で「戦争をする気でいる」。だから、そのための環境づくりにたいへん熱心なのである。彼が続く内政面での失敗にもかかわらず、いまだに高い支持率を誇っているのは、彼の好戦的な構えを好感する有権者がそれだけ多いからである。
仮に起きた場合に、米朝戦争がどれほどの規模のものになるのか、首相もその周辺もたぶん何も考えていない。そういう実務的なことを考えて、コントロールするのは米軍であって、自衛隊は米軍の指示に従って動けばいい。そう考えている。
そして、米朝戦争の主戦場は朝鮮半島かせいぜい日本海にとどまるであろうと期待している。万が一不運にもミサイルが日本国内に着弾する場合も、政府は住民の生命財産の保全にはそれほど強い関心を持っていない。以前、山本太郎参院議員が国会で稼働中の原発へのミサイル着弾の被害予測について質問した時、当時の原子力規制委員会の田中俊一委員長は「弾道ミサイルが直撃した場合の対策は、求めておりません」と回答した。安倍首相は「仮定の質問であり、お答えすることを差し控えたい」と質問を一蹴した。要するに原発は軍事的攻撃に対してきわめて脆弱であることを認めた上で、原発被弾に伴う被害のシミュレーションも、住民の避難計画の策定も、何もしていないと認めたのである。
避難計画というはふつう「考え得る最悪の状況がもたらす被害を最小化するため」に立案されるものだが、首相は「考え得る最悪の状況」は「仮定」のことなので、それに基づいて具体的に何かの備えをすることはしないと答えた(備えがあれば、自慢げに「万全の備えをしております」と答えたはずである)。
しかし、政府は原発への被弾については想定していないが、ミサイルによる日本領土の攻撃は想定している。想定しているからこそ、全都道府県に対して、ミサイル着弾時の避難訓練の実施を要請しているのである。
だが、原発が被弾して、3・11の時と同じように放射性物質が飛散することになった時に、地域住民は「頑丈な建物や地下に避難し、できるだけ窓から離れ、物陰に身を隠すか地面に伏せて頭部を守」ったとして、その後はどうすればいいのか。それについては何の指示もない。
国民を軍事的被害から守るための手立てを十分に講じることをしないまま、首相や外相は北朝鮮情勢を鎮静化することには興味を示さず、むしろ無用の挑発を続けている。
この事実から推論できるのは、(官邸がまったく思考能力を失っているという可能性を排除した場合)、彼らは戦争を始めたがっており、いったん戦端が開かれた後も、戦争被害を最小化することにはあまり興味を持っていないということである。いや、むしろ被害が大きく、国民の「敵」への憎悪や反感が募れば、それによって内閣支持率がV字回復することは高い確率で期待できると考えているのではないか。
というのは、カラフルな実例があるからだ。支持率50%に低迷していたジョージ・W・ブッシュ大統領は9・11直後に支持率92%を記録して米大統領としての「史上最高の支持率」を記録した。保守党史上最低の支持率に苦しんでいたマーガレット・サッチャーはフォークランド紛争に勝利して、「Great Britain is great again」と宣言して、73%という驚異的な支持率を獲得した。おそらく安倍首相は彼らの成功体験に強い羨望を抱いているはずである。
米朝間で戦争が始まった場合でも、北朝鮮の備蓄を考えると、戦闘そのものは長期化することはないだろう。けれども、戦闘が終わっても、その後の朝鮮半島は手の付けられない惨状となる。
それでも隣国の内閣支持率は急騰が期待できる。というのも、「こんなこと」があると思ったからこそ、特定秘密保護法も、集団的自衛権の行使容認も、安保法制も、すべて「打つべき手を事前に打っておいた」という事後的な正当化ができるからである。
半島で戦闘が終わっても、まだ正常化にほど遠く、例えば北朝鮮からの難民がボートで脱出して漂着する可能性があったとしたら、政府は「国難的危機のときに悠長に国会審議などしていられない。行政府に全権を」と訴え、国民的熱狂の中、一気に改憲を実施して、緊急事態を宣言しようとするだろう。
宣言がなされれば憲法は停止され、国会は休会となり、政府が発令する政令が法律を代行する独裁制が完成する。
自民党の改憲草案を読めばわかる通り、緊急事態宣言下は選挙が行われないので、最初に宣言に同意した議員たちは終身議員となる。彼らが同意し続ければ、緊急事態宣言は法理上半永久的に延長可能である。
緊急事態宣言下では反政府メディアも反政府的な市民運動も存立できない。院外での抗議のデモや集会を行えば、それ自体が「社会秩序の混乱」と解釈されて、緊急事態宣言の正当性の根拠を提供するだけだからである。
なぜ安倍首相はそのような事態の到来を願うのか。彼が単に独裁的権力を享受して「ネポティズム政治」を行って、身内を厚遇し、政敵を失脚させ、イエスマンに囲まれて、私腹を肥やそうとしているというような解釈はまったく当を失している。ネポティズムは目的達成のための手段であり、またその「副産物」であって、目的ではない。
安倍晋三は身内を重用するために政治をしているわけではない。そもそもそのような利己的な人物に対して国内の極右勢力が熱狂的な支持を与えるということは考えればありえないことだ。
彼がめざしているのは「戦争ができる国」になることである
彼の改憲への情熱も、独裁制への偏愛も、たかだか手段に過ぎない。彼の目的は「戦争ができる国」に日本を改造することにある。国家主権を持たぬ属国であるのも、国際社会から侮られているのもすべては「戦争」というカードを切ることができないからだと彼は考えている。そして、たいへんに心苦しいことであるけれど、この考え方には一理あるのである。だから、極右の人々は安倍首相に揺るがぬ支持を与えているのであるし、自民党や維新や民進党の議員たちがこまめに靖国神社に参拝してみせるのは、そうすれば「戦争ができる国になりたい」と(口には出さず)念じている人々の票が当てにできるということを知っているからである。
「戦争ができる国になりたい。戦争ができない国であるのは理不尽だ」というのは、ある意味で現実的な考え方である。というのも、現実に世界の大国は「戦争」カードを効果的に切ることによって、他国を侵略し、他国の国土を占拠し、他国民を殺傷し、それを通じて自国の国益を増大させるということを現にしており、それによって大国であり続けているからである。国連の安保理事会の常任理事国はどれも「そういうこと」をしてきた国である。だが、日本はそうふるまうことを禁じられている。東京裁判によって、サンフランシスコ講和条約によって、日本国憲法によって、「そういうこと」をすることを禁じられている。戦争に負けたことによって日本人は「戦争ができる権利」を失った。失ったこの権利は戦争に勝つことによってしか回復されない、そういう考え方をする日本人がいる。私たちが想像しているよりはるかに多くいる。でも、そう思っているだけで口にしない。だから匿名でネットで発信し、自民党やその他の極右政党に投票する。
重要なのは、彼らがそう思っていることをはっきりと口にしないことである。なぜ、彼らは「戦争ができる国になりたい。自国の国益を守るために他国を攻撃するのはすべての国に固有の権利のはずだ」と言い切れないのか。それはここでいう「他国」にアメリカも含まれているからである。
日本の極右がねじれているのは、はっきりと「アメリカを含むすべての国と好きな時に戦争を始める権利が欲しい」と言うことに対しては激しい禁圧がかかっているからである。その言葉を口にすることはアメリカの属国である現代日本においては指導層へのキャリアパスを放棄することを意味している。政界でも、官界でも、財界でも、学界でも、メディアの世界でも、出世したければ、脳内にどれほど好戦的な右翼思想を育んでいる人物でも「アメリカを含むすべての国と好きな時に戦争を始める権利が欲しい」ということは公言できない。したら「おしまい」だからである。
けれども、アメリカが日本から奪った「戦争する権利」はアメリカと戦争して勝つことによってしか奪還できないのは論理的には自明のことである。この自明の理を「一度として脳裏に浮かんだことがないアイディア」として抑圧し、対米従属技術を洗練させ、後はひたすら中国韓国を罵り、国内の「反日」を敵視することでキャリアを形成してきた日本の指導層の人々の言うことが、こと国家主権と戦争の話になると何を言っているのか分からないほどに支離滅裂になるのはそのせいなのである。
はっきり口に出して言えばいいのに、と私は思う。安倍首相は「戦争ができる国」になりたいだけではない。「アメリカとも、必要があれば戦争ができる国」になりたいのである。「思っているでしょう?」と訊いても必死で否定するだろうけれど、そう思っていると想定しないと彼の言動は説明できない。
彼は属国の統治者であり、あらゆる機会に宗主国アメリカに対する忠誠を誇示してみせるけれど、まさにそのアメリカが日本に「与えた」最高法規をあしざまに罵り、そこに書かれているアメリカの建国理念や統治原理に対して一片の敬意も示さない。彼はアメリカが自国の国益増大に資すると思えば、どのような非民主的で強権的な独裁者にも気前の良い支援を与えて来た歴史を知っている。朴正煕も、マルコスも、スハルトも、ピノチェトも(CIAの役に立つと判断されていた間は)ノリエガも、アメリカは支持した。今のアメリカの国益を最大限に配慮する限り、どれほどアメリカの建国理念や統治原理を憎んでいても、属国の支配者の地位は安泰であることを知っている。その地位を利用して、彼はまず「アメリカと一緒に戦争する権利」を手に入れた。まだ戦争そのものにはコミットしていないが、憲法違反である戦争参加を制度的には合法化することに成功したし、御用メディアと御用知識人たちを活用して、交戦は主権国にとって当然の権利だという「空気」を醸成し、山本七平のいう「感情の批准」をいま着々と進めている。
だから、ここまで来れば、彼の支持者たちは「次の一手」を期待している。それはまず「アメリカの許諾を得ずに勝手に戦争をする権利」であり、最終的には「アメリカとも戦争をする権利」を手に入れることである。
私がわからないのは、アメリカの国務省がこれくらいわかりやすい話についていつまでも「知らないふり」をしていることである。たぶん使える限り引っ張って、どこかで日本人の抑圧された対米憎悪の「びんの蓋」が外れる気配を見て取ったら「泣いて馬謖を切る」つもりでいるのだろうと思う。わが宗主国はその点では憎いほどにクールな国である。

というようなことを9月19日に書いたときには「時宜にかなった記事だ」と思っていたのだけれど、政局の前に吹き飛んでしまった。
テレビニュースが「面白い」時は、こういう原理的な分析は相手にされないのである。
でも、ここに書いたことは今もそのまま私の意見である。

2017.10.12

機と座

ある媒体に「武道と能楽」というテーマでエッセイを寄稿した。
ほとんどは「いつもの話」だが、「機と座」については、稽古のときには時々語るけれど、書き物にしたことはない。この機会に合気道の道友たちに読んでもらうつもりでネットに上げておく。

合気道という武道を40年、観世流の能楽20年稽古してきた。いずれも「日暮れて道遠し」だが、この二つの技芸の連関をそれぞれの実践者という立場から語る人があまりいない。この立ち位置を奇貨として、二つの領域の「あわい」から見えるものについて一言書きとめておきたい。
武道と能楽の間には深い繋がりがある。今でも私たちが容易に手に取るこのできる最古の武道の伝書の一つ、柳生宗矩の『兵法家伝書』は能楽の比喩がたいへんに多い。代表的な箇所を引く。

「あふ拍子はあしゝ、あはぬ拍子をよしとす。拍子にあへば、敵の太刀つかひよく成る也。拍子ちがへば、敵の太刀つかはれぬ也。敵の太刀のつかひにき様に打つべし。つくるもこすも、無拍子にうつべし。惣別のる拍子は悪しき也。」(柳生宗矩、『兵法家伝書』、岩波文庫、43頁)

「たとへば、上手のうたひはのらずしてあひをゆく程に、下手鼓はうちかぬる也。上手のうたひに下手鼓、上手の鼓に下手うたひの様に、うたひにくゝ、打ちにくき様にしかくるを、大拍子小拍子、小拍子大拍子と云ふ也。」(同書、43-44頁)

いずれも能楽用語が剣の遣い方について用いられている。
私のように能楽を稽古しているものにとっては、こういう喩はたいへんわかりやすいが、これは宗矩が能楽好きだったのでたまたま能楽の比喩を選好したということではないと思う。
というのは、『兵法家伝書』そのものは家伝とはいいながら、柳生新陰流の「パブリックドメイン」として修業者たちに共用されることを意図して書かれたものだからである。個人的趣味の芸能の比喩を頻用することは家伝の継承という点からすれば有害無益なことである。しかし、宗矩はあえて、執拗なほどに能楽の比喩を用いた。
ということは、この時代の剣客たちが、能楽修業が求める技術や心得が剣術と深く通じるものであることを知っていたということである。
逆から言えば、能楽が武士階級のもの以外には観ることも、演じることも禁止されていた時代において、能楽の喩えを用いて剣術の蘊奥を語ることは、暗号によって秘伝を語っていたということを意味している。能楽の比喩を用いて語る限り、武士階級以外のものにはそこで何が語られているのかわからなかったからである。

囃子と謡の拍子がずれると、能楽は物理的に成り立たない。これは能楽を稽古する者には熟知されていることである。
能楽を扱った珍しい小説に泉鏡花の『歌行燈』があるが、この中で天才能楽師恩地喜多八が宗山という伊勢の天狗連を訪れて、その謡を聞きながら、膝を打つ拍子だけで絶息させる印象的な場面がある。
「この膝を丁と叩いて、黙って二ツ三ツ拍子を取ると、この拍子が尋常んじゃない。親なり師匠の叔父きの膝に、小児の時から、抱かれて習った相伝だ。対手の節の隙間を切って、伸縮を緊めつ、緩めつ、声の重味を刎上げて、咽喉の呼吸を突崩す。(…)いささか心得のある対手だと、トンと一つ打たれただけで、もう声が引掛って、節が不状に蹴躓く。(…)あわれや宗山。見る内に、額にたらたらと衝と汗を流し、死声を振絞ると、頤から胸へ膏を絞った……ものの本をまだ一枚とうたわぬ前、ピシリとそこへ高拍子を打込んだのが、下腹へ響いて、ドン底から節が抜けたものらしい。はっと火のような呼吸を吐く、トタンに真俯向まうつむけに突伏す時、長々と舌を吐いて、犬のように畳を嘗めた。」

「うたひにくゝ」鼓を打てば、素人は知らず、ある程度稽古を積んだものは息ができなくなる。それほどに拍子というのはきびしいということをこれほど鮮やかに伝えたものは珍しい。

能楽と武道の「出会い」について書かれた文献としては松浦静山の『甲子夜話』が知られている。
徳川家光が将軍家御指南番であった柳生宗矩に、シテ方観世大夫の所作について「若し彼が心に透間ありて、こゝを斬るべき所と思はゞ申すべし」と告げたことがあった。舞台を見終えたあとに、宗矩は家光にこう述べた。

「始より心をつけゐ候に、少しも斬るべき際だなく候。しかし舞の中、大臣柱の方にて隅をとり候とき少しく透間の候。あの所にて斬り候はゞ斬りおほすべく候半と言上す。」(松浦静山、『甲子夜話6』、平凡社、1978年、174頁)

観世大夫の方は楽屋に戻ってから、傍らの人にこう訊いた。
「今日見物の中に一人、わが所作を見ゐたる男あり。何者か」。
あれは柳生但馬守だと教えると、観世大夫はこう言った。
「されば社我が所作を目も離さず観ゐられしが、舞の中に隅をとりし所にて少し気を抜きてあるとき、莞爾と咲はれつつが心得ざることよと思ひゐしに、果たして剣術の達人にぞ坐しけれと云ける。」(同書、174頁)

達人の境位がどういうものかを教えてくれる逸話である。
武道における「隙」というのは文字通り空間的・時間的な「隙」のことであり、また「心の隙」のことである。身体の隙も心の隙も、居着きによってもたらされる。身体の一部の過緊張は他のどこかの部位の過弛緩をもたらし、思念の一点への居着きも隙を作る。
居着くというのは、点としての入力に点として「反応」することであり、これは自他を含む場全体を平らかに「観察」することを妨げる。観察とは時間の流れ、場の布置におけるおのれの位置を鳥瞰的に把持することである。これは武道において最も重要な能力である。どれほど凄まじい攻撃であっても、その一瞬前にその場を通り過ぎていれば、その一寸遠くに身をかわしていれば、人を害することができない。
それゆえ、武道では「機」と「座」を重く見る
「機」とは「しかるべきとき」のことであり、「座」とは「しかるべき場所」のことである。その時以外にありえないような必然的な時に、その場以外にはありえない必然的な場において、果たすべきことを果す。それが兵法修業のめざすところである。宗矩は機と座についてこう書いている。

「一座の人の交りも、機を見る心、皆兵法也。機を見ざればあるまじき座に永く居て、故なきとがをかふゞり、人の機を見ずしてものを云ひ、口論をしいだして、身を果す事、皆機を見ると見ざるにかゝれり。座敷に諸道具をつらぬるも、其の所々のよろしきにつかふまつる事、是も其の座を見る事、兵法の心なきにあらず。」(柳生宗矩、前掲書、25頁)
 
「機を見ず」して、「あるまじき座」にいることによって人はしばしば身を滅する。自分がいるべき場にいるのかを配慮するのが「機を見る」であり、必要なものを然るべきところに配置することを「座を見る」と言う。これもまた「兵法の心」なしにはありえない。
「機を見る」「座を見る」これは武道や能楽のみならず人事百般に通じる心得である。 

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