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2009年04月 アーカイブ

2009.04.01

すみません

操作をまちがえて、スーさんの日記をトップページに貼り付けてしまいました。
読まれた方驚かせてすみません。

2009.04.03

もう大変なんですから

日記が更新されないのはあまりに忙しいせいである。
どうしてこんなに忙しいのであろうか。
一日中立ち働いているのであるが、それでも仕事は少しも減らず、机の上には開封していない封筒の山が高度を増し、電話は鳴り続け、ファックスはべろべろと紙を垂れ流し、メールはすべて私に用事を言いつける内容のものである。
完全にメモリーがオーバーフローしており、自分が今何をしているのか、さきほどまで何をしようとしていたのかが思い出せない。
というわけで、この一週間で人と会う約束を2つ忘れ、原稿の締め切りを2つ忘れた。
だんだんこんな生き方にうんざりしてきた。
「そんなに仕事を引き受けなければいいじゃないか」とどなたもおっしゃる。
おっしゃるとおりである。
でも、そうおっしゃる本人だって私に仕事を命じるついでにそう言っているのである。
というような愚痴をもう何年もえんえんと書いている。
「断筆宣言」ももう4回くらいした。
「講演はもうやりません」と何度も告知した。
それでも仕事の依頼は少しも減らない(むしろ増えている)。
どうしてなんだろう。
何か悪いものに取り憑かれているのであろうか。
昨日はひさしぶりの休日。
のんびりできるわ~と思っていたら、電話がかかってきて、原稿締め切りを忘れていた。
原稿そのものはもう書き上げてあったのだが、送稿し忘れていたのである。
あわてて送稿しようとしたら、原稿を入れたUSBを大学のオフィスに置き忘れていた。
そういうことがないようにdropboxを使っているのであるが、この原稿を書いたときはちょうど新幹線車内でEmobileが圏外だったので、アップロードできず、しかたなくUSBに落としておいたのである。
そのUSBを大学のPCに突っ込んだまま帰宅してしまった。
休みのはずなのでこそこそとオフィスに入る(みつかるとまた何か仕事を言いつけられるからである)。
そこから送信しようとしたが、大学のPCは旧式なので、USBのファイルが読み出せない。
しかたなく家に持ち帰ることにする。
帰りに銀行に寄る。
タチバナさんが淡路島で始める農業プロジェクトのスポンサーとなったので、その資本金を送金するのである。
銀行が貸し渋りをしているので、私のような個人が起業を支援して経済活動のてこ入れをせねばならない。
人から税金をとるばかりで政府は何をしておるのか。
あ、税金の話は止めよう。
怒りで気が遠くなる。
財務内容についてご報告を受ける。
投資信託では50%近い損を出したが、全部投資信託にしろという誘いを断って、必死で定期預金を守ったので、私の被害は比較的軽微である。
ついでに道場の土地取得について相談。
地価はもう少し下がりそうだけれど、道場に適当な物件そのものが少ないので、出物があったら、即買いしなければならぬ。
しかし私にはその金がない。
ナガサキ支店長に「貸して」とお願いする。
帰りにラポルテに寄って買い物。
家に戻り、『マルクス書簡』の4通目を書く。
「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法哲学批判序論」について。
この二つの書物におけるマルクスの主張を要約し、その思想史的意義を述べ、さらにそのロジカルな瑕疵について論じるのであるが、それを「高校生にもわかるように書く」のである。
石川先生が前半の3つを担当し、「高校生にもわかるようにリライトする」ところを私が担当する。
「どうしてユダヤ人が迫害されるか、みなさんはご存じないでしょうね」というところから始めてマルクスのバウアー批判を解説するのである。
これは面白いです。
でも、手元に本がない(みつからない)ので、続きが書けない。
しかたがないのでネットで注文する。
日が暮れてきたので、パスタを茹で、大蒜とベーコンとマッシュルームを炒めて、バジリコソースで和えたものを作り、冷たい白ワインを飲みながら食べる。
ぱくぱく。
少しだけ幸せな気分になる。
食後の腹ごなしに『ウォンテッド』を観る。
アンジェリーナ・ジョリーの「爬虫類顔」が実によい。
予告編でも使われていたスーパーのレジのところで銃を取り出すときの「眉根の皺」が最高。
見終わってしまったので、アゴタ・クリストフの『悪童日記』を読む。
すぐに読み終わってしまったので、続いてジュール・ヴェルヌの『15少年漂流記』を取り出す。
最近どこかで「『15少年漂流記』を読め」と言ったのであるが、半世紀くらい前に読んだのでもう内容をよく覚えていない。
眠くなったので、ベッドの中で最近の「ナイトキャップ漫画」であるサラ・イネスの『大阪豆ごはん』を読みつつ寝る。
ぐ~。

2009.04.04

Star hill revisited

如蘭会にて
如蘭会トワイライトフォーラムの懇親会にて1969年卒の同期生諸君と。お隣はなつかしい塩谷安男くん

如蘭会のトワイライトフォーラムに招かれて日比谷高校星陵会館にて講演。
如蘭会というのは日比谷高校の同窓会のことである。
私は1966年入学、68年に退学しているので、卒業生ではないが、同期の諸君のご好意で、1980年ごろに同窓会名簿の一隅に加えていただいたのである。
その後も転居を続けていたために名簿には名前と勤務先だけあって、自宅情報が欠如していたユーレイ会員であったのであるが、同窓の友人である吉田城くんと当時の日比谷高校について書いた拙文がとある先輩の目にとまり、今回講師としてご招聘いただく運びとなったのである。
日比谷高校にゆくのは大学院生のとき以来、およそ30年ぶりのことである。
校舎の様子もすっかり変わり、校歌に歌われた「大銀杏」の木ももうない。
40年前に私たちが通っていたころの日比谷高校は府立一中時代の校舎のままだった。
暗くて、汚い校舎だったが、汚さに「年季」が入っているのが、高校に入ったころは妙に誇らしかったのを覚えている。
如蘭会事務局の方々とご挨拶して、参加者の名簿を拝見する。
同期の諸君が少なく、知った名前がない。
誰か知り合いに懇親会で「乾杯の音頭」をとってもらうしきたりなのだが・・・と言われて困惑する。
上下の学年にも知り合いの名がない。
こういうときの頼みの綱の藤田直行くんに来てよと電話をかけるが、外出中でつかまらず。
携帯の番号を知っているのはあと小口勝司くんだけであるが、週日の午後にご多用なる大学理事長にいきなり「あと1時間で日比谷高校まで来てくれ」と頼むのも気が引ける(といいつつ電話をしてしまうが、繋がらず)。
日頃、クラス会に不義理をしているので、こういうときにバチが当たるのである(さいわい、名簿に名前のなかった旧友塩谷安男くんが平河町のオフィスから駆け付けてくれたので、彼にお願いすることができた。やれやれ)。
講演の演題は「脱・市場原理の教育」。
だいたい「いつもの話」である。
バジリコの安藤さんがICレコーダーを持って来ている。
講演録だけで本を一冊作る企画があるのである。
「いつもの話」ではあるが、教育行政について批判しているうちに、だんだん頭に血が上ってきて、やっぱりガーガーと壇上でわめき出してしまう。
講演後、会館内のレストランで懇親会。
次々と諸先輩、同輩後輩の諸君、PTAの方々がおいでになって、お買い上げ頂いた本にサインをし、さまざまなご質問にお答えする。
ずいぶんたくさんの読者が同窓会にいたことを発見する。
ありがたいことである。
しゃべっているうちにたちまち時間となり、閉会。
安藤さんと渋谷まで出て、東急線で自由が丘へ。
駅前の餃子センターで餃子(スタンダード)と自由が丘ラーメンと生ビールで空腹を満たす(懇親会ではろくに食べられなかったのである)。
「懐かしい味」(って何なんだろう)がしてまことに美味である。
等々力の母親の家へ。
甥の裕太が大学合格の報告に来る。
おめでとう。がんばって卒業するのだよ。
るんちゃんが来る。
去年の「はるちゃん」の結婚式で御影に来て以来、おひさしぶりである。
近況を伺う。
何をしているのかよくわからないけれど、いつも忙しそうなるんちゃんである。
Againを手伝って欲しいと石川くんが言っていたから連絡してねと伝言する。
早めに起きて、五反田へ。
成瀬さんのヨーガ教室で、『秘伝』のための対談。
成瀬さんはオレンジ色の「ヨガ服」(なんていうのか知らないけど、あるでしょ)。
撮影用に、私もそれに合わせて合気道の道着を着用するように言われる(しかたないので、東京まで道着を持っていった)。
ふつうそんな格好で対談なんかしないんですけど・・・
お題は「覚悟とリラックス」
成瀬さんのお話はいつものようにたいへん面白かった。
「死ぬのが楽しみ」という逆説に腹を抱えて笑う。
詳細はそのうち出る『秘伝』でお読み下さい。
新幹線内で爆睡して神戸に戻る。

2009.04.05

書物について

「当心村上春樹」という本が届く。
トップページに表紙写真があるように『村上春樹にご用心』の中国語版である。
読めない・・・
著者略歴の「研究領域為法国現代思想、武道論、電影論」(簡体字だけど)はかろうじてわかる。
「倒立日本論」とか「私家版・猶太文化論」もわかりますね。
でも、本文はお手上げである。
残念なことである。
訳してくださったのは読めない字の名前の人である(ひどい紹介だこと)。
四川外語学院日本語系教授、四川外語学院日本学研究所所長。著作に『少女漫画・女作家・日本人』、『日本文化論』。訳書に『人間失格』、『鏡子の家』(ほお)。あと『他人之ナントカ』、『床上的眼晴』(なんだろう『ベッドタイムアイズ』かしら)、『空翻』(うう、わからん)などの訳書がある方でした。
自著の訳者という人とはできることならお友だちになりたいものである。
どんな気分でこの本を選び、また訳されたのか、機会があれば、ぜひ訊いてみたい(たまたま出版社から話があり、そのときはひどく金に困っていたので・・・というようなことでなければうれしいのであるが)。
『下流志向』の韓国語訳も出ているので、私の本を訳した方、このブログを読んでいたら、ウチダあてにご一報ください。
文通しましょう。

日本文藝協会からまた「文藝著作権通信」が送られてくる。
Googleの話の続きである。
「電子図書館の光と影」というタイトルで、ネット上で書籍の閲覧が可能になった場合のプラスとマイナスを論じている。
プラスというのは、これまでそれを所蔵している図書館まで足を運ばなければ閲覧できなかった本でも、稀覯本も、紙の劣化が著しく一般読者には閲読不可能であった本でも、電子データ化されれば誰でも閲覧できるようになることである。
アクセシビリティは飛躍的に向上する。
それは間違いなく、私たちの知的アクティヴィティをおおきく活性化してくれるはずである。
マイナスというのは要するに「本が売れなくなる」ということに尽くされる。
そんなことをすると地方図書館が図書の買い控えをするようになるのではないかとこのパンフレットの書き手は心配している。
「新刊書がただちにデジタル・アーカイブされ(画像として保存されるということです)、その画像をインターネットで送信して、家庭のパソコンで見ることができれば、本を買う必要がまったくなくなることは間違いありません。
大変便利な時代になったという気もしますが、そうすると文芸家はどこから収入を得ればいいのかという大きな問題が生じます。
紙の本の印税によって生計を立てるという従来の考え方を、根底から変えなければならない時代が、すぐ目の前に迫っているのかも知れません。」(「文藝著作権通信」、11号、NPO日本文藝著作権センター、2009年、3月)
そうだと思う。
「従来の考え方を、根底から変えなければならない時代が、すぐ目の前に迫っている」と私も思う。
鉄道が電化されれば蒸気機関車が不要になるように、橋がかかれば渡し船が不要になるように、テクノロジーの進歩はその代償として必ず「それまで存在した仕事」を奪う。
「紙の本の印税だけによって生計を立てる」という生き方はこのあとかなりむずかしくなるだろう(今でも十分にむずかしいが)。
だが、それは圧倒的な利便性を提供するテクノロジーを導入することの代償として受け容れざるを得ないのではないか。
「音楽だけで生計を立てる」こと「芝居で生計を立てること」を望んでいる人は今もたくさんいるが、ほとんどの人はそれを実現できていない。
「食えないなら止める」という人は止めて、「食えなくてもやる」という人だけが残ってゲームを続ける。
文芸家もそれと同じだろう。
それに、著作権者の相当数は「それで食っている」専門家ではなく、著作権の継承者である。
ご自身の本業は他にあって、「紙の本の印税だけで生計を立て」ているわけではない。
もし、自分は何も働かず、親族の残した著作権からの収益だけで暮らしている人がいたとして、その既得権がそれほど優先的に配慮されるべきものだと私は思わない。
というような私の主張を想定してかもしれないけれど、パンフレットには次のような文言があった。
「大学研究者の中には、著作権そのものへの意識が希薄な人々が多いことも、問題を拡散させる一つの原因になっています。大学教授などの研究者は、大学から給料と研究費を貰っていて、それだけで生活も研究もできます。
たまに本を出してもそこから利益を得るのではなく、むしろ多くの人々に読んでもらえればうれしいという発想しかありません。
他の研究者が引用したり言及したりしてくれると、それが研究者としての実績にもなるので、自分の著作や論文がネットで検索できるのは大歓迎ということになります。」
これは私のことを書いているのか・・・という気がするのは別に私の被害妄想ではなく、この問題について先日東京新聞が記事を書いたとき、「著作権を守れ」側を代表して三田誠広日本文藝家協会副理事長が、「パブリックドメイン」側を代表して私がコメントを寄せていたからである。
私は決して「著作権への意識が希薄」ではないと思う。どちらかというと、そのことに敏感である。だからこそ、著作権の管理を協会に委ねず、自分でしているのである。
ご存じのように、私はネット上で公開した自分のテクストについては「著作権放棄」を宣言している。
私の書いたことをそのままご自分の名前で発表していただいて、原稿料なり印税収入なりを得られても結構ですと宣言しているのである(まだ試みた人はおられないが)。
それは私にとって書くことの目的が生計を立てるではなく、一人でも多くの人に自分の考えや感じ方を共有してもらうことだからである。
もし私の書いていることの中にわずかなりとも世界の成り立ちや人間のあり方についての掬すべき知見が含まれているなら、それについて私が「これは私のものだ」と著作権を言い立て、「勝手に使うな」というのはことの筋目が違っているだろう。
それに私が「大学教授」であるのもあと2年のことである。
その後はもう給料も研究費ももらえない。
でも、たぶんその後も私は研究を続けるだろうし、著作も書き続けるだろう(たぶん今よりハイペースで)。
それは私は中学生のときから一貫して、「一人でも多くの読者に書いたことを読んで欲しい」と思ってきたからである。
職業が変わったくらいで、このマインドは変わらない。
問題は大学教授であるか専業作家であるかという「立場の違い」ではなくて、「マインドの違い」だと思う。
著作権からの収益が確保されないなら、一切テクストの公開を許さないという人はそうされればよいと思う。
それによってその人のテクストへのアクセスが相対的に困難になり、その人の才能や知見が私たちの共有財産となる可能性も損なわれても、そんなことは著作権保護に比べれば副次的なことにすぎないというなら、仕方がない。
だが、何度も書いているように、私たちは全員が「無償のテクストを読む」というところから長い読者人生をスタートする。
これに例外はない。
誰かがどこかで買ってきて、もののはずみで私の手元に届いた「無償のテクスト」を読むところから始めて、私たちは「有償のテクスト」を蔵書として私有する読者に育ってゆく。
書籍を購入して、私有し、書架に並べたいという欲望はリテラシーのある読者にしか生じないし、リテラシーは膨大な量の「無償のテクスト」を読み散らす経験を通じてしか育たない。
この点について有効な反証が提示されない限り、私は「有償のテクスト」が生き残るために「無償のテクスト」へのアクセスが容易になることが必ず不利に働くという考え方に同意できないのである。
私たちが無償で読めるテクストを選好するのは、それが「膨大な量の読書」を可能にしてくれるからである。
なぜ私たちが「膨大な量の読書」を望むかといえば、それだけが高いリテラシーを涵養する唯一の方法だからである。
そして高いリテラシーを涵養することを願うのはそれによって読書から無限の快楽を引き出すことが可能になるからである。
だとすれば、無償で読めるテクストが量的に増大することは、リテラシーの高い読者を生み出すことに資することはあっても、それを妨げることになるはずはない。
「テクストがリーダブルであるか否かを判定できる目の肥えた読者」が増えることにどうして著作権者たちは反対するのか?
それを説明できる合理的な根拠を私は一つしか思いつかないが、それを言うと角が立つので言わない。


2009.04.09

学院標語と結婚の条件

新学期が始まる。
6日に入学式。
飯新学長の「ことば」を聞く。
学長就任の挨拶でもそうだったけれど、本学が「キリスト教のミッションを実現するために建学された」という基本理念をつよく訴える内容であった。
この時代に大学新入生に向かって「自己利益をどうやって増大させるか」については一言も触れず、「神と隣人を愛し、敬し、仕える」ことを、ほとんどそれだけを説いたスピーチを行うということは、「反時代的」だととる人もいるかもしれない。
でも、私はそう思わない。
これはすぐれて「今日的な」メッセージだと思う。
私たちの社会がこの20年で失ったのは「隣人と共生する能力」と「私の理解も共感も絶した超越的境位についての畏敬と想像力」である。
「愛神愛隣」というのは、そのことだと私は理解している。
学長は「学風」「校風」ということにスピーチの中で何度か言及した。
それは具体的な教育プログラムのことではないし、もちろん設備や規則のことではない。個々の教師の教育理念や教育方法のことでもない。
そのようなものすべてを含んで現にこの学校という「想像の共同体」を生かしているもののことである。
私がこの共同体に含まれて20年になる。
この場所は(それまでさまざまな共同体から排除されてきた)私を受け容れてくれただけでなく、私に働き場所と、生きがいを与えてくれた。
新入生たちが私や私の同僚たちやここに学んだすべての学生たちと同じように、この共同体に親しみ、そこで安らぎと癒しと、生きる知恵と力とを得ることができますように。
火曜日、新入生オリエンテーション。
教師1人が新入生10人とお昼を食べるイベントである。
学生たちに自己紹介してもらい、お手伝いに来てくれた上級生(フルタくん、ヤナイくん、ありがとうね)に大学生活の心得についてお話ししてもらう。
私からのメッセージは簡単で、「できるだけ長い時間をこのキャンパスで過ごすように」ということだけ。
最初のうちに単位をかき集めて、あとはバイトと就活で学校に寄りつかないというような学生がいるけれど、これはほんとうにもったいない大学生活の過ごし方だと思う。
時間割はゆったりと組んで、ひとつひとつの科目について、課題や下調べに十分な時間が確保できるようにすること。
授業が終わったら山をかけおりてバイトに行くようなことはせずに、授業のない時間帯もできるだけ大学の中にいること。散策するもよし、図書館で勉強するもよし、講堂でパイプオルガンを聴くもよし、クラブ活動をするもよし。
このキャンパスに設計者のヴォーリスはたくさんの「秘密の小部屋」や「秘密の廊下」を仕掛けた。
自分で扉を開けて、自分で階段を上って、はじめて思いがけない場所に出て、思いがけない風景が拡がるように、学舎そのものが構造化されているのである。
自分が動かなければ、自分が変わらなければ、何も動かない、何も変わらない。
これはすぐれた「学び」の比喩である。
このキャンパスにいる限り、感覚をざわつかせるような不快な刺激はほとんどない。
それは自分の心身の感度をどこまで敏感にしてもよいということである。自己防衛の「鎧」を解除してよいということである。
感度を上げれば上げるだけ五感は多くの快楽を享受することができる。
そんな環境に現代人はほとんど身を置く機会がないのである。
「心身の感度を上げる」ということは「学び」という営みの核心にあり、その前提をなす構えである。
それを可能にする場所であるかどうかということが学校にとって死活的に重要であると私は思う。
本学はそれが可能な例外的なスポットである。
その特権をどうか豊かに享受してほしいと思う。
というようなことを述べる。
午後はAERAの取材。
「婚活」について。
結婚について年来の持説を述べる。
どのような相手と結婚しても、「それなりに幸福になれる」という高い適応能力は、生物的に言っても、社会的に言っても生き延びる上で必須の資質である。
それを涵養せねばならない。
「異性が10人いたらそのうちの3人とは『結婚できそう』と思える」のが成人の条件であり、「10人いたら5人とはオッケー」というのが「成熟した大人」であり、「10人いたら、7人はいけます」というのが「達人」である。
Someday my prince will come というようなお題目を唱えているうちは子どもである。
つねづね申し上げているように、子どもをほんとうに生き延びさせたいと望むなら、親たちは次の三つの能力を優先的に涵養させなければならない。
何でも食える
どこでも寝られる
だれとでも友だちになれる
最後の「誰とでも友だちになれる」は「誰とでも結婚できる」とほぼ同義と解釈していただいてよい。
こういうと「ばかばかしい」と笑う人がいる。
それは短見というものである。
よく考えて欲しい。
どこの世界に「何でも食える」人間がいるものか。
世界は「食えないもの」で満ち満ちているのである。
「何でも食える」人間というのは「食えるもの」と「食えないもの」を直感で瞬時に判定できる人間のことである。
「どこでも寝られる」はずがない。
世界は「危険」で満ち満ちているのである。
「どこでも寝られる」人間とは、「そこでは緊張を緩めても大丈夫な空間」と「緊張を要する空間」を直感的にみきわめられる人間のことである。
同じように、「誰とでも友だちになれる」はずがない。
邪悪な人間、愚鈍な人間、人の生きる意欲を殺ぐ人間たちに私たちは取り囲まれているからである。
「誰とでも友だちになれる」人間とは、そのような「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」を一瞥しただけで検知できて、回避できる人間のことである。
「誰とでも結婚できる」人間もそれと同じである。
誰とでも結婚できるはずがないではないか。
「自分が生き延び、その心身の潜在可能性を開花させるチャンスを積み増ししてくれそうな人間」とそうではない人間を直感的にみきわめる力がなくては、「10人中3人」というようなリスキーなことは言えない。
そして、それはまったく同じ条件を相手からも求められているということを意味している。
「この人は私が生き延び、ポテンシャルを開花することを支援する人か妨害する人か?」を向こうは向こうでスクリーニングしているのである。
どちらも「直感的に」、「可能性」について考量しているのである。
だから、今ここでその判断の正しさは証明しようがない。
それぞれの判断の「正しさ」はこれから構築してゆくのである。
自分がその相手を選んだことによって、潜在可能性を豊かに開花させ、幸福な人生を送ったという事実によって「自分の判断の正しさ」を事後的に証明するのである。
配偶者を選ぶとき、それが「正しい選択である」ことを今ここで証明してみせろと言われて答えられる人はどこにもいない。
それが「正しい選択」であったことは自分が現に幸福になることによってこれから証明するのである。
だから、「誰とでも結婚できる」というのは、言葉は浮ついているが、実際にはかなり複雑な人間的資質なのである。
それはこれまでの経験に裏づけられた「人を見る眼」を要求し、同時に、どのような条件下でも「私は幸福になってみせる」というゆるがぬ決断を要求する。
いまの人々がなかなか結婚できないのは、第一に自分の「人を見る眼」を自分自身が信用していないからであり、第二に「いまだ知られざる潜在可能性」が自分に蔵されていることを実は信じていないからである。
相手が信じられないから結婚できないのではなく、自分を信じていないから結婚できないのである。
というような話をする。
そのあとAERAのみなさんと三宮のステーキハウスKOKUBUで、神戸牛ステーキを食しつつ、国分さんの秘蔵ワインをじゃんじゃん開けて飲む。
そこに、かなぴょんがクリスくんというグアム島の合気道家を連れて来る。お客は二組だけなので、お店はウェイトレスのヨハンナも含めて、合気道関係者ばかりとなる。
8日はひさしぶりの休日。
でも忙しいことの変わりはない。
朝まず三宅接骨院でメンテナンスしてもらう。
それから下川先生のところで『山姥』のお稽古。
もどってメールを開くと、締め切り過ぎた原稿が3本たまっていた。泣きながら原稿書き。
夕方から元町に出て、大丸でシャツを買い、東急ハンズで財布とライターを買う。
家に戻って「チャーシュー麺」を作って食す。
食べた後また原稿書き。
たまの休日なのに、ばたばた走り回っているうちに終わってしまった。

2009.04.14

「街的」の骨法

江さんが『ミシュランガイド 京都・大阪版』についてきびしいコメントを発している。
4月6日の140Bのブログに江さんはこう書いている。

ミシュランの記者会見があるので行ってきた。
このことはすでにテレビや新聞で「ミシュランガイド京都・大阪版発行へ」というふうに報道されているのだけれど、実はとある週刊誌の取材だったのだが、このところ京都・大阪の街場で、ミシュランの覆面調査員の「プレセレクション」が終わり、すでに「調査員だと名乗って追加調査」する「訪問調査」に入っているのだ。
その際のやり取りで、「取材拒否」が多く、それは「これ以上新規のお客さんが来ると困るから」とか、「星の数が少なく載せられたら困るから」とかいろんな事情があるのだが、普段来ない顔の見えない訳のわからない人に格付けされることに対しての違和感だろう。
その底には、京都・大阪といった固有の、歴史と風土と人に裏打ちされた食をとりまく文化が果たしてあなた方に理解していただけるのかどうかの疑問がある。
アラン・デュカスはミシュラン最多の星を持つシェフとして知られているが、彼はその土地土地の代替不可能な気候や地勢、土壌、風土、人びとの気質…といったもののうえに、その土地の人々に愛されてきた料理素材があり、伝承され支持されてきた調理法があると主張している。
それは「テロワール」という術語めいた言葉で表現され、彼は「料理は地方と共にある」という言い方や「その土地への敬意」という表現で言明している。

terroire というのはワインや料理についてよく使われる言葉だが、「地方の固有性」ということである。和語で言えば「お国柄」である。
江さんがこの言葉に「びびっ」と来たのは、それが江さんの世界観の基軸をなす「街的」という言葉と共振したからだろう。
江さんの言う「街的」なる概念は『「街的」ということ』(講談社現代新書)に本一冊使って論じられているが、新書一冊読んでも「街的」ということはやっぱりよく意味がわからない。
どうして意味がわからないのかについては、かくいう私がその本の解説に「〈街的〉の構造」なる一文を寄せているので、そちらを読むと「どうして意味がわからないのかがわかる」ようになっている(行き届いた気遣い)。
なぜ「街的」の意味がわからないかというと、それは要するに「テロワール」ということだからである。
具体的ということだからである。
現に目の間に「あるもの」が存在し、たしかな特徴があり、魅力があり、それを指称する言葉として「これは・・・みたいである」という他のものと同類にくくりこむ言葉づかいが自制されるようなもの。
これは「これ」として屹立しており、他の何かと比較したり、その優劣を論じたり、類別したりするべきではないもの。
それが「街的」なものであり、「テロワール」である。
類似品がどこにもあって、ここでもよそでも、同じような仕方で、同じようなタイプの人間たちに「のべたん」で選好されているものは、収益の高い商品ではあろうが、江さん的なカテゴリーでは「街的」とは言われない。
江さんが『ミシュラン』に腹を立てているのは、それがぜんぜん「街的」ではないからだ。
別のところで江さんはこう書いている。

決定的なことですが、あの本は全く街的ではないですね。
調査員がちゃんと取材しているとかいないとか、そういうことではない。
街にでる人にとって「いい店」とは何か、そしてそこをどう評するというのが全く違う。
観念のことですね。
外食において日本は階層社会でないですね。もちろんこのところ指摘される「下流社会」のように、金が「ある/ない」の階層は顕在化しているけど、ブルデューの言うようなフランス的な社会階級はない。
だから500円の大阪のきつねうどんやお好み焼きはじめ、飲んで食べて3千5百円の鮨屋にはその鮨屋が持つ「絶対的」なおいしさがある。
明治26年開店きつねうどん発祥の大阪・南船場の松葉家の550円のうどんと、吉兆の昼ご飯2万円とがきれいに街場で並列しているということです。強弱、大小、優劣ではなしに。
図らずしも船場吉兆が「外食産業的」にああいうことになってますね。
けれども南船場のうまい店ということなら、松葉家も船場吉兆どちらもドラフト1位の存在ですが、ガイドブックを作る場合には、両店どちらも採り上げる、片一方のみを採り上げるの3パターンありますが、ぼくらがやってきたことというのは、エクゼクティブなシティ・ホテルにあるメインバーも横丁の焼鳥屋も「街のいい店」として同じ座標軸で見るような視点や一つの連続する文脈で語れないか、という問題意識がないと、こんな仕事やっていても面白くも何ともない。
そしてそこのみがいわゆる「読むところ」です。すなわちあんこの部分です。あとは店データ、つまるところ「消費にアクセスするための情報」ですね。
「鮨と洋食とお好み焼き(そちらの場合は蕎麦でしたっけ)は、地元(近所)のが絶対うまい」というのが、オレらの共通する認識でしたね。
加えて「浅草や岸和田では陽が高いうちから飲むことが、なぜ罷り通るのか」。
それを説明しようと、四苦八苦してそれこそのたうち回りながらやってきたわけです。
地元の鮨屋に行くことと、地元のフレンチのグランメゾンに行くことは、違うのかそうでないのか。
そこのところです。
けれどもたとえば外国人と日本人の外食、とりわけ「いい店」についての評価基準は違うにせよ、ミシュランによってこういうふうに経済効果、つまり「金儲け のツボ、ここにあり」てやられると、これから企業化した料理人や食業界人が、どんどん星を取れるような店を作っていくことになるでしょう。
銀行も「星で金を貸す」ようにもなるし。
そうやってやっていると、完全にしっぺ返しがくる。それも、街を致命的に損なうという仕方で。
コンビニという業態が、フリーターのアルバイトのスタッフだけで月坪50万円以上可能な商売で、それが経済合理的であるのが完全無欠な自明で、どんどん街に「画一的」に出来てきた。
かといって、街の黒帯のキミぼくアナタはコンビニに行かない、というわけでなく、おでんと黒霧島と氷を買って帰って、マンションでまったりしている。
「ピッ」なんてリモコンでDVDをつけて見ながら食べたりして。そのテレビでは大阪でも小倉でも同じみのもんたが東京弁で怒っている。
そういう「みんな」がミシュランについて、あーだこーだと言ってメディアに露出している。
まことに「チョロい」日常です。
どこから見ても、「グローバルスタンダードに経済合理的」なコンビニやファーストフードやレンタルショップは、端的に言うと「人と人とが出会わなくても回るシステム」ですね。
「いらっしゃいませ、こんにちわ」て言われて、店員と物理的に出会ったとしても、会社の近所のローソンへ毎日3回行っても馴染みにはならないし、「あそこのマクドは、オレの行きつけやから、こんど連れてってやるわ」なんていうのは絶対ない。
その倒立したおなじような文脈が、このミシュランを取り巻く情況なんだと思うのです。
フランス料理ではグラン・メゾン、レストラン、ビストロ、ブラッセリー、そしてカフェと、完全にヒエラルキーになっている。
店の造り内装から素材もスパイスも塩も調理も、あるいはメートル・ドテルやソムリエがいるとかいないとか、ワイングラスもバカラから脚のついていないコップまで、綺麗にグラデーションを描いている。
大阪ではそうじゃないですね、ご夫婦とホール係3人でやってるようなカウンターのカフェみたいな仏料理店が、リッツカールトンのメインダイナーよりも高い料理を出していて、それがいつも満員でうまい。
逆説的だが、鮨屋の場合だともっと端的で、お任せでおあいそ3万円というのは、大阪や浅草ではほとんど趣味の世界でしょ。
江戸時代から漁港があって、「浪速の台所」と呼ばれている玄人相手の黒門市場に魚を持ってきてた岸和田がうちの地元ですが、そこでは2万円以上の鮨を食うのはほとんど不可能です。
なんか、ミシュランの東京版を見ていると、マクドナルドとちょうど裏返しのグローバルスタンダードな、ものすごく貧しい「食文化」を採り上げている。それもアタマのてっぺんからつま先まで「消費社会である東京」の、という気がする。

江さんが採用している「街的」と「街的でないもの」の識別法は、九鬼周造が「いき」と「野暮」の識別に用いたのとほぼ同一のものである。
もちろん、江さんは『「いき」の構造』を読んで、それに倣ったのではなく、自分であれこれ考えているうちに、気がついたら「街場の九鬼周造」になってしまったのである。
話がわかりにくいといけないから、そのとき書いた私の解説も再録しておこう。

「いき」という現象はいかなる構造をもっているか。まず我々は、いかなる方法によって「いき」の構造を闡明し、「いき」の存在を把握することができるであろうか。「いき」が一の意味を構成していることはいうまでもない。また「いき」が言語として成立していることも事実である。しからば「いき」という語は各国語のうちに見出されるという普遍性を備えたものであろうか。我々はまずそれを調べてみなければならない。そうして、もし「いき」という語がわが国語にのみ存するものであるとしたならば、「いき」は特殊の民族性をもった意味であることになる。

これは九鬼周造の『「いき」の構造』の冒頭のことばである。引用した中の「いき」の語を「街的」に書き換えてもう一度読んで頂きたい(ついでに「わが国」を「私の街」に、「民族性」を「地元性」に)。そうすれば、本書で江さんが試みたことが、なるほど『「街的」の構造』と呼ぶ以外にないということがおわかりいただけるはずである。
九鬼はこれに続けてさらにたいせつなことを書いている。

我々は「いき」の理解に際してuniversalia の問題を唯名論の方向に解釈する異端者たるの覚悟を要す。すなわち「いき」を単に種概念として取り扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直観」を索めてはならない。意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得」でなくてはならない。我々は「いき」のessentia を問う前に、まず「いき」のexistentia を問うべきである。

ラテン語と哲学用語の乱れ打ちで読みにくいが、要するに「いき」という概念は世界人類が共有しているものではなくて、日本固有ものだから、「いき」を通じて、万国共通で全人類が共有する、その上位概念に到達しようとしたって無理だ、ということである。人類共通のある美的感覚が、たまたま日本語では「いき」という種概念で表現され、フランスでは「シック」という概念で表現され・・・というような序列にずらっと並んでいるわけではない。「いき」は日本にしかない美的概念である。だから、「いきの本質(エッセンシア)」を探し求めても仕方がない。「いき」の「具体的」で「事実的」で「特殊な」な実在態(エグジステンシア)の個別事例を丹念に取り上げて、その機能と構造を「ああでもない、こうでもない」と考究すること、それが「いき」の構造分析の骨法だと九鬼周造は言っているのである(たぶん)。(・・・)
「類概念」や「本質直観」というのは平たく言えば、「一を聞いて十を知る」ということである。「いきの構造」がわかれば、「シックの構造」も「エレガンスの構造」も、どんどん芋づる式にわかるというのなら、「いきの構造」を考究することは、費用対効果の高い知的操作である。
それなら勉強してもよい、という読者がいるかもしれない。
残念ながら、九鬼の本をいくら読んでも「いき」の個別事例についてはいろいろ教えてもらえるが、その他のことはさっぱり分からない。
九鬼が論じているのはきわめて具体的な、遊里での作法や着物の着付けや清元の音階のことである。流連(いつづけ)が野暮で、抜き衣紋が粋で、拍子の合った音曲が野暮だと教えられても、じゃあ、それを敷衍して、「いきなお好み焼き屋での注文のしかた」や「いきなアロハの着付け」や「いきなラップの歌唱法」が演繹的にわかるかというと、そういうことはない。「抽象的普遍」や「類概念」を求めてはならないと序言に書いている通りである。
『「いき」の構造』の逆説は、この本を読んでも少しも「いき」の構造がわからないという点に存する。
というのは、すべての「いき」なる現象に汎通的に妥当する構造法則を知りたいと望む読者がいたとしたら、そいつこそはきわめつけの「野暮」であると九鬼周造が書いているからである(書いてないけど、書いてあるのである)。

江さんが『ミシュラン』に対してつよい違和感を覚えるのは、要するに「店や料理の格付けなんかするのはきわめつけの野暮だ」と思っているからである。
ことの善し悪しを言っているのではない。ビジネスモデルとしての正否について論じているのでもない。
そういう「たいせつなもの」は情報として、数値として、記号として扱わない方がいい、と言っているのである。
だって、美味くなくなるから。
オレは美味いものが食べたい。
私は江さんのそういうスタンスは現代ではほとんど例外的なものになりつつあるような気がする。
「厭なものは厭だ」と言いのけた内田百閒先生の骨法は「正しいこと」ばかり言いたがる時代ではもう受け継ぐ人が少なくなったが、江さんは串カツと生ビールを両手にかざして、その孤塁を守っているようでまことに心強い。

2009.04.17

新学期が始まった

四月になって授業が始まる。
授業が始まると、生活がレギュラーになって、ようやく心身が休まる。
話が反対のようだが、授業のある日は他の用事を入れられないので、出講日の方が休みの日より暇なのである。
とはいえ今週末からキャリアデザインプログラムのインターンシップとて東京に学生さんたちを連れてゆかなければならない。
引き受け先は国立劇場である。
どうして神戸女学院大学のアートマネジメント副専攻の学生たちのインターンシップを国立劇場でできるかというと、ここに私の「店子」(スパイ用語では「アセット」と言い、忍者用語では「草」と言う)であるところのヤナイ氏が勤務されているからなのである。
ヤナイ氏についてはこの記事の左横に新刊書が紹介してあるので、そちらを徴せられたい。
店子のみなさんには無料でブログの一隅をお貸ししているわけであるが、こういうふうに何年かに一度巨額の利子付きで「店賃回収」されてひどい目に遭うこともあるから、気楽に店子になるのも考え物である。
今回はおまけに橋本治さんの薩摩琵琶の会があって、そこに学生ともどもご招待いただいた。
橋本さんともお会いできる。
そう言ったら「わーい、『桃尻娘』にサインしてもらおう」という奇特なことを言う学生がいた。
きょうびの女子学生にも『桃尻娘』をちゃんと読んでいるものがいるのである。侮れないねえ。
インターンシップのあと早稲田でナントカ学会で講演をして、翌日は講談社で町山智浩さんとアメリカと日本をめぐる対談をして、その翌日はお茶の水でめぐみ会東京支部で講演をして、それから代官山で高橋源一郎さんと『Sight』のための対談をするというダイハードなツァーである。
三日間で橋本治・町山智浩・高橋源一郎のお三方と会うのである。
たいへんだ。
養老先生から「ウチダさんは頭が丈夫な人だから」と以前太鼓判を捺されたけれど、この三連打では、さすがの持ち前の丈夫な頭もちぎれるかもしれない。

2009.04.18

東京インターンシップの旅

東京出張4日間ツァー初日。
今回の東京ツァーは既報のとおり、大学のアートマネジメント副専攻の「アートマネジメント演習」のインターンシップのための旅行である。
国立劇場のヤナイさんにアレンジしていただいて、義太夫の会のお手伝いをさせていただくのがメインの仕事なのであるが、インターンシップというのは知識や技術のことではなく、学生さんたちに見たことのない「プロの仕事」のたたずまいをお示しすれば、それで十分であると私は思っている。
仕事を説明する百万語よりも、ひとりの「プロ」の経験の奥底からわき出してくる、さりげない一言の方がずっと学生にとっては教育的である。
今回のツァーでは、とにかくヤナイさんという人が現場でどんなふうに人と接し、どんなふうに仕事を割り振り、どんなふうに予想外のトラブルに対応するか、それを砂かぶりで見て貰うだけで十分だと思っている。
実際にやる仕事は、キップのもぎりや物品販売や楽屋弁当の配達とかそういう「雑巾がけ」である。
けれども、現場にいるとわかるけれど、どのようなクリエイティブな仕事だって、要はそのような「雑巾がけ」の集積なのである。
「私は『そんな仕事』のためにここにいるんじゃない」といって腕組みしているような人間は、どんな現場でも使い物にならない。
どんな仕事をするのかは自分で決めるのではない。
「これやって」というかたちで負託されるものである。
これから仕事を覚えようという人は「これやって」と言われて「そんな仕事はできません」という言葉は口にしてはならない。
「そんな仕事はバカバカしくてできません」という場合でも、「そんな仕事は私の手に余るのでできません」という場合でも、それを口にしたら、とりあえずしばらくは誰からも仕事は頼まれない。
「しばらく」で済めばいいが、場合によっては「それっきり」ということもある。
つねづね学生さんたちに言っていることだけれど、「キャリアのドアにはドアノブがついていない」。
ドアは向こう側からしか開かないのである。
自分でこじあけることはできない。
そういう基本的なマインドだけを学んでくれれば、インターンシップの教育目的はほとんど達成されたと言ってよい。
私が学生たちに見てほしいのは、ヤナイさんの「働きぶり」である。
ヤナイさんはこのインターンシップの受け入れ先とJOTの責任者という仕事を自分で選んだ訳ではない(まさかね)。
「大家」である私にいきなり「店賃」がわりに「これやって」と言われて、(泣きながら)引き受けたのである。
「正直いって、シロートさんお面倒なんか見ている暇ないんだけどな…」という思いと、「インターンシップていうけど、ほんとにこれでいいのかな…」という思いに引き裂かれつつ、「ウチダさんに『これやって』って言われたからしかたないよな」ということで、全力で、かつ笑顔を絶やさずに、やっておられるのである。
そういうことができる人だから、「プロ」として現に多くの「プロ中のプロ」に信頼されているのである。
そこを見てほしいのである。学生諸君には。
新大阪に9時半に集合して、新幹線で東京へ。平河町のシックなホテルに投宿(最安パッケージだったので、予想にくらべてあまりにきれいなホテルだったので、びっくり。シモヤマくんありがとね)。
ヤナイさんにホテルまでお迎えに来ていただき、とりあえずお茶しながら、明日の仕事の概要を説明してもらってから、仕事の分担を決める。
それからヤナイさんのご案内で、今日のスペシャルイベント、薩摩琵琶の会に、南青山の銕仙会の能楽堂へ。
橋本治さんの新作「嶋の為朝」の初演を拝見する。
薩摩琵琶というのを拝見するのははじめてのことである。
邦楽というのは、日本人にとって「自分たちの音楽」ということである。
だから、「何をやっても、すべてオーセンティック」という特権を享受できる。
その特権を十分に駆使した、すてきなパフォーマンスであった。
会場でひさしぶりに橋本さんにお会いする。
いまはなき『月刊現代』の企画で関川夏央さんと鼎談して以来である。
これは関川さんと私がホストになって、毎回ゲストをお招きして、わいわいおしゃべりをするという、たいへんナイスな企画だったのであるが、『現代』の休刊により、一回だけで終わってしまったのである。
ヤナイさんのご案内で、橋本さん、橋本さんのエージェントの刈部さん、プロデューサーの長嶺さんたちと原宿でお食事会。
学生たちは席に就くやたちまち橋本さんの本を取り出して「サインお願いします」とにじり寄る。
『桃尻娘』の83年版の文庫本や『手とり足とり』編み物本や、ずいぶんと年季の入った本が取り出される。
聞けばどれも自宅の本棚に所蔵されていたものの由。
なんと親子二代で橋本治の読者なのである。
なんと。
その橋本さんからあふれるような「珠玉のおことば」を賜る。
橋本さんというのは、「こどもにもわかるように大人の叡智を語ることができる」希有の人である。
聞きながら思わず私も襟を正すような、味わい深いおことばであった。
橋本治さんからそれを直接聴くことができたのは、彼女たちにとって、きっと生涯忘れることのない貴重な思い出となるであろう。
明日のイベントには長嶺さんが「仕切り役」で学生たちを指導してくださるし、橋本さんも観客としてお見えになるそうである。
学ぶことの多いインターンシップになるとよいのだが。


2009.04.21

東京ツアー二日目

東京ツァー二日目。
学生たちを9時20分にお迎えのヤナイさんに託して、「いってらっしゃ〜い」と手を振る。
とりあえず、これで私のメインの仕事はおしまい。
学生たちは女流義太夫「はなやぐらの会」のお手伝いでインターンシップなのである。
演目は「菅原伝授手習鑑四段目寺子屋の段」。浄瑠璃・竹本駒之助、三味線・鶴澤寛也。その前説で作家の三浦しをんさんとヤナイさんがお話をする。
私は残念ながら、昼から学会仕事なので、学生を送り出して、インターンシップの現場はヤナイさんにお任せ。
とりあえず学士会館に移動して、荷物を預け、談話室でパソコンを開いて、『日本辺境論』の原稿を書く。
ごりごり原稿を書いているうちに時間となり、早稲田大学へ。
国際理解教育学会で講演とシンポジウム。
演題は「ことばの豊穣性に触れる− 音・身体・学び」
どういう趣旨の学会であり、私はそこで何をすることを期待されているのかを現地に行ってからお伺いするという、いつもの「泥縄」式である。
こういう世間をなめた態度でよろしいのかと、つねづね反省はしているのであるが、実際に現場に行って、スタッフや聴衆の「感じ」を見ないと、どういう話をしたらよいのか、よくわからないのである。
話のコンテンツについては、だいたいの準備はあるのだが、どういう「口調」で、どういうスピードで、どういうトーンで行ったらいいのかは、聴衆のリアクションを見ないと決められない。
本日は筋目の正しい学会であり、おいでになった方たちも研究者が多いので、その点、気楽である。
一般の人が多い会ではうっかりデタラメを言うと、「なるほど、そういうものか。それが学界的定説なのか」と思われてしまう懸念があるが、学会だと、私が何を言っても頭から信じる人はまずいないので、安心してデタラメが言える。
批評性のある聴衆を前にしてしゃべる方が遠慮なく思考が暴走する。
なるほど、学会というのは「そういう目的」のためにもあったのかとひとり納得して、ひたすら暴走する。
マンガ脳の話、男性語・女性語の話、仮名と真名の話、日本語のロックの話など、思いつくままに「日本語の特殊性」について話す。
つねづね申し上げているように、日本語は「すごく変な言語」である。
表音文字体系と表意文字体系が並列して脳内の別の部位で活動しているのである。
韓国が漢字とハングルの併用を止め、ベトナムが漢字とチュノムを棄ててアルファベット表記に変えた今、東アジアで二種類の言語を同一言語のうちに温存しているのは日本語だけである。
この二種類の言語を日本人は「図像」と「音声」という別の情報として脳内処理している。
だから、日本人は失読症の病態が二種類ある(漢字だけが読めなくなる、かなだけが読めなくなる)、きわめて例外的な言語なのであ(アルファベットで綴られる言語では、アルファベットが読めなくなると、すべての文字が読めなくなる。当たり前だけど)。
その二種類の言語は、同時に「外来の言語」と「土着の言語」でもある。
「男性語」と「女性語」でもある。
「理念語」と「実感語」でもある。
日本語によるすべての知的・美的達成はこの「外来と土着」「正系と異端」「男性原理と女性原理」「理念と実感」の絶妙のバランスの上に成立している。
というような話をフルスピードでする。
何の根拠もない、めちゃくちゃな話なのだが、聴衆のみなさんはけっこう喜んでおられたようである。
会場を脱兎のごとく逃げ出して、早稲田を後に、インターンシップの打ち上げの四谷会場に走り込む。
仕事をしないで、打ち上げだけ参加というのもどうかと思うが、会の主催者の鶴澤寛也さんがいらしているというので、学生をお引き受けくださったお礼を申さねばならず、ばたばたと駆け込んだのである。
鶴澤寛也さんは女流義太夫の三味線である。
水も滴るような玲瓏なる美女である。
私は男女を問わず、その容貌については原則として言及しないことにしているのだが、寛也さんのような女性を前にするとそういう語が日本語に存在していたことを思い出してしまうのである。
その寛也さんと名刺交換しながら「ども、うちの若いものがお世話になりまして」とご挨拶をしていると、ヤナイ夫人から「こちら萩尾望都さん」とご紹介される。
えええ。
ハギオモトって、あの…
先般、京都マンガミュージアムで竹宮恵子さんにお会いしたときも、どう言っていいかわからず「あ、ぼくファンです…」とかうつむきかげんに言うばかりでさっぱり要領を得なかったのであるが、萩尾さんにも「あ、『トーマの心臓』読みました…『ポーの一族』も、『11人いる』もう」などと言ってもせんかたないことなので、あ、どうもどうも、そ、そうですか、と要領を得ないままにおろおろしていると、今度は直木賞作家の三浦しをんさんがやってくる。
濃いなあ。
萩尾さんも三浦さんも、寛也さんのファンなのである。
その三人とヤナイ夫人、寛也さんのお弟子さんたちをまじえてマンガについて、書くことについて、芸について、日本の音楽について、お話しする。
それぞれの世界の最前線で仕事をしている女性たちである。
スマートで、それでいて暖かい手触りの女性たちと至福の時間を過ごす。
学生たちを送り出し、ヤナイさんご一家(ご令息も昨日今日とこのインターンシップイベントにおつきあいいただいたのである)にお礼を申し上げ、寛也さんには今度女学院にワークショップに来て下さいねとお願いをし、萩尾さんの乗った車に最敬礼をして、スタッフのみなさんにお別れして学士会館に戻る。

神楽坂に町山節が響くとき

東京の旅、三日目。
ぐっすり眠って、学士会館で目覚める。
平日なので、静かである。
学士会館は旧七帝大のクラブハウスであるから、男性の高齢者が多い(というか、ほとんど彼らしかいない)。
英国のクラブハウスをモデルにして作ったもので、私はこの芝居じみた設定がわりと好きである。
大正年間の建物だから、十分に風雪に耐えているのだが、それでも「普請中」という感じがする。
本日締め切りの原稿が二本あるので、それをごりごり書いてゆく。
『中央公論』の時評を書き上げて送稿。
『文藝春秋』の方は字数が足りないので、書き足しているうちに仕事の刻限となる。
タクシーで音羽の講談社へ。
町山智浩さんと「アメリカ論・日本論」の対談。
これは最初と最後に直接お会いして対談をし、中はバークレーと御影でインターネット往復書簡という結構のものである。
その最初の対談。
同じ趣向で一昨年の夏に『週刊現代』で対談をしたことがあり、その流れで、そのときの担当者の戸井さんが企画してくれた。
対談のテープ起こしと編集はミシマ社の大越くんである。
ひさしく『映画秘宝』と柳下毅一郎さんとのユニット、ファビュラス・バーカー・ボーイズのファンであった私にとって、町山さんと共著を出すというのは「夢のような仕事」である。
町山さんは滞米11年、アメリカのハイカルチャーもサブカルチャーも見落としなく目配りしてアメリカの現状をレポートしている、たぶん唯一のアメリカ・ウオッチャーである。
私のアメリカについての知識の80%くらいは町山さん経由で得たものである。
とりわけその膨大な(底知れぬ)アメリカ映画についての知識は、アメリカ人がどのようにして「アメリカという神話」を作り出してきたのかを解明する上で、きわめて有効なウエポンであると私は思っている。
この往復書簡も、その相当部分はアメリカ映画を素材にして展開することになるだろうと思う。
町山さんと映画の話をするのはまことに楽しいのであるが、困ったことが一つある。
町山さんは異常なほどの映像記憶力の持ち主で、子どもの頃テレビで見た映画についてさえ、その細部まで、台詞もカットもすべて記憶している。
ところが、私はゆうべ見た映画についてさえ、そのストーリーも覚えていないような人間である(うっかりそのままDVDをオンにして、「あれ…これ昨日見た映画じゃないかしら」と気づくまでに数分を要する。それどころか、「昨日みた映画」なのに、ストーリーを覚えていないので、「ちょうどいいからもう一度見よう」と思うような人間なのである)。
だから、町山さんと当然のように映画の話になるのであるが、町山さんに「そこでこうなるじゃないですか」と言われても呆然とすることが多い。
え、そんな映画だったんですか…
3回くらい見て「大好きな映画です」とあちこちに触れ回っているような映画についてさえ、「あらすじ」の記憶が間違っていたりする。
困ったものである。
この点では、私は平川克美くんとだいたい同じくらいに記憶がいい加減である。
だから、私と平川くんが二人で「映画の話」をしたら、おそらくすべてが「誰も見たことがない映画」の話になってしまうであろう(それはそれで面白そうだけれど)。
講談社の26階で下界を睥睨しつつ、ハイスピードで語り合うこと4時間半(テープ起こしする大越くんご苦労さま)。
といっても全体の80%くらいは町山さんの語りで、私は「げらげら」笑って「あらそうなんだ」と合いの手を入れているだけである。
楽な仕事でいいですね、と言われそうであるが、絶妙のタイミングで「ほうほう」とうなずきを入れるのは、それなりに年季の要る「芸」なのである。なめたらあかんよ。
そのあと神楽坂に移動して、加藤晴之さんを加えた打ち上げ宴会になだれ込む。
ここでも町山さんの映画トークはさらに加熱。
あまりに面白いので、途中で大越くんがICレコーダーを取り出して、録音を始めてしまう。
町山節を堪能した一日でした。
ああ、おもしろかった。

2009.04.23

死のロードからの帰還

東京死のロード4日間が無事に終わり、レギュラーな生活に戻る。
4日目はお茶の水の東京ガーデンパレスにて「めぐみ会東京支部総会」で講演。
めぐみ会東京支部には大学もくさぐさのご奉仕を賜っているので、こういうところでご恩返しをしないと相済まないのである。
松沢院長もおいでになっているので、あわてて「昨日の部長会さぼっちゃってすみません」と謝る。
石割同窓会長との間にはさまれてご飯を食べる。
ぱくぱく。
食事後、講演。
完全クローズドの「内輪のパーティ」であるので、実名出し放題の「絶対に活字化できない講演」である。
放送禁止用語乱発で「寄席でしか聴けない落語」みたいなものである。
バジリコとミシマ社から「出店」していただき、講演の前後に100冊くらい(もっとかな)著書のサインをする。
もともと私の読者だったという同窓生もおられるし、「今の話を聞いて」私の本をお買い上げくださる気になったという同窓生もおられる。
続いて『Sight』の鼎談のために、代官山へ拉致される。
お相手の高橋源一郎さんが2時間遅れるということで、その「つなぎ」に渋谷陽一さんから「婚活」についてインタビューを受ける。
ついこのあいだ『AERA』でも「婚活」話をしたばかりである。
「『誰とでも結婚できる』というのが真の大人である」という話と「結婚は修業です」という話をする。
仕事の場においては、どのような人とペアを組まされても、気分よくコミュニケーションできて、相手の知られざる潜在能力を引き出して、「チーム」として高いパフォーマンスを発揮できる人間が「仕事のできるやつ」であることは論を俟たない。
「こんな人たちが同僚では相手では自分のほんとうの能力も『自分らしさ』も発揮できない」と不満を持ち、「どこかに私の資質が全面開花する理想の職場があるに違いない」と思って離職転職を重ねる人間に仕事のできる人間がいたためしはない。
結婚だっていっしょである。
結婚相手の選択が正しいかどうかは、事前に網羅的なスクリーニングを行うことで果たされるのではなく、結果として幸福になったかどうかで事後的に決まるのである。
高橋源ちゃんの場合はどうなるんだろうねと(本人がまだ来てないので)渋谷さんと首をひねる。
高橋さんの場合は「かなりさまざまのタイプの女性を配偶者として受け入れる能力がある」ことは確かであるから、「大人」であることは間違いない。
「『修業』のつもりなのかな~」
「いや、あれはマゾヒズムだよ」
本人がいないので言いたい放題である。
高橋さんが駆けつけたので、さっそく「自民党政治の終焉」について鼎談。
宇多田ヒカルの話から入って、日本語で政治をやるとぜんぶ自民党政治になってしまうという驚愕の結論に達する。
めちゃくちゃ面白い話なので、『Sight』の40号(5月30日発売)ぜひ読んでください。
雨の代官山を後にして、ようやく四日ぶりに御影に帰る。
朝起きて鏡を見たら、目の下に真っ黒なくまができていた。
そりゃ、つかれますって。

2009.04.26

中沢新一さんとペルシエでワインを飲む

朝から大学で書類書き、授業、会議が三つ。それから、また書類書きで一日が暮れる。
二日間で講演依頼が6件(メールで2件、電話で3件、ファックスで1件)。全部断る。
「講演はやりません」と電話を切った後に、すぐにかかってくると「だから、講演はやらないって言ってるでしょう」と声が荒くなる。
先方には何の罪もないわけで、「だから」なんて言われても意味がわからない。
気の毒である。
けんもほろろのあしらいをうけたみなさんほんとうにすみませんでした。
武道関係の学会から講演依頼があったが、もちろん断る。
私を武道関係者の集まりに呼ぶのは、飢えたネコの群れにまるまると太ったネズミを放り込むようなものである。
たちまち八つ裂きにされてしまう。
私の武道論を読めばわかるけれど、私は現代武道の「勝利第一主義」を反武道的なものとして徹底批判している人間である。中学校の武道必修化にも反対している。
そんな主張をなしていることをご存じの上で学会が人選したのだとすれば、武道界にも危機感をもっている人がおられるということであるけれど。
終日会議のあと、家に駆け戻る。
ペルシエで中沢新一さんと7月の対談のためのうち合わせ。
中沢さんと私は同じ1970年入学であるから、同時期にキャンパスを遊弋し、共通の友人(佐々木“トンペイ”陽太郎くんや鈴木晶さん)がいたにもかかわらず、これまでお会いする機会がなかった。
中沢さんが『チベットのモーツァルト』で「ニューアカでミズム」の旗手として劇的にデビューした頃、私は育児と翻訳に明け暮れていた
そのレヴィナスの『困難な自由』の翻訳を最初に「朝日ジャーナル」で取り上げて好意的に書評してくれたのは中沢さんである。
久しく、比較的近い領域で仕事をしていたのに、まったくニアミスがなかったというのも、考えれば不思議なものである(佐々木くんのお葬式ですれ違っているはずだけれど、たぶんその一回だけ)。
でも、こういうものはご縁であって、自分で作為しない方がよろしいのである。流れに身を任せていると、会うべき人とは会うべきときに会うのである。
今回の対談は中沢さんが所長の多摩美大の芸術人類学研究所の主宰する「くくのち学舎」のキックオフイベントのためのものである。
スタジオ・ジブリの平林さんがセッティングしてくれた。
きっかけは釈先生の『不干斎ハビアン』の涙骨賞受賞の審査員が山折先生と中沢さんだったことである。
この奇特な研究者とぜひ一度会ってみたいという中沢さん側の希望と、ご拝顔の上ひとこと中沢さんに受賞のお礼のご挨拶をしたいという釈先生の希望と、この機会に中沢さんと私を引き合わせてコラボレーションのイベントを仕掛けたいという平林さんの希望が一致して、いっしょにご飯を食べることになったのである。
中沢さんと私が初対面でどんな話をしたか、興味のある方は多いと思うし、実際に平林さんは録音していたのであるが、ほとんどすべて「実名トーク」であるので、70%くらいは公開不可能なのである(おもしろかったんだよお)。
その中沢新一さんとのトークセッションは下記の通り。
東京方面のみなさん、どうぞおいでくださいまし。
くくのち学舎キックオフイベント-これからの日本に本当に必要なもの-
講師:中沢新一×内田樹
日時:7月5日(日) 14:00-16:00
場所:四谷ひろば講堂(東京都新宿区旧四谷第四小学校跡、地下鉄都営新宿線曙橋、丸ノ内線四谷三丁目から徒歩5分)
定員:300名
お問い合わせ先は
多摩美術大学芸術人類学研究所
99nochi@gmail.com

2009.04.29

草食な時代

四年生の専攻ゼミでは「草食男子から平成雑食メンズ」というお題でお話を伺う。
こういう世代論的分類法はどれほど信憑性があるのかしらないけれど、遠く「モボモガ」や「アプレゲエル」の時代から始まって「太陽族」「六本木族」「みゆき族」など「族」時代を経て、「○金/○ビ」、「根暗」、「新人類」、など無数のバリエーションがある。
どれも世相をすぱりと切り取って、鮮やかである。
今回の「草食系」というのはネーミングが卓越していたので、広く人口に膾炙した。
けれども、それも「もう古い」のだそうである。
一月ほど前にはじめて耳にした世代分類カテゴリーが「もう古い」と言われては、おじさんの立つ瀬がありません。
きみたちの好きにしたまえ。
ただ、高度成長期、バブル期など「お金がだぶついているとき」は肉食系の生き方が有利であり、低成長・不況・雇用不安期には草食系の生き方が有利であるという大きな流れはあると思っていいだろう。
資源が潤沢にあるときは、「勝ったものが総取りする」というルールが可能である。
ワイルドなルールが適用されるのは、実は「負けたもの」が「余り物」で十分生きていけるほどに資源が潤沢だからである。
けれども、資源に限りがある状況では、資源の分配にはそれほど手荒な方法は採れない。
まず弱者に手厚くして、共同体から脱落者を出さないことが、相対競争の優者がひとり特権を享受することよりも優先的に配慮されるようになる。
こういう分配ルールのシフトはほとんど無意識的にスイッチが切り替わる。
私の記憶では1950年代までは日本人は総じて「草食的」であった。
サバンナのトムソンガゼルのように、身を寄せ合って、敗戦国の劣位という窮乏に耐えていた。
関川夏央さんが「共和的な貧しさ」と呼んだのは、この草食動物的な群居本能がこの時期に採択した生存戦略のことである。
1964年の東京オリンピックを境として、日本人はしだいに「肉食」化していった。
それはスタンドアロンで動く方が群れをなすよりも可動域が広く、「狩り」のチャンスも収穫も大きいという考え方が可能になったからである。
それだけ「狩り場」が広くなり、「獲物」も増えてきたということである。グローバル化とはそういうことである。
社会が豊かになると「肉食」的な生き方の方が有利となる。
弱者や劣者を「食い物」にする生き方が推奨される。
そういう「肉食ベース」が1992年のバブル崩壊まで続いた(頭の切り替えができない人たちの間では2008年のリーマンショックまで続いた)。
私たちは今、資源は有限である以上、分配は「まず弱者から」という草食的発想に戻りつつある。
一昨日、私は芦屋ラポルテの前を歩いていた。
そこでは交通遺児たちのための募金活動が行われていた。
私は過去20年間、この募金箱の前を素通りしていた。
ところが、一昨日私はほとんど無意識に財布を取り出して、募金箱に募金をしてしまった。
私の前を歩いていた人も私の後ろを歩いていた人も、三人がほぼ同時に財布を取り出して募金箱に千円札を投じていた。
たぶんそれが「時代の空気」なのである。
自分は相対的には豊かであると思っている人間がそのことについて一抹の「疚しさ」を覚えるような時代の空気になっている。
もちろんそんなことを少しも感じないで、自己利益の追求に熱中している人もまだたくさんいるだろう。
けれども、そういう生き方はもう「デフォルト」ではなくなった。
私にはそう感じられる。
募金箱にわずかばかりの金を投じたくらいのことで何を大仰な、と思う方もいるだろうけれど、私の経験は、時代の変化はこういうささいな徴候のうちに表れると教えている。
地球生態系に65億の人類をこのまま養うだけの資源がない以上、総体として私たちが「飢餓ベース」「貧困ベース」「弱者ベース」の生存戦略に切り替えることはおそらくは人類学的必然であるように私には思えるのである。


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