「街的」の骨法

2009-04-14 mardi

江さんが『ミシュランガイド 京都・大阪版』についてきびしいコメントを発している。
4月6日の140Bのブログに江さんはこう書いている。

ミシュランの記者会見があるので行ってきた。
このことはすでにテレビや新聞で「ミシュランガイド京都・大阪版発行へ」というふうに報道されているのだけれど、実はとある週刊誌の取材だったのだが、このところ京都・大阪の街場で、ミシュランの覆面調査員の「プレセレクション」が終わり、すでに「調査員だと名乗って追加調査」する「訪問調査」に入っているのだ。
その際のやり取りで、「取材拒否」が多く、それは「これ以上新規のお客さんが来ると困るから」とか、「星の数が少なく載せられたら困るから」とかいろんな事情があるのだが、普段来ない顔の見えない訳のわからない人に格付けされることに対しての違和感だろう。
その底には、京都・大阪といった固有の、歴史と風土と人に裏打ちされた食をとりまく文化が果たしてあなた方に理解していただけるのかどうかの疑問がある。
アラン・デュカスはミシュラン最多の星を持つシェフとして知られているが、彼はその土地土地の代替不可能な気候や地勢、土壌、風土、人びとの気質…といったもののうえに、その土地の人々に愛されてきた料理素材があり、伝承され支持されてきた調理法があると主張している。
それは「テロワール」という術語めいた言葉で表現され、彼は「料理は地方と共にある」という言い方や「その土地への敬意」という表現で言明している。

terroire というのはワインや料理についてよく使われる言葉だが、「地方の固有性」ということである。和語で言えば「お国柄」である。
江さんがこの言葉に「びびっ」と来たのは、それが江さんの世界観の基軸をなす「街的」という言葉と共振したからだろう。
江さんの言う「街的」なる概念は『「街的」ということ』(講談社現代新書)に本一冊使って論じられているが、新書一冊読んでも「街的」ということはやっぱりよく意味がわからない。
どうして意味がわからないのかについては、かくいう私がその本の解説に「〈街的〉の構造」なる一文を寄せているので、そちらを読むと「どうして意味がわからないのかがわかる」ようになっている(行き届いた気遣い)。
なぜ「街的」の意味がわからないかというと、それは要するに「テロワール」ということだからである。
具体的ということだからである。
現に目の間に「あるもの」が存在し、たしかな特徴があり、魅力があり、それを指称する言葉として「これは・・・みたいである」という他のものと同類にくくりこむ言葉づかいが自制されるようなもの。
これは「これ」として屹立しており、他の何かと比較したり、その優劣を論じたり、類別したりするべきではないもの。
それが「街的」なものであり、「テロワール」である。
類似品がどこにもあって、ここでもよそでも、同じような仕方で、同じようなタイプの人間たちに「のべたん」で選好されているものは、収益の高い商品ではあろうが、江さん的なカテゴリーでは「街的」とは言われない。
江さんが『ミシュラン』に腹を立てているのは、それがぜんぜん「街的」ではないからだ。
別のところで江さんはこう書いている。

決定的なことですが、あの本は全く街的ではないですね。
調査員がちゃんと取材しているとかいないとか、そういうことではない。
街にでる人にとって「いい店」とは何か、そしてそこをどう評するというのが全く違う。
観念のことですね。
外食において日本は階層社会でないですね。もちろんこのところ指摘される「下流社会」のように、金が「ある/ない」の階層は顕在化しているけど、ブルデューの言うようなフランス的な社会階級はない。
だから 500 円の大阪のきつねうどんやお好み焼きはじめ、飲んで食べて3千5百円の鮨屋にはその鮨屋が持つ「絶対的」なおいしさがある。
明治 26 年開店きつねうどん発祥の大阪・南船場の松葉家の 55 0円のうどんと、吉兆の昼ご飯 2 万円とがきれいに街場で並列しているということです。強弱、大小、優劣ではなしに。
図らずしも船場吉兆が「外食産業的」にああいうことになってますね。
けれども南船場のうまい店ということなら、松葉家も船場吉兆どちらもドラフト 1 位の存在ですが、ガイドブックを作る場合には、両店どちらも採り上げる、片一方のみを採り上げるの 3 パターンありますが、ぼくらがやってきたことというのは、エクゼクティブなシティ・ホテルにあるメインバーも横丁の焼鳥屋も「街のいい店」として同じ座標軸で見るような視点や一つの連続する文脈で語れないか、という問題意識がないと、こんな仕事やっていても面白くも何ともない。
そしてそこのみがいわゆる「読むところ」です。すなわちあんこの部分です。あとは店データ、つまるところ「消費にアクセスするための情報」ですね。
「鮨と洋食とお好み焼き(そちらの場合は蕎麦でしたっけ)は、地元(近所)のが絶対うまい」というのが、オレらの共通する認識でしたね。
加えて「浅草や岸和田では陽が高いうちから飲むことが、なぜ罷り通るのか」。
それを説明しようと、四苦八苦してそれこそのたうち回りながらやってきたわけです。
地元の鮨屋に行くことと、地元のフレンチのグランメゾンに行くことは、違うのかそうでないのか。
そこのところです。
けれどもたとえば外国人と日本人の外食、とりわけ「いい店」についての評価基準は違うにせよ、ミシュランによってこういうふうに経済効果、つまり「金儲けのツボ、ここにあり」てやられると、これから企業化した料理人や食業界人が、どんどん星を取れるような店を作っていくことになるでしょう。
銀行も「星で金を貸す」ようにもなるし。
そうやってやっていると、完全にしっぺ返しがくる。それも、街を致命的に損なうという仕方で。
コンビニという業態が、フリーターのアルバイトのスタッフだけで月坪 50 万円以上可能な商売で、それが経済合理的であるのが完全無欠な自明で、どんどん街に「画一的」に出来てきた。
かといって、街の黒帯のキミぼくアナタはコンビニに行かない、というわけでなく、おでんと黒霧島と氷を買って帰って、マンションでまったりしている。
「ピッ」なんてリモコンで DVD をつけて見ながら食べたりして。そのテレビでは大阪でも小倉でも同じみのもんたが東京弁で怒っている。
そういう「みんな」がミシュランについて、あーだこーだと言ってメディアに露出している。
まことに「チョロい」日常です。
どこから見ても、「グローバルスタンダードに経済合理的」なコンビニやファーストフードやレンタルショップは、端的に言うと「人と人とが出会わなくても回るシステム」ですね。
「いらっしゃいませ、こんにちわ」て言われて、店員と物理的に出会ったとしても、会社の近所のローソンへ毎日 3 回行っても馴染みにはならないし、「あそこのマクドは、オレの行きつけやから、こんど連れてってやるわ」なんていうのは絶対ない。
その倒立したおなじような文脈が、このミシュランを取り巻く情況なんだと思うのです。
フランス料理ではグラン・メゾン、レストラン、ビストロ、ブラッセリー、そしてカフェと、完全にヒエラルキーになっている。
店の造り内装から素材もスパイスも塩も調理も、あるいはメートル・ドテルやソムリエがいるとかいないとか、ワイングラスもバカラから脚のついていないコップまで、綺麗にグラデーションを描いている。
大阪ではそうじゃないですね、ご夫婦とホール係3人でやってるようなカウンターのカフェみたいな仏料理店が、リッツカールトンのメインダイナーよりも高い料理を出していて、それがいつも満員でうまい。
逆説的だが、鮨屋の場合だともっと端的で、お任せでおあいそ3万円というのは、大阪や浅草ではほとんど趣味の世界でしょ。
江戸時代から漁港があって、「浪速の台所」と呼ばれている玄人相手の黒門市場に魚を持ってきてた岸和田がうちの地元ですが、そこでは2万円以上の鮨を食うのはほとんど不可能です。
なんか、ミシュランの東京版を見ていると、マクドナルドとちょうど裏返しのグローバルスタンダードな、ものすごく貧しい「食文化」を採り上げている。それもアタマのてっぺんからつま先まで「消費社会である東京」の、という気がする。

江さんが採用している「街的」と「街的でないもの」の識別法は、九鬼周造が「いき」と「野暮」の識別に用いたのとほぼ同一のものである。
もちろん、江さんは『「いき」の構造』を読んで、それに倣ったのではなく、自分であれこれ考えているうちに、気がついたら「街場の九鬼周造」になってしまったのである。
話がわかりにくいといけないから、そのとき書いた私の解説も再録しておこう。

「いき」という現象はいかなる構造をもっているか。まず我々は、いかなる方法によって「いき」の構造を闡明し、「いき」の存在を把握することができるであろうか。「いき」が一の意味を構成していることはいうまでもない。また「いき」が言語として成立していることも事実である。しからば「いき」という語は各国語のうちに見出されるという普遍性を備えたものであろうか。我々はまずそれを調べてみなければならない。そうして、もし「いき」という語がわが国語にのみ存するものであるとしたならば、「いき」は特殊の民族性をもった意味であることになる。

これは九鬼周造の『「いき」の構造』の冒頭のことばである。引用した中の「いき」の語を「街的」に書き換えてもう一度読んで頂きたい(ついでに「わが国」を「私の街」に、「民族性」を「地元性」に)。そうすれば、本書で江さんが試みたことが、なるほど『「街的」の構造』と呼ぶ以外にないということがおわかりいただけるはずである。
九鬼はこれに続けてさらにたいせつなことを書いている。

我々は「いき」の理解に際して universalia の問題を唯名論の方向に解釈する異端者たるの覚悟を要す。すなわち「いき」を単に種概念として取り扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直観」を索めてはならない。意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得」でなくてはならない。我々は「いき」の essentia を問う前に、まず「いき」の existentia を問うべきである。

ラテン語と哲学用語の乱れ打ちで読みにくいが、要するに「いき」という概念は世界人類が共有しているものではなくて、日本固有ものだから、「いき」を通じて、万国共通で全人類が共有する、その上位概念に到達しようとしたって無理だ、ということである。人類共通のある美的感覚が、たまたま日本語では「いき」という種概念で表現され、フランスでは「シック」という概念で表現され・・・というような序列にずらっと並んでいるわけではない。「いき」は日本にしかない美的概念である。だから、「いきの本質(エッセンシア)」を探し求めても仕方がない。「いき」の「具体的」で「事実的」で「特殊な」な実在態(エグジステンシア)の個別事例を丹念に取り上げて、その機能と構造を「ああでもない、こうでもない」と考究すること、それが「いき」の構造分析の骨法だと九鬼周造は言っているのである(たぶん)。(…)
「類概念」や「本質直観」というのは平たく言えば、「一を聞いて十を知る」ということである。「いきの構造」がわかれば、「シックの構造」も「エレガンスの構造」も、どんどん芋づる式にわかるというのなら、「いきの構造」を考究することは、費用対効果の高い知的操作である。
それなら勉強してもよい、という読者がいるかもしれない。
残念ながら、九鬼の本をいくら読んでも「いき」の個別事例についてはいろいろ教えてもらえるが、その他のことはさっぱり分からない。
九鬼が論じているのはきわめて具体的な、遊里での作法や着物の着付けや清元の音階のことである。流連(いつづけ)が野暮で、抜き衣紋が粋で、拍子の合った音曲が野暮だと教えられても、じゃあ、それを敷衍して、「いきなお好み焼き屋での注文のしかた」や「いきなアロハの着付け」や「いきなラップの歌唱法」が演繹的にわかるかというと、そういうことはない。「抽象的普遍」や「類概念」を求めてはならないと序言に書いている通りである。
『「いき」の構造』の逆説は、この本を読んでも少しも「いき」の構造がわからないという点に存する。
というのは、すべての「いき」なる現象に汎通的に妥当する構造法則を知りたいと望む読者がいたとしたら、そいつこそはきわめつけの「野暮」であると九鬼周造が書いているからである(書いてないけど、書いてあるのである)。
江さんが『ミシュラン』に対してつよい違和感を覚えるのは、要するに「店や料理の格付けなんかするのはきわめつけの野暮だ」と思っているからである。
ことの善し悪しを言っているのではない。ビジネスモデルとしての正否について論じているのでもない。
そういう「たいせつなもの」は情報として、数値として、記号として扱わない方がいい、と言っているのである。
だって、美味くなくなるから。
オレは美味いものが食べたい。
私は江さんのそういうスタンスは現代ではほとんど例外的なものになりつつあるような気がする。
「厭なものは厭だ」と言いのけた内田百閒先生の骨法は「正しいこと」ばかり言いたがる時代ではもう受け継ぐ人が少なくなったが、江さんは串カツと生ビールを両手にかざして、その孤塁を守っているようでまことに心強い。
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