書物について

2009-04-05 dimanche

「当心村上春樹」という本が届く。
トップページに表紙写真があるように『村上春樹にご用心』の中国語版である。
読めない・・・
著者略歴の「研究領域為法国現代思想、武道論、電影論」(簡体字だけど)はかろうじてわかる。
「倒立日本論」とか「私家版・猶太文化論」もわかりますね。
でも、本文はお手上げである。
残念なことである。
訳してくださったのは読めない字の名前の人である(ひどい紹介だこと)。
四川外語学院日本語系教授、四川外語学院日本学研究所所長。著作に『少女漫画・女作家・日本人』、『日本文化論』。訳書に『人間失格』、『鏡子の家』(ほお)。あと『他人之ナントカ』、『床上的眼晴』(なんだろう『ベッドタイムアイズ』かしら)、『空翻』(うう、わからん)などの訳書がある方でした。
自著の訳者という人とはできることならお友だちになりたいものである。
どんな気分でこの本を選び、また訳されたのか、機会があれば、ぜひ訊いてみたい(たまたま出版社から話があり、そのときはひどく金に困っていたので・・・というようなことでなければうれしいのであるが)。
『下流志向』の韓国語訳も出ているので、私の本を訳した方、このブログを読んでいたら、ウチダあてにご一報ください。
文通しましょう。

日本文藝協会からまた「文藝著作権通信」が送られてくる。
Googleの話の続きである。
「電子図書館の光と影」というタイトルで、ネット上で書籍の閲覧が可能になった場合のプラスとマイナスを論じている。
プラスというのは、これまでそれを所蔵している図書館まで足を運ばなければ閲覧できなかった本でも、稀覯本も、紙の劣化が著しく一般読者には閲読不可能であった本でも、電子データ化されれば誰でも閲覧できるようになることである。
アクセシビリティは飛躍的に向上する。
それは間違いなく、私たちの知的アクティヴィティをおおきく活性化してくれるはずである。
マイナスというのは要するに「本が売れなくなる」ということに尽くされる。
そんなことをすると地方図書館が図書の買い控えをするようになるのではないかとこのパンフレットの書き手は心配している。
「新刊書がただちにデジタル・アーカイブされ(画像として保存されるということです)、その画像をインターネットで送信して、家庭のパソコンで見ることができれば、本を買う必要がまったくなくなることは間違いありません。
大変便利な時代になったという気もしますが、そうすると文芸家はどこから収入を得ればいいのかという大きな問題が生じます。
紙の本の印税によって生計を立てるという従来の考え方を、根底から変えなければならない時代が、すぐ目の前に迫っているのかも知れません。」(「文藝著作権通信」、11号、NPO日本文藝著作権センター、2009 年 3 月)
そうだと思う。
「従来の考え方を、根底から変えなければならない時代が、すぐ目の前に迫っている」と私も思う。
鉄道が電化されれば蒸気機関車が不要になるように、橋がかかれば渡し船が不要になるように、テクノロジーの進歩はその代償として必ず「それまで存在した仕事」を奪う。
「紙の本の印税だけによって生計を立てる」という生き方はこのあとかなりむずかしくなるだろう(今でも十分にむずかしいが)。
だが、それは圧倒的な利便性を提供するテクノロジーを導入することの代償として受け容れざるを得ないのではないか。
「音楽だけで生計を立てる」こと「芝居で生計を立てること」を望んでいる人は今もたくさんいるが、ほとんどの人はそれを実現できていない。
「食えないなら止める」という人は止めて、「食えなくてもやる」という人だけが残ってゲームを続ける。
文芸家もそれと同じだろう。
それに、著作権者の相当数は「それで食っている」専門家ではなく、著作権の継承者である。
ご自身の本業は他にあって、「紙の本の印税だけで生計を立て」ているわけではない。
もし、自分は何も働かず、親族の残した著作権からの収益だけで暮らしている人がいたとして、その既得権がそれほど優先的に配慮されるべきものだと私は思わない。
というような私の主張を想定してかもしれないけれど、パンフレットには次のような文言があった。

「大学研究者の中には、著作権そのものへの意識が希薄な人々が多いことも、問題を拡散させる一つの原因になっています。大学教授などの研究者は、大学から給料と研究費を貰っていて、それだけで生活も研究もできます。
たまに本を出してもそこから利益を得るのではなく、むしろ多くの人々に読んでもらえればうれしいという発想しかありません。
他の研究者が引用したり言及したりしてくれると、それが研究者としての実績にもなるので、自分の著作や論文がネットで検索できるのは大歓迎ということになります。」

これは私のことを書いているのか・・・という気がするのは別に私の被害妄想ではなく、この問題について先日東京新聞が記事を書いたとき、「著作権を守れ」側を代表して三田誠広日本文藝家協会副理事長が、「パブリックドメイン」側を代表して私がコメントを寄せていたからである。
私は決して「著作権への意識が希薄」ではないと思う。どちらかというと、そのことに敏感である。だからこそ、著作権の管理を協会に委ねず、自分でしているのである。
ご存じのように、私はネット上で公開した自分のテクストについては「著作権放棄」を宣言している。
私の書いたことをそのままご自分の名前で発表していただいて、原稿料なり印税収入なりを得られても結構ですと宣言しているのである(まだ試みた人はおられないが)。
それは私にとって書くことの目的が生計を立てるではなく、一人でも多くの人に自分の考えや感じ方を共有してもらうことだからである。
もし私の書いていることの中にわずかなりとも世界の成り立ちや人間のあり方についての掬すべき知見が含まれているなら、それについて私が「これは私のものだ」と著作権を言い立て、「勝手に使うな」というのはことの筋目が違っているだろう。
それに私が「大学教授」であるのもあと2年のことである。
その後はもう給料も研究費ももらえない。
でも、たぶんその後も私は研究を続けるだろうし、著作も書き続けるだろう(たぶん今よりハイペースで)。
それは私は中学生のときから一貫して、「一人でも多くの読者に書いたことを読んで欲しい」と思ってきたからである。
職業が変わったくらいで、このマインドは変わらない。
問題は大学教授であるか専業作家であるかという「立場の違い」ではなくて、「マインドの違い」だと思う。
著作権からの収益が確保されないなら、一切テクストの公開を許さないという人はそうされればよいと思う。
それによってその人のテクストへのアクセスが相対的に困難になり、その人の才能や知見が私たちの共有財産となる可能性も損なわれても、そんなことは著作権保護に比べれば副次的なことにすぎないというなら、仕方がない。
だが、何度も書いているように、私たちは全員が「無償のテクストを読む」というところから長い読者人生をスタートする。
これに例外はない。
誰かがどこかで買ってきて、もののはずみで私の手元に届いた「無償のテクスト」を読むところから始めて、私たちは「有償のテクスト」を蔵書として私有する読者に育ってゆく。
書籍を購入して、私有し、書架に並べたいという欲望はリテラシーのある読者にしか生じないし、リテラシーは膨大な量の「無償のテクスト」を読み散らす経験を通じてしか育たない。
この点について有効な反証が提示されない限り、私は「有償のテクスト」が生き残るために「無償のテクスト」へのアクセスが容易になることが必ず不利に働くという考え方に同意できないのである。
私たちが無償で読めるテクストを選好するのは、それが「膨大な量の読書」を可能にしてくれるからである。
なぜ私たちが「膨大な量の読書」を望むかといえば、それだけが高いリテラシーを涵養する唯一の方法だからである。
そして高いリテラシーを涵養することを願うのはそれによって読書から無限の快楽を引き出すことが可能になるからである。
だとすれば、無償で読めるテクストが量的に増大することは、リテラシーの高い読者を生み出すことに資することはあっても、それを妨げることになるはずはない。
「テクストがリーダブルであるか否かを判定できる目の肥えた読者」が増えることにどうして著作権者たちは反対するのか?
それを説明できる合理的な根拠を私は一つしか思いつかないが、それを言うと角が立つので言わない。
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