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2008年09月 アーカイブ

2008.09.12

フランスてれんこ日記

9月11日(木)
今日でフランスとお別れである。
とにもかくにも学生全員研修を終え、無事に帰国の途につくことができたことをフランスの天神地祇に感謝せねばならぬ。
ノートルダムの神様、サンジャンの神様、サンセヴランの神様、みなさまどうもありがとう。
朝起きて荷造りをする。
とりあえずかさばる汚れ物はどんどん棄ててゆく。本も棄てる。辞書も棄てる。『地球の歩き方』も棄てる。
荷物の中に瓶もの(ワインとオリーブオイル)があるので、Tシャツでぐるぐる巻きにする。
最後に味噌汁をつくって飲む。
今回の旅行でいちばんよく使ったのはこのマルコメの一人用パックみそ汁である。
21個入り、ちょうど3週間分あり、それを飲みきった。
今回の旅はこれで必須アミノ酸を補給したようである。
日本に帰ったら何を食べようか考える。
もりそば、冷や麦、胡瓜と茄子のぬか漬け、白いご飯に納豆と生卵、お豆腐の味噌汁、鰺の干物に大根おろし・・・
そして、冷たい「ゑびすビール」を飲んで、小津安二郎の映画を見るのである。
小津の映画を見るのは、フランスから帰って最初に行う儀式のようなものである。
何年か前、ほんとうに疲れて帰国したとき、芦屋の家でひとりでウイスキーの水割りを手に『秋刀魚の味』を見て、「日本に生まれてほんとうによかった」と思った。
政治家諸君のうちには「愛国心の涵養」ということをうるさく主張している方がおられるようだが、それなら小津安二郎の映画全作を義務教育の「道徳」の時間に鑑賞することをご提案したい。
人間としての成熟もあわせて達成されるであろう。
小学生たちが小津に嗜癖して、廊下で行き交うときに「や、ごきげんよう」「ふふ、どちらまで」「ちょいと西銀座まで。ねえ、のりちゃん、君いくつになった」「ま、いやなおじさま」などと言い交わす風景を想像すると心が温まるようである。
帰ったら『秋日和』か『彼岸花』をみよう。

9月10日(水)
明けない夜はない。
永遠に続くかと思われたフランス滞在も晴れてあと一日を余すばかりとなった。
パリに戻ってからホテルの部屋があまり狭く、「虜囚」状態がストレスフルなのと、食生活が不規則になったせいでか、毎朝胃が痛い。眠りも浅く、二時間おきくらいに目が覚める。そろそろ身体的にも限界である。
夜中に一度目が覚めると、なかなか眠りに戻れないので、「フランス語駄洒落」を考える。半分寝ているので、変なのばかり。
動詞編。
「あくびしちゃ、やばいよ」(あくびする:bâiller)
「ペテロ、今おならしただろ?」(おならする:péter)
「夏へ腹」「反対!」「秋へ背」「賛成!」(賛成する:acquiescer)
「ちびちび飲むな、堂々としろって」(ちびちび飲む:siroter)
「『栗の手』というと、眼が輝くね。」「ええ、好物なんです」(まばたきする:clignoter)
「グリの手を少しずつ囓ってやろう」「ずるい。グラの手も」(少しずつ囓る:grignoter)
そんなことを考えているといつのまにか眠りが訪れる。
私は旅先における不眠の夜の過ごし方においても、しだいに達人の域に達しつつあるようである。

9月9日(火)
おや、重陽の節句ですね。今日は。
今日もパリは晴れ。
でも、晴れかどうかは窓から顔を出して上空を見上げないとわからない。
壁の間から四角く切り取られた空が見える。
9時少し前に起き出して朝ご飯を食べに行く。
眠りが浅く、夜中に何度も目が覚めて、朝の6時くらいから急に深い眠りに入ることが多い。
だから9時間くらい眠っているはずなのに、起きてもなんだかぼんやりしている。
うちの子たちは食堂に誰もいない。
そういえば、パリに来てから一度も会っていない人もいる(うちのゼミ生だ。はしもとく〜ん、元気でいるか〜)
みんな生きているのであろうか。
時折すれ違う学生諸君はたいへん活動的であるようだから、きっと他の諸君も何ごともなく過ごされているのであろう。J’espère.
部屋に戻り、原稿書き。
1時頃に肩が凝ってきたので、身体を伸ばしにリュクサンブール公園まで散歩。
昔懐かしのReu Champolionを歩く。
松本くんと投宿したホテルはもうなくなって映画館になっていた。
Librairie J.Vrinが通りの少し先にある。レヴィナス老師の最初の著作を出版した本屋さんである。
その折毎晩ビールを飲んだソルボンヌ広場を抜けて公園に入る。
日陰の椅子をみつけて、”La course au mouton savage”の続きを読む。小腹が減った。
これはフランス語でavoir un petit creux という(らしい。お菓子の自動販売機の横にun petit creuxと書いてあるからそうではないかと推察するのである)。
公園の中のカフェで硬いサンドイッチとぬるいamstelを飲む。10ユーロ。
小腹が満たされたので、ずるずると日陰に移動して、昼寝。
日が翳ってきて、少し寒くなったので、Odeonの方に抜ける。
21年前に三井吉俊さんと松本くんと牡蠣を食べて白ワインを飲んだ店の前を通って、34年前に故・竹信悦夫くんと10日ほどごろごろ過ごしたHôtel Delavigneを訪れる。合掌。
Sorbonne の前を通ってホテルに戻り、昼寝の続き。
夕方起き出して、シャワーを浴びて、St.Anneに和食を食べに行く。
「ひぐま」でラーメンを、と思ったけれど止めて、向かいの「浪速ya」という店できつねうどんとかやくご飯を食べる。ハイネケンを入れて13ユーロ。
カウンターの隣の席に日本人の中年サラリーマンが二人で、鮪の刺身、烏賊の刺身、タコ焼きなどを食べて、「一番搾り」と燗酒を飲んでいた。
これからカラオケに行くらしい。
「日本人留学生のねーちゃんがいるんだろ。若い子」などと赤い顔をして笑っている。
なんだか急に疲れが出て、夕暮れの街をたらたらと歩いてSt.Michelまで戻る。
私はパリにおける時間のつぶし方について達人の域に達しつつある。
というフレーズは村上春樹のどこかにあったなあ・・・と思っていたら、ちょうど開いたページにあった。
「僕」が羊の探索を依頼されて、リムジンで新宿まで戻り、ビルの8階のバーのカウンターでハイネケンとピーナツとサンドイッチと爪切りで長い時間をつぶす場面のところである。
J’étais bien parti pour passer maître dans l’art de tuer le temps en lieu urbain.(Seuil,1990, traduit par Patrick De Vos, p.160)
なるほど。そう言えばいいのか。
Je suis bien parti pour passer maître dans l’art de tuer le temps à Paris.
そのような技術に熟達しても「いいこと」なんか何もないような気もするが。

9月8日(月)
ようやくパリの空が晴れわたる。
雲一つない青空の下のこの街はさすがに掛け値なしに美しい。
街並みのひとつひとつが絵になる。
工場や倉庫の壁や薄汚れたポスターでさえ画題になるという「発想の転換」はユトリロやアンリ・ルソーの時代の画家たちの功績である。
どうして同じことが日本ではできないのかと考える。
それはやはりパリが本質的に「建て増しの街」だからであろう。
この石造りの街は、紀元前3世紀にケルト人たちがシテ島に要塞を建設したときから始まる。
ジュリアス・シーザーがここを占領して、左岸に浴場や劇場を建設したのが紀元前52年。
ざっと2000年がとこ、ここでパリという街をやっている勘定になる。
基本は「ありもの」の再利用である。
オランジュリーだってもとは要塞だし、ペリフェリック(環状道路)だってもとは城壁である。
この石造りの街にはその2000年分の人間の思いが塗り込められている。
もちろん「こういうこと」ができるのは、イル・ド・フランスが地震も津波も洪水も火山の噴火もない地方だからである。
日本の家屋だって、地震も噴火もなく、2000年ほど先祖代々同じ家に住んで、同じ家具で生活し、同じ什器でご飯を食べているうちにはユトリロの画題になるほどのたたずまいは獲得しえたであろう。
有史以来のマグニチュード6以上の地震の20%を引き受け、毎年台風の通り道になる列島の都市にパリの街並みの持つ「厚み」は望むべくもない。
日本人が街づくりにどうしても真剣になれないのは、「どうせすぐに壊れるんだから」というなげやりな気分がつねに伏流しているからであろう。
日本の建物の99%はジャンクであるが、それは自分が設計し、建造した建物が200年、300年まで残って、人に使われ、人目にさらされ続ける可能性を日本の建築家は誰も考えていないからである。
オランジュリーでモネの「睡蓮」(les Nymphéas)を観る。
オランジュリーにはモネの「睡蓮」の他に、ルノワール、セザンヌ、ピカソ、ルソー、ユトリロ、ドラン、ローランサンなどのコレクションが収蔵されているが、このセレクションのセンスの良さには脱帽。
オルセーの収蔵品のおそらく100分の1くらいの点数だろうけれど、同格の美術館である。
というわけで、パリ滞在の終わりの頃、フランスとフランス人に心底うんざりした頃に、私はオランジュリーとピカソ美術館を訪れて、「睡蓮」と「山羊」を見て、「これがあるなら、パリも悪くないな」という印象を最後に自らに与えることを習慣としているのである。

夕方、女学院の非常勤をしていたM先生(博士論文の準備でパリに滞在中)とご飯。
行きの飛行機が偶然ごいっしょで、帰りのパリで一度ご飯を食べましょうと約束していたのである。
東川黒田の両名と、ブルーノ君のご案内で、いきつけのLa Cochonailleというレストランに連れて行ってもらう。
「こしょないゆ」とは「豚肉加工食品」のことである。
このレストランの名前なんて読むの?とブルーノ君に訊いたら「こしょないゆ」と教えてくれ。東川さんがその話を聞き違えて「胡椒がないんですか?」と訊いたので、ただちにこのレストランは「胡椒ないよ」に改名される。
たいへんに美味である。
私はassiette de charcuterie(ハム、ソーセージ、パテの盛り合わせ)と鶏肉を食べた。
黒田くんはフランスに来てはじめて「柔らかい牛肉」が食べられたと感動していた。
彼女は毎晩、私たちとつきあってapéritifからdigestif まで飲んでいるので、この二週間ほどで「これまでの生涯に飲んだお酒の全量よりたくさん」のお酒を飲んでしまったそうである。
何の研修なのであろう。


9月7日(日)
パリ二日目というか、日本に帰れるまであと4日。
出獄の日を指折り数える囚人のような気分である。
今から34年前にもそういうことがあった。
1974年の夏に私は「卒業旅行」と称して(7月から9月まで。長い卒業旅行もあったものである)、ひとりでフランスに来た。
帰国の一週間前に所持金がほとんど底をつき、パリに来て知り合った友人たちの家を泊まり歩き、学食で酸っぱいレタスを囓り、映画館でブルース・リーの映画を見て過ごした。
飛行機に乗る前に空港で残りの小銭で久しぶりにカフェ・オレをのみ、アエロフロートの機内食のチキンに囓りついたときに「肉を食べるのはいったい何日ぶりだろう」と涙ぐんだ。
そのときも帰国の飛行機に乗るまでは「出獄の日を指折り数える」ような心境であった。
87年に松本雅弘くんとふたりでパリに来たときも、あまりに盛りだくさんの日程をこなしたので(マラルメ行脚、地中海バカンス、バルセロナ観光、フランス縦断ドライブ、レヴィナス老師訪問などなど)、最後のパリでは二人ともぐったりと疲弊し果て、はやく日本に帰って白いご飯が食べたいねと涙ぐんでいた。
90年にるんちゃんと二人でパリに来たときも、地中海で3週間のバカンス(文字通り「空虚な時間」)を過ごした後で、ふたりとも口もきけないほど疲弊し果て、はやく日本に帰ってマンガが読みたいとるんちゃんは涙ぐんでいた。私もそんなるんちゃんを「ごめんよ、ごめんよ」と抱きしめながら、もらい泣きしていた。
そのあと6,7回パリには来ているが、いずれも語学研修の付き添いの日程の最後の頃であるから、つねに疲弊し果てており、はやく日本に帰って、「vivaじぶんち」でごろごろしたいようと涙ぐんでいた。
というわけで、私にとって「パリの思い出」はつねに望郷の念に身を焦がして涙ぐんでいた経験とともにある。
今回も同じ。
別にパリに文句があるわけではない。これがハワイでも、バリでも同じである。
私に1週間以上海外旅行をさせることに無理がある。
地上に3分間しかいられないウルトラマンと同じく、私も「じぶんち」を離れては長く生きていられない人間なのである。
しかし、幸い今の私には「仕事」という逃げ道がある。
iPodでモーツァルトを聴きながら、Mac Book Airのキーボードを叩き、心に浮かぶよしなしごとを書き連ねてゆけば、いつのまにか日は暮れている。
今夜は37年前のガールフレンドと再会する。
彼女はもう四半世紀ほどドイツで堅気の暮らしをされているので、本来であれば再会など思いも寄らぬのであるが、いまはブログというものがあり、遠い異邦にあってさえ、気が向けば私の前の日の晩飯の献立を知ることも可能である。
というわけで彼女も私のパリ滞在を知り、それなら一度お会いしましょうということになった。
なにしろ37年ぶりであるから、こちらが覚えているのは二十歳の少女の面影だけである。
先方もご事情はいっしょで、二十歳の頃の私の顔しか覚えておらない。
お互いによく顔がわからない。
リュクサンブール公園横のカフェLe Rostan で待ち合わせしたのであるが、二人とも相手がいるに気づかず、15分ほど経ってしまう。
途中で「もしかして、あそこにいるのが・・・」ということで、ようやく無事に久闊を叙すことがかなったのである。
私は本など書いており、ブログにも身辺雑記を記しているので、私の暮らしぶりをあちらさまは先刻ご承知である。
だから「37年ぶり」とはいいながら、「ウチダさんはあれからどうしていたの?」という話にはならない(だって、知ってるんだから)。
あんなことを書いていなければ、「オレもいろいろあってさ」と遠い目をしてみせることもできたのであるが。
そのあとは6時間ほど話し込んで、たいへん愉快なときを過ごしたのである。
37年前の話となると、古い映画のことを思い出しながら話しているような感じで、ところどころ記憶も曖昧になっていて、現実だったのか想像なのかがもうわからない。
おおかたは霧の彼方である。
たぶん、それでよいのだ。


9月6日(土)
パリ着。
10時50分にTGVでブザンソンを発ち、13時10分にGare de Lyon着。
バスでHotel La Tour Notre-Dameに。
荷物をほどいて、シャワーを浴び、冷たいビールを一杯飲んだら、たちまち睡魔に襲われる。
14時すぎから17時半ごろまで、3時間午睡。
またシャワーを浴びて、ロビーに降りる。
同じTGVでパリに戻ったブルーノ君と、学生たちを伴ってSt.Anneにラーメンを食べに行く。これもいつもと同じルーティン。
「ひぐま」ではなく、今回はガイドのサイトウさんのお薦めの「北海道」。
餃子と味噌ラーメンとアサヒスーパードライ。
学生たちと黙々とラーメンを啜る。
この「啜り上げる」という食べ方は泰西ではあまりなされない。
パスタもくるくるとfourchetteで巻き取り、cuillerに載せて「ぱくり」と食べる。
パスタを「ぱくり」と口中に投じて、静かに飲み下して何が旨いのか、私には理解できない。
とはいえ、先方の食べ物であるから、先方が「ぱくり」を正しいとするのであれば、郷の作法に従うしかない。
しかし、ラーメンの食べ方について指図は受けぬ。
学生たちと「ずずず」と、周囲に汁を撒き散らしつつ、麺を啜り上げ、大量の「味噌味スープ」とsojaとともに一気に嚥下する。
Bravo!
満足して、St.Anneをそぞろ歩くと、ラーメン屋やうどん屋の前に長い列ができている。
日本人ばかりではなく、フランス人もいる。
「北海道」でも私たちの回りではフランス人たちが器用に箸を使って「焼きそば」などを食していた。
二年前の「ひぐま」では「もりそば」と20分間格闘し、ついに食することができずに果てたフランス人青年の悲劇を観察したが、この2年間に彼の地に日本食を食べる習慣は急速に広まりつつあるようであり、慶賀の至りである。
とはいえ、同行のブルーノ君によると、Restaurant Japonaisという看板は掲げているものの、必ずしも日本人が経営、料理しているわけではないので、食するに耐えぬものも散見される由。
レストランの窓に貼り出されたメニューを眺め、海外において日本人がまず何を欲するか、日本人における「ソウルフード」とは何かについて考える。
日本人がまず食べたいと願うのは「ラーメン」である。
だが、ラーメンは厳密には、「日本食」とは言えない。
これは戦後、中国から帰還した兵士たちが彼の地で食したものに「なると」「海苔」などを投じて作り上げた、ハイブリッド食品であり、私の記憶でも1960年代なかばまでは「支那そば」と称されていた。
これがnouvelle cuisineであることは、小津安二郎の『お茶漬けの味』で鶴田浩二が津島恵子に「君、支那そば食べるのはじめて?」と訊いて、彼女がうなずくと、「ずずず」と威勢よく麺を啜り上げて、「こうやって音を立てて食べるのが正しいんだ」とまるで当節のグルマンがワインとチーズのマリアージュについて蘊蓄を傾けるような口調で講ずるところからも知られるのである。
このとき鶴田浩二は「支那そば」をお代わりして、「君もどう?」と訊くのであるが、これは当時の「支那そば」が質量ともに「おやつ」のランクにあって、まだ主食の地位に達していなかったことを示している。
『サザエさん』にも、サザエさんが家に帰ってきて、「あたし、今日、支那そば食べて来ちゃった」とマスオさんに自慢するというエピソードがある。
新しもの好きのサザエさんのこの自慢げな口調から察するに、おそらく支那そばはその登場の頃は、「ティラミス」とか「いちご大福」とか「ナタデココ」とか、そういう「一過的に流行はしているが、いずれ廃りそうな食べ物」というふうに見なされていたことが推察される。
「支那そば」が「ラーメン」に呼称統一されたのは60年代の半ば。
おそらく「インスタント・ラーメン」という食品が日本の食膳を席捲したことによる。
これも初期は「老麺」、「柳麺」などとさまざまに漢字表記されていた。
「拉麺」に表記が統一されたのはずいぶん後になってからである。
そして、気がつくとラーメンは「日本人がもっともその欠如を苦しむ食品」ナンバーワンの地位を確固たるものにしていたのである。
「たぬきうどん」でも「天麩羅そば」でも「カツ丼」でも「鰻丼」でも「寿司」でもなく、やはりラーメンなのである。
なぜ、われわれはラーメンを「国民食ナンバーワン」に指名するに至ったのか?
これについてはその「ハイブリッド性」および「啜り上げ食行動への嗜癖」などを手がかりに、今後の学術的考察の深化が望まれるのである。

9月5日(金)
ブザンソン、最終日。
明けない夜はない。無限に続くかと思えたブザンソン虜囚の日々も今日限りである。
あと6日で日本に帰れる。
なぜ、ウチダ先生はそんなにフランスがキライなのかと学生たちに訊かれるが、別に私はフランスが嫌いなわけではない。
どちらかといえば、好きである。
しかし、それよりも何よりも、私は「じぶんち」が好きなのである。
Viva日本、viva神戸、viva御影、vivaじぶんちの人なのである。
自分の家にいれば幸せなのである。
朝、大学に行くのが面倒だなあと思うこともしばしばある。
むろん大学が嫌いなわけではない。
行けば行ったで、楽しいのである。
しかし、それも我が家でごろごろしている幸福には比較すべくもない。
ごろごろと掃除をし、ごろごろと洗濯をし、ごろごろとアイロンをかけ、ごろごろと本を読み、ごろごろとご飯を作り、ごろごろと仕事をし、ごろごろと酒を飲み、ごろごろと映画を見て、ごろごろと漫画を読みつつ眠りに就く。
「ごろごろと昼寝をし」というのが抜けているのではないかと疑問に思われる方もおられるであろうが、上記の文中の「ごろごろ」は擬態語ではなく、総じて「昼寝をしつつ」という意味なのである。
私はほんとうに「昼寝をしながら飯を作る」というようなことをするのである(蕎麦をゆでている間にソファーで3分間のまどろみ・・・というように)。
アイロンかけはさすがに危険があるので昼寝は避けているが、「縫い物」などの場合は、しばしば途中でふと気づくと、手に針を持ったまま眠っている。
世間の人は私のことをハイパーアクティヴな人間のように思いなしているが、実は私は「ハイパーごろごろ」の人なのである。
この「ごろごろ」の間に、私は夢を見、よしなき想像をめぐらせ、半睡半覚の夢幻境にある。
私が「変わったことを言う人間」だと思われている理由の過半は、実は私が「半睡半覚の夢幻境」において得たアイディアをそのまま紙に書いているからなのである。
「現実から離脱する」ことが現実を解析する上できわめて重要であると信じる点で、私は荘子に深く同意するものである。
世上の「リアリスト」諸君の言うことの多くが現実解析に有効でないのは、彼らがあまりに「現実べったり」だからである。
微細な差異に反応するのはむろんたいせつなことである。
例えば武道というのは、微細な差異を感知し、予測し、差異が差異として生成するに先んじて、差異の生成を抑制するような能力の使い方のことである。
「無事これ名馬」というが、これは「たまたま災厄に出遭わなかった馬はラッキーである」ということではなく、そういう馬は「たまたま出会しそうな災厄」を回避すると同時にあらかじめできるかぎり「災厄の芽を摘んでいる」のである。
「災厄の芽を摘む」というのはたいせつなことである。
それができるためには四囲に起きる無数の変化を「厭のもの」か「気分のいいもの」かについて確信をもって識別できなければならない。
「気分のいい変化」は受け容れる。「厭な変化」は変化が生成するより先に「芽を摘む」。
それを考えられる限り最小限の時間内に最小限の動作で完遂するのが武道の目標である。
しかし、「リアリスト」諸君には、この「気分のよい変化」と「気分の悪い変化」を峻別するという習慣がない。
変化はすべて「ニュートラル」なものとしてクールに考量されるからである。
それが「いい」ものか「悪い」ものかは、事後的に、その結果がわかってから決まる。
例えば、原油価格が上がるというのは一つの変化である。
これは「いい変化」か「悪い変化」か、いずれであろう。
ガソリン代が上がり、物価が上がり、庶人の生活が苦しくなる。だが、産油国にはお金がじゃぶじゃぶ入るので、ドバイに高層ビルを建てているゼネコンさんや、フェラーリの「棚買い」をしてくれるお客さんに恵まれたディーラーは笑いが止まらない。石油消費量が減れば、石油依存型の産業構造はもうしばらく食い延ばしがきくし、CO2の排出量が減るし、代替エネルギーとしてのバイオマス技術も進歩するし、エコシステム的にはうれしい話である。
というふうに考えると、「原油価格が上がる」という変化を「よい変化」と見るか、「悪い変化」と見るかはそこから派生する無数の現象のもたらす損得の総和を勘定に入れないと最終決定できないことになる。
そうですよね。
だから、「リアリスト」は地殻変動的な変化に際会したときに、基本的に黙り込んでしまう。
良否をどう判断していいかわからないからである。
どうでもいいことについてはすっぱり決断できるが、大きな問題については決断が下せない。
それが「リアリスト」である。
だから「リアリスト」の後について行くと、「大きな問題」にどう対処してよいかわからない。
「変化」の生成が兆した瞬間に、「あ、これ厭」というふうに反応できる能力は「リアリズム」とは違うところで、例えば「ごろごろ」して、半睡半覚のうちに胡蝶の夢を見ることなどによって涵養されねばならない。
原油価格の上昇についてどう思いますか?と訊かれたら、私は「厭」と即答できる。
別にガソリン代が多少上がろうと、食品が値上がりしようと、それは市場原理の内側の話である。そのようなことにいちいち腹を立てるほど私は暇ではない。
だが、ドバイに建設中の800メートルだかの高層ビルは誰がなんと言おうと「禍々しい」建物である。
それは一瞥するだけでわかる。
人間はあのようなものを作るべきではない(フェラーリの「大人買い」もすべきではない)。
だが、原油高は「ああいうこと」をしたがる不逞な欲望を人間の中に吹き込む。
私はその欲望のかたちが嫌いなのである。
だから、「厭」と即答できるのである。
私は昼寝の中で、いまから数年後にドバイの町がアイパッチをしたカート・ラッセルが暴れまくるマンハッタン島のような荒涼たるゴーストタウンになっている姿をはっきりと幻視する。
それが私にとっての「ごろごろ」の効用である。

ブルーノ君が午後からお葬式があるので(彼の父Patrickの兄、Daniel伯父さんがなくなったのである)、お稽古は午前中。10時半から12時まで。
イワンさんにお別れを告げる。
これが最後のブザンソンかも知れない。これが今生のお別れかも知れぬ。
ナイスガイ、イワン。Tu es très gentil.
ブルーノ君のお父さんの車でホテルまで送ってもらう。
ホテルの入り口で、CLAから戻ってきた千葉大の先生にお会いする。
二年前にお会いした方である。
やあやあとご挨拶。私たちはもう今日で研修は終わりだが、千葉大は19日まで。付き添いの先生は一週間だけいて、明日もうブザンソンを後にして、帰国のあれこれは旅行代理店がやるそうである。
実際にはどこの学校も、最初のときだけ先生が付いてきて、あとは学生を残してお帰りになるのであるが、うちだけしつこく全行程フルアテンダンスをしている。
よく同僚からも「学生を置いて、先生だけフランス旅行をされればいいのに」と言われるけれど、私は旅行なんか少しもしたくない。だって、「うちが好き」なんだから。そして、ブザンソンのIbis でさえも二週間も住みなすと、「疑似うち」っぽくなってきて、それはそれでごく微量とはいえ、Viva じぶんち的愛着の対象になるのである。
因果な性分である。
千葉大の先生(名前を失念。こういうときに「先生」という呼称はまことに便利である。でも、先方はきちんと私の名前を覚えて下さっているので、身を切られる思いがする)とホテルのテラスでビールを飲んで歓談。
青空が広がって、日が差してくる。
ブザンソンのテラスで冷たいビールを飲むのもこれが最後である。
部屋に戻り、熱いシャワーを浴びてから、『街場の教育論』の続きを書く。すでに132,000字を超えており、400字詰めで300枚余。いったいどこまで長くなるか見当もつかない。え
きりのいいところで切り上げて、街に最後の買い物に出かける。
Gallery La Fayette でさまざまな調味料香辛料およびGel Doucheを買う。
Gel doucheというのは要するにシャワー用のボディ・シャンプーのことなのであるが、フランスのものはなかなか香りがよろしいのである。
本屋でHaruki Mourakami, La Course au mouton sauvage を買う。 Danse, danse, danse 574ページを読み終わってしまったのである。
一日100頁くらい読んだペースになる。
ストーリーはだいたい覚えていたが、細部の会話などは今回フランス語でゆっくり読んで、実に味わい深い警句に満ちていることを知った。
この一冊の中で「僕」がユキや五反田くん相手に展開する「人というものは」(@志ん生)的警句をすべて書き出して、ノートを作ったら、それだけで初等文法のたいへんすぐれた教科書になりそうな気がする。
いや、ほんとに。
条件法、接続法、現在分詞構文・・・あらゆる文法的重要事項が含まれている。
文法書としてすぐれているだけでなく、「人はいかに生くべきかに」ついての教訓にあふれた希有のフランス語教科書になるであろう。
うん、これはいい考えだ。
あ、でも私はもう大学でフランス語教えるの、あと二年しかないんだ。

9月4日(木)
ああ、ブザンソンは今日も雨だった。
雨が続く。
一昨日の火曜日からパリでの警察官仕事が終わったブルーノ君との合気道特訓が始まる。金曜まで連続4日間。場所はいつもの Centre Gallecier
2週間ほど身体を動かさず、部屋にこもって原稿書きをしていたので、身体が硬くなっている。
フランスにいながら、こうやって合気道で身体をほぐす機会が与えられるのはほんとうにありがたいことである。
夕方ブルーノ君が現れて、バスで郊外まで。
エルヴェ、イワンのガルシエ兄弟と久闊を叙したのち、50畳ほどの道場を借り切って、差し向かいでお稽古をする。
柔軟体操、呼吸法、体捌き、基本技、杖、居合など、盛りだくさんのメニュー。
杖や木刀や居合刀はブルーノ君がご用意くださっている。
ブルーノ君は一年ほど前からパリのクリスチャン・ティシエ先生のところでも合気道をお稽古している。
どうやら「鍛錬」系の合気道らしく、身体がばりばりに硬い。
こめかみに青筋を浮かべて、万力のような力で手首を握り込んでくるので、いきなりダメを出す。
あのね・・・以下、フランス語で長説教。
私のフランス語運用能力はご案内の通りきわめてプアーなものであるが、「説教」モードになったとたんにこれが驚異的に滑らかになる。
私は「偉そうに他人に説教をかます」時に選択的に言語脳が活性化するタイプの人間だったのである。
おそらく私の英語運用能力、フランス語運用能力がひさしく停滞を余儀なくされていたのは、どの教師も私に「偉そうに、ネイティヴ相手に説教をかます」という教育機会を提供してくれなかったためと思われる。 C’est dommage
ともかく説教モードになったせいで私のフランス語はきわめて明晰判明なものとなり、ブルーノ君は目を輝かせて「おお、私はいまこのときに武道の神髄を理解しました」と深く頷いてくれたのである。
そう簡単に武道の神髄を理解されては私どもの立つ瀬がないのであるが、若干の修辞的誇張を差し引いても、この感懐は正直なものと解してよろしいであろう。
たっぷり汗をかいた稽古の後、初日は川沿いのイタリアンでハイネケンを二杯飲み干したのち、カルボナーラを食し、ロゼを飲む。
二日目はイワンさんをまじえてGranvelle の近くカフェで「白ビール」というものをのみ、いつものAu feu vertでMorteau のグラタンを食べ、ロゼを飲み、さらにPont Battant 横のカフェでCalvados を喫する。
酔余の勢いで、「なぜ日本人は敗戦後も天皇制を維持しているのか」、「どうして日本人はフランス人に徳川幕府以来の恩義を感じているのか」などについて、思いつきを述べる。
そういえば気になることがあった。
Beaujolaisのことを日本人は久しく「ボージョレ」と発音していたが、ある日をさかいに「ボジョレー」と発音するようになった。
同じことは、「リーガン大統領」から「レーガン大統領」へ、「スティーヴン・セーガル」から「スティーヴン・セガール」への場合にもあった。
この全国的な発音訂正には何か行政レベルからの指示でもあったのであろうか。
手元のクラウン仏和辞典でBeuajolaisを引くと、相変わらず「ボージョレ地方」と訳語が出ている。
さて、真偽はいかに。
まわりのフランス人たち数人に順番にBeaujolaisって発音してみて、と頼む。
全員が「ボジョレ」と発音。
「ボージョレ」も「ボジョレー」もどちらも「違う」と言われました。

9月1日(月)
おお、ようやく九月になった。
携帯の待ち受け画面が「秋モード」に切り替わっている。
画面では枯葉が舞っている。
窓の外では小雨が降っている。
Nous sommes en automne.
九月になると、vacanciersの姿が急に街から消える。
祝祭的な夏休みが終わって、日常生活が始まるのである。
Ibis La City もこの週末が最後の賑わいで、今朝は食堂に3人しか客がいない。
ゆっくりカフェオレを飲みながら、携帯でGmailをチェックする。
ブログに「滞仏中に届いたメールは『なかったもの』と見なして、すべて廃棄されます」と告知しておいたので、来るのはDMと大学のオールユーザー宛のメールだけである。
たまにブログを読んでいない人から仕事の依頼のメールが来る。
気が向くと、「今フランスにいるので、仕事は引き受けられません」という返事を書く(気が向かないと無視)。
私に個人的に用事がある人は携帯のアドレス宛にメールを送ってくるので、これにはちゃんと返事を書く。
このところテレビの仕事の依頼が続く。
何度も書いている通り、私はテレビの仕事はしない。
別にテレビというメディアに含むところがあるわけではない(ちょっとしかない)。
テレビの仕事は拘束時間がほかより長いので、それが厭なのである。
私は「日本一のイラチ男」であり、待たされること、列を作ることが大嫌いである。
もう、大、大、大、大嫌いである。
これはもううまれもっての性分であるから矯正のしようがない。
それに私は世間に顔を知られることを望まない。
私は過去に二度テレビに出たことがあるが、一度目は「こんな番組、誰も見てないから」という約束を信じたからであり(これは嘘であった。タチバナさんが見ていた)、二度目は「背中しか撮さないから」という約束を信じたからである(この約束は守られた)。
それでも待ち時間の長さには閉口したので、もう二度とテレビには出ないのである。

Le Figaroがホテルのロビーに置いてあるので、それを読む。
アメリカのハリケーンのせいで、共和党大会の最終日のプログラム(ブッシュ大統領の演説)が流れたことが書いてある。
MaCain候補は、一昨日Sarah Palin という44歳のアラスカ州知事を副大統領候補に指名した。
この人のプロフィールが昨日今日と『フィガロ』に詳しく出ていた。
子どもの頃からアラスカの原野を走り回っていたスポーツ・ウーマン。ハイスクール時代はバスケットの選手で、執拗なチェックでついたあだ名が「サラ・バラクーダ」。学生時代に地元のミスなんとかに選ばれ、そのあと準ミス・アラスカに選ばれた。子どもが5人。胎児の遺伝子チェックに反対で、5人目に遺伝子障害のある男の子を産んで育てている。地元の町(昨日の『フィガロ』では人口75、000人、今日の『フィガロ』によれば90、000人。どちらにしても芦屋くらいの規模の町である)の市長を勤め、そのあと1年半前にアラスカ州知事に選ばれた。保守派のクリスチャンなので、公立学校で「創造説」を教えることを求めている。もちろん堕胎にも同性者同士の結婚にも反対。在職中にアラスカにおける共和党政治家の汚職を摘発。まだ政界の汚れがついていない。全米ライフル協会の終身会員。
なんだか「絵に描いたような」共和党女性副大統領候補である。
この人を立てて、72歳のマケインさんの「老齢」のマイナス要因を打ち消し、あわせて、ヒラリー・クリントンを支持してきた民主党の女性支持者層を惹きつけようという算段である。
『フィガロ』の記事は、最後にこう書いていた。
「マケイン議員は年齢的に、任期中に副大統領にその職務を託す可能性が高い。その場合、1年半前まで人口90000人の市長であった人物がウラジミール・プーチンと国際関係で五分の勝負ができるであろうか?」
うーん、どうなんでしょうね。

夕方、ブルーノ君が訪れる。前回と同じく、シャルトン家のみなさんとご一緒にデギュスタシオンにお招きいただいたのである。
今回は東川、黒田の院生ふたりも連れて行っていただく。
郊外のジャン=クロード叔父さん、アニー叔母さんの家に行って、そこでジャン=クロード叔父さんの同僚のミカエル君が合流して、彼のアウディで,ロベールお祖父さんの家に寄って、途中ユベール叔父さんも合流して、みんなでCamille Loyeのcaveを訪れる。
カミーユ・ロワさんはJura地方では知らぬものがない葡萄酒作りであったのが、もう老齢なので、葡萄酒は作っていない。80年代90年代のストックを寝かせて、いい味が出た頃のものを小売りしている。
ときどきこうして一家総出でデギュスタシオンにでかけ、何ヶ月分かのストックを購入されるのである。
今回は85年、88年、89年のものが「飲み頃」ということでお薦めいただく。
85年というと、同行した黒田君の生まれた年である。
自分の生まれた年のワインを飲むというのは、ゴルフにおける「エイジ・シューター」と似ている。
若いときだとワインは手に入れやすいのだが、金がないし、味がわからない。味がわかり、金もある年頃に買おうとすると、もう品物がない。
私が今1950年に作られたワインを飲もうと思っても、半世紀以上も経ったワインは瓶詰めされたままカーブにずっと寝かせてあったものでなければ、味の保証がない。
だから、欲しい人はこういうカーブに来て、倉庫の奥から出してもらって買うのである(私は買わないけど)。
85年は白がどっしりした深い味わい、赤は柔らかく、軽い香りで、たいへんによい味であった。
15ユーロ(赤)と18ユーロ(白)、あわせて33ユーロで紅白の黒田くんのエージ・ワインをゲット。もちろんご本人も東川さんも同じものを購入。
デギュスタシオンで5、6杯飲んでしまったので、全員微醺を帯びて、カーブを後にし、Salin les Bainsという郊外の美しい町に移動する。
ここは岩塩と温泉の町である。
前回と同じ、Le Betit Blancというレストランで郷土料理を頂く。
ムレットソースに卵が浮いている前菜(Oeuf à la meuretteとか、そんな名前)と七面鳥のescalopeを食べる。付け合わせの量が多いので、もうお腹が破裂しそうになる。
これにデザート(巨大アイスクリーム)とお店からのシャンペンがおまけについて18ユーロ(3000円くらい)。
げふ〜とおめきつつ家路につく。
ホテルに戻ると11時過ぎ。
フランスの人はまことに活動的である。


8月31日(日)
安息日なので、仕事をしないことにする。
9時過ぎに起き出して、朝ご飯を食べる。みんな朝寝をしていて、10時近くになって、眠そうな顔で降りてくる。
お疲れなのである。
ご飯を食べて部屋に戻る。
洗濯をしようと思うのだが、部屋中に洗濯物を吊しているところにお掃除に来られると面倒なので、掃除が終わってからすることにする。
そういうときに限っていつまで待ってもお掃除のお姉さんがやって来ない。
しかたがないので、文春の「日本の論点」に頼まれている「非婚化」問題についてのエッセイを書く。
どういうわけか「日本の論点」に書くものはたいへん「イヤミ」のきついものになりがちで(媒体の性質がそうなのだろうか?)、私の中の「人を怒らせたい心的傾向」がむくむくと活性化する。
私は「人を怒らせる」ことに関しては豊かな天分に恵まれている。
この才能については、自慢じゃないけど、私よりも「人を怒らせる」能力にまさる人はこの世にはいないと思う(というような無根拠な断定で早くも日本全国の数百人が怒り始めている。仕事が早い)。
だから、「人を怒らせること」と「創作」がリンクすると、私の場合、たいへんに仕事が早くなる。
8枚の原稿なのに、たちまち10枚書いてしまう(まだ書き足りない)。
おお、そうか、『街場の教育論』も、はなから人を怒らせることを目指して書けばよいのか。
うっかりしていたよ。
つい、「いい人」ぶって書いていたのが、筆が渋滞する原因だったのだ。
書き上げたので、川沿いに散歩に出る。
木陰の芝生に寝転んで、『ジャズ・サンバ』を聴きながら、”Danse, danse, danse”を読む。
Corinne Atlanさんという人が翻訳をしている。
たいへん上手な訳なのだが、この方はときどき辞書にない名詞が出てきて、調べがつかないとカタカナ表記をそのまま音読してフランス語に移すという荒技を繰り出す(私も翻訳者時代によくやったので、人ごとではない)。
「僕」が部屋でトミー・ドーシーのレコードを聴く場面がある。楽団名はTomy Doshi。
「ユキ」がティラミスを食べる場面で食べるのは、tiramisu。
「僕」はある日、渋谷のダンキンドーナツでbeignet を二個食べたあとに、原宿竹下通りでbeignet ”tempura”を食べる。
オリジナルでは、最初のbeignet は「ドーナツ」で、あとのbeignet はたしか「天麩羅蕎麦」であったかに記憶している。
フランスにはわれわれの知っている「ドーナツ」という食品がない(意外なことに!)。beignet というおおざっぱなカテゴリーのうちに「揚げパン」も「海老フライ」も含まれる。
これではやたらに油分の多い食生活をしている男のように思われるのではないかと心配である。
「ユキ」の食生活についてはずいぶん小言を言う割には「そういう自分は何食ってんだよ」とフランス人の読者が思ったら困るなあと思いながら読む。

8月30日(土)
晴れ。一日一度も外出しなかったので、温度は不明。
終日原稿書き。
ときどき窓を見上げて、消防署を見る。
なぜ自分がこんなところでこんな原稿を書いているのかその前後の事情がふとよくわからなくなる。
自分の書いているものが面白いのかどうか、書く価値のあることなのかどうか、出版する意味のあるものなのかどうか、それもわからなくなる。
日本の文脈から全く切り離された状態で(日本からの情報は新聞からもテレビからもゼロである)、日本の教育問題について書いているのであるから、当然といえば当然である。
自分の書いていることが現実観察に裏打ちされたものなの、ブザンソンの密室で芽生えた妄想なのか、その区別がもうつかない。
そういえばこれと同じ状態で、『先生はえらい』と『街場の中国論』も書いたのであった。
どちらもこのIbis La Cityの密室で書いた。
『先生はえらい』は太宰治の引用をしたとき、『街場の中国論』は陸奥宗光の引用したたときに、転換点(tournant)を通過した。
そこには「階段」があって、それを通ると、「一階下」に降りることができる。
「一階下」におりると、建物のつくりはいっしょなのだが、違う部屋の並びになっている。内装も違う。
そういうことが起きないと本一冊は書けない。
今回は教育問題である。
教育論はすでに『先生はえらい』、『狼少年のパラドクス』、『下流志向』と三冊書いている。
『こんたね』にもたくさん書いている。
だから、書いても、書いても、自分がどこかで書いたことの繰り返しになる。
いまさら書き足すことがあるのか。
でも、新たに書き加えることがなければ、あるいはこれまで書いてきたことの読み方ががらりと変わるような視点を探り当てなければ、そもそも新しく本を書く意味がない。
そういう転換点がまだ訪れない。
相変わらず、これまで書いたことを言い換えただけで、同じことを繰り返している。
「自己模倣」というのはある種の地獄である。
そうはいうがおまえの書くものはそもそもどれも「同じ」じゃないかというご批判もあるだろう。
あのね、それはいいの。
本人が「違うこと」を書いているつもりで、端から見ると「同じこと」であるのはぜんぜん構わないの。
問題は本人のモチベーションなのだから。
私が機嫌よく書いている分には、それがどれほど無内容なものであっても、私は機嫌がよい。
機嫌がよい方が、機嫌が悪いよりも、本人も周囲の人間も幸福である。
機嫌が悪くて、かつ書いているものが同じことの繰り返しであっては、かの『シャイニング』において、ジャック・ニコルソンがコロラド山中で書き綴っていた「どこを切っても金太郎テクスト」と同じではないか。
もしかすると、私はそのようなものを今も書いているのではないか。
ああ、神様、私に才能を。

8月29日(金)
曇り。肌寒し。
終日原稿書き。3分の1くらい終わる。
どんどん書き足しているので、全体の頁数がふえるばかりで、「3分の1」という数字が変わらない。
このままではとんでもなく厚い本になってしまう。
肩が凝ったら、寝転んで”Danse, danse, danse”を読む。読み出すと、おもしろくて止まらないので、気がつくと120頁ほど読んでいた。
ペーパーバックでも550頁(1センチちょっとの厚さ)なので、手に持っているとけっこう重い。
なるほど、フランス語で「こういうとき」にこういうふうに言うのかとちょっと感心する。
眼鏡をかけたチャーミングなレセプショニストと最初にバーで会話するところ。
Tu sais, ça devient chronique , la souffrance. C’est absorbé dans la vie quotidienne, on finit par ne plus par ne plus savoir où est la blessure exactement. Mais elle est là. C’est ça, souffrir. On ne peut pas montrer un endroit précis en disant : voilà ma blessure.
「傷というのは慢性的なものだ。日常生活の中に吸い込まれて、どこに傷があったのかなんて正確には言えなくなる。でも傷はある。傷つくというのはそういうことだ。僕の傷はここにありますなんて言えない。」
よいね。
- Oui, je comprends, répondis-je. Mais alors qu’est-ce que je dois faire ?
- Danser, répondit l’homme-mouton. Continuer à danser tant que tu entendras la musique.
「うん、わかった」と僕は答えた。「でも、僕は何をすればいい?」
「踊るんだよ」と羊男は答えた。「音楽が聞こえる限り踊り続けるんだ。」
よいね。
私のフランス語能力がさっぱり向上しないまま今日を迎えたのは、私が「ストックフレーズ」としてこれまで暗記した文句がフランス人の日常会話ではおよそ使われぬものであったからである。
私が「おお、これはよい」と感動して写経したのはアナトール・フランスやデカルトやパルカルからの引用である。私はそれでノートを作ったのだが、これらはほとんど「警句」というのに近く、そのような金言ばかりことあるごとに口にしていては『青い山脈』の「六さん」(「ショーペンハウエル曰く」)になってしまうであろう。
いや、すでに私は一部のフランス人たちからは「六さん」だと思われているかも知れぬ。

8月28日(木)
フランスに来て1週間。やっと全行程の3分の1が終わる。
学生たちの授業も、明日で前半が終了。だいぶフランス語になれてきたらしく、街で会うとBonjour とご挨拶してくれる。
天気があまりよくないので、部屋から出るのが面倒だなあと思っていたら、朝の9時半にお掃除のお姉さんが来る。
毎度書いているとおり、ホテル滞在というのは「入院」のようなもので、でれでれしようと思うと無限にでれでれできるのであるが、一日一回お掃除のお姉さん(おばさん)が部屋に乱入してくるのが唯一の難点である。
困るのは、掃除の時間が決まっていないこと。
たかだか7,8分の作業なのであるから、その時間だけ部屋を空けていればよいのであるが、いつくるかわからない。
昨日のように午前中に来ることもあるし、午後3時頃に来ることもある。
そろそろ来る頃だなと思って、外にでかけて2時間ほどお茶など飲んで時間をつぶして帰ってきたら、まだ来てなかった、ということが過去に何度かあった。
なんだかたいへん無駄をしたような気になる。
客が部屋にいて仕事をしていると、あまりいい顔をしない。邪魔だからね。
なんでこいつはビジネスホテルの一室に昼間から閉じこもってパソコンなんかかちゃかちゃやっているのかと不審顔をする。
これが海辺のホテルのベランダかなんかで潮風に頬をなぶられながら、物書きをしているならば、「あら、詩人かしら」というような美しい誤解も存立するのであろうが、「消防署ビュー」の安普請のビジネスホテルの密室内で物書きをしていると、「怪しいやつ」にしか見えない。
フランス人であれば、掃除のお姉さんの「不審顔」などひとつも意に介さず、ほいほいと仕事を続けられるのであろうが、こちらはひとさまの顔色をうかがって渡世しているニッポン人である。
気になって仕方がない。
だから朝9時半に掃除が来るのはありがたい。
その時間であれば当然部屋に客はいる。だから、先方もわずかに「どうもお邪魔してすみませんね」的ニュアンスの薄笑顔のようなものを示す(ふつうの掃除では、このようなものを観察することはできない)。
9時半からあと一日「乱入」の心配がないので、好き放題に「朝寝・昼寝・夕寝」する。
『街場の教育論』を書き続ける。
授業でのおしゃべりのテープ起こしなのであるが、どうもあまり面白くない。
私が知っていること、私が現にそう思っていることが書いてあるからである。
できることなら、私が知らないこと、思ってもいなかったことを読ませていただきたい。
相手が他ならぬ自分であるから、この注文はなかなかむずかしい。
しかし、そうでなければ本を書くことの意味はない。
どの本のどの頁を開いても、「ああ、このことなら知っているよ。オレもそう思うし」というようなことばかり書いてあるなら、私はそのような本を読まぬし、そもそも書かぬであろう。
なんとか逸脱しようと一昨日あたりから工夫をしている。
逸脱するのはうれしいのだが、それは要するにもともとあった原稿がかげもかたちもなくなるということである。
「ありもの」のエディットとはいいながら、実は新規書き下ろしなのである。
夕方まで書き続けて、疲れたので、寝転んで安岡章太郎『海辺の光景』を読む。
肺結核の療養所とか、海辺の精神病院とか、そういうところに「閉じ込められている話」が妙に切実である。

8月27日(水)
快晴。晴れるといきなり暑くなる。
昼前にお掃除の時間を見計らって、外へ出る。Doubs 川沿いにとことこ歩き、Pont de République の川岸の公園まで行く。ここが川幅がいちばん広く、景色のきれいなところである。
公園のベンチに座ると、日差しが痛い。
『山姥』のMDを取り出して、川岸で謡の稽古をする。
「一洞空しき谷の声。梢に響く山彦の」
最初は小声でやっていたが、だんだん調子が出てきて、声を張る。
40分ほど小返しにサシのところを稽古する。
通りがかるフランス人は公園に座り込んで奇声を発している東洋人を振り向きもしない。
このあたりがいかにもフランスである。
「人のすることに干渉しない」という点がまことに徹底している。
こういう風土が好きだという人もいるし、「冷たい」と嫌う人もいる。
善し悪しである。
あまりに暑くなってきたので、日陰をたどりながら街に戻り、本屋に立ち寄る。
Livre de pocheの『異邦人』を買う。いま手元にあるエディションは活字が小さいので、コピー機で拡大しないと翻訳のときに使えない。ポケット版は活字がでかいので、老眼でも読める。
Anatole France のJardin d’Épicure が急に読みたくなったので、それを探すが、なんとこのブザンソン一の巨大書店にアナトール・フランスの本が一冊もない。
そうであろう。
いまどきアナトール・フランスなんか読む学生はおらないのである。
私は院生のころに、フランスを耽読した。
フランス語では、「等身大の明晰」を保ったまま、恐るべき論理の深度を達成できるということを私はかつてアナトール・フランスとクロード・レヴィ=ストロースから学んだ。
日本語では、ある程度以上の論理の深度に達すると、「等身大の明晰」を保つことはむずかしい。
「純粋論理」になるか、「詩」になってしまう。
私は「等身大の明晰」ということをたいせつに考えている。
日常の、ご飯を食べたり、眠ったり、働いたり、遊んだり、怒ったり、愛したり・・・という身体感覚に裏打ちされた「明晰さ」を保ったまま、非日常的な論理の深度にじりじりとにじり寄ってゆく、というのが私の願いである。
ものを書くときに、純粋論理でぐいぐい進む人と、日常的なあれこれをまとわりつかせたまま進む人がいる。
喩えて言えば、まっさらのロケットで宇宙の奥に行くのと、ハン・ソロ船長のミレニアム・ファルコン号のように、あちこちで水漏れがしたり、前回の航海のお土産の椰子の実が床に転がっていたりするようなロケットで行くのの違いのようなものである。
私は「生活感」をずるずるひきずりながら、非日常的な論理の深度に達することはたいせつだと思う。
「生活感なんかひきずらない方が話が早い」という人もおられるだろうが、私は生活感に裏打ちされた論理以外を信じることができないのである。
Haruki Murakami ,“Danse, danse danse”を購入。8,50ユーロ。
前回のブザンソン滞在時に”Après le tremblement de terre”(『神の子どもたちはみな踊る』)を読んで、「フランス語で読む村上春樹」がじつにつきづきしいということを発見したので、今回は私の大好きな『ダンス、ダンス、ダンス』を仏訳で読むことにした。
部屋に戻って、ベッドに寝転んで吉行淳之介『漂う部屋』を読み終え、“Danse, danse, danse”を読み始める。
En tout cas, quand je suis avec toi, de temps en temps l’air se raréfie comme si on était sur la Lune.
「でも、あなたといっしょにいると、ときどき、まるで月の上にいるみたいに、空気が薄くなるのよ」
そうですか。
7時になったので、Pont Battantの横のイタリアンに行く。
今日のご飯はパスタ。Bolonaise とMarguaritaとサラダと(黒田君が注文した)なんだかよくわからないお肉の料理(タイ風)。
それとun pichet de rouge
満腹してよろよろとホテルに戻る。
円生の『淀五郎』を聴きながら眠るつもりが、あまりに面白くてつい最後まで聴いてしまう。
円生には『中村仲蔵』という芝居噺の名演があるが、『淀五郎』も仲蔵の話である。
『仲蔵』は若き日の仲蔵が定九郎の役作りで工夫する話、『淀五郎』は若い俳優である沢村淀五郎が判官の役作りで仲蔵の指導を受ける話。
狂言はどちらも『忠臣蔵』。
『仲蔵』は仲蔵がまだ名題になる前の話だから、前後半世紀ほど時間の開きがある。
『淀五郎』における中村仲蔵は「師」というものの理想像を描き出していると私は思う。
おそらくこれが芝居噺として成立したのは、沢村淀五郎が俳優として大成したあとに、自分が今日あるのは若き日に中村仲蔵というひとに会ったおかげである、ということをことあるごとに後進に語りきかせ、それが人口に膾炙したゆえであろう。
仲蔵の教えの優れたところは若い人にものを教えるときに、「文脈を指示する」「技術を教える」という二点に限った点にある。
「なぜ人は学ぶのか」という根源的な問いと、「この場合はテクニカルには何をすればいいか」という問いだけにきちんと答えを示す。
それ以外のことはとりあえずどうでもよろしい。
これはものを教えるときの骨法である。

8月26日(火)
前夜は10時頃就寝。
志ん生の『寝床』を聴きながら寝付く。
「豆腐屋さん、葬式があるてんで、生揚げを二束頼まれちゃったって、もう油だらけで・・・」というあたりで眠り込んでしまう。
気がつけば朝の8時。10時間こんこんと眠っていたことになる。
実際にはこれに加えてお昼ご飯のあとに昼寝もしているので、一日の半分近くを寝て暮らしている勘定になる。
それだけ疲れているのである。
身体が疲れているわけではなく、頭が疲れているのである。
フランス語で筋の通った話をするというのは、日本語で同種の作業をするときの100倍くらい疲れる。
なにしろ単語が出てこないんだから。
えーと、出生率ってなんていうんだっけ・・・出てこないでうろうろしているうちにセンテンスの頭の方に置いたはずの主語が単数だったか複数だった、男性名詞だったか女性名詞だったか、そもそも何という単語で文を始めたのかまで忘れてしまう。
「私が思うには」で始まった文章が、「思った内容」にたどりつく前に立ち往生して、そのまま中空に消えてゆくのを見送るのはたいへんに切ないものである。
そのせいで、寝ている間に見ている夢が支離滅裂である。
夢というのは昼のあいだに脳が構築したものを解体するのが仕事であるので、論理的にはできる限りデタラメであることが望ましい。
私の場合、ふだんは昼間、脳をデタラメに放し飼いにしているので、夢のデタラメ度はわりと低い(と思う。他人の夢を見たことがないので、想像だが)。
ところがここでは昼間のうち「きちんと論理的に言葉を述べねば」と緊張しているせいで、夢の方がその分無秩序になる。
私が今朝方起きる直前に見た夢は
(1) 巨大なアメリカ人(らしき人)が運転している観光バスをハイジャックする
(2) そのハイジャックの手口というのは、ハンドルの上に鏡を置いて、ドライバーが「あ、ハンドルがない!」とびっくりして車から落ちるというものである
(3) 首尾よく観光バスを手に入れたのはいいが、ハンドルがない(小さなゴミ袋のようなものがハンドル代わりについていた)ので、運転できない
(4) 大きいと取り回しも悪いので、タンスのサイズの観光バスに取り替える
(5) そのまま温泉旅館らしきところの宴会場を走り抜ける
(6) 宴会の準備をしていたので、お茶碗とか徳利とかを蹴り倒して、仲居さんにひどく叱られる
(7) 部屋に案内される。部屋割り表を見ると、かんちきくんと大迫くんが「オレらの部屋は麻雀部屋になりそうですね」と言っている。
(8) みなで宴会場にゆくと、おばさんたちが三味線をやっている。
(9) 席の中程にいた老婆が演奏に「ダメ」を出したので、そのまま演奏が中断して、お稽古になる。
(10) 妙に愛想のよい男が旅館の主人で、自分の船の「汽笛」をぜひ聞かせたいと私たちをバーに誘う。
(11) 汽笛の代わりにカラオケになり、男が甘い声で歌い出す。
(12) 観光バスを返しにゆかないと違約金を取られる。困ったことになったと頭を抱えていたら目が覚めた。
フロイト博士であれば、レイザーシャープな夢判断を下してくださるであろうが、私としては「何だよ、これはいったい」と言うしかない。
ご飯を食べてから原稿書き。
『街場の教育論』、第四講まで進む。オリジナルは2007年の前期の大学院の講義である。
ちょうど安部内閣の「教育再生会議」主導による「教育改革」がさかんに議論されていたころのことなので、私の議論も「グローバル資本主義からいかにして教育を守るか」という点に力が入っている。
読み返してみても、ごく「まっとう」なことを言っていると思うのだが、その当時も、現在も私と同じような意見をメディアで発言している人はあまり(ほとんど)存在しない。
夕方まで書き続けて、肩がばりばりに凝ってきたので、仕事を切り上げ、シャワーを浴びて、ベッドに寝転んで吉行淳之介『薔薇販売人』を読む。
どうして「第三の新人」の登場人物たちは「騙される」ことをこれほどはげしく忌避するのであろうか。
ちょっと不思議な気がする。
口に出したことと、内心の間に齟齬があるのは当たり前である。
内心は他人にはわからない(わからないから「内心」というのである。黙っていても「顔に書いてあること」は「内心」とは言わない)。
ならば、口に出して言っていること(および「顔に書いてあること」)を「真に受ける」ほかに手立てがない。
「真に受ける」のは「騙される」とは違う。
たいていの場合、「口に出して言えないこと」は、本人も「言いたくないこと」である、「できればそのようなことを内心で思っていることさえ人に知られたくないこと」である。
その「知られたくない」という思いを私は可憐に思う。
ならば、口に出して言っていることを「真に受ける」というのが人の礼儀というものであろう。
寝転がって志ん生の『富久』を聴く。
貧乏幇間の久蔵が、一度酔ってしくじった芝の久保町の旦那の火事見舞いにかけつけて、勘気が解けるという話。
この久蔵は「内心」で思っていることを全部口に出してしまう。
「ええ、芝の久保町の方が火事だてんで、こりゃ旦那の一大事だと駆け付けたら、旦那がきっと『おお、久蔵よく来たな。どこから来た』『へえ、浅草三軒町からきやした』『おお、遠いところからよく来てくれた。出入りを許すぞ』『へい、ありがとうございます』」
というところまで全部旦那の前でしゃべってしまう。
そういえば落語に出てくる人たちには「内面」がない。
『厩火事』や『寝床』のように、身近な人間が「ほんとのところはどう思ってるんだかわからない」(「女房よりも皿が大事」というのが本音なのか、「旦那の浄瑠璃なんか聴きたくない」というのが本音なのか)というのは、それ自体が大事件であり、「本音」が吐露され、「内面」が消失するに至って、世界は均衡を取り戻す。
「内面」というのは一時的な「不具合」であり、できることなら可及的すみやかに消失すべきものなのである。
とりあえず落語の世界ではそうだ。
なるほど。
だから、明治近代文学は「内面の発見」(というか「内面の創造」)から出発しなければならなかった。
『薔薇販売人』と『富久』を継続的に鑑賞したので、そんなことを考える。
起き上がって街へ繰り出す。
今日は金蓮飯店 Lotus d’or の「ラーメンもどき」。
「ラーメンもどき」は正式にはSouple de poulet aux vermicellesという。
Vermicelleというのは「極細パスタ」のことで、要は「極細パスタ入り、チキンスープ」である。
これをはじめて15年ほど前にこの店で食したとき、「ああ、これが日本でいうところのラーメンの原型なのだ」と思った。
以後、来るたびにこれを注文する。
ところが、今回は食べてびっくり、vermicelleがvermicelle chinoisに変じていた。
「中華風極細パスタ」で何か問題でも?と思われるであろうが、vermicelle chinoisというのは「春雨」のことなのである。
春雨入りチキンスープ(パクチーたっぷり入り)をずるずると食べる。
食感が麺と微妙に違うが、目をつぶればこれを「ラーメン」に思いなすことも不可能ではない。
ずるずる。

8月25日(月)
今朝から授業が始まる。
授業が始まると言っても、いったいどこに何時に行けばよいのか、何も情報がない。
ずいぶんな話であるが、間に旅行代理店をはさむとそういうことになる。
しかたがないので、学生たちには9時にロビー集合とだけ伝えておいて、ひとりで8時にCLAの受付まで行く。ホテルが学校の隣なので、こういうときにはありがたい。
「Kobe Collegeのスタジエールですけれど、これからどうしたらいいんでしょう?」という不得要領な質問をする。
「あら、ほんとに来のね。まあ、よかった」というさらに不得要領な返事がもどってくる。
担当者がまだ出勤していないので、後でねというので予定通り9時にまた来ますと言い残してホテルに戻る。
9時に行ってみると、CLAの担当者たちがほっとした表情をしている。
よく聞くと、大学と連絡が取れなくなってしまった上、代理店から授業料の振り込みもないので、学生たちはほんとうに予告通りにブザンソンに来るのかどうか、心配していたのだそうである。
まあ、どうもすみません。
名簿も届いてないから、人数もわからない。でも、Kobe College は二年おきにもう7,8回継続してきているし、引率のウチダという教師はブザンソンで合気道を教えるということが行事化しているらしいからたぶん大丈夫なんじゃないの・・・というような話が内部的に行われて、金曜日の午後になっても何の連絡もないけど「ま、いいか」ということで週末に入ったそうである。
そういうわりとお気楽なCLAである。
学生を担任の先生に預けて、学生たちにBon courageと言い残して、教室を後にする。
フランス語の履修者はどんな具合です、とディレクターのLecailleさんにお訊ねする。
今はメキシカンが主流だそうである。
はあ、メキシカンですか。
90年代はベトナム、カンボジア、韓国、インドネシアなど東アジア諸国からのスタジエールがたくさんいたけれど、アジアの人たちはずいぶん減りましたね、ということである。
このところはトルコの人と中国の人が目立つらしい。
トルコの人はEU加盟の準備のためで、来るのは高級官僚たち。語学の勉強というよりはヨーロッパの社会システムの勉強に来ている。
中国の人はお金持ちの子女たちで、やはり金融とか経営とかを勉強しに来ているそうである。
はあ・・・なんか世知辛いですね。
それにしても、メキシカンが多いのはどうしてなんだろう。
訊いてみたが、理由はよくわからない。
たしかに建物のまわりにはカルロスとかペドロというような名前が似合いそうなお兄ちゃんたちがけらけら笑いながらたむろしている。
Lecailleさんと来週「横飯」をする約束をして、コーディネイト関係の用事が一通り終わる。
フランス語を話しながらご飯を食べるのは消化に悪いです。
ちょっと買い物に行き、また部屋に戻って、原稿の続きを書く。
携帯でGmailを読む。
日本の携帯をそのまま持ってきただけで、電話はつながるし、携帯メールは届くし、Gmailまで読める。
前回来たときには、関空で海外仕様の携帯電話をレンタルで借りたのだから隔世の感がある。
世の中がこんなに急に便利になっているとは知らなかったので、今年の2月にバリ島にバカンスに行ったとき、電源を切り忘れて机の上に放り出していたままの携帯がいきなり鳴りだしたので仰天した。
おそるおそる電話を取ると文学部事務室から、「あ、先生、今日大学に来ますか?」というお問い合わせであった。
おそらくあと2年もすると、パソコンもLANなんかに繋がなくても、もってきたパソコンを開いたら、そのまま世界中どこでもネットができるようになるのだろう。
便利になったというべきなのか。
Doubs 川の畔で、青空の下で、ちゃかちゃかと携帯のキーボードを叩いてメールの返信を書けるのを、「便利になった」と言祝ぐべきなのであろうか。

8月24日(日)
前夜早寝したので、早起き。
6時半。フランスはサマータイムだから、ほんとうは5時半である。
そんなに朝早く起きてもすることがない。
熱いシャワーを浴びてから、ホテルのレストランが開く時間まで待って、ご飯を食べに行く。
ついでに新聞を読む。
L’Estという地方紙。ローカル・ニュースばかりで、ほとんど読むところがない。
最終面に短信で「オバマ候補が副大統領候補になんたらいう人を指名した」という記事と、「フランスのオリンピックの陸上は壊滅的」という記事があったので、それを読むが、5分くらいで読み終わってしまった。
することがないので、部屋に戻り仕事をする。
「文学」の原稿を書き上げ、『街場の教育論』に取りかかる。
気がつくと昼。
ずいぶん根を詰めて仕事をしたので、背中が凝っている。
寝転がって「ううう」と伸びをする。
小腹が減ったので、チキンラーメンを食べる。
腹ごなしに洗濯をする。
一昨年までの「駐車場ビュー」の部屋は窓が開いて、西日が差すので、暑かった代わりに洗濯物がよく乾いた。
今年は「消防署ビュー」で、東の道路に面しているので窓が開かないし、朝のうちしか日が差さない。洗濯には不向きである。しかたなく、部屋にロープをはりめぐらして、洗濯物を干す。
洗濯物が終わったので、またベッドに横になって、吉行淳之介の『原色の街』を読む。
「第三の新人」たちにまとわりついている沈殿したような戦争の匂いに驚く。
むかし読んだときには、そんなことあまり感じなかった。
あまり部屋にごろごろしていても芸がないので、思い立ってサン・ジャン大聖堂にお灯明を上げに行く。
肌寒いのでセーターの上からヤッケをはおって、志ん生の『妾馬』を聴きながら、たらたらと晴れた日曜の午後のブザンソンの街を歩く。
『妾馬』と中世都市の午後はなかなか相性がいい。
八五郎がお屋敷で草履の始末でもめるあたりで大聖堂に着く。
ノートルダムのお灯明は1センチくらいのものが2ユーロ。サン・ジャンのお灯明は30センチくらいのものが0.9ユーロ。こちらの方が60倍ほど御利益がありそうなので、聖母様に旅の無事を祈り、あわせてこれまで10余年ブザンソンでの旅の無事をつねにご加護くださった地元の天神地祇に感謝申し上げる。
大聖堂というのはどこでもたいへんバイブレーションがよいが、このサン・ジャンの十字の書いてある大理石の上は特に気分のよい霊動が感じられる。
その十字の上に立って、鳴り響くパイプオルガンの響きに身を委ねて、ゆっくり呼吸法をする。
城塞に遊びに行っていた学生たちが大聖堂にやってきたのに遭遇。一緒にHorloge astronomique(天文時計)を拝観する。
ブザンソンは時計製造で有名なところであるが、この天文時計はその中でも名高い逸品。
帰り道にカフェでモナコを飲む。
モナコというのは日本ではほとんど供するところがないが、grenadine(ザクロのシロップ)をビールで割った、カンパリのような色合いの飲み物である。
夏場の夕方に飲むと、たいへん美味しい。
これが2ユーロ70。
パリに比べると諸式が安い。
部屋に戻って、『原色の街』の続きを読む。
食事にでかけるのが億劫なので、東川、黒田の院生組とホテルのレストランで晩ご飯を済ませることにする。
ここはchoucrouteが名物である。
「シュークルット」というのはドイツ語で「ザウアークラウト」。塩漬けの細切りキャベツを白ワインで煮たものにハム、ソーセージを添えたアルザス料理。
日本ではこれまたあまり食べることのないものである。
これとやはりアルザス風のキッシュ(ベーコンの切り身とタマネギを載せたお好み焼きのようなもの)を三人で分けて食べて、ビールとアルボワのワインを飲む。
満腹。

8月23日(土)
パリからブザンソンへの移動日。
荷造りをしてから、迎えのバスでGare de Lyon へ。
見送りにきてくれたブルーノくんとお茶してからTGVに乗り込む。
パリを出る頃にようやく空が晴れてくる。
ブザンソンまで2時間半。
トランクをごろごろ転がしてホテルへ。
いつもと同じIbis La City。
今回はちょっとだけ景色に開放感のある「消防署ビュー」の部屋。
荷ほどきをしてから、みんなを街に案内する。
だいたいの地理をお教えして解散。
Gallery Lafayetteでいつものようにグラスとマグカップとシャワー・ジェルを買う。
どういうわけかフランスで買った食器は旅の間に壊れもせず、その後も愛用されている。
食器を見ると、そのときどきの部屋の様子を思い出す。
部屋に戻ってシャワーを浴び、ベッドに寝転んで、小島信夫『抱擁家族』を読む。
海外旅行するときには、なるべく行く場所とぜんぜん関係ない内容の本を持って行くことにしている。ふだんは明治の作家のものが多い。内田百閒や泉鏡花はあまりにフランスの空気と合わないので、かえって身にしみる。
今回は「第三の新人」のものを持ってきている。「明治もの」は幸田露伴を一冊だけ。
『抱擁家族』は期待通り、ブザンソンで昼寝の友として読むのに、これほど似つかわしくないものはないほどミスマッチである。
読んでいるうちに眠気よりもはげしい脱力感に襲われる。
これは「アミノ酸欠乏症」であることが長年の旅行経験で知れている。
もう何度も書いたことだが、日本人は必須アミノ酸をもっぱらお醤油とお味噌から摂取しているので、これを欠くと不意の脱力感に襲われるのである。
だから、私は旅の友に醤油系の食品とインスタント味噌汁を忘れない。
さっそく湯を沸かして「マルコメ味噌」のインスタントパッケージを取り出し、買ってきたマグカップに注ぎ、ごくごくと飲み干す。
たちまち元気が回復する。
あるいは単なる自己暗示なのかもしれないが、単なる自己暗示で脱力感が消えるなら安いものである。
元気になったので、昼寝を止めて、岩波の『文学』の原稿を書く。
コミュニケーションについて何でもいいから4,5枚というアバウトな指定なので、たった今経験した行き違いについて書く。
海外旅行というのはまことに面倒なもので私は大嫌いなのであるが、旅先では「おお、これはびっくり」ということに頻繁に遭遇し、それはそれで人間という生物の成り立ちについての示唆に富む。
面倒ではあるが、学ぶところもまた多いのである。
前々回のメトロのCarte museeネタはフランスの格え差社会の再生産構造について、実に教えるところが多かったので、講演やエッセイで5回くらい使い回しさせていただいた。
だから、フランス人とのコミュニケーションが不調になるたびに私は「おお、これもまたブログネタになる」と内心手を叩くのである。
今回のコミュニケーション・ブレークダウンはこんな話。

ブザンソンのスーパーでグラスを買った。レジでお金を払おうとしたら、店員に何か話しかけられたが、聞き取れない。パルドン? と聞き返して、同じ言葉をもう一度言ってもらったが、やっぱり聞き取れない。呆然としていると、店員が肩をすくめて「もう、いいよ」というあきらめ顔をした。
スーパーのレジで、キーボードを叩く片手間に発した質問である。それほど答えに窮するようなむずかしいことを訊いているはずがない。気になるので、カウンター越しに身を乗り出して、「今の質問で私に何を訊いたのか、気になるので、教えてください」とひとことひとこと区切って言ったら、向こうもひとことひとこと区切りながら「『郵便番号は何ですか』と聞いたのである」と答えた。「グラスを買うのに郵便番号が必要なんですか?」と重ねて訊いたら、「どこから来たお客が、どんな商品を買うのか、統計を取っているのだ」と教えてくれて、ようやく腑に落ちた。
私たちの聞き取り能力は多く文脈に依存している。だから、「そんなことが出てくるはずのない文脈に登場した語」は簡単な言葉でも聞き取れないことがある。
今回私が聞き損なったのは「郵便番号」code postale という簡単な単語である。まさかそんな単語をスーパーのレジで訊かれるとは思わない。日本で同じことを訊かれても、やはり「え?」と聞き返したであろう。
前に岡本のイカリスーパーのレジで、やはり店員の質問が聞き取れず、二度尋ね返したことがある。
彼は「ホレーザイご利用ですか?」と言っていたのであるが、「ホレーザイ」というのが当該店舗の付帯施設なのか、あるいはクレジットカードのようなものなのか・・・しばらく考えて、「保冷剤」という漢字が頭に浮かぶまで数秒を要した。

という話。
原稿を書いているうちに時間が来たので、Place de la RevolutionのAu feu vertというレストランに行く。
ここはMorteau という特産のソーセージとジャガイモにCancoillotteというチーズをまぶしてオーブンで焼いたグラタンが名物であり、毎回ブザンソンに来るたびに食べている。
一緒に晩ご飯をしたい人は現地集合と言っておいたので、学生たちも全員やってくる。
みんなで騒ぎながらばりばりご飯を食べる。
美味であるがたいへんハイカロリーなご飯なので、こんなものばかり毎日食べていたら、たちまちデブになってしまうであろう。
腹ごなしにゆっくり散歩しながら、部屋に戻り、またシャワーを浴びて、パジャマに着替えて、円楽の『宮戸川』を聴きながら眠る。
まだ10時半だ。

8月22日(金)
パリ二日目は雨。
朝ご飯を食べていると学生たちが降りてくる。
みなさん雨の中を観光に出かけるようである。
先生は何をするんですかと訊かれるので、「傘を買う。防寒用に服を買う。ノートルダムで旅の無事を祈る」とお答えする。
傘はトランクに入れ忘れた。レインコートは荷造りするときの最後に「まさか、これを着るような事態には至るまい」とトランクから出したのである。
その「まさかの事態」にいきなり遭遇した。
ギャラリー・ラファイエットで、初日からずいぶん出費。
現金を補充するために円をユーロに換える。
2万円出しても100ユーロとちょっとにしかならない。
非道な為替レートである。
カフェでディジェスティフを一杯飲むだけで2000円かかる。
物価は日本の約2倍。ものによっては3倍の感覚である。
なるほど、フランス人が野沢温泉にスキーしに来るのも道理である。
ノートルダム大聖堂でいつものようにお灯明を上げて、旅の無事をお祈りする。
さすがに大聖堂、観光客でごった返しているが、中にいるだけで為替レートで乱れた心がすうっと鎮まってくる。
椅子に座って、ステンドグラスをぼんやりみつめて時間の経つのを忘れる。
身体が冷えてきたので、ホテルに戻り熱いシャワーを浴びる。
人心地がついたところで一仕事。
養老孟司先生の『人間科学』の文庫版の解説を頼まれていたので、それを書く。
書き始めると夢中になる。
解説なんだか妄想なんだかわからないような文章になってしまう。
養老先生も「そういうことを書きそうなやつ」だということをご存じの上で依頼されたのであろうから、委細構わずどんどん妄想方面に逸脱する。
夕方になって、仕事帰りのブルーノくんが迎えに来たので、ご飯を食べに行く。
東川さんと黒田さんが同行。
今日は中華。
ブルーノくん行きつけのカルチェ・ラタンのはずれの中華。
「レストラン街の真ん中よりも、はずれの方に美味しい店が多いのです」とブルーノくんが教えてくれる。
青島ビールを飲みつつ、春巻きとriz catonais と牛肉とたまねぎをsauce piquanteで炒めたものを食す。
たいへんつきづきしい味がする。
春巻きにお醤油とお酢をかけてばりばり食べる。
レタスとミントが大量に付け合わせてあって、春巻きを食べたあとに片付けたが、あとで横のこどもの様子を見たら、レタスとミントに包んで食べていた。
これが正しい食べ方だったようである。
前日もこの日もお米を食べたが、どちらもたいへん美味しく炊けていた。
むかしはフランスで食べる米は悲しくなるほど不味かったが、お米の食べ方についてはずいぶん工夫があったようである。
カフェでようやく青空が覗いたパリの夕暮れを眺めながら、カルヴァドス。
パジャマに着替えてほっこりしていたら、学生から電話。
カメラを亡くしたといって泣いている。
初日から気の毒なことである。
先生のデジカメを貸してくださいというので、貸してあげることにする。
最後のブザンソンだから、少し記念に街の様子を撮っておこうかと思っていたのだが、いつ写してもそれほど違いのある風景でもない。

8月21日(木)
パリ第一日。
今年もブザンソンでのフランス語研修の付き添いで、フランスに来ている。
いったい何回目になるのであろうか。
92年か3年に個人的に始めて、96年にようやく正規の科目に認定された。
それから一度だけ別の先生にお願いしたが、それ以外は、企画立案したものの責任として、私が付き添いに同行している。
英語圏の研修は付き添いに行ける人はいくらもいるが、フランスは田舎にゆくと、あまり英語が通じないので行ってくれる人がいない。
私が退職したあと、引き継ぐ人がいなければ、この研修もなくなるのかも知れない。
次の研修は2010年だが、退職の直前であるので、できればパスさせていただきたい。
とすると、これが私にとっては最後のフランス語研修になる。
これまでは、「毎回かわりばえがしないなあ」と思って、フランスの夏をだらだら過ごしていたのであるが、さすがに「これが最後」と思うと、ちょっとしんみりした気分になる。
そう思ってみると、去年と同じ現地ガイドの駄洒落も、パリにひしめく傍若無人な観光客も、無愛想なホテルのレセプションも、水漏れのする浴室も、どれもいとおしく思えるから不思議である。
今回も飛行機はビジネス。
4年前の研修のときに、エコノミークラスのいちばん後ろの席の窓際に押し込められ、ほとんどリクライニングしない席だったので、前の席のヘッドレストが喉元まで迫り、トイレに行くどころから、床に落ちた老眼鏡さえ拾えずに、身じろぎもできぬまま数時間を過ごしたことがあった。
よくあのような非人間的なシート設計ができるものである。
それ以来エコノミー恐怖症である。
雀の涙ほどの日当しか出ない付き添いであるから、ビジネスクラスの料金を自己負担すると、目も眩むような赤字であるが、命には換えられない。
関空で搭乗すると、すぐにウェルカムドリンクのシャンペンが出たので、それを二杯いただき、酔余の勢いでひたすら眠り続け、シャルル・ド・ゴールに着く。
パリは涼しい。
というより小雨が降って、肌寒い。
フランスは夏があまりに祝祭的であるせいで、夏の終わりは、街の空気そのものがなんとなく物寂しい。
学生院生たちととりあえずご飯。
ホテルはカルチェ・ラタンのど真ん中、中世博物館の隣にある。だから五分も歩けばレストラン街に出る。
私はご飯を食べたあと、すぐに歯を磨き、「ぷふ〜」と横になり、そのまま読書あるいは昼寝(あるいは夜寝)の体制に移行することをこよなく愛する人間であるので、ホテルの選定に際しては「レストランの近くにホテルがある」「ホテルの中にレストランがある」のどちらかの条件を満たすことをつよく求めるのである。 
ホテルはいつものLa Tour Notre-Dame。
部屋もいつもの31号室(壁ビュー)。 
パリ最初のご飯はブルーノ君がよくお昼を食べにゆくというメキシカンにご案内いただく。
サンミゲルを飲み、チリとチョリソを食べる。
チリが美味である。
日本で食べるとやや「よそいき」の味がするが、これはやはりメキシカン・ソウルフードであり、メキシコ人の「味噌汁とご飯」であるということがよくわかる。
学生たちはそのあと「クレープの店」を地図を片手に探しにでかけ、院生の東川さん黒田さんとブルーノ君とサン・ミシェルのカフェで軽く一杯いただくうちに小雨が降ってくるので、ホテルに逃げ帰る。
シャワーを浴びて、テレビをつけたら、アメリカが400メートルリレーで男女ともボロ負けした北京五輪のニュースをやっていた。
引き続き女子バスケットの準決勝をつい見てしまう(アメリカとロシア)。
アメリカ劣勢であるが、べつにアメリカを応援する義理もないので、第二クオーターの途中で爆睡。

2008.09.13

当然時差ぼけです

当然ながら時差ぼけである。
英語では Jet lag という。フランス語では「時差」をdécalage horaire というが、「ぼけ」という病態もこれに含まれるようである。
時差ぼけの研究が本格的に始まったのは1950年代の終わりのこと。
アイゼンハウアー政権の国務長官だったジョン・フォスター・ダレスがアスワン・ハイ・ダムの建設についてエジプトとの交渉に失敗し、以後10年間エジプトをソ連の影響下に置いたという外交史上の汚点のせいである。
このときダレスはすさまじい時差ぼけで交渉時には完全に混乱していて、自分が何をしているのかよく理解していなかったらしい。
このときから時差ぼけおよび「体内時計」という概念が生物学の研究対象となったのである。
生物学者ジョン・D・パーマーの『生物時計の謎を探る』(小原孝子訳、大月書店、2003年)のよると、私たちは西に向かうときと東に向かうときでは、あきらかに東に向かってタイムゾーンを越えるときの方が時差ぼけの強度が高いそうである。
これは実感としてよくわかる。
日本とフランスの時差は7時間(ほんとうは8時間だけれど、この時期はサマータイム)。
関空を朝の10時に出て、12時間飛行して、同日の夕方パリに着く。
体内時計は午後10時、現地時間は午後3時。
この調整はそんなにむずかしくない。
ホテルにチェックインして、早めに晩ご飯を食べに行って、一杯飲んで、9時頃に「今日は疲れたから早寝しよう」というと体内時計は午前4時。飛行機の中でいくら寝ていても、この時間はさすがに眠くなる。そのまま爆睡して、目が覚めると現地時間にほぼ同調できている。
これが東に向かうとそうはゆかない。
パリを午後2時に出て、関空に着くのが朝の8時。このとき体内時計は午前1時。眠気をこらえて家に戻ってお風呂に入って、荷物を片付け終わると正午。体内時計は午前5時。我慢できずにばたりと昼寝をする。目が覚めると午後4時。体内時計は午前9時だから当然目は覚める。それから少し仕事を片付けて、日が暮れるので、ビールなど飲み、晩ご飯を食べる。午後11時になり、そろそろ寝ようかと思うが、体内時計は午後4時だから寝付けるわけがない。夜中に何度も目が覚める。午前6時に「眠いのだが、もう眠れない」状態でしかたなく起き出す。体内時計で夜の11時。そんな時間に起き出して、「さあ、一日を始めよう」というわけであるから調子が出るはずがない。
実際にパーカー博士によると、アメリカのメジャー・リーグでは、東海岸のチームが西に飛んで試合する場合と、西海岸のチームが東に飛んで試合する場合は、平均得点に有意な差が出ているそうである(東海岸チームはホームに西海岸チームを迎えたときに、同タイムゾーンの同士との試合より、平均1.24点多く得点している)。
「この驚くべき発見に対してプロ野球連盟はどんな対策をとってきたというのか」とパーカー博士は問うている。
「なんと連盟はまったく無関心であった!」(同書、91頁)
体験的には、ヨーロッパから日本に戻ってきたときの時差ぼけの「リバウンド」はいったん終熄したあとの1週間目くらいに訪れることがある。真夜中に目が覚めて、どうにも寝付けなくなるのである。時間的につい「ナイトキャップ」を大量飲用して眠りに持ち込むという「強制終了」モードで事態に対処することになるり、結果的には時差ぼけというよりは二日酔いで苦しむのである。
パーカー博士の本は睡眠について豊かな知見にあふれた好著であるが、この中で私は「サーカディアンリズム(circadian rhythm)」(概日リズム)ということを教えてもらった。
人間の体内時計は1サイクルが24時間40分なのである。
よく行われる実験に明かりの入らない地下で、時計を与えず生活をさせるものがある。
眠くなったら眠る。腹が減ったら食べる。そういう生活をしていると、被験者たちは平均して就寝時間が毎日40分ずつ遅れることがわかったのである。
だから子どもたちが放っておくとすぐに夜更かしをするようになるのをあまり責めてはいけないのである。

2008.09.14

『秋日和』と『すーちゃん』

5時半に目が覚めてしまった。
8時くらいまで寝ていたいのだが、寝付けない。しかたがないので、起き出して『日本の論点』の「非婚」についての原稿に手を入れる。
これはブザンソンで原型を書いたのだが、「結婚したくない人」と「結婚したいけれど、機会に恵まれない人」を同じ「非婚」というカテゴリーにくくって論じるのは、やっぱり無理があるよな、と昨日の夜、『秋日和』を見たあとにベッドの中で、益田ミリの『すーちゃん』を読んでいて感じたのである。

『秋日和』は1960年の映画で、例のごとく「なかなか結婚しない娘(司葉子)を結婚させる」ために佐分利信、中村伸郎、北竜二の三人のおじさんたちが暗躍するという話である。
あまりに面白くて、何度も笑い出してしまった。
バーのカウンターでパイプで鼻翼をこすりながら「急いじゃいかん」という場面とか、「じゃあ、リンゴも俺が食ったことになってるんですね」とか、佐分利信があの「地獄の底から響くような声」で、少しも可笑しくない台詞を呟いて、観客を爆笑させる演技の妙は洋の東西を問わず他に類例を見ないものである。
ともあれ、映画を観ながら、たしかに、あの時代にも、こういう「ハイパーうるさいおじさん」たちが「じゃあ、いいんだね。話、進めるよ」(『彼岸花』にもまったく同じ台詞が出てくる)と強引に(ほとんど「はた迷惑」というレベルの強引さで)若者たちを結婚させていなければ、非婚率は今と変わらないほどに高いパーセンテージに上ったであろうと思ったのである。

小津安二郎は『晩春』も『麦秋』も『秋刀魚の味』も『秋日和』も『彼岸花』も秀作はことごとく「娘を結婚させる話」である。
これらの映画の過半は「縁談」にかかわる会話で占められている(『秋日和』に至っては90%がそうである)。
「適齢期になれば結婚するのが常識」であった時代にあってさえ、大の大人がこれだけのエネルギーを投じて、人々はようやく結婚にたどりついたのである。
それを思うと、このような迫力のあるマッチメイカーたちがほとんど底を払ってしまった現代において、まだこれだけ「結婚にたどりつける人」がいるというのはなかなかたいしたものだという気になってきた。
映画の中でも、「はやく結婚したい」ということを言う若者はほとんど登場しない(そんなことを口走るのは、三上真一郎とか桑野みゆきとかが演じる「無思慮な学生」たちだけである)。
みんな「まだそんな気になれません」と言って、あれこれ理由を挙げて結婚を先延ばしにしようとする。
それを大人たちが無理押しするのである。
非婚志向はもしかすると40年前の方が強かったのかもしれない。
そうでなければ、佐分利・中村・北のような強力トリオの出場が要請されるはずがないからである。
そう考えると、当今の非婚趨勢は、若者たちの「非婚志向」が強まったからではなく、若い人たちを本人の意向を無視して、「無理やり結婚させる」社会的圧力が失われたことが最大の原因なのかもしれない。

小津自身は生涯独身だった。そして、「活動屋」というやくざな仕事で、気の合う仲間たちと「遊ぶ」ことにひたすら興じた人である。
にもかかわらず、その小津は「結婚」と「家族」を、ほとんどそれだけを描き続けた。
あたかもそこだけが人間的成熟の場であり、すべての人間的経験はそこに凝縮されていると言わんばかりに。
それは小津の映画そのものが機能的には「結婚させる」外圧として(つまり佐分利信的に)機能しているということである。
佐分利信の演じる「結婚させる男」の肖像があれほどたくみに造型されているのは、あるいは彼が「小津映画」そのもののを物語的に表象していたからかもしれない。
などということを考える。
小津安二郎のような映画を撮る人はもう日本にも外国にも、どこにもいない。

『すーちゃん』はいわば「佐分利信なき時代」を生きる女性を描いている。
非婚は彼女たちの意思ではない。
佐分利信がいる時代だったら、「すーちゃん」はとっくに結婚していただろう(「もう行かなきゃいけないよ」と耳にタコができるほど言われ続けて、根負けして)。
彼女たちを「非婚に押しやる」外圧が働いているのではない。彼女たちを結婚に「押しやる」外圧が働かなくなったのである。
彼女たちは「結婚したら幸福になれるだろうか?」と考える。
この問いの立て方そのものが間違っているのだが、そのことを誰も教えない。
この問いを許す限り、人を結婚に踏み切らせることはできない(ふつうは結婚しても人はそれだけでは幸福にはなれないからである)。
「結婚したら幸福になるよ」というのは、若者たちを結婚に押しやるための「嘘も方便」である。
そうでもいわないと、なかなか結婚しないからである。
「家族を作れ」というのは要するに「成熟せよ」ということである。
それは「いつまでも、若く、自由で、イノセントでいたい」という若者の願いと必ず葛藤する。
この葛藤を押し切るだけの「成熟圧」を喪ったというのが、おそらくは私たちの時代の非婚の実相なのである。


2008.09.15

大相撲に明日はあるのか?

『中央公論』のII上くんが来て、「相撲」について取材を受ける。
相撲ですか・・・
もう長いことテレビで相撲を見ていない。
新聞でも相撲の記事はまず読むことがない。
力士の名前もほとんど知らない。
聞くと、相撲は不祥事続きで、客も不入りだし、視聴率も低下するばかりで、もうどうにもならない状態なのだそうである。
そうでしょうねと思う。
理由はいろいろあると思うけれど、要するに「相撲とは何か?」という根源的な問いを誰も真剣に引き受けたことがなかったことがおおきな理由だろうと思う。
相撲は神事なのか?武道なのか?格闘技なのか?スポーツなのか?スペクタクルなのか?伝統芸能なのか?
とりあえず、神事を含んではいるが、それ自体は神事ではない。
そのようなものに「公正中立」のNHKが電波を貸すわけにはゆかない。
武道でもない。
武道というのは「心身の生きる力を高め、潜在可能性を開花させるための技法の体系」であるが、相撲をやっていたせいで長寿を得たとか、相撲をやっていたのせいでビジネスに成功したとか、相撲をしていたおかげで博士号が取れたとかいう話はあまり聞かない。
では、格闘技なのか?
これも違いそうである。
50年前なら、力士は「地上最強」だという言葉を子どもたちは信じたが、K-1で元横綱が「秒殺」されるのを見てしまった今では、相撲の格闘技としての有効性を信じるものはあまりいない。
では、スポーツなのか?
それも違うだろう。
スポーツの場合は「フェアネス」ということが生命線だが、相撲の場合は「個人」で星を取り、賜杯を受けるにもかかわらず、同部屋での取り組みはない。かつては一門同士の取り組みもなかった。
勝敗の判定をする行司という人が部屋に分属しているという制度も意味がよくわからない。
「今日の球審はタイガース所属のヤマダさんですから、ジャイアンツ的にはストライクゾーンがきついですね」というようなことはないのだろうが。
その時点での「最強力士」を決めるトーナメント制はたしかに存在する。
けれども、「最強決定」が最優先の関心事なら、大相撲トーナメント(フジテレビ主催)や大相撲最強決定戦(日本テレビ主催)の視聴率の方が本場所よりも高いはずであるし、その勝敗をみて、「誰がほんとうは強いのかがわかった」と満足している人がいてもよいはずだが、あまりそんな話は聞いたことがない。
スペクタクルあるいは伝統芸能なのか?
歴史的には「けたはずれの巨漢」を見るという「ショー」的要素が相撲人気を牽引してきたことはたしかだろう。
現在でも「花相撲」というものがあり、初っ切り(相撲の禁じ手をコミカルに演じるもの)や相撲甚句が演じられる。それが力士の「本務」の一つにカウントされている以上、相撲はある種の伝統芸能であるとも言える。
けれども、もし伝統芸能であるとすれば、そこに参加している外国人力士たちにはそのような日本の伝統文化に対する敬意が見られてしかるべきだろう。
私の知っている範囲でも、能楽を学ぶ外国人や合気道を学ぶ外国人たちは日本の伝統文化に深い興味と敬意を抱いている。
その敬意は、彼らが自国に戻った後に、故郷の街で、自分が習得してきた技芸を同国人たちに教えることに情熱を傾けている事実からも推し知ることができるのである。
けれども、これまで相撲で高位にあがった外国人たちの中にそのようなかたちで日本の伝統文化への敬意を示した人がいただろうか?
外国出身の力士たちが相撲をほんとうに愛していたのであれば、「ハワイ相撲協会」や「モンゴル相撲協会」が存在していてよいはずである。
けれども、寡聞にして私はそのようなもののあることを知らない。
力士のリクルートは形式的には国際化しているけれど、彼らが伝統芸能を学びに来ていると理解している人はほとんどいないであろう。
となると、伝統芸能であるとも言いがたい。
こうやって見ると、相撲というのは「いろいろな要素が渾然一体となったもの」という以外にない。
そして、どうやら相撲の魅力とはこの「いろいろな要素が渾然一体となった、なんだかよくわからないもの」という特殊な様態のうちにあるような気が私はするのである。
こういう「なんだかよくわからないもの」はあらかじめ制度設計がなされてできあがったものではなく、「起源がよくわからない」ものである。
そして、たいていの場合、起源や目的がはっきりしている制度よりも、起源や目的がはっきりしない制度の方が、「本質的」なのである。
相撲が不調であるのは、この「なんだかよくわからない」性を守り抜くための理論武装ができていないことが最大の理由ではないか。
そういう話をする。
相撲協会の収支や番付編制や取り組みの決定過程などをすべて開示して、「透明性」を担保すれば相撲人気は復活するのか?
力士たちが労働組合をつくって、相撲協会と「統一契約書」を交わして、労働条件について弁護士を立てて団体交渉するようになると、相撲人気は復活するのか?
部屋制度を廃止して、「最強力士」めざす「ガチンコ・トーナメント」にすれば、相撲人気は復活するのか?
なんだか、どれもダメそうな気がする。
相撲というのは「きちんと話の筋目を通して何かしようとするとうまくゆかなくなる」システムではないかという気がする。
じゃあ、いったいどうすればいいんだと訊かれても、私には答えようないです(別に誰も私に答えなんか期待していないでしょうし)
でも、こういう「なんだかよくわからないもの」は合理的な存在理由を挙証できないからと言って、「じゃあ、なくなってもいいだね」ということになると、いろいろ差し障りが出てくるものなのである。
私としてはもう少し長い目で、暖かく見守ってあげたらいいんじゃないかと思って、『中央公論』の特集のタイトルを「がんばれ!大相撲」とすることをご提案したのであるが、I上くんは「はあ・・・でも、どこをどうがんばればいいのか」と暗い顔をしていた。

2008.09.16

総合誌は生き残れるのか?

四日目でようやく体内時計が日本時間と同調した。
やれやれ。
終日『街場の教育論』の推敲。
去年の4月に、授業ではできたばかりのサイバー大学(福岡市、ソフトバンクが出資する株式会社立大学)について「この大学はユビキタス大学の失敗例となるだろう」と予言している。
理由はビジネスマンは「師弟の対面状況」の重要性を理解していないからだと書いているが、サイバー大学が単位認定と非認定大学(学位工場)からの学位で新聞記事になるような問題を起こした後に本になるので「なんだあと知恵じゃん」と思われるだろうな、きっと。
教育再生会議の批判ももうあまり新味がない(というか、これほど短期間に教育問題に対する世論が「冷めた」ということに驚く)。
一昨年暮れから去年はじめにかけては、日本中が教育問題でわきたっていたのにね。
そういう言論状況のなかで、長期にわたってリーダブルであるようなものを書くというのは、なかなかむずかしい。

『論座』と『現代』が相次いで発行停止に追い込まれた。
在仏中だったが、あるメディアからコメントを求められた(外国にいると日本のメディアの状況というのは火星の出来事のように遠く感じられるので、「わかりません」とお答えした)。
日本に帰ってきて、その理由について考えた。
ちょうど小田嶋隆さんが連載をもっていたm9という雑誌が3号で発行停止になった件についてコメントしていたので、それを読んで考えた。
小田嶋さんはこう書いている。

「 雑誌の内容は、《時代を読み解く新世代「ライトオピニオン」誌》と銘打っている通り、最近の若者向け雑誌の中ではちょっと硬派なノリだった。
 が、部数は期待していたほど伸びず、結局、通算で3号を出したところで、早めの撤退を判断することになったようだ。
 私は、スポーツコラムを担当していたのだが、連載は3回で終了ということになった。残念。あれこれとしがらみや制約の多い大手の雑誌からは発信しにくいプギャーなご意見を存分に吐き出す覚悟でいたのだが。
 スポーツジャーナリズムの世界は、メディアと競技団体と興業組織と選手会と専門ライターが、まるで互助会みたいに肩を寄せ合って生きている、金魚鉢みたいな世界だ。それゆえ、水中生活に慣れたえら呼吸のできる人間以外には、取材パスがまわってこない仕組みになっている。
 で、私のような部外者のライターは、金魚鉢の外から見ると、金魚たちの泳ぎがどう見えるのかといった視点で、記事を書いていたわけなのだが、そういうご意見は、残念なことに、あんまり需要がない。
 というのも、読者もまたすべては金魚鉢の外に住んでいる存在で、価値ある情報は、水の中にしか無いと思いこんでいたりするからだ。
 うん。負け惜しみだけどさ。」
(http://takoashi.air-nifty.com/)

小田嶋さんがこの中で書いている「金魚鉢みたいな世界」という形容は、政治の世界にも、学術の世界にも、文学の世界にも、どれにも当てはまるような気がする。
おそらく「総合雑誌」もまたそのような「金魚鉢みたいな世界」なのであろう。
そこでは同じような書き手(私のような)があちこちのメディアに繰り返し顔を出し、同じようなことを繰り返し語っている。
その批判者の顔ぶれもさっぱり代わり映えがせず、そのような硬直した構図に対して「けっ」と斜に構えている「オレはそういうんじゃないかんね」的メタ批評者の語法も十年一日。
そういう面子が「水中生活になれたえら呼吸できる人間」たちのクローズドなクラブを作って、排他的に発言の場を占めている。
新しい書き手(新しい「えら呼吸」者)が定期的に補充されるけれど、この「金魚鉢」のつくりそのものを批判的に吟味するような言説は排除されている。
私は『AERA』に隔週半頁のコラムを連載しているが、この自分の立ち位置というのが、なんか「よろしくない」ような気がする。
というのは、「金魚鉢」構造の中で、「金魚鉢」批判のようなことをさせてもらっていることが結果的に、「金魚鉢には自浄能力がある」ということの「言い訳」として機能しているんじゃないかと思うからである。
『AERA』のコンテンツに関しては、毎週送ってくるから読んでいるけれど、「sigh」(チャーリー・ブラウン的)を吐かずに読み通すことができない。
このトリビアルな「格付け」に焦点化したメディアはいったい、それによって何を伝えたいのか。あるいは何を実現したいのか。
それが「社会の実相です」とスーパークールな口調で言いたいのかもしれない。
いずれにせよ、そこに「金魚鉢の世界」を超えてゆこうという志向を読むことは限りなく困難である。
前に高橋源一郎さんが『世界』の編集者に『世界』の部数低迷を救うアイディアはないですかと訊かれて、「『世界』の罪」という特集を行って、戦後『世界』が世論をミスリードした事例を洗い出して、その原因について吟味したらどうかと提言したら、一蹴されたという話をご本人から聞いたことがある。
『世界』がほんとうに批評的なメディアでありたいと思ったら、これを「一蹴」すべきではなかったと思う。
結果的に採択されないにしても、編集会議で真剣に議論されるべきことだったと思う。
「誌面刷新」というのが、編集長の入れ替えや、執筆陣の入れ替えということでとどまるなら、「金魚鉢」の再生産は止まらない。
「金魚鉢」を超えるためには、まず「金魚鉢の歴史と構造」についての自己剔抉から始めなければならない。
それを喫緊の課題として認識している雑誌がどれだけあるか。
読者減の理由を出版社側が「読者離れ」とか「企画力の弱さ」とかいう言い方で説明している限り、総合誌の廃刊趨勢はこのまま止めどなく続くだろう。

2008.09.18

アメリカの夢

リーマンブラザースが破綻した。
こういうときは「平川くんはこの事態をどうとらえているだろう」と思うので、さっそく彼のブログを読む。
http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200809160000/
なるほど、そのような理解でよろしいわけですね。
そうか。
私はアイボリー・タワー(最近わりと娑婆臭くなってはきたが)の人間なので、リーマンとかメリルリンチとかAIGというのが「なんぼのもん」なのか実感としてはさっぱりわからない。
つい二週間ほど前のある雑誌(気の毒なので名を秘す)がこの外資系金融機関で働く女性たちを特集していた。
先端的ビジネスで、複雑怪奇な金融商品を捌いて、年収数千万円というようなサクセスフルな女性のアクティヴでアグレッシブな生き方を、「ロールモデル」としてご呈示したいというような内容であったかに記憶している。
間の悪い話である(そういえば、昨夜「AIGに公的資金投入」のニュースの直前にアフラックのCMが入っていた。これもかなり間が悪い)。
現場を取材していて、金融危機を予見できなかったジャーナリストとしての嗅覚の悪さがいささか問題ではないかと思う。
ご存じのとおり、「腐りかけたもの」は腐臭を発する。
それはわずかな、ほんのわずかな徴候から感知できる。
ふつうは「どうしてこんな奴が威張っていられるのかわからない奴が威張っている」というかたちで検出できる。
無意味にえらそうにしている人間がそこここに目に付いたら、その組織は「末期的」であると判じて過つことがない。
「えらそう」に見えるのは、外部評価と自己評価の差が大きいせいである。
「自分の能力は過小評価されているのではないか」という不安をもつ人間は、自分への敬意を喚起するために「わずかによけいな身ぶり」をする。
「えらそう」というのはその「わずかによけいな身ぶり」のことである。
いちばんわかりやすいのは「アイコンタクトの遅れ」である。
こちらが声をかけても書類から顔を上げない、隣の席の人間とのおしゃべりを止めない。
こちらが質問すると、答えることよりも「私はそういう質問をされることをすでに予見していた」ことを誇示することを優先する人間(彼らは答える前に、「だから」という鬱陶しげな一言から始めることが多い)。
そういう人間が一定数いたら、そういう組織はもう長いことはない。
リーマンブラザースやAIGに私は(もちろん)足を踏み入れたことはないが、高い確率で「そういう人間」が蟠踞していたことは想像に難くない。
というのは平川くんも指摘していたように、この金融という商売は「自己評価が異常に肥大する」という人間の治癒しがたい傾向を基盤にしてはじめて成立するものだからである。
サブプライムローンというのが今回の直接の火種であるが、これは要するに「払えない借金の証文」に「今は無理だが、未来の私には払えるんじゃないか」という「錯覚」によってハンコを捺させるシステムである。
「未来のオレ=ほんとうのオレ」は今のオレより「金がある」ということを信じることのできる人間だけが身の丈に合わない借金をする。
これは古今東西を問わず「借金の定法」である。
つまり、サブプライムローンというのは、現にたいへん低い社会的評価しか受けていない人たちを対象に、「あなたへの外部評価は不当に低く、ほんとうのあなたはもっと高い評価を受けて然るべきであり、必ずや受けるであろう」という悪魔の囁きをもたらすことで成功したシステムなのである。
これに、「あなたがローンで買った土地は価格が上昇し続ける」という「土地神話」が一枚噛むのであるが、これも「あなたがいま所有している土地の外部評価は不当に低く、いずれその本来の評価に達するであろう」という、外部評価と自己評価の「埋められるべき落差」という物語を前提にしている。
つまり、サブプライムローンというのは「現に外部評価がたいへん低いのだが、それに比べて自己評価が異常に高い人間」を組織的に備給し続けることによってはじめて莫大な利益を上げるシステムだったということである。
ここまではご理解いただけたものと思う。
では、なぜそのスーパークレバーなシステムが破綻したかというと、「外部評価が非常に低く、自己評価が異常に高い人間」のことを私たちの社会では一般に「バカ」と呼ぶからである。
つまり、「身の丈に合わない借金をする人間」を生み出し続けることで利益を上げるシステムとは、「バカを構造的に備給し続ける」ことでのみ生き延びることのできるシステムだったということである。
このサブプライムローンシステムを構築するにあたって、アメリカの金融界は業界全体で「外部評価が低く、自己評価が異常に高い人間」こそがアメリカンドリームの体現者となるべき「模範的アメリカ市民」であるというナラティヴに同意署名した。
自分たちが信じない「物語」を顧客に信じさせることは困難だから、おそらく金融大手の社員たちもまたこぞって「ほんとうのオレの力はこんなもんじゃないよ」という肥大した自己評価で鼻の穴を膨らませる競争に励んでいたはずである(見たことないから想像ですけど)。
そして、この顧客開拓戦略(ならびに金融エリート=成功者モデル)は劇的に成功してしまったのである。
結果的にアメリカ社会は必要以上の数の「バカ」を抱え込むことになってしまった。
さいわいなことに「アメリカ人が全部バカになる」ことでしか延命できないシステムは瓦解した。
そのことの危険に誰かが気づいたのか、それとも・・・

2008.09.22

合宿からの帰還

合気道秋季合宿から帰還。
金曜日から二泊三日。場所はいつもの神鍋高原「ときわ野」。
1997年9月から通い詰めてはや22回目。
あまりに人数が増えたので、前回から貸切バスで往復する。
今回の瞬間最高人員は52名(プラス赤ちゃん1)。
宿のご主人ご夫妻ともすっかり顔なじみとなり、畳の買い替えについてご相談を受ける。ぜひ次は柔らかくて軽い畳に買い替えをお願いする。
合宿の宿泊施設の探索にはどの団体もご苦労をされていることであろう。
かくいうわれわれも1991年の夏から指折り数えて33回もの合宿をしているのだが、宿泊先については、神鍋に腰をすえるまで、さまざまな苦い経験を積み重ねてきたのである。
呪われた道場、カビくさい宿舎、湿った布団、総毛立つ飯、恐るべき同宿者などなど。
中でもいまだに語り継がれているのはS豆島の某旅館であるが、これはあまりに恐怖に満ちた体験であったせいで、参加者たちがその夏の記憶そのものを失ったというくらいにトラウマ的な二泊三日だった。
しかし、「まずい飯をともに分かち合った仲間」というのは、「美味い飯をともに分かち合った仲間」よりも連帯感の深いものである。
今回の合宿では汐ちゃんが三段に昇段して、「三段クラブ」入り。
Pちゃんより半年早い昇段となり、「家庭内婦唱夫随」体制を磐石のものとした。
善ちゃんとタカトリくんが初段となり、栄光のザ・ブラックベルツ&ザ・ハカマーズ入りを果たした。
善ちゃんは富山からほぼ毎週芦屋まで往復されたのである。まことにその精進は多とせねばならない(近場に住むタカトリくんはしばしば二日酔いで稽古を休んだというのに)。
私は今回お宿のゴールデンレトリバーの仔犬たちに癒され、澤さんのとこの赤ちゃんに癒され、たいへん穏やかな人間として三日間を過ごすことができた。
生まれたばかりの赤ちゃんというのはふにゃふにゃしていてつるつるしていて、まことに肌触りのよいものである。
澤さんがお稽古している間は私が師範権限をもって独占的にだっこしていたのであるが、赤ちゃんが私の懐でいつのまにか眠ってしまったときは、このまま弟子たちを捨てて、赤ちゃんとともに逐電しようかしらと一瞬思ったほどであった。
みなさん、お疲れさまでした。とりわけ、不在の事務局長ドクターの代行として、実務全般を担当してくれた井上清恵さんと相方の谷尾昌子さん、そしてあらゆる「汚れ仕事」(主に人を怒らせる仕事)を担当してくれたウッキーにお礼を申し上げる。いつも、ありがとう。


2008.09.23

私の好きな統治者

自民党総裁選で麻生太郎が選出されたという報を承けて、毎日新聞から「宰相論」というトピックでの取材が入る。
どういう政治家が指導者として望ましいのかについて考える。
「葛藤に引き裂かれている人」というのが私のとりあえずの希望である。
政治家といえども人間である。個人的信念があり、価値観があり、審美的好悪がある。これはその人の「私」の部分である。
それに対して、政治家には「民意を代表して、国益を最大化する」という義務がある。
「民意」のうちには政治家個人の信念や価値観や嗜好とあきらかに異質なものが含まれている。
自分自身の政治的信念と背馳するような政治的信念をもっている人間であれ、その人が法制上の「国民」である限り、政治家はそのような人の意向をも代表せねばならない。
この仕事は決して愉快なものではない。
だから、私は統治者というのは「苦虫を噛み潰したような顔」になり、言うことはもごもごと口ごもり、さっぱりクリアーカットにならない、というのが「ふつう」だと思っている。
これはメディアが統治者に要求している資質とまったく反対である。
メディアは「政治家ははっきりとわかりやすく言葉を語るべきだ」とさかんに主張する。
そうだろうか。
私に言わせれば、それは要するに私念と公務のあいだに「葛藤がない人間」であれということに等しい。
それでよろしいのか。
「葛藤のない」のは私的な信念・心情を公的な責務に優先させることに抵抗を感じていないか、自分の私的利害と公的利害とが一致している(だから自己利益の追求がそのまま国益の増大に結実する)と思い込んでいるか、どちらかである。
前者であれば悪人であり、後者であれば愚者である(その両方である場合もある)。
いずれも統治者としての適性を欠いていると私は思う。
麻生太郎は総裁選挙前はずいぶんと言いたい放題のことを言っていたが、選挙になるとさまざまなトピックについて明言を避け、失言を抑制し、何が言いたいのかわからない人間になりつつある。
私はこれを彼が「公的責務」の重さを思い知った徴候だと思って、頼もしく受け止めている。
だから、各新聞の社説が「もごもご言うな」といきり立つことに少しも同調する気になれないのである。
統治者は勘定に入れなければならないファクターが増えれば増えるほど、曖昧な顔つきになり、文意不明瞭になる。
私はそれでいいと思っている。
きっぱりとした政治的信念を持ち、一歩とて譲歩することなく、持論への反対は黙殺し、百万人と雖も我往かんというような統治者なんか私はごめんである。
世界中の政治指導者がみんな苦虫を噛み潰したような顔で、もごもご言っている限り、原理主義テロリズムも侵略戦争も、とりあえずはずるずると先送りできるであろう。
私は政治家たちに「社会をよくしてほしい」とは要求しない。
「これ以上悪くしないでほしい」と願うだけである。
それが果たせれば統治者として歴史に残るほどに十分な功績だと私は思う。

2008.09.24

知識についての知識について

毎日新聞の次は『新潮45』。
総合雑誌の廃刊休刊相次ぐ中で苦戦中の『新潮45』も12月号からリニューアルするそうである。
野木正英さんが編集部に参加する。
野木さんは旧友故・竹信悦夫と高橋源一郎さんと灘の同期である。
このトライアングルがどんな過激で愉快な中学高校時代を過ごしていたのかについては源ちゃんと私の対談(『ワインコイン悦楽堂』)に詳しい。
そういうご縁があるので、竹信への供養もかねて、リニューアル『新潮45』に一臂の力を仮すことにしたのである。
野木さん、編集長の宮本さん、三重さん、そしていつもの足立さんが御影においでになる。
インタビューのお題は「呪いのコミュニケーション」。
話頭は転々で何を話したのかよく覚えていないのだけれど、その中で「知識がある」ということが今ほど無意味になった時代はないということを話した。
20年ほど前の学会では、学会発表のあとの質疑応答で「重箱の隅をつつくような」質問をして、発表者が答えられないと、「『こんなこと』も知らない人間にこの論件について語る資格はない」というかたちで切り捨てるタイプの学者がときどきいた。
私は彼らのことをひそかに「学者の腐ったようなやつ」と呼んでいた。
「学会」とかいうと、「そういう突っ込みもありでしょ・・・」と訳知り顔をされる方がいるかも知れないが、そういうものではないです。
例えば、映画について発表したとしますね。そのときに、「スカーレット・ヨハンソンがジャッキー・チェンと冷し中華を食べているあの有名なシーンで、ジャッキーのお皿にナルトが何枚載っていたか、あなたは言えますか?何、覚えていない?『こんなこと』も知らない人間に(以下略)」というような言いがかりに取り合う気にあなたはなれますか?
私はなれない。
「重箱の隅」的知識にこだわる学者は「自分の知ってる知識はすべて万人もまたこれを知っているべきものであり、自分の知らない知識は万人にとって知る必要のないものである」ということを不当前提している。
彼らは、どうして自分は自分の知っていることの重要性をオーバーレイトし、自分の知らないことの重要性をアンダーレイトするのか、その非対称の理由についておそらく一度も省察したことがない。
トリヴィアルな知識は豊富であるが、自分の知識についての評価ができない人々を私は「学者の腐ったようなやつ」とカテゴライズし、まとめて火曜日の生ゴミの日に出していたのである。
ところが、ネットというものが登場することの思わぬ副作用として、「学者の腐ったようなやつ」がネット世界に異常増殖してしまった。
これについては町山智浩さんがたいへん切れ味の良い(というかはげしく怒気を含んだ)分析をされているので、ご紹介したい。(なお文中に登場する「唐沢」というのは、私はよく知らないが町山さんがたいへん腹を立てている人の名であるらしい)。

「オイラはものをあまりよく知らない。
昔はそれを恥ずかしく思っていたし、よくバカにされてきた。
でも、今はなんとも思わない。
なぜなら、ネットの時代、知識は誰でも簡単に拾えるようになったので、知識そのものに価値がなくなったからだ。
いや、それは言い方が違うな。
本当に物知りなのか、ネットで拾っただけの知識なのか見分けることが困難になったからだ。ちょこちょこっと検索して、それを散りばめれば物知りに見える文章は作れる。
偉そうに何か書いていても、ついさっき検索して拾っただけかもしれない。
そんなことで得意になるのって、本当にくだらねえと思うよ。
押井守の『イノセンス』では、近未来、すべての人間が脳からネットに直接アクセスできるようになっており、日常会話にも古今東西の文献からの引用が散りばめられる。
人類の情報データがすべて、すべての人間の外部記憶として共有されているわけだ。
その状況では、物知りという価値そのものが消滅してしまう。
ネットからのコピペばかりで文章を作り続ける唐沢は、まさにそんな「知識量の無価値化」を象徴する存在だと考えられる。
たとえば、実際に小説を読んでなくても、映画を見てなくても、ストーリーのダイジェストはネット上のあちこちに転がっているから、それを読んで読んだフリができる。自分もいつの間にか読んだ気になる。
そういった時代に「知っている」それ自体は何の価値も持たなくなる。
問題はその知識をどう使っているか、だろう。
広く浅い断片的な情報をパラパラと並べるだけなら誰でもできる。
それらの情報を体系づけて自分の論を構築したり、独自の創造物へと発展しないとね。
「体験によって習得した技術」もネットや知識では得られないものだね。
たとえ「マトリックス」のように体験記憶を脳にダウンロードするテクノロジーができたとしても、体はついていかない。
経験を繰り返すことによって体が覚えた技術の価値はとりあえず落ちないだろう。
工業化社会というものは、徒弟制度と熟練によって継承できた職人技というものを、マニュアル化、機械化することで、非熟練工を使って大量生産することができるようにした社会だけど、それでも、その最初期の段階で、型を作るにはやっぱり職人技がどうしても必要だから。
テクノロジーによって消滅した人間の価値は過去にもいろいろあるよ。
たとえば「力持ち」であることは、大昔は生産について重要だったけど、機械化によって社会的にはほとんど無価値になったでしょ。
このネット時代でも価値を持ち続けるものには、「才能」「センス」「根気」「創造力」「勇気」「共感する力」などいろいろ考えられるけど、とにかく、だ、「(体験によらない)知識自慢」の価値はすでに地に落ちたよ。
ざまあカンカン!
雑学とは「役に立たない知識」だそうだが、役に立たない知識ばかりいっぱい持ってるだけってことは、やっぱり何の役にも立たない人間だってことじゃん!」
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/
町山さんが指摘しているように、「知識がある」ということ、それ自体の価値がこれほど下落した時代はかつてない。
それは「知識を得る」ことに「手間暇」がかからなくなったからである。
「ちょこちょこっと検索して、それを散りばめれば物知りに見える」のである。
かつての教養主義の時代に知識が尊ばれたのは、「知識を得るための知識」という「メタ知識」がそこに付随しており、この知識を会得することがなかなかにむずかしかったからである。
メタ知識というのは、どこに行って、どういボタンを押すと、どういう資料が出てきて「探している知識」を探し当てることができるかについての知識である。
例えば私が大学院生のころ、ゼミで読んでいた18世紀の文献には聖書からの大量に引用が含まれていた。
教師はそのすべてについてすらすらと出典を告げた。
大学院の先生というのは聖書全文を掌を指すように諳んじているのか、あな恐ろしやと私は感服したのであるが、その後に、院の先輩からこの世には「コンコルダンス」というものがあって、キーワードで検索すれば、聖書からの引用典拠は簡単に探せるんだよということを教えてもらった。
「知識のありかについての知識」というものがあるということを私はそのときに学んだ。
そして、学者は「知識についての知識」へのアクセスの仕方を知っているという点において、「街の物知りおじさん」と差別化されているということも学んだ。
しかるに現今ではどのような意味不明の片言隻句であろうとも、ネットでちゃかちゃかとキーボードを叩けば、その出典と意味をたちまちのうちに知ることができる。
しかし、それによって「知識のありかについての知識」が不要になったのかと言えば、それはどうも違うような気がする。
「知識のありかについての知識」というのは同時に「知識の価値評価にかかわる知識」でもあるからだ。
どのような知識は知るに値し、どのような知識はそうではないかを弁別するのが「知識についての知識」である。
例えば聖句のすべてを掌を指すように暗誦できることは知識としては副次的な重要性しかないということは「コンコルダンス」というレフェランスが存在することで知れる。外国語の単語をたくさん知っていることには副次的な重要性がないということは「辞書」というものが存在することから知れる。
つまり、それを迂回すると「聖書を全部覚える」手間や「外国語を母国語同様に運用する」だけの労力を省くことができるような「装置」が存在する知識は副次的な重要性しかない、ということである。
ロジカルにはそういうことになる。
しかるに、インターネット上には「それを迂回すると・・・・する労力を省くことができる」知識が潤沢に存在するが、それはまさにキーボードをちゃかちゃか叩けば誰でも知ることができるという意味で、定義上「副次的な重要性しかない知識」なのである。
というような知識はインターネット上でキーワード検索することができない。
何を言うか、今私はキーボードをちゃかちゃか叩いてお前の「知識論」を現に読んでいるではないかと反論されるかたもおられるやもしれぬ。
しかし、そういう方は私がここに書いている命題の信頼性について判断を下さない限り、このテクストを「読んだ」ことにならない。
私はほんとうのことを言っているのか、嘘をついているのか、話半分なのかを判断できなければ、「読んだ」ことにならない。
ウチダの書くことに含まれる真理含有量について適切な判断を下すためには、私のブログを過去5年に遡ってスクロールし、かつ私の著書5冊ほどは通読することを要する。
たいへんな手間ひまである。
私は書きものを通じておもに「知識についての知識」について語っているが、これをレフェランスとして用いるためには、それが「コンコルダンス」や「辞書」程度の信頼性があることを確認しなければならない。
梯子を使って二階に上がろうと思うなら、その梯子が腐っていないか、釘が抜けていないか点検しなければならないのと同じである。
私は「知識についての知識」について語っている。
その信頼性は私の書きものを大量に読むことによってしか確証されない。
もちろん「こんなやつの言うことは信頼できない」という判断を下すのは一秒で済む。
しかし、「この人の言うことなら信用ができる」という判断がくだせる人に出会うまでやはり大量の書き物を読み続けるしかない。
「自分が知っていること」は知の文脈の中でどのようなポジションを占めているのか。
「知識についての知識」を得るためのショートカットは存在しない。
そういうたいせつなことはグーグルで検索しても誰も教えてくれない。

2008.09.25

献堂式

大学エミリー・ブラウン記念館の献堂式が行われる。
うちはキリスト教の大学なので、「竣工式」とは言わずに「献堂式」という。
神にこの建物を捧げ、どうぞ御旨にかなうように用いてくださいと祈るのである。
地上のものはこれを私的に所有せず、いったん神に献じ、そのあとふたたび神から受託されたものとして受け容れる。
私はキリスト者ではないが、こういう構えはよいものだと思う。
讃美歌を歌い、聖書を拝読し、その名をとった第三代校長エミリー・ブラウン女史の事績についてKCCのドフィン会長の短い紹介のあと、斉藤言子先生の祝歌独唱を聴き、チャプレンの祝祷を受ける。
さらさら。
チャプレンとKCC会長と同窓会長のスピーチの中には「生きている人間」の固有名がひとつも出てこなかった。
私はこの見識を多とする。
「存在するとは別の仕方」で私たちにかかわり来るもの、どのような「外形的・数値的なものによっても考量されざるもの」について語ることこそがミッション・スクールの献堂式にはつきづきしいと私も思う。
エミリー・ブラウン館の建築にあたってはずいぶんといろいろなことがあった。その詳細についてはもちろんこんなところでは申し上げられない。
ある会議の席で私がふつうそういう場では採用されないタイプの口調で私見を具申した様子を見て、島﨑徹先生が「この人はまず全員を敵に回すところからネゴを始める人なんだ・・・(友だちになれそう)」と思ってくださったのが個人的には最大の収穫であった。
関係者の努力の甲斐あって、たいへん美しく機能的な建物が完成して、見学者はどなたもたいへん満足そうであった。
舞踊専攻のスタジオで舞踊公演を拝見する。
冒頭に島﨑先生が「かたちのないもの」invisible assets こそが大学教育の本質を形成していること、「ダンス」はまさにその意味でリベラルアーツの主要なピラーであるという感動的なスピーチを行う。
ダンスは誰によっても所有されることができません。
誰によってもその価値を数値的に考量することができません。
私たちはそれに感動することができるだけなのです。
そして、感動こそ教育の場において学生たちが経験すべきものなのです。
島﨑先生は同じ趣旨のスピーチを来賓のために英語で繰り返した(こっちの方が「振り」がかっこよかった)。

そんなの常識

西宮大学交流センターのインターカレッジ西宮というイベントに出かける。市内にあるいくつかの大学から講師を派遣して、共同テーマで講義をするのである。
今回のお題は「常識のウソ、ホント-私たちの常識を再考する」というものである。
私は人も知る「常識原理主義者」であるので(そんなものはないが)、本日は「常識の手柄」というタイトルでお話をする。
「常識」についてはこれまで何度も書いているが、「そんなの常識だろ」というのは私たちがものごとを判断する上で、たいへんたいせつな知性の働きである。
まず、第一に「常識」というのは即自的に「常識」であるわけではないからである。
私が「そんなの常識だろ」と憤然と言った場合でも、言われた当人は「お前の言うことのどこが常識なんだよ。何年何月からそれが常識になったんだ。どこからどこまでの地域で常識なんだよ」とただちに反論する権利が保証されており、私はその異議に対しては絶句する他ないからである。
そう。常識というのは「常識じゃない」のである。
「常識じゃない」からこその常識なのである。
ややこしい話ですまない。
常識にはその正しさを支える客観的基盤が存在しない。
「エヴィデンス・ベーストの常識」というものは存在しない。
常識というのは外形的・数値的なエヴィデンスでは基礎づけられないけれど、個人の内心深いところで確信せらるるところの知見のことなのである。
「いや、お前の言うこと、おかしいよ。うまくいえないけど、それって常識的に考えて、おかしいよ」
というのが常識の表白のされ方である。
常識の表明はつねにこのように「うまくいえないけれど」「論拠を示せないけれど」「どうして自分がそのように考えるに至ったのかの理路を明らかにできないけれど」という無数の「けれど」に媒介されて行われる。
この「不安定さ」が常識の手柄なのである。
常識は「真理」を名乗ることができない。常識は「原理」にならない。常識は「汎通的妥当性」を要求できない。
この無数の「できない」が常識の頼もしさを担保している。
人は決して常識の名において戦争を始めたり、テロを命じたり、法悦境に入ったり、詩的熱狂を享受したりするころとができない。
自分の確信に確信が持てないからである。
「なんか、そうじゃないかなって気はするんだけど、別に確たる根拠があるわけじゃなくて、でも、なんか、そうじゃないかなって・・・」というようなぐちゃぐちゃと気弱な立場にある人間は、他人に向かって「黙れ」とどなりつけたり、「戦え」と命じたり、「死ね」と呪ったりすることはできない。
そんなの「非常識」だからである。
私は人間社会は「真理」ではなく、「常識」の上に構築されるべきであると考えている。
というのは、「常識」的判断は本来的に「自分がどうしてそう判断できるのかわからないことについての判断」だからである。
人間の知性のもっとも根源的で重要な働きは「自分がその解き方を知らない問題を、実際に解くより先に『これは解ける』とわかる」というかたちで現れる。
これまで何度も書いていることだけれど、「どうふるまってよいのかわからない場面で適切にふるまうことができる」というのが人間知性に求められていることである。
どうふるまってよいのかについての網羅的なカタログが用意されていて、それと照合しさえすれば、すぐに「とるべき態度」が決定されるような仕方で私たちの実生活は成り立っていない。
私たちの人生にとってほんとうに重要な分岐点では、結婚相手の選択であれ、株券の売買であれ、ハイジャックされた飛行機の中でのふるまい方であれ、「どうしてよいかの一般解がない」状態で最適解をみつけることが私たちに要求される。
理論的に考えると、「どうふるまってよいのかの一般解が存在しない状況で最適解をみつける」ということは不可能である。
けれども、「論理的にそんなことは不可能である」と言って済ませていたら、生きる上で死活的に重要な決定はひとつとして下せないことになる。
そして、実際に私たちはそういうときに正否の準拠枠組み抜きで決断を下しているのである。
何を根拠に?
「なんとなく、こっちの方がいいような気がした」からである。
レヴィ=ストロースはマトグロッソのインディオたちのフィールドワークを通じて、「ブリコルール」という概念を獲得した。
彼らは少人数のバンドでわずかばかりの家財を背負って、ジャングルの中を移動生活していた。
人ひとりが背負える家財の量には限度がある。
だから、道具はできるだけ多機能であることが望ましい。
狩猟具として使え、工具として使え、食器として使え、遊具として使え、呪具としても使える・・・というような多目的なものであるほど使い勝手がよい。
しかし、「何にでも使えるもの」は逆に一見しただけではどんな使い道があるのかわからない。
だから、ブリコルールは密林を歩いていて、何かを見つけると、それをじっと眺める。
そして、「なんだかよくわからないけれど、そのうち何かの役に立つかもしれない」と思ったら、背中の合切袋に放り込む。「こんなものでも、いずれ何かの役に立つかも知れない」(Ça peut toujours servir)というのがブリコルールが対象を取捨選択するときの基準である。
ブリコルールはすべてのものを袋に入れることはできない。なにしろ、袋はひとつしかないのだから。
彼は目の前のものをじっと凝視する。
そこには「何の役に立つかわからないもの」がある。
それが「今後ともまったく役に立たないもの」であるのか「もしかするといつか何かの役に立つのかもしれないもの」であるかを既存の基準を以て識別することはできない(何の役に立つのかまだわかっていないのだから)。
にもかかわらず、ブリコルールは決断を下して、あるものを棄て、あるものを袋に入れる。
このとき、彼はいったい何を基準にして「いずれその使用価値が知られるはずのもの」と「いつまでもその使用価値が知られないであろうもの」を識別しているのか。
それをブリコルール自身は言うことができない。
どうして自分にはそれをできるかを言うことが出来ないけれど「できる」ということがある。
それが人間知性のいちばん根源にある力であると私は思っている。
ロジカルに言えば、「明証をもって基礎づけられない判断は正しい判断ではない」という命題は正しい。
けれども、経験的には「明証をもっては基礎づけられなかったけれど、結果的には正しかった判断を継続的に下すことのできる人」が私たちのまわりには現に存在する。
私はこの「明証を以ては基礎づけられないけれど、なんとなく確信せらるる知見」を「常識」と呼ぶことにしている。
そして、常識の涵養こそが教育の急務であると思っている。
もちろん、私の意見に対して「何を言っておるのかキミは。常識の涵養が教育上の急務だなどという判断にどういう論拠があるのかただちに具申せよ」という反論があることは承知している。
だから、「いや、なんか、よくわかんないけど、そんな気がするんですよね、僕としては」とふにゃふにゃ応接するのである。

2008.09.29

戦後表現者論

ラジオデイズの周年記念イベントで、東京の浜離宮朝日ホールへ。
三部構成で、第一部が戦後落語家論(三遊亭円丈師匠)、第二部が戦後詩人論(高橋源一郎、小池昌代、司会は平川くん)、第三部が養老先生と私の戦後マンガ家論(司会は菊池さん)。
第一部が始まってしばらくして到着。第二部に出るおふたりに楽屋でご挨拶をする。
小池さんにお会いするのは久しぶり(ラジオデイズのオープニングパーティ以来かしら)。あいかわらずお美しい。
平川くんも高橋さんも僕も小池さんの前に出るとたちまち「精一杯悪戯をして、勉強のできる学級委員の女の子の関心を惹こうとしている勉強のできない小学生」のようなものになってしまう。
不思議な力である。
高橋、小池、平川の現代詩論はふたりの「小学生」の「かっこいい詩」をひたすら列挙するという水平方向的読みに、小池さんが「思い」が「詩」に熟成するまで時間を積み重ねるという垂直的な営為を対比させるという、きわめて興味深い展開になった。
このままでは高橋・平川組が「アトムシール収集」の子どもと変わらないのでは・・・と一抹の不安がよぎったところで、高橋さんが「現代詩の未来はラップだ」というラップ・パフォーマンスで身体による詩の奪還という捨て身の大技を繰り出し、それに対して、小池さんが萩原朔太郎の「ラップ返し」で応じて、一歩も譲らないという予想もせぬ展開になり、たいへんな盛り上がりのうちに終了したのであった。
楽屋での養老先生のご聖断は「詩も最終的には身体が出てこなくちゃダメなんだよ」ということでした。
第三部はマンガ家論。
養老先生は「京都国際マンガミュージアム」の館長であり、人も知るマンガ・リーダーである。
私は決してマンガのへヴィー・リーダーとは言えないが、ほかの分野の場合と同じく、「好き嫌いなく、広く浅くなんでも読む」。
むろん、「少女マンガを読むリテラシー」だって備えている。
これは少女に憑依して、そのとまどいやはじらいを内側から追体験するというなかなか愉快なものなのであるが、少年期に大量に「少女文学」を読んでいないと、なかなか青年期以降に身に付けることの困難な術である。
私は神戸女学院大学に赴任したその日に、D館の窓口にいたK村さん(その日はじめて会った)から「ウチダ先生、『ガラかめ』の最新刊持ってます?」といきなり訊かれて「はい、全巻揃えております」とお答えして、翌日その全巻をお貸しすることになったくらい、「少女マンガ好き」が顔に出ているのである。
なお、この世界に疎い人のために注記するが『ガラかめ』とは美内すずえ先生畢生の名作、『ガラスの仮面』(「亜弓さん、あなたには負けないわ」)のことである。
養老先生は少女マンガをカバーされない。
しかるに愚考するところ、日本のマンガの特性は表意文字(図像)と表音文字(音声)を並列処理する日本人の言語脳の構造と不可分であり、これが「真名」(漢詩漢文)と「仮名」(やまとことば)のふたつの性化されたエクリチュールを生み出し、それが今日では「少年マンガ」と「少女マンガ」というかたちに分化しているという壮大な文明史的展望のうちに位置づけられねばならぬのである。
この話をしはじめると、途中で「女性に特化された言語の創出」ということを言い出したリュス・イリガライとショシャナ・フェルマンのフェミニズム言語論批判から説き起こして、日本のフェミニズム文学論が日本語の特殊性を一顧だにしないその事大主義を痛罵して、たちまち数時間を費やしてしまうので、今回はこのポレミックなトピックには触れずにおくのである。
この問題について興味のあるかたは『女は何を欲望するか』(角川新書)と新刊の『街場の教育論』(ミシマ社)の国語教育編を参照されたい。
世の中には二種類の男がいる。
「少女マンガを読める男」と「読めない男」である。
この両者を隔てるものについては、いずれ説く機会もあるだろう。
養老先生とのマンガ論は脳と言語の話、手塚治虫の戦後マンガにおける造物主的地位、赤塚不二夫のマンガ史的意義、少女マンガにおける「ナラティヴ」のレベルと転々とし、あっというまに予定の75分が終わってしまう。
楽屋に各社の編集者がずらりと並んでいる。
むろん「督促」のためである。
「そのうちそのうちと、うだうだ言い逃れしくさってからに。今日という今日はのがさへんで。さ、耳を揃えて借金はろてもらおか」と詰め寄る10人ほどの編集者たちの虎の尾毒蛇の口を逃れて打ち上げ会場へ。
養老先生、高橋さん、平川くん、山本浩二森永一衣ご夫妻、江さん、かんちきくん(台湾帰り)、新潮社の足立真穂さん、そしてラジオデイズのスタッフたちとイタリアンを食べつつ歓談。
高橋さんと「われわれの攻撃性」とは何かについて語る。
高橋さん、山本くん、平川くん、私の四人が「世の中には『これだけは許せん!』ちゅうことがあるよね」というトピックで話をしているわけであるから、たいへん。
その場にいる山本くんと江さんには「この人たちにはどこかで会ったことがある」というつよい既視感を覚えたのであるが、それもそのはずで彼らとは前夜12時に甲南麻雀連盟例会を終えて、「じゃね」と手を振って別れたばかりなのであった。

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