私の好きな統治者

2008-09-23 mardi

自民党総裁選で麻生太郎が選出されたという報を承けて、毎日新聞から「宰相論」というトピックでの取材が入る。
どういう政治家が指導者として望ましいのかについて考える。
「葛藤に引き裂かれている人」というのが私のとりあえずの希望である。
政治家といえども人間である。個人的信念があり、価値観があり、審美的好悪がある。これはその人の「私」の部分である。
それに対して、政治家には「民意を代表して、国益を最大化する」という義務がある。
「民意」のうちには政治家個人の信念や価値観や嗜好とあきらかに異質なものが含まれている。
自分自身の政治的信念と背馳するような政治的信念をもっている人間であれ、その人が法制上の「国民」である限り、政治家はそのような人の意向をも代表せねばならない。
この仕事は決して愉快なものではない。
だから、私は統治者というのは「苦虫を噛み潰したような顔」になり、言うことはもごもごと口ごもり、さっぱりクリアーカットにならない、というのが「ふつう」だと思っている。
これはメディアが統治者に要求している資質とまったく反対である。
メディアは「政治家ははっきりとわかりやすく言葉を語るべきだ」とさかんに主張する。
そうだろうか。
私に言わせれば、それは要するに私念と公務のあいだに「葛藤がない人間」であれということに等しい。
それでよろしいのか。
「葛藤のない」のは私的な信念・心情を公的な責務に優先させることに抵抗を感じていないか、自分の私的利害と公的利害とが一致している(だから自己利益の追求がそのまま国益の増大に結実する)と思い込んでいるか、どちらかである。
前者であれば悪人であり、後者であれば愚者である(その両方である場合もある)。
いずれも統治者としての適性を欠いていると私は思う。
麻生太郎は総裁選挙前はずいぶんと言いたい放題のことを言っていたが、選挙になるとさまざまなトピックについて明言を避け、失言を抑制し、何が言いたいのかわからない人間になりつつある。
私はこれを彼が「公的責務」の重さを思い知った徴候だと思って、頼もしく受け止めている。
だから、各新聞の社説が「もごもご言うな」といきり立つことに少しも同調する気になれないのである。
統治者は勘定に入れなければならないファクターが増えれば増えるほど、曖昧な顔つきになり、文意不明瞭になる。
私はそれでいいと思っている。
きっぱりとした政治的信念を持ち、一歩とて譲歩することなく、持論への反対は黙殺し、百万人と雖も我往かんというような統治者なんか私はごめんである。
世界中の政治指導者がみんな苦虫を噛み潰したような顔で、もごもご言っている限り、原理主義テロリズムも侵略戦争も、とりあえずはずるずると先送りできるであろう。
私は政治家たちに「社会をよくしてほしい」とは要求しない。
「これ以上悪くしないでほしい」と願うだけである。
それが果たせれば統治者として歴史に残るほどに十分な功績だと私は思う。
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