毎日新聞の次は『新潮45』。
総合雑誌の廃刊休刊相次ぐ中で苦戦中の『新潮45』も12月号からリニューアルするそうである。
野木正英さんが編集部に参加する。
野木さんは旧友故・竹信悦夫と高橋源一郎さんと灘の同期である。
このトライアングルがどんな過激で愉快な中学高校時代を過ごしていたのかについては源ちゃんと私の対談(『ワインコイン悦楽堂』)に詳しい。
そういうご縁があるので、竹信への供養もかねて、リニューアル『新潮45』に一臂の力を仮すことにしたのである。
野木さん、編集長の宮本さん、三重さん、そしていつもの足立さんが御影においでになる。
インタビューのお題は「呪いのコミュニケーション」。
話頭は転々で何を話したのかよく覚えていないのだけれど、その中で「知識がある」ということが今ほど無意味になった時代はないということを話した。
20年ほど前の学会では、学会発表のあとの質疑応答で「重箱の隅をつつくような」質問をして、発表者が答えられないと、「『こんなこと』も知らない人間にこの論件について語る資格はない」というかたちで切り捨てるタイプの学者がときどきいた。
私は彼らのことをひそかに「学者の腐ったようなやつ」と呼んでいた。
「学会」とかいうと、「そういう突っ込みもありでしょ・・・」と訳知り顔をされる方がいるかも知れないが、そういうものではないです。
例えば、映画について発表したとしますね。そのときに、「スカーレット・ヨハンソンがジャッキー・チェンと冷し中華を食べているあの有名なシーンで、ジャッキーのお皿にナルトが何枚載っていたか、あなたは言えますか? 何、覚えていない?『こんなこと』も知らない人間に(以下略)」というような言いがかりに取り合う気にあなたはなれますか?
私はなれない。
「重箱の隅」的知識にこだわる学者は「自分の知ってる知識はすべて万人もまたこれを知っているべきものであり、自分の知らない知識は万人にとって知る必要のないものである」ということを不当前提している。
彼らは、どうして自分は自分の知っていることの重要性をオーバーレイトし、自分の知らないことの重要性をアンダーレイトするのか、その非対称の理由についておそらく一度も省察したことがない。
トリヴィアルな知識は豊富であるが、自分の知識についての評価ができない人々を私は「学者の腐ったようなやつ」とカテゴライズし、まとめて火曜日の生ゴミの日に出していたのである。
ところが、ネットというものが登場することの思わぬ副作用として、「学者の腐ったようなやつ」がネット世界に異常増殖してしまった。
これについては町山智浩さんがたいへん切れ味の良い(というかはげしく怒気を含んだ)分析をされているので、ご紹介したい。(なお文中に登場する「唐沢」というのは、私はよく知らないが町山さんがたいへん腹を立てている人の名であるらしい)。
「オイラはものをあまりよく知らない。
昔はそれを恥ずかしく思っていたし、よくバカにされてきた。
でも、今はなんとも思わない。
なぜなら、ネットの時代、知識は誰でも簡単に拾えるようになったので、知識そのものに価値がなくなったからだ。
いや、それは言い方が違うな。
本当に物知りなのか、ネットで拾っただけの知識なのか見分けることが困難になったからだ。ちょこちょこっと検索して、それを散りばめれば物知りに見える文章は作れる。
偉そうに何か書いていても、ついさっき検索して拾っただけかもしれない。
そんなことで得意になるのって、本当にくだらねえと思うよ。
押井守の『イノセンス』では、近未来、すべての人間が脳からネットに直接アクセスできるようになっており、日常会話にも古今東西の文献からの引用が散りばめられる。
人類の情報データがすべて、すべての人間の外部記憶として共有されているわけだ。
その状況では、物知りという価値そのものが消滅してしまう。
ネットからのコピペばかりで文章を作り続ける唐沢は、まさにそんな「知識量の無価値化」を象徴する存在だと考えられる。
たとえば、実際に小説を読んでなくても、映画を見てなくても、ストーリーのダイジェストはネット上のあちこちに転がっているから、それを読んで読んだフリができる。自分もいつの間にか読んだ気になる。
そういった時代に「知っている」それ自体は何の価値も持たなくなる。
問題はその知識をどう使っているか、だろう。
広く浅い断片的な情報をパラパラと並べるだけなら誰でもできる。
それらの情報を体系づけて自分の論を構築したり、独自の創造物へと発展しないとね。
「体験によって習得した技術」もネットや知識では得られないものだね。
たとえ「マトリックス」のように体験記憶を脳にダウンロードするテクノロジーができたとしても、体はついていかない。
経験を繰り返すことによって体が覚えた技術の価値はとりあえず落ちないだろう。
工業化社会というものは、徒弟制度と熟練によって継承できた職人技というものを、マニュアル化、機械化することで、非熟練工を使って大量生産することができるようにした社会だけど、それでも、その最初期の段階で、型を作るにはやっぱり職人技がどうしても必要だから。
テクノロジーによって消滅した人間の価値は過去にもいろいろあるよ。
たとえば「力持ち」であることは、大昔は生産について重要だったけど、機械化によって社会的にはほとんど無価値になったでしょ。
このネット時代でも価値を持ち続けるものには、「才能」「センス」「根気」「創造力」「勇気」「共感する力」などいろいろ考えられるけど、とにかく、だ、「(体験によらない)知識自慢」の価値はすでに地に落ちたよ。
ざまあカンカン!
雑学とは「役に立たない知識」だそうだが、役に立たない知識ばかりいっぱい持ってるだけってことは、やっぱり何の役にも立たない人間だってことじゃん!」http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/
町山さんが指摘しているように、「知識がある」ということ、それ自体の価値がこれほど下落した時代はかつてない。
それは「知識を得る」ことに「手間暇」がかからなくなったからである。
「ちょこちょこっと検索して、それを散りばめれば物知りに見える」のである。
かつての教養主義の時代に知識が尊ばれたのは、「知識を得るための知識」という「メタ知識」がそこに付随しており、この知識を会得することがなかなかにむずかしかったからである。
メタ知識というのは、どこに行って、どういボタンを押すと、どういう資料が出てきて「探している知識」を探し当てることができるかについての知識である。
例えば私が大学院生のころ、ゼミで読んでいた18世紀の文献には聖書からの大量に引用が含まれていた。
教師はそのすべてについてすらすらと出典を告げた。
大学院の先生というのは聖書全文を掌を指すように諳んじているのか、あな恐ろしやと私は感服したのであるが、その後に、院の先輩からこの世には「コンコルダンス」というものがあって、キーワードで検索すれば、聖書からの引用典拠は簡単に探せるんだよということを教えてもらった。
「知識のありかについての知識」というものがあるということを私はそのときに学んだ。
そして、学者は「知識についての知識」へのアクセスの仕方を知っているという点において、「街の物知りおじさん」と差別化されているということも学んだ。
しかるに現今ではどのような意味不明の片言隻句であろうとも、ネットでちゃかちゃかとキーボードを叩けば、その出典と意味をたちまちのうちに知ることができる。
しかし、それによって「知識のありかについての知識」が不要になったのかと言えば、それはどうも違うような気がする。
「知識のありかについての知識」というのは同時に「知識の価値評価にかかわる知識」でもあるからだ。
どのような知識は知るに値し、どのような知識はそうではないかを弁別するのが「知識についての知識」である。
例えば聖句のすべてを掌を指すように暗誦できることは知識としては副次的な重要性しかないということは「コンコルダンス」というレフェランスが存在することで知れる。外国語の単語をたくさん知っていることには副次的な重要性がないということは「辞書」というものが存在することから知れる。
つまり、それを迂回すると「聖書を全部覚える」手間や「外国語を母国語同様に運用する」だけの労力を省くことができるような「装置」が存在する知識は副次的な重要性しかない、ということである。
ロジカルにはそういうことになる。
しかるに、インターネット上には「それを迂回すると・・・・する労力を省くことができる」知識が潤沢に存在するが、それはまさにキーボードをちゃかちゃか叩けば誰でも知ることができるという意味で、定義上「副次的な重要性しかない知識」なのである。
というような知識はインターネット上でキーワード検索することができない。
何を言うか、今私はキーボードをちゃかちゃか叩いてお前の「知識論」を現に読んでいるではないかと反論されるかたもおられるやもしれぬ。
しかし、そういう方は私がここに書いている命題の信頼性について判断を下さない限り、このテクストを「読んだ」ことにならない。
私はほんとうのことを言っているのか、嘘をついているのか、話半分なのかを判断できなければ、「読んだ」ことにならない。
ウチダの書くことに含まれる真理含有量について適切な判断を下すためには、私のブログを過去5年に遡ってスクロールし、かつ私の著書5冊ほどは通読することを要する。
たいへんな手間ひまである。
私は書きものを通じておもに「知識についての知識」について語っているが、これをレフェランスとして用いるためには、それが「コンコルダンス」や「辞書」程度の信頼性があることを確認しなければならない。
梯子を使って二階に上がろうと思うなら、その梯子が腐っていないか、釘が抜けていないか点検しなければならないのと同じである。
私は「知識についての知識」について語っている。
その信頼性は私の書きものを大量に読むことによってしか確証されない。
もちろん「こんなやつの言うことは信頼できない」という判断を下すのは一秒で済む。
しかし、「この人の言うことなら信用ができる」という判断がくだせる人に出会うまでやはり大量の書き物を読み続けるしかない。
「自分が知っていること」は知の文脈の中でどのようなポジションを占めているのか。
「知識についての知識」を得るためのショートカットは存在しない。
そういうたいせつなことはグーグルで検索しても誰も教えてくれない。
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(2008-09-24 17:30)