そんなの常識

2008-09-25 jeudi

西宮大学交流センターのインターカレッジ西宮というイベントに出かける。市内にあるいくつかの大学から講師を派遣して、共同テーマで講義をするのである。
今回のお題は「常識のウソ、ホント-私たちの常識を再考する」というものである。
私は人も知る「常識原理主義者」であるので(そんなものはないが)、本日は「常識の手柄」というタイトルでお話をする。
「常識」についてはこれまで何度も書いているが、「そんなの常識だろ」というのは私たちがものごとを判断する上で、たいへんたいせつな知性の働きである。
まず、第一に「常識」というのは即自的に「常識」であるわけではないからである。
私が「そんなの常識だろ」と憤然と言った場合でも、言われた当人は「お前の言うことのどこが常識なんだよ。何年何月からそれが常識になったんだ。どこからどこまでの地域で常識なんだよ」とただちに反論する権利が保証されており、私はその異議に対しては絶句する他ないからである。
そう。常識というのは「常識じゃない」のである。
「常識じゃない」からこその常識なのである。
ややこしい話ですまない。
常識にはその正しさを支える客観的基盤が存在しない。
「エヴィデンス・ベーストの常識」というものは存在しない。
常識というのは外形的・数値的なエヴィデンスでは基礎づけられないけれど、個人の内心深いところで確信せらるるところの知見のことなのである。
「いや、お前の言うこと、おかしいよ。うまくいえないけど、それって常識的に考えて、おかしいよ」
というのが常識の表白のされ方である。
常識の表明はつねにこのように「うまくいえないけれど」「論拠を示せないけれど」「どうして自分がそのように考えるに至ったのかの理路を明らかにできないけれど」という無数の「けれど」に媒介されて行われる。
この「不安定さ」が常識の手柄なのである。
常識は「真理」を名乗ることができない。常識は「原理」にならない。常識は「汎通的妥当性」を要求できない。
この無数の「できない」が常識の頼もしさを担保している。
人は決して常識の名において戦争を始めたり、テロを命じたり、法悦境に入ったり、詩的熱狂を享受したりするころとができない。
自分の確信に確信が持てないからである。
「なんか、そうじゃないかなって気はするんだけど、別に確たる根拠があるわけじゃなくて、でも、なんか、そうじゃないかなって・・・」というようなぐちゃぐちゃと気弱な立場にある人間は、他人に向かって「黙れ」とどなりつけたり、「戦え」と命じたり、「死ね」と呪ったりすることはできない。
そんなの「非常識」だからである。
私は人間社会は「真理」ではなく、「常識」の上に構築されるべきであると考えている。
というのは、「常識」的判断は本来的に「自分がどうしてそう判断できるのかわからないことについての判断」だからである。
人間の知性のもっとも根源的で重要な働きは「自分がその解き方を知らない問題を、実際に解くより先に『これは解ける』とわかる」というかたちで現れる。
これまで何度も書いていることだけれど、「どうふるまってよいのかわからない場面で適切にふるまうことができる」というのが人間知性に求められていることである。
どうふるまってよいのかについての網羅的なカタログが用意されていて、それと照合しさえすれば、すぐに「とるべき態度」が決定されるような仕方で私たちの実生活は成り立っていない。
私たちの人生にとってほんとうに重要な分岐点では、結婚相手の選択であれ、株券の売買であれ、ハイジャックされた飛行機の中でのふるまい方であれ、「どうしてよいかの一般解がない」状態で最適解をみつけることが私たちに要求される。
理論的に考えると、「どうふるまってよいのかの一般解が存在しない状況で最適解をみつける」ということは不可能である。
けれども、「論理的にそんなことは不可能である」と言って済ませていたら、生きる上で死活的に重要な決定はひとつとして下せないことになる。
そして、実際に私たちはそういうときに正否の準拠枠組み抜きで決断を下しているのである。
何を根拠に?
「なんとなく、こっちの方がいいような気がした」からである。
レヴィ=ストロースはマトグロッソのインディオたちのフィールドワークを通じて、「ブリコルール」という概念を獲得した。
彼らは少人数のバンドでわずかばかりの家財を背負って、ジャングルの中を移動生活していた。
人ひとりが背負える家財の量には限度がある。
だから、道具はできるだけ多機能であることが望ましい。
狩猟具として使え、工具として使え、食器として使え、遊具として使え、呪具としても使える・・・というような多目的なものであるほど使い勝手がよい。
しかし、「何にでも使えるもの」は逆に一見しただけではどんな使い道があるのかわからない。
だから、ブリコルールは密林を歩いていて、何かを見つけると、それをじっと眺める。
そして、「なんだかよくわからないけれど、そのうち何かの役に立つかもしれない」と思ったら、背中の合切袋に放り込む。「こんなものでも、いずれ何かの役に立つかも知れない」(Ça peut toujours servir) というのがブリコルールが対象を取捨選択するときの基準である。
ブリコルールはすべてのものを袋に入れることはできない。なにしろ、袋はひとつしかないのだから。
彼は目の前のものをじっと凝視する。
そこには「何の役に立つかわからないもの」がある。
それが「今後ともまったく役に立たないもの」であるのか「もしかするといつか何かの役に立つのかもしれないもの」であるかを既存の基準を以て識別することはできない(何の役に立つのかまだわかっていないのだから)。
にもかかわらず、ブリコルールは決断を下して、あるものを棄て、あるものを袋に入れる。
このとき、彼はいったい何を基準にして「いずれその使用価値が知られるはずのもの」と「いつまでもその使用価値が知られないであろうもの」を識別しているのか。
それをブリコルール自身は言うことができない。
どうして自分にはそれをできるかを言うことが出来ないけれど「できる」ということがある。
それが人間知性のいちばん根源にある力であると私は思っている。
ロジカルに言えば、「明証をもって基礎づけられない判断は正しい判断ではない」という命題は正しい。
けれども、経験的には「明証をもっては基礎づけられなかったけれど、結果的には正しかった判断を継続的に下すことのできる人」が私たちのまわりには現に存在する。
私はこの「明証を以ては基礎づけられないけれど、なんとなく確信せらるる知見」を「常識」と呼ぶことにしている。
そして、常識の涵養こそが教育の急務であると思っている。
もちろん、私の意見に対して「何を言っておるのかキミは。常識の涵養が教育上の急務だなどという判断にどういう論拠があるのかただちに具申せよ」という反論があることは承知している。
だから、「いや、なんか、よくわかんないけど、そんな気がするんですよね、僕としては」とふにゃふにゃ応接するのである。
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