『秋日和』と『すーちゃん』

2008-09-14 dimanche

5時半に目が覚めてしまった。
8時くらいまで寝ていたいのだが、寝付けない。しかたがないので、起き出して『日本の論点』の「非婚」についての原稿に手を入れる。
これはブザンソンで原型を書いたのだが、「結婚したくない人」と「結婚したいけれど、機会に恵まれない人」を同じ「非婚」というカテゴリーにくくって論じるのは、やっぱり無理があるよな、と昨日の夜、『秋日和』を見たあとにベッドの中で、益田ミリの『すーちゃん』を読んでいて感じたのである。

『秋日和』は1960年の映画で、例のごとく「なかなか結婚しない娘(司葉子)を結婚させる」ために佐分利信、中村伸郎、北竜二の三人のおじさんたちが暗躍するという話である。
あまりに面白くて、何度も笑い出してしまった。
バーのカウンターでパイプで鼻翼をこすりながら「急いじゃいかん」という場面とか、「じゃあ、リンゴも俺が食ったことになってるんですね」とか、佐分利信があの「地獄の底から響くような声」で、少しも可笑しくない台詞を呟いて、観客を爆笑させる演技の妙は洋の東西を問わず他に類例を見ないものである。
ともあれ、映画を観ながら、たしかに、あの時代にも、こういう「ハイパーうるさいおじさん」たちが「じゃあ、いいんだね。話、進めるよ」(『彼岸花』にもまったく同じ台詞が出てくる)と強引に(ほとんど「はた迷惑」というレベルの強引さで)若者たちを結婚させていなければ、非婚率は今と変わらないほどに高いパーセンテージに上ったであろうと思ったのである。
小津安二郎は『晩春』も『麦秋』も『秋刀魚の味』も『秋日和』も『彼岸花』も秀作はことごとく「娘を結婚させる話」である。
これらの映画の過半は「縁談」にかかわる会話で占められている(『秋日和』に至っては90%がそうである)。
「適齢期になれば結婚するのが常識」であった時代にあってさえ、大の大人がこれだけのエネルギーを投じて、人々はようやく結婚にたどりついたのである。
それを思うと、このような迫力のあるマッチメイカーたちがほとんど底を払ってしまった現代において、まだこれだけ「結婚にたどりつける人」がいるというのはなかなかたいしたものだという気になってきた。
映画の中でも、「はやく結婚したい」ということを言う若者はほとんど登場しない(そんなことを口走るのは、三上真一郎とか桑野みゆきとかが演じる「無思慮な学生」たちだけである)。
みんな「まだそんな気になれません」と言って、あれこれ理由を挙げて結婚を先延ばしにしようとする。
それを大人たちが無理押しするのである。
非婚志向はもしかすると40年前の方が強かったのかもしれない。
そうでなければ、佐分利・中村・北のような強力トリオの出場が要請されるはずがないからである。
そう考えると、当今の非婚趨勢は、若者たちの「非婚志向」が強まったからではなく、若い人たちを本人の意向を無視して、「無理やり結婚させる」社会的圧力が失われたことが最大の原因なのかもしれない。
小津自身は生涯独身だった。そして、「活動屋」というやくざな仕事で、気の合う仲間たちと「遊ぶ」ことにひたすら興じた人である。
にもかかわらず、その小津は「結婚」と「家族」を、ほとんどそれだけを描き続けた。
あたかもそこだけが人間的成熟の場であり、すべての人間的経験はそこに凝縮されていると言わんばかりに。
それは小津の映画そのものが機能的には「結婚させる」外圧として(つまり佐分利信的に)機能しているということである。
佐分利信の演じる「結婚させる男」の肖像があれほどたくみに造型されているのは、あるいは彼が「小津映画」そのもののを物語的に表象していたからかもしれない。
などということを考える。
小津安二郎のような映画を撮る人はもう日本にも外国にも、どこにもいない。

『すーちゃん』はいわば「佐分利信なき時代」を生きる女性を描いている。
非婚は彼女たちの意思ではない。
佐分利信がいる時代だったら、「すーちゃん」はとっくに結婚していただろう(「もう行かなきゃいけないよ」と耳にタコができるほど言われ続けて、根負けして)。
彼女たちを「非婚に押しやる」外圧が働いているのではない。彼女たちを結婚に「押しやる」外圧が働かなくなったのである。
彼女たちは「結婚したら幸福になれるだろうか?」と考える。
この問いの立て方そのものが間違っているのだが、そのことを誰も教えない。
この問いを許す限り、人を結婚に踏み切らせることはできない(ふつうは結婚しても人はそれだけでは幸福にはなれないからである)。
「結婚したら幸福になるよ」というのは、若者たちを結婚に押しやるための「嘘も方便」である。
そうでもいわないと、なかなか結婚しないからである。
「家族を作れ」というのは要するに「成熟せよ」ということである。
それは「いつまでも、若く、自由で、イノセントでいたい」という若者の願いと必ず葛藤する。
この葛藤を押し切るだけの「成熟圧」を喪ったというのが、おそらくは私たちの時代の非婚の実相なのである。
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