四日目でようやく体内時計が日本時間と同調した。
やれやれ。
終日『街場の教育論』の推敲。
去年の4月に、授業ではできたばかりのサイバー大学(福岡市、ソフトバンクが出資する株式会社立大学)について「この大学はユビキタス大学の失敗例となるだろう」と予言している。
理由はビジネスマンは「師弟の対面状況」の重要性を理解していないからだと書いているが、サイバー大学が単位認定と非認定大学(学位工場)からの学位で新聞記事になるような問題を起こした後に本になるので「なんだあと知恵じゃん」と思われるだろうな、きっと。
教育再生会議の批判ももうあまり新味がない(というか、これほど短期間に教育問題に対する世論が「冷めた」ということに驚く)。
一昨年暮れから去年はじめにかけては、日本中が教育問題でわきたっていたのにね。
そういう言論状況のなかで、長期にわたってリーダブルであるようなものを書くというのは、なかなかむずかしい。
『論座』と『現代』が相次いで発行停止に追い込まれた。
在仏中だったが、あるメディアからコメントを求められた(外国にいると日本のメディアの状況というのは火星の出来事のように遠く感じられるので、「わかりません」とお答えした)。
日本に帰ってきて、その理由について考えた。
ちょうど小田嶋隆さんが連載をもっていたm9という雑誌が3号で発行停止になった件についてコメントしていたので、それを読んで考えた。
小田嶋さんはこう書いている。
「 雑誌の内容は、《時代を読み解く新世代「ライトオピニオン」誌》と銘打っている通り、最近の若者向け雑誌の中ではちょっと硬派なノリだった。
が、部数は期待していたほど伸びず、結局、通算で 3 号を出したところで、早めの撤退を判断することになったようだ。
私は、スポーツコラムを担当していたのだが、連載は 3 回で終了ということになった。残念。あれこれとしがらみや制約の多い大手の雑誌からは発信しにくいプギャーなご意見を存分に吐き出す覚悟でいたのだが。
スポーツジャーナリズムの世界は、メディアと競技団体と興業組織と選手会と専門ライターが、まるで互助会みたいに肩を寄せ合って生きている、金魚鉢みたいな世界だ。それゆえ、水中生活に慣れたえら呼吸のできる人間以外には、取材パスがまわってこない仕組みになっている。
で、私のような部外者のライターは、金魚鉢の外から見ると、金魚たちの泳ぎがどう見えるのかといった視点で、記事を書いていたわけなのだが、そういうご意見は、残念なことに、あんまり需要がない。
というのも、読者もまたすべては金魚鉢の外に住んでいる存在で、価値ある情報は、水の中にしか無いと思いこんでいたりするからだ。
うん。負け惜しみだけどさ。」(http://takoashi.air-nifty.com/)
小田嶋さんがこの中で書いている「金魚鉢みたいな世界」という形容は、政治の世界にも、学術の世界にも、文学の世界にも、どれにも当てはまるような気がする。
おそらく「総合雑誌」もまたそのような「金魚鉢みたいな世界」なのであろう。
そこでは同じような書き手(私のような)があちこちのメディアに繰り返し顔を出し、同じようなことを繰り返し語っている。
その批判者の顔ぶれもさっぱり代わり映えがせず、そのような硬直した構図に対して「けっ」と斜に構えている「オレはそういうんじゃないかんね」的メタ批評者の語法も十年一日。
そういう面子が「水中生活になれたえら呼吸できる人間」たちのクローズドなクラブを作って、排他的に発言の場を占めている。
新しい書き手(新しい「えら呼吸」者)が定期的に補充されるけれど、この「金魚鉢」のつくりそのものを批判的に吟味するような言説は排除されている。
私は『AERA』に隔週半頁のコラムを連載しているが、この自分の立ち位置というのが、なんか「よろしくない」ような気がする。
というのは、「金魚鉢」構造の中で、「金魚鉢」批判のようなことをさせてもらっていることが結果的に、「金魚鉢には自浄能力がある」ということの「言い訳」として機能しているんじゃないかと思うからである。
『AERA』のコンテンツに関しては、毎週送ってくるから読んでいるけれど、「sigh」(チャーリー・ブラウン的)を吐かずに読み通すことができない。
このトリビアルな「格付け」に焦点化したメディアはいったい、それによって何を伝えたいのか。あるいは何を実現したいのか。
それが「社会の実相です」とスーパークールな口調で言いたいのかもしれない。
いずれにせよ、そこに「金魚鉢の世界」を超えてゆこうという志向を読むことは限りなく困難である。
前に高橋源一郎さんが『世界』の編集者に『世界』の部数低迷を救うアイディアはないですかと訊かれて、「『世界』の罪」という特集を行って、戦後『世界』が世論をミスリードした事例を洗い出して、その原因について吟味したらどうかと提言したら、一蹴されたという話をご本人から聞いたことがある。
『世界』がほんとうに批評的なメディアでありたいと思ったら、これを「一蹴」すべきではなかったと思う。
結果的に採択されないにしても、編集会議で真剣に議論されるべきことだったと思う。
「誌面刷新」というのが、編集長の入れ替えや、執筆陣の入れ替えということでとどまるなら、「金魚鉢」の再生産は止まらない。
「金魚鉢」を超えるためには、まず「金魚鉢の歴史と構造」についての自己剔抉から始めなければならない。
それを喫緊の課題として認識している雑誌がどれだけあるか。
読者減の理由を出版社側が「読者離れ」とか「企画力の弱さ」とかいう言い方で説明している限り、総合誌の廃刊趨勢はこのまま止めどなく続くだろう。
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(2008-09-16 10:08)