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2013年02月 アーカイブ

2013.02.01

メディアの劣化について

あるフランスの媒体から去年の2月に「3/11以降の日本のメディアについて」の寄稿を依頼された。
送稿したまま忘れていたら、それをまた再掲したいというメールが来た。
何を書いたか忘れていたので、掘り出して読み返したみた。
なるほどね、そういう考え方もあるのかと思った(自分の書いたことをすぐに忘れてしまう男なのであります)。
というわけでブログに再録。


2011年3月11日の東日本大震災と、それに続いた東電の福島第一原発事故は私たちの国の中枢的な社会システムが想像以上に劣化していることを国民の前にあきらかにした。日本のシステムが決して世界一流のものではないことを人々は知らないわけではなかったが、まさかこれほどまでに劣悪なものだとは思っていなかった。そのことに国民は驚き、それから後、長く深い抑鬱状態のうちに落ち込んでいる。
政府の危機管理体制がほとんど機能していなかったこと、原子力工学の専門家たちが「根拠なき楽観主義」に安住して、自然災害のもたらすリスクを過小評価していたことが災害の拡大をもたらした。それと同時に、私たちはメディアがそれに負託された機能を十分に果たしてこなかったし、いまも果たしていないことを知らされた。それが私たちの気鬱のあるいは最大の理由であるかも知れない。
メディアは官邸や東電やいわゆる「原子力ムラ」の過失をきびしく咎め立てているが、メディア自身の瑕疵については何も語らない。だから、私たちは政治家や官僚やビジネスマンの機能不全についてはいくらでも語れるのに、メディアについて語ろうとすると言葉に詰まる。というのは、ある社会事象を語るための基礎的な語彙や、価値判断の枠組みそのものを提供するのがメディアだからである。メディアの劣化について語る語彙や価値判断基準をメディア自身は提供しない。「メディアの劣化について語る語彙や価値判断基準を提供することができない」という不能が現在のメディアの劣化の本質なのだと私は思う。
メディアはいわば私たちの社会の「自己意識」であり、「私小説」である。
そこで語られる言葉が深く、厚みがあり、手触りが複雑で、響きのよいものならば、また、できごとの意味や価値を考量するときの判断基準がひろびろとして風通しがよく、多様な解釈に開かれたものであるならば、私たちの知性は賦活され、感情は豊かになるだろう。だが、いまマスメディアから、ネットメディアに至るまで、メディアの繰り出す語彙は貧しく、提示される分析は単純で浅く、支配的な感情は「敵」に対する怒りと痙攣的な笑いと定型的な哀しみの三種類(あるいはその混淆態)に限定されている。
メディアが社会そのものの「自己意識」や「私小説」であるなら、それが単純なものであってよいはずがない。「私は・・・な人間である。世界は・・・のように成り立ってる(以上、終わり)」というような単純で一意的な理解の上に生身の人間は生きられない。そのような単純なスキームを現実にあてはめた人は、死活的に重要な情報-想定外で、ラディカルな社会構造の変化についての情報-をシステマティックに見落とすことになるからだ。
生き延びるためには複雑な生体でなければならない。変化に応じられるためには、生物そのものが「ゆらぎ」を含んだかたちで構造化されていなければならない。ひとつのかたちに固まらず、たえず「ゆらいでいること」、それが生物の本態である。私たちのうちには、気高さと卑しさ、寛容と狭量、熟慮と軽率が絡み合い、入り交じっている。私たちはそのような複雑な構造物としてのおのれを受け容れ、それらの要素を折り合わせ、共生をはかろうと努めている。そのようにして、たくみに「ゆらいでいる」人のことを私たちは伝統的に「成熟した大人」とみなしてきた。社会制度もその点では生物と変わらない。変化に応じられるためには複雑な構成を保っていなければならない。だから、メディアの成熟度にも私は人間と同じ基準をあてはめて考えている。その基準に照らすならば、日本のメディアの成熟度は低い。
全国紙は「立派なこと」「政治的に正しいこと」「誰からも文句をつけられそうもないこと」だけを選択的に報道し、テレビと週刊誌はもっぱら「どうでもいいこと」「言わない方がいいこと」「人を怒らせ、不快にさせること」を選択的に報道している。メディアの仕事が「分業」されているのだ。それがメディアの劣化を招いているのだが、そのことにメディアの送り手たちは気づいていない。
ジキル博士とハイド氏の没落の理由は、知性と獣性、欲望の抑制と解放をひとりの人間が引き受けるという困難な人間的課題を忌避して、知性と獣性に人格分裂することで内的葛藤を解決しようとしたことにある。彼が罰を受けるのは、両立しがたいものを両立させようという人間的義務を拒んだからである。
その困難な義務を引き受けることによってしか人間は人間的になることはできない。面倒な仕事だが、その面倒な仕事を忌避したものは「人格解離」という病態に誘い込まれる。私たちの国のメディアで起きているのは、まさにそれである。メディアが人格解離しているのである。解離したそれぞれの人格は純化し、奇形化し、自然界ではありえないような異様な形状と不必要な機能を備得始めている。
メディアは「ゆらいだ」ものであるために、「デタッチメント」と「コミットメント」を同時的に果たすことを求められる。
「デタッチメント」というのは、どれほど心乱れる出来事であっても、そこから一定の距離をとり、冷静で、科学者的なまなざしで、それが何であるのか、なぜ起きたのか、どう対処すればよいのかについて徹底的に知性的に語る構えのことである。
「コミットメント」はその逆である。出来事に心乱され、距離感を見失い、他者の苦しみや悲しみや喜びや怒りに共感し、当事者として困惑し、うろたえ、絶望し、すがるように希望を語る構えのことである。
この二つの作業を同時的に果たしうる主体だけが、混沌としたこの世界の成り立ちを(多少とでも)明晰な語法で明らかにし、そこでの人間たちのふるまい方について(多少とでも)倫理的な指示を示すことができる。
メディアは「デタッチ」しながら、かつ「コミット」するという複雑な仕事を引き受けることではじめてその社会的機能を果たし得る。だが、現実に日本のメディアで起きているのは、「デタッチメント」と「コミットメント」への分業である。ある媒体はひたすら「デタッチメント」的であり、ある媒体はひたすら「コミットメント的」である。同一媒体の中でもある記事や番組は「デタッチメント」的であり、別の記事や番組は「コミットメント」的である。
「生の出来事」に対して、「デタッチメント」報道は過剰に非関与的にふるまうことで、「コミットメント」報道は過剰に関与的にふるまうことで、いずれも、出来事を適切に観察し、分析し、対処を論ずる道すじを自分で塞いでしまっている。
私たちの国のメディアの病態は人格解離的である。それがメディアの成熟を妨げており、想定外の事態への適切に対応する力を毀損している。
だから、いまメディアに必要なものは、あえて抽象的な言葉を借りて言えば「生身」(la chair)なのだと思う。
同語反復と知りつつ言うが、メディアが生き返るためには、それがもう一度「生き物」になる他ない。

2013.02.13

『なめらかな社会とその敵』を読む

鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』を読み終わる。
発売当日から読み出したけれど、いろいろ締め切りや講演やらイベントが立て込んで、ようやく読了。
名著だと思う。
タイトルを借用したカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』に手触りが似ている。
数理的な思考による社会システム論であるが、「ロジカルに正しいことを言っていれば、いずれ真理は全体化するのだから、読みやすさなどというものは考慮しない」というタイプの科学的厳密主義とは無縁である。
とにかく読んで、理解して、同意して、一緒に「なめらかな社会」を創り出さないか、という著者からの「懇請」がじわじわと伝わってくる。
数式がぞろぞろと続くページも、著者は私の袖を握ってはなさない。
「意味わかんないよ」
と私が愚痴っても、
「あとちょっとでまた数式のないページにたどり着くから、読むのやめないで!」
とフレンドリーな笑顔を絶やさない。
「苦労人なんだな」
と思う。
サルガッソーというのがどんな会社か知らないし、そこで働いていたはずの森田真生君から聞いた話でも、やっぱり何やってる会社かよく分からなかったけれど、「こういうこと」をしたいとビジネスマンたちに説き聞かせていたのだとしたら、そりゃたいへんご苦労されただろうと思う。
「素人相手に自分のプランを説明して、納得させる」
という修業を長くされてきたことが行間ににじんでいる。
素人は専門的な話の中身は理解できない。
でも、「今こうやって必死にしゃべっている青年は、私利私欲のためにそうしているのか、功名心とかルサンチマンに駆られてやっているのか、それとも本気で『住みやすい世の中』を世のため人のために創り出そうと思ってそうしているのか」なら非専門家でもわかる。
この青年は本気だ。
素晴らしいことだと思う。
これだけの知力と馬力があれば、個人資産を増やすことも、世俗的な名声を勝ち得ることもむずかしいことではなかったはずだ。
でも、鈴木さんはそういうことには力を用いなかった。
その知恵と力を「この世界を、手堅い方法で、住みやすいものにする」という事業に注いだのである。
偉いものである。
「青年」という存在が地を払って久しいけれど、乱世になるとこうやってちゃんと出現してくるのである。

この本がどういうことを扱っているか、それを要約するのは私の手に余るし、実物を手にとった方が早いので、印象だけを申し上げる。
上に書いたとおり、本書のタイトルはポパーをふまえているが、ふまえているのは題名だけではなく、アプローチも近い。
ポパーの長大な書物に伏流しているのは
「世界を一気に人間的なものにしようとする企ては、必ず非人間的な手段を迂回する」
という人間の度しがたい愚かさに対するポパーの怒りと悲しみである。
「できるところからこつこつと」
「企ての成功を数え上げる暇があったら、企ての失敗したところを探し出して、そこを手直しする」
というのが、ポパーの社会改革の方法であり、彼はこれを「piecemeal」と形容した。
「ピースミール」というのは、「一個ずつ」とか「パーツごと」とか「漸進的」という意味である。
「一気に」とか「根底から」とか「徹底的に」というやり方がどれほど多くの破壊をもたらすかポパーは骨身にしみていたからである。
オーストリアのウィーン育ちのユダヤ人であったポパーは、ヒトラーによるオーストリア併合を逃れてニュージーランドに渡り、そこで大戦中にこの本を書いた。
彼が置かれた歴史的状況が「多様なものとの共生、理解も共感も絶した他者への開放」を学的に基礎づけることを要求したのである。

鈴木健さん『なめらかな社会とその敵』もまた、その説くところは、あえて倫理的な言葉遣いをするなら、「多様なものの共生、他者への寛容」である。
けれども彼はこれを数理的に厳密な手続きで基礎づけようとする。
人の善意とか意志のようなものを根拠にすることはできない。
善意や意志が根拠とするにはあまりに脆弱であるからではない。
それがあまりに頑なだからである。
そのようなリジッドなものによっては「なめらかな社会」は実現できない。
ここに私は鈴木さんの洞察のきわだった深さを感じるのである。

人によってこの書物から読み出すものは違うだろう。
もちろん違ってよいのである。
私が最も深く共感したのは、「分人民主主義(divicracy)」について述べた章で、「首尾一貫した自己、統合された自己」なるものは近代の発明であり、もともと人間は複数の声が内部に輻輳する「分心」の状態にあるという指摘である。
著者も引いているとおり、ジュリアン・ジェインズの「二分心」というのはそういうアイディアであった。
『神々の沈黙』で、ジェインズは、古代ギリシャまで人類はいわゆる「意識」なるものを持っておらず、心は二つに分かれて、左脳は右脳から響く「神々の声」に従っていたという驚くべき説を唱えた。
『イーリアス』や『オデュッセイア』において、神々は勇士たちにことあるごとに語りかけ、その行動を導き、決断を促したが、その「神々の声」は、実は当時のギリシャ人たちには「ほんとうに聴こえていた」、というのがジェインズの説である。
古代ユダヤでも同じ。
預言者や族長のもとに神はしばしば「声」として臨んだ。
視覚像として神を表象することへの厳しい禁忌は「神は声として顕現するのであって、形象としてではない」という古代人の「実感」を映し出している。
そう考えると、いろいろなことが腑に落ちる。
時代が下って、ディズニーアニメでも、「財布を拾ったグーフィー」の頭の上で、「ネコババしちゃえよ」という「悪魔的グーフィー」と「持ち主を探して返しなさい」という「天使的グーフィー」が激しい争いを演じている。
このマンガを見て、幼児でもその意味するところがわかるのは、それがおそらく人間の意識の古層にわだかまっているニ分心の「実感」だからである。
ジェインズによれば、右脳の発する「神々の声」は人間のうちにあるさまざまな思念な感情のうち、より公共性の高い部分を代表していた。
「公私」のうちの「公」である。
忠誠心とか責任感とか使命感という言葉を使うときに、私たちがいまでも「心」とか「感」という名詞を接尾辞のようにつけるのは、それとは違う、ときにそれとは背馳する「心」や「感」もまた自分の中に存在することを知っているからである。
私たちはそういう意味では全員が「程度の差があるだけの統合失調症患者」であると言ってよい。
少なくともフロイトはそう考えていた。
意識は分裂しているのが常態なのである。
それを無理やり統合し、足元のおぼつかない「一貫した自己」なるものを立て、その擬制に基づいて社会制度を設計したせいで、さまざまな対立や暴力や収奪が起きた。
それが「とげとげした社会」である。
鈴木さんの言う「なめらかな社会」とは未決定のうちに絶えず引き裂かれてある人間のありようを「デフォルト」として、それに基づいて設計された社会のことである(多分、そういう理解でよろしいかと思う)。

鈴木さんはこう書いている。
「自由意志をもった一貫した自己というイメージは、他者から責任を追求されることによって強化される。(…)
頭の中をかけめぐる複数の異なる声、これこそが分人たちの声である。これらの声は矛盾し、会話し、ときに溶け合うこともある。ちょうど自分の腕を他人の腕だと信じて疑わない自己身体失認と同様に、自分の脳の中の声も他人の声として聞こえてしまうのが統合失調症によくある幻聴の症状である。それらは宇宙人の声や神の声として解釈されることさえある。
自分の体で起きることを身体の所有感覚としてもてないことがあるのと同様に、自分のまわりで起きる社会的出来事を所有感覚としてもてるかどうかは自明ではない。ときに家族は家族として感じられなくなったり、国を国として感じられなくなる。家族愛や愛国心は自明ではない。だが、責任を要求することによって、自己は統合され、自らを合理化して制御し、それを通じて組織や国家に尽くすことができるようになる。こうして、社会的責任を通じて一貫した自己が生まれる。
分人民主主義が否定するのはこうした自己の結晶化である。身体が生み出す矛盾した声を、矛盾したまま吐き出すことができれば、分人たちの新しい民主主義の可能性が顕在化する。」(鈴木健、『なめらかな社会とその敵』、勁草書房、2013年、174頁)

私自身は分人民主主義のかたちや機能のしかたについて、鈴木さんほどにクリアーカットなイメージをもつことができずにいる。
けれども、私がエマニュエル・レヴィナス先生から学んだのは、「同一的な自己に居着かず、つねに引き裂かれてあることを常態とすることができるかどうか、それが人間的成熟の指標である」ということであった。
多田宏先生から学んだのは、「対立的にではなく、同化的に身体を使うことによって居着きを去ることが武道の要諦である」ということであった。
私もまた鈴木さんとは違うしかたで、「矛盾したものを矛盾したまま共生させるための原理論とその技法」についてひさしく考えてきた。
そして、この本を読んで、自分とは違う声が、まるで自分自身の声のように間近から聴こえてきたことに驚愕したのである。

2013.02.26

私の紙面批評

朝日新聞の「私の紙面批評」に体罰とスポーツについて書いた。
掲載時には紙面用にすこし添削が要請されたので、これがオリジナル。


大阪市立桜宮高校の体罰自殺事件に続いて、女子柔道園田監督の暴力に対する選手たちからの告発報道があり、紙面はこの話題が続いた。この件について2月19日付け本紙の片山杜秀氏のコメントが、私が読んだ範囲では、もっとも射程の長い考察だったと思う。
片山氏によれば、体罰による身体能力操作の悪習は日露戦争に淵源を持つ。「持たざる国」日本は火砲に乏しく、「大和魂」に駆動された歩兵の絶望的な突撃と悲劇的な損耗によって薄氷の勝利を収めた。このとき火力の不足は精神力を以て補いうるのだと軍人たちは信じ、その結果、大正末期から一般学校にも軍事教練が課された。以来「しごき」によって戦闘能力は短期間のうちに向上させられるという信憑は広く日本社会に根づいた。今日の学校体育やスポーツ界に蔓延する暴力はその伝統を受け継いでいると見る片山氏の指摘は正鵠を射ていると私は思う。
日露戦争より前、西南の役において、農民出身の鎮台兵を短期の訓練で前線に投じる「速成」プログラムの整備が陸軍の喫緊事であると説いたのは山縣有朋であった。「速成」が要請されるのはいつでも同じ理由からである。「ゆっくり育てている時間がない」というのだ。短期で精兵を仕上げるためには、青少年の心身の自然な成長を待つ暇がない。「負けてもいいのか」という血走った一言がすべてを合理化する。
私はひそかにこれを「待ったなし主義」と名づけている。近代日本の組織的愚行の多くは「待ったなし」という一語を以て合理的な反論を遮り、押しつぶし、断行されてきた。今もそれは変わらない。
スポーツにおける体罰を正当化する指導者たちもまた例外なく「待ったなし主義者」である。「次のインターハイまで」、「次の選考会まで」、「次の五輪まで」という時間的リミットから逆算する思考習慣をもつ人にとって、つねに時間は絶対的に足りない。だから、アスリートの心身に長期的には致命的なダメージを与えかねない危険な「速成プログラム」が合理化される。
その一方で、「待ったなし」主義はアスリート自身にも不条理な指導を受け容れるための心理的根拠を提供する。というのは、「あそこまで我慢すれば、この苦しみも終わる」という「苦しみの期限」があらかじめ開示されているからである。
私が大学入試の面接官をしていた頃、推薦入試の自己アピール欄に高校でのスポーツでの実績を掲げていた受験生に幾人も出会った。「大学でも続けますか?」という私の問いにほとんどの受験生は気まずそうな表情で応じた。「まさか」と苦笑するものもいた。そのときわかった。彼らにとって、競技での好成績は「苦しみの代価」として手に入れた高校時代の誇るべき達成だったのである。ようやくその「苦しみ」から解放されたのに、どうして大学に入ってまで・・・という高校生の素直な驚きのうちに私は現代の学校体育の歪みを見た思いがした。
体罰と暴力によって身体能力は一時的に向上する。これは経験的にはたしかなことである。そうでなければ、暴力的な指導がここまではびこってくるはずはない。恫喝をかければ、人間は死ぬ気になる。けれども、それは一生かかってたいせつに使い延ばすべき身体資源を「先食い」することで得られたみかけの利得に過ぎない。
「待ったなしだ」という脅し文句で、手をつけてはいけない資源を「先食い」する。気鬱なことだが、この風儀は今やスポーツ界だけでなく日本全体を覆っている。

2013.02.27

「ポストグローバル社会」とナショナリズムについて

中島岳志さん、平松邦夫さんとの「ポストグローバル社会の共同体」をめぐるシンポジウムの四回目が凱風館で行われた。
第一回がこの三人プラス平川克美、小田嶋隆。第二回が小田嶋、平松、内田にイケダハヤト、高木新平という若者ふたり。第三回と第一回は同じメンバー、第四回が昨日である。
四回全部に出たのは平松さんと私のふたり。
このシンポジウムは公共政策ラボという平松さん率いる政策集団の主催のイベントであり、私はその発起人メンバーに加わっているので、ゲストじゃなくて主催者側なのである。
四回かけて10時間近く議論をしたわけで、ずいぶん新たに学ぶことがあった。
同時期に私は岡田斗司夫さんと連続対談をしていた(これは『評価と贈与の経済学』に収録された)。
その対談で岡田さんからつよい影響を受けて、それがこのシンポジウムにも反映している(人間は本人がいない場でその人の意見を請け売りするときに、たいへん能弁になる。このシンポジウムで私がたいへん能弁であるときはしばしば岡田さんの請け売りを語っており、岡田さんとの対談で能弁であるときはイケダくんや高木くんの話を請け売りしていたのである)。
第四回である今回のシンポジウムに際しては、いちばんつよい影響を受けたのは、直前に読んだ鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』からである。
直接どういう意見に共感したということよりも、100年射程で社会システムを設計しようとしている若い知性のスケールの大きさに感動したのである。
光嶋裕介くんや森田真生くんや三島邦弘くんといったこれからの日本の知的ムーブメントを牽引できるだけの力量をもった人たちが続々と多田塾甲南合気会に入門してきて、彼らから持続的に刺激を受け続けたことも私の物の見方に大きな影響を与えている(鈴木健さんを凱風館に連れてきて引き合わせてくれたのは森田君である)。
こういう若い人たちに続々と出会っているうちに、「なんか、日本の未来も大丈夫かも」という気がしてきた。
これがひとつ。
もうひとつは、近代日本政治史をもう一度勉強し直さなければならないという気分が醸成されたことである。
直接には中島岳志さんや片山杜秀さんの近代ナショナリズム史の読み直しの仕事に触発されている。
渡辺京二や松本健一がナショナリズムについて書く理由はわかる。あるいは半藤一利が司馬遼太郎の衣鉢を伝えようとする気持ちもわかる。
でも、1960年、70年代生まれの若い研究者たちが玄洋社や農本主義や軍制史を研究する動機は、すぐにはわからない。
でも、この領域の研究に緊急性があるということは、私にも直感されている。
現に書棚を振り返ると、ここ数年のうちに北一輝、頭山満、大川周明、権藤成卿、宮崎滔天といった人たちについての研究書がにわかに増殖している。
どうしてそういう思想家たちに興味がわいたのか、自分でもよくわからない。
ツイッターにも少し書いたけれど、現代日本に瀰漫しているナショナリズムは「ナショナリズムとして空疎である」という印象が私にはある。
ナショナリズムというのは、こんなに薄っぺらで、反知性的なものであるはずがない。
18世紀以降の政治史上の事件には「人間とはどこまで愚劣で邪悪になることができるのか」と絶望的な気分にさせられるものだけでなく、「人間はここまで英雄的になることができるのか」と感動させられるものもあった。そして、後者のほとんどはナショナリズムに駆動されたものである。
そのことはマルクスも認めている。
アメリカの独立戦争も、フランス革命も、多くの人々が祖国と同胞のために、おのれの命も財産も自由も捧げた苛烈な闘争の成果として得られた。これらの英雄的・非利己的な献身によって近代市民社会は基礎づけられたのである。
そして、私利や自己実現と同じくらいの熱意を以て公益を配慮するような人間をマルクスは「類的存在」と呼んだ。
そのような人間は革命闘争や独立戦争のさなかに「英雄的市民」というかたちにおいて一過的に存在することはあるが、安定的・恒常的に存在したことはない。
いわば、ある種の幻想的な「消失点」として措定された概念である。
だが、それなしではいかなる革命闘争も実現しない。
そのことをマルクスは知っていた。
近代日本のナショナリストたちのうちにも、遠く「類的存在」を望見した思想家がいたのではないか。
勝海舟から坂本龍馬、中江兆民を経由して幸徳秋水に至る「反骨の系譜」というものが存在するのではないかという仮説に以前言及したことがある。
坂本龍馬がクロポトキンを読んだら、たぶん深い共感を覚えただろうと思う。
私にとって古典的な「左右」の思想区分は、本質的なものには見えない。
本質的な壁は、私利の確保や全能感の獲得のために政治行動をする人間と「類的」な動機に駆動されて政治実践をする人間たちのあいだにある。
私はそう考えている。
そして、政治史が教えてくれるのは、18世紀以来、「類的」という政治的概念がナショナルな政治単位を超えて「受肉」した事例は存在しないということである。
アメリカ独立戦争・フランス革命以後のすべての英雄的な「解放闘争」は「民族解放闘争」として行われた(残念ながら、成功した革命の闘士たちは必ずしも統治者としても類的であり続けたわけではないが)。
そして、民族の枠を超えたスケールの「セミ・グローバルな政治闘争」として私たちはスターリン主義とアメリカ帝国主義というふたつの頽落形態しか知らない。
近代の政治的経験から私たちが導き出すのは、「ナショナリズムと類的存在を架橋する」細い道以外に、政治的選択肢として可能性のあるものはなさそうだということである。
そして、その場合、「誰を信じるべきか、誰についてゆくべきか」のぎりぎりの基準は、政策コンテンツの綱領的な整合性や「政治的正しさ」ではなく、その政治思想家の「生身」だということである。
明治大正の政治思想家たちは、左右を問わず、身体を持っていた。
vulnerable な身体を持っていた。
「人間は壊れる」ということを熟知していた。
その壊れやすい人間を基準にして、政治的プロジェクトの適否を思量していた。
テロリズムというのは、思想の力は身体に担保されているので、身体を物理的に破壊してしまえば、思想も同時に力を失うという信憑なしには成立しない。
「思想は属人的なものだ」という確信、生身の人間の担保ぬきの政治思想など無力であり無価値であるという確信がテロリズムを可能にしている。
この確信には危険な半真理が含まれていることを私は認めざるを得ない。
思想は身体に基づいて存在する。
それゆえに、テロリズムの論理を反転させるならば、人間の生身としての脆弱性について深い理解をもつ人間しか、人間的な社会システムを作り出すことができないということである。
アンチ・テロリズムの思想もまた、「思想は属人的なものだ」という公理に基づくことになる。
私にはそれくらいしかまだわからない。
いずれ機会があれば、中島岳志さんや片山杜秀さんの話をもっと聴いてみたい。

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