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2013年03月 アーカイブ

2013.03.04

体罰とブレークスルーについて

『GQ』に毎月人生相談コーナーに寄稿している。
今月号は体罰についての質問だった。
たいせつな話なので、ここに再録しておく。

Q:体罰が問題になっています。武道における鉄拳制裁、愛の鞭というのはないのでしょうか

A:武道ではありえないですね。人に向かって「努力がたりない」という理由で罰を与えるということは。
処罰で脅すというのは、はっきりした到達目標とタイムリミットがある場合に限られます。
能力の発現までのんびり待っていられないというときに、処罰の恐怖や、金や名誉といった利益による誘導や、マインドコントロールやドーピングが採用される。
時間が迫っているので「背に腹はかえられない」というのがそのときの言い分です。
でも、武道の修業というのは、いつ、どこで、どのような危機に遭遇するのか予見できない状態で、それに備えるものです。だから、「いついつまでに、これこれのことができなければ罰を与える」という論理形式自体ありえません。
競技ではパフォーマンスを最大化すべき時間も場所もあらかじめ決まっています。その時点にピークをもって来られるなら、そのあと足腰立たなくなっても構わない。極端な話、廃人になっても構わない。
武道の修業にはそういうタイムリミットがありません。というか、「リミット」という概念そのものがありません。
自分の心身の能力を、与えられた生涯のうちにどこまで高められるかを追求するものです。だから、修業の途中の、まだろくに技術がない段階で生き死にの修羅場に遭遇したら、そのときには手持ちの資源を使える限り使ってなんとかするしかない。死ぬときは死ぬ。生き延びられたら修業を続ける。それだけのことです。

もう一つ、体罰をする指導者は全員が「メリトクラシー」の信奉者です。
努力したものは報償を受け、努力を怠ったものは罰を受けるべきだという考え方のことです。
彼らが暴力の行使を正当化するときの言い分はだいたい同じです。
「これほど資質に恵まれていながら、努力を怠ることが許せない。もともと才能がないなら、叱りはしない」と。
この主張の前提にあるのは、身体能力には人によって生得的な差があるが、「努力する能力」には差がないという信憑です。全員が等しく「努力する能力」を分有している。なのに、こいつはそれを出し惜しんでいる。能力がないことは咎めないが、能力の開発を自分で抑制している人間は罰を受けなければならない。そういうロジックです。
でも、実際にはその前提が間違っている。
自分の限界を突破したいという「努力するモチベーション」が起動する仕方は人によってまったく違うからです。
「自分の限界」を設定しているのは本人です。「自分にはこれくらいしかできない。その範囲なら心身を制御可能である」という範囲に誰でも居着きます。自分の可能性を低めに設定して「心身に無理をさせない」というのは生物としては合理的な生存戦略だからです。
でも、その「リミッター」を解除しないと身体的な「ブレークスルー」は起こらない。

リミッターを解除する方法は、単純化すれば二種類しかありません。
「限界の外に出ると、いいことがある」と思わせるか、「限界の内にとどまっていると、ひどい目に遭う」と思わせるか、二つに一つです。
体罰はもちろん後者です。
自分で設定した限界内にとどまっていると「ひどい目に遭う」と信じ込ませれば、人はやむなく限界を超えます。「できるはずのないこと」を無理やりやろうとする。今、ここで使い切ってはいけない身体資源まで使い切ってしまう。
それが可能なのは、リミッターの解除の代償に「時間制限」をかけているからです。「次のインターハイまで」とか「五輪強化選手選考会まで」とか「世界選手権まで」とか。数週間、せいぜい数ヶ月の時間制限を設ける。それまでは限界を超えるトレーニングに耐える。それを超えたら「壊れる」という身体への物理的負荷のリミットを「この日まで」という時間制限に置き換える。
アスリートも「その日まで」我慢すれば「あとは休める」と思うから、本来であれば一生ゆっくり使い延ばさなければならない身体資源を短期的に費消するようなトレーニングに同意してしまう。
少年野球で連投して、そのとき肩を壊してそのあと野球ができなくなった人とか、柔道で膝を傷めて、それから足を引きずっている人とか、ときどき見かけます。彼らは一生丁寧に使い延ばして使わなければならない身体資源を「先食い」してしまったわけです。
長く使うべきものを短期的に費消したことの代償として、期間限定的にパフォーマンスを上げることは可能です。でも、それがどれほど「割りに合わない」バーゲンであることを自覚しているスポーツマンはごく少数です。ほとんどのアスリートは高いパフォーマンスが要求される「限定期間」が終わったあとの自分の身体がどうなってしまうかについて何も考えていません。

自分の身体能力を「一生かけて高めてゆくもの」だとは考えない。それは学校体育でも同じです。学校体育は、子どもたちの中に潜在している多様な身体資源を、ゆっくり時間をかけて、ていねいに吟味し、開花させるという仕事には、ほとんど興味を示しません。
学校体育はその宿命として「成績をつける」ことを義務づけられています。そのためには他の条件を全部同じにして、数値的に比較考量可能な能力を見るしかない。タイムを計ったり、距離を測ったり、スコアを数えたり。
でも、人間の蔵している身体能力のほとんどは数値化できません。少なくとも、学校で使えるような装置では測定不能です。
武道的に言えば、「何でも食える能力」や「どこでも寝られる能力」や「誰とでも友だちになれる能力」や「正しい道案内人を見つける能力」は危機的状況を生き延びる上で、走る速さやボールをゴールに蹴り込む精度よりもはるかに有効です。でも、これらの能力は複雑すぎて計測不能・数値化不能です。そして、「数値化できない身体能力」は今の学校体育では「存在しない」ものとして扱われます。
数値化できない身体能力は「ないもの」として扱う。それは競技会が終わった後のアスリートたちの心身については何も「考えない」スポーツ指導者のマインドと同質のものです。

体罰や成果主義に伏流しているのは、生き物としての強さを犠牲にして、今ここでデジタルに数値化できる身体能力を限定的に高めようとする傾向です。それは「身体資源をできるだけ長く使い延ばそうとする」人間の生物的本性に対する攻撃です。
今のスポーツ界はそれを「リミッターを解除して、心身の限界を超えると『いいこと』がある」という利益誘導と、「言うとおりにしないと『ひどいめ』にあわせる」という恫喝を使い分けて行っています。
「いいこと」というのは進学や就職や年収や名声であり、「ひどいめ」というのは体罰や屈辱のことです。

武道もブレークスルーを喜びとして経験することをめざしています。
けれども、そのとき経験される「いいこと」というのは金とか名誉とかいう世界内部的な記号ではありません。
それは「生きる力が満ちる」という細胞レベルでの出来事です。

2013.03.11

『下流志向』韓国語版序文

みなさん、こんにちは。内田樹です。 『下流志向』韓国語版お買い上げありがとうございました。
この本は以前に一度韓国語に訳されて出版されたのですが、その後絶版になっていました。
出版当時、韓国に留学していた大学の教え子が「韓国のネットに載っていたこの本の書評」を訳して送ってくれました。好意的な書評は少なかったように記憶しています。だからこそすぐに絶版になってしまったのでしょう。
その絶版になった本が新訳で出ることになりました。これはかなり例外的なことだと思います。いったいこの本をとりまく状況のどこが変わったのでしょう? 
ひとつは、僕の本が続けて韓国語訳されて、ある程度安定的な読者ができたことだと思います。もちろん、せいぜい数千人というサイズの読者層ですが、それでも、それだけの読者が見込めるのなら、出しても商売になる。
もちろん、それだけではありません。というのは、他にいくらも本があるのに、出版社はあえて一度絶版になった『下流志向』を選んだからです。最近出して売れなかった本、たいして評判にもならなかった「失敗した本」をもう一度新訳で出すというのは、かなりリスクの高いビジネスです。なぜ、出版社はそんなリスクを冒してまでこの本を選んだのか?それについての自注を記して「まえがき」に代えたいと思います。

『下流志向』が日本で出版されたのは2007年ですが、もとになった講演がなされたのは2005年です。
日本における「学ばない子どもたちと働かない若者たち」を論じた文章が8年後に、それも隣国とはいえ、かなり社会状況を異にする韓国においてもリーダブルである理由は何でしょう?
それはそこで記述され分析されている事象が今の韓国においても切実な問題になりつつあるからだと思います。それ以外にうまい説明がありません。皮肉な言い方をすれば、日本において私たちが経験していた子どもたちの「学びと労働からの逃走」は国際共通性の高い問題だったということです。
おそらく、これと類似した現象は、規模や深刻さは違っても、世界のいずれの先進国でも起きているのではないかと思います。では、それはどんな現象なのか。
それは大づかみに言うと、「グローバル資本主義」と「国民国家」の利益相反という事態であろうと思います。
国民国家というのは、国境があり、官僚制度があり、常備軍があり、国籍と帰属意識を持つ「国民」を成員とする共同体のことです。国民国家が基本的な政治単位に登録されたのは、ざっと四〇〇年前のことです。政治史的にはウェストファリア条約(1648年)という生誕の日付を持っています。
それ以前、つまりヨーロッパを神聖ローマ帝国が支配していた時代、私たちが今使っているような意味での「国民国家」というものは存在していません。
神聖ローマ皇帝カール五世はネーデルランド領主とカスティリア女王の間にフランドルで生まれ、スペイン王であり、パリに住み、フランス語を話しました。そういう「超領域的」な権力がヨーロッパを支配していた。そういう時代が17世紀に終わり、対等な主権を有する国家が、それぞれの国益の保全と拡大をめぐって戦争を含む複雑な外交関係を取り結ぶようになる。
この国民国家を基本単位とする国際秩序を「ウェストファリア・システム」と呼びます。
そのシステムがざっと400年ほど続きました。生誕の日付をもつ政治制度である以上、いずれ賞味期限が切れます。私たちはいま「ウェストファリア・システム」の末期に立ち合っている。私はそういう認識を持っています。
国民国家という政治単位にとどめを刺したのは「グローバル資本主義」です。グローバル資本主義に則って企業活動を行う事業体を「グローバル企業」と呼ぶことにします。
グローバル企業はもはや特定の国民国家には帰属していません。経営者も株主ももう同じ国の国民ではありません。言語も宗教も生活習慣も異にしています。彼らに共通するのは、企業の収益を増やし、株価を上げ、適切なタイミングで売り抜けて自己利益を確保すること、それだけです。
日本の大企業はすでにほとんどがグローバル化したか、しつつあります。そういう企業は同胞の雇用にも、企業城下町の支援にも、祖国の国益の増大にも、もう関心がありません。仮に関心があっても、外国人株主からは「そんな余分な金があるなら株主に配当しろ」というクレームがつくでしょう。
「生活の面倒を見なければいけない貧しい親族」を抱えている国民経済内部的企業と、そのような「扶養家族」を持たないグローバル企業では、国際競争力が違います。だから、企業が生き残ろうとしたら、グローバル化=脱国民国家化するしかない。
グローバル化した企業は、法人税率の引き下げ・労働者の賃金の切り下げ・公害規制の緩和・原発稼働による安価な電力の供給・社会的インフラのための国費支出などを彼らが経済活動をしている国の政府に要求します。そして、その要求に従わなければ「生産拠点を海外に移す」という恫喝を加える。そうなれば、雇用が失われ、消費が冷え込み、地域経済が崩壊し、法人税収が激減し、国民国家は立ちゆかなくなる。しかたなく、政府はその要求に屈服します。
その結果、国民国家に対する帰属意識が少ない企業ほど国民国家から多くのサービスを期待できるという倒錯した法則が成立することになりました。
そして、現にその倒錯した法則は「世界標準」になりつつあります。
国富を私財に移し替えることに熱心な人間、公共の福利よりも私利私欲を優先する人間を当の国家が全力で支援する。それが今、アメリカでも中国でも日本でも、そしておそらく韓国で起きていることの実相です。
このままこの「グローバル・ルール」の普及が進めばどうなるか。いずれすべての国民がグローバル企業のやりかたを見習って、「どうやって国富を私財に移し替えるか、どうやって国費をもって自己利益を賄うか、どうやって私事のために公務員を利用するか」について知恵を絞るようになってくるでしょう。
そういう国民の数が一定の比率を超えたときに国民国家は名実ともに終わることになります。
この倒錯した法則を合理化しているのが、新自由主義者の言う「トリクルダウン」理論です。
「選択と集中」によって国際競争力の高いセクターに国民的資源を集中する。国家的支援を受けた企業は世界市場で競争に勝ち抜き、大きな収益を上げる。その「余沢」はいずれ「まわりの貧乏人」たちにも「滴り落ちる(trickle down)」であろうというのが「トリクルダウン理論」です。
でも、これは実際には夢物語でした。「トリクルダウン」理論先進国であるアメリカでも中国でも、成功者たちは個人資産の形成には熱心でしたが、弱者への再分配には熱意を示しませんでした。
考えれば当然のことです。「選択と集中」戦略の成功から導かれる経験則は「資源は強者に集中し、弱者には分配しないことが成功の秘訣である」だからです。
でも、現代の日本を見ていると、少数の人間に権力と財貨が集中し、大多数の人間が下層に階層降下することが高い確度で予測されるこの「国民国家解体」の流れに国民の過半は消極的にではあれ賛意を表明しています。日本の場合は、昨年末に成立した安倍内閣が、消費増税、TPP参加、福祉予算の削減など「国民の窮乏を代償とする富裕層の一層の富裕化」という財産移転の政策を次々と提案していますが、それに正面から反対する政治勢力は国内にはほとんど存在しません。いったい、どうしたのでしょう。
なぜ、国民の大半が貧困層に転落するような社会的制度改革に当の国民たちが賛成するのか? 「自分だけはうまく立ち回って『少数の成功者』の群れにまぎれこめる」と思っているのでしょうか。それとも、自分自身はもう上層にはい上がる望みがなさそうなので、「貧困層の仲間を増やす」ことでおのれの敗北感を希釈しようとしているのでしょうか。あるいは単に思考力を失って、狂い始めているのか。
もちろん、日本国民は狂っているわけではありません。
彼らは主観的には合理的に思考し、行動しているのです。
人々が主観的・個別的には合理的にふるまっているけれど、そういう人が一定数を超えると、そのふるまいが非合理な結果を生み出すということがあります。「部分適合で全体不適合」とか「短期適合で長期不適合」と言われる状態のことです。
例えば、夫婦が子どもを作らないことは育児や教育にかかる費用を節約でき、夫婦の社会的自由度を高めますから、社会的競争において短期的には有利に働きます。でも、すべての夫婦が子どもを作らないことにすると、一世代後にはそもそも競争のアリーナである社会それ自体が消滅してしまう。
企業が労働者の雇用条件をどんどん切り下げてゆくとコストカットのおかげで企業の国際競争力は増し、収益も増えます。でも、労働者の購買力が無限に低下すれば、いずれ市場そのものが消滅してしまう。
ですから、ふつうは「目先の利益を追っていると長期的には大きな損害が生じるリスクのあること」はやりません。
「長期的」というとき、私たちはふつう自分が死ぬまでだけではなく、子どもや孫の世代までくらい、ざっと100年は視野に収めています。国民国家の成員が「長期的」という言葉を使うときの「長期」はそういうふうに生身の人間の寿命を基準にして考えています。
でも、グローバル企業が「長期的」という言葉を使うとき、彼らもまた「寿命」を基準にしていることを忘れてはいけない。
株式会社の平均寿命は日本で7年、アメリカで5年です。
ということは、それ以上長いスパンで「最適行動」を考慮することは、企業活動上は無意味だということです。
例えば、環境に長期的に破滅的な影響を与える有害物質を排出することで短期的に利益を上げるというふるまいは企業にとっては十分に「合理的」でありえます。私たちの側には、それを原理的には批判する権利はありません。というのは、私たちだって、「こんなことを続けると、1万年後に環境に破滅的な影響が出る」と言われても、そんなことは気にしないからです。1万年後には人類そのものが滅びているかもしれないんですから、知ったことじゃない。
十年後に環境汚染で病人が続出するリスクがあるとしても、それ以前に企業の寿命が尽きて消えているなら、そんなことは企業にしてみたら知ったことじゃない。そういうことです。
あるふるまいの正否はそれを判定するものが自分の寿命をどれくらいに見積もっているかによって、まったく反対のものになりえるということです。
私が冒頭に「グローバル資本主義と国民国家は利益が相反する」と書きましたが、それは端的に言えば、グローバル資本主義は「寿命が5年の生物」を基準にしてものごとの正否を判定しているのに対し、国民国家はとりあえず「寿命100年以上の生物」を基準にしてものごとの正否を判定しているということです。
ある意味では「それだけの違い」です。
しかし、ことがあまりにシンプルな違いであるがゆえに、絶望的に非妥協的な対立を生み出しています。
この利益相反が最も先鋭的なかたちで露出しているのが学校教育です。
学校はもともとは国民国家内部的な装置です。
学校の設立目的は「次世代の国家を担いうる成熟した公民の育成」です。ちゃんとした大人を継続的に供給してゆかないと、社会はもたない。
ですから、「大人を育てる」というのは、100年スパンではごく合理的な行動になる。
でも、グローバル資本主義はそんなものを求めていません。彼らが求めているのは「とりあえず次の四半期の収益を上げるのに資する人材の育成」です。能力が高くて、賃金が安くて、体力があって、権利意識が希薄で、批判精神が欠落していて、上司に従順で、いかなる共同体にも帰属せず、誰からも依存されていない、辞令一つで翌日から海外の支店や工場に赴任できる若者(それを日本の文科省は「グローバル人材」と呼んでいますが)、そのような若者を大量に備給することが学校に求められています。
国民国家内部的な発想をする教師たちはそういう要求につよい違和感を覚えます。
「そんな子どもたちばかりを育てた場合に、彼らは30年後、50年後にどうなるのか?」という不安を感じます。ちゃんと家庭を営めるのか? 子どもを育てられるのか? 地域社会の担い手になりうるのか?国民国家のフルメンバーとして公共の福利に配慮できるのか?などなど。
でも、こういう問いはすべて国民国家内部的には意味があるけれど、グローバル企業にとってはまったくナンセンスな問いなのです。
30年後にはたぶん今のグローバル企業の95%は地上から消滅しているからです。自分が消えた後のことなんか知ったことじゃない。
彼らにしてみたら、「学校教育をグローバル企業向きに改変することで国民国家が長期的に受けるダメージ」を懸念するというのは「あと10億年後に太陽が消滅するときに地球が受けるダメージ」についてくよくよ心配するのと本質的には変わらないことなのです。
学校教育をはじめとして、今の世界ではあらゆるセクターで「グローバル資本主義の原理」と「国民国家の原理」がせめぎ合っています。それは「寿命の違う生物」のあいだのヘゲモニー闘争だと見なした方がよいでしょう。
学ばない子どもたち、労働しない若者たちはグローバル資本主義の「寿命感覚」をかなり深く内面化した人たちだということができます。
彼らはたぶん自分の寿命を5年程度に設定して、それに基づいて「学校に通うことの不合理」や「労働することの不条理」を判断している。その限りでは正しいのです。
そして、問題は、彼らの生物としての寿命は5年では終わらないということなのです。

『下流志向』を書いているときに、私はまだそこまで問題が深刻なものだとは思っていませんでした。
けれども、それ以後、とりあえず日本においては、問題の解決のための手がかりはまだ見つかっていません。
もちろん、私と危機感を共有する人は少なくありません。
彼らはどうにかして、「国民国家的なもの」、とりあえず「寿命の長い共同体」を想定して、そこに参加して、先行世代から「パス」を受け取り、後続世代に手渡すという「物語」を採用しないと子どもを成熟に導くことは困難であるということは理解しています。
私としては、そういうつよい危機感をもった人たちが自然発生的に「学びと労働の拠点」を構築して、グローバル資本主義の放つ「圧倒的な合理性」に対抗するというかたちしか、短期的な戦略としては構想することができません。
そして、そのような「学びと労働の拠点」はおそらく韓国でも自然発生的・同時多発的に形成されつつあるのではないかと思っています。
もし、本書が韓国においてそのような運動を担っている人々、そのような運動に教育の未来を期待している人々にとって、多少とでも資するところがあったとすれば、私はたいへんうれしく思います。

2013.03.19

言語を学ぶことについて

2002年に文科省はグローバル化する世界を生き抜くためには英語運用能力が必須であるとして、「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想を発表した。それから10年経った。日本の子どもたちの英語運用能力が上がったという話は誰からも聞いたことがない。
大学サイドから見ると、新入生の英語力は年々劣化を続けていることは手に取るようにわかる。進学にも、就職にも、英語力は絶対に必要であると官民あげてうるさくアナウンスされているにもかかわらずその教育成果は上がらない。なぜか。
英語力の必要が喧しく言われるようになってからむしろ英語学力が低下したという事実は一見背理的であるが、考えれば説明がつく。
教科を習得したときの「報償」が学習開始時点であらかじめ開示されているからである。
報償があらかじめ示されると、学習意欲は損なわれる。考えれば当たり前のことである。
「ここまで到達すれば、こんないいことがある」という利益の提示があれば、子どもたちは必死になって勉強するだろうと大人は考えるが、そんなことは夫子ご自身を省みればありえないことが知れるはずである。
「ここまで到達すれば、こんないいことがある」という利益が事前に開示されていた場合、人間は「では、どうやって最短時間、最小エネルギー消費で、『そこ』にたどりつくか」を考えるからである。最小の努力で、最大の報償を得る方法を考える。費用対効果の最もすぐれた学習方法を探し始める。当たり前のことだ。
日本の子どもたちも大人と同じように合理的に思考した。だから、「最小の学習努力で、高い評価を得る方法」を考えたのである。
文科省やメディアの口ぶりを見るとどうやらTOEICで高いスコアを取ることが英語学習上もっとも報償が高いらしい。では、最小の学習努力でTOEICのスコアを上げる方法を考えよう。そういう流れになる。さいわい書店にはその手の本が並んでいる。「6週間でスコアが100点上がる方法」とか、「居眠りしながらヒアリング能力が向上する方法」とか、いくらでもある。
むろん子どもたちは「6週間で100点上がる方法」より「3週間で100点上がる方法」を選ぶ。
「1週間で」という本があればそれを選ぶだろう。
そういうものである。事前に「獲得できる報償」が示されれば、子どもたちは「最短距離」を探す。
だが、そうやって最短期間に最高効率で身につけた英語力は、むかしの子どもが何年もかかって英語の小説を読んだり、英語の映画を見たり、英語の音楽を歌ったりしながら、じわじわと身につけた英語力と比べたときに、その厚みや深みにおいて比較にならない。「英語ができるといいことがある」というアナウンスが始まってから英語力が劇的に低下したことの説明はこれでつく。

でも、それでは、子どもたちの国語運用力も同時に低下していることの説明がつかない。というのは、国語についてはそもそも「国語ができるといいことがある」という報償の提示さえなされていないからである。
だから、国語のスコアを上げるための効率的な「ショートカット」を子どもたちも親も別に必死で探していない。
少なくとも私は保護者たちから「どうしたら最低の学習努力でうちの子どもの日本語運用能力を向上させられるでしょうか?」といったタイプの功利的な問いを向けられたことがない。
これはたぶん「日本人であれば、誰でも日本語は十分に使いこなせる」という前提を彼らが採用しているからである。
日本の子どもたちは「すでに十分に日本語運用能力を備えている」とされており、あとはただそれを数量的に増大させること(語彙を増やす、読書量を増やす、読書や書字のスピードを上げるなど)だけが問題なのだと人々は信じている。子どもも親も教師さえ、そう信じている。
だが、それは「ありえない」話なのである。
もし親の一方がアメリカ人で、家庭内では英語で会話しているという子どもが英語の成績がよければ、周囲のものは「アンフェアだ」と思うだろう。
だが、親の一方が熟達した日本語の遣い手であるために、子どもの国語の成績がいいことを「アンフェアだ」と言い立てるものはいない。
「熟達した日本語の遣い手」というものがありうること、長期にわたる集中的な努力なしには、そのような境位に至り得ないことを人々は認めたがらない。
だが、もちろんそのような文化的環境は存在する。それによる言語運用能力の差異は歴然として存在する。
でも、それを認めない人たちは自分が用いる日本語を豊かなものにすることに何の関心も示さない。
英語を最小の学習努力で習得しようとする費用対効果志向と、日本語はもう十分できているので、あとは量的増大だけが課題だと高をくくっているマインドセットは根のところでは同じ一つのものである。
どちらも言語というものを舐めている。 
言語というのは「ちゃっちゃっと」手際よく習得すれば、労働市場における付加価値を高めてくれる技能の一種だと思っている。
そこには私たちが母語によっておのれの身体と心と外部世界を分節し、母語によって私たちの価値観も美意識も宇宙観までも作り込まれており、外国語の習得によってはじめて「母語の檻」から抜け出すことができるという言語の底深さに対する畏怖の念がない。言葉は恐ろしいものだという怯えがない。

言語教育を主管する文科省の発令する文書を読むたびに、これを起草する人たちは言語というものをつくづく侮っていると思う。言語を憎んでいるのかと思うことさえある。
「国語力の増進」というような言葉を平然と使える言語感覚が鈍感さを私は責めようとは思わない。だが、それほどに言語感覚の鈍感な人間が言語についての政治を統制している事実の前にすると、暗い表情でうつむく他にとるべき姿勢を思いつかないのである。

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